google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2009-12-20

2009年12月23日水曜日

日本周遊紀行(43)寿都 「弁慶岬」

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弁慶岬に立つ「弁慶像」



日本周遊紀行(43)寿都 「弁慶岬」


北海道で本州側に細長く延びた半島を「渡島半島」(おしまはんとう)といい、一般には寿都から長万部を結ぶ黒松内低地以南の地域を指すのであろう。 

その先端南部は二つに分かれ、日本海に面する方を松前半島、太平洋が亀田半島と称しているが、こちらは余り一般的な名称ではないらしい。


地図を観ても凡その見当は付くが、この半島は道内の各所に観られるような原野や平原、湿原といった平坦な地域は殆ど見当たらず、急峻な山地帯が一体を占めている様である。 
特に半島の日本海に面する北西部の海岸線(30~40km)は、奇岩や岩礁が連なる山岳地帯となっている。 


大成町辺りの海岸のすぐ横には標高816mの「毛無山」が聳え、その山塊が日本海に断崖となって崩(なだれ)れ落ちている。 

この地が、北海道最西端の地といわれる「尾花岬」である。



北海道最南端の地「白神岬」でも述べたが、北海道の沿岸周を巡っている小生にとっては是非訪れて見たい地であるが、急峻な山岳地と海岸が一体となっている地域で、残念ながらまだ道路も開通していない様で、従って、訪れるのは無理なようである。 

この辺りは、「日本の秘境100選」にも選ばれている辺境の地なのである。 
因みに、北海道で100選に選ばれている地域は、知床やサロベツ原野など11ヶ所におよぶらしい。





その渡島半島の付け根に当る「寿都」(すっつ)へ達した。


この地は、北に向って鋭角に尖った岬が在り「弁慶岬」という。 

その一角の大きな台座の上に、長刀を持つ堂々とした「武蔵坊弁慶」の像が、仁王立ちならぬ弁慶立ちで立っていた。


一般にも北海道には魅力的な「岬」が多いようで、外周旅行を実行している小生にとっては謂わば通り道のようであり、楽しみの一つでもある。 

銅像は寿都町が岬を公園として整備し建てたものらしく、台座に刻まれた「想望」の文字は、北の大地を駆け抜け、悲劇的な最後を遂げた義経・弁慶一行の思いを伝えているという。  

ただ、岬の弁慶像を観光の目玉にしたつもりであろうが、今のところ人気の気配は余り無いという・・?。 
広々とした駐車場いっぱいに、サブちゃんの「弁慶岬」という歌がスピーカーから流れていで、町を挙げて義経伝説に彩りを添えているのは理解できるが。



その銅像の武蔵坊弁慶は、海を見ている・・、


毎日、岬の先に立ち、義経再挙の兵を乗せた船団が沖に現れるのを待ったのであろうか・・?。 
仁王立ちで同志を待つ弁慶の姿を見ていたアイヌたちは、いつしか岬を弁慶岬と呼ぶようになったという。


チョット、関連するかもしれないが・・、


これより先、寿都湾に面した歌棄(うたすつ)地区に、佐藤家が明治初期に建てたという漁家建築の代表的な大屋敷「鰊御殿」が海に向って建っている。 

佐藤家は、義経の家臣・佐藤継信の末裔といわれ、現在でも人が住んでいてニシン場時代の資料館にもなっている。

幕末の1850年代初頭に歌棄、磯谷二場所の場所請負人(指定された区画、区域が「場所」であり、その交易権(生産行為も含めて)を委託された者を「場所請負人」とよんでいる。)を勤め、維新後は駅逓(郵便)取扱人を命ぜらるなど、同地方随一の名家といわれる。 

積丹半島の開発および漁法改良に尽力した人物であり、開発功労者として著名であるらしい。

この佐藤家は、義経の家臣・佐藤継信(さとうつねのぶ)の末裔といわれる。 

継信は平安時代末期の武将で、源義経の家臣・義経四天王(佐藤継信・忠信兄弟、鎌田盛政・光政兄弟=義経の父・義朝の家臣の子)に数えられる。


2005年に放送されたNHK大河ドラマの「義経」でもお馴染みであろうが、「佐藤兄弟」(忠信:海東健 、継信:宮内敦士が演じている)は元々奥州藤原家(藤原秀衡)の家臣であった。 

1180年、義経は、関東・鎌倉において実兄・源頼朝の挙兵を知り、奥州より加勢に向かおうとした際、秀衡の推挙によって義経の側近として兄弟共に平氏追討軍に加わるのである。 

1185年、「屋島の戦い」において、強弓で知られた平教経が義経を狙って放った矢を、継信が一身で受け戦死する。 

継信の死を悼んだ義経は、懇(ねんごろに)ろに供養を行ったという。 

因みに、弟の忠信は、平家が滅亡する「壇ノ浦の合戦」まで戦い抜く。 

戦後、義経が兄・頼朝と不和になり鎌倉に入れず吉野に逃れた際もそれに従い、義経を頼朝が差し向けた追っ手から逃すために相手に単身で切り込み、義経を逃れさせた後、自ら京の義経の館に戻って北条時政の軍と戦い、そこで自害している。




弁慶といい、佐藤兄弟といい、いずれも義経の経緯伝説から発しているが、この辺鄙な田舎町に如何にして佐藤継信の子孫が移り住んだか・・?、

その史的経緯はともかく、このような伝説が残っていること事態に、あらためて歴史のロマンを感ずるのである。 


義経蝦夷渡来伝説」は各地に存在するが、義経と共に戦って敗れた落ち武者が、この地に土着したことには頷けるのである。



さて「弁慶岬」であるが・・、


津軽海峡を渡って北上した義経一行が、弁慶の舎弟・常陸坊海尊が率いる船団を待ち受けた場所とも言われている。


江戸時代の蝦夷地探検家・松浦武四郎の「西蝦夷日誌」には・・、
『 近くに小山があり、義経卿此処(ここ)より見給いし 』と記されているとか。 

寿都町で毎年夏に開催される「寿都湾弁慶祭り」では、かがり火をたいた義経・弁慶の一行が町を練り歩き、羽織はかま姿の町長と口上を交わす儀式が催されるという。 

役場近くには、長さ約90センチの弁慶ゲタが奉納されていて、合わせて弁慶堂が建っているという。




弁慶岬』  唄・北島三朗

海は朝やけ 男の大地 
いのちはぐくむ 日本海 
夜明け間近の 寿都湾 
金波銀波の 輝く海原に 
道をつくって 船がゆく 
無事を見守れ 弁慶岬 



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2009年12月22日火曜日

日本周遊紀行(42)奥尻島 「あの時の記憶・・!」

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日本周遊紀行(42)奥尻島 「あの時の記憶・・!」


国道228号線の「江差ソーランライン」の海岸線を北上するにしたがって、沖合いに横たわっていた。
あの「奥尻島」が次第に近づいてくる。 
奥尻島へは江差の港からもフェリーで乗り付けることができるらしいが、1日1便と数は少ない。



奥尻島」について・・、

この島の南西部の青苗地区はかって、1993年(平成5年)7月12日に起こった「北海道南西沖地震」の主要地である。
その中心部は津波の被害を受け、200人あまりの死者を出した地域であるのは周知である。

その後、防波堤などの大規模な津波対策がなされ、特に、その後に発生した「スマトラ沖地震」を参考に、島における津波対策の先進地ということで、各国の防災担当者から注目をあびることにもなったという。



1993年7月12日22時17分頃、北海道南西沖、奥尻島近くの日本海海底でマグニチュード7.8の地震が発生した。 

震源の深さは約3kmで小樽市、寿都町、江差町、青森県深浦町で震度5を観測した。


奥尻島には当時地震計が設置されていなかったが、被害状況から震度6と推定されている。
そして、地震発生数分後に「大津波」が発生したのである。



あの日のこの頃、小生は既に布団に入り、見ていたTVも消してオフタイマーのラジオを聴きながら寝に付こうとしていた。 
ボンヤリ聞き入っていたラジオから突然、NHKの定時番組が切り替わり、臨時放送を流し始まったのである。 

始めの地震情報からすぐに津波の状況を伝えていて、次第にその様子が明らかに成るに従って、小生の聞く耳は緊張を強いられ、眠気をスットばしたのであった。 
特に、当地に偶々(たまたま)宿泊していた、ある報道カメラマンの体験談話は、その恐怖と安堵感が迫真に迫るものがあった。 


この夜、小生は殆ど寝ずに聞き入っていたが、うたたね同様の、短時間の浅い睡眠で翌朝目が覚めると、今度はTV映像が津波で襲われた地域が大火事になって燃え盛っているのであった。
そんなあの日の事が思い起こせるのであった。


これは余分だが・・、<br>
やはり、同じ時刻同じ状態で、2002年9月11の夜を思い出すのである。 


ニューヨーク発であったが、11日夜、同時多発テロが米国を襲い、ニューヨーク市のWTC(世界貿易センタービル)が破壊され、ワシントンの米国防総省の本部(ペンタゴン)も損害を受けたときである。 
ニューヨークでは数千人が命を落としたとみられ、犠牲者数を約1万人とする報道もあったのであるが。




「奥尻島」の事である・・、<br>

地震の後の、それに伴う津波によって、死者行方不明231人、負傷者305人、家屋全半壊流失937軒にも及ぶ大きな被害を出した。 
地震発生後、津波は地震発生後の約5分後に奥尻島の海岸を襲い、最高で西海岸・藻内地区の背後の谷筋にそって海抜30.6mの地点まで海水が上昇したという。 
この時、22時22分に札幌管区気象台から大津波警報が発令された時にはすでに到達後であった。



島南端の砂州の上に広がる青苗の最南部市街地の「青苗五区」では、第一波が西からの直撃波として押し寄せ、全戸が完全流失し、ここで70名の死者を出した。

奥尻島の最南端の青苗岬のすぐ沖合海域を東に向かって回り込んだ津波は、本震発生の7分後、背後に当たる島の南部、初松前集落付近に集中して、ここで13.2mもの海面高を示したとされる。 

人口80人の初松前は全戸流失して32人もの死者を出した。 

本震発生後16分ほどして海水は、市街地北側防波堤の付け根の隙間から市街地の北部に浸入して、市街地のなかに強い南下流をつくった。 


木造家屋の柱や屋根材、家具などはこの南下する強い流れに運ばれ、南側防波堤の付け根付近で海に投げ出された。 

津波の翌日に撮影された航空写真には、市街地を薙払った海水の強い南下流の存在を示す、内港の水面をびっしりと覆った木片の浮遊が見られた。 

南端の青苗岬では2m以上の波が1時間に13回も観測されていたという。



又、北海道・本島でも大規模な津波が観測されており、島牧村栄磯では7.5mの高さまで津波が到達し、又、ここ北檜山町・瀬棚町・大成町(現せたな町)などでも死者を出していた。


津波で壊滅的打撃を受けた青苗地区では、12日22時40分頃、翌13日0時30分頃と相次いで火災が発生した。
津波で倒れたホームタンクからの灯油漏れ、道路寸断により他地区から消防車の応援を得られなかったなどの要因により火は燃え広がった。

鎮火に至ったのは最初の出火から11時間後で、延焼面積は約5ha、焼失は190棟に及んだ。 だが、火災を直接の原因とする死者はなかったようである。




奥尻島は、一見フラットに見えるが、島の中心部から南西部よりの位置に、島内最高峰の神威山(標高584m)が立ち上がっている。

奥尻島の主な目玉は、漁業および観光で、特に夏場はとれたてのウニやイカが絶品という。
特にウニは特産らしく青苗地区の浜には、「ムラサキウニ」をモチーフにしたマスコットキャラクターの「ウニマル」が立つという。


又、同地区に奥尻島津波館が建ち、津波慰霊碑が立つ。


次回は「寿都」



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2009年12月21日月曜日

日本周遊紀行(41)江差 「鰊と追分と開陽丸」

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姥神大神宮と復元された開陽丸   



日本周遊紀行(41)江差 「鰊と追分と開陽丸」


国道228号線を別名「江差ソーランライン」とも呼んでいる。 


鰊と民謡の「江差」に到った。

『 江差の町を 何かと問えば 
    昔は鰊で今追分か 中を取り持つ開陽丸 』・・小生



蝦夷・北海道で唯一藩の「松前藩」は万石挌の大名であった。 
普通、石高というのは耕地面積、つまり米の収穫高で決まったが、山が迫り北国の蝦夷地・松前藩はその米が無かった。
藩は、蝦夷との交易や漁業(主に鰊)に依って経済収入を得ていた、それは鰊に伴う運上金(税金)のことで、特に江差から吸い上げた額は莫大であったという。

江差には藩の奉行所が置かれていたが、役人が在住するのはニシンが水揚げされる時だけとも云われた。



  『 江差の五月は 江戸にもない 』 

江差の五月は、ニシンが海上を泡たつように群れをなしてやって来る。
この時の賑わいは「江戸の街」以上のモノがあったという。 
湾形に恵まれた江差は、時期になるとニシンが獲れに獲れて、「北海道一景気のいい町」と言われた時期も有った。

江差の浜に姥神町があり、「姥神大神宮」が祀られている。
松前地はもとより蝦夷地の一宮として、代々の藩主、領民の尊崇を集め、藩主の巡国の折には、かならず参殿して藩の隆盛、大漁、五穀豊穣を祈願する祈願所となっていた。

昔、江差の村に姥神という老婆が現れて・・、

「 この村に、ニシンという小さなサカナが打ち寄せるだろう。毎年、これを捕って暮らしたらよかろう 」と告げ、
なお「 網の大きさは、高さが五尺三寸(約1m59cm)目の数は63だよ 」といい、老婆はこれを固く守るようにと村人に言い渡して姿を消した。

江差の浜は、やがてニシンで満ちあふれ、村は豊かになった。 

しかし、欲に目のくらんだ人々はいつしかこれを忘れて、大きな網で漁をするようになった。

それは明治の初めの頃だといい、この頃からニシンが次第に捕れなくなり、それは、老婆の言い付けを守らなくなったからと、信じる人が今もいるという。 
その後漁民は、大網禁止を藩に直訴する騒ぎや、次々と大網を切る網切り事件も起きた、これを「檜山騒動」ともいう。 

こんな騒ぎで、江差の浜は無人の浜になろうとしていた。
こんな中、10年ぶりにニシンが押し寄せてきたのである。 
だが江差の浜にはすでに漁民がおらず、いても漁具が無く、ただ地団駄を踏みつつ巨万の富が去るのを眺めるしかなかったという。
その後、大正2年にもう一度ニシンが姿を見せたが、現在に至るまでニシンは完全に幻の魚になってしまったという。 

姥神のお告げを無視した漁民は、自らその過ちのド壷に嵌っってしまったのであり、その教訓のためにも「姥神大神宮」が祀られているという。



16世紀頃から始まったといわれるニシン漁は、昭和30年代に終幕を告げた・・が、「江差追分」が江差に残った。 

普通「追分」とは信州追分のことで、今の信州・小諸付近である。

ここは中山道が北国街道へ通ずる分岐点でもあって、 追分節の発祥「信濃追分」が北国街道の越後から北前船に乗って、松前や江差にやって来たといわれる。

これが「江差追分」の原点といわれる。

鰊漁で賑わう江差の番屋の宴会の席で、信濃の国からニシン漁の出稼ぎに来た人達が、故郷を想いながら唄う信濃追分に、一座の人は同様に郷愁を感じたのに違いない。 

追分節は江差に馴染んだのである。


江差追分は今では日本を代表する民謡に発展し、今では「追分節」の中心挌になっている。 

ともあれ、江差の風土にとけこみ、幾度もの変化をとげてきた追分節は、北前船が消えて、ニシンの大群が去っても人々の心に残り受け継がれた。 
神宮大祭の「姥神祭」では今も祭りの前夜に江差追分が奉納されているという。 
さらに近代では、独特の深い哀調や奥の深さから、江差だけでなく全国の民謡愛好家に歌われるようになった。 
恒例の全国の大会もこの地で行われ、隆盛を極めているとか。



江差追分』  北海道民謡

かもめの鳴く音に      江差の五月は      松前江差の
ふと目をさまし       江戸にもないと    かもめの島は 
あれが蝦夷地の       誇る鰊の       地からはえたか
山かいな          春の海        浮き島か



忍路高島      沖を眺めて    板一枚下が
およびもないが   ホロリと涙    地獄のアノ船
せめて歌棄     空飛ぶ鴎が    よりも下の二枚が
磯谷まで       懐かしや      おそろしや



忍路高島(おしょろたかしま)及びもないが せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで」と、江差追分の数ある歌詞の中で良く唄われている。

「忍路そして高島」は、積丹半島基部・余市に忍路があり、小樽市市街に高島、高島岬がある。 
又、歌棄、磯谷は渡島半島の付け根、寿都町にある。 

積丹半島の先端には神威岬があり、昔はこの岬から北へは女人禁制で、女性は入ることが出来なかったという。 
岬を越えて恋しい人を追っていくことが出来ないので、せめて江差から忍路・高島の中間点の歌棄、磯谷までは参ろう、と歌っているのである。



江差の町入ると左に近代的な港湾が広がり、そこに資料館と大きな帆船が浮かんでいた。
「開陽丸」(復元された)である。 

先刻の北海道を襲った台風18号の影響で部分的に被害を受け、見学乗船は出来なかったのが残念であった。


江戸幕府が、オランダに依頼して建造した最新鋭の大型軍艦「開陽丸」が横浜へ入港したのは、1867年3月である。
操艦したのは榎本釜次郎(武揚)が後の艦長になっている。

京の鳥羽・伏見の戦で幕府側は敗れ、当時の将軍・徳川慶喜は大阪よりこの開陽丸で江戸へ敗走している。
その後の江戸から東北の戦・「戊辰戦争」でも幕府軍は敗れる。
幕臣だった榎本は開陽丸、他数隻を率いて、蝦夷地に独立国を造るべく箱館へ向かった。


仙台より土方歳三以下陸兵を満載した船は函館へ上陸、そして五稜郭を落とす。
その後松前方面へ進撃して松前城を攻略する、この時の指揮官は土方である。
そして最後の砦となったのが江差であった。

榎本は土方と謀って、海からも攻めるべく開陽丸を江差え差し向ける、榎本はすぐ沖に開陽丸を停泊させて上陸した。 
この時期11月(今の12月)であった。

その時から天候が急変し猛烈な吹雪になる。 
操舵の甲斐も無く、一発の砲弾を撃ち込む事も無く、開陽丸は沈没してしまうのである。


それから幾星霜、昭和50年頃から、開陽丸調査発掘が行はれ、引揚げた遺物は2万点を超え、砲弾だけでも30トン・900発という。 
因みにこの水面下一帯は「文化財埋蔵地域」になり、海底の開陽丸は文化財になっているという。


次回、奥尻島



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2009年12月20日日曜日

日本周遊紀行(40)松前 「蝦夷・松前藩」

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函館戦争図と復元された松前城・二の門(資料)



日本周遊紀行(40)松前 「蝦夷・松前藩」


引き続き「松前」で・・、
蝦夷・北海道唯一の「松前藩」について述べたい。

中世、鎌倉から室町期にかけて、津軽地方は安東氏(平安期の安倍氏の出身)の支配下にあった。
特に、安東氏は、鎌倉時代末期から南北朝時代を通して、津軽半島の「十三湊」を本拠地とし栄えていた。(十三湖・十三湊の項で前述) 

十三湊を根拠としたのは、水運、海運に利があったとされ、船を縦横に操る安東氏にとって、蝦夷地・松前(当時は福山)などは隣の町へ行くようなものであったろう・・?。

松前と津軽の竜飛の間は、僅か20kmに満たないのである。


中世、源頼朝が奥州・藤原氏を滅ぼした後は、津軽地方は出羽国より陸奥国に移され,北海道も陸奥の管轄に入ることになった。
その頃、津軽の安東氏は,鎌倉執権・北条義時により蝦夷管領を命ぜられている。

しかし、南部氏の台頭によりその領域を奪われ、15世紀半ばごろには安東氏は蝦夷島へ逃れてくる。
一方、南部氏の重臣だった蠣崎氏(かきざきし)が反乱を起こし、それに失敗して蝦夷島へ脱出している。 

当時、蝦夷支配権はいまだ安東氏が確保していたが、アイヌとの「コシャマインの戦い」などを契機として蠣崎氏が台頭し、16世紀はじめには安東一門としての蝦夷島の代官となった。「蠣崎氏」は、若狭の国の武田氏の流れをくむという。 


若狭守護・武田氏の嫡子として誕生した「武田信広」であるが、21歳の若さで出奔し、南部・三戸の南部氏の元へ移っていったといわれる。 
南部氏は、元より甲斐の武田の出身で、云わば同族のよしみでもあった。
その後、南部家の領分から知行を許され、蠣崎・武田氏を名乗るようになった。 

戦国末期、関白・豊臣秀吉に朝鮮出兵時の本拠・肥前名護屋で面会し、蝦夷地支配の朱印状を与えられ、蛎崎氏は名実共に蝦夷地の領主として安東氏から独立した。


次に、天下分け目の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、江戸に徳川幕府を開いている。 
この時期、東軍、徳川軍に臣従していた蛎崎氏は、徳川家康からも安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、徴役権、交易の独占権を得て、日本最北の藩・松前藩を成立させてて、同時に松前氏を名乗っている。

当時、この辺りはアイヌ語では「マトマ・イ」とよばれていたので、松前になったとされている。


幕藩体制下の松前氏は、蝦夷島の主としての客臣扱いで、格付けは一万石相当の「柳間詰め」(大広間は入れない大名席)といわれる大名であった。
ただ、当時の北海道では米がとれなかったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格にすぎないが。 

この時期、安政元年・1854に、日本最北・蝦夷地随一の和式三層の城郭が出来上がる。
ロシアの脅威やアイヌに対する警備のために、必要性が幕府に認められたための松前城であった。 
本格築城としてはわが国では最後の築城であるとのこと。



松前藩領は蝦夷地全域とされているが、実効支配していたのは渡島半島のみで、それ以外の領域は放置も同然であった。 
藩の知行制度も、他藩と全く違う制度をとっていた。 

米の生産がないので土地を与えても意味がないためで、「商場知行制」という商い方式を採用していた。
特定の区域のアイヌとの交易権を与えるというやり方で、藩士はその地域に赴き、アイヌと実際に交易を行い利益を得ていた様である。


時代が進んでくると商人に交易の全権を委ねて、商人に対する手数料を除いたアガリを得る方法に変わり、又、後には、「場所請負制」に変わっている。 
つまり蝦夷地全域の交易権を有力な商人に全権委任し、毎年多額の運上金(税金に相当)を徴収するのである。 

場所請負制の代表的な商人として、「国後・目梨(クナシリ・メナシ)の蜂起」の原因を作った「飛騨屋」がいた。(根室の項で記載予定)
しかし、領土の上知(あがりち:幕府や藩に没収された土地)や箱館の繁栄のせいで、松前藩の経済状態は奮わず、藩士も城下の民も苦しいものには違いなかった。


下って、戊辰戦争では、箱館戦争の一環として松前城で旧幕府軍と戦って敗戦の憂き目をみている。
その後、お城は奪還したが、明治期、版籍奉還や廃藩置県で社会体制が変化、その後の松前藩は明治期には館藩と称し、ほんの一時、館県と称し、ついで約1年の青森県管轄を経て開拓使所管に入った。

正確な行政区は松前藩、館藩、館県、弘前県、青森県、青森県松前出張所、開拓使函館支庁へと、明治2年より5年の間にこれだけの行政上の地域名が変化している。



お城の奥まったところに郷土資料館が在り、他に藩屋敷や大館跡、松前家墓所等があり、松前はやはり歴史の街であることを実感する。
松前城を出て振り返ると、丘の上の天守閣がハッキリ望めた。 

成る程、この状態だと艦砲射撃の餌食になりやすい・・、納得である。 

城郭に”サヨナラ”と言って先へ進む。


次回、「江差」




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01. 15.

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