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浜頓別・クッチャロ湖
日本周遊紀行(54) 「オホーツク海道」
流氷海道「オホーツク」を往く・・、
ポロ沼と猿払川付近は既に浅黄色に変色した草紅葉(くさもみじ)が浮島のごとく偏在して、絵の様な美観が漂っている。
そして、間もなく「浜頓別」へ達したようである。
浜頓別・クッチャロ湖の白鳥(資料)
浜頓別・クッチャロ湖の白鳥公園、白鳥は未だ来ていないが、10月半ば以降シベリヤより飛来するという。
正式名は「コハクチョウ」、その数一万数千羽、勿論日本最大の飛来地で「ラムサール条約」にも指定されている。
一部はここで越冬するが大部分は本州を南下し山形・新潟・宮城方面へ飛んでいってしまう、ここは中休みの地である。 三月の暖気、ここを中継してオホーツクをこえて、元のシベリヤへ帰って行き繁殖する。
「ラムサール条約」とは・・、
イランの首都テヘランの北、カスピ海の近くに「ラムサール」という町がある。
1971年に水鳥と湿地に関する国際会議が開かれ、「特に水鳥の生息地として国際的に大切な湿地に関する条約」が取り決められた。 この条約は、この町の名前をとって「ラムサール条約」と呼ばれる。
湿地には泥炭地、湖沼、河川、海や入り江、干潟、マングローブ湿地や人工的なダムなどがあり、すなわち水の在るところはみんな湿地であると定義している。
「ぴかぴかの靴が泥で汚れてしまうために立ち止待ってしまう所、そこから先こそが湿地である」、テッド・ホリス博士(イギリスの生態学者/ラムサール条約の発展に貢献)は言っている。
湿地には微生物をはじめ魚や貝、昆虫、鳥、獣、そのにいろいろな植物が育ち繁殖している、このように大切な湿地を世界の国々が守って、特に国を越えて飛んでい水鳥たちを中心にして、湿地の環境を守っていこうという国際条約である。
1996年6月には93カ国837カ所が、2000年2月には、118カ国1016カ所、2001年2月には、123カ国1060カ所が登録湿地となっている。
日本は1980年にラムサール条約に入り、釧路湿原が最初の登録湿地になり、次いで1985年に伊豆沼・内沼、1989年にクッチャロ湖、1991年にウトナイ湖などが登録湿地になった。
今は、人っ子一人いない寂々とした湖岸に、木製の桟橋が沖中へ延びている。
桟橋の中ほどで、屈んで(かがんで)水中を覗くと藻草が微かに揺れていて、手の平大のモズク蟹・・?が一匹這っていた。
水草の茎を差し出すと”両はさみ”で挟んだ。 ソーッと引き上げるとそのまま付いてくる、水面を出たところで片手でヒョイと摘んで桟橋へ載せた。 蟹は気が付いて慌てふためく。
暫く(といっても、ホンの1分少々だよ、)遊んで離してやった。
『北の果て 我一人来て クッチャロの
しばしの休み 蟹とたわむる』 小生
網走から美幌峠を越えた処に「屈斜路湖」がある。
韓字読みでクッシャロと呼んでいるが、アイヌ語源の意味ではこちらと同名の「クッチャロ」が元々らしい。
どちらも同じ意味のアイヌ語から名前がつけられ、クッチャロ湖の語源は、「トー・クッ・チャロ」と言われ、日本語では「沼から水の流れ出る口」、「沼ののどもと」、「沼の出口」という意味になる。
又、この辺り一帯は明治中期には一大金の産地として名を上げた。
頓別川の上流部、ウソタン川では今でも砂金探しの観光地になっていて、地図を見ると、砂金山、金ヶ丘、ウソタン砂金地、金山神社等、金にまつわる名称が多く残っている。
明治33年に浜頓別を流れるウソタン川で発見された重さ768グラムの金塊が、日本最大のゴールドラッシュの始まりであったといわれる。
ところで、採取高というのは常に極秘とされているために正確な生産高を把握することが難しいといわれているが、地元の『殖民広報』によると砂金採取量は、明治32年をピークに年々減少していると記しながらも、明治32年176貫(660キロ)、33年120貫(450キロ)、34年107貫(401.25キロ)、35年52貫(195キロ)、36年32貫(120キロ)と記録されている。
又、『浜頓別町史』は大正7年までの産出高累計550貫(2650キロ)と記している。
現在のように機械力が駆使されていない時代に2トンあまりの採金は、驚異的な数字であり、ウソタン砂金地がいかに豊富な埋蔵量であったかを物語っている。
現在でも、ウソタン川近郊には「砂金採掘公園」なるものも在り、 500円の入場を払って砂金掘り体験をすることができる。
一日にとれる砂金の量は微量ながら、埋もれている夢とロマンの大きさはゴールドラッシュ時代の昔と変わりないという。
毎年8月上旬には「ウソタン砂金フェスティバル」が開催され、又、周辺には砂金採掘全盛時代を忍ばせる石垣や金鉱跡などの遺跡も残っている。
さて、「オホーツク文化」についてであるが・・、
浜頓別のクッチャロ湖畔には、「オホーツク人・文化」の遺跡が多く出土しているという。
更に、枝幸町(えさしちょう)、興部町(おこっぺちょう)界隈も遺跡が多く発掘されている。
尤も、当地域に限らずオオホーツク海の沿岸地域は古代遺構が数多く発掘されていて、この地は克って「オホーツク文化」が栄えた地なのである。
北海道特有の擦文文化(「手塩」の項で若干述べた)とアイヌ文化の中間に位置し、北海道の北部と東部辺りに7世紀から13世紀にかけてオホーツク海沿岸を中心に栄えた文化といわれる。
年代は、奈良時代から鎌倉時代の始め頃にあたるとされ、オホーツク文化の担い手をオホーツク人とも呼んでいる。
そして、この文化は「アザラシ」と深い関係があるといわれる。
アザラシとオホーツク文化・・、
当時の北方地域の人びとはアザラシの皮や腸を衣服にし、油を食料や明かりにして、肉を食料に骨を釣針やモリ先などにと無駄なく利用している。
オホーツク文化より後のアイヌの人びとも同様な暮らしをし、アザラシや魚の油を、ほたて貝に入れて明かりとしたりした。
つまり、アザラシは当時の人々にとって最も生活に身近な動物だったのである。
オホーツク人は、ロシアや中国の国境近くのアムール川(黒竜江)の海域をサハリンから南下したと考えられ、彼らは先ず北海道の北部で生活し、しだいに東へ南へと範囲を広げていった。
その痕跡は東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及んでいるが、その後のオホーツク文化はアイヌ文化に取り入れられたともいわれる。
人々は、アザラシ等の海獣狩猟や漁労を中心とする生活を送り、彼らの遺跡から出土した生活痕からは多くの釣針やモリ先、アザラシやトドや魚などの骨が出て来ている。
これらの遺跡は海岸そばに限られ、内陸には存在しないという。
このことはオホーツク人の生活は海に依存して暮らしており、北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣狩猟に重点があったともいわれる。
流氷の影響を受ける道東が冬の漁業に適していなかったためとも考えられている。
遺物に描かれた絵や模型から、オホーツク人が舟を操り、捕鯨を行っていたらしい。
又、海獣の他に既に豚と犬を飼い、どちらも食用にしていたらしい。
ただ、道東では豚飼育は低調だったが、熊(ヒグマ)をはじめとして様々な動物を狩ったとされる。 集落は海岸のそばに置かれ、住居は竪穴式で何十人も収容できる大型の住居や、一つの核家族で暮らしたと思われる小型の住居もあり、大規模住居は中心集落で見られるという。
『古代人が生活し食べていくのに、オホーツク沿岸ほど良いところはない』 といわれる、おそらく世界一だろうと。
流氷と共にやって来るアザラシやオットセイなどの海獣はシベリヤやサハリンと酷似していて、流氷は無味漂白のように思えるが、実際は「食の倉庫」であった。
オホーツク海の魚貝類をはじめサケ・マスなどの回遊魚は、「食」のほうが川を上って向こうからやって来るのである。
又、気候・季節的にみても面白い・・??、
オホーツク気団という「寒気団」がある、これが発達して東風(コチ)が吹くと稲作がダメージを受ける。 「やませ」である。
だが同時に、この北の地域は豊漁になる、大寒流がオホーツクから千島列島を抜けて太平洋に流れ込む、一部は日本海へ向かう。 此れが「親潮」である。
それにしても「親潮」という名前がいい、北の漁業者が感謝をこめて付けた名だそうで、この海流は栄養に富みサケ・カニ・タラ・ホタテ・ホッキ等魚貝や海藻を育てる。
要するに、オホーツク海は稲作社会にとっては恐ろしい海だが、漁民にとっては「親のような海」なのである。
この現象は、今も変わることはない。
次回は、流氷の町・紋別の意外・・!
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《スキー履歴》・・・
「スキー履歴」
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2010年1月30日土曜日
2010年1月29日金曜日
日本周遊紀行(53)猿払 「或る海難事故」
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【北海道・オホーツク海道】稚内⇒⇒⇒⇒根室
日本周遊紀行(53)猿払 「或る海難事故」
「宗谷岬」よりは、いよいよオホーツク海沿岸を南下することになる。
気のせいか、オホーツク沿岸は明るく輝いているようにも感じられる。
猿払村へ入っても、宗谷丘陵の草原状の伸びやかな風景が凹凸を繰り返しながら、延々と続いている。
気持ちも周りの風景に馴染んで何となく晴れ晴れとして、小気味良くアクセルを踏んでいる。
牧場の牛もノンビリ草を食んでいて、いかにも牧歌的な悠々たる世界である。
海岸の公園(道の駅)に来た。
猿払公園にはホテル、サイクリングの拠点、ゴルフやキャンプ場等の施設が整っている道の駅の公園である。
この中に目を引いたのが、海岸が一望に見通せる所に「インディギルカ号遭難慰霊碑」というのがあった。
その昔大きな海難事故があったようで、そのための慰霊碑らしい。
その「インディギルカ号遭難」とは・・?、
珍しい形のモニュメントと石碑が据えてある。
そして、その石碑には日本語とロシア語で・・、
『 昭和14年12月12日 ソ連船「インディギルカ号」とそれ
に乗合せていた人々に最後の時がやってきた
「イ」号は 秋の漁場を切上げて帰る漁夫及びその家族106
4名を乗せて カムチャッカからウラジオストークに向って航海
中 折からの暴風雪に押し流され 乗務員たちの必死の努力も空
しく 進路を失い 12月12日未明浜鬼志別沖1500メート
ルのトド岩に座礁転覆 700余名の犠牲者を出す海難史上稀有
の惨事となった
身をさくような厳寒の海上で激浪と斗い 肉身の名を叫び続け
ながら力尽きて死んで行った人々のことと その救助に全力を注
いだ先人たちの美しい心情は 人類のある限り忘れてはならない
この碑は 北海道はもとより国内の数多くの人々 並びにソ連
側の海員 漁夫の善意に基く浄財によって 「イ」号と運命を共
にした人々の冥福を祈るとともに 国際親善ならびに海難防止の
願いをこめて建立されたものであり 台座の石はソビエト社会主
義共和国連邦から寄贈された花崗岩である』
と記してある。
昭和14年12月中、寒冷吹き荒ぶ(すさぶ)オホーツク海に、一艘の大型輸送船が咆哮していた・・!、ソ連船インディギルカ号だった。
カムチャッカ半島より漁夫等千数百人を乗せてウラジオストックへ向かう途中であり、彼らは鮭・鱒等の魚場の作業を終えて一旦ウラジオへ戻る途中であった。
冬のオホーツク海は気候が変わり易く、尚且つこの時期、低気圧が日本海に有って勢力を増しながら東北に進みつつあり、この時の天気状況は北海道北部沿岸に暴風警報を出すほどであったという。
同船はそれを聞かずか、或いは知らずに出航してしまったらしい。
本来、ウラジオに向かうには宗谷岬の北方より西に進路を執らねばならぬのに、この時の時化(しけ)と急潮流で猿払の沖まで流されて来てしまったらしい。
そして「トド岩」という岩礁に乗り上げ、底を引き裂かれて横転してしまった。
乗組員の内の数人が猿払の部落へ救援を求め、村人は小船を操って救助に当たり、同時に周辺各地域も大騒ぎとなり救助救援に大童(おおわらわ)だったという。
しかし、その頃はすでに水死体が岸に打上げられ、朝になると無数の死体がときには二重になって、浜鬼志別、知来別、浜猿払の海岸30kmにわたって打上げられていたという。
遭難者は700人を超えた。
昭和14年(1939年)とは、どのような時代だったか・・?
昭和14年(小生の誕生年、満州国で誕生した年でもある)というと戦争の影が忍び寄っていた時期でもあり、その顕著なものが日本とソ連との間に勃発した「ノモンハン事件」というのがあり、所謂、日本とソ連は険悪な対立状態の間柄であった。
しかし、そんな最中でも村人の周辺各層の人は、人道的立場で命を懸けて事に当たったという。
この遭難碑と同様、美談は今でも村人の間に伝わり残っているという。
序(ついで)ながら「ノモンハン事件」とは・・、
ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国(中国東北部・日本統治国)とモンゴルの間の国境線をめぐって発生した軍事衝突である。
初め、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の戦渦であったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の様相を決したという。
当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境の紛争に過ぎないとしたが、モンゴル国自体は、この衝突は「戦争」であると認識していたようである。
以上の認識の相違を反映して、この紛争については日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件, 出来事」と呼び、モンゴル国のみが「ハルハ河戦争」(ハルヒン・ゴル戦争)と称している。
戦役は、第一次ノモンハン事件(5月11日~5月31日)、ノモンハン第二次事件(7月1日~6日)と二度に亘る激しい戦闘の中、日本軍は多数の死傷者を出し壊滅的な打撃を受けた。
その後、終戦締結がなされ、新たに国境線を画したが、日本軍の損失は戦死7720人、戦傷、戦病者合わせて計1万8979人に上った。
これに対して、ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、近年になって(1990年代)ソ連側から資料が公開され、ソ軍の戦死者・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになった。
余談だが・・、
以降、日本とソ連の関係は稚内の項でも述べた通りで周知であるが、現在も北方領土問題等の冷戦状態(・・??)が続いているようである。
つまり、猿払村の人道的配慮は生かせれてはいなかったのである。
後述するが、遥か以前にも同様の遭難事件が起きている。
1890年(明治23年)に和歌山県串本沖で、トルコの「エルトゥールル号遭難事件」というのが発生している。 この時同様に地元・「樫野埼」住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係が今現在でも続いている。
このことは「西日本編・串本」の項で述べるとして、両遭難事件の因果は異なるであろうが、両国の現在に到るまでの対応の違いには注目しないわけにはいかない・・!!。
「猿払村」は日本最北の村、昔は相当な貧村に喘いでいたようだが、いまは日本一のホタテ漁を筆頭に北方漁業、広大な丘陵牧草帯を持つ酪農、そして湖沼、原生花園の大自然に恵まれた観光資源など一体となって、大きく発展しているという。
次回は、流氷海道「オホーツク」
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日本周遊紀行(53)猿払 「或る海難事故」
「宗谷岬」よりは、いよいよオホーツク海沿岸を南下することになる。
気のせいか、オホーツク沿岸は明るく輝いているようにも感じられる。
猿払村へ入っても、宗谷丘陵の草原状の伸びやかな風景が凹凸を繰り返しながら、延々と続いている。
気持ちも周りの風景に馴染んで何となく晴れ晴れとして、小気味良くアクセルを踏んでいる。
牧場の牛もノンビリ草を食んでいて、いかにも牧歌的な悠々たる世界である。
海岸の公園(道の駅)に来た。
猿払公園にはホテル、サイクリングの拠点、ゴルフやキャンプ場等の施設が整っている道の駅の公園である。
この中に目を引いたのが、海岸が一望に見通せる所に「インディギルカ号遭難慰霊碑」というのがあった。
その昔大きな海難事故があったようで、そのための慰霊碑らしい。
その「インディギルカ号遭難」とは・・?、
珍しい形のモニュメントと石碑が据えてある。
そして、その石碑には日本語とロシア語で・・、
『 昭和14年12月12日 ソ連船「インディギルカ号」とそれ
に乗合せていた人々に最後の時がやってきた
「イ」号は 秋の漁場を切上げて帰る漁夫及びその家族106
4名を乗せて カムチャッカからウラジオストークに向って航海
中 折からの暴風雪に押し流され 乗務員たちの必死の努力も空
しく 進路を失い 12月12日未明浜鬼志別沖1500メート
ルのトド岩に座礁転覆 700余名の犠牲者を出す海難史上稀有
の惨事となった
身をさくような厳寒の海上で激浪と斗い 肉身の名を叫び続け
ながら力尽きて死んで行った人々のことと その救助に全力を注
いだ先人たちの美しい心情は 人類のある限り忘れてはならない
この碑は 北海道はもとより国内の数多くの人々 並びにソ連
側の海員 漁夫の善意に基く浄財によって 「イ」号と運命を共
にした人々の冥福を祈るとともに 国際親善ならびに海難防止の
願いをこめて建立されたものであり 台座の石はソビエト社会主
義共和国連邦から寄贈された花崗岩である』
と記してある。
昭和14年12月中、寒冷吹き荒ぶ(すさぶ)オホーツク海に、一艘の大型輸送船が咆哮していた・・!、ソ連船インディギルカ号だった。
カムチャッカ半島より漁夫等千数百人を乗せてウラジオストックへ向かう途中であり、彼らは鮭・鱒等の魚場の作業を終えて一旦ウラジオへ戻る途中であった。
冬のオホーツク海は気候が変わり易く、尚且つこの時期、低気圧が日本海に有って勢力を増しながら東北に進みつつあり、この時の天気状況は北海道北部沿岸に暴風警報を出すほどであったという。
同船はそれを聞かずか、或いは知らずに出航してしまったらしい。
本来、ウラジオに向かうには宗谷岬の北方より西に進路を執らねばならぬのに、この時の時化(しけ)と急潮流で猿払の沖まで流されて来てしまったらしい。
そして「トド岩」という岩礁に乗り上げ、底を引き裂かれて横転してしまった。
乗組員の内の数人が猿払の部落へ救援を求め、村人は小船を操って救助に当たり、同時に周辺各地域も大騒ぎとなり救助救援に大童(おおわらわ)だったという。
しかし、その頃はすでに水死体が岸に打上げられ、朝になると無数の死体がときには二重になって、浜鬼志別、知来別、浜猿払の海岸30kmにわたって打上げられていたという。
遭難者は700人を超えた。
昭和14年(1939年)とは、どのような時代だったか・・?
昭和14年(小生の誕生年、満州国で誕生した年でもある)というと戦争の影が忍び寄っていた時期でもあり、その顕著なものが日本とソ連との間に勃発した「ノモンハン事件」というのがあり、所謂、日本とソ連は険悪な対立状態の間柄であった。
しかし、そんな最中でも村人の周辺各層の人は、人道的立場で命を懸けて事に当たったという。
この遭難碑と同様、美談は今でも村人の間に伝わり残っているという。
序(ついで)ながら「ノモンハン事件」とは・・、
ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国(中国東北部・日本統治国)とモンゴルの間の国境線をめぐって発生した軍事衝突である。
初め、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の戦渦であったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の様相を決したという。
当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境の紛争に過ぎないとしたが、モンゴル国自体は、この衝突は「戦争」であると認識していたようである。
以上の認識の相違を反映して、この紛争については日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件, 出来事」と呼び、モンゴル国のみが「ハルハ河戦争」(ハルヒン・ゴル戦争)と称している。
戦役は、第一次ノモンハン事件(5月11日~5月31日)、ノモンハン第二次事件(7月1日~6日)と二度に亘る激しい戦闘の中、日本軍は多数の死傷者を出し壊滅的な打撃を受けた。
その後、終戦締結がなされ、新たに国境線を画したが、日本軍の損失は戦死7720人、戦傷、戦病者合わせて計1万8979人に上った。
これに対して、ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、近年になって(1990年代)ソ連側から資料が公開され、ソ軍の戦死者・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになった。
余談だが・・、
以降、日本とソ連の関係は稚内の項でも述べた通りで周知であるが、現在も北方領土問題等の冷戦状態(・・??)が続いているようである。
つまり、猿払村の人道的配慮は生かせれてはいなかったのである。
後述するが、遥か以前にも同様の遭難事件が起きている。
1890年(明治23年)に和歌山県串本沖で、トルコの「エルトゥールル号遭難事件」というのが発生している。 この時同様に地元・「樫野埼」住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係が今現在でも続いている。
このことは「西日本編・串本」の項で述べるとして、両遭難事件の因果は異なるであろうが、両国の現在に到るまでの対応の違いには注目しないわけにはいかない・・!!。
「猿払村」は日本最北の村、昔は相当な貧村に喘いでいたようだが、いまは日本一のホタテ漁を筆頭に北方漁業、広大な丘陵牧草帯を持つ酪農、そして湖沼、原生花園の大自然に恵まれた観光資源など一体となって、大きく発展しているという。
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2010年1月28日木曜日
日本周遊;温泉と観光(16) 「宗谷岬」
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写真:本土最北の地・「宗谷岬」のシンボルマーク(小生が訪れた時刻を指している)
日本周遊;温泉と観光(16) 「宗谷岬」
遂に、北の果てへ来た、そして稚内から宗谷岬に向かう。
途中、小さな「声間岬」の南に「大沼」がある。
北海道の南端、函館郊外にも「大沼」があるが、こちらは最北端の大沼である。
周辺は湿原地帯、秋になると、越冬地への中継点として、また春になるとシベリアへと帰る休息地として約5,000羽の白鳥(コハクチョウ)が飛来する。
「白鳥おじさん」こと、吉田敬直氏による個人的な給餌活動によりコハクチョウが呼び寄せられ、日本でも有数の飛来地になったという。
さらにはハクチョウのほかマガン、アオサギ、オオワシなど通年100種類以上の野鳥が観察でき、時期になると大沼はどこを見ても白鳥だらけ、野鳥だらけとなり、周辺にはミズバショウの群落も見られるという。
国道のすぐ横に「稚内空港」が広大に広がる。
こちらも日本最北のジェット化空港として、利尻及び礼文の離島生活路線、あるいは道北と札幌を結ぶ路線の基地として地域にとって重要な役割を果たしている。
丘陵高所には、お馴染みとなった風力発電の風車が並ぶ。
最北の地は、風が強い町なのである。 冬は雪が降りだすと即、吹雪なってしまい、夏も風のせいで暑く感じないと。
調べてみると・・、この辺りは北海道の中で最も風の強い地方らしく、1年のうち毎秒10m以上の強い風が吹く日は何と130日にのぼるという。
宗谷の地は、低層山脈のなだらかな丘陵性の地形で、ほかには遮るものが何もないことから強風が直接吹いてくる。
その風を利用して稚内市はデンマーク製の風力発電を導入しているという。
1基当たり1億4000万もするらしく、現在、17機稼動中という、金額は・・??。 この風力発電が、今問題になっている環境問題の一つの解決策になればと思うのだが・・?。
海面より少々高目を、「宗谷岬」を目指して進む・・、
岬先端に、鋭三角のモニュメントが天を指していて、見字盤には「日本最北端に地」と記されている。
三角錐のデザインは北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしているという。
駐車場横の売店の出入り口も三角屋根を模ってあり、その正面には「宗谷岬・時刻13時25分・日本最北端・気温21.0℃・北緯45度31分14秒・日付平成16年9月27日」と記してあった。
岬には「間宮林蔵」の立像があり、そこから樺太(現実はサハリン)は微かに遠望できた。距離にして43kmは決して遠くない距離であるが、しかし今は遠い・・?。
その間宮林蔵が、樺太が大陸でなく島である事を発見するのは1800年初の事であった。
江戸後期、ロシア軍艦が蝦夷北方にしばしば現れるようになり、合わせて事件を頻繁に起こすようになる。 その為幕府は、北方警備のため宗谷に守備要員を派遣し、その中に松田伝十郎がいた。
更に幕府は、伝十郎と間宮林蔵に樺太の調査を命じている。又、当時1800年前後にヨーロッパで「サハリンが島であるのか、半島であるのか」の論争が起こっていて、それらに決着を図るべく幕府天文方は松田と間宮をサハリンに派遣し、探検させたとも云われる。
林蔵は幼少より数理にあかるく、日本地図の親・「伊能忠敬」の門人になる。
忠敬は上総(かずさ・千葉県)、間宮林蔵は下総(しもふさ・茨城県)の出身でいわばお隣同士であった。
忠敬は、林蔵のことを「非常の人」と世間に告げていた。
林蔵は、その後北方・千島等を測量するため、伝十郎とともに小船でサハリンの最南端シラヌシに上陸する。
両人は東西に分かれて、林蔵は東より北上し、海上あるいは陸上より調査を行なっている。 林蔵は一旦帰国するが、直ぐまた二度目の調査に出かけている。
1808年、西海岸を探検した松田は、海峡最狭部に達し、ここが海峡であることを確認し、間宮も松田に合流して、同様に海峡を確認した。
併せて翌1809年、間宮は、現地人の船で海峡を越えて大陸に渡り、この地域の詳細な調査を行いながら、そのまま大陸に渡り黒竜江を上って満州(中国東北部)にまで達している。
日本では、大陸と樺太の海峡を「間宮海峡」と呼んでいるが、一般には「タタール海峡」(韃靼海峡)と称しているようである。
又、海峡の最短部は距離で7km程度であり、そこを間宮海峡と呼ぶ場合もあるようだ。
明治8年、条約により樺太全島はロソア領になり、千島全島は日本領になった。
その後、日露戦争で樺太南部は日本領に成ったが、太平洋戦争の敗戦で全てを失った恰好になっている。
岬の右側に「宗谷岬」の歌碑が有り、そこから絶えず曲歌が流れていた。
『宗谷岬』 歌:千葉紘子
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス咲いて カモメも啼いて
遥か沖ゆく 外国船の
煙も嬉し 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
幸せ求め 最果ての地に
それぞれ人は 明日(アシタ)を祈る
波もピリカの 子守のように
想い出残る 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
海道沿いに「最北・・」と謳った看板の商店や民宿が目立った。
この旅の現時点までは、「北上」と名打ったが、これから先は「南下」である。 何故「北上」で、「南下」と称するのは定かでないが、きっと地球の緯度の関係かも知れない・・?。
因みに、日本海側は夕陽・日の入り・日没なのに対して、コレからのオホーツク海・太平洋は旭日・日の出・日昇等となる。
北海道は知らないが、一時期本州では裏日本、表日本などと称していた。 小生はこの呼名は余り好きではないが、最近では「裏日本」という呼称は差別的用語に当たるとかで、使われてないようだが・・?。
「日本周遊紀行」の内、宗谷岬からはオホーツク海、太平洋岸を南下することのなる。
次回からも御期待下さい。
稚内の関連リンク
紀行(52)稚内 「野寒布岬」
紀行(52)稚内 「九人の乙女の碑」
紀行(52)稚内 「氷雪の門」
次回からは、「猿払」
.【小生の主な旅のリンク集】
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《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
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【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観
ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002
【山行記】
《山の紀行・記録集》
「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》・・・
「スキー履歴」
.
写真:本土最北の地・「宗谷岬」のシンボルマーク(小生が訪れた時刻を指している)
日本周遊;温泉と観光(16) 「宗谷岬」
遂に、北の果てへ来た、そして稚内から宗谷岬に向かう。
途中、小さな「声間岬」の南に「大沼」がある。
北海道の南端、函館郊外にも「大沼」があるが、こちらは最北端の大沼である。
周辺は湿原地帯、秋になると、越冬地への中継点として、また春になるとシベリアへと帰る休息地として約5,000羽の白鳥(コハクチョウ)が飛来する。
「白鳥おじさん」こと、吉田敬直氏による個人的な給餌活動によりコハクチョウが呼び寄せられ、日本でも有数の飛来地になったという。
さらにはハクチョウのほかマガン、アオサギ、オオワシなど通年100種類以上の野鳥が観察でき、時期になると大沼はどこを見ても白鳥だらけ、野鳥だらけとなり、周辺にはミズバショウの群落も見られるという。
国道のすぐ横に「稚内空港」が広大に広がる。
こちらも日本最北のジェット化空港として、利尻及び礼文の離島生活路線、あるいは道北と札幌を結ぶ路線の基地として地域にとって重要な役割を果たしている。
丘陵高所には、お馴染みとなった風力発電の風車が並ぶ。
最北の地は、風が強い町なのである。 冬は雪が降りだすと即、吹雪なってしまい、夏も風のせいで暑く感じないと。
調べてみると・・、この辺りは北海道の中で最も風の強い地方らしく、1年のうち毎秒10m以上の強い風が吹く日は何と130日にのぼるという。
宗谷の地は、低層山脈のなだらかな丘陵性の地形で、ほかには遮るものが何もないことから強風が直接吹いてくる。
その風を利用して稚内市はデンマーク製の風力発電を導入しているという。
1基当たり1億4000万もするらしく、現在、17機稼動中という、金額は・・??。 この風力発電が、今問題になっている環境問題の一つの解決策になればと思うのだが・・?。
海面より少々高目を、「宗谷岬」を目指して進む・・、
岬先端に、鋭三角のモニュメントが天を指していて、見字盤には「日本最北端に地」と記されている。
三角錐のデザインは北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしているという。
駐車場横の売店の出入り口も三角屋根を模ってあり、その正面には「宗谷岬・時刻13時25分・日本最北端・気温21.0℃・北緯45度31分14秒・日付平成16年9月27日」と記してあった。
岬には「間宮林蔵」の立像があり、そこから樺太(現実はサハリン)は微かに遠望できた。距離にして43kmは決して遠くない距離であるが、しかし今は遠い・・?。
その間宮林蔵が、樺太が大陸でなく島である事を発見するのは1800年初の事であった。
江戸後期、ロシア軍艦が蝦夷北方にしばしば現れるようになり、合わせて事件を頻繁に起こすようになる。 その為幕府は、北方警備のため宗谷に守備要員を派遣し、その中に松田伝十郎がいた。
更に幕府は、伝十郎と間宮林蔵に樺太の調査を命じている。又、当時1800年前後にヨーロッパで「サハリンが島であるのか、半島であるのか」の論争が起こっていて、それらに決着を図るべく幕府天文方は松田と間宮をサハリンに派遣し、探検させたとも云われる。
林蔵は幼少より数理にあかるく、日本地図の親・「伊能忠敬」の門人になる。
忠敬は上総(かずさ・千葉県)、間宮林蔵は下総(しもふさ・茨城県)の出身でいわばお隣同士であった。
忠敬は、林蔵のことを「非常の人」と世間に告げていた。
林蔵は、その後北方・千島等を測量するため、伝十郎とともに小船でサハリンの最南端シラヌシに上陸する。
両人は東西に分かれて、林蔵は東より北上し、海上あるいは陸上より調査を行なっている。 林蔵は一旦帰国するが、直ぐまた二度目の調査に出かけている。
1808年、西海岸を探検した松田は、海峡最狭部に達し、ここが海峡であることを確認し、間宮も松田に合流して、同様に海峡を確認した。
併せて翌1809年、間宮は、現地人の船で海峡を越えて大陸に渡り、この地域の詳細な調査を行いながら、そのまま大陸に渡り黒竜江を上って満州(中国東北部)にまで達している。
日本では、大陸と樺太の海峡を「間宮海峡」と呼んでいるが、一般には「タタール海峡」(韃靼海峡)と称しているようである。
又、海峡の最短部は距離で7km程度であり、そこを間宮海峡と呼ぶ場合もあるようだ。
明治8年、条約により樺太全島はロソア領になり、千島全島は日本領になった。
その後、日露戦争で樺太南部は日本領に成ったが、太平洋戦争の敗戦で全てを失った恰好になっている。
岬の右側に「宗谷岬」の歌碑が有り、そこから絶えず曲歌が流れていた。
『宗谷岬』 歌:千葉紘子
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス咲いて カモメも啼いて
遥か沖ゆく 外国船の
煙も嬉し 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
幸せ求め 最果ての地に
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想い出残る 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
海道沿いに「最北・・」と謳った看板の商店や民宿が目立った。
この旅の現時点までは、「北上」と名打ったが、これから先は「南下」である。 何故「北上」で、「南下」と称するのは定かでないが、きっと地球の緯度の関係かも知れない・・?。
因みに、日本海側は夕陽・日の入り・日没なのに対して、コレからのオホーツク海・太平洋は旭日・日の出・日昇等となる。
北海道は知らないが、一時期本州では裏日本、表日本などと称していた。 小生はこの呼名は余り好きではないが、最近では「裏日本」という呼称は差別的用語に当たるとかで、使われてないようだが・・?。
「日本周遊紀行」の内、宗谷岬からはオホーツク海、太平洋岸を南下することのなる。
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《スキー履歴》・・・
「スキー履歴」
.
2010年1月27日水曜日
日本周遊;温泉と観光(15) 「サロベツ原野」
.
写真:北海道最北の地・「サロベツ原野」と原野に立つ森繁久弥氏の句碑
日本周遊;温泉と観光(15) 「サロベツ原野」
天塩町から道道106号線に入ると、しばらくは日本海へ注ぐ天塩川の左岸を走り、日本海とは微妙に距離を置いたところを北上する。
天塩川は、日本海と並行しながら延々と南下するように流れていて、そして天塩町の北端でやっと日本海へ流れ込むのである。
この河は北方の幌延町辺りで日本海へ向っているのだが、直前まで来て砂丘に阻まれ、今度は海岸線沿いを 凡そ10km も南下するためである。
その天塩川が南下しているところを、道道106号線が並行して北上しているのである。
北海道・北端の地へ至る最後の道であり、道としての最後の導(しるべ)でもある。
5km ほど北上したところで道は左へカーブし、天塩川を渡る。
満々と水を湛えた川は全くの自然のままで、いかにも大自然の北海道をイメージさせるのに充分である。
天塩川と日本海を分け隔てている浜砂丘へと「天塩河口大橋」を渡る、ここからは左手には「利尻富士」が見え隠れしている。
ひたすら日本海沿いを北上することになるが、道道106号線の第一幕は、天塩川を渡って浜砂丘へ出ると遠くに見えてくる有名な風車である。
色々なCMや広告写真などで使われているらしいが、日本とは思えない雄大な風景の中に溶け込むように在るのが風車の列である。
又、ここが道道と天塩川とが並行してきた最後の地点でもあり、離れる場所でもあるのだが。
風車の数は 29基あまりあって、横一列に日本海に向けて立っている。
東北の北部地方あたりから、あちこち風車のある景色は拝見しているが、ここほど圧倒的な風車の景色はなかったように思う。
このあたりは見る目にも風が強い地域であることが想像でき、環境に優しい自然エネルギーは北海道の風景にもぴったりである。
その風車の列を過ぎると、いよいよ「サロベツ原野」へ入る。
原野は、余りにも広大な為か南側を下サロベツ原野、北側を上サロベツ原野と称しているらしい。
道は、北への真っ直ぐな道が淡々と進む、本当に「ひたすら」という言葉が似合うほどに続く。 しかも、対向車には殆ど会うこともなく、どこまで続くのだろう、と思うくらいに続く。
左右は、サロベツ原野とは言うけれど、ウネリのような低い丘陵地が続いているようであり、時節柄、枯れた色合いが、その寂寥感に輪をかける。
しかしながら道路は全くの平坦で、直線が無限の彼方まで延びて姿を消しているのである。
周囲は丘陵地から次第に原野らしく平原の様相になってきて、左に時折、真っ青な北の海が見渡せる。
地図を見ると道路はいかにも海岸、波打ち際を走っているように思われるが、実は7~80m陸側に位置していて、その間は同様に原野になっているのである。
草原の所謂、枯れ草文様の中に緑の縞模様が見られ、次第に原生花園・原生湿原と言われる様態に変化してきているようだ。
「サロベツ原生花園」と青海に幽かに浮かぶ山・「利尻岳」の三角錐の姿を眺めながらの快適なドライブウェイは続く。
定規を当てた様な真っ直ぐに延びた一本の道、思わず踏むアクセルに力が入るが、スピードに乗って通り過ぎてしまうにはにはもったいない程の景観が連続している。
「利尻・礼文・サロベツ国立公園」の広く爽やかな風景を存分に味わいたい・・!!。
北海道の北の果ての短い夏はすでに終わり、すでに晩秋の気配が漂よい、緑の湿原は褐色の大地に変わっていたが、しかし青い海、澄んだ空は変わることがない。
間もなくサロベツ原生花園の浜勇知園地の見晴休憩地に来た。
道道:稚内天塩線の唯一のパーキングであり、ここで一息入れ、散策を楽しむ。
「こうほねの家」という木造の洒落た休憩施設があった。 屋上からは、日本海にそびえ立つ利尻富士が見られ、美しい夕日も見られる絶好のビューポイントでもある。
「こうほね」という妙な名であるが・・?、
小屋の裏に広がる池塘に浮かぶ水生植物の名前のことで、その名をこうほね・河骨と称する。 睡蓮(すいれん)科の一種で、可憐な黄色い花を付ける。
川などに生え、水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えるので河骨と称しているようである。
河骨の根茎は「川骨(せんこつ)」の名で漢方薬としてよく用いられ、二つ割りにして干して、止血剤や浄血剤、強壮剤として使われるという。
処々に僅かに真赤なハマナスの花が咲き、移り行く季節を惜しんでいる様である。
「 ハマナスの花の色は北へ来るほど赤味が増す 」といわれる。
森繁久弥氏も映画ロケで訪れたようで、園地に歌碑が刻んであるった。
『 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの
砂丘の涯の 海に立つ富士 』
「富士」とは、無論、利尻富士のことである。
ここサロベツ原野は北緯45度丁度で北半球の緯度ではど真ん中にあたるらしい。
又、この地は大陸風景・満州平原(中国東北部で旧日本の支配地)に相似していることから、「人間の条件」、「戦争と人間」、「不毛地帯」等の映画の撮影の舞台にもなったとか。
森繁久弥は、この原野でどのような題材の映画をロケしたのか定かでない。
もしかしたら、映画のロケではなく周遊に来ていたのかもしれない。
いずれにしても、このサロベツ原野の美観溢れる絶景の地に到って肝を奪われ、思わず一句ひねったのかもしれない。
サロベツ原野、特にここの湿原地帯は日本低地における代表的な湿原といわれ、高層湿原から中間湿原へ移行するといわれる植物が多く咲き誇り、モウセンゴケ、ショジョウバカマ、ツルコケモモなどの花々が、季節を華やかに咲き競うという。
そこに広がる日本最北の湿原には、寒冷地植物群が100種類以上も植生しているといわれる。
気がつくと道標に「稚内26km」とあった。
北端の地の稚内や宗谷岬へはあと一息である。
次回は、 北端の最終章「宗谷岬」
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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「スキー履歴」
.
写真:北海道最北の地・「サロベツ原野」と原野に立つ森繁久弥氏の句碑
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天塩町から道道106号線に入ると、しばらくは日本海へ注ぐ天塩川の左岸を走り、日本海とは微妙に距離を置いたところを北上する。
天塩川は、日本海と並行しながら延々と南下するように流れていて、そして天塩町の北端でやっと日本海へ流れ込むのである。
この河は北方の幌延町辺りで日本海へ向っているのだが、直前まで来て砂丘に阻まれ、今度は海岸線沿いを 凡そ10km も南下するためである。
その天塩川が南下しているところを、道道106号線が並行して北上しているのである。
北海道・北端の地へ至る最後の道であり、道としての最後の導(しるべ)でもある。
5km ほど北上したところで道は左へカーブし、天塩川を渡る。
満々と水を湛えた川は全くの自然のままで、いかにも大自然の北海道をイメージさせるのに充分である。
天塩川と日本海を分け隔てている浜砂丘へと「天塩河口大橋」を渡る、ここからは左手には「利尻富士」が見え隠れしている。
ひたすら日本海沿いを北上することになるが、道道106号線の第一幕は、天塩川を渡って浜砂丘へ出ると遠くに見えてくる有名な風車である。
色々なCMや広告写真などで使われているらしいが、日本とは思えない雄大な風景の中に溶け込むように在るのが風車の列である。
又、ここが道道と天塩川とが並行してきた最後の地点でもあり、離れる場所でもあるのだが。
風車の数は 29基あまりあって、横一列に日本海に向けて立っている。
東北の北部地方あたりから、あちこち風車のある景色は拝見しているが、ここほど圧倒的な風車の景色はなかったように思う。
このあたりは見る目にも風が強い地域であることが想像でき、環境に優しい自然エネルギーは北海道の風景にもぴったりである。
その風車の列を過ぎると、いよいよ「サロベツ原野」へ入る。
原野は、余りにも広大な為か南側を下サロベツ原野、北側を上サロベツ原野と称しているらしい。
道は、北への真っ直ぐな道が淡々と進む、本当に「ひたすら」という言葉が似合うほどに続く。 しかも、対向車には殆ど会うこともなく、どこまで続くのだろう、と思うくらいに続く。
左右は、サロベツ原野とは言うけれど、ウネリのような低い丘陵地が続いているようであり、時節柄、枯れた色合いが、その寂寥感に輪をかける。
しかしながら道路は全くの平坦で、直線が無限の彼方まで延びて姿を消しているのである。
周囲は丘陵地から次第に原野らしく平原の様相になってきて、左に時折、真っ青な北の海が見渡せる。
地図を見ると道路はいかにも海岸、波打ち際を走っているように思われるが、実は7~80m陸側に位置していて、その間は同様に原野になっているのである。
草原の所謂、枯れ草文様の中に緑の縞模様が見られ、次第に原生花園・原生湿原と言われる様態に変化してきているようだ。
「サロベツ原生花園」と青海に幽かに浮かぶ山・「利尻岳」の三角錐の姿を眺めながらの快適なドライブウェイは続く。
定規を当てた様な真っ直ぐに延びた一本の道、思わず踏むアクセルに力が入るが、スピードに乗って通り過ぎてしまうにはにはもったいない程の景観が連続している。
「利尻・礼文・サロベツ国立公園」の広く爽やかな風景を存分に味わいたい・・!!。
北海道の北の果ての短い夏はすでに終わり、すでに晩秋の気配が漂よい、緑の湿原は褐色の大地に変わっていたが、しかし青い海、澄んだ空は変わることがない。
間もなくサロベツ原生花園の浜勇知園地の見晴休憩地に来た。
道道:稚内天塩線の唯一のパーキングであり、ここで一息入れ、散策を楽しむ。
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「こうほね」という妙な名であるが・・?、
小屋の裏に広がる池塘に浮かぶ水生植物の名前のことで、その名をこうほね・河骨と称する。 睡蓮(すいれん)科の一種で、可憐な黄色い花を付ける。
川などに生え、水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えるので河骨と称しているようである。
河骨の根茎は「川骨(せんこつ)」の名で漢方薬としてよく用いられ、二つ割りにして干して、止血剤や浄血剤、強壮剤として使われるという。
処々に僅かに真赤なハマナスの花が咲き、移り行く季節を惜しんでいる様である。
「 ハマナスの花の色は北へ来るほど赤味が増す 」といわれる。
森繁久弥氏も映画ロケで訪れたようで、園地に歌碑が刻んであるった。
『 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの
砂丘の涯の 海に立つ富士 』
「富士」とは、無論、利尻富士のことである。
ここサロベツ原野は北緯45度丁度で北半球の緯度ではど真ん中にあたるらしい。
又、この地は大陸風景・満州平原(中国東北部で旧日本の支配地)に相似していることから、「人間の条件」、「戦争と人間」、「不毛地帯」等の映画の撮影の舞台にもなったとか。
森繁久弥は、この原野でどのような題材の映画をロケしたのか定かでない。
もしかしたら、映画のロケではなく周遊に来ていたのかもしれない。
いずれにしても、このサロベツ原野の美観溢れる絶景の地に到って肝を奪われ、思わず一句ひねったのかもしれない。
サロベツ原野、特にここの湿原地帯は日本低地における代表的な湿原といわれ、高層湿原から中間湿原へ移行するといわれる植物が多く咲き誇り、モウセンゴケ、ショジョウバカマ、ツルコケモモなどの花々が、季節を華やかに咲き競うという。
そこに広がる日本最北の湿原には、寒冷地植物群が100種類以上も植生しているといわれる。
気がつくと道標に「稚内26km」とあった。
北端の地の稚内や宗谷岬へはあと一息である。
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【山行記】
《山の紀行・記録集》
「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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.
2010年1月26日火曜日
日本周遊;温泉と観光(14) 「雄冬岬と神居岩温泉」
.
北海道最西端の「ダイヤモンド道路」と称される「雄冬岬」とパーキングエリア
日本周遊;温泉と観光(14) 「雄冬岬と神居岩温泉」
北海道の最西端の地・「雄冬岬」・・、
札幌から日本海側の海岸沿いを留萌まで走る国道231号は、難関だった「雄冬岬」の部分が開通してから留萌方面へは相当近道になったらしい。
石狩街道をまっすぐ北上し、その後20数kmは海岸沿いを走ることになり、厚田までは比較的平坦な海岸線であるが、その後は切り立った崖っぷちのような部分でトンネルもも多く、深い山の中を走る様である。この道路を別名「ダイヤモンド道路」とも呼ばれるという。
平成の始め頃、「雄冬岬」(おふゆみさき)にトンネルが開通するまで、長い間「幻の国道」と呼ばれていた。
この切り立った断崖部分の道路建設は大変な難工事で、十勝の広尾から襟裳岬間の「黄金道路」より工事費がかかったので、ダイヤモンドという名前が付いたという。
この西端の岬を「雄冬岬」(おふゆみさき)というが、この地域一帯は厳しい断崖絶壁の中に位置しており、「北海道三大秘岬」の一つとされていた。 因みに後の二つは室蘭市の「地球岬」、根室市の「落石岬」である。
秘岬といわれるだけあり、岬からの眺望は日本海の雄大さと周辺の荒寂ぶりがかなり印象的である。
岬の最寄の雄冬集落(所在地は増毛郡増毛町)は、往時は、札幌側からの往来が不可能で、増毛側からもかっては冬季通行不能であった。
ここへの交通は事実上一日一往復された増毛~雄冬間の定期航路しか実質的な交通手段がなく、且つ、この定期航路も時化での休航が珍しくなかった。
そのため雄冬集落は長い間「陸の孤島」と呼ばれ北海道を代表する秘境の一つであった。
国道231号線の浜益から雄冬の国道が開通し、全通の悲願が適ったのが1981年(昭和56年)11月10日のことで、これで「陸の孤島」から解放された。
しかし、直後の1ヶ月もしないうち国道上の雄冬岬トンネルで大規模な崩落事故が発生し、国道は通行不能となり、雄冬集落は再び「陸の孤島」へ逆戻りする悲劇に見舞われたのである。
復旧工事が完了し雄冬岬トンネルの再度の開通したのは、2年半後であった。だが、「陸の孤島」から雄冬は解放されたとはいえ、冬季間の度々の通行止めは依然続いているという。
現在、雄冬岬は展望台・岩石公園などが整備され、又、急峻な崖から海岸線に滑り落ちるように「銀鱗の滝・白銀の滝」が流れていて、北海道を代表する観光スポットに変わりつつあるようである。
この辺りの陸地、というより山域は増毛山地と言われ、その主峰・暑寒別岳の最高峰を(標高1,491m)中心に南暑寒岳(1,296m)・郡別岳(1,376m)・浜益岳(1,258m)・雄冬山(1,198m)・天狗岳(973m)と千m級の山並みが連なり、日本海に傾(なだ)れている地域なのである。
この山塊の北側を水源とする「暑寒別川」の急流が日本海に注いでいる。
暑寒別川の秋、ここまで来ると、山域の薄暗い雰囲気から海水浴場もある開けた長閑な地域になり、増毛の町並みも望まれる。
その河口から150m程のところに暑寒別橋があり、下をのぞくと巨大な黒いものが蠢いている、良く観ると魚の姿が所狭しと群がって川上を目指しているのである、サケだ・・!、
放流されたサケたちがはるかな旅を終えて、故郷の川をめざして帰ってきているのである。
ここで「鮭の遡上」を間近に観なくてはと、堰まで行くとパシャパシャと水面をたたきなから、秋サケの群が上がってくる。
60~80cm、いや、1mもあろうかと思える黒みががかった銀色の体が目の前で跳ねる迫力に、思わず後ずさりした。
堰を上るのに流れ来る水流に押し戻されては、また挑戦するサケの奮闘ぶりに思わず喝采し頑張れ・・!、と拍手を送られずにはいられない。
川面を埋め尽くし、背びれを立てて遡上し、時おり豪快なジャンプを見せる光景に暫し見惚れ感動する。
その姿は自然界の神秘と生命の尊厳を教えてくれるのである。
サケは増毛にとって、かってのニシンにかわる貴重な資源だという。
この川で生まれたサケは3年、4年後に帰ってきて、生命のドラマを演じていると。
当河川は北海道でも有数らしく、ものすごい数の秋サケの遡上中はラジオでも報じていたようである。
因みに増毛町の漁獲の統計を見ると、全漁獲のサケの割合は最盛期の半数ちかくになっているようだ。
一時を楽しんだ後、増毛の町を横切って再び海岸に出ると、やがて留萌市に入った。
「市」だけあってやはり大きいタウンである。
夕暮れが迫ってきたので、G・Sに寄りながら温泉地を尋ねる、市郊外に「神居岩温泉」というのがあるらしい。
夕刻の時間帯で本来なら人々が活発に往来し、夕餉の支度に忙しい頃合いのはずだが・・??、何故か町並みは閑散としていた。
それが、何故か心に引っ掛かったのである。
「神居岩温泉」は、留萌市街地から留萌川を渡り運動公園の手前、チョイト山に入ったところに在った。一軒宿の鄙びた温泉ホテル兼日帰り温泉施設であり、神居岩は「カムイワ」と読むらしい。
早速ながら、浴室に入った瞬間すごい臭いがした。
漢方皇源薬湯風呂とやや長ったらしい名の浴槽で、ここから薬湯臭を発しているようだ。 一方、冷鉱泉の沸かし湯もあり大浴槽に使用しているらしい。
二種類の泉質があり、どちらかというと薬湯風呂がウリのようである。
温泉は濃密な泉質を期待したが、浴感はあまり感じられずサッパリしたもんであった。泉質は、単純硫黄冷鉱泉とナトリウム-塩化物泉で、昔アイヌの人々が病気や傷を癒したとも言われており、現在も、このお湯目当の湯治客が多いとか。
同じ館内には広―い和室の無料休憩所が在ったことは嬉しかった。
食堂兼休憩室で、食事をしながら今日一日のまとめを行う。休憩室の大型スクリーンが大相撲を放映していて、小生もファンである大関「魁皇」が優勝したことを報じていた。
そう、今日は日曜日だったのである。
次回は、 「サロベツ原野」
.【小生の主な旅のリンク集】
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《山の紀行・記録集》
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》・・・
「スキー履歴」
.
日本周遊;温泉と観光(14) 「雄冬岬と神居岩温泉」
北海道の最西端の地・「雄冬岬」・・、
札幌から日本海側の海岸沿いを留萌まで走る国道231号は、難関だった「雄冬岬」の部分が開通してから留萌方面へは相当近道になったらしい。
石狩街道をまっすぐ北上し、その後20数kmは海岸沿いを走ることになり、厚田までは比較的平坦な海岸線であるが、その後は切り立った崖っぷちのような部分でトンネルもも多く、深い山の中を走る様である。この道路を別名「ダイヤモンド道路」とも呼ばれるという。
平成の始め頃、「雄冬岬」(おふゆみさき)にトンネルが開通するまで、長い間「幻の国道」と呼ばれていた。
この切り立った断崖部分の道路建設は大変な難工事で、十勝の広尾から襟裳岬間の「黄金道路」より工事費がかかったので、ダイヤモンドという名前が付いたという。
この西端の岬を「雄冬岬」(おふゆみさき)というが、この地域一帯は厳しい断崖絶壁の中に位置しており、「北海道三大秘岬」の一つとされていた。 因みに後の二つは室蘭市の「地球岬」、根室市の「落石岬」である。
秘岬といわれるだけあり、岬からの眺望は日本海の雄大さと周辺の荒寂ぶりがかなり印象的である。
岬の最寄の雄冬集落(所在地は増毛郡増毛町)は、往時は、札幌側からの往来が不可能で、増毛側からもかっては冬季通行不能であった。
ここへの交通は事実上一日一往復された増毛~雄冬間の定期航路しか実質的な交通手段がなく、且つ、この定期航路も時化での休航が珍しくなかった。
そのため雄冬集落は長い間「陸の孤島」と呼ばれ北海道を代表する秘境の一つであった。
国道231号線の浜益から雄冬の国道が開通し、全通の悲願が適ったのが1981年(昭和56年)11月10日のことで、これで「陸の孤島」から解放された。
しかし、直後の1ヶ月もしないうち国道上の雄冬岬トンネルで大規模な崩落事故が発生し、国道は通行不能となり、雄冬集落は再び「陸の孤島」へ逆戻りする悲劇に見舞われたのである。
復旧工事が完了し雄冬岬トンネルの再度の開通したのは、2年半後であった。だが、「陸の孤島」から雄冬は解放されたとはいえ、冬季間の度々の通行止めは依然続いているという。
現在、雄冬岬は展望台・岩石公園などが整備され、又、急峻な崖から海岸線に滑り落ちるように「銀鱗の滝・白銀の滝」が流れていて、北海道を代表する観光スポットに変わりつつあるようである。
この辺りの陸地、というより山域は増毛山地と言われ、その主峰・暑寒別岳の最高峰を(標高1,491m)中心に南暑寒岳(1,296m)・郡別岳(1,376m)・浜益岳(1,258m)・雄冬山(1,198m)・天狗岳(973m)と千m級の山並みが連なり、日本海に傾(なだ)れている地域なのである。
この山塊の北側を水源とする「暑寒別川」の急流が日本海に注いでいる。
暑寒別川の秋、ここまで来ると、山域の薄暗い雰囲気から海水浴場もある開けた長閑な地域になり、増毛の町並みも望まれる。
その河口から150m程のところに暑寒別橋があり、下をのぞくと巨大な黒いものが蠢いている、良く観ると魚の姿が所狭しと群がって川上を目指しているのである、サケだ・・!、
放流されたサケたちがはるかな旅を終えて、故郷の川をめざして帰ってきているのである。
ここで「鮭の遡上」を間近に観なくてはと、堰まで行くとパシャパシャと水面をたたきなから、秋サケの群が上がってくる。
60~80cm、いや、1mもあろうかと思える黒みががかった銀色の体が目の前で跳ねる迫力に、思わず後ずさりした。
堰を上るのに流れ来る水流に押し戻されては、また挑戦するサケの奮闘ぶりに思わず喝采し頑張れ・・!、と拍手を送られずにはいられない。
川面を埋め尽くし、背びれを立てて遡上し、時おり豪快なジャンプを見せる光景に暫し見惚れ感動する。
その姿は自然界の神秘と生命の尊厳を教えてくれるのである。
サケは増毛にとって、かってのニシンにかわる貴重な資源だという。
この川で生まれたサケは3年、4年後に帰ってきて、生命のドラマを演じていると。
当河川は北海道でも有数らしく、ものすごい数の秋サケの遡上中はラジオでも報じていたようである。
因みに増毛町の漁獲の統計を見ると、全漁獲のサケの割合は最盛期の半数ちかくになっているようだ。
一時を楽しんだ後、増毛の町を横切って再び海岸に出ると、やがて留萌市に入った。
「市」だけあってやはり大きいタウンである。
夕暮れが迫ってきたので、G・Sに寄りながら温泉地を尋ねる、市郊外に「神居岩温泉」というのがあるらしい。
夕刻の時間帯で本来なら人々が活発に往来し、夕餉の支度に忙しい頃合いのはずだが・・??、何故か町並みは閑散としていた。
それが、何故か心に引っ掛かったのである。
「神居岩温泉」は、留萌市街地から留萌川を渡り運動公園の手前、チョイト山に入ったところに在った。一軒宿の鄙びた温泉ホテル兼日帰り温泉施設であり、神居岩は「カムイワ」と読むらしい。
早速ながら、浴室に入った瞬間すごい臭いがした。
漢方皇源薬湯風呂とやや長ったらしい名の浴槽で、ここから薬湯臭を発しているようだ。 一方、冷鉱泉の沸かし湯もあり大浴槽に使用しているらしい。
二種類の泉質があり、どちらかというと薬湯風呂がウリのようである。
温泉は濃密な泉質を期待したが、浴感はあまり感じられずサッパリしたもんであった。泉質は、単純硫黄冷鉱泉とナトリウム-塩化物泉で、昔アイヌの人々が病気や傷を癒したとも言われており、現在も、このお湯目当の湯治客が多いとか。
同じ館内には広―い和室の無料休憩所が在ったことは嬉しかった。
食堂兼休憩室で、食事をしながら今日一日のまとめを行う。休憩室の大型スクリーンが大相撲を放映していて、小生もファンである大関「魁皇」が優勝したことを報じていた。
そう、今日は日曜日だったのである。
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《スキー履歴》・・・
「スキー履歴」
.
2010年1月25日月曜日
日本周遊;温泉と観光(13) 「小樽運河」
.
「小樽運河」
日本周遊;温泉と観光(13) 「小樽運河」
余市から国道5号線にのって「小樽」へ入り、いきなりあの有名な「小樽運河」へヒョッコリ出た。
ここは小樽でも最大の観光スポットであろう、好天でしかも今日は気がつけば日曜日(平成16年9月26日)とあって大層な人出である。
以前、「冬の小樽」を訪れた時、小樽運河を中心とした界隈で、雪の路端に小さなキャンドルを灯した「雪明りの道」を、ソゾロ歩きした幻想的な景色を思い出した。
小樽運河で顕著なものは、何と言っても向こう岸に並ぶ古き「倉庫群」であろう。
当時は、沖合い海上に停泊していた船舶から、積荷の揚げ降ろしを艀船(はしけ・荷役作業の小船)にて運河を通じ、これらの倉庫へ出入りしていたのである。
現在これら倉庫群は運河食堂、工芸館や各種観光施設となり、周辺は散策路やガス灯が整備され、小樽の一大観光スポットになっている。
「小樽運河」とその周辺地区は、1996年に「都市景観100選」を受賞している。 因みに、景観100選には道内では「札幌・大通り」、「函館・西部地区」など5個所程らしい。
ところで、この「観光運河」は実は半ば偶然の産物らしい。
当時の運河は川幅(実際は海である)は今の倍もあり、札幌をはじめ北海道の海上流通の拠点として多いに賑わっていた。
しかし港湾が発達するに従って、この「運河方式」は衰退してゆき、次第に無用の長物になっていった。
当局は埋め立てを計るが、市民団体の反対もあって、なんとか公園として一部を残したという、これが現在の「小樽運河」である。
歌にも唄われる「ロマンチック小樽」であるが・・、
小樽の町の歴史は、北海道開拓の歴史とほぼ並行するもので、特に江戸末期から、明治、大正期、昭和中期にかけては、真に北海道の経済産業の中心地であって、「文化遺産」などが豊富にあるのは北海道において函館と江差そして、小樽以外にはないという。
江戸中期に、松前、江差方面ではニシンの魚影が姿を消し、回遊して其の中心を「タカシマ」、「オタルナイ」へと移っていった。
回遊の移動と共に、松前、江差の漁民もオタルナイへ出稼ぎにくるようになり、以来、昭和の初めまでニシン漁は栄え、それと共に小樽の町としての繁栄が始まったと言える。
松前、江差の出稼ぎ鰊漁夫は、最盛期には、寝る暇も、食べる暇も、用を足す暇すらない状況になり、4ヶ月間の給金は現在に換算すると150~250万くらいの悪くない稼ぎであったという。
その間、「網元」の利益は計り知れないものがあり、得られる利益は膨大なものとなったという。
「ニシン御殿」と言えば誰でも知っているように、豪華絢爛な建築物として知られ、高島、祝津地区のニシン御殿、青山別邸などが、栄華の一端が伺えるのである。 しかし、小樽も同様で、明治27年の大豊漁以来、次第に漁獲を落として、昭和にはいると落ち込みはさらにひどくなり、昭和20年代には激減、30年代以降ニシンは全く姿を消してしまったという。
小樽の鰊漁が盛んになると同時に、日本海には、蝦夷地と北陸、九州、大阪方面へ航路が開かれた。 この船は別名「北前船」と呼ばれ、大阪から酒、木綿、砂糖、塩などを積み、日本海にまわり敦賀で縄、ムシロ等のニシン漁用具を、新潟、酒田で米、白玉粉を積み込み1ヶ月から1ヶ月半で小樽に到着した。
帰りは、カズノコ、サケ、ニシン、昆布、ニシンカスなどを積み込み大阪へ帰還した。 年一回往復の厳しい航海だが、得られる利益は莫大ものがあったという。
だが、「北前船」と呼ばれた弁財船は和船のため、構造的に沿岸航海向きであり、速度も遅く日数がかかったという。
明治期には、次第に西洋船が導入されはじめ、しかも増加していく。
その後、小樽、東京、函館の間に定期航路も開設され、物資だけでなく人的移動も急増していった。
その頃、かの裕次郎の父・石原潔が山下汽船という船会社勤務で、1937年(昭和12年)に転勤で小樽に引っ越してきた。
小樽の港に「石原裕次郎記念館」があるのは、裕次郎ファンならずとも周知であるが、裕次郎3歳のときで、当時、小樽では開道70年北海道大博覧会が開催されていた頃であった。
石原氏は、樺太から木材を切り出して、船で小樽に持ち込む仕事を監督していた。
ノンキャリアの叩き上げで剛胆な男であったという彼は、海運業で稼いだ給金は死ぬまで女房・子供に贅沢をさせたといわれる。
慎太郎19歳、裕次郎17歳の時に亡くなったという・・、享年52歳。
小樽が幸いしたのは、ニシンは全く来なくなった時期に併せるように、物資の流通量が急増してきたためであった。
明治30年頃には、積み降ろしの施設として運河方式が検討された。
運河と聞けば、普通は陸地を堀込んで作っていくが、小樽の場合は海岸から数十メートル隔てて埋め立てをし、水路を造っていくという方法で作られている。 大正12年12月には小樽運河が完成している。
最盛期には、艀(はしけ)が400隻以上運河を航行するという混雑状態であったが、逆に、効率が落ち、前述したが港湾築港にともなって、昭和の戦後には無用の長物になってしまったのである。
物流量が増え船舶の重要性に併せて、小樽は本格的な鉄道建設に取りかかり、明治13年に小樽-札幌間が日本では三番目として鉄道が開通している。
新橋-横浜間がイギリス式が採用されたのに対し、北海道はアメリカ式であり、アメリカ西部開拓と同様な牛よけのガードが付いた機関車が走ったという。
輸入された2台の機関車に「義経」「弁慶」と粋な命名がされたのは、アイヌ達を意識した開拓使の心意気であったのだろうか。
小樽-札幌間35.9kmを、3時間かけて走り抜けるのだから、随分のんびりしたものであるが、当時としては驚くべきスピードであったに違いない。
函館本線の小樽駅前通りを港へ向かって坂を下りていくと大通りにぶつかる。
この交差点より、日銀小樽支店までの一帯は「北のウォール街」として昔から呼ばれていた。
その名の通り、日銀小樽支店、三井銀行、安田銀行、第一銀行、拓銀、道銀をはじめとする銀行建築が並び、三井物産、カネタツ鈴木、三菱商事などの商社、日本郵船、大阪汽船、山下汽船の運輸関連などが軒を並べ、北海道一の経済繁栄を誇っていた。
因みに、道都である「札幌市」も同様な市街を形成していたが、そのほとんどは近代化され、今、当時の姿で残っているものは数えるほどしかない。
小樽の場合、それらの建造物が、その時代のまま殆どが現存している、という点で驚異的であるという。 戦後、国際貿易港としての役割を終え、北海道経済の要は札幌市へ移ると、本州資本や大手銀行は次々と引き上げ、ほとんど残るものはなかった。
しかし、これらは遺産として数多く残され、「小樽」は今や、これら遺産を含めた「遺産観光都市」として、多くの人々を呼び寄せているのである。
次回は、雄冬岬と神居岩温泉
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「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)
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「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》・・・
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.
「小樽運河」
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余市から国道5号線にのって「小樽」へ入り、いきなりあの有名な「小樽運河」へヒョッコリ出た。
ここは小樽でも最大の観光スポットであろう、好天でしかも今日は気がつけば日曜日(平成16年9月26日)とあって大層な人出である。
以前、「冬の小樽」を訪れた時、小樽運河を中心とした界隈で、雪の路端に小さなキャンドルを灯した「雪明りの道」を、ソゾロ歩きした幻想的な景色を思い出した。
小樽運河で顕著なものは、何と言っても向こう岸に並ぶ古き「倉庫群」であろう。
当時は、沖合い海上に停泊していた船舶から、積荷の揚げ降ろしを艀船(はしけ・荷役作業の小船)にて運河を通じ、これらの倉庫へ出入りしていたのである。
現在これら倉庫群は運河食堂、工芸館や各種観光施設となり、周辺は散策路やガス灯が整備され、小樽の一大観光スポットになっている。
「小樽運河」とその周辺地区は、1996年に「都市景観100選」を受賞している。 因みに、景観100選には道内では「札幌・大通り」、「函館・西部地区」など5個所程らしい。
ところで、この「観光運河」は実は半ば偶然の産物らしい。
当時の運河は川幅(実際は海である)は今の倍もあり、札幌をはじめ北海道の海上流通の拠点として多いに賑わっていた。
しかし港湾が発達するに従って、この「運河方式」は衰退してゆき、次第に無用の長物になっていった。
当局は埋め立てを計るが、市民団体の反対もあって、なんとか公園として一部を残したという、これが現在の「小樽運河」である。
歌にも唄われる「ロマンチック小樽」であるが・・、
小樽の町の歴史は、北海道開拓の歴史とほぼ並行するもので、特に江戸末期から、明治、大正期、昭和中期にかけては、真に北海道の経済産業の中心地であって、「文化遺産」などが豊富にあるのは北海道において函館と江差そして、小樽以外にはないという。
江戸中期に、松前、江差方面ではニシンの魚影が姿を消し、回遊して其の中心を「タカシマ」、「オタルナイ」へと移っていった。
回遊の移動と共に、松前、江差の漁民もオタルナイへ出稼ぎにくるようになり、以来、昭和の初めまでニシン漁は栄え、それと共に小樽の町としての繁栄が始まったと言える。
松前、江差の出稼ぎ鰊漁夫は、最盛期には、寝る暇も、食べる暇も、用を足す暇すらない状況になり、4ヶ月間の給金は現在に換算すると150~250万くらいの悪くない稼ぎであったという。
その間、「網元」の利益は計り知れないものがあり、得られる利益は膨大なものとなったという。
「ニシン御殿」と言えば誰でも知っているように、豪華絢爛な建築物として知られ、高島、祝津地区のニシン御殿、青山別邸などが、栄華の一端が伺えるのである。 しかし、小樽も同様で、明治27年の大豊漁以来、次第に漁獲を落として、昭和にはいると落ち込みはさらにひどくなり、昭和20年代には激減、30年代以降ニシンは全く姿を消してしまったという。
小樽の鰊漁が盛んになると同時に、日本海には、蝦夷地と北陸、九州、大阪方面へ航路が開かれた。 この船は別名「北前船」と呼ばれ、大阪から酒、木綿、砂糖、塩などを積み、日本海にまわり敦賀で縄、ムシロ等のニシン漁用具を、新潟、酒田で米、白玉粉を積み込み1ヶ月から1ヶ月半で小樽に到着した。
帰りは、カズノコ、サケ、ニシン、昆布、ニシンカスなどを積み込み大阪へ帰還した。 年一回往復の厳しい航海だが、得られる利益は莫大ものがあったという。
だが、「北前船」と呼ばれた弁財船は和船のため、構造的に沿岸航海向きであり、速度も遅く日数がかかったという。
明治期には、次第に西洋船が導入されはじめ、しかも増加していく。
その後、小樽、東京、函館の間に定期航路も開設され、物資だけでなく人的移動も急増していった。
その頃、かの裕次郎の父・石原潔が山下汽船という船会社勤務で、1937年(昭和12年)に転勤で小樽に引っ越してきた。
小樽の港に「石原裕次郎記念館」があるのは、裕次郎ファンならずとも周知であるが、裕次郎3歳のときで、当時、小樽では開道70年北海道大博覧会が開催されていた頃であった。
石原氏は、樺太から木材を切り出して、船で小樽に持ち込む仕事を監督していた。
ノンキャリアの叩き上げで剛胆な男であったという彼は、海運業で稼いだ給金は死ぬまで女房・子供に贅沢をさせたといわれる。
慎太郎19歳、裕次郎17歳の時に亡くなったという・・、享年52歳。
小樽が幸いしたのは、ニシンは全く来なくなった時期に併せるように、物資の流通量が急増してきたためであった。
明治30年頃には、積み降ろしの施設として運河方式が検討された。
運河と聞けば、普通は陸地を堀込んで作っていくが、小樽の場合は海岸から数十メートル隔てて埋め立てをし、水路を造っていくという方法で作られている。 大正12年12月には小樽運河が完成している。
最盛期には、艀(はしけ)が400隻以上運河を航行するという混雑状態であったが、逆に、効率が落ち、前述したが港湾築港にともなって、昭和の戦後には無用の長物になってしまったのである。
物流量が増え船舶の重要性に併せて、小樽は本格的な鉄道建設に取りかかり、明治13年に小樽-札幌間が日本では三番目として鉄道が開通している。
新橋-横浜間がイギリス式が採用されたのに対し、北海道はアメリカ式であり、アメリカ西部開拓と同様な牛よけのガードが付いた機関車が走ったという。
輸入された2台の機関車に「義経」「弁慶」と粋な命名がされたのは、アイヌ達を意識した開拓使の心意気であったのだろうか。
小樽-札幌間35.9kmを、3時間かけて走り抜けるのだから、随分のんびりしたものであるが、当時としては驚くべきスピードであったに違いない。
函館本線の小樽駅前通りを港へ向かって坂を下りていくと大通りにぶつかる。
この交差点より、日銀小樽支店までの一帯は「北のウォール街」として昔から呼ばれていた。
その名の通り、日銀小樽支店、三井銀行、安田銀行、第一銀行、拓銀、道銀をはじめとする銀行建築が並び、三井物産、カネタツ鈴木、三菱商事などの商社、日本郵船、大阪汽船、山下汽船の運輸関連などが軒を並べ、北海道一の経済繁栄を誇っていた。
因みに、道都である「札幌市」も同様な市街を形成していたが、そのほとんどは近代化され、今、当時の姿で残っているものは数えるほどしかない。
小樽の場合、それらの建造物が、その時代のまま殆どが現存している、という点で驚異的であるという。 戦後、国際貿易港としての役割を終え、北海道経済の要は札幌市へ移ると、本州資本や大手銀行は次々と引き上げ、ほとんど残るものはなかった。
しかし、これらは遺産として数多く残され、「小樽」は今や、これら遺産を含めた「遺産観光都市」として、多くの人々を呼び寄せているのである。
次回は、雄冬岬と神居岩温泉
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北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》・・・
「スキー履歴」
.
2010年1月24日日曜日
周遊紀行;温泉と観光(12)積丹半島 「神威岬」
.
恐竜の背中の様な「神威岬」と「神威岩」
周遊紀行;温泉と観光(12)積丹半島 「神威岬」
積丹半島・「神威岬」であるが・・、
積丹半島の中央部先端が神威岬である。
そこは80mの切り立った細い岩峰が延びていて、”恐竜の背中”の様なその頂上付近には「チャレンカの道」呼ばれる、良く整備された遊歩道が付けられている。
眼下にはシャコタンブルーと言われる大海が広がり、その透明度は約20m以上ともいう。
その岬の先端から沖合いには、乙女の化身と言われる、高さ41メートルの「神威岩」が天を刺している。
剣状の神威岩には、ある伝説が伝えられる、『 日高地方の平取の酋長の娘「チャレンカ」は、源義経を慕って神威岬まで何十里も追って来たが、義経はすでに船出した後であり、彼女は悲しみのあまり、この岬から身を投じて果てた。 その後、彼女は岩と化し、常しえに愛を訴える神威岩になったと・・、 』
尤も、北海道の義経伝説は、和人のアイヌ対策上広められていったというのが一般的らしい。この岬は、アイヌ人達によって江戸末期(1856年)こ頃までは女人禁制の地で、船に女人が乗ると海が荒れて遭難すると信じられていた。
岬の先端付近に建っている灯台は、北海道に現存する灯台としては五番目に古く、明治中期の1888年に初点灯しているという。
「神威岬」は幕末まで女人禁制だった・・、
この辺りには女性を嫌う恐ろしい神がいて女性が乗った船を沈めるなどという伝説が信じられていた。
実際に、この灯台を巡って遭難事故も起きている。
この神威岬の海岸には大人が立って歩けない程の小さな手掘りのトンネルが今も残っているという。何故、このトンネルが堀られたのかは、大正元年10月に神威岬灯台職員の悲しい出来事があったからと言われてる。
神威岬灯台は明治21年に建てられ、当時、灯台職員とその家族が居住していた。
家族は、買い物をするのにも余別の部落(神威岬の東)まで片道4㎞の山道を通らなければならない生活をしていた。
その山道は、馬の背のような崖の道が続き、強風で一歩踏みはずすと海に転げ落ちそうなところが何カ所もあった。
荒れた日などは子供や女性はとても歩くことが出来ず、海岸の岩や大きな石を飛び跳ねながら歩くのが普通であったという。
切り立った崖からは落石があったり、特に絶壁が海に突き出たところなどは、凪の日や干潮時を見計らって波の間をすばやく渡らなければならなかった。
1912年(大正元年)10月の或る朝のこと、三歳の次男を連れた灯台長の奥さんと、若い職員の奥さんが食料品の買いだしのため、海岸を歩いて余別の集落まで出掛けた。
行く途中、その危険な岩場で思いがけない大波が寄せ、一瞬のうちに三人は海にのみこまれ行方不明になてしまったという。
この事故以降、村人はトンネルを掘るよう役所に陳情したが、「一般の道路でないため作れない・・、」と断られてしまう。
そこで村人は、自らトンネルを掘る作業を開始した。 そのころは現在とは違い満足な道具もなく、すべて手掘りであった。
両方から掘り進めるうちトンネルの中央が食い違ってしまい、困り果てて作業は中断していたが、ある日、反対側からハンマーの音がかすかに聞こえてきた。
今度は両方から鐘を鳴らして実験をしてみたところ、かすかにお互いの鐘の音が聞こえ位置の確認ができた。
中央で食い違っていたトンネルが少しずつ近づき、誰からともなく鐘の音に合わせ、念仏を唱えながら堀り進み、遂にトンネルは貫通したという。
それ以来、誰言うと無く、このトンネルの名は「念仏トンネル」と言うようになり、念仏を唱えながら通ると安全だと言い伝えられている。
今、このトンネルの前に、「念仏トンネル由来の碑」が立っているという。
ところで最近、日本の灯台の全てが自動制御になっており、従って灯台守、つまり現在「灯台」で暮らしている人は殆どいないといい、目の前の官舎は専ら灯台の航路標識事務所になっている。
実際は灯台守、つまり海上保安官が灯台の保守管理などの仕事しているが、やはりこちらも人員に余裕はないらしく、非番(当直明け)の時はもちろん休みの時も、灯台やブイや機械に不都合があれば容赦なく呼び出され、夜や荒天時の出動もあるという。
小生、幼少の頃習った好きな歌の中で、「灯台守」があった。
『灯台守』 イギリス民謡
凍れる月影 空にさえて 激しき雨風 北の海に
真冬の荒波 寄する小島 山なす荒波 猛り狂う
思えよ 灯台 守る人の その夜も 灯台 守る人の
尊きやさしき 愛の心 尊き誠よ 海を照らす
「ソ-ラン節」と並ぶ北海道のもう一つの民謡に、先に紹介したが「江差追分」があるが、この江差追分の数多い歌詞は、義経伝説や神威岬以北への和人や婦女子通行禁止を背景にして作詞されたものと言われる。
『 蝦夷地海路の 御神威様はネー なぜに女の足とめる 』、
「御神威様」とは神威岬のことである。
次回は、小樽運河
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積丹半島・「神威岬」であるが・・、
積丹半島の中央部先端が神威岬である。
そこは80mの切り立った細い岩峰が延びていて、”恐竜の背中”の様なその頂上付近には「チャレンカの道」呼ばれる、良く整備された遊歩道が付けられている。
眼下にはシャコタンブルーと言われる大海が広がり、その透明度は約20m以上ともいう。
その岬の先端から沖合いには、乙女の化身と言われる、高さ41メートルの「神威岩」が天を刺している。
剣状の神威岩には、ある伝説が伝えられる、『 日高地方の平取の酋長の娘「チャレンカ」は、源義経を慕って神威岬まで何十里も追って来たが、義経はすでに船出した後であり、彼女は悲しみのあまり、この岬から身を投じて果てた。 その後、彼女は岩と化し、常しえに愛を訴える神威岩になったと・・、 』
尤も、北海道の義経伝説は、和人のアイヌ対策上広められていったというのが一般的らしい。この岬は、アイヌ人達によって江戸末期(1856年)こ頃までは女人禁制の地で、船に女人が乗ると海が荒れて遭難すると信じられていた。
岬の先端付近に建っている灯台は、北海道に現存する灯台としては五番目に古く、明治中期の1888年に初点灯しているという。
「神威岬」は幕末まで女人禁制だった・・、
この辺りには女性を嫌う恐ろしい神がいて女性が乗った船を沈めるなどという伝説が信じられていた。
実際に、この灯台を巡って遭難事故も起きている。
この神威岬の海岸には大人が立って歩けない程の小さな手掘りのトンネルが今も残っているという。何故、このトンネルが堀られたのかは、大正元年10月に神威岬灯台職員の悲しい出来事があったからと言われてる。
神威岬灯台は明治21年に建てられ、当時、灯台職員とその家族が居住していた。
家族は、買い物をするのにも余別の部落(神威岬の東)まで片道4㎞の山道を通らなければならない生活をしていた。
その山道は、馬の背のような崖の道が続き、強風で一歩踏みはずすと海に転げ落ちそうなところが何カ所もあった。
荒れた日などは子供や女性はとても歩くことが出来ず、海岸の岩や大きな石を飛び跳ねながら歩くのが普通であったという。
切り立った崖からは落石があったり、特に絶壁が海に突き出たところなどは、凪の日や干潮時を見計らって波の間をすばやく渡らなければならなかった。
1912年(大正元年)10月の或る朝のこと、三歳の次男を連れた灯台長の奥さんと、若い職員の奥さんが食料品の買いだしのため、海岸を歩いて余別の集落まで出掛けた。
行く途中、その危険な岩場で思いがけない大波が寄せ、一瞬のうちに三人は海にのみこまれ行方不明になてしまったという。
この事故以降、村人はトンネルを掘るよう役所に陳情したが、「一般の道路でないため作れない・・、」と断られてしまう。
そこで村人は、自らトンネルを掘る作業を開始した。 そのころは現在とは違い満足な道具もなく、すべて手掘りであった。
両方から掘り進めるうちトンネルの中央が食い違ってしまい、困り果てて作業は中断していたが、ある日、反対側からハンマーの音がかすかに聞こえてきた。
今度は両方から鐘を鳴らして実験をしてみたところ、かすかにお互いの鐘の音が聞こえ位置の確認ができた。
中央で食い違っていたトンネルが少しずつ近づき、誰からともなく鐘の音に合わせ、念仏を唱えながら堀り進み、遂にトンネルは貫通したという。
それ以来、誰言うと無く、このトンネルの名は「念仏トンネル」と言うようになり、念仏を唱えながら通ると安全だと言い伝えられている。
今、このトンネルの前に、「念仏トンネル由来の碑」が立っているという。
ところで最近、日本の灯台の全てが自動制御になっており、従って灯台守、つまり現在「灯台」で暮らしている人は殆どいないといい、目の前の官舎は専ら灯台の航路標識事務所になっている。
実際は灯台守、つまり海上保安官が灯台の保守管理などの仕事しているが、やはりこちらも人員に余裕はないらしく、非番(当直明け)の時はもちろん休みの時も、灯台やブイや機械に不都合があれば容赦なく呼び出され、夜や荒天時の出動もあるという。
小生、幼少の頃習った好きな歌の中で、「灯台守」があった。
『灯台守』 イギリス民謡
凍れる月影 空にさえて 激しき雨風 北の海に
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思えよ 灯台 守る人の その夜も 灯台 守る人の
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