google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2011-08-28

2011年9月3日土曜日

日本周遊紀行(166) 延岡 「可愛山陵」

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 日本周遊紀行(166) 延岡 「可愛山陵」   ,




可愛岳は天孫・ニニギノミコトが降臨した後の陵墓を安置する山であった・・、

日南海岸の青島より美々津に至る海岸は、約60kmにわたっては直線状をなした美しい砂浜海岸で特徴づけられる。
これは大淀川・一ツ瀬川・小丸川・耳川などの大きな河川によって運び込まれた大量の土砂が、沿岸流と波浪の作用によって集積され、形成されたものであろう。 
砂の堆積によって周辺は沖積平野を形成し、これらの河川の河口には発達した砂州が形成されている。

対して、北部地域の海岸線は、美々津より北の佐賀関あたりまでは、九州山地が海まで迫り、岬や入江や島が多く、沈水海岸(海面の上昇または地盤の沈降にもとづいて形成された海岸、河川にし浸食された陸地の沈水で形成される)で形成されたリアス海岸の様相を呈している。 
特に、延岡以北の海岸は屈曲の多いリアス海岸で、急崖が海に臨み、沖合には大小の島々が点在する。


岩手の三陸リアス海岸もそうであったが、こんな地形の箇所はなかなか海岸へは近付くことが困難である。
したがって、風雅な日南海岸を北上してきた国道10号線(九州東沿岸を縦貫する国道)も、ここ延岡から北側は内陸の山地へ向かっている。 
小生もこれに倣って国道10を行くようになる。


マラソンで有名な宗兄弟の旭化成、その赤白縞模様の巨大煙突を左に見ながら北川を渡り、その川沿いを走る。 
左側にそう高くはないが裾野を大きく広げる山容が見える。 気が付くとこの山は「愛可山」(あいらさん)という。 標高727メートル、この可愛岳は、ニニギノミコトが降臨した御陵墓伝説が伝えられてる山である。

先に、薩摩・川内の「新田宮」でも記したが、古事記によると、天孫ニニギノミコトは高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰」に降りてこられたと記され、日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられた時「筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる」と記されている。

可愛岳の西方、県境の地に高千穂峡でも有名な高千穂町があり、神話の町としても知られている。 


天上界を治めていたアマテラスは、地上の国が乱れている事を知り、孫にあたるニニギを地上に降ろした。
ニニギは多くの神を従え地上、日向・くしふるの峰へ降り立つが、この時、ニニギは千の穂を持って降りたとされる。 言い伝えにより、この地を「智穂(千穂)」となずけられ、そして高千穂と呼ばれるようになったという。

町には、にはアマテラスが身を隠した天岩戸(洞窟)を祭る「天岩戸神社」があり、八百万(やおよろず)の神々が集まって相談したと言われるところ「天安河原」もある。

更に、古事記に「筑紫日向の久志布流多気・・、」と記されていて、ニニギが地上へ降り立った(降臨)の地とされている「くしふる神社」も存在する。 

ニニギが降臨されたのが高千穂であり、その東方、大洋を見下ろし天上界のも近い「可愛岳」(727m)に御陵墓を鎮めたことは、説得力がある。


可愛山陵」は、江戸期より調査がされて人々の関心を呼び、明治維新後、時の政府や国学者や宮内庁の調査によって可愛岳山麓の古墳が「可愛山陵伝説地」として認定されたともいう。

高く聳える可愛岳の頂上に「鉾山」といわれている所が御陵墓とされ、往時は、この山腹に社殿を営んでいたというが、人々の参詣に不便なため、さらに社殿をふもとの「」(可愛)という里に移し、「可愛山陵大権現」として崇めて奉仕しているという。 


寛政4(1792)年7月、高山彦九郎(1747-93年、江戸後期の尊皇思想家、寛政の三奇人の1人)は、可愛岳に登り、「筑紫日記」の中で記している・・、
『 可愛村に着く。北川でみそぎをする。石橋を渡り、鳥井を入る。壱丁余(約800メートル)登って行くと山間に可愛山陵大権現の社殿が南南東に向かって建っている。 ニニギノミコトを祀る。西の山を可愛岳という。これを山陵と伝えている。可愛岳山上迄一里(4キロ)の登りである 』・・と、

この山は特徴的なのが、中腹より上部は巨石群に覆うわれ、更に、人工的なストーンサークルが存在するとされている。
頂上に散見するこれら巨大石の石組は、原始石槨(せっかく:石でつくった、棺を入れる外箱。 日本では古墳時代にみられる) とか弥生時代の立石(メンヒル)であるらしいと学者間でも言われている。

大正3年、考古学者・鳥居龍蔵は可愛岳頂上のこれらの巨石群を調査し、拝み石、鉾石、盤鏡などを一緒にして巨石遺跡としている。 
可愛岳が、はるか昔から霊山として人々の祈りや儀式の場になっていたことが想像でき、初代・神武天皇の四代前の先祖というニニギノミコトは、日本が歴史を刻みはじめたとされる神話の世界の神である。 

陵墓の存在は「伝説」の域を出ないものの、多くの巨石群と相まって御陵墓とされている所以であろう。 
小さな可愛岳の陵墓は、大きなロマンをかきたててくれる。

旧道、日豊本線沿線の可愛の地に「御陵伝説地」の御陵と碑があり、野口雨情の歌碑には

『 こころして吹け  朝風夜風  ここは日向の 可愛山稜 』 とある。


【追記】
同じような伝説地とされる鹿児島県川内市の新田八幡宮にも、ニニギの御陵墓とされる「可愛山陵」があり、所謂、宮崎と鹿児島で御当地論争が起こっている地柄でもある。


次回は、延岡版・「西南の役





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2011年9月2日金曜日

日本周遊紀行(166) 延岡 「藩主・内藤家」

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日本周遊紀行(166) 延岡 「藩主・内藤家」 ,




写真:鎌倉材木座「光明寺」の歴代内藤家の墓所(重文)



【特番・お知らせ】
今度の「東北大震災」で、桜の花が満開の時期、延岡市の給水車がいわき市上湯長谷地区に緊急救援で派遣され、頑張っている感動的風景です。
親愛なるいわき市(氏)提供;ブログ;http://spottedseal.at.webry.info/201104/article_3.html



日向の国・延岡と陸奥国・いわき平の内藤家とは・・? 、

国道10は日向市街の中心地、日豊本線・日向駅に達した。
市街地は海岸の方向に広がっていて、その町外れの海岸には壮絶な風景が広がっている。 
通常、黒潮洗う太平洋に面した宮崎の海といえば、すぐにフェニックスロードと言われる長閑な日南海岸を思い浮かぶ。 だが、こちら県北部は日南海岸とは対照的な「日豊海岸」(国定公園)といわれる壮絶なリアス海岸が、日南の優美な風景に勝るとも劣らない特異な景観を誇っている。 

そのなかでも日向市西方郊外の絶景ポイントである「日向岬」は、特に、馬ヶ背(馬が背)といわれる付近一帯の岩が柱状節理の断崖絶壁を成し、越前海岸の「東尋坊(とうじんぼう)」をも凌ぐともいう。

日向駅から日向市街、日向岬、日向灘と日向ずくしのこの地は、町並みと自然のおりなす大景観が隣合った珍しい地域の一つであろう。


門川町から延岡に入った。
この「延岡」は小生の田舎・実家(福島県いわき市)と非常に縁が深いということが判明している。 

「延岡」は水辺の町で、各河川が合流している水郷の町である。事実、「日本の水郷百選」にも選ばれていて、五ヶ瀬川、大瀬川、そして祝子川の清流を街の近隣に抱き、「水郷・延岡」の愛称でも人々に親しまれている。 

この五ケ瀬川と大瀬川に挟まれた三角州・高さ50m余りの延岡山の山丘に縄張りしたのが平山城・延岡城である。 
今は「千人殺し」と言われる城跡の石垣が、その名残を留め、城山公園として市民の憩いの場になっている。 


最初に城が築かれたのは遥か遠くの昔・天平時代(奈良時代の後期)のことらしいが、江戸期まで下って1614年 (慶長19年)、有馬直純が島原から入封し、城および城下町建設に力を注ぎ、本格的城郭が完成している。 
以降城主は三浦氏、牧野氏と替わり、延享4年(1747)・内藤正樹が七万石で入封すると、そのまま世襲して明治に至っている。

牧野氏の時代、牧野貞道(1719~1747年までの日向延岡藩二代藩主、寺社奉行や京都所司代を歴任)の出世で経費が嵩み、藩財政は困窮するに至った。 
そのため、江戸中期(1747年)の「三方領知替え」の制度により、牧野氏は常陸国・笠間藩に転封となり、代わって陸奥国・磐城平藩(たいらはん)より内藤政樹が7万石で入封した。 (尚、磐城平藩には笠間藩より井上氏が入封している。) 


三方領地替え」とは江戸期に徳川幕府が行った大名に対する転封処分の手法の一つで、大名三家の領地を互いに交換させることを言う。 
例えば、大名家Aを大名家Bへ、BはCへ、CはA領地へ同時に転封することで、「三方領地替え」、「三方所替え」、「三方国替え」とも称した。 
江戸時代を通じて何回か行われているが、中には、四家が関係した「四方領地替え」の例もあったという。


さて、話は飛んで、小生の実家・田舎、福島県いわき市(磐城藩)であるが・・、
江戸期においてはこの地方を磐城平藩と称して、鳥居、内藤、井上、安藤の四大名が領地を支配していた。 
中でも内藤家は永く、江戸初期の1622年から1747年まで125年間、六代の永きに亘って治めていた。 内藤家は、徳川家譜代として戦国期より活躍し、大阪の陣では江戸城の留守居役を任されるなど、江戸幕府を開くにあたり功績は大きい。 

江戸中期、六代目内藤 政樹の代の磐城平藩では、天地変による洪水や凶作、また過去の悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられた領民の不満が鬱積していた。
そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生するのである。 

四方から平城下に押しよせた一揆勢は凡そ二万人ともいわれ、富豪や商家を打ち壊し乱入、 役所、獄舎をも襲ったという。
4日間、武士団に抗し訴え続け、ついに減免措置を勝ち取ったという。 
だが、この騒動で領主・内藤政樹は責任をとられ、日向・延岡藩7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。 
去るに及んで次の歌を残したという。

『 日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡) 
         またみちのくの(磐城平) 人に逢うべし
 』

こうして九州・日向延岡・内藤氏は、磐城平藩と同様の年月(124年)に亘り藩政を治めることになる。 

江戸幕末、延岡藩・内藤家は、薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中にあって、徳川譜代藩であるがゆえに佐幕の立場を採らざるをえず、苦況に立たされる。
内藤家・江戸上屋敷は江戸城外郭門の虎の門に続く外堀辺りにある。 

内藤本家は磐城平藩より財政難の連続で、内藤貧乏の守と、そのあまりの質素な暮らしぶりを揶揄(やゆ・たとえ)されたほどのであったという。 
しかし、七万石の小藩ながら、その後もなお私財をつぎ込み城下町の再興に尽くすなど、民衆に支持された名家でもあった。

そんな生活ぶりの中、内藤家は代々「浄土宗」を崇拝信仰している。 
菩提寺は鎌倉材木座「光明寺」で、寺院は徳川家康によって関東十八檀林(だんりん・栴檀林の略 仏教の学問所、平安時代の檀林寺に始まるが、学問所を檀林と呼ぶようになったのは室町末期で、近世、各宗で設ける、関東十八檀林の類、学寮のことでもある)の一つに数えられ、その筆頭に位置づけられた名刹である。 

総門より、巨大な山門をくぐると本殿があり、その横奥に内藤家の廟所があって、磐城・平藩の初代から日向・延岡藩の幕末までの、代々の墓所が一同に祭られている。 
このように江戸初期から末期まで、代々の大名の墓が整然と全部一箇所に揃っているのは大変珍しいという。 
墓石が順よく並ぶ姿は美的でもあり、壮観であって、鎌倉市の史跡にも指定されている。

先にも記したが、延岡城の内藤家は日向灘の海を望める高台にある。 
江戸住まいの日々、彼岸や盆の参詣のひと時には、内藤家の人々は鎌倉・材木座の海に重ねて、日向灘を思い出していたに違いないと思われる。
城址内の一角、延岡城の西の丸、もともと延岡藩主の御殿があった地に「内藤記念館」があり、延岡藩の歴史を伝える貴重な資料や書・絵画などが保管されているという。

尚、内籐家が縁で延岡市と福島県いわき市とは、1997年5月 「兄弟都市提携」を結んでいる。


次回、延岡の「可愛山陵







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2011年9月1日木曜日

日本周遊紀行(165)日向 「美々津」

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 日本周遊紀行(165)日向 「美々津」   ,




美々津は、神武天皇の「東征」の出発地である・・、

ここは日向市である。
先の宮崎の項でも述べたが、「日向の国」の中心は古代は日向宮崎であり、中世から江戸期にかけては島津氏や伊東氏の居城であった都城や佐土原がその中心であった。 

そして、古代神代の時代におけるここ日向の美々津は、神武天皇の「御東征」の出発地として知られ、初代天皇として名を残した神武天皇の伝説の地であって、古代の片鱗がここにも残るという。


神武天皇」という名は有名ではあるが、近世に至るまで、天皇の名は諡号(シゴウ=おくり名)として後から付けられたものであって、その時代に人々にそう呼ばれたわけではなかった。 
たとえば神武天皇の名前は本来、古事記では神倭伊波礼毘古命・カムヤマトイワレビコノミコト、日本書紀では神日本磐余彦尊・カンヤマトイワレヒコノミコトといった。 

その他の呼び名もあるようだが、神武天皇をはじめ現在使われている天皇の呼称は、奈良時代後期の文人である淡海三船(おうみ の みふね;天皇家筋の奈良時代後期の政治家、教養人、文人)が初代天皇から奈良時代までの凡そ40代の歴代天皇の漢風諡号を付されたとされている。



ところで東征というと東国、つまり我々の認識では関東や東北地方を平定したように聞こえるが、 邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨以来、九州に国家を構えていた天皇家(宮崎)にとっては、東国とは近畿地方あたりを指したようである。 
即ち、この神話は九州に都を持つ国家の王が、近畿地方までを勢力下に組み入れ、名実共に大八島(オオヤシマ=日本全州)の中央を制圧したという事である。


神武天皇45歳のとき、宮崎市の皇宮屋(こぐや:神武天皇の居所、宮崎神宮・摂社)で東征のための軍議をなされ、大和へ向かうことを決心する。
そして船出の地に選ばれたのがここ美々津であったと伝えられている。 

この地から舟出した神武天皇一行は、沖に浮かぶ一ッ神と七ッバエと呼ばれる二つの岩礁の間を通って旅立ったとされ、その後、天皇一行が二度と戻られることがなかったが。 
因みにその後、この岩礁の間を通ると二度と戻れないとされ、現在でもこの間を通って沖に出る漁船はないといわれる。

出港後は、豊国(大分宇佐宮)、筑紫岡田宮(福岡芦屋)から阿岐の国(広島安芸)へ、そして吉備国高嶋宮(岡山)から瀬戸内海を経て、浪速(大阪)に入った。 
浪速では、上陸を阻止しようと長髄彦(ナガスネビコ;大和地方の豪族の長で、イワレビコの東征に抵抗したとされる)との戦いが行われ、この時、イワレビコは「日に向かって戦うことは不吉である」として更に、南の方へ回航しその後、紀州に回って大和に入ったとされている。 

大和を平定した後に橿原宮(かしはら宮:奈良)で即位し、初代天皇となるが、この日が紀元節と言われる現在の2月11日とされ、つまり「建国記念日」である。


神武東征御船出の地として美々津港の右岸、耳川に面して「立磐神社」いう社が建っている。神武天皇東征の折、ここで戦勝と海上安全を祈願したといわれ、後に景行天皇の時代に、東征を記念して創建されたと伝わっている。 
東征の船出を待つあいだ、腰かけていたという「腰かけ岩」も祀られている。




又、この社のすぐ近くに「日本海軍発祥之地」の記念碑が建つ。 
神武天皇親率の水軍が初めて編成されて進発した地とされ、即ち、日本海軍は天皇が統治された海軍で有っことから、国が美々津の地を海軍発祥の地と定め建立したという。


紀元二千六百年』の歌  紀元2600年奉祝会選定(昭和14年、NHK作)

金鵄(きんし)輝く 日本の
栄(はえ)ある光 身にうけて
いまこそ祝え この朝(あした)
紀元は二千六百年
ああ 一億の胸はなる

荒(すさ)ぶ世界に ただ一つ>
揺るがぬ御代に 生立ちし
感謝は清き 火と燃えて
紀元は二千六百年
ああ 報国の血は勇む

 
次回は、「延岡




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2011年8月31日水曜日

日本周遊紀行(165)日向 「耳川の戦い」

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 日本周遊紀行(165)日向 「耳川の戦い」   




九州の「関が原」と言われる「耳川の戦い」が・・、

国道10号線を快適に北上する。
川南町、都農町は日向灘に開けた明るい地域で、大部分が台地状の所謂、西高東低の、ゆるやかに傾斜した高台となっている。 
広大な畑作が広がっていて、きっと南国豊かな農業生産が主体の地域であろうことが想像できる。

日豊本線を跨ぐように、直線の高架線が走っている。 
以前になるが日豊本線の都農駅から美々津駅まで、リニアモーターカーの実験が行われていた所らしく、現在は、実験の舞台が山梨に移されていて、施設は取り壊されることなく現在もそこに居残っているのであろう。 

まもなく、日向市に入り「美々津」という港へきたようだ、清流・耳川の河口に当る。
耳川は一般の川の趣きとは異なり、巨大な中州を持つ湖のような泰然とした川である。 
川面は珍しく青緑、エメラルドグリーン、黄緑と天候や見る場所によって色が変化する不思議な川だという、五色川ともいうべきか。 
耳川は、九州山地(椎葉村三方山)に源を発し東へ向かって宮崎平野を流れ、日向市美々津町から日向灘に注いいでいる、長さ100kmの水系で美々津川とも呼ばれているらしい。


この川に「幻の魚」と呼ばれる、「アカメ」という魚が生息することでも知られてる。 スズキ目アカメ科の魚で、名前の通り目が赤く、北川、耳川のほか、高知県の四万十河口域など汽水域(真水と淡水が混じった水域)に生息し、体長1メートル、重さ20kの巨大魚になるという。 地元では“マルカ”とも呼ばれているらしい。 
尤もアカメは、ここ数年は魚影が見られなくなって、2007年には環境省のレッドリストの中の「絶滅危惧種」に指定されているとか。


ところで、往時はやはり「耳川」も河川流通路としての重要な地位を占めていたという。 
江戸期、この地方の産物である木材や炭を高瀬舟で河口の美々津に集め、大型船・千石船で大阪方面に送り出していた。
当時の美々津はそれら特産物の積出港として大いに賑わい、元禄年間には回船問屋や商家が数多く軒を連ね、「美々津千軒」とも呼ばれるほどの繁栄ぶりであったという。

現在、美々津、耳川の南部、国道10号線と海岸に挟まれた狭い一角は、江戸時代の回船問屋や明治、大正、昭和初期の商家などが数多く残されれており、当時の隆盛ぶりを知る事ができる。 
中でも現在、日向市歴史民族資料館となっている元廻船問屋・旧河内屋は間口が広く、美しい京格子と白壁で当時の繁栄を偲ばせている。
この美々津の町並みは、1986年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。


この耳川の南部地区は今でこそ鄙びた景観を呈しているが、この周辺、特に木城町にかけては古戦場としても今なお秘められた足跡を残しているという。 
戦国期の天正6年、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(木城町)を主戦場として激突した合戦で、「耳川の戦い」とも云われる。  ぞくに九州の「関が原」とも言われる。


九州の覇者「大友氏」(九州探題)と九州南部に勢力を持ち北部への進出を目論んでいた「島津氏」、この両者が九州の覇権をかけて戦いで主戦場は高城地区の(現、木城町南部)、そこを流れる小丸川を境に両軍は対峙することとなる。 
激戦の末、勝敗は大友軍が三千余の将卒を失い、壊滅状態となって敗退した。 
大友方は、さらに敗走する途中、城の北方の耳川で島津軍の迫撃に合い、戦死者の総数は二万人にも達したともいわれる。 

結果は、島津氏が勝利し九州の覇権は島津氏に移って行くが、更にそのことが起因して、天下を平定しつつある豊臣秀吉の九州出兵を促す原因となる。 
結末は秀吉軍が島津を抑えて、九州地方は平定されることになるのだが。


ところで、この合戦に島津勢が勝利した戦いを「耳川の合戦」と呼ばれるが、一方では、主戦場は耳川ではなく、宮崎県児湯郡木城町にある高城城下の高城川(現在の小丸川)であることから、「高城の戦い」とするのが妥当とする向きもある。 

耳川と高城川は、南北に凡そ20キロ離れているが、豊後地方に勢力をもつ大友軍から見ると、この耳川は南進北帰の生命線であり、そしてこの地で追撃する島津軍に完敗した地であることから「耳川の合戦」が妥当であるとも言われる。

その後、大友宗麟の要請もあり九州攻略のため本州勢力の秀吉軍が大挙して島津軍を攻めることになる、この時の主戦場がやはり高城であった。
秀吉の先鋒として戦ったのが大友の残兵(大友義統)でもあり、結果、秀吉軍が勝利したため大友家は豊後一国を安堵されている。 
この戦は「高城の戦い」とも称している。


次回は、日向・「美々津





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2011年8月30日火曜日

日本周遊紀行(164) 佐土原 「泉光院・旅日記」

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 日本周遊紀行(164) 佐土原 「泉光院・旅日記」   ,



(クリック大)
石川英輔著 『泉光院・江戸旅日記』の本




「厳重を極めたといわれる箱根の関所も、江戸後期ともなると・・、」 
野田泉光院の『日本九峰修行日記』より・・、


泉光院は文化9年9月(1812年10月)に佐土原を出発、全国の諸山を巡る修行と九州・鹿児島から北は出羽・本荘まで全国各地を訪れ、文政元年11月(1816年12月)佐土原に帰国している。 実に6年2ヶ月にわたる旅を『日本九峰修業日記』に書き残している。
この時、泉光院が江戸表の島津家の江戸藩邸に入参した時期は文化14年4月であった。 合わせて江戸藩邸の先代藩主・島津忠持と会談しているが、「恐れあらば記さず」(業務上の秘密)として、記載されていない。
この書は旅道中に関して表向き(政治や経済のこと)のことは一切記されていないが、江戸の仇敵とされる主家・島津家に対しては、相応の内実情報がもたらされたことは想像できる。 

どちらかといえば、書は当時の風俗を生き生きと活写しているのが特徴で、歴史家によれば貴重な史料として高く評価されているともいわれる。


前記したが佐土原は中世の頃、伊東氏から島津氏へと領主が代わっている。
鎌倉時代において佐土原・伊東氏は、鹿児島で勢力を伸ばしてきた島津氏と日向の支配をめぐって激しい戦いが繰り広げられ、徐々に島津氏が優勢となり、遂に伊東氏は豊後国へと追い払って島津の支配が始まる。 

「関が原の戦」で島津は徳川に破れ苦杯と怨念を強いられるが九州南部は安堵され、最初の佐土原城主は島津家久、次いで江戸期以降には島津の支配体制が整っていく。 

野田泉光院の全国行脚の時期は江戸後期であり、当時の佐土原は島津の支配下にあって、島津氏より相当の援助があったことは伺える。

江戸末期、この江戸薩摩藩邸が騒がしくなるのは50年後の事である。


ところで、江戸後期の泉光院行脚中時代は、伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を完成しているし(1814年)、当時の文化・文政の時代(1800年前期)には、十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著し(1802年)、間宮林蔵が樺太を探検している(1814年)。 又、葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができ(1832年)、歌川広重の「東海道五十三次」ができる(1833年)など、各階、各層の人々の諸国漫遊も盛んであったのである。




因みに、作家・石川英輔氏の「泉光院江戸旅日記」の中で、小生の居住地である神奈川県厚木市近郊の“くだり”について抜粋してみると・・、

『 文化十四年丁丑(ていちゅう)元年:西暦1817年2月16日・・五月八日(6月22日)~十日(24日)鎌倉の主要な神社仏閣巡り・・・藤沢から寒川泊まり、 十一日(25日)相模一の宮(寒川神社)そして四之宮(平塚・前鳥神社)を参回している。 ここでお供の平四郎が二と三はいいんですかい・・と理屈をいったが、泉光院は無視している--平塚八幡、坂東札所・金目山(第七番・光明寺)へ参って納経印をもらいに行くと、住職に笈仏(箱に収まっている戒名)を開帳して欲しいと頼まれた。 長々、読経せられたり・・。石田村(伊勢原市石田)の浄心寺泊り。 十二日(26日)大雨なので、「憂きことの はてや旅路の 五月雨」と一句作ったら、住職が見て、それほど雨が難儀なら、もう1日いなされ、といってくれた・・、幸いなりと滞在す。かようなるときは発句も役に立つものなり・・。 十三日(27日)、アツ木(厚木市)へ出て相模川を船で渡り、相模国分寺(海老名市国分)参詣。坂東札所・星の谷(第八番星谷寺・座間入谷)の門前に泊まった。 十四日(28日)、坂東札所・飯山寺(第六番・長谷寺(厚木市飯山)、日向薬師(伊勢原市日向)に参り、門前に泊まった。 十五日(29日)大山不動尊(伊勢原市大山)に参詣、菖蒲団子というものを買うて数十匹の犬に食わす・・。 尾尻村(秦野市尾尻)の寺に泊めてもらう。 十六日(30日)十六日坂東札所・飯泉山(第五番・勝福寺 ・小田原市飯泉)参詣。酒匂川を渡って塚原村(同市塚原)泊まり。 十七日(7月1日)この家に笈(背負う荷物箱)を預けて道了尊(最乗寺)へ上って参詣す。――― 十八日(2日)箱根山を登って関所を通ろうとしたところ、引っかかってしまった。  役人「その方ども、江戸屋敷からの関所手形を出せ」 「われわれは日本回国の行者で往来手形はあるが、他には存じませぬ」 「 江戸屋敷へ行って頼むことが出来るはずだ・・」 「 江戸屋敷は存じません、又、お屋敷へ出るほどの身分ではございません」 「そのほうら名を何と申す・・」 「私は一葉坊、この者は合力助と申します」 「今回は内聞で通してやる、次回はそうはいかんぞ・・!!」 「へい・・」・・泉光院が名乗った一葉坊は俳号であった・・、役人とのやりとりが面白いし、関所も、そこそこいい加減であったことが判る。 』



以上本文よりであるが、神奈川県の鎌倉へ入って、箱根を出るまでの神奈川県央、県西部にかけて11日間を要している。 
その気になれば山道を1日60kmをも平気で歩き通せる頑健な人であるが、この相模地方は意外とゆっくり、じっくり歩を進めていることが判る。
見所が多かったのであろう。

因みに、坂東札所・星の谷(第八番・星谷寺・座間入谷)には、当時のメモ帳なる「つづれ草」が置かれていて、ここを訪れた泉光院のことが記されている。

『 「つづれ草」37号に書いた「野田泉光院」の廻国修験僧、日向の国・佐土原の泉光院が星谷寺に参詣した文化十三年五月十三日当時の住職は「周應」であったはずである。在住期間も長いし、過去帳を整備するなどの事績もあった 』、とある。

気が付くのは泉光院が記した『日本九峰修行日記』には文化十四年五月十三日とあるが、星谷寺の記録には文化十三年五月十三日になっている、丁度一年違いになっているが・・??。



次回は、日向・「九州の関が原




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2011年8月29日月曜日

日本周遊行(164) 佐土原 「野田泉光院」

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 日本周遊行(164) 佐土原 「野田泉光院」   ,




(クリック大)
佐土原町上田島の大光寺にある野田泉光院の墓(市指定 史跡;宮崎市提供)





「野田泉光院」は、西の松尾芭蕉とも呼ばれていて・・、

鎌倉末期の1335年、領主・伊東祐聡(祐明から4代目)は、佐土原町上田島の一角に「大光寺」を建立し、以降、伊東氏代々の菩提寺とした。 
後に戦国期、領主が島津氏に代わると以降、島津氏の菩提寺になっている。 
寺院は、国の重要文化財に指定されている名刹でもある。

この古寺・大光寺の山手の静かな森の一角に「野田泉光院」の墓がある。
「泉光院」は、佐土原の真言宗・安宮寺(新城地区に在った今は無き寺跡〉の八代目住職で、寺跡には、日本九峰修行供養塔があり、彼自身の墓は大光寺境内にある。 

本名を野田成亮(のだしげすけ)といい、泉光院とは修験者の院号である。 
当時の最高水準の知識人であり高僧だったという。

尚、由緒ある佐土原町(さどわらちょう)は、2006年1月1日、宮崎市に編入され消滅している。



1811年(文化8)、56歳の時に斉藤平四郎という30代の男性を従え、6年2ヶ月にわたる全国の山伏寺を回る旅に出た。
泉光院は、西の松尾芭蕉とも呼ばれていて、後に、『日本九峰修行日記』を著している。 
日記は当時の庶民の姿を知る貴重な資料となっている。

作家・石川英輔氏が、野田泉光院の『日本九峰修行日記』を、ノンフィクションに訳して『泉光院江戸旅日記』を著している。

泉光院江戸旅日記』の書が新聞の広告に出るなり興味八百と山好き、旅好きの小生は早速買い求め、熟読し、大切な蔵書の一角を占めている。 

副題には『山伏が見た江戸期庶民のくらし』となっていて、帯紙には表側に「 文化文政の6年間、南は鹿児島から北は秋田まで日本を歩き回った僧・泉光院の見聞録 」とあり、裏側に「泉光院の足跡⇒佐土原⇒宮崎⇒鹿児島⇒指宿⇒阿蘇山⇒長崎⇒名護屋⇒彦山⇒中津⇒小倉⇒長府⇒萩⇒広島⇒津和野⇒大山⇒鳥取⇒大江山⇒丹後半島⇒三方五胡⇒伏見⇒京都⇒福知山⇒姫路⇒大阪⇒草津⇒白山⇒金沢⇒能登⇒富山⇒野麦峠⇒松本⇒身延山⇒甲府⇒江戸⇒秩父⇒前橋⇒日光⇒浅間山⇒戸隠⇒立山⇒鶴岡⇒出羽三山⇒本庄⇒金華山⇒仙台⇒山形⇒那須野⇒筑波山⇒成田⇒銚子⇒鎌倉⇒箱根⇒下田⇒富士山⇒岡崎⇒岐阜⇒伊勢⇒白浜⇒和歌山⇒吉野⇒高砂⇒岡山⇒今治⇒大分 他」とある。


主人公の泉光院は56歳で当時としては老年といっていい高齢であった。 
そして、執筆者の山伏は出発当時の地位、要職として高地位にある寺院の住職であった。 大先達という高位の山伏として日向一国の山伏を支配するという階級位であった。 尚且つ、佐土原の島津家の縁者として禄も受けており、佐土原では弓術の指導などもしていたという人物であった。

本人著書の『日本九峰修行日記』に示す記録の中から興味深いのは、そのような有能な人物が敢えて貧しい人々の間を托鉢・修行をしていて、当時の一般の人々、特に農民の生活の一端をも垣間見て、そのことを詳細に記載しているのである。 
ところで面白いのが、長いたびの間斉藤平四朗というお供が付いていた。 そして、この男は佐土原の町人で、ある種、道楽人であったらしい・・?。


旅は経路を現在の地名と照らし合わせつつ、当時の一般の生活を浮き彫りにしようという主旨で書かれている。 
この住職(泉光院)は6年間、ほんとにまめに日記を付けていたらしく、行程は本著の帯紙の通りで、南は鹿児島から北は秋田の本庄(本荘市)まで、日本中を歩き抜いている。

更に驚くべき事は、巡国しながら日本の名だたる山岳聖地を登攀しているのである。
そのことは、彼が著した旅日記・『日本九峰修行日記』にも多くの山名も記載されている。

作者は旅日記を「修業日記」と題したように、修業、参詣の宗教的目的をもって巡回訪国している。
登山もこの宗教的目的の下に行われているが、回国修業の登山にしては当時としては一流の登山家とも考えられている。
山好きの小生としては興味あるところなので、その内容を記してみる。



野田成亮の日本九峰とは・・、

西より英彦山、石鎚山、箕面山、金剛山、大峯山、熊野山、富士山、羽黒山、湯殿山などである。
これらは何れも国内有数の山岳霊場で、世に知れ渡っている名山である。
しかし、これら九峰修業の旅以外で、彼はもっと多くの山に登拝しているのである。

九峰以外の主な遍歴の山を列記すると・・、
九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま) 
山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山) 
山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山
近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山
北陸・・白山 石動山 立山 
東海・・光明山 秋葉山
信越・・浅間山 米山   
関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山
奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山
等・・等・・。


引き続き、「野田泉光院・旅日記




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2011年8月28日日曜日

日本周遊紀行(164) 佐土原 「佐野原聖地」

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 日本周遊紀行(164) 佐土原 「佐野原聖地」   、




佐土原は、神武天皇の幼少時の名前・「サノハルノミコト」から起こった・・!

一旦、一ッ葉道路に戻って間もなくすると海岸から離れて10号線に合流する。
ここは既に佐土原である。 
九州流に言うと“サドバル”であるが、こちらは標準語らしく“サドワラ”と読むらしい。 


こちら佐土原も、伝承では「神武天皇」が誕生された地とされている。
佐土原町上田島地区の小高い丘、昼なお暗く鬱蒼と茂る木々の中に、ぽつんと小さな「」が鎮座している。 
この地が「佐野原聖地」と呼ばれる聖なる地というが、拝殿や賽銭箱などはなく、扉に掛かる鍵は壊れかけていて、まるで森の中に放置されたような空間、年月から無視されたように建っている。 
後に、大和の国を平定した人(神)が生まれた場所にしては、あまりに寂しいのである。

佐土原は、始めサノハルと称し「サノハルノミコト」(サノノミコト)は、神武天皇の幼少時の名前である。 

この社は、都於郡(とのこおり:現、西都市)から宮居を遷し、鵜茸草茸不合命(ウガヤフキアエズ)が天下を治め、玉依姫命(タマヨリヒメ)を妻に迎えたとされる地で、後に神武天皇が生まれた場所でもあるという。
日本の初代天皇の聖地としては余りに粗末であると思われるのである。




鎌倉期以降の「佐土原」について・・、
ところで、鎌倉期に源頼朝から日向国・地頭職に任命された工藤祐経が佐土原を支配し、この時期に佐土原神社が創建されたといわれる。
工藤氏は姓を本来の姓である伊東と変えながら400余年に亘り、この地の支配体制を確立している。 第10代・伊東義祐の頃には佐土原城を中心とし日向・四十八城を支配したともされている。

日向・飫肥(おび)の項でも記したが・・、
工藤祐経は鎌倉のお膝元で起きた「曽我兄弟の変」の主たる登場人物で、当の本人は兄弟の仇討ちで殺されてしまう。 

では何故、佐土原の初代領主なのか・・? 
鎌倉期、既に領地を与えられていた祐経本人は鎌倉の地で頼朝の信任厚き重臣として務めを果たしているのであり、領地の管理は、その代官が行っていた。

祐経亡き後、その子伊東祐時の四男祐明、つまり工藤祐経の孫が現地に赴いて実質拝領し、初代「田島氏」と称した。 
佐土原は、当初は「田島の庄」とも呼ばれていたからである。 

佐土原城は戦国期に伊東氏の中心的城郭となり、伊東義祐が居城した頃が全盛期と言われる。
戦国期、島津氏の大軍は伊東氏の本拠である佐土原を目指して進撃を開始し、戦況不利と見た義祐は戦わずして退却し、豊後の大友氏を頼い、大友宗麟はその要請をいれて伊東義祐らを庇護した。 
その後、大友軍は島津軍と戦ったが敗戦、兵を退くところを追撃され「耳川の戦い」で潰滅的敗北を喫し、こうして、大友氏も一気に勢力を失墜することになった。 


奇しくも、伊東氏の出実は伊豆の「伊東の荘」であり、大友氏の出実は相模の小田原の「大友郷」である。 
伊豆と小田原はほぼ隣接していて、東国の雄は親しく九州でも隣国同士となり、共に滅び去ったのである。 

そして滅ぼした当の島津氏も大元(初代都城:島津忠久)は頼朝のご落胤との説もあり、この三者とも頼朝のお声がかりで、九州の平家残党の抑えとして派遣された共通目的があった。

これも歴史の面白さであろう。


次回は、佐土原の「野田泉光院






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01. 15.

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