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日本周遊紀行(157) 宮崎 「マイ・ファミリー」 、
宮崎は神代四代の地、そしてこの宮崎の地に我等四代のファミリーが訪れた・・! 、
国保・保養センタ-「あおしま太陽閣」は、昨日夕刻になって予約を入れた為、夕食抜きの朝食のみの宿泊となった。
温泉は普通に入れて身体を癒すことが出来、大洋と青島に面した大浴場は大変良く、特に露天風呂は爽快だった。
宮崎は、日本でも源泉素材の温泉が比較的少ない県と承知していたが、まして、青島が温泉地であった事は恥ずかしながら存じなかった。
青島温泉は、青島を中心に太平洋沿いに広がる温泉地で、豊富な湯量を誇るという。
数ある効能のなかでも特に美肌効果が高いといわれ女性に人気だとも。
温泉の泉質は炭酸水素塩泉(弱アルカリ単純泉)、単純硫黄泉(24~44度)で一般的適応症、痛風、冷え性、動脈硬化症、消化器病、神経痛などに効果がある。
何時(いつ)ものことながら朝湯を頂いて軽い散歩の後、朝食を摂ってホテルを後にする。
今朝の出発はいつもと違って心うきうき晴れやかである、何故なら、小生の家族(上さん)ほか義母及び娘一家が午前9時頃この地・宮崎空港へやって来るのである。
予定としては、今日、明日で宮崎から鹿児島を周遊し、明日夕刻宮崎港から最後の航海記念となる「マリンエクスプレス」に乗り込むためである。
小生もこのタイミングに合わせて、今まで行動してきたのであったが。
空港近くのレンタカー営業所へ向かい、ワンボックスの車をチャーターして空港へ向かっい、時間的にやや早かったので空港周辺を散歩してみた。
現在の宮崎空港は、平成2年の大幅改装でオープンした新しい空港で、気持ちのいい明るい雰囲気のターミナルである。
地方空港としては珍しく空港にJR鉄道が直接乗り入れ、 (JR九州 宮崎空港線)空港ターミナルに直結しているし、JR宮崎駅へは凡そ5kmと非常に近いので何かと便利である。
空港ビルの周囲は南国らしく椰子の木が植えられ、花壇には南国ムードを増す特有の植物が植栽してある。
これが、南国の青空に映えて何とも結構な風情なのである。
滑走路は東西方向から海岸へ向かい離発着しているようで、周りにはまだ畑が沢山残っている。人気の宮崎観光では、夏休みやゴールデンウィークなどいわゆる繁忙期の観光シーズンはいずれの便も集中し、かなり混雑するようであり、席の予約は早めがよいという。
一時して、予定時間より少々遅れたが、皆の元気な姿を拝見できた。
特に、孫共の三人が「ジージ」と言いながら駆け寄って来て、頬擦りあい抱擁したのには些か感激であった。
孫達は女児、男児、女児と未だ未就学の三人で、外孫とはいいながら人懐こく、可愛さは満点である。
車に乗り込んだ後の、観光の道順は昨日小生が巡ってきた逆方向を辿ることにした。
先ず青島であった、初夏の炎天下での水遊びは最高で、レイの洗濯板に先ず驚き、そして孫達は早速、溜まり水の中の小貝や小魚を追い回していた。
全員で青島をバックに写真に納めて出発する。
すぐ先の「堀切峠展望台」で一休みし、日向灘の大海と眼下に広がる例の洗濯板を眺めた。
南海のフェニックスロードは一段と快適で、明るい大洋を望みながらも車内では小生の道中話は勿論、既に、20日間に及んで留守にしている自家の様子等話は尽きないのであった。
鵜戸神宮では波打ち際の断崖絶壁に建つ豪快な社、岩屋の中に建つ絢爛なる本殿に驚愕していた。
この日も昨日同様、天候のわりには波が高く、奇岩怪岩に打ち寄せる波頭の飛沫にもビックリ圧倒されていた。
大鳥居から八丁坂参道沿いの「三ツ和荘」というお食事・お土産どころで昼食となった。
客数も少ないとあってか、給仕のお姐さんが妙に親切である。
料理も大満足の美味さであったが、地元産の「甘夏柑」・・?の絞りたてを全員にサービスしてくれて、おまけに、お替り自由との事であった。
「お土産、沢山買わんといけないネ・・」、
「そげなつもりはなかよー、気にせんといて・・、でも、少しは買って欲しいカナ・・、」
旅の疲れを癒してくれる気軽な会話に、ホンノリした気持ちになる。
尤も、上さんは孫のために少々の買い物をしたようだがだが、オモテの暑さに閉口しながらも、再び車中の人となる。
御土産やの姐さんの話だと、詳しいことは判らないと言いながらも、青島神社が「親」だとすると、ここの鵜戸神宮は「子」であり、宮崎の宮崎神宮は「孫」の三代に亘っていると言う。
尤もであり更に神社、神宮ではないが、同じ宮崎県内で北部地区の延岡・北川町の境には「可愛山」というのが聳え、可愛山稜という墓稜がある。
この可愛山稜は天孫降臨の最初の神である「ニニギ」が降り立った所とされ、(鹿児島・川内の可愛山稜と二つの共通伝説が有る)この神はヒコホホデミ・山幸彦(青島神社)の親とされる。
このニニギを合せると宮崎地方には四代の神々が祀られていることになるのである。
思えばこの宮崎の地で、現在の我らの家族も義母(上さん:妻の母親)を親とすれば、子が2人、孫2人そして曾孫が3人と、合せて6人の四代が居合わせているのであり、何やら通じるものがあって妙な気持ちになるのである・・?。
ともあれ、これら神社、神宮には大昔の海彦、山彦や乙姫、浦島太郎伝説が関わっているともいわれる。
歴史物の好きな娘・主人(孝博氏)は『 天孫降臨くらいは知ってたが、宮崎神宮は「神武天皇」を祭っているのか・・?、実際は、奈良の「橿原神宮」がそのはずであるが・・? 』と素直な疑問を呈し、小生と車内で神や神社について雑談風に話していた。
特に、孝博氏の住む近くには「大国魂神社」が祀ってあり、小生の至近には相州・一の宮「寒川神社」が鎮座していて、何れも、祖神である出雲やお伊勢に関係する神社であり、我家の年中行事には欠かせない社宮なのである。
ともあれ、我家のファミリーはこれから後、周辺観光しながら鹿児島・指宿温泉まで向かうこととなる。
次回は、「神々の譜系」
『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
.
祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月)
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
.
2011年7月30日土曜日
2011年7月29日金曜日
日本周遊紀行(157) 宮崎 「青島」
.
日本周遊紀行(157) 宮崎 「青島」 ,
「鬼の洗濯板」と言われる海食岩盤
弥生橋と青島
島内、ホデミ(山幸彦、他二神)を祀る「青島神社・本殿」
鬼の洗濯板と神話の「青島」・・、
鵜戸神宮より先の海岸国道は「日南海岸」といって南国の陽光が降り注ぎ、亜熱帯植物が生い茂る日本有数の景勝地である。
特に、日南海岸の巾着島から戸崎鼻に至る間の海岸にみられる俗称「鬼の洗濯板」といわれる特異な風景は、眼を奪うほどである。
「洗濯板」とは波打ち際に平坦に広がる岩盤のことで、これらの表面が小さな波を打った様なギザギザになっていて、一見、洗濯板のように見えることからの譬(たとえ)である。
洗濯板と言っても今の若い人には馴染みが無いであろうが、タライなどを用いて衣類の洗濯の時に使うギザギザの“刻み目”のある板のことである。
「鬼の洗濯板」は専門的にいうと「隆起海床と奇形波蝕痕」というらしく、海面部分が波浪侵食を受けて互層の堅さの違いにより侵食され、規則的に凹凸を生じ形成されたもので、干潮時には海岸線から幅約50mから100mにわたって見られるという。
堀切峠付近(日南海岸の展望地)は、フェニックスの葉越しに広がる大海原・日向灘が実に気持ち良く眺められる。
峠の下は一面の「鬼の洗濯岩」で、この見事さは意図的に演出したような景観であり、日南海岸のハイライトでもあろう。
日南フェニックスロードの風景を満喫しながら、海岸沿いの堀切峠を越えると「青島」である。
国道の案内板に従って、「青島」への案内通路を抜けると広い白い砂浜に出る。
その中央の陸橋(弥生橋)を渡して青島が横たわっているが、例によって海面には鬼の洗濯岩が陸橋の左右に広がっている。
干潮時の凹部には小魚やウニ・ヤドカリ・イソギンチャク・貝など沢山の海中小動物を見つけることが出来、子供達は大賑わいで、大人も童心に返り結構楽しんでいるようである。
中央に「弥生橋」といって、優美な橋が海上より青島え架けられている。
青島は、周囲1kmほどの小さな島であるが、亜熱帯植生の椰子科の植物・「ビロウ樹」(国指定天然記念物)が5千本ほど自生し、ビロウ樹の密林に入るとトロピカルムード一杯である。
島の中央、ビロウの密林の中に「青島神社」が鎮座していた。
神社は、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦)、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)そして、塩筒大神(シオヅツノオオカミ・神話では竜宮で山幸彦を案内、指示したとされる白髭老の神)の三神が祭られており縁結び・安産・航海・交通安全などの御利益があるという。
尚、江戸期の頃までは神聖な場所であるため、祭日以外に一般人が立ち入ることは禁じられていたが、1737年(元文2年)以降、弥生(旧暦の3月)後半の一時期に限り一般人の参詣が許されるようになった。
更に、明治以降は年間を通して立ち入りできるようになったという。
神社の境内には、祭神の由緒と日向神話(海幸彦と山幸彦の物語)を蝋人形により判りやすく伝えている「日向神話館」もある。
青島は、トロピカルな自然と同時に、古代ロマンにもひたれる人気のスポットである。
又、青島ビーチは日本一綺麗な青島海水浴場といわれ、波の静かな海で夏場は多くの海水浴客で賑わうという。
小生に言わせれば、湘南地方(相模)の「江ノ島」のミニ版といったところか・・?。
青島は所謂・陸繋島といわれる砂州で陸と繋がった島であり、我が江ノ島も同様なのである。
宮崎の主要観光のコースは、宮崎の駅又は空港から先ず青島に至り、日南海岸、鵜戸神宮を巡るのが一般的であるという。
昭和30年代から40年代にかけて宮崎は空前の新婚旅行ブームであった。 その観光の第一ポイントが、ここ青島界隈である。
当時、日南海岸での新婚旅行を唄った歌にデュークエイセスの「フェニックスハネムーン」というのもあり、新婚旅行ブームをよく物語っている。
しかし、今現在は当時の面影は無く、町全体が寂れてしまっている感じは否めない。
島へ通じる土産店の多くはシャッターが下りているし、青島海岸の一等地にある橘ホテルは、遠目には白い建物が青空に映えているが、倒産して15年以上も放置され廃墟と化している。
青島市街にはこのような寂れた風景が、あちこちに窺えるのである。
夕刻迫る中、今夜の泊まり宿、国保保養センタ-・「あおしま太陽閣」へ向かった。
次回は、「マイ・ファミリー」
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鵜戸神宮より先の海岸国道は「日南海岸」といって南国の陽光が降り注ぎ、亜熱帯植物が生い茂る日本有数の景勝地である。
特に、日南海岸の巾着島から戸崎鼻に至る間の海岸にみられる俗称「鬼の洗濯板」といわれる特異な風景は、眼を奪うほどである。
「洗濯板」とは波打ち際に平坦に広がる岩盤のことで、これらの表面が小さな波を打った様なギザギザになっていて、一見、洗濯板のように見えることからの譬(たとえ)である。
洗濯板と言っても今の若い人には馴染みが無いであろうが、タライなどを用いて衣類の洗濯の時に使うギザギザの“刻み目”のある板のことである。
「鬼の洗濯板」は専門的にいうと「隆起海床と奇形波蝕痕」というらしく、海面部分が波浪侵食を受けて互層の堅さの違いにより侵食され、規則的に凹凸を生じ形成されたもので、干潮時には海岸線から幅約50mから100mにわたって見られるという。
堀切峠付近(日南海岸の展望地)は、フェニックスの葉越しに広がる大海原・日向灘が実に気持ち良く眺められる。
峠の下は一面の「鬼の洗濯岩」で、この見事さは意図的に演出したような景観であり、日南海岸のハイライトでもあろう。
日南フェニックスロードの風景を満喫しながら、海岸沿いの堀切峠を越えると「青島」である。
国道の案内板に従って、「青島」への案内通路を抜けると広い白い砂浜に出る。
その中央の陸橋(弥生橋)を渡して青島が横たわっているが、例によって海面には鬼の洗濯岩が陸橋の左右に広がっている。
干潮時の凹部には小魚やウニ・ヤドカリ・イソギンチャク・貝など沢山の海中小動物を見つけることが出来、子供達は大賑わいで、大人も童心に返り結構楽しんでいるようである。
中央に「弥生橋」といって、優美な橋が海上より青島え架けられている。
青島は、周囲1kmほどの小さな島であるが、亜熱帯植生の椰子科の植物・「ビロウ樹」(国指定天然記念物)が5千本ほど自生し、ビロウ樹の密林に入るとトロピカルムード一杯である。
島の中央、ビロウの密林の中に「青島神社」が鎮座していた。
神社は、彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦)、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)そして、塩筒大神(シオヅツノオオカミ・神話では竜宮で山幸彦を案内、指示したとされる白髭老の神)の三神が祭られており縁結び・安産・航海・交通安全などの御利益があるという。
尚、江戸期の頃までは神聖な場所であるため、祭日以外に一般人が立ち入ることは禁じられていたが、1737年(元文2年)以降、弥生(旧暦の3月)後半の一時期に限り一般人の参詣が許されるようになった。
更に、明治以降は年間を通して立ち入りできるようになったという。
神社の境内には、祭神の由緒と日向神話(海幸彦と山幸彦の物語)を蝋人形により判りやすく伝えている「日向神話館」もある。
青島は、トロピカルな自然と同時に、古代ロマンにもひたれる人気のスポットである。
又、青島ビーチは日本一綺麗な青島海水浴場といわれ、波の静かな海で夏場は多くの海水浴客で賑わうという。
小生に言わせれば、湘南地方(相模)の「江ノ島」のミニ版といったところか・・?。
青島は所謂・陸繋島といわれる砂州で陸と繋がった島であり、我が江ノ島も同様なのである。
宮崎の主要観光のコースは、宮崎の駅又は空港から先ず青島に至り、日南海岸、鵜戸神宮を巡るのが一般的であるという。
昭和30年代から40年代にかけて宮崎は空前の新婚旅行ブームであった。 その観光の第一ポイントが、ここ青島界隈である。
当時、日南海岸での新婚旅行を唄った歌にデュークエイセスの「フェニックスハネムーン」というのもあり、新婚旅行ブームをよく物語っている。
しかし、今現在は当時の面影は無く、町全体が寂れてしまっている感じは否めない。
島へ通じる土産店の多くはシャッターが下りているし、青島海岸の一等地にある橘ホテルは、遠目には白い建物が青空に映えているが、倒産して15年以上も放置され廃墟と化している。
青島市街にはこのような寂れた風景が、あちこちに窺えるのである。
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2011年7月28日木曜日
日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(2)
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日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(2) 、
写真:鵜戸神宮の参道界隈、
岩屋の中の本殿
そして鵜戸神宮は、日本神話に語られる「山幸彦・海幸彦」の物語の舞台となった場所でもある 。
山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)から借りた釣り糸を海へ落としてしまい、失くしたの釣り針を探すために海宮(龍宮)へと向かった。
この時、海神の娘の豊玉姫命と知り合い深い契りを結んだ。
山幸彦が海宮から帰られた後、身重になっていた豊玉姫命は「 天孫の御子を海原で生むことは出来ない 」として、この鵜戸の地に参ることになる。
霊窟に急いで産殿を造っていたが、屋根の鵜の羽や茅も葺き合わぬうちに御子が誕生になった。
故に、その子の御名を鵜葺屋葺不合命「ウガヤフキアエズノミコト」と申した。
鵜戸神宮はこの御子を主祭神として祀る社である。
鵜戸神宮の創建は、崇神天皇(すじんてんのう:第10代の天皇、年代不詳)の御代ともいうがはっきりしないようである。
782年(延暦元年)に天台宗の開僧・光喜坊快久が神殿を再興したといい、快久は同時に寺院も建立して初代別当となり、勅号「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」を賜って、神仏両道の道場として栄えたという。
明治になって廃仏毀釈によって寺院が廃止され、鵜戸神社、更に鵜戸神宮と改称されて現在に至っている。
神宮はその伝説のためか縁結び、夫婦和合、子授け、安産などの御利益で近隣の人々の信仰を集めてきた。
古くは日向の国のみならず、大隅、薩摩からも御利益を求める人々が鵜戸への街道を辿ったという。
かつて昭和中期の年代に宮崎と日南海岸が新婚旅行ブームで賑わった時代が有ったが、それは、新婚夫婦が鵜戸神宮の御利益を願った参拝が主目的であったともいわれる。
小生が鵜戸神宮へ向かったのは、海岸沿いの車のすれ違いがやっと出来る、海岸に面した断崖上の細い道であったが、昔はこんな道はなかったらしい。
今でも、通常の駐車場は(大型車等)鵜戸港より国道220号線の旧道を行ったところの山上にある。
鵜戸神宮は日向灘に面した波打ち際に築かれた社なので、従って、参道は日本でも珍しい815段という長い階段を降りて参拝することになる。
この石段は「八丁坂」といい、よく見ると石段の中央部は弓なりに磨り減って凹んでいる。
それは人々が繰り返し、繰り返し鵜戸山参りした往還の証だともいう。
近年、参道の整備によって、険しい石段を上り下りする苦労は軽減されたが、参道の険しさが一層、鵜戸山参りに人々を駆り立てるともいわれた。
昔は、花婿に轡(くつわ)をとってシャンシャン馬に乗せ、鵜戸山参りをすることが、新婚夫婦の恒例行事なっていたともいう。
社務所の建つ付近には、土産物屋が軒を並べて参拝者の旅の疲れを癒してくれる。
それにしても鵜戸神宮は太平洋に面し、燦々とふりそそぐ南国の太陽の下にあり、大変明るい神社でもある
参考までに、御祭神(神々)の系譜(日本書紀系)について、
日本神話に登場する最初の夫婦神とされる伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)がおられた。 そして、その子の一人(神)が天照大御神である。
天照神以降の譜系
天照大御神(アマテラスオオミカミ:伊勢神宮の主祭神、初代皇祖神) ⇒ 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:英彦山神宮の主祭神・福岡県) ⇒ 彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト:新田神社、霧島神宮の主祭神、天孫降臨、日向初代神、可愛山陵) ⇒ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ:鹿児島神宮の主祭神、山幸彦、日向二代、妃・豊玉姫命=トヨタマヒメノミコト ・乙姫:長崎・海神神社の主祭神、高屋山陵) ⇒ 日子波瀲武草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト:鵜戸神宮の主祭神、日向三代、妃・玉依姫命=タマヨリヒメノミコト・豊玉姫の妹=玉前神社の主祭神・千葉上総、吾平山陵) ⇒ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト:宮崎神宮、橿原神宮の主祭神・奈良県、玉依姫命の子、神武天皇、皇祖初代天皇・紀元前660年の紀元節)となる。
天照大御神から代代辿って神武天皇までは六代目に当り、神武天皇の父君が、こちらの鵜戸神宮の宮に当たる。
【神々の譜系】 、
次回は、「青島」
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祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月)
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写真:鵜戸神宮の参道界隈、
岩屋の中の本殿
そして鵜戸神宮は、日本神話に語られる「山幸彦・海幸彦」の物語の舞台となった場所でもある 。
山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)から借りた釣り糸を海へ落としてしまい、失くしたの釣り針を探すために海宮(龍宮)へと向かった。
この時、海神の娘の豊玉姫命と知り合い深い契りを結んだ。
山幸彦が海宮から帰られた後、身重になっていた豊玉姫命は「 天孫の御子を海原で生むことは出来ない 」として、この鵜戸の地に参ることになる。
霊窟に急いで産殿を造っていたが、屋根の鵜の羽や茅も葺き合わぬうちに御子が誕生になった。
故に、その子の御名を鵜葺屋葺不合命「ウガヤフキアエズノミコト」と申した。
鵜戸神宮はこの御子を主祭神として祀る社である。
鵜戸神宮の創建は、崇神天皇(すじんてんのう:第10代の天皇、年代不詳)の御代ともいうがはっきりしないようである。
782年(延暦元年)に天台宗の開僧・光喜坊快久が神殿を再興したといい、快久は同時に寺院も建立して初代別当となり、勅号「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」を賜って、神仏両道の道場として栄えたという。
明治になって廃仏毀釈によって寺院が廃止され、鵜戸神社、更に鵜戸神宮と改称されて現在に至っている。
神宮はその伝説のためか縁結び、夫婦和合、子授け、安産などの御利益で近隣の人々の信仰を集めてきた。
古くは日向の国のみならず、大隅、薩摩からも御利益を求める人々が鵜戸への街道を辿ったという。
かつて昭和中期の年代に宮崎と日南海岸が新婚旅行ブームで賑わった時代が有ったが、それは、新婚夫婦が鵜戸神宮の御利益を願った参拝が主目的であったともいわれる。
小生が鵜戸神宮へ向かったのは、海岸沿いの車のすれ違いがやっと出来る、海岸に面した断崖上の細い道であったが、昔はこんな道はなかったらしい。
今でも、通常の駐車場は(大型車等)鵜戸港より国道220号線の旧道を行ったところの山上にある。
鵜戸神宮は日向灘に面した波打ち際に築かれた社なので、従って、参道は日本でも珍しい815段という長い階段を降りて参拝することになる。
この石段は「八丁坂」といい、よく見ると石段の中央部は弓なりに磨り減って凹んでいる。
それは人々が繰り返し、繰り返し鵜戸山参りした往還の証だともいう。
近年、参道の整備によって、険しい石段を上り下りする苦労は軽減されたが、参道の険しさが一層、鵜戸山参りに人々を駆り立てるともいわれた。
昔は、花婿に轡(くつわ)をとってシャンシャン馬に乗せ、鵜戸山参りをすることが、新婚夫婦の恒例行事なっていたともいう。
社務所の建つ付近には、土産物屋が軒を並べて参拝者の旅の疲れを癒してくれる。
それにしても鵜戸神宮は太平洋に面し、燦々とふりそそぐ南国の太陽の下にあり、大変明るい神社でもある
参考までに、御祭神(神々)の系譜(日本書紀系)について、
日本神話に登場する最初の夫婦神とされる伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)がおられた。 そして、その子の一人(神)が天照大御神である。
天照神以降の譜系
天照大御神(アマテラスオオミカミ:伊勢神宮の主祭神、初代皇祖神) ⇒ 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:英彦山神宮の主祭神・福岡県) ⇒ 彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト:新田神社、霧島神宮の主祭神、天孫降臨、日向初代神、可愛山陵) ⇒ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ:鹿児島神宮の主祭神、山幸彦、日向二代、妃・豊玉姫命=トヨタマヒメノミコト ・乙姫:長崎・海神神社の主祭神、高屋山陵) ⇒ 日子波瀲武草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト:鵜戸神宮の主祭神、日向三代、妃・玉依姫命=タマヨリヒメノミコト・豊玉姫の妹=玉前神社の主祭神・千葉上総、吾平山陵) ⇒ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト:宮崎神宮、橿原神宮の主祭神・奈良県、玉依姫命の子、神武天皇、皇祖初代天皇・紀元前660年の紀元節)となる。
天照大御神から代代辿って神武天皇までは六代目に当り、神武天皇の父君が、こちらの鵜戸神宮の宮に当たる。
【神々の譜系】 、
次回は、「青島」
『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
.
祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月)
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
.
2011年7月27日水曜日
日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(写真集)
.
日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(写真集) 、
鵜戸神宮境内略図(鵜戸神宮提供)
①吾平山陵 ②御本殿 ③お乳岩 ④お乳水 ⑤霊石亀石 ⑥八丁坂 ⑦別当墓地 ⑧社務所 ⑨儀式殿 ⑫磨崖仏 ⑬千鳥橋 ⑭玉橋 ⑮神門 ⑯楼門 ⑰鵜戸千畳敷奇岩 ⑱山窟前の嚴岩 ⑳鵜戸ヘゴ北限自生地(木正のシダ)
神門前の茅の輪
神宮上部境内より観た日向灘と海食岩のパノラマ
玉橋より本殿への階段参道
岩屋の本殿前鳥居
岩屋の御本殿
本殿前からの海岸遊歩道と海食岩の造形美
日向灘の荒波が飛沫を上げる嚴岩
岩屋窟前の霊石亀石
次回も「鵜戸神宮」
『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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①吾平山陵 ②御本殿 ③お乳岩 ④お乳水 ⑤霊石亀石 ⑥八丁坂 ⑦別当墓地 ⑧社務所 ⑨儀式殿 ⑫磨崖仏 ⑬千鳥橋 ⑭玉橋 ⑮神門 ⑯楼門 ⑰鵜戸千畳敷奇岩 ⑱山窟前の嚴岩 ⑳鵜戸ヘゴ北限自生地(木正のシダ)
神門前の茅の輪
神宮上部境内より観た日向灘と海食岩のパノラマ
玉橋より本殿への階段参道
岩屋の本殿前鳥居
岩屋の御本殿
本殿前からの海岸遊歩道と海食岩の造形美
日向灘の荒波が飛沫を上げる嚴岩
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次回も「鵜戸神宮」
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2011年7月26日火曜日
日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(1)
、
日本周遊紀行(156)日南 「鵜戸神宮」(1) 、
(鵜戸神宮の写真は次項に掲載します)
鵜戸神宮には神武天皇の父君が祭られている・・!! 、
日南・油津から宮崎への国道220は、道路沿いにヤシの木が整列に並んで南国っぽい雰囲気の海岸線であり、最高に気持ちいいロードである。
程なくして「鵜戸神宮」への入口標識があり、案内に従って海岸沿いの細い道を行くことになる。
波打ち際には怪異な波うつ岩盤が広がっている。
小さな鵜戸崎灯台を右に見ながら、程なく社宮駐車場へ着いた。
気がつくとこの社は、珍しく海岸の断崖の上に建つ神社らしい。鳥居に軽く会釈をして前へ進むと神門・石灯篭があり、その手前に藁(茅)で造作した「茅の輪」が設けられてある、茅の輪くぐりの輪であった。
「茅の輪くぐり」とは、延命長寿や無病息災を祈る「大祓」の行事の一つで、「輪越祭」ともいい、古くから各地の神社で行われている。
「大祓」はわれわれが日常生活の上で知らず知らずのうちに犯したり触れたりした罪・穢(あい:けがれること、けがらわしいこと)を祓い清める神事の一つで、一般に年に2回行われ、6月の大祓を「夏越の大祓」、12月の大祓を「年越の大祓」といいという。
古くは飛鳥時代・天武天皇の御代に始まったとされ、「すがぬけ」(ちの輪くぐり)の神事ともいわれて、その起源は、古事記や風土記にも記され、神代の昔まで遡ると言われる。
ついては、この「鵜戸宮」は神代の宮であれば納得である。
茅の輪くぐりは左、右、左と三回ずつくぐるようで、∞文字を描くことになる。
実は神主さんが扱う“祓い串”(おはらい)と同じで、自分の身体を神主さんの祓い串に見立てて同じように「∞」の字を描くという事のようである。
ところで、「茅」は昔、(今でも・・)屋根を葺くのにつかわれた草木(チガヤ、スゲ、ススキ、ヨシ、アシなど)の総称で、一般に水茅、地茅に分けられ、特に、屋根葺きは産地や地方によって使い分けしているという。
「チガヤ」・地茅はススキが代表的で、原野や山地で群生する多年草で根茎は茅根といって薬にも用いられる。
又、「ヨシ・アシ」などの水茅は湖沼や河川、湿原に群生して生息するイネ科の植物である。
一面に生い茂るヨシ原は水辺に美しい景観を作るだけでなく、魚類や水生昆虫、水鳥たちにとっては大切な産卵、生息の場所でもあり、さらに、ヨシは一本で20リットルの水を浄化させる機能があるということが近年注目されている。
昔の日本は、美しい“豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国”と呼ばれていた。
「茅の輪」は、このような青草のもつ霊力をもって、日本古来の風習として悪縁を切り、厄を祓い、無病を祈る願い事に使われたのである。
神門から社務所を通って楼門に到ると華美な朱色の門は壮大で参拝者を迎える。
手前左には「吾平山上陵」へと続く小道があり、小さな鳥居が並んでいる。
宮内庁の管轄となっている吾平山上陵は、鵜戸神宮の祭神である鵜葺屋葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の陵墓ということで、鹿児島県の吾平町にある吾平山稜から分霊されたものとされるが、、こちらが本物という議論もあるという・・?。
楼門をくぐって本殿へと向かう参道は、右手に日向灘を見下ろす断崖の上を辿るようになる。千鳥橋を渡り、さらに玉橋を渡ることになり、更に、灯篭が配され良く整った急な石段を下ると、本殿の建つ海蝕洞へと導かれる。
なかなか巨大な海蝕洞窟で、朱色の華麗なる鵜戸神宮・本殿がすっぽりとその中に収まって鎮座しているのである。
入り口には御札を取り扱う巫女の姿が真に慇懃清楚で、此方の方も気持ちが洗われるようだ。
先ずは本殿に額ずいて、賑々しく謝礼参拝を行う。
眼下の波打ち際の磯辺には、二柱岩や亀石桝形岩といった奇岩怪岩が横たわり、その造形美にも目を奪われる。
参道石柵の向こうは、直下の絶壁で打ち寄せる波濤が、これらの岩盤に砕け散って飛沫(しぶき)が足元へ飛来しそうである。
太古の昔、初めてこの岬を訪れ、目にした人々はその奇観に畏怖し、神々の鎮座するところと思ったのも無理からぬことのように思える。
参道真下の岩場に亀の形をした「亀岩」というのがある(居る)。
その背の部分には注連縄(しめなわ)で囲まれた窪み(凹み)があり、それをめがけて願掛けの「運玉」を投げ入れ、見事に中に入れば願い事が叶うという。
この亀岩は、ウガヤフキアエズの乳母として玉依姫がやって来た時に乗ってきた亀ともいわれ、背中の凹みは自然のものだという。
運玉は五個ワンセットで男性は左手で、女性は右手で投げ入れ、一願成就、見事凹みに命中したら願い事が叶うという。
日本神話に語られる伝説を持ち、この地方の人々の信仰を深く集めてきた鵜戸神宮だが、太平洋を望む岬は景観も素晴らしく、境内の随所に見られる南国の植物も独特の風情を醸している。
玉橋を渡って石段を降りた洞窟の周辺は、かつては霊域として神職以外の者の立ち入りが禁じられていた時代もあったという。
今では、宮崎県南部の観光名所のひとつとしての意味合いも大きく、気軽に参拝客が訪れている。
神宮は地元の人に「鵜戸さん」と愛称され、風光明媚な国定公園日南海岸の一角にもなっている。
次回、「鵜戸神宮の写真集」
.『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
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(鵜戸神宮の写真は次項に掲載します)
鵜戸神宮には神武天皇の父君が祭られている・・!! 、
日南・油津から宮崎への国道220は、道路沿いにヤシの木が整列に並んで南国っぽい雰囲気の海岸線であり、最高に気持ちいいロードである。
程なくして「鵜戸神宮」への入口標識があり、案内に従って海岸沿いの細い道を行くことになる。
波打ち際には怪異な波うつ岩盤が広がっている。
小さな鵜戸崎灯台を右に見ながら、程なく社宮駐車場へ着いた。
気がつくとこの社は、珍しく海岸の断崖の上に建つ神社らしい。鳥居に軽く会釈をして前へ進むと神門・石灯篭があり、その手前に藁(茅)で造作した「茅の輪」が設けられてある、茅の輪くぐりの輪であった。
「茅の輪くぐり」とは、延命長寿や無病息災を祈る「大祓」の行事の一つで、「輪越祭」ともいい、古くから各地の神社で行われている。
「大祓」はわれわれが日常生活の上で知らず知らずのうちに犯したり触れたりした罪・穢(あい:けがれること、けがらわしいこと)を祓い清める神事の一つで、一般に年に2回行われ、6月の大祓を「夏越の大祓」、12月の大祓を「年越の大祓」といいという。
古くは飛鳥時代・天武天皇の御代に始まったとされ、「すがぬけ」(ちの輪くぐり)の神事ともいわれて、その起源は、古事記や風土記にも記され、神代の昔まで遡ると言われる。
ついては、この「鵜戸宮」は神代の宮であれば納得である。
茅の輪くぐりは左、右、左と三回ずつくぐるようで、∞文字を描くことになる。
実は神主さんが扱う“祓い串”(おはらい)と同じで、自分の身体を神主さんの祓い串に見立てて同じように「∞」の字を描くという事のようである。
ところで、「茅」は昔、(今でも・・)屋根を葺くのにつかわれた草木(チガヤ、スゲ、ススキ、ヨシ、アシなど)の総称で、一般に水茅、地茅に分けられ、特に、屋根葺きは産地や地方によって使い分けしているという。
「チガヤ」・地茅はススキが代表的で、原野や山地で群生する多年草で根茎は茅根といって薬にも用いられる。
又、「ヨシ・アシ」などの水茅は湖沼や河川、湿原に群生して生息するイネ科の植物である。
一面に生い茂るヨシ原は水辺に美しい景観を作るだけでなく、魚類や水生昆虫、水鳥たちにとっては大切な産卵、生息の場所でもあり、さらに、ヨシは一本で20リットルの水を浄化させる機能があるということが近年注目されている。
昔の日本は、美しい“豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国”と呼ばれていた。
「茅の輪」は、このような青草のもつ霊力をもって、日本古来の風習として悪縁を切り、厄を祓い、無病を祈る願い事に使われたのである。
神門から社務所を通って楼門に到ると華美な朱色の門は壮大で参拝者を迎える。
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楼門をくぐって本殿へと向かう参道は、右手に日向灘を見下ろす断崖の上を辿るようになる。千鳥橋を渡り、さらに玉橋を渡ることになり、更に、灯篭が配され良く整った急な石段を下ると、本殿の建つ海蝕洞へと導かれる。
なかなか巨大な海蝕洞窟で、朱色の華麗なる鵜戸神宮・本殿がすっぽりとその中に収まって鎮座しているのである。
入り口には御札を取り扱う巫女の姿が真に慇懃清楚で、此方の方も気持ちが洗われるようだ。
先ずは本殿に額ずいて、賑々しく謝礼参拝を行う。
眼下の波打ち際の磯辺には、二柱岩や亀石桝形岩といった奇岩怪岩が横たわり、その造形美にも目を奪われる。
参道石柵の向こうは、直下の絶壁で打ち寄せる波濤が、これらの岩盤に砕け散って飛沫(しぶき)が足元へ飛来しそうである。
太古の昔、初めてこの岬を訪れ、目にした人々はその奇観に畏怖し、神々の鎮座するところと思ったのも無理からぬことのように思える。
参道真下の岩場に亀の形をした「亀岩」というのがある(居る)。
その背の部分には注連縄(しめなわ)で囲まれた窪み(凹み)があり、それをめがけて願掛けの「運玉」を投げ入れ、見事に中に入れば願い事が叶うという。
この亀岩は、ウガヤフキアエズの乳母として玉依姫がやって来た時に乗ってきた亀ともいわれ、背中の凹みは自然のものだという。
運玉は五個ワンセットで男性は左手で、女性は右手で投げ入れ、一願成就、見事凹みに命中したら願い事が叶うという。
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2011年7月25日月曜日
日本周遊紀行(156)日南 「飫肥藩・伊東氏」
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日本周遊紀行(156)日南 「飫肥藩・伊東氏」 、
「曾我兄弟の仇討ち」で、打たれたはずの伊東氏が・・? 、
伊東氏は江戸時代、飫肥藩の領主として現在の宮崎県日南市を中心として栄えた一族である。元々は、鎌倉・頼朝時代に当地へ移封された豪族で、関東の伊豆地方(本拠は静岡県伊東市)の伊東氏をルーツとしている。
そして伊東氏と言えば、「曾我兄弟の仇討ち」で有名であり、その当事者でもあった。
早速ながら、その「曾我兄弟のあだ討ち」について一寸・・、
結論を先に述べると、日向の伊東氏は「仇」を討たれた方の家系である。
鎌倉当時、伊東氏と工藤氏は同系の一族であるが、氏名も変更している。
平安末期、頼朝が伊豆へ流されたとき、平家方として幽閉された頼朝を見張っていたのが伊東次郎祐親である。
同族、祐親の甥子・工藤(藤原)祐経は、領地争いのことで祐親には常ずね恨みを抱いていた。
或る時、祐親を狙った刺客の一矢が、祐親ではなく一緒にいた祐親の嫡男・伊東(河津)三郎祐泰に当たってしまい、祐泰は憤死する。
その結果、祐泰の子である一萬丸と箱王が遺児として残されてしまった。
二人は、成人した後の伊東(曽我)十郎、伊東(曽我)五郎の兄弟である。
後の曽我の姓は、頼朝から相模国足柄郡曽我庄を賜ったことから命名された。
1193年5月、源頼朝は富士の裾野で盛大な巻狩り(狩猟が主であるが戦闘訓練の意味もある)を開くが、この巻狩りに、曽我兄弟と兄弟の仇敵・工藤祐経も参加していた。
この時、兄弟は積年の父の恨みを晴らさんと祐経の寝所に押し入り、酒に酔って遊女と寝ていた祐経を見事討ち果たした。
兄弟のその後の様子は後にして・・、
頼朝の信任厚かった工藤祐経は討たれてしまったが、過去に奥州征伐(1189年源頼朝が奥州藤原氏の本拠平泉を突いてこれを討ち滅ぼした戦役)において功があったとして、九州・日向国の地頭職をその子である祐時に与え、収めることになる。(同時に祐時の弟・工藤祐長は奥州安積郡の領主となる)
この時、日向に領地を得た工藤家は、元の家名である伊東家を名乗り、以降、南北朝から戦国期頃には日向から現在の熊本県八代市、球磨地方あたりまで勢力図を広げ、戦国大名としての地位を築いた。
戦国末期、島津氏の台頭によって、やがて大名の地位すら奪われ凋落するが、 関ケ原合戦後は現在の日南市の飫肥地方にて復活し、明治維新まで飫肥藩領主として続くことになる。
因みに、曽我十郎・五郎兄弟は仇討ちを果たした後、騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、兄弟はここで10人斬りの働きをするが、十郎祐成は新田四郎忠常(頼朝家臣)に討たれ、五郎は捕らえられて頼朝の面前で仇討ちに至った経緯心底を述べる。
頼朝は一時、助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡したとされる。
「飫肥」と書いて「おび」とは読み難いし。
謂(いわ)れは不明だが「飫」の意味は腹いっぱいに飲み食いすることで、「肥」は字の如くで土地が肥えて、食物が豊富をいう。
即ち、土地柄が良く、作物や天然資源が豊富で人々が安心して暮らせる地域という意味であろう。
当時、飫肥村その後、町域になったが、1950年1月に南那珂郡、吾田町、油津町および東郷村の4町村が合併して「日南市」が誕生する。
市名の由来は、当地が「日向(宮崎県の旧国名)の南、日本の南」であることから名づけられたものとされる。
風致優美とされるこの町・飫肥は、NHK朝の連続ドラマ「わかば」の舞台にもなった。
次回は、「鵜戸神宮」
『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月)
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日本周遊紀行(156)日南 「飫肥藩・伊東氏」 、
「曾我兄弟の仇討ち」で、打たれたはずの伊東氏が・・? 、
伊東氏は江戸時代、飫肥藩の領主として現在の宮崎県日南市を中心として栄えた一族である。元々は、鎌倉・頼朝時代に当地へ移封された豪族で、関東の伊豆地方(本拠は静岡県伊東市)の伊東氏をルーツとしている。
そして伊東氏と言えば、「曾我兄弟の仇討ち」で有名であり、その当事者でもあった。
早速ながら、その「曾我兄弟のあだ討ち」について一寸・・、
結論を先に述べると、日向の伊東氏は「仇」を討たれた方の家系である。
鎌倉当時、伊東氏と工藤氏は同系の一族であるが、氏名も変更している。
平安末期、頼朝が伊豆へ流されたとき、平家方として幽閉された頼朝を見張っていたのが伊東次郎祐親である。
同族、祐親の甥子・工藤(藤原)祐経は、領地争いのことで祐親には常ずね恨みを抱いていた。
或る時、祐親を狙った刺客の一矢が、祐親ではなく一緒にいた祐親の嫡男・伊東(河津)三郎祐泰に当たってしまい、祐泰は憤死する。
その結果、祐泰の子である一萬丸と箱王が遺児として残されてしまった。
二人は、成人した後の伊東(曽我)十郎、伊東(曽我)五郎の兄弟である。
後の曽我の姓は、頼朝から相模国足柄郡曽我庄を賜ったことから命名された。
1193年5月、源頼朝は富士の裾野で盛大な巻狩り(狩猟が主であるが戦闘訓練の意味もある)を開くが、この巻狩りに、曽我兄弟と兄弟の仇敵・工藤祐経も参加していた。
この時、兄弟は積年の父の恨みを晴らさんと祐経の寝所に押し入り、酒に酔って遊女と寝ていた祐経を見事討ち果たした。
兄弟のその後の様子は後にして・・、
頼朝の信任厚かった工藤祐経は討たれてしまったが、過去に奥州征伐(1189年源頼朝が奥州藤原氏の本拠平泉を突いてこれを討ち滅ぼした戦役)において功があったとして、九州・日向国の地頭職をその子である祐時に与え、収めることになる。(同時に祐時の弟・工藤祐長は奥州安積郡の領主となる)
この時、日向に領地を得た工藤家は、元の家名である伊東家を名乗り、以降、南北朝から戦国期頃には日向から現在の熊本県八代市、球磨地方あたりまで勢力図を広げ、戦国大名としての地位を築いた。
戦国末期、島津氏の台頭によって、やがて大名の地位すら奪われ凋落するが、 関ケ原合戦後は現在の日南市の飫肥地方にて復活し、明治維新まで飫肥藩領主として続くことになる。
因みに、曽我十郎・五郎兄弟は仇討ちを果たした後、騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、兄弟はここで10人斬りの働きをするが、十郎祐成は新田四郎忠常(頼朝家臣)に討たれ、五郎は捕らえられて頼朝の面前で仇討ちに至った経緯心底を述べる。
頼朝は一時、助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡したとされる。
「飫肥」と書いて「おび」とは読み難いし。
謂(いわ)れは不明だが「飫」の意味は腹いっぱいに飲み食いすることで、「肥」は字の如くで土地が肥えて、食物が豊富をいう。
即ち、土地柄が良く、作物や天然資源が豊富で人々が安心して暮らせる地域という意味であろう。
当時、飫肥村その後、町域になったが、1950年1月に南那珂郡、吾田町、油津町および東郷村の4町村が合併して「日南市」が誕生する。
市名の由来は、当地が「日向(宮崎県の旧国名)の南、日本の南」であることから名づけられたものとされる。
風致優美とされるこの町・飫肥は、NHK朝の連続ドラマ「わかば」の舞台にもなった。
次回は、「鵜戸神宮」
『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
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「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月)
「東北紀行2010(内陸部)」 http://orimasa2009.web.fc2.com/tohoku.htm
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