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日本周遊紀行(146)鹿児島 「桜島」 ,
写真:錦江湾といまだ噴煙を上げる「桜島」
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「わが胸の 燃ゆる想いに 比ぶれば 煙は薄き 桜島山」・・、
錦江湾(鹿児島湾)沿いの国道10号線に出たると、青藍の錦江湾に末広がりの「桜島」が眼前に現る。
それにしても湾海上に無数の筏・生簀が並ぶ。 カンパチの生簀だという。
カンパチはス-パ-の魚類コ-ナ-の刺身でお馴染みであが、昔から「マグロに飽きた、通が食べる刺身」と言われ、正面から見ると目の間に黒っぽく八の字の紋様が見えるため、「目の 間 に 八 の字」で間八、勘八・カンパチと言う名前になったと言う。
はじめ、マグロの仲間と思っていたが実はアジやブリ属 に属する魚で、大きなものは体長が 1.5メートルと大きく小柄な女性の身長くらいある。
南方系の魚で中国・海南島沖合いの稚魚を3月中旬~5月に捕獲して海面の生簀に入れ、1年後には2kgにも成長し、稚魚から1年半後の8月から水揚げされるという。
カンパチが育てられている錦江湾は、平均水温は22度と暖かく、南方系の海水魚であるカンパチは暖かい水を好むので育てるにはうってつけの漁場という。
因みに、水温 13℃より下がると動きが鈍くなって死んでしまうデリケートな魚でもあるらしい。
さらに、以外のことに錦江湾は潮流が早く、新鮮な海水が絶えず行き渡っていて天然プランクトンが豊富に流れ込み、餌は、鹿児島県特産のお茶(知覧茶)を配合しを使用しているという。
生簀の標準的な大きさは概ね縦、横、深さ8mの立法形で、鋼管で作られた枠に発泡スチロールなどの浮きをつけている。
「大崎の鼻」という、一段と見晴らしの良い所へ来た。
薩摩の象徴でもある「桜島」が迫力ある勇姿で眼前に迫る。
『 わが胸の 燃ゆる想いに 比ぶれば
煙は薄き 桜島山 』 平野国臣
筑前(福岡県)の勤皇志士・平野国臣(ひらのくにおみ)は、薩摩・西郷隆盛が最も敬愛する人物で、勤皇思想はもちろん詩歌人であり風流人であったという。
「安政の大獄」が始まり、幕府の追求は朝廷工作に携わった僧・月照(清水寺・成就院住職)にも及んだ。
西郷の依頼により、月照を鹿児島城下に逃亡させる役目を負った平野は無事薩摩城下に入ったが、幕府の探索を恐れた薩摩藩は彼らの受け入れを拒否した。
西郷はやむなく月照と平野を引き連れ、一路日向に向けて鹿児島錦江湾の海に船を漕ぎ出した。
平野は船中で笛を奏でていた。
船が錦江湾の沖合いを過ぎた時、突然、西郷と月照は二人で抱き合い寒中の海に身を投げた。
数刻経った後、二人の体が突然海面に浮き上がり、平野らは二人を船に引き揚げ、二人を蘇生させるべく熱心な介抱を続けた。
その結果、月照は絶命したが、西郷はすんでのところで息を吹き返したという。
西郷の命が助かったのは、ひとえに平野の熱心な捜索と看病のお陰であり、命の恩人でもあった。
この時の“身を切られる様な想い”を桜島に向かって詠んだ歌といわれる。
この「鹿児島」の命名は「桜島」に起因するという。
古くは桜島のことを「鹿児ノ島」と呼んでいて、現在の隼人、国分などの錦江湾の北岸一帯も含めて「鹿児島郡」と成ったのは鹿児ノ島に由来するという。
江戸期までは薩摩藩が通称であったが、明治初期の版籍奉還後に定められた正式名称が鹿児島藩であり、藩庁は鹿児島城(鹿児島市鶴丸)、藩主は島津氏である。
外様大名でありながら、最高石高(表高で実際は半分程度ともいう)は90万石と加賀藩に次ぐ大藩を形成した。
『鹿児島おはら節』 鹿児島県民謡
花は霧島 煙草は国分
(ハ ヨイヨイ ヨイヤサ)
燃えて上がるは オハラハー 桜島
(ハ ヨイヨイ ヨイヤサ)
※以下、唄ばやし同様
見えた見えたよ 松原越しに
丸に十の字の オハラハー 帆が見えた
薩摩西郷さんは 世界の偉人
国のためなら オハラハー 死ぬと言うた
次回は、「西郷どん」
『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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2011年7月1日金曜日
2011年6月30日木曜日
日本周遊紀行(145)薩摩 「島津氏」
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日本周遊紀行(145)薩摩 「島津氏」 ,
以外だった、島津氏と堺商人の関係・・ 、
400年前天下分け目といわれた「関が原」に、東西合わせて17万余の大軍が対峙した。
そして、慶長5年9月(西暦1600年10月)、遂に戦線の発端が開かれた。
諸端の開戦からしばらくは西軍有利の状態が続いたが、突然の小早川秀秋の東軍・徳川方への寝返りによって形勢が一気に逆転し東軍が優勢になった。
西軍は一斉に退却を始め、その西軍の中に薩摩軍の島津義弘がいた。
屈強で知られる島津軍であるが未だ一発の銃砲も打たなかった、それは国元が「中立」を決め込んで援軍をよこさなかったためともいわれる。
西軍総勢が退却する中、凡そ1000人の島津軍は突然、前へと突撃を始めた。 敵将・徳川家康の本陣を突くためにである。
東軍本陣がたじろぐスキに、島津軍はそのまま伊勢路から甲賀へと退却する。
東軍も激しく追撃して殿軍(しんがりぐん)との戦いとなり、滋賀の信楽(しがらき)から奈良を抜け堺に辿り着いた時は、主従は80人に減っていたという。
堺衆は義弘を匿い、その間に船や食料を調達して島津軍はようやく薩摩へ脱出した。
帰国後、薩摩は軍備を強化し徳川方の来襲に備えたが、家康は攻めてこなかった。
それは薩摩の巧妙な外交もあったが、家康は島津軍を極度に恐れたからであるという。
退却の最中でも1000人が80人になるまで奮戦し、その強固な軍武魂は既に天下に知れ渡り、家康はそれを恐れたともいわれる。
戦後の始末において・・、
西軍の首謀者や各武将は捕縛されて斬首されたり、領地の召し上げや減封が行はれたが、島津氏は西軍の中で例外的に薩摩、大隈、日向の領地をほぼ現状維持で安堵されたという。
その後の薩摩は2百数十年に亘り藩を改革し、近代化し、国力を蓄えた。
それが、明治維新の原動力となったことは言うまでもなく、維新という日本史上最大の改革の源流は関が原そして「堺」に有ったとも云われる。
その堺と薩摩の繋がりは鎌倉期から有ったとされる。
通説では源頼朝の御落胤とされる薩摩家初代の忠久は、大阪の住吉に生まれているという。
堺の商人はこの住吉大社に参詣して忠久とは浅からぬ因縁があり、忠久の二代目・忠時は住吉地域の地頭を勤めたことも記されているという。
又、室町期、堺の商人達は紀伊水道から土佐沖、南九州をして琉球にまで交易を発展させていた。 室町幕府は琉球貿易の管理を島津氏に任せたため、堺と薩摩は強く結びついていたとも言われる。
現在の堺衆も「明治維新は薩摩をして、堺からはじまったんどっせ・・」と言うそうである。
そして、遂に江戸末期、文明開花の為に薩摩隼人は動くのである。
その薩摩・鹿児島で最も尊敬されている人物といえば、やはり「西郷隆盛」であろう。
土佐の坂本竜馬もそうだが、特に、地元鹿児島では西郷隆盛の悪口を言うのはタブーとされ、西郷といえば質実剛健で骨太、頑固で気性の荒い豪傑で、理屈を言わず即実行に移す行動派というイメージがある。
薩摩隼人は薩摩人の気質であり西郷隆盛そのものでもあるといい、男は「薩摩隼人」、女は「薩摩おごじょ」と称される。
古代より紛争が絶えなかった薩摩地方で、特にこの隼人、国分はその頃の城跡や隼人塚をはじめ、多くの古墳や遺跡が残っていると云われる。
そんな中、隼人町の「隼人塚」は隼人の多くの亡霊が人民に祟りをすると恐れられ、其の霊を慰める為に造られた供養の塚だという。
今日(こんにち)の世代になっても薩摩隼人は、熊襲、隼人族の古代より脈々とした闘争的血脈が流れているといえる。
もっとも、実際の西郷隆盛は一般に伝えられているイメージのような人物ではなかったという説もあるし、「いまどき薩摩隼人なんて・・・」という声がないこともない。
しかし、特に男の場合(薩摩隼人・薩摩人)は、最近多くなった都会的な軟弱派とは一線を画しているのは事実であるという。
薩摩・藩島津氏の旗印は、「丸に十の字」として有名であるが、この旗印や紋は、隼人「隼」の字から、上の「隹」を取って「十」を表したと言う説もある 。
蛇足ながら、現在の「日の丸」の旗が正式に採用されたのは、薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)によるものと言われる。
斉彬が船舶の建造申請を行ったときに日本船の総印として、白い帆に太陽を象徴した白地に朱色の日の丸の使用を求め、日の丸を日本全体の総印とするように進言し、これにより幕府もその必要性を認めて承認したという。
斉彬は我が郷土の日向(ひむか)の国、日出ずる国を想定して決めたものと思われる。
次回は、「桜島」
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日本周遊紀行(145)薩摩 「島津氏」 ,
以外だった、島津氏と堺商人の関係・・ 、
400年前天下分け目といわれた「関が原」に、東西合わせて17万余の大軍が対峙した。
そして、慶長5年9月(西暦1600年10月)、遂に戦線の発端が開かれた。
諸端の開戦からしばらくは西軍有利の状態が続いたが、突然の小早川秀秋の東軍・徳川方への寝返りによって形勢が一気に逆転し東軍が優勢になった。
西軍は一斉に退却を始め、その西軍の中に薩摩軍の島津義弘がいた。
屈強で知られる島津軍であるが未だ一発の銃砲も打たなかった、それは国元が「中立」を決め込んで援軍をよこさなかったためともいわれる。
西軍総勢が退却する中、凡そ1000人の島津軍は突然、前へと突撃を始めた。 敵将・徳川家康の本陣を突くためにである。
東軍本陣がたじろぐスキに、島津軍はそのまま伊勢路から甲賀へと退却する。
東軍も激しく追撃して殿軍(しんがりぐん)との戦いとなり、滋賀の信楽(しがらき)から奈良を抜け堺に辿り着いた時は、主従は80人に減っていたという。
堺衆は義弘を匿い、その間に船や食料を調達して島津軍はようやく薩摩へ脱出した。
帰国後、薩摩は軍備を強化し徳川方の来襲に備えたが、家康は攻めてこなかった。
それは薩摩の巧妙な外交もあったが、家康は島津軍を極度に恐れたからであるという。
退却の最中でも1000人が80人になるまで奮戦し、その強固な軍武魂は既に天下に知れ渡り、家康はそれを恐れたともいわれる。
戦後の始末において・・、
西軍の首謀者や各武将は捕縛されて斬首されたり、領地の召し上げや減封が行はれたが、島津氏は西軍の中で例外的に薩摩、大隈、日向の領地をほぼ現状維持で安堵されたという。
その後の薩摩は2百数十年に亘り藩を改革し、近代化し、国力を蓄えた。
それが、明治維新の原動力となったことは言うまでもなく、維新という日本史上最大の改革の源流は関が原そして「堺」に有ったとも云われる。
その堺と薩摩の繋がりは鎌倉期から有ったとされる。
通説では源頼朝の御落胤とされる薩摩家初代の忠久は、大阪の住吉に生まれているという。
堺の商人はこの住吉大社に参詣して忠久とは浅からぬ因縁があり、忠久の二代目・忠時は住吉地域の地頭を勤めたことも記されているという。
又、室町期、堺の商人達は紀伊水道から土佐沖、南九州をして琉球にまで交易を発展させていた。 室町幕府は琉球貿易の管理を島津氏に任せたため、堺と薩摩は強く結びついていたとも言われる。
現在の堺衆も「明治維新は薩摩をして、堺からはじまったんどっせ・・」と言うそうである。
そして、遂に江戸末期、文明開花の為に薩摩隼人は動くのである。
その薩摩・鹿児島で最も尊敬されている人物といえば、やはり「西郷隆盛」であろう。
土佐の坂本竜馬もそうだが、特に、地元鹿児島では西郷隆盛の悪口を言うのはタブーとされ、西郷といえば質実剛健で骨太、頑固で気性の荒い豪傑で、理屈を言わず即実行に移す行動派というイメージがある。
薩摩隼人は薩摩人の気質であり西郷隆盛そのものでもあるといい、男は「薩摩隼人」、女は「薩摩おごじょ」と称される。
古代より紛争が絶えなかった薩摩地方で、特にこの隼人、国分はその頃の城跡や隼人塚をはじめ、多くの古墳や遺跡が残っていると云われる。
そんな中、隼人町の「隼人塚」は隼人の多くの亡霊が人民に祟りをすると恐れられ、其の霊を慰める為に造られた供養の塚だという。
今日(こんにち)の世代になっても薩摩隼人は、熊襲、隼人族の古代より脈々とした闘争的血脈が流れているといえる。
もっとも、実際の西郷隆盛は一般に伝えられているイメージのような人物ではなかったという説もあるし、「いまどき薩摩隼人なんて・・・」という声がないこともない。
しかし、特に男の場合(薩摩隼人・薩摩人)は、最近多くなった都会的な軟弱派とは一線を画しているのは事実であるという。
薩摩・藩島津氏の旗印は、「丸に十の字」として有名であるが、この旗印や紋は、隼人「隼」の字から、上の「隹」を取って「十」を表したと言う説もある 。
蛇足ながら、現在の「日の丸」の旗が正式に採用されたのは、薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)によるものと言われる。
斉彬が船舶の建造申請を行ったときに日本船の総印として、白い帆に太陽を象徴した白地に朱色の日の丸の使用を求め、日の丸を日本全体の総印とするように進言し、これにより幕府もその必要性を認めて承認したという。
斉彬は我が郷土の日向(ひむか)の国、日出ずる国を想定して決めたものと思われる。
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2011年6月29日水曜日
日本周遊紀行(144)隼人 「薩摩隼人」
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日本周遊紀行(144)隼人 「薩摩隼人」 ,
薩摩地方は、中央政府(権力者)との抗争が古代より近代に至るまで変わらない・・!
西暦645年の「大化の改新」の後、中央政府は土地私有を禁じ、地方豪族の所有する土地や人を開放して中央政府の管理下に置くとした。
所謂、「公地公民制度・班田収授制度」というものを採用する。
班田収授法(田畑への租税)とは土地制度と税の仕組みのことで、日本の律令制の根幹制度の一つであり、概ね、租税として田から採れた稲の約3%を収めることとした。
大和朝廷と隼人族との戦いは、蝦夷のアイヌの抗争と同様、西南端においての稲作奨励の戦いでもあり、制度を設けて稲作による米の収税を行うのが主目的であった。
又、北方民族と南方系の人種との争いでもあった。
結果的に、大和朝廷は隼人族を滅ぼすのに数十年の時間が掛かることになるが、降伏条件として、交代で一定人数が中央政府の雑役に服す義務を課せられ、大和朝廷の門衛や行列の供人、兵士といった役務に就いている。
又、土地制度による納税義務を果たせない農民たちは中央政府の衛士(兵隊)など、労働力で補うようになっていた。
こうして、隼人族は大和民族と次第に“同化”してゆくことになるのである。
この時期、朝廷等に仕えることになったのをきっかけに多数の隼人族(大隈隼人)が近畿地方に移住していたという。
これらの隼人族を「畿内隼人」と称し、丹波、近江、大和の国に移住したといわれ、特に、大隈隼人の移住の地は山城国綴喜郡大住郷(京都府京田辺市大住)で、大隈隼人が移住し荘の名を付けて「大住」としている。
然るに現在、北海道でアイヌ民族は存在するが、隼人民族は存在しないという。
(元々、隼人族と大和族は同一民族という見方もあるが・・、)
因みに、班田収授制度はやがて鹿児島県だけでなく九州全体に広がり、当時の名残の院や別府といった地名が多く見られるようになる。
又、班田収授制度に拘束されない開墾田はやがて荘園の発達へと繋がっていくことになる。
律令国家である朝廷を中心とする安定した平安期も、中期には東国では「平将門の乱」が起こり、将門謀反の報はただちに京都にもたらされる。
また同時期に西国では「藤原純友の乱」の報告もあり、中央政府軍対地方反乱軍の武士団間の抗争が起こって朝廷側は驚愕する。
この頃より律令制度の崩壊が起こりはじめ、武士団が台頭するようになり、中でも平忠常の乱が起こって源頼信が平定するという、源平両氏の兵(つわもの)が歴史の表舞台に現れることになる。
その後、平安末期には保元や平治の乱が起こり、源氏(源義朝)や平家(平清盛)の武士団が台頭し、貴族中心の社会が目に見えて衰退してゆくことになる。
九州・薩摩地方でも平安末期の源平の争いでは平氏側の薩摩は苦杯をなめ、新興・源頼朝の「鎌倉」の勢力下に入る。
この時、日向・薩摩地方は、鎌倉より派遣された「島津氏」によって支配されることになる。(詳細は後報)
島津氏は、室町期は中央の南北朝の動乱に巻き込まれ、戦国期は豊臣秀吉軍と地元で直接対峙するが、講和して領土は安堵されている。
しかし、関が原では西軍に組して徳川家康と対立し、敗戦の憂き目を見るが、その後、徳川家康と硬軟とりまぜての交渉で薩摩藩・本領(77万石)は辛うじて安堵される。
関が原での島津兵の剛強ぶりを知る家康は無理押しして内政が混乱することを恐れ、島津とは妥協したとされる。
比較して・・、毛利藩の10州から2州への減封に比べると島津の本領安堵は大成功であり、それにしても、凄まじい島津の戦いぶりに家康は驚くばかりであったという。
しかしこの為、江戸期においては勃興する江戸・徳川政権下、薩摩は忍従の時代を強いられるのである。
しかし「薩摩隼人」は、この忍従の時代を経て江戸末期には、遂に日本国の中枢に躍り出ることになる・・!!。
薩摩地方は、こうした中央政府(権力者)との抗争が古代より近代に至るまで変わることはなかったのである。
薩摩地方、薩摩隼人そして島津氏については、この後、おいおいと述べます・・!。
次回は、「薩摩・島津氏」
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「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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日本周遊紀行(144)隼人 「薩摩隼人」 ,
薩摩地方は、中央政府(権力者)との抗争が古代より近代に至るまで変わらない・・!
西暦645年の「大化の改新」の後、中央政府は土地私有を禁じ、地方豪族の所有する土地や人を開放して中央政府の管理下に置くとした。
所謂、「公地公民制度・班田収授制度」というものを採用する。
班田収授法(田畑への租税)とは土地制度と税の仕組みのことで、日本の律令制の根幹制度の一つであり、概ね、租税として田から採れた稲の約3%を収めることとした。
大和朝廷と隼人族との戦いは、蝦夷のアイヌの抗争と同様、西南端においての稲作奨励の戦いでもあり、制度を設けて稲作による米の収税を行うのが主目的であった。
又、北方民族と南方系の人種との争いでもあった。
結果的に、大和朝廷は隼人族を滅ぼすのに数十年の時間が掛かることになるが、降伏条件として、交代で一定人数が中央政府の雑役に服す義務を課せられ、大和朝廷の門衛や行列の供人、兵士といった役務に就いている。
又、土地制度による納税義務を果たせない農民たちは中央政府の衛士(兵隊)など、労働力で補うようになっていた。
こうして、隼人族は大和民族と次第に“同化”してゆくことになるのである。
この時期、朝廷等に仕えることになったのをきっかけに多数の隼人族(大隈隼人)が近畿地方に移住していたという。
これらの隼人族を「畿内隼人」と称し、丹波、近江、大和の国に移住したといわれ、特に、大隈隼人の移住の地は山城国綴喜郡大住郷(京都府京田辺市大住)で、大隈隼人が移住し荘の名を付けて「大住」としている。
然るに現在、北海道でアイヌ民族は存在するが、隼人民族は存在しないという。
(元々、隼人族と大和族は同一民族という見方もあるが・・、)
因みに、班田収授制度はやがて鹿児島県だけでなく九州全体に広がり、当時の名残の院や別府といった地名が多く見られるようになる。
又、班田収授制度に拘束されない開墾田はやがて荘園の発達へと繋がっていくことになる。
律令国家である朝廷を中心とする安定した平安期も、中期には東国では「平将門の乱」が起こり、将門謀反の報はただちに京都にもたらされる。
また同時期に西国では「藤原純友の乱」の報告もあり、中央政府軍対地方反乱軍の武士団間の抗争が起こって朝廷側は驚愕する。
この頃より律令制度の崩壊が起こりはじめ、武士団が台頭するようになり、中でも平忠常の乱が起こって源頼信が平定するという、源平両氏の兵(つわもの)が歴史の表舞台に現れることになる。
その後、平安末期には保元や平治の乱が起こり、源氏(源義朝)や平家(平清盛)の武士団が台頭し、貴族中心の社会が目に見えて衰退してゆくことになる。
九州・薩摩地方でも平安末期の源平の争いでは平氏側の薩摩は苦杯をなめ、新興・源頼朝の「鎌倉」の勢力下に入る。
この時、日向・薩摩地方は、鎌倉より派遣された「島津氏」によって支配されることになる。(詳細は後報)
島津氏は、室町期は中央の南北朝の動乱に巻き込まれ、戦国期は豊臣秀吉軍と地元で直接対峙するが、講和して領土は安堵されている。
しかし、関が原では西軍に組して徳川家康と対立し、敗戦の憂き目を見るが、その後、徳川家康と硬軟とりまぜての交渉で薩摩藩・本領(77万石)は辛うじて安堵される。
関が原での島津兵の剛強ぶりを知る家康は無理押しして内政が混乱することを恐れ、島津とは妥協したとされる。
比較して・・、毛利藩の10州から2州への減封に比べると島津の本領安堵は大成功であり、それにしても、凄まじい島津の戦いぶりに家康は驚くばかりであったという。
しかしこの為、江戸期においては勃興する江戸・徳川政権下、薩摩は忍従の時代を強いられるのである。
しかし「薩摩隼人」は、この忍従の時代を経て江戸末期には、遂に日本国の中枢に躍り出ることになる・・!!。
薩摩地方は、こうした中央政府(権力者)との抗争が古代より近代に至るまで変わることはなかったのである。
薩摩地方、薩摩隼人そして島津氏については、この後、おいおいと述べます・・!。
次回は、「薩摩・島津氏」
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