日本周遊紀行(34)むつ 「旧会津・斗南藩」
野辺地から国道4号線と分かれ、国道279に入る。
海岸沿いの小さな市街地を抜け、一路、下北半島へ向かう。R4の混雑が嘘のように、静かな良道である。 野辺地から「むつ」の大湊まで、JR大湊線が平行している。
しばらく走ると「横浜」と言う、懐かしい地名に出会った。
小生の住んでいるのが神奈川県、日本一の高さを誇る「ランドマーク・タワー」のある大都市・「横浜」はすぐ近くであるが・・、
こちらは、東は陸、四季折々の色彩を織りなす、なだらかな丘陵地。
西は海、陸奥湾に面した長く美しい海岸線。
海の青、菜の花の黄色、山の緑と、そのコントラストが美しい春の横浜町。
菜の花の作付け面積日本一を誇る北の町 、「横浜」(よこはままち)は下北半島の首位部に位置する臨海山村の地域である。
あちらは日本一のノッポビル、こちらは日本一の菜の花畑、さて貴方のお好みはどちら・・・??
無人(・・?)の大湊線・横浜駅を記念に撮り、道の駅・「よこはま」で小用をして、さらに北上する。
むつ市の市街地に入る少し前に、102円/Lの看板を出してるG・スタンドが目に付いた。
通常より15円以上も安く、はじめ半信半疑で通り過ぎてしまったが、・・ママヨ!と思ってUターンして、再度確かめたら、やはり間違いはないようだ。
車を寄せて店員に「ぜーぶん安いね、混ぜてんと違うんか・・、」半ば冗談で・・、
「冗談なして・・」あちらも、半ば怒顔で言う。
おまけにスタンドに’本日更に1円引き’とあった。 丁度頃合なので満タンにする。
通常このあたりは110~112/円、神奈川では116以上しているのである。
何か得した気分で先を急いだ。
「むつ」の市街に入った。
この「むつ市」は小生、少々の想い入れが有る。
昨年(2003)から今年にかけて「早乙女 貢」の大河歴史小説『会津士魂』を読破した。 そして小生の出身地は会津同郷の「福島・いわき」であることから。
この本は、全二十一巻の大長編物語で、殆どが史実にもとずいて書かれている。特に「下北」を舞台にした続編は、万感胸に迫るものがあった。
時代が変換してゆく中には必ずと云っていいほど、それなりの戦役を体験している。
中でも「関が原の戦い」、「明治維新」、そして「太平洋戦争」が日本の歴史上の大転換点であり、更に現代がそれに次ぐ時代とも言われている。
特に近代への入り口である明治維新を知ることは、現代に通じるものも多いと思われるのである。
幕末の動乱期、「会津藩」は京都で京都守護職という役職につき、「新選組」を擁して京都を浪士達から守っていた。
ここでの浪士・不穏分子とされていたのは薩摩、長州をはじめとする尊皇攘夷派たちの所謂、急進派であった。
特に過激な浪士が民家を襲い、市中を混乱させていた異分子である攘夷浪士達を、新撰組が取り締りに当たっていた。
この様な世相の中、会津藩藩主・松平容保(かたもり)は将軍・家茂、孝明天皇から絶対の信頼を得て任務にあたっていた。
この時期、京を騒がしていたその最たる事件が世に言う「池田屋事件」であろう。
その後、「八・十八の政変」(1863年8月18日、長州が京から追われ、同時に七卿も落ちる)や「禁門の変」で、薩摩藩とともに長州藩を追放するが、この長州追い落としの際、中心となったのも会津藩であり、この事が後に長州が会津に対する恨みの要因となったといわれる。
同じ時期、将軍・家茂(いえもち)が亡くなり、孝明天皇の崩御で時態(事態)が急変する。十五代将軍に徳川慶喜(よしのぶ)が就任、 そして坂本竜馬らの仲介のもと、「薩長同盟」が結ばれてる。
政局難に陥った慶喜は、大政奉還(政権を天皇に返す)を行い、更に「王政復古」を行い、朝廷からは慶喜に謹慎、領地の没収などの命が下る。
1868年正月3日より始まった「鳥羽・伏見の戦い」では、圧倒的に会津藩をはじめとする幕軍有利のだったはずだが、新政府軍は朝廷を抱き込み「錦の御旗」を掲げたことによって、多くの藩が新政府軍に流れる中、まさかの敗退を喫してしまう。
慶喜は嘆願して謹慎、容保の登城も差し止められたため会津へ戻り、謹慎の意を表すことになる。
しかし、幕府の不満分子は江戸城に集結して、さらに一戦交えんとするが、勝海舟の仲立ちで江戸城は「無血開城」する。
だが収まらないのが京の「池田屋事件」等で散々な目にあい、会津に恨みのある長州であり、あの手この手で、どうしても会津を攻めようとする。
そして「奥羽諸藩」に会津追討の命が下るが、奥羽諸藩は逆に、会津は恭順姿勢を明確にしているため討つ必要無しと拒否し、更に奥羽越列藩同盟が結ばれる。 遂に新政府軍は会津を攻めるべく戊辰戦争・会津戦争が勃発するのである。
戦線の火蓋を切った新政府軍の勢いはすさまじく、奥羽白河、二本松を攻め、会津への進攻は急をつげる。
近代兵器と物量に勝る官軍(会津の人は似非官軍と言う)に、母成峠、戸の口と攻められ城下まで戦火は及ぶ。
この時期、会津白虎隊自刃の悲劇がおきている。
藩士家族は城内へ、又は自宅で自刃し、家老の西郷頼母(さいごう たのも)一族も自刃して果ててる。
藩士は1ヶ月篭城するが、無念なり会津は降伏するのである。
藩主・容保親子は会津謹慎後、東京へ移され、後、松平家家名再興が許されるが、 勝っても尚、会津に恨みを持つ長州は会津全藩を遠国島流しの刑に処する(実質的に会津藩の滅亡)。
その地は「北の果て」といわれる陸奥の国、「南部藩領」(現、むつ市)であった。
数え三歳の容大(かたはる)を藩主とし、新領地「斗南」(現在の青森下北・むつ市)へ移ることになる。
本州と北海道の間に斧のような形に突き出した下北半島。
陸奥湾と太平洋を隔てる斧の柄の部分は、それほど高い山もなく、JR大湊線の車窓からは荒涼とした淋し気な景色が続く。この地、今は「むつ市」となっているが、福島県・会津若松市とは以上のような関係が有ったのである。
むつ市海岸の「斗南藩士上陸之地」の碑(碑は会津若松市の方向を向いて建てられている)
市街地から大湊駅を左に国道338を行くと、「斗南藩士上陸之地」と古ぼけた案内板が有った。
普通の人なら目にも留めないで、通り過ぎてしまうような地味な所である、やや細まった道を海岸に出ると、奥の方にその碑はあった。
その碑は会津若松市の方向を向いて建てられているとのこと。
明治3年6月10日、新潟から乗船した1800人の旧会津藩士とその家族が、 ヨウヨウにして到着、上陸した場所であった。
現地の碑文より・・、br>
『 明治維新に際し、明治元年(1868)の戊辰の役に敗れ、廃藩の憂目にあった会津藩は、翌明治2年、斗南藩としての再興が許され、旧盛岡藩領の北部へ移封されました。現在の青森県下北郡・上北郡を中心に会津から移住してきた藩士とその家族は2,600戸、17,300余人と記録されています。この内、新しい藩庁が置かれた田名部(現むつ市)を目指して新潟港から新政府借上げのアメリカの蒸気船ヤンシー号に乗船し日本海廻りの海路をとって移住してきた一団1,800名がこの沖の大平橋に到着したのが明治3年6月10日のことでありました。 』
会津藩は領地を没収されたが、明治2年11月、下北地方、それに三戸郡と二戸郡(当時)が与えられ、家名再興が許され、移住者は2600戸、1万7千名以上に達した。
この地を「斗南藩」(となみはん)と命名した。
「斗南藩」は、「北斗以南皆帝州」、つまり、北斗七星 の南は等しく帝(天皇)の国である、という中国の詩文に由来するという。
新藩・「斗南藩」の町並みを造り、領内の開拓の拠点となることを夢見て、この地は藩名をとって「斗南ヶ丘」と名づけられた。 しかし、そこは火山灰土の風雪厳しい不毛の土地であった。
むつ市大字新町にある曹洞宗寺院「円通寺」(恐山・本坊)は、戊辰戦争で敗れた会津藩が斗南藩三万石として転封された際に藩庁が置かれた寺院である。
境内には明治33年に建てられた斗南藩主松平容大の筆になる「招魂碑」が残る。
斗南ヶ丘は、斗南藩・藩士の居住地として開墾に従事させた地であるが、開墾は困難を極めて殆どが失敗に終わったという。
むつ市内から東通村尻屋崎に向かう主要地方道、むつ・尻屋崎線沿いにも「斗南ヶ丘居住地跡」が残り、現在は公園として整備されているという。
斗南藩士(旧会津藩士)の尽力が、今の「むつ市」の発展の礎になったことは言を待たない。
次回は、「脇野沢」
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