google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2010-11-14

2010年11月19日金曜日

日本周遊紀行(43)串本 「潮岬」

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日本周遊紀行(43)串本 「潮岬」 、



潮岬灯台


潮岬で「地球の丸さ」を感じる・・??、

古座町の国道海岸を行くと、陸続きのような大幅な「大島」が至近である眺められる。
海岸を更に行くと、その大島に向って奇妙な岩の柱が縦隊になって並んでいる、名勝「橋杭岩」である。

詳細は別項、「世界遺産・南紀熊野」に記載
http://orimasa2005.web.fc2.com/nk-2.htm



日本中の海岸線を走っていて、海辺の風景を眺めるにつき壮絶なる断崖絶壁や多種多形の奇岩怪岩を目にし、自然の悪戯(いたずら)に思わず息をのんだり、呆れたりする。
昨年の東日本周遊の時で印象的だったのは、青森県・下北半島の佐井村の「仏ヶ浦」であろう。
国道(R338)が近くを通っているとはいえ、一般観光客には近ずき難く、人跡僻地のような海岸に奇岩が幾重にも屹立しているのである。
この橋杭岩は仏ヶ浦には及ばないにしても、弘法大師の伝説も有り、西日本では有数の景勝地であろう。


串本の街中より潮岬の灯台・・、

潮岬は、串本と砂州で結ばれた陸繋島(りくけいとう・砂州によって陸地とつながった島、潮岬・函館山など)で、この陸繋島全体を潮岬と言っているようである。
陸繋のつながった部分は殆どが串本の市街地となっていて、国道、鉄道も岬本島の陸繋部分にのりあげているようである。

潮岬へ向かうには西寄りの海岸を行くようになる。 足下の岩礁地帯が不気味である。 
対岸の海岸線もすっきり見えて、串本の海中展望塔らしき建物もぼんやり覗える。 
岬に着くと、そこは、さっぱりした広場は芝生で覆われていて(望楼の芝)、のんびりリラックスできそうである。
本州最南端の石碑などが設置してあり、眺めるまでもなく太平洋は絶景で、地球の丸さが実感できるのである。


「地球の丸さ」・・??、

ここで『閑話休題』、地球の丸さを机上で実証してみよう。
北海道・室蘭の「地球岬」でも記したが、水平線や地平線が丸く見えて、これが「地球の丸さ」を現しているというのはどうも錯覚らしく、地球の「丸み」は人の目の視界が感じさせるのだといわれる。

実際、或る大型客船の乗組員が4~50mのマストの上から見ると水平線は丸く見え、(どう見ても角ばっては見えないだろう)その水平線までの距離は10数kmにすぎないという。
つまり半径10数kmの円の弧(円弧=水平線)を見ていることに成る。 
因みに、富士山(標高3776m)から見える水平線までの距離は凡そ220kmといわれ直径・440kmの円が見えてることになる。

地球規模で計算してみと、地球の平均半径を6000km(実際は6371km)とする、これを1億分の1に縮めると半径6cmの円 となる。
ノートに描くには丁度良い大きさで、実際に円を鉛筆で書いた場合、周囲の黒い線の幅は約 0.5mmとして、0.5mmを1億倍すると50kmになる。 
エベレストの山頂は8850mであるから、当然この線の幅の中に入ってしまう。 
これに人間の絵に描くとすると、人間は細菌より小さくなる。
序に、旅客ジャンボ機の飛行する高さは凡そ10km、積乱雲の高さは最も高いものでも20kmぐらいで、通常の人間の活動は、この「鉛筆の線の幅」の中に入ってしまうのである。 
つまり地球は、これほどデカイのであり、丘の上から海上の水平線を見て、「地球は丸い」と思うのは錯覚らしい。

地球の丸さを実感するには、昨今の映像からも判るとおり、どうやら人工衛星なみの高度(300~1500km・静止軌道35000km)以上が必要ということになるらしい。
 



本州最南端に位置する潮岬灯台は、岬の突端に真っ白な姿で立っていた。

多くの灯台は、人里離れた小高い山の上などにあるのが普通だが、潮岬灯台は公園の一角にあり、皆がくつろぎながら身近に感じる灯台である。
灯台の基部には資料室、展示室らしい四角い建物が付帯し、灯台上部には見学用の展望テラスも在る。
小生は時間の都合で入場は控えた。


江戸末期、多発する海難事故にそなえて幕府は、イギリス・フランス・オランダ及びアメリカ四カ国と締結し、江戸条約というのを結んで主用地に灯台建設を決めた。

観音埼・剱埼(神奈川・三浦半島)・野島埼(千葉房総)・佐多岬(鹿児島大隈半島)・潮岬そして、隣の大島の樫野埼等・・、これらの灯台を「条約灯台」と言われるていた。
条約灯台とは、イギリス公使パークスから提示され、各国代表者との商議して決められた約束のもとに建設された灯台のことである。

潮岬と大島東端に立つ樫野埼灯台は、閃光灯の灯台としては明治初期には開設した日本最古のものといわれる。 
設計と建設指導者は、イギリス人技師「リチャード・ヘンリー・ブラントン」という人によって行われた。 

彼は、8年間日本に滞在して、困難に立ち向かいながら日本全国の沿岸に30余りの主要灯台を建設し、日本の灯台システムを確立した人物で、日本の灯台の父といわれる。
彼の胸像が横浜に貢献した人として、横浜スタジアムのある横浜公園の中、日本大通に続く入口近くにある。 台座の銘板に「リチャード・ヘンリー・ブラントン Richard Henry Brunton 1841-1901」とある。



串本・大島は実際の島で、途中、苗我島を挟んで二つの橋で結ばれている。 樫野埼灯台は大島の東の岬にある。 
この大島は「エルトゥ-ルル号遭難地」としても知られている。

明治23年、宮様夫妻(小松宮彰仁殿下)がトルコを訪問し国王に拝謁した答礼として、オスマン・トルコ帝国(現、トルコ共和国)のアブドル二世は、明治天皇への特派使節としてオスマン提督を日本に派遣した。 使節団650人は横浜港に入港し、3ヵ月間、両国の友好を深めた後、エルトゥ-ルル号は日本を離れ帰路に就いた。 

しかし、この時期、猛烈な台風に遭い、紀州・和歌山の串本沖で沈没してしまう。
このとき乗組員中600人近くが死亡したといい、69人は地元民・大島の村民による懸命の活動により救助された。
そして後に、日本の巡洋艦でトルコに送還されたのだったが、このことは、善意の遭難事件としてトルコの歴史教科書にも掲載され、国内でも同様で、当時、子供でさえ知らない者はいなかったという。 

その後、イランイラク戦争時の邦人のトルコ航空機による大量救出(NHKの「プロジェクトX」で両国に放送された)やトルコ大地震の義捐等、トルコと日本の間では、この遭難事件が縁で今も密接な親善関係が続いているという。

熊野灘の海流激しきこの海域を、本州最南端の潮岬灯台は西の海域を、大島の樫野埼灯台は東の海域を今も照らし続けている。


串本節』 和歌山民謡

ここは串本 向かいは大島
仲をとりもつ 巡航船
アラヨイショ ヨイショ
ヨイショ ヨイショ ヨイショ

潮の岬に灯台あれど
恋の 闇路は照らしゃせぬ
(以下繰り返し)

一つ二つと橋杭立てて
心とどけや 串本へ

串本といえば、この歌にあるように大島へは連絡船が売り物であった。
近年は串本大橋が架橋されて車で便利にアクセスできるようになり、時代の流れを感ずる。
 
次は、周参見の「枯木灘



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2010年11月18日木曜日

日本周遊紀行(42)古座 「古座川」

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 日本周遊紀行(42)古座 「古座川」  ,



清流・古座川と水爆実験の犠牲・第五福龍丸の因縁・・?、

紀伊浦神は静寂な浦神湾に面するが、熊野の古道はここを起点に熊野灘から分かれ山間に入りこんで、小さな峠越えを繰り返しながら那智の浜をめざしている。 
古道は浦神駅から国道やJRと別れて裏手の道に入り、休平を越えてその先太田川、市屋峠、ゆかし潟へと進む。

道の途中には石の階段、地蔵尊の道標等、古道の面影が随所に残り、コースの途中には先に通過した湯川温泉・南紀勝浦温泉等といった名湯も点在している。
ゴールの浜の宮王子(補陀洛山寺)で本道(R42)と再び合流し熊野速玉大社へ向かっている。


紀伊田原から古座の町に入る。

ほぼ中央に一級河川の古座川が流れる。 
海岸よりは「古座町」であるが、内陸部には古座町でなく「古座川町」もある。 むろん古座川を中心とした街で、町名の由来も川の名を当てたものであろう。 
清流・古座川は天柱岩、一枚岩、滝の拝といった10kmにも及ぶ奇岩巨岩が並び、上流では、まぼろしの滝、七川ダムといった名勝、景勝が並ぶ渓流でもある。


古座川河口付近には巨大な中洲がある。
現在は草むして水鳥たちのコロニーとなっていが、克っては住宅や工場が建ち並び、上流部には広場があって各種の興行や運動会なども開催されたという。
その中洲の下流部には木造漁船を造る造船所があって、一昔前の1947年(昭和22年)、かの「第五福龍丸」がここで建造されたという。 
そして、竣工した第五福龍丸は、日本有数のマグロ基地である焼津に引き渡された。

そして、1954年(昭和29年)3月、遠洋航海のマグロ漁にでた第五福龍丸は、中部太平洋・ビキニ環礁で行われたアメリカの「水爆実験」で被災し、「死の灰」を浴び、23人の乗組員が急性放射能症となったことは年配者の方ならご存知かもしれない。


乗組員たちは・・

『 夜明け前の暗やみの中に白黄色の大きな火の柱(せん光)が天に向って立ちのぼるのを目撃、空は黄色みがかった白から赤に、そしてオレンジに染まり、船員のひとりは、「太陽が西からでた」と叫んだ。その6、7分の後、大爆音があたりをゆるがせ、やがてキノコ雲が・・』
広島に投下された原爆の約1000倍の威力という。 

そして、被爆から半年後「久保山愛吉」氏が死去した。
間際に臨んで「 原爆被害者は、私が最後にしてほしい・・! 」と絶叫しつつ死んだという。

当時の世相は東西冷戦の最中と朝鮮戦争休戦後という状態であった。
そのため、日本国内で起った強烈な反核運動が反米運動へ移ることを恐れた米国は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、総計200万ドルの補償金と「 米国の責任を追及しないこと 」との確約を日本政府から受け、事件の決着を図ったよいう。 
そのため被災者に渡った補償金は微々だったともいう。

実験後の死の灰や残存放射能の影響で、マーシャル諸島周辺には健康被害者が多発、政府に認定された島民は2003年末で約1870人に上り、うち約840人が死亡したという。


映画・「ゴジラ」の真意は・・?、

といころで、「ゴジラ」という映画はご存知の方も多いが、このビキニ環礁の水爆実験が映画のできるきっかけになったことは余り知られていないようだ。

ゴジラ」は水爆実験で太古の眠りから覚め放射能を帯びた怪獣となったゴジラが東京湾に上陸し、超高温の放射線を吐きかけて人間や建物を次々と消し去り、破壊していくという。
この映画は後に「 原水爆の恐怖と戦争の悲惨さを怪獣という形で象徴させた反戦・反核映画 」ということで評価も生んだ。


古座町には、「第五福龍丸」建造記念碑があり、東京・新木場「夢の島」にも、都立・第五福龍丸展示館があるという。

平成17年4月1日、和歌山県古座町は、串本町と合併し「串本町」となっている。

次回は、串本・「潮岬


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2010年11月16日火曜日

日本周遊紀行(41)新宮 「神倉神社」

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日本周遊紀行(41)新宮 「神倉神社」 ,



巨大な岩塊がご神体の「神倉神社」



熊野川を境に三重県から、「紀の国」・和歌山県となる

河口付近の大河・熊野川は、熊野神社(速玉大社)を抱くように、巻くようにS字状に屈曲蛇行しながら流れる。
本来、川は急激蛇行などを嫌い、河跡湖(三日月湖)などを形成しながら、直線に流れようとするのが自然である。 だが、この地は堅い岩質である千穂ヶ峰・権現山という山塊に阻まれているためである。 


千穂ヶ峰の北部中腹には、御燈祭などで知られる「神倉神社」が鎮座している。
速玉大社は、元々は神倉山に祀られている神倉神社が元宮であったが、後に現在地に遷宮された社であり、そのため神倉山の古宮に対し、ここを新宮と呼ぶようになり、町名の由来にも成っているという。

現在の神倉神社は、熊野速玉大社の摂社にあたり、新宮市西端の権現山の中腹に社殿はある。
神社社殿は急斜面の参道の上にあり、参道は見る者を圧倒するほどの、自然石を組み合わせ、積み重ねた数百段の石段からなる。 社殿裏には巨岩群があって、これが神倉神社の御神体の「ゴトビキ岩」と呼ばれるものである。


岩塊の周囲は注連縄で括(くく)られている。
ゴトビキ岩の下からは、弥生時代の遺跡である銅鐸などの破片も発掘されていて、おそらくは昔の縄文時代の祭事場ではないかと想定されている。
神道や神社などというものが存在する以前にゴトビキ岩は神として崇拝されていたのであろう。

古代の人は絶壁の上に神が宿ると信じていたらしく、自然岩を神体としているのは、先に記した「花の窟神社」や、滝を御神体とする那智の「飛瀧(ひろう)神社」とともに、古代の熊野の自然崇拝の姿を今日に伝えているものとされる。

熊野三所大神(熊野三山の神)が、熊野において最初に降臨した聖地が神倉山とされ、神倉山は熊野の根本であるとも考えら、熊野根本大権現とも呼ばれた。 

今でこそ速玉大社の摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称)であるが、本来は速玉大社の御祖神であったのである。
尚、速玉大社など新宮周辺の所縁地については、別項で記載してます。

日本の世界遺産: 『紀伊山地の霊場と参詣道



新宮の市域は、大半が熊野の山地である。 
狭い街の中央を国道42号が南北に貫通していて、市の外れよりR168が熊野川に沿って、その上流域である「瀞峡」や「熊野本宮社」へ向かっている。


小生はこのまま国道42号線を下る。 

宇久井の浜、赤色海岸と海の蒼を堪能しながら、紀勢本線(愛称・きのくに線)と並行しながら、那智勝浦の町へ入る。
那智大社方面へ向かう道の角に「補陀洛山寺」(ふだらくさんじ)がある。
世界遺産にも登録され、平安初期、南方に補陀洛浄土(海の彼方にある極楽浄土)を目指し渡海する上人達の出発点として知られてる。 


補陀洛渡海とは・・

生きながらにして小さい船に閉じ篭もり、観音浄土を目指すという。
つまり、生きたまま海の彼方にある観音浄土へ向い、生身のまま成仏(じょうぶつ)・即身仏(そくしんぶつ)になるという、日本宗教史上における稀有な現象として知られ、チベット仏教伝来の修行信仰の一つとされる。

補陀洛山寺は渡海上人を送り出し、また、その上人を御祭りしているお寺である。
現在は御堂が僅かに1棟座してはいるが、由緒ある寺院で「世界遺産」にも登録されている。
尚、詳細は日本の世界遺産: 『紀伊山地の霊場と参詣道』へどうぞ。



南紀・東海岸から・・、 

国道沿いには那智勝浦温泉のホテルの各種看板が目立つ。 
中でも那智勝浦港への大きな案内版があり、港はこの国道より2kmほど先に在る。
この港の周辺が「勝浦温泉」の中心で、入江や岬、島に巨大ホテルが乱立している。
中でも、先般、我ら夫婦が泊まった「ホテル浦島」は、この地域で1、2を競う大きなホテルで独特な温泉である「大洞窟温泉忘帰洞」でも有名である。  (詳細は別項リンクに記載) 

南紀勝浦温泉は、良質の温泉と熊野三山周辺の行楽観光の拠点として人気があり、さらに昨年(2004年)熊野三山周辺地域が世界文化遺産に指定されたことで、一層の賑わいをみせるだろう。



湯川トンネルを抜けると湯川温泉・・、

その昔熊野詣での湯治場として栄えたといわれる由緒ある温泉場である。 
一昔前は、こじんまりした温泉街であったが、R42の新道建設で分断され、中途半端な位置づけにされたために観光客が少なくなったといわれる。 
近年は、豪奢な勝浦温泉とは一線を画す方針を貫いており、保養、湯治を中心としている家庭的な小型旅館が数件存在する。 
当然、遊興ムードとは一切無縁で、根強いファンも多いという。


温泉場の一角、国道のすぐ右手に共同浴場の「桜湯」があったので、入浴することにした。 
建物のすぐ前に車を止めて、シャレタ引き戸の玄関から入る。
手持ち無沙汰のオバサンに、チョッと高目の500円の入浴料金を払って早速湯船に浸かる。 
他に客は無く、独り占めの貸切状態である。 お湯はさらりと透明・無臭で、とりたてて特徴は無いようであるが、檜の露天風呂は緑の景色が穏やかで良い。 
この湯場は、公営の浴場かなと思いきや、私的なもので隣の「旅館さくら」と同一であった。


この先の国道沿いに「ゆかし潟」という、妙な名称の「汽水湖」(淡水と海水が混じり合う瑚)がある。
湯川海水浴場まで細い水路でつながっていて、そのため小さな汽水湖を形成しているらしい。
多くの車が行き交う国道42号線沿いにありながら、湖のような静かな佇まいを見せていて、春は桜が咲き誇り、冬には多くの水鳥が訪れるという。


温泉でさっぱりして先を急ぐ、湯川のシーサイドを抜けると丘陵地帯になる、左に大きな岬半島が見えてきた。鯨で有名な「太地」の岬である。 
400年も前から鯨の町として知られ、昨今では国際捕鯨委員会(IWC)による日本の商業捕鯨の中止によって、図らずも衰退してゆく。

優美な玉ノ浦の入江海岸を左に眺めながら、突端にあたる「紀伊浦神」へ至る。 
古来、この地の「玉の浦」は、熊野海道・大辺路の中でも風光明媚な地として知られ、熊野往来の道すがら、万葉歌人らが多くの詩を残している地でもある。


『 荒磯(ありそ)ゆも まして思へや 玉の浦の 
               離れ小島の 夢にし見ゆ
 』  詠み人知らず

(荒磯よりもいっそう心惹かれたからか、玉の浦の離れ小島を夢にまで見えることだ)



ところで、世界遺産に登録された熊野古道は「小辺路」(高野山を起点として熊野本宮大社へ、高野街道)、「中辺路」(田辺市から本宮大社~那智大社から補陀洛山寺の浜の宮王子へ至る内陸山間の遍路道)、「大辺路」、「伊勢路」、「奥駆け道」等がある。 大辺路は、中辺路に対し海の道に当たり、田辺市から新宮速玉大社に到る、概ねR42に沿っている。
実際に世界遺産に登録されている古道は歴史的遺産ということで、条件としては痕跡を整備し、古跡が残っていて、しかも現在でも活用可能であることらしい。

日本の世界遺産: 『紀伊山地の霊場と参詣道


小生は、今後この所謂昔の「大辺路」か、大辺路に沿いながら紀州の和歌山を経て攝津の大阪まで巡ることになる。

次回は「古座川



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日本周遊紀行(40)熊野 「花の窟神社」

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 日本周遊紀行(40)熊野 「花の窟神社」  ,



巌魁が御神体の「花の窟神社」



伊弉冊尊(イザナミノミコト)の御陵とされている「花の窟」 ,

獅子岩から1kmほどの先の右手に巨岩が林の間から見え隠れしている。 
こちらが「花の窟」と言われる、その名も「花の窟神社」(はなのいわや)である。

この巨岩塊が花の窟神社の御神体であり、高さ70mに及ぶ岩壁が聳えている。
小さな鳥居の脇には、似合わぬ程の大きな石柱に「日本最古 花の窟神社」と記されていて、その奥には社のような建物のようだが、実は社殿では無くチョット似合わぬが神門のようなものであろう。

この神社は、本来の社殿がなく拝殿のみであり、まさに「自然崇拝、自然神信仰」の神社なのである。 地元の人々はこの神社に日本中の八百神(ヤオヨロズノカミ)が、遊びに来られると信じているようである。

主祭神は日本創生の神・「イザナミの命」であるが、ここは、イザナミの墓がある場所ともされている。 
全国に、イザナミ神を祭る神社は幾多もあるが、「御稜」(尊い方の墓地)として存在している場所は唯一ここだけといわれ、この岩盤の向こうは、黄泉の国へ通じる場所とも云い伝えられている。
実際には、縄文期頃の古くからの漁民の葬送地、祭祀の遺跡ともいわれ、花の窟の名称は太古から花をもって祀る土俗・風習があったからと言われる。

花の窟は、神々の母である伊弉冊尊(イザナミノミコト)が火の神・加具土命(カグツチノミコト)を産み、この地で亡くなったとされ、後に葬られた御陵であるといわれる。
この花の窟には無数の洞窟があり、又、巌の表面には窪みが数箇所ある。 
これらは死者の霊が一旦とどまる場所、他界への入り口という信仰があって、昔は近辺に水葬の伝承もあることから、水葬の基点として神聖視されたとの説もある。

又、岩の窪みが女陰の形に想定されることから母神である伊弉冊尊を祀り信仰していたとする説もあり、 至近の新宮市に鎮座する神倉神社の御神体である「ゴトビキ岩」を陽石(父神)として、花の窟と対をなすとの見方もあるようだ。

神社は日本書紀にも記されている日本最古の神社といわれており、古来からの聖地として今に続き、信仰は厚いという。

境内の案内板に・・、

『 神代の昔より花を供えて祭るので花の窟という。 窟の頂上より掛け渡すお綱は神と人をつなぎ神の恵みを授けてくださるお綱なり 』

と記されている。

「日本書紀」に記されている事が今に引き継がれ、2月2日と10月2日には神々に舞を奉納し、地元・有馬の氏子や人々が集まり「お綱掛け神事」が行われる。 

綱は藁縄7本を束ねて花をつけた3つの縄旗で、日本一長いといわれる約170メートルの大綱を岩窟上45メートル程の高さの御神体から境内南隅の松の御神木に渡すという。
この神事は太古の昔から行われていて、「三重県無形文化財指定」されている。 


花の岩屋」の石碑は、紀州藩・徳川宗直(ムネタダ)が1723(享保8)年に寄進したものと言われ、国学者・本居宣長も

『 木の国や 花のいは屋に 引く縄の 長くたえせる 里の神わさ 』

の歌を詠んでいる。



又、この地は熊野三山参詣の本宮社と速玉社(新宮社)の分岐点に当たり、いわゆる熊野古道として残されている。 
伊勢道より遥々やって来た参詣人達は、先ずここ「花の窟」をお参りして、其々、本宮大社、又は、速玉大社(新宮大社)に向かうのである。




さて、次に向かおう・・

沿岸地域に迫る重畳たる紀の国、木の国、鬼の国の山塊も、鬼ヶ城、獅子岩あたりで終わりをつげ、今度は対照的に明るく開けた、そして、ほぼ直線で平坦な熊野灘の海岸を行くことになる。 
実に開放感たっぷりで気分も爽快である。 
すぐ右手に紀勢本線のローカル列車がのんびりと走っている。 左は防風林と思しき青松群が平行していて、時折、紺碧の海原がキラリと光らせている。

ここは御浜町(みはま)の「七里御浜・ひちりみはま」で、町名が先か地名が先かは定かでないが、この浜は特徴ある浜様を呈しているようである。
道の駅「パーク七里御浜」もあったが、その向い側の浜辺の休憩所・阿田和PAに車を止めて海辺をのぞいて見た。 

遥かなる水平線の青松と白砂の海岸(・・?)が延々と続いている。 
浪打際をよく見ると、白砂と違って玉砂利が敷きつめられた砂礫の海岸であった。 
これが、ゆるやかに円弧を描きながら延々と続いている。そんな風景を見るだけで、気分が晴れ、大らかになれるが気分がする。

気が付くと、小波が打ち寄せるときもそうだが、返す波の時に小石の転がる音が、「シャラシャラ」と何とも心地良い音がよく響いてくるのである。 
これらの玉砂利は「御浜小石」と呼ばれ、黒色や青色、オレンジ色などカラフルで、色の模様や形も多彩なためアクセサリーとしても人気を呼んでいという。 
そういえばこの地方は碁盤の黒の碁石である「那智黒石」の産地でもあった。 

半島を流れる急流河川の熊野川が途中で岩盤や地質帯を渓谷が削り、砂礫となって御影石やカラフルな縞模様の石などになる。 玉砂利の海浜では日本一長いとも言われる。
序でながら、この玉砂利は素足で歩くと健康に良いといい、昨今の健康ブームでこの浜を素足で歩く人が増えているという。



「花の窟」付近からは熊野本宮へ到る道が今のR311号線として分岐している。 
神木から阪本の間には横垣峠道、そして風伝トンネル付近は風伝峠道と、いずれも古来の熊野古道の雰囲気が残っているという。 

尚、R311は熊野川・瀞峡、本宮社から大峯山、吉野山と龍神から高野山と近畿主要地を縦断する東側の入口にも当たる。 又、本宮社より熊野街道・中辺路を経て、西海岸の田辺に至る。 


紀勢本線の「鵜殿」の駅前を過ぎ町内を通り越すと、視界を左右に振る程の広大な川幅を有する熊野川が、水の動きもユッタリとして流れ動いている。 
川岸を走って熊野大橋にかかる頃には、向う岸にこんもりした森が見渡せる。
既に新宮市であり森は熊野三山の一つ「熊野速玉大社」である。

地域は既に「紀州・和歌山県」に入っていた。


熊野三山は、熊野本宮大社(ほんぐうたいしゃ)、熊野速玉大社(はやたまたいしゃ)、熊野那智大社(なちたいしゃ)の三つの神社の総称で、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、吉野山、高野山などとともにユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

尚、世界遺産に関した「熊野三山」界隈は別項・に記載してあります

世界遺産: 『日本の世界遺産』 
世界遺産: 『紀伊山地の霊場と参詣道


次回は新宮・「神倉神社


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2010年11月15日月曜日

日本周遊紀行(40)熊野 「熊野地方」

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日本周遊紀行(40)熊野 「熊野地方」 ,



熊野市と熊野地方

地域は既に熊野、正しくは「熊野市」に入っていた。
熊野というと、普通、熊野地方のことで紀州・和歌山の地域と錯覚しそうであるが、熊野市はれっきとした三重県である。
三重県は通常は名古屋圏、中京地区で東海地方(東海三県:愛知、三重、岐阜)とも言われるが、こと熊野市に到っては県の最南部、紀伊半島に深く入り込んで和歌山県と接している。 
従って、市は歴史、風俗、習慣とも紀州圏・熊野地方の属していると見るべきだろう。

尤もで、市の中心市街地は古くから木本地区で、この地は奥熊野代官所が置かれ、熊野地方一帯の行政の中心であった。 
それゆえ明治の廃藩置県で三重県に編入された時には支庁がおかれ、現在も三重県の熊野地方を管轄する官公庁が多く存在するのである。



クマノ(熊野)とは一体如何なる意味をもつのか・・?、

一般に「熊野」とは、熊野三山が鎮座する所謂、熊野地方をいうが、嘗ての紀伊国・
さて、「熊野」という地名が何を意味しているのか、語源としては定かでないが、「クマ」、「カミ」で「神のいます所」や「クマ」は「こもる」で「神が隠る所」の意、又、「クマ」は「こもる」で「死者の霊魂が隠る所」の意、と諸説はある。

いずれにしても「熊野」とは開けた明るいイメージはなく、木々が鬱蒼と茂る、陽のあまり当たらない未開の地という意味合いが強い。 
実際、熊野3600峰といわれ、ほとんどが山林に覆われ、平地はほとんどなく、山からいきなり海になるような地形の厳しい所が多く、人が農耕をして暮らすにも不便な場所であった。
飛鳥以前には、それこそ熊野は「神のいます所」、「神が隠る所」で神域であった。


熊野の地名が初めて登場する文献「日本書紀」では、熊野は伊邪那美神(イザナミ)の葬られた土地として登場する。 その墓所は市街隣地「花の窟」というところであった。(次回詳細)

奈良期になって仏教が倭国に入ってきても大和地方の都人から見たら、熊野は山のはるか彼方にある辺境の地であって、大和とはまるで違う異界として意識されていた。 
従って、人々は熊野を死者の国(死後の世界)に近い場所と考えていたようで、この事が高じて後に死者の国である「浄土」と結びつけられ、浄土信仰が盛んになったとされている。

後の神仏習合という新しい思想では、熊野三山である「本宮」は阿弥陀如来の西方極楽浄土、「新宮」は薬師如来の東方浄瑠璃浄土、「那智」は千手観音の南方補陀落(ふだらく)浄土の地であると考えられ、熊野は全体として現世にある「浄土」の地とみなされるようになった。


熊野が広く世に知られるようになったのは平安期以降で、都・宮中での上皇や女院による熊野御幸(くまのごこう)が行われ、熊野信仰に熱が入り、熊野は浄土信仰の日本第一の大霊験所として地位を確立した。
その後、貴族が止むようになると武士や庶民による熊野詣が盛んになり、参詣道も整備されて遂には「蟻の熊野詣」とも称されるようになった。

現代においても、それらの信仰は曲折があったにせよ世代に引き継がれ、又、これら諸々の施設である遺跡や遺産は、一般無信仰の人々にとっても好奇の対象とされ観光化されてていって、相変わらず多くの人を参集しているのである。

そして、遂には世界遺産:「紀伊山地の霊場と参詣道」に登録されるまでに到った。

世界遺産には神仏習合「熊野」以外にも紀伊山地では修験道の「吉野」、密教の「高野山」と三つの異なる宗教の山岳霊場が選ばれ、それら三大霊場を結ぶ参詣道である「熊野参詣道」、「大峯奥駈道」、「高野山町石道」などが選定されている。

或る著名人が、この紀伊山地の世界遺産の重要性、特徴的で、尚且つ異色なのを次のように挙げている。

『 それは三つの霊場がそれぞれ「異なる宗教」の霊場であるという点です。修験道の吉野、神仏習合の熊野、真言密教の高野山。異なる三つの宗教の霊場が紀伊山地にある。それぞれが在るだけでなく熊野本宮を中心として「参詣道」で結ばれている。このことはとても大切なことだと思います。 神と仏が敵対するのではなく、融合し、共存している。異なる宗教が敵対せずに共生している。この共生の文化こそが世界に誇るべき日本の文化遺産なのです 』・・と。



尚、熊野地方の世界遺産については、別項に記載してます。


日本の世界遺産リンク: 『日本の世界遺産
熊野の世界遺産リンク: 『紀伊山地の霊場と参詣道



次回は熊野・「花の窟神社



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2010年11月14日日曜日

日本周遊紀行(39)尾鷲 「紀伊の鬼」

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 日本周遊紀行(39)尾鷲 「紀伊の鬼」  ,


三重県熊野市木本町の海岸にある鬼の国の象徴・「鬼ヶ城」




一鬼から九鬼、九鬼義隆、「鬼が城」そして鬼は修験道に通ず

尾鷲」はNHKのラジオ第2放送の気象通報でお馴染みの名称である。
「おわせ、風力3、晴、1013ミリバール」(今はミリバールとは言わないが・・) 

ところで尾鷲の北部地域の大台ケ原や大杉谷あたりは日本国内で最も雨量の多いところである。 この尾鷲では1968年9月26日、最大日降水量(1日の降水量)806mmという、とてつもない雨量を観測している。 これは地域別にみると、国内の最高記録になっているという。

市の後背部は広大な山域を有し、温暖多雨な気候と合い間って尾鷲は林業が盛んである。
中でも「尾鷲ヒノキ」は、鮮やかな赤みと強靱な良質の材木として全国的にもその名を知られてる。

又、江戸期から良港として知られている尾鷲漁港はブリの水揚げでも全国有数を誇るよいう。 大正期には一面の浜は、足の踏み場が無いほど大漁が続いたという。
九鬼岬の氏神・九木神社の例祭はブリ漁が本番を迎える1月に行われ、「鰤(ブリ)まつり」としても有名だとか。
この九木神社は九鬼氏の祖を祭ってあり、その九鬼の祖は藤原隆信という説もある。
そして地名の九鬼は、あの九鬼水軍発祥の地であるともいわれる。(前項、英虞湾でも述べた) 
尾鷲の九鬼は市街地を抜けてR42が分岐するR311を行く、長い「九鬼山トンネル」を抜け入り江に出たところが「九鬼の浦」である。

南北朝の頃に佐倉中将(伊勢国、四日市奥の佐倉)と呼ばれた藤原隆信は、吉野南朝の宮廷に仕えた宮人であった。 
戦乱の末、九木浦へ落ち延びてからは藤原姓を改めて「九鬼氏」と称し、直ちに築城や水軍を養成したと言われる。
その後、勢力をのばし、紀伊の名族として知られるようになる。 

英虞湾の項でも述べたが、九鬼嘉隆は第九代目の分家にあたり、波切を舞台に水軍を主力として、志摩の波切から伊勢鳥羽へと勢力を広げ、五万石の大名へと出世する。 
だが、こちら本家の九鬼家はこれに反して衰退してゆくことになる。


その「九鬼」ついて 
くき」という字は、元来、峰とか崖の意で、岩山や谷などを指すという。 
又、鬼は鬼道すなわち修験道のことで、「九鬼」のように上につけられた数字は修験道場の開かれた順番であるともいわれる。

平安時代から鎌倉・室町にかけて天台・真言などの修験僧や、また山岳信仰を奉じる修験者たちが各地に進出して修験道場を開いた。 
この熊野地方は新宮がその本拠で、新宮から1番目の市木は「一鬼」、二木鳥(二鬼)と東に向かい、尾鷲市内では三木里(三鬼)、七鬼、八鬼、そして九鬼と続くという。 
九鬼は、元はといえば修験道場として栄えた所で、それが地名になったのであった。

序ながら九木神社は南北朝時代、後醍醐天皇をお守りして南朝を奉戴し、初め「九鬼神社」であったが、徳川政権時代に入って北朝に縁のある徳川氏の命により、南朝に寄与した九鬼氏の名及び関係する呼名を改めて「九木」としたものであるという。 



国道42は熊野の山深い矢ノ川峠を行く
長いトンネルを越えた山中に「道の駅・熊野きのくに」が在った、そう、ここは既に熊野市である。 時刻も昼時なので軽い食事を戴き、合わせて紀の国、木の国、「鬼の国」の清涼な雰囲気をゆったりと味わう。

面白いことに
この道の駅・「熊野・きのくに」の経営母体は、「鬼の国・物流共同組合」という。 組合の鬼の字は、「オニ」と呼ぶか、「」と呼ぶか定かでないが、鬼の国からの由来であろう。 
この先の名勝に「鬼ヶ城」というのがあり、鬼は修験道に通じ深山幽谷、波濤打砕のこの地はいかにも鬼が出そうで妙に納得するのである。


吉野方面へ通ずるR309(東熊野道)と合流して、やがて熊野灘の御目当て「鬼ケ城」に出た。 
早速、「鬼ヶ城センター」為るものに500円の駐車料金を払って出向いてみた。
断崖絶壁、というほどでもないが岸壁が奇妙な形をしていて目を引く。 
人力で造作したと思われる岩場の階段には転落防止の鉄柵が施してあり、若干のスリルも味わえる。 

千畳敷と言われる「鬼床」は造ったような広い平面盤で、その上部の巨大な岩魁が覆い被さっている。 ここでは雨露も凌げ、波濤と遥か大洋面を望みながら鬼(修験者)が修行するには好適地であるようだ。
隅っこで地元のおばさんが地元産品の小店を気だるそうにを開いていた。

鬼ケ城」は、伊勢志摩から延々と続くリアス式海岸の南端に位置し、熊野の山塊が熊野灘に突落ちてくる岩壁が、永久の時の波蝕作用で出来上がった洞窟である。 
岩場全体が名勝で、古くから紀州名物として親しまれている。 
鬼ケ城の海岸線に沿って、約1キロの遊歩道があり、この間には、熊野灘の荒波の浸食による大小様々な洞穴があって、大きなものには夫々に名称が付けられているようである。

この「鬼ケ城」を中心として、地元有志会(熊野市観光協会)において、毎年8月17日に「熊野大花火大会」が開催されていることは全国的に知られている。 
各種スターマイン、二尺・三尺玉、海上自爆水中花火、海上自爆三尺玉、ナイアガラと見どころはつきない。
お目当ての見物(みもの)はなんといっても鬼ケ城仕掛けで、岩場や洞窟に花火を直置きするという荒技で、信じられないほどのド迫力の地上大爆発の連続が数分も続くという。 是非、一度は拝見したいものだ。



熊野灘に向かって吼える「獅子岩」


鬼ケ城のトンネルを抜けると、これまた名物の「獅子岩」が在る。
鬼ケ城ほどの大迫力とスペクタクルは無いものの、「日本のスフィンクス」(・・?)とも呼ばれる獅子岩は、高さ25m、周囲約210mの岩塊で、地盤の隆起と波の浸食によって造形されたもの。 
あたかも獅子が太平洋に向かって吠えているかのような姿からこの名が付いた。 学術的価値も高いものだと言われている。

次回、「熊野地方」



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01. 15.

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