google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2010-04-11

2010年4月17日土曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(19)佐呂間 「佐呂間の天変」

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日本周遊紀行;温泉と観光(19)佐呂間 「佐呂間の天変」



佐呂間町の異常天変・・!!、

昨今の地球温暖化による「異常気象」のよるものか・・?、
それにしても北海道東部は竜巻がほとんど起きない「空白域」ともいわれるが・・!!。

佐呂間町・サロマ湖南岸のほぼ中央に計呂地という地域があり、計呂地川に沿って10数km南へ行くと「若佐」という地区がある。 
ここより国道333号線が北見へ向っているが、若佐地区からは山岳地のため大きく曲折している、この地区を短路直線化するために鹿島建設を中心とした共同企業体(JV)がトンネル工事を行っていた。

この地域で、2006年11月7日午後1時30分頃、突然、突風竜巻が発生し工事をしていた作業員用のプレハブ小屋周辺で、11月7日午後8時現在、9人が死亡し多数の負傷者を出した。
佐呂間町の「突風竜巻被害」である。


死傷者が多数出た若佐地区では、新佐呂間トンネルの掘削工事が行われており、丁度被害の出た場所に作業員用のプレハブ小屋が3棟建てられていた。 
その内の2棟が屋根もろとも突風に吹き飛ばされ倒壊した。

当時は、多数の作業員が会議のためプレハブ小屋の2階にある会議室に集まっていたことが9人の犠牲者を出す結果となってしまった。 
一方で、住宅地にも甚大な被害が出たにもかかわらず住宅地の住民の被害は怪我人が9人出ただけであったという。 
これは竜巻発生当時、住民の多くが近所で行われた葬式に参加するなどして家を留守にしており、偶然にも竜巻被害を免れたためであるといわれる。

現場では大型トラックが、いとも簡単に吹き飛ばされたり、まだ新しい家の屋根が吹き飛んだり、電柱も根元から倒れて吹き飛ばされ、被害の凄まじさを物語っている。 
電柱が多数倒壊したため、11月7日午後10時頃まで佐呂間町と北見市の一部において住宅63戸で停電が発生し、また、現場付近の住民も避難した。
災害状況で戦後に限ると、単独の竜巻突風災害では最悪の死者数ともいわれ、竜巻の規模は、気象庁によるとF2以上と発表されており、被害の状況からF3以上ではないかともいう見方も強い。

なお、北見工業大学土木開発工学科教授(構造工学)の大島俊之は、調査の結果、瞬間風速が毎秒83メートルに達することが判明、規模をF3と発表したとという。 

因みに、F2とかF3というのは竜巻やダウンバーストの規模を被害状況から推定するためで、シカゴ大学の藤田哲也教授が1971年に提案した基準で「藤田スケール」といわれるものである。 
過去に、日本ではF4 以上の竜巻は観測されていないという。


では、「F」と名づけた藤田スケールとは如何なる規模になるのか・・?、
参考までに「竜巻の風速と被害状況」は以下のように決められているという。


【F0 (風速17 ~32m/s)】
煙突やテレビのアンテナが壊れる。小枝が折れ、また根の浅い木が傾くことがある。非住家が壊れる。

【F1 (33 ~49m/s) 】
屋根瓦が飛び、ガラス窓は割れる。 また、ビニールハウスの被害甚大。根の弱い木は倒れ、強い木の幹が折れたりする。 走っている自動車が横風を受けると、道から吹き落とされる。

【F2(50 ~69m/s)】
住家の屋根がはぎとられ、弱い非住家は倒壊する。大木が倒れたり、またねじ切られる。自動車が道から吹き飛ばされ、また汽車が脱線することがある。

【F3 (70 ~92m/s)】
壁が押し倒され住家が倒壊する。 非住家はバラバラになって飛散し、鉄骨づくりでもつぶれる。 汽車は転覆し、自動車が持ち上げられて飛ばされる。 森林の大木でも、大半は折れるか倒れるかし、また引き抜かれることもある。

【F4 (93 ~116m/s ) 】
住家がバラバラになってあたりに飛散し、弱い非住家は跡形なく吹き飛ばされてしまう。鉄骨づくりでもペシャンコ。列車が吹き飛ばされ、自動車は何十メートルも空中飛行する。1 トン以上もある物体が降ってきて、危険この上ない。

【F5 (117 ~142m/s) 】
住家は跡形もなく吹き飛ばされるし、立木の皮がはぎとられてしまったりする。自動車、列車などが持ち上げられて飛行し、とんでもないところまで飛ばされる。数トンもある物体がどこからともなく降ってくる。

と・・、如何にも恐ろしい状況が想定されている。

次回は、「能取湖・網走湖




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日本周遊紀行;温泉と観光(18)佐呂間 「サロマ湖」

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 日本周遊紀行;温泉と観光(18)佐呂間 「サロマ湖」 


佐呂間・「サロマ湖」のワッカ原生花園



サロマ湖畔の「ワッカ原生花園」は竜宮城への入口・・?、
広大なサロマ湖へ来た。 昨年秋、上さん(妻)と道東旅行の時この地まで訪れたのが記憶に新しい。

広大なサロマ湖の展望地・展望台は各地にあるが、湖全体を見渡すにはピラオロ台の近くの標高376mの幌岩山がベストである。 
ただ、「道の駅・サロマ湖」はサロマ湖周遊の休憩地として適しているが、湖岸に在りながら林の陰で湖面が見渡せないのは残念である。

サロマ湖は、成立から言えば「海跡湖」で、オホーツク沿岸の砂丘とその発達によってできた湖の一つで、静岡の浜名湖、島根の宍道湖など我が国では七つの湖があるといわれ、その内の一つである。 
湖の性質から言えば「汽水湖」(海水と淡水が入り混じっていること)で、面積は約152km2 琵琶湖、霞ヶ浦、に次いで、日本で三番目に大きい湖で網走国定公園に含まれる。 

湖は東西に長い、海と湖を仕切る砂洲は長さ25kmにも及び、貴重な植物の宝庫である原生花園となっている。 
湖岸各地に景勝地があるが、特に南東側常呂町の栄浦地区にはワッカ原生花園などの名所もあり、湖に落ちる夕日の美しいことで知られる。 
流入河川は十種以上も数え、またサロマ湖への海水の流入は多く、湖水の塩分は海水に近いものとなり、海水魚も多く入り込むようになった。湖は、ホタテや牡蠣の養殖が盛んであり、漁業法上は「海面」に指定されているという。

海面(かいめん)とは、一般には海の水面、海水面のことで、あたりまえであるが、主に漁業関連法令で用いられる用語としては、次の湖については漁業法で海面として指定されている。 
琵琶湖、霞ヶ浦北浦、浜名湖、加茂湖、サロマ湖、風蓮湖、厚岸湖等々・・、

 

国道238が常呂町に入ったあたりで、サロマ湖西岸から栄浦方面へ目指してみた。
途中、展望休憩地があった。
湖岸展望地としては真に雄大で、ここから眺める湖畔景観が随一ではないかと、と思わせる程の素敵な見晴らしである。 
塔型の看板があって、何故か「気温18.8度 北緯44度07分 東経143度58分」と記載してあった。 
本日は、平成16年9月28日午前の頃である。


栄浦大橋を渡って程なく「ワッカ原生花園ネイチャーセンター」へ着いた。
原生花園のセンターハウスで休憩所を兼ねた建物の中には、付近の自然や原生植物のパネルの展示をしている。 
自然保護のため自動車、バイクはセンターから先は入ることができないが、ワッカ原生花園を周る馬車や自転車のレンタルが有る、建物裏手より原生花園が広がっていた。

ここのワッカ原生花園は、日本最大級の原生花園であるという、ここからはサロマ湖と砂洲を挟み隔てて広がるオホーツク海も望まれる。 サロマ湖の砂州部分を「ワッカ半島」と云い、幅は広いところで700メートル、狭いところで200メートル程の帯状の土地が、凡そ20キロメートルにわたって続く。 
狭い所ながら、森林有り、草地有り、砂地有りと、その生態系は多採である。
ちなみに原生花園というのは便宜的な呼び方で、学術的には「海岸草原」と呼ぶのが正しいらしい。

厳しい自然環境下にある北国の臨海地域では、その悪環境に耐えられるような種類の植物しか育たない。 
それらによって形成されるのが海岸草原、すなわち原生花園というわけである。 
だから可憐に咲き誇るというよりは、もともと悪環境に強い種が、したたかに咲き誇っていると云えるのである、そのしたたかさも含めて、原生花園というのは魅力の一つになっいる。

しかもこの地に「真水」が湧き出ているところがあるらしい、それも砂州の中央に湧き出し、この水は、その名も「花の聖水・ワッカの水」と言われている。 
元々、ワッカ原生花園という名称はアイヌ語で「ワッカ・オ・イ」(水が・ある・ところ)、からついた名だという。 オホーツク海とサロマ湖に挟まれた細い砂洲に、1万年以上も前からこの地に真水は湧きだしている、サロマ湖の不思議に数えられてる。

原生花園の砂洲・ワッカ半島に「竜宮街道」という一本の道が走っている。
「浦島太郎伝説」から借用した名称か・・? どうかは不明だがロマンチックな名である。 「竜宮城」へ通ずるのに、この雰囲気は最適の場所、ルートかも知れない。 
しかしこの寒冷のオホーツク海にカメやタイ、ヒラメはいるのだろうか・・?。

ここからの夕景がまた素晴らしいという、今はまだ午前の中で陽は高いが、これが西に落ちる頃サロマ湖面全体が素晴らしい演出をして暮れるのであろう。 
ワッカ原生花園」は、この先、小清水町にある小清水原生花園と共に、オホーツク沿岸砂丘列に成立した代表的海岸草原として、両者併せて第1回目の北海道遺産に選定されている。

次回も佐呂間・「番外編」




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「スキー履歴」

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2010年4月16日金曜日

日本周遊紀行;温泉と観光編(17)紋別 「流氷と温泉」

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日本周遊紀行;温泉と観光編(17)紋別 「流氷と温泉」 


北海道は北東部のオホーツクの町・紋別である・・、

臨海工業地をそのまま進むと広大な公園らしいところへ突き当たった。 
道の駅「オホーツク紋別」で、昨夜は、この道の駅で車中の人となった。 
明けて、先ずは新鮮な空気を胸一杯吸い込む、軽い深呼吸を3~4回して、周りが薄赤く染まっているのに気が付いた。 
海辺の方角から丁度日の出が始まっていたのである、腕時計は5時25分を指していた。 直ぐ近くに小さな「物見台」らしき物が有ったので、日の出の様子をカメラでキャッチ・・、

この物見台は「アムールへの架け橋」とあり、そして次のように文言が記されてあった。

アムールへの架け橋

『 -この階段は「架け橋」といいます--「架け橋」の前方、遥か遠くに流氷の生みの親であるアムール川の河口があります。 アムールへの架け橋から心の眼で流氷の古里アムール川、そして毎冬訪れる雄大な白い海・流氷へ思いを馳せて下さい。  なお、冬季間は安全のため上り口は封鎖させていただきます 』 とあった。

「紋別」は流氷の街である、それにしても折角の流氷の時期に、この物見台に上がって流氷を観察できないのはチト残念なことでしょう。 



先にも記したが、流氷が見られるのは日本では北海道のオホーツク海岸だけであり、北の方から流氷が押し寄せてくる。 
樺太最北部、間宮海峡のアムール川(黒竜江)河口付近で流出してきた汽水域が氷結し、寒気とともに海流、風向によってやって来る。 
北海道沿岸への流氷が襲来するのは、ほぼ1月の中旬ころであると言われ、そして紋別海域に現れるのもこの時期である。 

2月の初めには流氷は千島列島の南端(北方四島)に達して、その一部は太平洋に流出を始める。 3月の初めか中旬には、流氷域が最大となって、オホーツク海の80%を覆ってしまうこともある。
4月中旬には流氷は、オホーツク沿岸から去っていき、5月下旬にはオホーツク海から完全に氷がなくなる。 



流氷は近海漁業者にとっては厄介者であるともいわれるが・・?、
しかし流氷は漁民にとって貴重な「」をもたらしてくれる大切な存在でもある。 
流氷は植物プランクトンを大量に運んできて、春先、太陽光に当たるとこれが爆発的に増える。これによって、海底のエビやカニ、ホタテなどを栄養にして育つ。 
又、これを餌に動物性プランクトン(北海で人気のクリオネはこの一種)も増え、この動物プランクトンを餌に北方の魚が集まり、オホーツク海は豊かな漁場となるのである。  毎年、冬になると北海道の沿岸に押し寄せるオホーツクの流氷は、北の自然の厳しさと、その営みの壮大さを堪能させてくれると同時に、豊富な食を運んできて呉れる。流氷の去った後は、壮大な漁場を約束してくれるのである。



快晴の朝、朝食前に散歩に出かけてみた。

先ず、すぐ横に立派な建物が眼につく、「北海道立オホーツク流氷科学センター」とあった。 
流氷に関することが学べる体感展示コーナー、流氷船ガリンコ号の特徴、厳寒体験室、展望室からの眺望・・、各々の施設があるらしい。 
海岸沿いに石を造形した公園がいい、遥かに伸びている防波堤で早朝から多数の人が釣り糸を垂れている。 その先の海中タワーらしき物は「オホーツクタワー」と称し、海中階下の展望室は冬期は流氷の下の海と神秘的な流氷の観察が出来る。 
流氷のない時期には回遊魚やタワーの下部に定着している魚介類の観察が出来るようだ。 又、防波堤の内側は国際船が入出できる大きな港であり、そして何といっても紋別を代表する観光の主役の「ガリンコ号」の停泊港でもある。

オホーツク海を襲う白い悪魔」と言われて、オホーツク海沿岸に住む者にとって流氷はやっかいな存在だった。 格好の漁場は厚い氷の下で海藻は引きちぎられ、魚場は無くなり漁港は傷つく。
だが流氷がオホーツク海に多くの恩恵をもたらしていることは先に記した。 
そして冬のオホーツク沿岸に押し寄せる海の邪魔者を、逆手に取った流氷観光ツアーは新たな財源をもたらしたのである。

陸に上がった「ガリンコ号」


紋別市では、アラスカの油田開発用に試験的に作られた砕氷船を「ガリンコ号」と名付け、流氷の海へ乗り出し、流氷を観察する観光に打って出たのである。 
流氷観測には、紋別沖合約1kmのオホーツクタワーからでも、海底7.5mから流氷下のさまざまな生態の観測ができるが、4本の巨大なドリル型スクリュウをグルグル回しながら音をたてて流氷を砕きつつ、豪快に進む船からの眺めはまさに圧巻、壮観である。 
重厚な流氷をガリガり欠割りながら回転するスクリューは、アルキメディアンスクリューといって、まさに巨大なドリルが回転してる様は、これを見ただけでも乗船したかいがあるという。

その流氷観光は、オホーツク海の流氷原を力強く進む「ガリンコ号」のユニークな姿と珍しさとが相まって、迫力ある流氷を間近に見れるクルージングは、冬の北海道の人気者になった。

流氷の海を体全体で感じたい、寒くても全然平気」という人はデッキから眺めるのも迫力があり、時折アザラシやオジロワシが姿を見せることもある。
今は、ガリンコ号Ⅱが活躍中で、乗り場は海洋交流館の裏側、オホーツクタワーの傍にある。 前に働いていたガリンコ号(1号)は、岸壁のガリンコステーションから少し離れた陸の上に置かれていて、砕氷船の形や大きさ、スクリューの形が生で見られ良く判るという。

紋別市は流氷渡来の地として、流氷研究国際都市を宣言し流氷の大切さを訴えている。



紋別の温泉・・?、

「紋別には温泉は有りますか・・?」、
「ハイ・この近くに天然温泉ではないが立派な施設がありますよ!」 
街のほぼ中心である国鉄廃止線になった紋別駅の跡地に、スーパーマーケットや海鮮・生鮮市場棟「オホーツク・海紋市場」と温浴施設やレストランなどがあった。 温泉は「湯けむり紋別・とっかりの湯」という。

施設はまだ新しく綺麗に整っているようで、早速、「とっかりの湯」を訪れた。 
磨かれた廊下の横に二十帖ほどの広い休憩室があった。 
お湯の特徴としては、「お湯には紋別大山の森を通る伏流水を使用。遠赤外線を放射するブラックシリカ(神明石)でお湯を仕上げているといい「血液の循環を促進して新陳代謝を高めてくれる・・、」とあった。

因みに、センターの名前にもなっている「とっかり」とは、アイヌ語の浜ことばで「アザラシ」という意味だという、今でも、北海道の漁師たちはアザラシのことを「とっかり」と呼んでいる者もいるという。


次回は「サロマ湖」




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2010年4月15日木曜日

日本周遊紀行;温泉と観光編(16)「宗谷岬」

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今回より北海道の日本周遊紀行;「温泉と観光」の後編として北端の「宗谷岬」から南部の「洞爺湖」周辺の全13編を投稿いたします。
お楽しみに・・!




日本周遊紀行;温泉と観光編(16)「宗谷岬」 



写真:本土最北の地・「宗谷岬」のシンボルマーク(小生が訪れた時刻を指している)




 日本周遊;温泉と観光(16) 「宗谷岬」 


遂に、北の果てへ来た、そして稚内から宗谷岬に向かう。

途中、小さな「声間岬」の南に「大沼」がある。
北海道の南端、函館郊外にも「大沼」があるが、こちらは最北端の大沼である。

周辺は湿原地帯、秋になると、越冬地への中継点として、また春になるとシベリアへと帰る休息地として約5,000羽の白鳥(コハクチョウ)が飛来する。 
「白鳥おじさん」こと、吉田敬直氏による個人的な給餌活動によりコハクチョウが呼び寄せられ、日本でも有数の飛来地になったという。 
さらにはハクチョウのほかマガン、アオサギ、オオワシなど通年100種類以上の野鳥が観察でき、時期になると大沼はどこを見ても白鳥だらけ、野鳥だらけとなり、周辺にはミズバショウの群落も見られるという。


国道のすぐ横に「稚内空港」が広大に広がる。

こちらも日本最北のジェット化空港として、利尻及び礼文の離島生活路線、あるいは道北と札幌を結ぶ路線の基地として地域にとって重要な役割を果たしている。

丘陵高所には、お馴染みとなった風力発電の風車が並ぶ。 
最北の地は、風が強い町なのである。 冬は雪が降りだすと即、吹雪なってしまい、夏も風のせいで暑く感じないと。
調べてみると・・、この辺りは北海道の中で最も風の強い地方らしく、1年のうち毎秒10m以上の強い風が吹く日は何と130日にのぼるという。 

宗谷の地は、低層山脈のなだらかな丘陵性の地形で、ほかには遮るものが何もないことから強風が直接吹いてくる。 
その風を利用して稚内市はデンマーク製の風力発電を導入しているという。 

1基当たり1億4000万もするらしく、現在、17機稼動中という、金額は・・??。 この風力発電が、今問題になっている環境問題の一つの解決策になればと思うのだが・・?。



海面より少々高目を、「宗谷岬」を目指して進む・・、

岬先端に、鋭三角のモニュメントが天を指していて、見字盤には「日本最北端に地」と記されている。
三角錐のデザインは北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしているという。

駐車場横の売店の出入り口も三角屋根を模ってあり、その正面には「宗谷岬・時刻13時25分・日本最北端・気温21.0℃・北緯45度31分14秒・日付平成16年9月27日」と記してあった。

岬には「間宮林蔵」の立像があり、そこから樺太(現実はサハリン)は微かに遠望できた。距離にして43kmは決して遠くない距離であるが、しかし今は遠い・・?。 




その間宮林蔵が、樺太が大陸でなく島である事を発見するのは1800年初の事であった。

江戸後期、ロシア軍艦が蝦夷北方にしばしば現れるようになり、合わせて事件を頻繁に起こすようになる。 その為幕府は、北方警備のため宗谷に守備要員を派遣し、その中に松田伝十郎がいた。 
更に幕府は、伝十郎と間宮林蔵に樺太の調査を命じている。又、当時1800年前後にヨーロッパで「サハリンが島であるのか、半島であるのか」の論争が起こっていて、それらに決着を図るべく幕府天文方は松田と間宮をサハリンに派遣し、探検させたとも云われる。

林蔵は幼少より数理にあかるく、日本地図の親・「伊能忠敬」の門人になる。 
忠敬は上総(かずさ・千葉県)、間宮林蔵は下総(しもふさ・茨城県)の出身でいわばお隣同士であった。 

忠敬は、林蔵のことを「非常の人」と世間に告げていた。 
林蔵は、その後北方・千島等を測量するため、伝十郎とともに小船でサハリンの最南端シラヌシに上陸する。 

両人は東西に分かれて、林蔵は東より北上し、海上あるいは陸上より調査を行なっている。 林蔵は一旦帰国するが、直ぐまた二度目の調査に出かけている。


1808年、西海岸を探検した松田は、海峡最狭部に達し、ここが海峡であることを確認し、間宮も松田に合流して、同様に海峡を確認した。
併せて翌1809年、間宮は、現地人の船で海峡を越えて大陸に渡り、この地域の詳細な調査を行いながら、そのまま大陸に渡り黒竜江を上って満州(中国東北部)にまで達している。 


日本では、大陸と樺太の海峡を「間宮海峡」と呼んでいるが、一般には「タタール海峡」(韃靼海峡)と称しているようである。 
又、海峡の最短部は距離で7km程度であり、そこを間宮海峡と呼ぶ場合もあるようだ。

明治8年、条約により樺太全島はロソア領になり、千島全島は日本領になった。 
その後、日露戦争で樺太南部は日本領に成ったが、太平洋戦争の敗戦で全てを失った恰好になっている。



岬の右側に「宗谷岬」の歌碑が有り、そこから絶えず曲歌が流れていた。



『宗谷岬』  歌:千葉紘子

流氷融けて 春風吹いて
ハマナス咲いて カモメも啼いて
遥か沖ゆく 外国船の
煙も嬉し 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬


幸せ求め 最果ての地に
それぞれ人は 明日(アシタ)を祈る
波もピリカの 子守のように
想い出残る 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬



海道沿いに「最北・・」と謳った看板の商店や民宿が目立った。

この旅の現時点までは、「北上」と名打ったが、これから先は「南下」である。 何故「北上」で、「南下」と称するのは定かでないが、きっと地球の緯度の関係かも知れない・・?。

因みに、日本海側は夕陽・日の入り・日没なのに対して、コレからのオホーツク海・太平洋は旭日・日の出・日昇等となる。
北海道は知らないが、一時期本州では裏日本、表日本などと称していた。 小生はこの呼名は余り好きではないが、最近では「裏日本」という呼称は差別的用語に当たるとかで、使われてないようだが・・?。


「日本周遊紀行」の内、宗谷岬からはオホーツク海、太平洋岸を南下することのなる。
次回からも御期待下さい。

稚内の関連リンク
稚内 「宗谷岬」
稚内 「野寒布岬」
稚内 「九人の乙女の碑」
稚内 「氷雪の門」



次回からは、「猿払」




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2010年4月13日火曜日

日本周遊紀行(89)津軽海峡・船中余談 「松浦武四朗」

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 日本周遊紀行(89)津軽海峡・船中余談 「松浦武四朗」   


天塩川河口に建つ、松浦武四郎像と歌碑
『 蝦夷人の みそぎなしける 天塩川
       今宵ぞ夏の とまりをばしる 』

『 ながむれば 渚ましろに 成にけり
        てしほの浜の 雪の夕暮れ 』




ところで、北海道を一周して又、この執筆中の調べ物から「松浦武四朗」という人物によく出会う。
関係した現地には歌碑や像、顕彰碑が各所に建立され、釧路市の中心街には「松浦町」という地名まであった。 
往時の釧路市の議長が市史を調べるうち「松浦武四朗」が、『この道東の地(釧路)は将来、相当に発展するだろう・・』というくだりの文章を見つけて、町名を松浦町にしたというエピソードもある。


既に紹介したが・・?、
松浦武四朗は「北海道の父」といわれ、「北海道の名付け親」でもある。
北海道の地名や郡名に、アイヌへの敬愛の気持ちを込めてアイヌ語を生かした名前を付けたという。
武四郎が天塩川流域を探査している折、出会った音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの長老の話からであったという。

北海道の「」は元々は「加伊」の読みであって、アイヌ人はこの地を「加伊」と呼んでいた。 
武四郎はアイヌと交流するうちに『北海道』という名前を「北の国に生まれたアイヌの大地」という親愛の情を込めて名付け、支庁名、郡名についても武四郎は「地名はその土地の文化である」として、アイヌ語地名に基づいて選定を行ったという。


松浦武四郎は1818(文政元)年、伊勢国須川村(現在の三重県松坂)出身。三重県の三大偉人の一人(松尾芭蕉・本居宣長)ともいわれ、一般には他の二人よりは余り知られていないようだが・・旅行家、探検家であり地理学者、登山家でもあった。
生家実家は伊勢神宮の参道に通じる参宮街道に面していた。 
少年の頃、「お陰参り」といって伊勢神宮に60年に一度の大祭があり、この参道をお参りする人々が一年間に400~500万人もいたといわれていた。
当時の日本の人口の一割以上の人が通ったことになるという、武四朗少年はこれをきっかけに「」に目覚めたという。

十代前半 から西日本の各地を旅行しながら長崎に着いた時、ロシアが蝦夷地に通商開港を願い出ているのを知って(このとき長崎は既にオランダ等と開港していた)急きょ蝦夷地へ向かった。
個人的には既に蝦夷地を三回徒歩していて、このとき「羊蹄山」等、冬の北海道の山を完登している。 又、これらの経験を見い出され幕府用人としても三回、蝦夷探検を実施している。 
北海道」を命名したのはこの時期であり、合わせて北海道の巨大地図をも完成させている。 
描かれた地図は伊能忠敬が描いた蝦夷地図より更に厳密なものに成っていて、例えば北海道最大の河川「石狩川」は、現在日本の流域で2番目、長さで3番目であるが、その昔は相当に広く、長かったことが判るという。 
これは河川の開拓や改修が頻繁に行はれた事によるものであるとのこと。


江戸時代が終わり明治時代へと変わると、明治政府は蝦夷地へ「開拓使」という役所をつくる。 
政府は、数々の業績を持ち、蝦夷地通と誰もが認める松浦武四郎を初代「開拓判官」(現在の開発庁長官)に任命した。 
明治政府の役人になった武四郎は、蝦夷地の新しい名前や開拓政策を提案する。 
武四郎が目指した北海道は、アイヌと和人(日本語を母国語とする人々)が共に仲良く暮らすことができる大地であったが、しかし、一年余りで退任しているという。

それは何故か・・?、
武四郎の意思とは全くそぐわない、明治政府のアイヌへの政策であったといわれる。

アイヌは、1871年の戸籍法公布とともに「平民」として日本国に編入されるが、実際の戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされたのであった。 
翌1872年には、伝統的の継承されてきたアイヌの文化や風俗は取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。 
又、アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。

その後も、アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。 
しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあり、法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようである。 
この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの本業を営もうとするアイヌには一切援助は出さなかったいう。

この様な有様を見聞するに及んで武四郎は、開拓使の役人たちと度々口論になることが多かった。 
政府要人に対しても意見書等を出し激論を交わしたりしたが、一向に改革する気配が無く、更に、旧幕府時代の「場所請負人」という悪業制度が引き継がれるに及んで、遂に開拓判官の職を辞してしまう。
この後は任官することなく、東京神田に隠居し、時折、大好きな山登りを楽しんだという。
松浦武四朗の気骨ある一面を示したとも云える。


次回からは再び本州に戻るが、その前に北海道東部の「温泉と観光」をどうぞ。 

先ず、流氷の町・「紋別」 




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日本周遊紀行(88) 「津軽海峡」

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日本周遊紀行(88) 「津軽海峡」  


小生を載せて、函館から大間へ向かう津軽海峡フェリー




北海道をグルッと一周、今は津軽海峡、海の上である・・、

16時20分(平成16年10月1日)、大間行きのフエリーは定刻に出航した。 9月24日18時、ここ函館に上陸して一週間で道内の海道を巡ったことになる。 
「函館山」を左に見ながら、永かった北海道に別れを告げる。 

牛が寝そべっているようにみえることから別称「臥牛山」ともいわれている通り、市街地から見える錐形の山と異なって、上部付近はなだらかな台地上をなしていた。 
この函館山が左舷前方より次第に迫ってきて、やがて後方に去っていった。 傾いた夕日もやがてこの海峡に吸い込まれようとしている。 

夕時・・、海は凪いでいた。



「津軽海峡」・・、

「海峡」とは、陸や島の間の海域を示す地形名であるが、一般的には同様の地形名である瀬戸や水道よりも規模の大きい場合に使われるようである。
しかし、瀬戸内海や紀伊水道は規模的にはどうなんであろうか・・?。

あの好奇心と知識欲の旺盛な吉田松陰は、竜飛崎に立って津軽海峡越しの蝦夷地を眺めてはいるが渡ってはいない。 
海峡は、津軽までやってきた旅人でも嘗ては、その先の旅路を諦めるに充分な荒海であり、当時は容易に越すに越されぬ荒ぶる大自然そのものであったのだ。

しかし、荒々しい海峡を果敢に攻めた人物もいた。 
伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四朗などは別格としても、この地で独立国家を夢見た土方歳三や榎本武揚、蝦夷の莫大な物産に目を見張り日本海の海運路を切り開いた高田屋嘉兵衛、ベイエリアに赤レンガ倉庫群を建設した渡辺熊四郎など、函館の地に大いなる夢を見た御仁人々だった。



ところで、小生、北海道へ渡る時も同様にこの海峡、海域を通っているが、津軽海峡は、この地(海)が最も幅が狭い海域なのである。(実際は汐首岬と下北半島の大間崎の間で、約19kmある) 
この海域に対し西側の松前の白神岬と津軽半島竜飛崎間は20kmとやや長い。

太古の昔、日本列島が今の形になる以前、津軽海峡は所謂、瀬戸か水道の様な狭い地域であったらしい。 中央部の海底は、峡谷のような地形で東西に伸びていたらしいが、この海底の水深が約140mと一番浅くなっている地帯が「竜飛⇔白神岬」の間である。 
その為、ここを鉄道専用の「青函トンネル」(津軽海峡線)が通したのであった。 


ところで、この海峡に実際の道路トンネルや道路橋はないが、名目上は国道279号、国道280号、そして国道338号などが横断しているのである・・?。 

国道279号は、現在小生が乗っているこの連絡船航路がそうであって、起点が函館市若松町・函館駅前交点から、終点は青森県野辺地町の松ノ木平交点で陸上距離・107.0km、海上区間が津軽海峡(函館⇒大間、東日本フェリー航路)となっている。 
大間の港には、国道279号からフェリーへと標識で表示案内されている。

国道280号は、起点が青森市長島2丁目(国道4号・国道7号終点)から、終点は函館市万代町(万代跨線橋交点=国道5号交点)で陸上距離・142.0km、海上区間は三厩⇒福島間の津軽海峡である。
青函トンネル建設時はこの区間のフェリー(東日本、三福)で資材の通運が行はれた。 
又、江戸期、松前藩の参勤航路でもあり「松前街道」でもあった。

国道338号は、函館から下北半島の大間まで海上区間を含め国道279号と重複するが、下北半島では西岸・南岸(佐井、脇野沢、川内)を経由する道路であり、むつ市からは太平洋沿岸部を通り六ヶ所村、三沢、下田までの国道である。



この海峡、この船の下に「日本一のマグロ」が泳いでいるんだと思うと何だか不思議な気がする。 
今はこの大海に一隻の船も見当たらないが、早朝、多い時で100隻近い船がマグロを追ってゴッタ返すという・・!。 

大間は近海マグロの産地として昔から「1匹獲れれば数百万円」といわれる夢を追って、そしてそれを実現しようとする漁師で溢れる。 
築地でも「大間産マグロ」は、今では1kgで4万、5万と値が付き200キロ超のマグロだったら一匹で1千万円にもなるという。

そもそも、マグロにはミナミマグロやキハダ、メバチ、カジキなどと色々あるが、大間のマグロこそ本マグロと言われる「黒マグロ」なのである。南太平洋で産まれて、その群れが黒潮にのって北上し日本沿岸にやって来る。 
そして、親潮と黒潮のぶつかるエサの豊富な東北北部、津軽海峡は一大漁場となるらしい。 

大間の沖の「弁天島」付近はその天然の餌場となり、真さに「大間の宝海」と言われる由縁なのである。 
しかも一番値段のいい年末年始頃に良く獲れて最高の値段がつく、それは秋に豊富なエサ食したマグロが冬には身が締まり脂が乗るからといわれる。


大間のマグロの漁方はご存知「一本釣り」であるが。
他にも漁方は延縄(はえなわ:1本の幹縄に多数の枝縄《これを延縄と呼ぶ》をつけ、枝縄の先端に釣り針をつけた構成となっている)、曳縄(トローリング)、定置網などが知られるが、近年は養殖ものも増加しているという。



津軽海峡といい、マグロ漁といい、この海域は小説や物語には事欠かず、特に演歌が良く似合う恰好の水域なのであろう。 その代表的なのが、やはり此れであろう、 昭和52年にはレコード大賞も受賞している。


『津軽海峡冬景色』 唄:石川さゆり

上野発の夜行列車 おりた時から
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは 誰も無口で
海鳴りだけを きいている
私もひとり 連絡線に乗り
こごえそうな鴎見つめ泣いていました
ああ津軽海峡・冬景色


次回は北海道の父・「松浦武四朗」




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2010年4月12日月曜日

日本周遊紀行(87)函館 「高田屋嘉兵衛」

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日本周遊紀行(87)函館 「高田屋嘉兵衛」


高田屋
高田屋嘉兵衛公園に立つ銅像



函館空港」の標識を見ながら町並みが軒を連ね、賑やかさと騒々しさが増してきた、都会に来たという実感である。 
北海道に上陸した時に最初に世話になった、「湯の川温泉」を通過する。 
時々市電と並行し、或るいは、すれ違いながら函館フエリー埠頭へ着いたのは、15時時半を回ってっていた。


函館は道内を出発する際にも些か述べたが、更に詳しく述べようとすると本稿は幾行、幾枚あっても足らない。 今回は、極めてかいつまんで「高田屋嘉兵衛」(たかたや かへい)について記してみよう。


江戸末期の函館は、日米和親条約や日米修好通商条約により日本初の国際貿易港として開港していらい外国人居留地も設置され、異国情緒タップリのロマン溢れる街並になっている。 
この町並みの開祖といわれる重要な人物に「高田屋嘉兵衛」がいる。
 
嘉兵衛は、江戸時代後期、淡路島(現在の兵庫県津名郡五色町)の貧しい農民の子として生まれている。 
18歳で廻船業者を志し淡路と大坂とを往復する瓦船(瓦を運ぶ専用船)に乗る。 
寛政7年(1795年)1,700石積の「辰悦丸」を建造し、本格的に廻船業へ乗り出す。幕府役人である近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などとも接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。 又、幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌(うりさばき)方となり、函館の北洋漁業の基を築いた功労者である。 
その卓越した商才と度胸で巨万の富を得た。

文化9年(1812年)ロシア船ディアナ号艦長ゴローニンが、偶々蝦夷(北海道)沖の地理を調査中、クナシリ島で水・食料の補給を得ようと上陸した途端、警備隊に捕らえられるという事件がおこる。
今度はディアナ号の近くを偶然通りかかった嘉兵衛の船が捕らえ、嘉兵衛を配下五人と共にカムチャッカへ連行抑留される。 
囚われの身となった嘉兵衛は、ディアナ号の副艦長と話し合い、帰国後、松前奉行を説き伏せてロシア側に侵略の意図が無い事を納得させてゴローニンを解放し、併せて仲間の人質解放に尽力した。 
直後、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられている。
晩年は、故郷淡路島に戻り、港や道路の修築など郷土のために力を尽くし、1827(文政10)年、59歳で自宅で静かにその生涯を閉じている。

作家・司馬遼太郎が、高田屋嘉兵衛を書いた小説・『菜の花の沖』の中で、「今でも世界のどんな舞台にでも通用できる人物」と称している。



江戸幕末の1858年の頃「箱館」と呼ばれる小さな港だった時代、帆に風を受けて高田屋嘉兵衛はやってきた。 
松前藩の横暴を嫌った嘉兵衛は、松前の地を敬遠して当時まだ寒村にすぎなかった「箱館」に事業拠点を構えたのである。 
その後の函館の繁栄はここにはじまるのであるが。

嘉兵衛は、松前藩や藩士、そして藩に取り付く和人の商人どもを敬遠し嫌っている。 
高田屋嘉兵衛の活動の場が蝦夷地に移り其処に足を踏み入れた時、「松前藩の暴政は修羅場の如くである」と嘉兵衛は感じていたのである。 
豊臣と徳川の両方に取り入った歴代藩主は江戸から遠いのをいいことに、アイヌを酷使し、搾り取り、追いつめて、やりたい放題をやっていた。 
藩は、蝦夷地沿岸の各所に漁場を設け、本土からやってきた商人らを手足にし、アイヌたちにニシンやサケや昆布をとらせて「動物以下に扱って搾りとった」、「藩は、その商人たちに寄生し、かれらから運上金(税金)をとるだけで暮らしている」と、嘉兵衛は嘆いた。

更に彼は、松前藩のアイヌ統治の手口を見たのである。
アイヌには和語の使用も学習も禁じ、穀物類の栽培も禁じたし、和人が種子を持ち込むことも厳禁した。 
蓑も笠も草鞋も用いさせなかったし、道路の一本作らせなかった。 
藩の狙いは、アイヌを原始狩猟時代の生産様式の段階に閉じ籠めてき、その方が搾取には都合がよかったのである。
嘉兵衛は、そんな藩を敬遠しながらも幕府とは常に接触をもち、航海商圏を北方領土や樺太にまで広げていくのである。

こんな時期にロシア人との人質事件が起きた。 
彼は函館の町を興しながら、ロシア人達と人質を取った取られた、返せ返さないの難しい交渉事、国の争いを1人の外交官として人間性を発揮し解決していく。 
そして最後には松前藩、幕府を説得する。

高田屋嘉兵衛は北海道、千島の漁場を開拓して得た利益を函館の開発に投入した。
函館の歴史を語るには欠かせない人物として今も市民の間では名高い。



因みに、昭和、平成の昨今、北の方角(北海道)は冴えないと言われる・・!! 

北方領土返還、北海道拓殖銀行の倒産、それに北朝鮮絡みもあり北海道経済といえば平成不況の代表のようなものといわれるが、今その函館は如何であろうか・・??。

函館の昭和期は100万ドルの夜景、特異な町並み、名物・函館朝市場等々・北海道観光の拠点で人、人、人の大混雑であり、中高年団体や修学旅行の生徒でごった返しの時代であった。 その函館は、今現在も変わることはない・・!!。

それに対して今の「松前」はどうであろうか・・?
松前の本拠は無論、往時の蝦夷地を支配していた松前藩のことで、現在の松前郡松前町である。 
当時、函館とは地理的にはほぼ同じ条件下にあった筈であるが、今の松前は江戸期の豪勢な面影は全く無く、死に体になってしまっているのが現状である。 
これはもしかしたら「アイヌの怨念」によるものか・・??。 

松前のJRローカル線は廃止され、菱形の北海道のしっぽの先とも言われて恐ろしく不便な土地柄になってしまった。 
尤も、本州とは最短の距離に有って、いざアイヌ軍勢に逆襲されても津軽海峡を一っ漕ぎで逃げ帰れるから、というのが立地の理由もあったらしいが・・?、 
その通り、幕末の松前藩は函館戦争においては土方軍勢に追い立てられ本州へ逃げ帰っているのである。



昭和33(1958)年、函館開港100周年の記念事業として函館山のゆるやかな斜面である「高田屋通り」のグリーンベルト宝来町の一角に4m程の彼の銅像が建てられた。 

函館出身の彫刻家・梁川剛一氏の製作のよるもので地元の絵葉書にもなっているとか。 
銅像としては東京・皇居前広場の「楠公像」(楠木正成)、土佐・桂浜の坂本竜馬像と共に日本三大像の一つとされる。 
尚、嘉兵衛の死後から6年後、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落している。

2004・12月、函館市は戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町と合併し、新たに広大な函館市が発足している。


次回は「津軽海峡」






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2010年4月11日日曜日

日本周遊紀行(86)亀田半島 「恵山」

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日本周遊紀行(86)亀田半島 「恵山」


             亀田半島先端の「恵山岬」



「亀田半島」の全域は函館市になった・・、



余り一般的ではない呼び方だが、渡島半島の南東端、函館市から鹿部町を境界に海に突出した部分を「亀田半島」ともいう。 南は津軽海峡、北は内浦湾、東は太平洋に面する。その太平洋岸は山肌が海岸線に落ち込む険しい海岸でもある。

南茅部町の長い海岸、その東端のトンネルを抜けると「椴法華村」(とどほっけ)である。
」の字が読めなくて往生したが、椴法華も珍妙な名前である。 
やはりアイヌの言に曰くがあり、「トトポケ」の意から成っていて、「岬の裏側」とかいう意味があるという。 
確かにこの先の向こう側には「恵山岬」が在る。 

その亀田半島最東端にあたる「恵山岬」は太平洋に突きだしているため眺めが良く観光地にもなっている。 
岬の近くには活火山である恵山(618m)がそびえ、海岸近くには温泉(恵山温泉郷)も湧出する。 


その恵山岬へと向っている・・、

国道278は港・部落の入り口辺りで内陸へ向かっているが、我が車は直進する。 
椴法華の港、浜町の細い部落道を慎重に進む。 

この辺りの海域は津軽海峡を抜けた暖流と千島海流が交わる潮目に近く、海産資源が豊富である。 主な漁獲物はスルメイカ、ホッケ、スケトウダラ、コンブなど水産加工も盛んだという。 

急坂を上りきった処に、サッパリと広がった高台が在った。 緑の芝生が眩しい「恵山岬公園」である。
今は人っ子一人いなく些か寂しい場所であるが・・、駐車場から岬灯台までは5分ほど歩かなければならない。

真白の恵山灯台が海岸線に映える。 道内でも古く1890年(明治23年)には点灯したという。 
日本の灯台50選、100選に選ばれている。 振り返ると「恵山」の姿が雄雄しく端正で良い、裏側は爆裂火口の地獄谷からから噴煙を激しく噴き上げる活火山でもある。

この恵山は標高618mという普通の低い山だが、シラネアオイ、ムラサキヤシオツツジ、ミネズオウなどの本州では2,000m級の高山でしか見られない高山植物が群生しているといい、山頂からは北は羊蹄山、南は津軽海峡、下北半島の山々を望むことができる。 
又、山麓の 「恵山つつじ公園」は、5月下旬から6月上旬に60万本ともいわれるエゾヤマツツジ、サラサドウダンツツジが咲き誇る。

そして、やはり温泉も有る。
恵山温泉郷は活火山の恵山の中腹から麓にかけて湧き出す温泉で泉質は硫化物、塩化物が主、酸性度が高くph2.1で濃い塩味がする。 
湯の華が多く発生し、黄褐色をしていて極めて濃厚な温泉のようである。 
国民温泉保養地にも指定されていて、施設は町営の日帰り温泉をはじめ各宿泊施設でも立ち寄り湯があり、300円程度とお手頃のようだ 。



ところで、恵山岬から海岸沿いに恵山町から戸井町へ行こうと思ったが, 「水無浜」というところでで道路が途切れている。 
やむなく来た道を戻ることになった。 

お互いの道は地域界まで来ているのに肝心な所で途切れている、何とも不便で不合理な事だ。町村同士(椴法華・恵山)何事か曰く因縁があって折り合いが付かないのか、それとも単なる自然条件のそのためか。 
いずれにしても、真近に控えている大都市・函館側からはアクセスできないのは如何なものか、主要観光地だけに何とかならないものか。
尤も、今は「函館市」になっていた、大都市函館である。
その内、何とかしてくれるのであろうか・・?。

恵山岬から国道278号線へ通じる分岐までは狭い道が続く、この地点から函館まで47kmとあった。
函館から大間へのフエリー便は確認した結果16時20分、現在時刻は14時30分、何とか今日中に本州へ渡れそうではある。



相変わらず、R278は海岸間近を行く、恵山岬を境に大洋は内浦湾から津軽海峡になる。

戸井町へ入り、暫く行くと本州とは最短の岬といわれる「汐首岬」へ来た。 
岬のことはともかく、この岬付近から山手の方角を見ると、コンクリート造りの鉄道のアーチ橋らしいのが見えている。 
それはかなり古風なつくりではあるが、巨大なガッシリした造りで一種異様さも感じられる。当然、ここも合理化の名の下に廃線の憂き目をみたのだなー・・、と思っていた。 
ところがこれは廃線ではなくて未完成線である事が判った。


戦時下、戸井町に要塞を建設するといった軍事的な目的で、函館本線の五稜郭から戸井までを結ぶ戸井線として工事建設が開始された。 
概ね九割方の路盤が完成していたものの、戦時中ということもあり資材不足のため1943年(昭和18年)に工事は一旦中断してしまう。 
だが終戦を迎え、結局建設は再開されないまま中止となり、その後放置されたままで現在に至っているという。
関連して、戸井は本州とは最短距離にあり、当時現行の青函航路の代替航路として青森県の大間との間に連絡船運行計画があったという。

戦争惨禍の遺構、「見果てぬ夢の跡」にしては、その壮大さゆえに悲惨さを禁じ得ない。


次回は函館・「高田屋嘉兵衛



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01. 15.

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