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日本周遊紀行(53)大阪 「大阪城」
「太閤はん」の天下の象徴は、何といっても「大阪城」、
道は谷町四丁目に至り、既に大阪城の一角で巨大な天主閣が見えてきている。
ところで、谷町四丁目を「谷四」、天神橋筋六丁目を「天六」というように、○町△丁目を「○△」と頭で略す独特の習慣が大阪にはある。
東京の人は、銀座四丁目を「銀四」と言ったり、新宿三丁目を「新三」と言ったりはしない。これらも、大阪人の「いらち」の特性なのであろうか、ともあれ大阪は地域に土着し、それらを愛称で呼んでいるのである。
早速、近くの大手門前の広場にヒョイと車を置いて、カメラ片手に出かけた。
大手門は大阪城の正門で、良く整備された広い上り坂の頂にどっしりと構えている、別名で追手門ともいう。 続いての多門櫓も迫力あり、城郭に近ずくにしたがって、巨大な造り、文字通り天を突くような天守閣の威容が迫る。
城郭は、概ね白を基調としたもので、各層の壁に切妻風の屋根型を嵌め込んで、独特の偉容と豪壮感を形造っている。 破風部分(日本建築で屋根の切妻についている合掌形の装飾板)の飾りもいいが、切妻の壁の上部と左右部に金色で施した装飾が光輝いて、華美を誇っている。
大阪城は、大阪の象徴であり、誇りである。
築城者は、大阪で最も親しまれている、あの「太閤はん」である。
歴史は遡る、
大阪城は室町時代の僧・本願寺第八世の蓮如(れんにょ)に始まるのである。
他宗派に押されていた浄土真宗は、本願寺(京・西本願寺)を中興し、現在の礎を石山の上町台地の北端にある小高い丘に本願寺別院として「石山本願寺」を造営した。現在の大阪城の地である。
寺院とともに町屋も出来、周辺を寺内町と称した。
ここが台地にそった坂の上にあることから「小坂」と言っていたが、後に「大坂」と呼ばれるようになったという。
これが大阪城の起こりであり、地名も大阪に成っていった。
要塞化した門徒集団の本願寺と風雲の「大阪城」、
戦国期には、城郭に匹敵する堅固な石垣をめぐらして要塞化した。
織田信長との石山合戦は良く知られているが、この時は、主に篭城戦で戦ったが、長引く戦闘の後、信長の攻勢に顕如は敗北する。
信長が、本能寺で逝った後、石山本願寺とその寺内町であった地に、豊臣秀吉が築城を開始し大阪城とした。
完成に1年半を要したが、本丸は石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施され、城のすぐ北部には大淀川が流れ、堀溝を築いて水を引き入れ、天然の濠としている。
しかし、当の秀吉は京都の聚楽第や伏見城に住んでいて、大阪城を居城とはしなかった。
秀吉死後は、遺児の豊臣秀頼が母(淀君)とともに大坂城に移り、徳川幕府の成立後も秀頼は大坂城に留まり摂津(大阪)を支配していた。
1614年の「大坂冬の陣」、翌1615年の「大坂夏の陣」で徳川家康の率いる大軍に、さしもの大坂城も落城し、豊臣氏の滅亡とともに大阪城は落城し灰燼に帰した。
江戸期は幕府直轄領(天領)として、徳川秀忠によって再建が始められる。
大坂城をより豪壮な城郭として、豊臣時代の城を圧殺するかごとく全く新しく築くことで、豊臣氏の記憶を封じ込め、かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を全国に示したと言える。
現在の天守閣は概ね、この時代のものである。
幕末、鳥羽・伏見の戦いで、城内の建造物はほとんど焼失し、昭和の太平洋戦争では、1トン爆弾が多数投下され、猛烈に破壊された。
そして、昭和期、平成期、天守閣の大規模な改修工事が行われ現在の城郭・天守閣が完成する。
歴史の大波にもまれにもまれた五層の大天主・大阪城も、今は平和日本の象徴として浪速の空に聳え、大阪の民の安穏を祈り見下ろしている。
現存、最長記録の大阪城、
因みに、豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になっていて、国の登録文化財でもある。
登録文化財 (登録有形文化財)とは、文化財登録制度(文化庁'96~)により、文化財登録原簿に登録(リスティング)された建造物などを指し、名古屋城、熊本城と共に日本三大名城の一つといわれる。
現在の大阪城天守閣は、内部が豊臣秀吉や大阪城にかかわる豊富な文化財を収蔵する歴史博物館となっており、シアタールームやジオラマなどを使ってわかりやすく歴史を解説している。
地上50mの展望台からは、大阪の街を一望でき、天守閣を含む周辺一帯は大阪城公園として整備され、桜の名所としても有名。
又、櫓、門の各種建物の見所も多く、各施設、神社、お城に関する七不思議等、多数の名所がある。
普請大名自慢の大阪城石垣、
しかし、何といっても大阪城の特徴的な見所の一つに、お城を取り囲む「石垣」であろう、この石垣は主に江戸初期のものであるという。
天下の徳川幕府は、主に西国等の大名に命じて大阪城の大修築を行わせた。
この時の石垣はなるべく良質で大きな立派なものが喜ばれ、工事を請け負った大名達は、自分の「紋」をその石に刻み込んだ。その石のことを「定紋石」と呼んでいる。
長州の毛利家、日向・薩摩の島津家、岡山の池田家、松江の堀尾家など諸大名の家紋が刻まれているという。
徳川・「大阪城」の石垣用石材は約百万個と推定される。
これらの採石場所は加茂(京都府)のほか、六甲(兵庫県)や小豆島(香川県)など、瀬戸内一円から切り出されたことが知られている。
巨石のビック5は、一に桜門の蛸石(59.43m2・備前犬島・岡山池田家)、二に京橋門の肥後石(54.17m2・讃岐小豆島・岡山池田家)、三に桜門の振袖石(53.85m2・備前犬島・岡山池田家)、四に大手門の見付石(47.98m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)、五に大手門の二番石(37.90m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)等などである。
小生は、大手門よりの入退出であったため大手・見付石(4位)と大手二番石(5位)を拝見、その圧倒的な大きさに驚愕しながらカメラに収めた。
因みに両石は、巨石と巨石の隙間に、笑い積みというユニークな石積みが施されているという。 石の隙間が、笑った口の格好に、なんとなく見えることから笑積みという。
徳川大阪城建設の際の、担当大名 加藤忠広(秀吉子飼いの重臣・加藤清正の次男)の遊び心が冴える石垣であるという。
忠広の父・加藤清正は、名城・「熊本城」の築城者で知られる。
次回は、悲劇の「尼崎」
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2010年12月10日金曜日
2010年12月9日木曜日
日本周遊紀行(53)大阪 「四天王寺」
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日本周遊紀行(53)大阪 「四天王寺」
四天王寺の境内の西側入口にあたる「石の鳥居」と奥は「極楽門(西門)」
写真:石の鳥居側(西側)から観る。五重塔と金堂(左)
「四天王寺」は日本仏教の最初の寺、
この「浪速」の地方は古来、大和の都(奈良)、京の都の至近にあって大和民族のもっとも重要な活動舞台であった。
この浪速の津は瀬戸内海の始点でもあり、終点でもあって海外の朝鮮半島、中国大陸へは北九州を通じて、そして太平洋から国内の各地へと、その大動脈を握っていた。
古代、推古天皇の御世、聖徳太子がこの地に「四天王寺」を建て、中国の「隋」、「唐」といった通商交通の外来客を招き、接待を行なう館としたのも頷けるのである。
その四天王寺へ向う・・、
環状線を安倍野の近くで下りたのであろうか・・定かでないが通天閣の上部が建物越しに見えていた。
天王寺駅の賑やかな駅前を通ったようだが、四天王寺がどの位置にあるか、なかなか見つけられない。
でも、どうやら五重塔や伽藍の建物が見え出した、しかし、こんどは入り口らしいのが判らない、車を止め、塀の周りをうろつきながら近所の人と思われる方に覗って、どうやら確認できた。
そこには「大日本仏法最初四天王寺」と刻した石柱が立ち、何故か、ここにかなり大きな石材の鳥居が建っている。
「鳥居」とは、普通神社の参道入口か参道に立てて在って、神域を示す一種の門であろう、しかるに神社でなく寺院に鳥居とは、些か不可解な気もするが・・?。
尤も、近代になって神仏分離でお寺とお宮は別々の存在になってはいるが、それ以前は神仏一体で、同居同座していても不思議ではなかった。そればかりか大きな寺院は鎮護のため、その一角に社宮を造営し鎮座させ、厄災を護除したものである。しかもその時は、方位を決めて鎮座させ、方位の邪(鬼門)を除けたものでもあった。
本来、鳥居とは神社などにおいて、神域と人間界が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもので一種の「門」である。その意味から神社に限ったものではなく、御陵や寺院にも建てられていることもあるという。 そういえば、インド仏教の様式や中国の寺仏にも、形や造りは異なっているが鳥居や門はあった。 それでも日本では、一般的には神社を象徴するものとして捉えている。
四天王寺の石の大鳥居は珍しく、13世紀末に造られた日本最古の石造りの大鳥居の一つとされていて、しかも、日本三大鳥居の一つである。
因みに、日本三鳥居は、吉野・金峯山寺の銅の鳥居(かねのとりい:重要文化財)、安芸の宮島、厳島神社の朱丹の木の大鳥居(重要文化財/世界遺産)と、こちらの大阪・四天王寺の石の鳥居である。
気がつけば銅と木と石、即ち、金属と木製と石造りという取合せが面白い・・!。
因みに、銅の鳥居の金峯山寺も寺院であった。
四天王寺は、鳥居脇の石柱に「大日本仏法最初四天王寺」としてあるように、やはり由緒ある大寺院であり、どこか誇高いことを感じさせくれる。 鳥居の奥に、巨大な総門か山門(西大門・極楽門)が天を覆うほどの大きさで存在感を示している。 そこをくぐって四天王寺の巨大な寺舎堂宇が確認できた。 立派な五重の塔が右に在った、コンクリート製である。
四天王寺は、遥かなる歴史をもつ日本でも最古の寺院であるが、しかし、不思議な事に、それらしい荘厳な雰囲気や古刹寺院のもつ格式のある信心、信仰といった崇高な参詣や名所といえる観光的要素による参拝の人々の賑わい等が全く無く感じられないのである。
今はただ閑散としていて、これは大阪という大都会の真ん中に静かに鎮護しているためであろうか・・?、もっとも是は、訪れた時の小生の瞬時の私観ではあるが。
四天王寺は推古天皇の御世、西暦593年に造営が開始され、本来、聖徳太子が物部氏との戦いに勝利を祈願して創建されたものといわれる。
四天王とは、仏教における 四 人の守護神のことで源は、須弥山(古代インドの聖なる山)の頂上に住む帝釈天に仕え、その中腹でともに仏法を守護している神、護法神のことで、東の持国天、西の広目天、南の増長天、北の多聞天を指しているという。
この四神には仏法伝来の奈良期において、それぞれモデルがあるとされて持国天は蘇我馬子、広目天は迹見赤檮(とみのいちい)、増長天は小野妹子、多聞天は秦河勝(はたのかわかつ)といわれる。
四人に共通しているのは、いずれも渡来系氏族であり、迹見赤檮は太子の同族であり、秦氏は中国の秦氏で太子を軍事的、経済的に支え、小野妹子も中国系氏族の出身であること、蘇我氏は同じ渡来系でも百済王族の系統で朝鮮半島がルーツという。 いずれも聖徳太子を支えた一族であったことである。
渡来人は、いずれも九州の地から上陸し、九州王朝と融合したと考えられる。
この時期は未だ正式には仏教は日本には定着してないが、渡来人に依ってそれなりの仏式による寺院が建立されていたと思われ、その後、仏教が伝来、定着するに及んで、太子は「四天王寺」として九州の地から、ここ浪速の地へ移築したと考えられるという。
『四天王寺縁起』には、インドの四天王になぞらえて「四箇院の制」を取り入れ、仏法の根本精神の道場、実践としての主な寺院である敬田院、悲田院、施楽院、療病院を配した。 信仰、学問の中心寺院である金堂の「敬田院」、 病者に薬を施す「施薬院」、病気の者を収容し、病気を癒す 「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」の四つの施仏堂や、他に五重塔、聖徳太子ゆかりの太子堂など建立するとある。
四天王寺は、聖徳太子が建立したことは先に記したが、年代は飛鳥時代の推古天皇期の西暦593年であり、奈良・斑鳩の法隆寺(創建607年)より更に古いという。
飛鳥時代とは、一般に奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝前後の時代のこと。推古天皇を中心に、仏教渡来から平城遷都(奈良期)まで広く含めていたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通で推古時代ともいうらしい。
仏教伝来は538年、百済(当時、古代の朝鮮半島の国名)からもたらされたという。
仏教伝来以来の一時期、仏教は蘇我氏(飛鳥時代の有力豪族。崇仏派で物部氏と対立。
孫の入鹿まで中央で勢力を張り、大化の改新直前に本家は滅びる)と物部氏(飛鳥時代の有力な軍事氏族で、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派である。蘇我氏と対立して敗れる)の争いで停滞していたが、聖徳太子が出現するに及んで仏教を世に知らしめ、布教するために四天王寺の先ず金堂・敬田院を建立したという。
隆盛時の大寺は、境内には大小40余の伽藍堂宇が建ち並んでいたという。
これも、現在の境内とは比較に成らないほどの、はるかなる広大な敷地で各々の寺院が点在していたものと言われる。
しかし、さしもの栄華を誇った由緒ある古刹寺院も、幾多の戦乱の中でその殆どが破壊され、焼かれ、消失してしまっていた。 ただ、現在重文指定の建造物が、ほんの僅かに残っているともいう。
今の建物は昭和30年後半、建造したもので五重塔をはじめ、金堂、講堂、太子堂など塀囲に囲まれ、当時の飛鳥時代の様式で再建されているという。 しかし惜しむらくは、これら建築物は日本古来の木造ではなく、コンクリート造りであった。
今は、それらの建物は都会の中の粉塵にまみれて、ただ静かに時の移ろいを見つめるだけであるが。 尚、歴史の厳然たる事実として、堂々と存在しなくてはならないのである。
四天王寺の宗派について、
四天王寺は、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、近年、四天王寺独自の「和宗」とし、その総本山としているようである。
因みに、小生にも若干縁のある「信州長野・善光寺」は誰でもお参りできる無宗派のお寺として知られる。
それは、善光寺が仏教伝来直後の日本で初めての仏様を本尊とした、日本仏教の根源であると考えられてきたためで、つまり、日本に仏教の宗派が生まれる以前に善光寺が創建されたことに大きく関係するという。
但し、日本に仏教が始めて伝わってきた当時は、大陸や朝鮮半島では大乗仏教とされる「天台宗」が盛んで、日本でもその布教当時は影響は受けているとされている。
従って、両寺院とも、今でも天台宗系の教義や管理運営、日常の作法、行事を主体に努めているようである。(善光寺は、浄土宗と両立)
境内を回参して再び、石の大鳥居へ戻ってきた。
1400年前の飛鳥時代に建立された大阪・四天王寺を手がけたのは6世紀(西暦578年)に聖徳太子が百済から招いた三人の工匠たちであったという。
その一人の名を「金剛重光」といって、企業として日本、世界でも例がないほどの歴史をもつ建築会社「金剛組」の初代社長であったという。
この鳥居の程近く、四天王寺の西方を守るように「金剛組」は1400年を経た今日も存在しているのである。
現在、寺院から特別に「四天王寺正大工第39世金剛広目利隆」という名称が与えられているという。 利隆という名称は現在の代表者の名前であり、広目とは四天王寺の西方を守る広目天のことで、現在の四天王の一角を占めるという意味らしい。
ところで、四天王寺は過去に七回、焼失や倒壊の憂き目にあっているという。
信長の焼き討ち、大阪冬の陣、室戸台風、空襲などで破壊され、その都度再建してきてのは金剛組であった。
状況が一変したのは、やはり明治初頭の廃仏毀釈であった。 この時、37代目は「先祖に申し訳ない」として自殺しているという。
室戸台風で損壊し、そして再建した直後、今度は昭和の戦争による空襲で殆どが焼失してしまった。 金剛組は同じ轍を踏むまいとして、主な建物はやむなく戦後は鉄筋コンクリート造りにしたという。
四天王寺とともに寄り添うように金剛組が存続してきたは、やはり確かな宮大工の技術であった。 平成14年、金剛組は四天王寺に「番匠堂」という、聖徳太子が道具の曲尺(かねじゃく;形が矩形、すなわち直角に曲ったものさし)を持つ像とともに、御堂を寄進している。 以来、全国から参拝する大工方が絶えないという。
「老舗」とは、「仕似せ」であり、似せて物事を造り挙げ、続ける事であった。
妙な思いを巡らしながら、四天王寺を後にした。
次期、「大阪城」
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日本周遊紀行(53)大阪 「四天王寺」
四天王寺の境内の西側入口にあたる「石の鳥居」と奥は「極楽門(西門)」
写真:石の鳥居側(西側)から観る。五重塔と金堂(左)
「四天王寺」は日本仏教の最初の寺、
この「浪速」の地方は古来、大和の都(奈良)、京の都の至近にあって大和民族のもっとも重要な活動舞台であった。
この浪速の津は瀬戸内海の始点でもあり、終点でもあって海外の朝鮮半島、中国大陸へは北九州を通じて、そして太平洋から国内の各地へと、その大動脈を握っていた。
古代、推古天皇の御世、聖徳太子がこの地に「四天王寺」を建て、中国の「隋」、「唐」といった通商交通の外来客を招き、接待を行なう館としたのも頷けるのである。
その四天王寺へ向う・・、
環状線を安倍野の近くで下りたのであろうか・・定かでないが通天閣の上部が建物越しに見えていた。
天王寺駅の賑やかな駅前を通ったようだが、四天王寺がどの位置にあるか、なかなか見つけられない。
でも、どうやら五重塔や伽藍の建物が見え出した、しかし、こんどは入り口らしいのが判らない、車を止め、塀の周りをうろつきながら近所の人と思われる方に覗って、どうやら確認できた。
そこには「大日本仏法最初四天王寺」と刻した石柱が立ち、何故か、ここにかなり大きな石材の鳥居が建っている。
「鳥居」とは、普通神社の参道入口か参道に立てて在って、神域を示す一種の門であろう、しかるに神社でなく寺院に鳥居とは、些か不可解な気もするが・・?。
尤も、近代になって神仏分離でお寺とお宮は別々の存在になってはいるが、それ以前は神仏一体で、同居同座していても不思議ではなかった。そればかりか大きな寺院は鎮護のため、その一角に社宮を造営し鎮座させ、厄災を護除したものである。しかもその時は、方位を決めて鎮座させ、方位の邪(鬼門)を除けたものでもあった。
本来、鳥居とは神社などにおいて、神域と人間界が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもので一種の「門」である。その意味から神社に限ったものではなく、御陵や寺院にも建てられていることもあるという。 そういえば、インド仏教の様式や中国の寺仏にも、形や造りは異なっているが鳥居や門はあった。 それでも日本では、一般的には神社を象徴するものとして捉えている。
四天王寺の石の大鳥居は珍しく、13世紀末に造られた日本最古の石造りの大鳥居の一つとされていて、しかも、日本三大鳥居の一つである。
因みに、日本三鳥居は、吉野・金峯山寺の銅の鳥居(かねのとりい:重要文化財)、安芸の宮島、厳島神社の朱丹の木の大鳥居(重要文化財/世界遺産)と、こちらの大阪・四天王寺の石の鳥居である。
気がつけば銅と木と石、即ち、金属と木製と石造りという取合せが面白い・・!。
因みに、銅の鳥居の金峯山寺も寺院であった。
四天王寺は、鳥居脇の石柱に「大日本仏法最初四天王寺」としてあるように、やはり由緒ある大寺院であり、どこか誇高いことを感じさせくれる。 鳥居の奥に、巨大な総門か山門(西大門・極楽門)が天を覆うほどの大きさで存在感を示している。 そこをくぐって四天王寺の巨大な寺舎堂宇が確認できた。 立派な五重の塔が右に在った、コンクリート製である。
四天王寺は、遥かなる歴史をもつ日本でも最古の寺院であるが、しかし、不思議な事に、それらしい荘厳な雰囲気や古刹寺院のもつ格式のある信心、信仰といった崇高な参詣や名所といえる観光的要素による参拝の人々の賑わい等が全く無く感じられないのである。
今はただ閑散としていて、これは大阪という大都会の真ん中に静かに鎮護しているためであろうか・・?、もっとも是は、訪れた時の小生の瞬時の私観ではあるが。
四天王寺は推古天皇の御世、西暦593年に造営が開始され、本来、聖徳太子が物部氏との戦いに勝利を祈願して創建されたものといわれる。
四天王とは、仏教における 四 人の守護神のことで源は、須弥山(古代インドの聖なる山)の頂上に住む帝釈天に仕え、その中腹でともに仏法を守護している神、護法神のことで、東の持国天、西の広目天、南の増長天、北の多聞天を指しているという。
この四神には仏法伝来の奈良期において、それぞれモデルがあるとされて持国天は蘇我馬子、広目天は迹見赤檮(とみのいちい)、増長天は小野妹子、多聞天は秦河勝(はたのかわかつ)といわれる。
四人に共通しているのは、いずれも渡来系氏族であり、迹見赤檮は太子の同族であり、秦氏は中国の秦氏で太子を軍事的、経済的に支え、小野妹子も中国系氏族の出身であること、蘇我氏は同じ渡来系でも百済王族の系統で朝鮮半島がルーツという。 いずれも聖徳太子を支えた一族であったことである。
渡来人は、いずれも九州の地から上陸し、九州王朝と融合したと考えられる。
この時期は未だ正式には仏教は日本には定着してないが、渡来人に依ってそれなりの仏式による寺院が建立されていたと思われ、その後、仏教が伝来、定着するに及んで、太子は「四天王寺」として九州の地から、ここ浪速の地へ移築したと考えられるという。
『四天王寺縁起』には、インドの四天王になぞらえて「四箇院の制」を取り入れ、仏法の根本精神の道場、実践としての主な寺院である敬田院、悲田院、施楽院、療病院を配した。 信仰、学問の中心寺院である金堂の「敬田院」、 病者に薬を施す「施薬院」、病気の者を収容し、病気を癒す 「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」の四つの施仏堂や、他に五重塔、聖徳太子ゆかりの太子堂など建立するとある。
四天王寺は、聖徳太子が建立したことは先に記したが、年代は飛鳥時代の推古天皇期の西暦593年であり、奈良・斑鳩の法隆寺(創建607年)より更に古いという。
飛鳥時代とは、一般に奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝前後の時代のこと。推古天皇を中心に、仏教渡来から平城遷都(奈良期)まで広く含めていたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通で推古時代ともいうらしい。
仏教伝来は538年、百済(当時、古代の朝鮮半島の国名)からもたらされたという。
仏教伝来以来の一時期、仏教は蘇我氏(飛鳥時代の有力豪族。崇仏派で物部氏と対立。
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隆盛時の大寺は、境内には大小40余の伽藍堂宇が建ち並んでいたという。
これも、現在の境内とは比較に成らないほどの、はるかなる広大な敷地で各々の寺院が点在していたものと言われる。
しかし、さしもの栄華を誇った由緒ある古刹寺院も、幾多の戦乱の中でその殆どが破壊され、焼かれ、消失してしまっていた。 ただ、現在重文指定の建造物が、ほんの僅かに残っているともいう。
今の建物は昭和30年後半、建造したもので五重塔をはじめ、金堂、講堂、太子堂など塀囲に囲まれ、当時の飛鳥時代の様式で再建されているという。 しかし惜しむらくは、これら建築物は日本古来の木造ではなく、コンクリート造りであった。
今は、それらの建物は都会の中の粉塵にまみれて、ただ静かに時の移ろいを見つめるだけであるが。 尚、歴史の厳然たる事実として、堂々と存在しなくてはならないのである。
四天王寺の宗派について、
四天王寺は、日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、「日本仏教の最初の寺」として既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、近年、四天王寺独自の「和宗」とし、その総本山としているようである。
因みに、小生にも若干縁のある「信州長野・善光寺」は誰でもお参りできる無宗派のお寺として知られる。
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但し、日本に仏教が始めて伝わってきた当時は、大陸や朝鮮半島では大乗仏教とされる「天台宗」が盛んで、日本でもその布教当時は影響は受けているとされている。
従って、両寺院とも、今でも天台宗系の教義や管理運営、日常の作法、行事を主体に努めているようである。(善光寺は、浄土宗と両立)
境内を回参して再び、石の大鳥居へ戻ってきた。
1400年前の飛鳥時代に建立された大阪・四天王寺を手がけたのは6世紀(西暦578年)に聖徳太子が百済から招いた三人の工匠たちであったという。
その一人の名を「金剛重光」といって、企業として日本、世界でも例がないほどの歴史をもつ建築会社「金剛組」の初代社長であったという。
この鳥居の程近く、四天王寺の西方を守るように「金剛組」は1400年を経た今日も存在しているのである。
現在、寺院から特別に「四天王寺正大工第39世金剛広目利隆」という名称が与えられているという。 利隆という名称は現在の代表者の名前であり、広目とは四天王寺の西方を守る広目天のことで、現在の四天王の一角を占めるという意味らしい。
ところで、四天王寺は過去に七回、焼失や倒壊の憂き目にあっているという。
信長の焼き討ち、大阪冬の陣、室戸台風、空襲などで破壊され、その都度再建してきてのは金剛組であった。
状況が一変したのは、やはり明治初頭の廃仏毀釈であった。 この時、37代目は「先祖に申し訳ない」として自殺しているという。
室戸台風で損壊し、そして再建した直後、今度は昭和の戦争による空襲で殆どが焼失してしまった。 金剛組は同じ轍を踏むまいとして、主な建物はやむなく戦後は鉄筋コンクリート造りにしたという。
四天王寺とともに寄り添うように金剛組が存続してきたは、やはり確かな宮大工の技術であった。 平成14年、金剛組は四天王寺に「番匠堂」という、聖徳太子が道具の曲尺(かねじゃく;形が矩形、すなわち直角に曲ったものさし)を持つ像とともに、御堂を寄進している。 以来、全国から参拝する大工方が絶えないという。
「老舗」とは、「仕似せ」であり、似せて物事を造り挙げ、続ける事であった。
妙な思いを巡らしながら、四天王寺を後にした。
次期、「大阪城」
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《山の紀行・記録集》
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八ヶ岳(1966年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 奥秩父・金峰山(1972)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》
「スキー履歴」
.
2010年12月8日水曜日
日本周遊紀行(53)大阪 「浪速とミナミ」
.
日本周遊紀行(53)大阪 「浪速とミナミ」
水の都・大阪は浪速とも云われる、
大阪市内に入ると、水辺や橋の多さに驚く。
古来、譬え(たとえ・引き合いに出す)として、「大江戸八百八町」、「京都八百八寺」、そして「浪速八百八橋」といわれる。 江戸は町屋が多く、京はお寺が多い、そして、大阪は橋が多いという意味である。
大阪は古くから都へ通ずる水上交通の要地で、江戸期には幕府直轄地として庶民、商人の町として繁栄し、出船千艘、入船千艘と謡われたれた。
大阪は浪速・難波・浪花とも読まれるが、昔は「なにわ・浪速」といわれ古代の日本書記には、たくさんの川があって、いずれも流れが急であったので「浪速・なみはやの国」と名付けられていたという。
又、大阪の古い呼称で「浪花・難波」ともいって、共に水に縁があるのが面白い。 大阪は、やはり「水の都」といってもよい。現に、中ノ島などは川の中洲にある官庁・オフィス街である。
又、この地域は、やはり水運に関連した「船場」があり、往時の周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが軒を並べ、政治、経済、流通の中心地となっていた。
江戸時代になってからは「天下の台所」として北部を中心に日本の商業の中心ともなっている。
現在は、東西南北の船場が有り、大大阪の中心地として繊維問屋や商社、証券会社、銀行等が集中しており、大阪より発生した大商社・伊藤忠商事や丸紅などは、この船場を出発点とする企業だと言う。
中ノ島の北側を流れる堂島川は、江戸期には水上交通の要衝であり、米市場があって相場をなし、いわゆる相場の発祥地でもある。ここで大阪商人により江戸をはじめ全国各地へ送られていった。
難波は「なんば」ともいって、道頓堀以南、浪速区の北部にわたる一帯を指し、私鉄・地下鉄の難波駅がある。
大阪の広域的な通称で、「キタ・北」や「ミナミ・南」と云ったりすして、北は、大阪駅を中心とした北区辺りを指し、南は、通天閣のある天王寺、難波を中心とした地域を指しているようである。
所謂「ミナミ」は、難波、道頓堀、心斎橋、法善寺横町、天王寺といったエリアで食い倒れ、難波花月、ひっかけ橋(戎橋)といった、いわばコテコテの大阪的なものは全てここに集まっているとされる。
さしずめ、難波は、南場といったところか・・?。
小生、20代後半の頃、仕事で国鉄・大阪駅(現、JR大阪・・乗り入れてる私鉄の駅名は何故か梅田駅という・・?)から難波の南海電鉄で堺東へ何回となく行き来し、ついでにミナミでよく遊んだのが懐かしい。
因みに、大阪駅、梅田駅については、
大阪駅は北区・梅田にあっても国鉄、JRの駅であって、所謂、広域的な全国区である。
梅田駅は同地域に在っても私鉄や地域鉄道が主で、所謂、地域的名称であり、地元っ子に言わせても「梅田」が適っているという。 例えていえば、JR東京駅が丸の内にあるから丸の内駅、なんて名前だったらやはり可笑しいし、丸の内にあってもやはり全国区は東京駅である。
ミナミの中心とも云える上本町、千日前の繁華街道路は、さすがに車も人も多い。 疲れ気味の小生の運転では余程神経を集中しないといけないようだ、要注意、要注意・・!!。
そういえば大阪人は人も車も、交通マナーの悪さは日本一だと言われるとか・・?。
大阪人の気質をあらわすのに、「いらち」(苛ち)という言葉がある。 意味は、いらいらする、せっかちであるで、単にせっかちな人ではなく、現時のその人の状態、人々の様子をいっているようである。
例えて「あんた、ほんまに“いらち”やなぁ、」といい「あなたは、本当に、せっかちで、すぐイライラする人ですね、」という意味であるとか。
「赤信号、皆で渡れば怖くない」、この言葉遊びも大阪から発信されたものというが・・?。 併せて、違法駐車なども多いというが・・?。
とかく大阪人は、「マナーが悪い」、「自分勝手」といわれるが、こういった気質の裏返しには「権威」や「お上」の対する、ある種の反骨精神もあるという。
江戸の権威に対して、こちらは「上方」と言っている、お上をあてにせず、権威に媚びず、笑いのネタにして、笑い飛ばす気質があるのかもしれない。
大阪人の挨拶に「もうかりまっか・・!」、「ぼちぼちでんな・・!」という、所謂、曖昧表現がある。 だが、その裏にはしっかりと計算された胸三寸もあるとという。
このことは特に、日本人独特の表現の仕方でもあり、外国人には意味不明で理解できないらしく、日本人の曖昧さ、いい加減さは存外、この大阪あたりが発祥なのかもしれない。
しかし、大阪人は大阪の「橋」をはじめ、国公立大、病院、大阪城・天守閣等、私財を投入した大阪商人をはじめ、民間人によって建てられたという。 これらを見ても大阪人は、自分で出来る事は自分でする、といった独立自尊の哲学、精神があり、これらから単に自分勝手で意味不明とは云えない様でもある。
さて、その「橋」である、
東京は「大江戸・八百八町」、京都は「八百八寺」、そして大阪は「八百八橋」と言われるほど川筋、掘割、橋が多いことでは前述したが、この道の界隈は心斎橋、道頓堀、御堂筋といった、いわば大阪の顔とも言える主要な筋、道が走る。
一般に大阪は道のことを筋といって、○○筋というのが多数ある。道頓堀の東西には道頓堀川が流れて、両川筋は「法善寺横町」、「宗右衛門横町」といった、唄でも御馴染みの歓楽街が並ぶ。
又、この川を跨いで「戎橋」、「相合橋」が両横町を交んでいる。
御馴染みの「戎橋」は、2003年の阪神タイガース優勝時、又、2002年のワールドカップ(コリア・ジャパン)での日本勝利・決勝トーナメント進出時には、この橋から道頓堀に飛び込む若者が相次いだ(この飛込みで死者も出した)。
又、この橋は、客引きやナンパも多く、通称「ひっかけ橋」、「ナンパ橋」とも呼ばれるらしい。「難波のナンパ橋で軟派した」など洒落としても面白が、天下に知れた名物の橋である。
2005年の「阪神」優勝時には、大阪市がフェンスをめぐらして警察官を配置するなど対応をしたが、その目を掻い潜って道頓堀に飛び込む若者が少数ながら存在したという。
これも、大阪人の反骨精神の表れかもしれない・・!!。
『大阪ラプソディー』 作詞 山上路夫
あの人もこの人も そぞろ歩く宵の街
どこへ行く二人づれ 御堂筋は恋の道
映画を見ましょうか それともこのまま
道頓堀まで 歩きましょうか
七色のネオンさえ 甘い夢を唄ってる
宵闇の大阪は 二人づれ恋の街
次回は、大阪・「四天王寺」
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八ヶ岳(1966年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 奥秩父・金峰山(1972)
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日本周遊紀行(53)大阪 「浪速とミナミ」
水の都・大阪は浪速とも云われる、
大阪市内に入ると、水辺や橋の多さに驚く。
古来、譬え(たとえ・引き合いに出す)として、「大江戸八百八町」、「京都八百八寺」、そして「浪速八百八橋」といわれる。 江戸は町屋が多く、京はお寺が多い、そして、大阪は橋が多いという意味である。
大阪は古くから都へ通ずる水上交通の要地で、江戸期には幕府直轄地として庶民、商人の町として繁栄し、出船千艘、入船千艘と謡われたれた。
大阪は浪速・難波・浪花とも読まれるが、昔は「なにわ・浪速」といわれ古代の日本書記には、たくさんの川があって、いずれも流れが急であったので「浪速・なみはやの国」と名付けられていたという。
又、大阪の古い呼称で「浪花・難波」ともいって、共に水に縁があるのが面白い。 大阪は、やはり「水の都」といってもよい。現に、中ノ島などは川の中洲にある官庁・オフィス街である。
又、この地域は、やはり水運に関連した「船場」があり、往時の周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが軒を並べ、政治、経済、流通の中心地となっていた。
江戸時代になってからは「天下の台所」として北部を中心に日本の商業の中心ともなっている。
現在は、東西南北の船場が有り、大大阪の中心地として繊維問屋や商社、証券会社、銀行等が集中しており、大阪より発生した大商社・伊藤忠商事や丸紅などは、この船場を出発点とする企業だと言う。
中ノ島の北側を流れる堂島川は、江戸期には水上交通の要衝であり、米市場があって相場をなし、いわゆる相場の発祥地でもある。ここで大阪商人により江戸をはじめ全国各地へ送られていった。
難波は「なんば」ともいって、道頓堀以南、浪速区の北部にわたる一帯を指し、私鉄・地下鉄の難波駅がある。
大阪の広域的な通称で、「キタ・北」や「ミナミ・南」と云ったりすして、北は、大阪駅を中心とした北区辺りを指し、南は、通天閣のある天王寺、難波を中心とした地域を指しているようである。
所謂「ミナミ」は、難波、道頓堀、心斎橋、法善寺横町、天王寺といったエリアで食い倒れ、難波花月、ひっかけ橋(戎橋)といった、いわばコテコテの大阪的なものは全てここに集まっているとされる。
さしずめ、難波は、南場といったところか・・?。
小生、20代後半の頃、仕事で国鉄・大阪駅(現、JR大阪・・乗り入れてる私鉄の駅名は何故か梅田駅という・・?)から難波の南海電鉄で堺東へ何回となく行き来し、ついでにミナミでよく遊んだのが懐かしい。
因みに、大阪駅、梅田駅については、
大阪駅は北区・梅田にあっても国鉄、JRの駅であって、所謂、広域的な全国区である。
梅田駅は同地域に在っても私鉄や地域鉄道が主で、所謂、地域的名称であり、地元っ子に言わせても「梅田」が適っているという。 例えていえば、JR東京駅が丸の内にあるから丸の内駅、なんて名前だったらやはり可笑しいし、丸の内にあってもやはり全国区は東京駅である。
ミナミの中心とも云える上本町、千日前の繁華街道路は、さすがに車も人も多い。 疲れ気味の小生の運転では余程神経を集中しないといけないようだ、要注意、要注意・・!!。
そういえば大阪人は人も車も、交通マナーの悪さは日本一だと言われるとか・・?。
大阪人の気質をあらわすのに、「いらち」(苛ち)という言葉がある。 意味は、いらいらする、せっかちであるで、単にせっかちな人ではなく、現時のその人の状態、人々の様子をいっているようである。
例えて「あんた、ほんまに“いらち”やなぁ、」といい「あなたは、本当に、せっかちで、すぐイライラする人ですね、」という意味であるとか。
「赤信号、皆で渡れば怖くない」、この言葉遊びも大阪から発信されたものというが・・?。 併せて、違法駐車なども多いというが・・?。
とかく大阪人は、「マナーが悪い」、「自分勝手」といわれるが、こういった気質の裏返しには「権威」や「お上」の対する、ある種の反骨精神もあるという。
江戸の権威に対して、こちらは「上方」と言っている、お上をあてにせず、権威に媚びず、笑いのネタにして、笑い飛ばす気質があるのかもしれない。
大阪人の挨拶に「もうかりまっか・・!」、「ぼちぼちでんな・・!」という、所謂、曖昧表現がある。 だが、その裏にはしっかりと計算された胸三寸もあるとという。
このことは特に、日本人独特の表現の仕方でもあり、外国人には意味不明で理解できないらしく、日本人の曖昧さ、いい加減さは存外、この大阪あたりが発祥なのかもしれない。
しかし、大阪人は大阪の「橋」をはじめ、国公立大、病院、大阪城・天守閣等、私財を投入した大阪商人をはじめ、民間人によって建てられたという。 これらを見ても大阪人は、自分で出来る事は自分でする、といった独立自尊の哲学、精神があり、これらから単に自分勝手で意味不明とは云えない様でもある。
さて、その「橋」である、
東京は「大江戸・八百八町」、京都は「八百八寺」、そして大阪は「八百八橋」と言われるほど川筋、掘割、橋が多いことでは前述したが、この道の界隈は心斎橋、道頓堀、御堂筋といった、いわば大阪の顔とも言える主要な筋、道が走る。
一般に大阪は道のことを筋といって、○○筋というのが多数ある。道頓堀の東西には道頓堀川が流れて、両川筋は「法善寺横町」、「宗右衛門横町」といった、唄でも御馴染みの歓楽街が並ぶ。
又、この川を跨いで「戎橋」、「相合橋」が両横町を交んでいる。
御馴染みの「戎橋」は、2003年の阪神タイガース優勝時、又、2002年のワールドカップ(コリア・ジャパン)での日本勝利・決勝トーナメント進出時には、この橋から道頓堀に飛び込む若者が相次いだ(この飛込みで死者も出した)。
又、この橋は、客引きやナンパも多く、通称「ひっかけ橋」、「ナンパ橋」とも呼ばれるらしい。「難波のナンパ橋で軟派した」など洒落としても面白が、天下に知れた名物の橋である。
2005年の「阪神」優勝時には、大阪市がフェンスをめぐらして警察官を配置するなど対応をしたが、その目を掻い潜って道頓堀に飛び込む若者が少数ながら存在したという。
これも、大阪人の反骨精神の表れかもしれない・・!!。
『大阪ラプソディー』 作詞 山上路夫
あの人もこの人も そぞろ歩く宵の街
どこへ行く二人づれ 御堂筋は恋の道
映画を見ましょうか それともこのまま
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2010年12月7日火曜日
日本周遊紀行(52)岸和田 「ダンジリと大楠公」
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日本周遊紀行(52)岸和田 「ダンジリと大楠公」
岸和田「ダンジリ」のポスター
「ダンジリ」の岸和田と楠木正成の係わり合い
加太国民休暇村の園地から大川トンネルを抜けると、和歌山から大阪府内へ到る。
大阪府南端の岬町から阪南より再び阪和道へ乗り、岸和田P・Aで一服しながら気が付くと、休憩舎の建物の壁に「岸和田だんじり祭り」の勇壮なポスターが数枚貼り付けてあった。
岸和田に関して、チョッと歴史を紐解くと、
現在の岸和田地区は南北朝時代の初めの頃は、「岸」と呼ばれていたらしい。
1334年(建武元年)楠木正成の甥御・和田高家(正成の弟・正季の子)が、正成の命で「岸」に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田殿」と呼ばれるようになり、 「岸」と「和田」で「岸和田」の地名の起こりになったと云われている。
江戸中期,藩主・岡部氏は城内三の丸に稲荷社を建立。 稲荷祭は京都の伏見稲荷を城内に勧請し祭礼を施したもので、五穀豊穣を祈願した庶民の祭りになった。 1785年、例祭の際北町、大津から古い地車を借りたが、大きすぎて大手門が通れない為、杉丸太で柱を造り替え、城内に入ったという。
これが現在も行われている「だんじり祭」の地車引きの始まりとなったとされている。
江戸時代のだんじり祭は6月・8月・9月と年3回行われていたらしい。江戸期発祥以来約300年続いていて、現在では大阪の「だんじり祭」といえば、誰もがまず岸和田だんじり祭を連想させるほど有名になっている。
岸和田の勇壮且つ迫力でパワフルな「だんじり祭り」の「だんじり」とは、檀尻・楽車・山車とも書き、大阪、関西、西日本の祭礼で行われる曳物のことをいい、東京地方の山車(ダシ)・屋台に相当する意味をもつ。
岸和田では、特に「地車」と書いて「だんじり」と称しているようで、地車(じぐるま)とは、一般的に車体が低く四輪で重い物をひく車のこと。
「ソーリャ、ソーリャ」の威勢のよいかけ声に、太鼓や笛などの音が響き渡るなか、重さ約4トンのだんじりが街中を駆け回る。スピードに乗せて曲がり角でだんじりを一気に方向転換させる豪快な「遣りまわし」が決まるたび、見物客からはひときわ大きな歓声と拍手がわき起こる。
だんじりの山車は、欅の白木造りで重さ約4トンもあり、唐破風の大屋根と後部には小屋根がつき、その下に精巧な彫刻を施してある、いわゆる「下だんじり(岸和田型)」といわれる。欄干を巡らした座室より太鼓・鉦・笛の囃子を奏する。緩やかな囃子の音と共にゆっくり曳き廻され、辻に近づくにつれ囃子が早くなり曳き手は駆け足になる。
辻にくると、屋根に上った「大工方」と称するリーダーの掛け声、指示で勢いよく回り込む。
「遣り回し」(やりまわし)と呼ばれ、大工方、梶取りの前梃子、後梃子、曳き手など、すべての息が合わないとうまく曲がれず、狭い路地などは勢い余って人家の屋根などを壊してしまうことも珍しくない。
遣り回しが、華麗にきまると観衆からどよめきと拍手がわき上がる。
この辻巡行が、いつ頃から激しくなったか、又、どうして激走するようになったかは定かでないが、町内地車の競り合い、岸和田城内にある神社への宮入りの際のだんじりが、「コナカラ坂」という坂を一気に駆け上がる、といった事由があるかも知れない。 日没後は、昼とは対照的で祭囃子とともに優雅に曳かれる。
氏子は岸和田地区(岸城神社の氏子14町と岸和田天神宮の氏子5町)と春木地区(弥栄神社の氏子14町)から、其々だんじりが引き出され、9月14・15日の両日に祭事は行なわれる。
だんじりの地車には華美な彫刻の装飾が施されているが、 岸和田縁の楠木正成をはじめ後醍醐天皇など「太平記」の南朝側の英雄を飾ることが多いようだ。
冒頭にも記したが、岸和田は南北朝時代の英雄・楠木正成の支配地であった・・!。
その岸和田のほぼ20km東方、金剛山の麓に「千早」という地名があり、更に「千早赤坂村」がある。
ご存知、大楠公・楠木正成の出生地であり、鎌倉軍と激戦を繰り広げた地でもある。
正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれている。
河内、和泉を中心とした悪党(百姓、農民を保護し、周辺土地、地域の安全を計る武装集団)、豪族であったと考えられている。
鎌倉末期、元弘の変で後醍醐天皇の挙兵を聞くと、傘下に入り赤坂城にて挙兵する。反幕のかどで、後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、こんどは護良親王(後醍醐天皇の皇子)とともに、河内国の赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して鎌倉幕府軍と戦う。
1333年、足利尊氏や新田義貞、赤松円心、護良親王等の活躍で、鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇の「建武の新政」がはじまると、正成は新政の要職と河内・和泉の守護となる。(この時期に岸和田城が造られた)
鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実離れした政策の数々に武士は不満を募らせ、主導的立場にあった尊氏も新政を離反し下野する。
尊氏追討の命を受けた新田義貞だが箱根で激戦の末敗北し、足利軍がさらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、しかし、楠木正成や北畠顕家らの宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し九州へ逃れる。
足利尊氏は九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、楠木正成は新田義貞の旗下での出陣を命じられ、そして「湊川の戦い」(神戸市)で尊氏の実弟・足利直義の軍との戦い敗れて戦死する。
正成は、弟・正季と「七生報国」(七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん)を誓って差し違え亡くなった。
彼の息子である小楠公こと楠木正行(まさつら)を筆頭に、身内らも正成と同じく南朝方について戦った。 正行は父・正成の仇を打つべく高師直(北朝・足利尊氏の軍師)軍と大阪・四条畷で決戦(四条畷の戦い)を挑むが、大敗して戦死している。 この時、岸和田を領していた和田高家らも参戦、同時に討ち死にしたといわれる。
東に金剛山そして葛城山の山稜が天空を走っている。
北方に遠慮がちに信貴・生駒の山並みも見えている。浪速・大阪の人に言わせれば夕日は大阪湾に沈み、朝日は東方のこれらの山脈からキラキラ光ながら出現するという。
その向こうは奈良盆地であり、古代の大和朝廷の都・飛鳥地方である。
飛鳥の古代人は、東の山々から昇ってくる太陽を畏敬の念をもって拝んだことだろうし、太陽信仰はこの辺りから生まれ、天照大神が天皇の祖先として祀られるようになった。
では、山の向こうの太陽は、どのような地から昇るのであろうかと浪速の彼らは考えた・・?。 そのことを確かめるために東へ向かって行くと、辿り着いた地が伊勢の地である。 海岸の二見が浦へ出ると、海から突き出た大小の岩の間から、サンサンと輝く太陽が昇ってくるではないか。彼らは驚き、平伏して拝礼した。 彼らは、この岩を夫婦岩と名付け、そして伊勢の肥沃な地に天照大神を御祀りする「伊勢神宮」を開いたともいう。
金剛山・葛城山は、紅葉新緑自然いっぱいの山稜で、金剛山は日本200名山の1つでもあり、関西のハイカーに人気のある山である。
又、信貴・生駒は名刹古社の歴史跡が多く、稜線には「信貴・生駒スカイライン」が走っていて、大阪、奈良の大展望に優れているという。
次回、大阪の「浪速とミナミ」
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八ヶ岳(1966年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 奥秩父・金峰山(1972)
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日本周遊紀行(52)岸和田 「ダンジリと大楠公」
岸和田「ダンジリ」のポスター
「ダンジリ」の岸和田と楠木正成の係わり合い
加太国民休暇村の園地から大川トンネルを抜けると、和歌山から大阪府内へ到る。
大阪府南端の岬町から阪南より再び阪和道へ乗り、岸和田P・Aで一服しながら気が付くと、休憩舎の建物の壁に「岸和田だんじり祭り」の勇壮なポスターが数枚貼り付けてあった。
岸和田に関して、チョッと歴史を紐解くと、
現在の岸和田地区は南北朝時代の初めの頃は、「岸」と呼ばれていたらしい。
1334年(建武元年)楠木正成の甥御・和田高家(正成の弟・正季の子)が、正成の命で「岸」に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田殿」と呼ばれるようになり、 「岸」と「和田」で「岸和田」の地名の起こりになったと云われている。
江戸中期,藩主・岡部氏は城内三の丸に稲荷社を建立。 稲荷祭は京都の伏見稲荷を城内に勧請し祭礼を施したもので、五穀豊穣を祈願した庶民の祭りになった。 1785年、例祭の際北町、大津から古い地車を借りたが、大きすぎて大手門が通れない為、杉丸太で柱を造り替え、城内に入ったという。
これが現在も行われている「だんじり祭」の地車引きの始まりとなったとされている。
江戸時代のだんじり祭は6月・8月・9月と年3回行われていたらしい。江戸期発祥以来約300年続いていて、現在では大阪の「だんじり祭」といえば、誰もがまず岸和田だんじり祭を連想させるほど有名になっている。
岸和田の勇壮且つ迫力でパワフルな「だんじり祭り」の「だんじり」とは、檀尻・楽車・山車とも書き、大阪、関西、西日本の祭礼で行われる曳物のことをいい、東京地方の山車(ダシ)・屋台に相当する意味をもつ。
岸和田では、特に「地車」と書いて「だんじり」と称しているようで、地車(じぐるま)とは、一般的に車体が低く四輪で重い物をひく車のこと。
「ソーリャ、ソーリャ」の威勢のよいかけ声に、太鼓や笛などの音が響き渡るなか、重さ約4トンのだんじりが街中を駆け回る。スピードに乗せて曲がり角でだんじりを一気に方向転換させる豪快な「遣りまわし」が決まるたび、見物客からはひときわ大きな歓声と拍手がわき起こる。
だんじりの山車は、欅の白木造りで重さ約4トンもあり、唐破風の大屋根と後部には小屋根がつき、その下に精巧な彫刻を施してある、いわゆる「下だんじり(岸和田型)」といわれる。欄干を巡らした座室より太鼓・鉦・笛の囃子を奏する。緩やかな囃子の音と共にゆっくり曳き廻され、辻に近づくにつれ囃子が早くなり曳き手は駆け足になる。
辻にくると、屋根に上った「大工方」と称するリーダーの掛け声、指示で勢いよく回り込む。
「遣り回し」(やりまわし)と呼ばれ、大工方、梶取りの前梃子、後梃子、曳き手など、すべての息が合わないとうまく曲がれず、狭い路地などは勢い余って人家の屋根などを壊してしまうことも珍しくない。
遣り回しが、華麗にきまると観衆からどよめきと拍手がわき上がる。
この辻巡行が、いつ頃から激しくなったか、又、どうして激走するようになったかは定かでないが、町内地車の競り合い、岸和田城内にある神社への宮入りの際のだんじりが、「コナカラ坂」という坂を一気に駆け上がる、といった事由があるかも知れない。 日没後は、昼とは対照的で祭囃子とともに優雅に曳かれる。
氏子は岸和田地区(岸城神社の氏子14町と岸和田天神宮の氏子5町)と春木地区(弥栄神社の氏子14町)から、其々だんじりが引き出され、9月14・15日の両日に祭事は行なわれる。
だんじりの地車には華美な彫刻の装飾が施されているが、 岸和田縁の楠木正成をはじめ後醍醐天皇など「太平記」の南朝側の英雄を飾ることが多いようだ。
冒頭にも記したが、岸和田は南北朝時代の英雄・楠木正成の支配地であった・・!。
その岸和田のほぼ20km東方、金剛山の麓に「千早」という地名があり、更に「千早赤坂村」がある。
ご存知、大楠公・楠木正成の出生地であり、鎌倉軍と激戦を繰り広げた地でもある。
正成は、河内国石川郡赤坂村(現大阪府南河内郡千早赤阪村)に生まれている。
河内、和泉を中心とした悪党(百姓、農民を保護し、周辺土地、地域の安全を計る武装集団)、豪族であったと考えられている。
鎌倉末期、元弘の変で後醍醐天皇の挙兵を聞くと、傘下に入り赤坂城にて挙兵する。反幕のかどで、後醍醐天皇が隠岐島に流罪となっている間、こんどは護良親王(後醍醐天皇の皇子)とともに、河内国の赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に篭城してゲリラ戦法を駆使して鎌倉幕府軍と戦う。
1333年、足利尊氏や新田義貞、赤松円心、護良親王等の活躍で、鎌倉幕府が滅びて後醍醐天皇の「建武の新政」がはじまると、正成は新政の要職と河内・和泉の守護となる。(この時期に岸和田城が造られた)
鎌倉幕府を打倒して成立した建武政権であったが、現実離れした政策の数々に武士は不満を募らせ、主導的立場にあった尊氏も新政を離反し下野する。
尊氏追討の命を受けた新田義貞だが箱根で激戦の末敗北し、足利軍がさらに新田軍を追撃して京都の確保を図るが、しかし、楠木正成や北畠顕家らの宮方勢に京都とその近辺で敗れ海路西走し九州へ逃れる。
足利尊氏は九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、楠木正成は新田義貞の旗下での出陣を命じられ、そして「湊川の戦い」(神戸市)で尊氏の実弟・足利直義の軍との戦い敗れて戦死する。
正成は、弟・正季と「七生報国」(七たび人と生まれて、逆賊を滅ぼし、国に報いん)を誓って差し違え亡くなった。
彼の息子である小楠公こと楠木正行(まさつら)を筆頭に、身内らも正成と同じく南朝方について戦った。 正行は父・正成の仇を打つべく高師直(北朝・足利尊氏の軍師)軍と大阪・四条畷で決戦(四条畷の戦い)を挑むが、大敗して戦死している。 この時、岸和田を領していた和田高家らも参戦、同時に討ち死にしたといわれる。
東に金剛山そして葛城山の山稜が天空を走っている。
北方に遠慮がちに信貴・生駒の山並みも見えている。浪速・大阪の人に言わせれば夕日は大阪湾に沈み、朝日は東方のこれらの山脈からキラキラ光ながら出現するという。
その向こうは奈良盆地であり、古代の大和朝廷の都・飛鳥地方である。
飛鳥の古代人は、東の山々から昇ってくる太陽を畏敬の念をもって拝んだことだろうし、太陽信仰はこの辺りから生まれ、天照大神が天皇の祖先として祀られるようになった。
では、山の向こうの太陽は、どのような地から昇るのであろうかと浪速の彼らは考えた・・?。 そのことを確かめるために東へ向かって行くと、辿り着いた地が伊勢の地である。 海岸の二見が浦へ出ると、海から突き出た大小の岩の間から、サンサンと輝く太陽が昇ってくるではないか。彼らは驚き、平伏して拝礼した。 彼らは、この岩を夫婦岩と名付け、そして伊勢の肥沃な地に天照大神を御祀りする「伊勢神宮」を開いたともいう。
金剛山・葛城山は、紅葉新緑自然いっぱいの山稜で、金剛山は日本200名山の1つでもあり、関西のハイカーに人気のある山である。
又、信貴・生駒は名刹古社の歴史跡が多く、稜線には「信貴・生駒スカイライン」が走っていて、大阪、奈良の大展望に優れているという。
次回、大阪の「浪速とミナミ」
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2010年12月6日月曜日
日本周遊紀行(51)和歌山 「加太半島」
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日本周遊紀行(51)和歌山 「加太半島」
賑やかな、でもチョッと薄気味な「淡島神社」
奇態(けったい)なお宮・「淡島神社」
紀ノ川の紀ノ川大橋を渡って、加太の岬へ向う。
途中、広大な住友金属の製鉄工場群を見ながら、南海加太線が並行する。 道路脇に淡島神社という案内板があったのでチョッと寄ることにした。
加太の港町から左手の海岸線を辿ってみると、正面に大陸のような淡路島が横たわっていて、手前に友が島が浮かぶ。
間もなくお目当ての神社正面に達した、こちらは「淡島神社」である。
淡島神社は、名の通の淡路島に関係ありそうだが、そうではなさそうで、手前の友が島を大昔は淡島と呼んでいたらしく、神社もこの島から遷座したらしい。
朱色の鳥居の向うは数件の門前市をなしていて、高台へ向う白の階段の向うに、これまた朱色の社殿が鎮座していた。
この神社は、由緒ある神社ではあろうが、実に面白くて、なかなかユニークで珍奇なのである。
建物のいたる所にダルマさん達、七福神とか、干支の人形、市松人形、花嫁人形、お面群、境内の一角にはタヌキさんと、一面に土間であろうと、通路や階段であろうと、玄関(・・?)であろうと夥しく、数え切れないくらい安置・・?されていて、いやはや賑やかなのである。
そして今度は、社殿の中は、こと如く雛人形が満載であった・・これにもまたびっくり・・!!。
最近では人形の他に「ぬいぐるみ」なども納められ増える一方で、人形供養の名目で人形やぬいぐるみを不法投棄していく者もいて関係者を悩ませているという。 このためか、神社では珍しく夜間に参道を閉鎖し立入禁止としている。
この神社は、薬の神様とされる少彦名命を祭神とし、婦人病や安産祈願など「女性のための神様」として昔から信仰されているらしい。 現在は女性の信仰と雛流しの神事が有名であるとか。
お雛の節句とは、自分に憑いた悪気を祓う日で、けがれや災いを人形に負わせて流す風習がある。 奉納される人形を、白木の船に乗せて加太の海に流す、早春の神事が今も残っている。
神社の祭神である、神功皇后(ジングウコウゴウ)と少彦名命(スクナビコナ)の男女一対の御神像が男びな、女びなの始まりという。
余りに稀有な神社で目を白黒させながら先を目指す。
加太海水浴場の先、城ヶ崎岬付近から「友が島」群が勇壮に望まれる。
実は友ヶ島と呼ばれる島は無く、「地ノ島」、「沖の島」、沖の島に寄り添うように「虎島」、「神島」の小さな島があり、この四島を総称して「友ヶ島」と呼んでいる。
向こうに見えるは淡路島、紀淡海峡、又の名を「友ヶ島水道」と呼んでいる。 島々の海峡「加太の瀬戸」、「中の瀬戸」は1km足らず、沖ノ島の西端から淡路の洲本・由良港の成ヶ島までは凡そ4kmである。
淡路の南端、鳴門海峡では同時に巨大な渦潮を起こすことはよく知られるが、こちらの海峡も同様で、太平洋の大海が瀬戸内海へ向って動き出すとき強力な海流を引き起こす。
因みに「瀬戸」とは「狭門」(セト)の意、幅の狭い海峡のことで、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずる。 「瀬戸際」は激しい潮流に立つ:「生死の瀬戸際に立つ」である。
この地は、大阪湾から太平洋へ抜ける交通の要衝でもあり、難所でもある。
紀伊国屋文左衛門が、大阪、江戸へ帆船を巡らしたのは加太の地でもあったとされ。
その、みかん船の帆柱が淡島神社に奉納されていて、願い事を唱えながらこの帆柱の穴をくぐり抜けると、願い事が叶うと言われている。
嘉永7年、米国艦隊司令長官ペリーが率いる黒船4隻が浦賀に来航してから1年後、紀州藩は、幕府の命により加太に友ヶ島奉行を置き、友ヶ島に藩士を常住させている。
それ以来友ヶ島は国を守る上で重要な島となった。明治21年には陸軍の用地になり、明治期に要塞、砲台が築かれてから第2次大戦の敗戦まで一般人は近づくことも禁止されていた。
現在でも要塞、砲台の遺構が残り、昭和24年に、瀬戸内海国立公園の一部となって以後、全国的な観光地として開発が進められた。
次回からは、いよいよ大阪に入ります、先ず世に知られる「岸和田・ダンジリ」
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賑やかな、でもチョッと薄気味な「淡島神社」
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紀ノ川の紀ノ川大橋を渡って、加太の岬へ向う。
途中、広大な住友金属の製鉄工場群を見ながら、南海加太線が並行する。 道路脇に淡島神社という案内板があったのでチョッと寄ることにした。
加太の港町から左手の海岸線を辿ってみると、正面に大陸のような淡路島が横たわっていて、手前に友が島が浮かぶ。
間もなくお目当ての神社正面に達した、こちらは「淡島神社」である。
淡島神社は、名の通の淡路島に関係ありそうだが、そうではなさそうで、手前の友が島を大昔は淡島と呼んでいたらしく、神社もこの島から遷座したらしい。
朱色の鳥居の向うは数件の門前市をなしていて、高台へ向う白の階段の向うに、これまた朱色の社殿が鎮座していた。
この神社は、由緒ある神社ではあろうが、実に面白くて、なかなかユニークで珍奇なのである。
建物のいたる所にダルマさん達、七福神とか、干支の人形、市松人形、花嫁人形、お面群、境内の一角にはタヌキさんと、一面に土間であろうと、通路や階段であろうと、玄関(・・?)であろうと夥しく、数え切れないくらい安置・・?されていて、いやはや賑やかなのである。
そして今度は、社殿の中は、こと如く雛人形が満載であった・・これにもまたびっくり・・!!。
最近では人形の他に「ぬいぐるみ」なども納められ増える一方で、人形供養の名目で人形やぬいぐるみを不法投棄していく者もいて関係者を悩ませているという。 このためか、神社では珍しく夜間に参道を閉鎖し立入禁止としている。
この神社は、薬の神様とされる少彦名命を祭神とし、婦人病や安産祈願など「女性のための神様」として昔から信仰されているらしい。 現在は女性の信仰と雛流しの神事が有名であるとか。
お雛の節句とは、自分に憑いた悪気を祓う日で、けがれや災いを人形に負わせて流す風習がある。 奉納される人形を、白木の船に乗せて加太の海に流す、早春の神事が今も残っている。
神社の祭神である、神功皇后(ジングウコウゴウ)と少彦名命(スクナビコナ)の男女一対の御神像が男びな、女びなの始まりという。
余りに稀有な神社で目を白黒させながら先を目指す。
加太海水浴場の先、城ヶ崎岬付近から「友が島」群が勇壮に望まれる。
実は友ヶ島と呼ばれる島は無く、「地ノ島」、「沖の島」、沖の島に寄り添うように「虎島」、「神島」の小さな島があり、この四島を総称して「友ヶ島」と呼んでいる。
向こうに見えるは淡路島、紀淡海峡、又の名を「友ヶ島水道」と呼んでいる。 島々の海峡「加太の瀬戸」、「中の瀬戸」は1km足らず、沖ノ島の西端から淡路の洲本・由良港の成ヶ島までは凡そ4kmである。
淡路の南端、鳴門海峡では同時に巨大な渦潮を起こすことはよく知られるが、こちらの海峡も同様で、太平洋の大海が瀬戸内海へ向って動き出すとき強力な海流を引き起こす。
因みに「瀬戸」とは「狭門」(セト)の意、幅の狭い海峡のことで、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずる。 「瀬戸際」は激しい潮流に立つ:「生死の瀬戸際に立つ」である。
この地は、大阪湾から太平洋へ抜ける交通の要衝でもあり、難所でもある。
紀伊国屋文左衛門が、大阪、江戸へ帆船を巡らしたのは加太の地でもあったとされ。
その、みかん船の帆柱が淡島神社に奉納されていて、願い事を唱えながらこの帆柱の穴をくぐり抜けると、願い事が叶うと言われている。
嘉永7年、米国艦隊司令長官ペリーが率いる黒船4隻が浦賀に来航してから1年後、紀州藩は、幕府の命により加太に友ヶ島奉行を置き、友ヶ島に藩士を常住させている。
それ以来友ヶ島は国を守る上で重要な島となった。明治21年には陸軍の用地になり、明治期に要塞、砲台が築かれてから第2次大戦の敗戦まで一般人は近づくことも禁止されていた。
現在でも要塞、砲台の遺構が残り、昭和24年に、瀬戸内海国立公園の一部となって以後、全国的な観光地として開発が進められた。
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2010年12月5日日曜日
日本周遊紀行(51)和歌山 「雑賀党」
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日本周遊紀行(51)和歌山 「雑賀党」
紀の国の鉄砲集団:「雑賀党」
中世の頃、和歌山は「雑賀」(さいか)と呼ばれる集団が、農業生産や鍛冶といった技術に秀出ていた。 又、紀ノ川河口付近を抑えたことから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。
種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、「根来衆」に続いて雑賀の民もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する.
雑賀党、雑賀衆とも呼ばれる彼らは、大名の属臣になることを好まず、自立独立制を尊重していた。
現在でも、紀州和歌山の人々は、独立自尊を尊ぶといわれる。
戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大社・大寺院の勢力が強かった地域でもあった。
紀ノ川を20kmほど遡った辺りの岩出町に「根来寺」がある。
高野真言に所縁のある寺院で室町時代になると、院98、僧坊2700、寺領70万石もの稀有壮大なる規模にまでなっていたという。
戦国期、豊臣秀吉との攻防で寺社の殆どが消失したが、現存している国宝、日本最大といわれる木造建築多宝塔は、高さ40mで往時の面影を今に止めて聳え立っている。
秀吉の根来攻めの時に受けた弾痕が、今でも残っているという。(5箇所)
ここに本拠をもった根来衆は、大きく分けて学侶がくりょ)方(と行人ぎょうにん)方(とに分かれるという。 学侶方は、学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は、寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。 つまり、普通にいう根来衆とは僧兵武装集団のことで、この根来寺行人方のことをいう。
鉄砲と根来衆
彼らは、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた。
そして雑賀党と同盟して戦国期になると、やがて織田信長や秀吉と対立してゆくことになる。
鉄砲伝来は「種子島」というのは常識であるが、殆ど同時に紀州にも伝わっていることは、余り知られていない。
鉄砲伝来は天文12年(1543)、ポルトガル人3人が中国の船に乗って漂着したことに始まる。
数丁の鉄砲の内、種子島の当主・時堯(ときたか)は、その内の1丁を根来寺から来ていた「杉の坊」に与えた。
時堯は、島の鍛冶師に命じて生産させ、たちまち成功する。 その生産技術は1,2年後には根来衆と堺に伝わった。
両地は、今で言うIT産業の最先端技術を保有した地域で、信長いまだ九歳だった時分であった。
こうして根来衆は、3000丁の鉄砲を持ち、1万の僧兵を擁し、和歌山の雑賀党とともに日本の二大鉄砲集団を形成していたのである。
雑賀衆と「鈴木氏」
戦国時代に紀伊国・十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)を本拠地としていた土豪で、鈴木氏は紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園の土豪たちが結集して雑賀衆をつくり、その指導者的な立場にあったという。
江戸時代の記録から、鈴木佐大夫(重意)という人物が雑賀城主として数万石を領していたという説もある。
雑賀党の鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは「雑賀孫市」の通称で知られる鈴木孫一が活躍した16世紀の中頃以降の事で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れたという。
当本文、「浜松」の項でも記したが、 (「日本周遊紀行」 「浜松」)
鈴木氏は熊野三山信仰と関係が深く、元より鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系であった。
鈴木氏は熊野神社の勧進や熊野を基地とする太平洋側の海上交通に乗って、全国的に神官として分散したと考えられ、鈴木の名字は東日本を中心に全国的に広まっていったといわれる。
次回は、「加太半島」
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日本周遊紀行(51)和歌山 「雑賀党」
紀の国の鉄砲集団:「雑賀党」
中世の頃、和歌山は「雑賀」(さいか)と呼ばれる集団が、農業生産や鍛冶といった技術に秀出ていた。 又、紀ノ川河口付近を抑えたことから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。
種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、「根来衆」に続いて雑賀の民もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する.
雑賀党、雑賀衆とも呼ばれる彼らは、大名の属臣になることを好まず、自立独立制を尊重していた。
現在でも、紀州和歌山の人々は、独立自尊を尊ぶといわれる。
戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大社・大寺院の勢力が強かった地域でもあった。
紀ノ川を20kmほど遡った辺りの岩出町に「根来寺」がある。
高野真言に所縁のある寺院で室町時代になると、院98、僧坊2700、寺領70万石もの稀有壮大なる規模にまでなっていたという。
戦国期、豊臣秀吉との攻防で寺社の殆どが消失したが、現存している国宝、日本最大といわれる木造建築多宝塔は、高さ40mで往時の面影を今に止めて聳え立っている。
秀吉の根来攻めの時に受けた弾痕が、今でも残っているという。(5箇所)
ここに本拠をもった根来衆は、大きく分けて学侶がくりょ)方(と行人ぎょうにん)方(とに分かれるという。 学侶方は、学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は、寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。 つまり、普通にいう根来衆とは僧兵武装集団のことで、この根来寺行人方のことをいう。
鉄砲と根来衆
彼らは、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた。
そして雑賀党と同盟して戦国期になると、やがて織田信長や秀吉と対立してゆくことになる。
鉄砲伝来は「種子島」というのは常識であるが、殆ど同時に紀州にも伝わっていることは、余り知られていない。
鉄砲伝来は天文12年(1543)、ポルトガル人3人が中国の船に乗って漂着したことに始まる。
数丁の鉄砲の内、種子島の当主・時堯(ときたか)は、その内の1丁を根来寺から来ていた「杉の坊」に与えた。
時堯は、島の鍛冶師に命じて生産させ、たちまち成功する。 その生産技術は1,2年後には根来衆と堺に伝わった。
両地は、今で言うIT産業の最先端技術を保有した地域で、信長いまだ九歳だった時分であった。
こうして根来衆は、3000丁の鉄砲を持ち、1万の僧兵を擁し、和歌山の雑賀党とともに日本の二大鉄砲集団を形成していたのである。
雑賀衆と「鈴木氏」
戦国時代に紀伊国・十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)を本拠地としていた土豪で、鈴木氏は紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園の土豪たちが結集して雑賀衆をつくり、その指導者的な立場にあったという。
江戸時代の記録から、鈴木佐大夫(重意)という人物が雑賀城主として数万石を領していたという説もある。
雑賀党の鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは「雑賀孫市」の通称で知られる鈴木孫一が活躍した16世紀の中頃以降の事で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れたという。
当本文、「浜松」の項でも記したが、 (「日本周遊紀行」 「浜松」)
鈴木氏は熊野三山信仰と関係が深く、元より鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系であった。
鈴木氏は熊野神社の勧進や熊野を基地とする太平洋側の海上交通に乗って、全国的に神官として分散したと考えられ、鈴木の名字は東日本を中心に全国的に広まっていったといわれる。
次回は、「加太半島」
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