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日本周遊紀行(129)東京 「江戸城・桜田門」
幕末騒乱の時期、「桜田門」外で起きた「変」について・・、
「桜田門外の変」略図と現在の桜田門
江戸城・皇居の東にあたるのが表門といわれる
大手門、西側にあるのが
半蔵門、そして南面のあたるのが「
桜田門」である。
皇居外苑と日比谷公園に挟まれた銀座四丁目に通づる主要道路(15号線)を西へ進むと、新装成った白い高層の東京警視庁が聳える。
昭和期までは赤茶けた威厳のある建物でTVなどでもお馴染みであるが、この建物の正面に「
桜田門」がある。
この警視庁を通称あるいは隠語として“
桜田門”と呼ぶときもあるという。
更に、西へ進むと正面に日本の政治を司る
国会議事堂があり、この周辺は所謂
永田町といわれる処で
政治の中枢機関が集積しているところでもある。
この一角に「
紀尾井町」という、何やら意味深の地名があるが、江戸時代には徳川御三家の「
紀州家」、「
尾張家」そして、「
井伊家」の屋敷が占めていたことから、その名付けられた。
その頭文字を一字づつ取って「
紀尾井町」としたのである。
井伊家といえば幕末の大老である「
井伊直弼」も住まわれた地である。
尤も、実際の井伊直弼の住んでいた井伊家の上屋敷は、今の議事堂の正面にある憲政記念館の処であり、桜田門からこの地までの距離は概ね500mぐらいであろう。
この桜田門の付近で
大老・井伊直弼が襲撃、斬殺されたのは安政7年(1860年)3月3日であった、享年46。
安政年間とは・・、
徳川治世が家康以来250年以上もの長期間を有していて、いよいよその屋台骨がぐらつき始めた頃でもあった。
江戸時代後期の日本には外国船が相次いで来航した。
嘉永6年(1853年)、
アメリカの使節ペリーが
黒船(黒い塗装の軍艦)4隻を率いて江戸湾の浦賀沖に、更に翌年、軍艦7隻を率いて再渡来して日米和親条約が調印され、日本は新しい時代に船出することを余儀なくされた。
その後も引続き米国総領事ハリスが下田に来日、ペリー顔負けの強圧的な態度で、日米通商を求めてきた。
この頃、お隣の中国では
アヘン戦争(当時の清とイギリスとの間で2年間にわたって行われた戦争で、名前の通り、アヘンの密輸が原因となって発生した戦争)に敗北した結果、日本国内でも対外的危機意識が高まり、幕閣では海防問題がしきりに議論されるようになる。
通商の求めに対して何とか先延ばし戦術を取りながらも、混乱をさばいてみせた老中・阿部正弘も心労がたたって退任、幕府・諸藩・公家の混乱はピークに達していた。
安政の年号は1859年まで約6年間続くが、その頃世間では「
攘夷」か「
開国」かで幕府と朝廷、幕府と水戸藩とが意見の相違、二元論的対立関係になってゆく。
勢力で言えば、圧倒的に攘夷派優勢という図式であり、それら攘夷に頑強な水戸や朝廷もその意向でもあった。
ところで、アヘン戦争で敗戦国となった
清は多額の賠償金と香港の割譲、各地のの開港を認め、又、治外法権、関税自主権の放棄などを余儀なくされた。 所謂、戦勝国・イギリスと清との間に不平等条約を締結せざるを得なかった。
この事を知った幕閣は列強国とは穏便に開国せざるを得ず、通商条約実施の方向へ傾くようになる。
調印を迫ってきたハリスに対しても、阿部正弘の後の老中に就任した堀田備中守は、朝廷の権威を借りて事態の打開を図ろうと孝明天皇から勅許を得ようとしたが、朝廷とその取巻き達(梅田雲浜ら在京の尊攘派)に反対され得ること出来なかった。
「
攘夷」とは、外来者を追い払って平和を維持するという発想・考え方で、国内では国学の普及にともなって民族意識がとみに高まった時代でもあった。
尊皇攘夷とは・・、
天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ないという考え方で、江戸幕末に革命の旗印になった思想でもある。
尚、尊皇攘夷の延長線上には天皇を親政とし、徳川幕府は徳川藩一藩とし、尚且つ倒幕の思考が含まれてもいた。
これらの急先鋒が長州の
吉田松陰、越前の
橋本左内、儒学者の
頼三樹三郎などであった。
このような攘夷論者が跋扈する安政5年(1858年)4月、近江の
井伊家藩主・井伊直弼が大老職(将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職)に就任し、これらの混乱を収拾しようとした。
井伊直弼・・、
徳川譜代の四天王といわれる
酒井、本多、井伊、榊原のうち、
井伊家はその筆頭とも言われ、江戸期には近江・彦根藩 35万石の譜代大名となっている名家である。
その彦根藩の第13代藩主が井伊直弼である。
藩主の十四男として生まれた直弼は、17歳から32歳頃までの15年間を部屋住み(次男以下で分家・独立せず親や兄の家に在る者)として過ごし、この間、
長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木にたとえ、
埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住宅で、世捨て人のように暮らしていた。
この頃和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していて、あだ名を「
チャカポン(茶・歌・鼓)」とか囁かれたれらしい。
ところが兄弟達の不慮の死去により家督を継ぐことになり、
第13代藩主・掃部頭(かもんのかみ)となって急遽江戸へ
遷任する。
隣国の国情や外国事情を多少でも知っている直弼は、アメリカ使節ペリーが浦賀に来て修交を迫ったときには既に開国を主張し又、将軍継嗣問題では和歌山藩主・徳川慶福(よしとみ)を推挙、一橋派と対立する。
その後、安政2年(1858年)大老職に就任し、勅許なく日米修好通商条約に調印し、慶福=家茂を将軍継嗣に決定する。
大獄と桜田門・・、
大老の強権をもって「
将軍継嗣問題」、「
条約調印問題」などの懸案事項を強引に解決しようと日米修好通商条約に勅許を得ないまま調印、将軍継嗣にも決着をつける。しかし、水戸をはじめとする攘夷急進派達はこれらに徹底的に反対する。
大老・直弼は懐刀・長野主膳を攘夷の本山とも云われる京都に遣わして、尊皇攘夷派の調査や裏工作を指示していたが、結果、過激志士達の処罰を進言する。
直弼も直ちに幕府政策における妨害となる思想や行動、幕府の秩序を乱す行い、京都朝廷に擦り寄る反幕派や水戸密勅事件(天皇が水戸へ直接に勅諚を下した)の水戸側関係者に対して一斉取り締まりを行い、不貞の輩は処罰して一掃を行う事を決定する。 所謂、「
安政の大獄」である。
大獄の結果は、
橋本左内(越前藩士)、
吉田松陰(長州藩士)、
梅田雲浜(小浜藩藩士:尊攘志士)などの刑死、又、水戸の
徳川斉昭、一橋慶喜、松平慶永、伊達宗城、山内豊信など各藩主、川路聖謨などを蟄居、謹慎にした。
藩主らを謹慎させたことに更に猛反発した
水戸藩攘夷過激派は脱藩して浪人になり、独自に大老襲撃を断行することを決め、
薩摩からは有村が一人加わった。
そして遂に当日の雪の朝、一行は決行前の宴を催し一晩過ごした後、外桜田門へ向かうのである。
藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の直弼を江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃した。
井伊家には前もって警告が届いていたが、直弼はあえて護衛を強化しなかったといい、更に当日は季節外れの雪で視界は悪く、襲撃側には有利な状況だった。
江戸幕府が開かれて以来、江戸の市中で大名駕籠を襲うという発想そのものが全くの想定外で、彦根藩側の油断を誘うことになる。
合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。
発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。雪の中、彦根藩士たちは柄袋(刀の柄にかぶせる袋、一般には旅行・雨天などの時に用いる)が邪魔し不利な形勢だったが、二刀流の使い手もいて襲撃者たちをてこずらせたが、次第に護る者も居なくなり、直弼が乗っていると見られる駕籠に向かって次々と刀が突き立てられた。
さらには
有村次左衛門(ただ1人の薩摩藩士)が扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出し、有村が発した居合いで首は鞠のように飛んだという、享年46であった。
襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事で、一連の事件の経過と克明な様子は、狩野芳崖作『
桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)などにも鮮やかに描かれているという。
井伊大老が断行した「
安政の大獄」は、結果として幕府のモラルの低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因ともなったとも言われてる。
『大老』から・・、
井伊家の上屋敷のあった憲政記念館の北部隣に「
国立劇場」がある。
奇しくもこの劇場で2008年の秋口、
中村吉右衛門が主役で井伊直弼役の題して『
大老』が、歌舞伎で演じられていた。
小生も観劇して感激したが、一心に国政を担うことになった直弼の波乱の生涯を、妻や家臣、敵対する人々とともにダイナミックに演じられていた。
そして最後の幕では・・、
”降りしきる桜田門外、水戸の浪士たちが登城する直弼を襲撃、駕籠に留まった直弼は、『
大義をあやまるな・・!!』と浪士たちに叫んで、凶刃に倒れる”
次回、維新前夜の「
江戸城」
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