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日本周遊紀行(68)白糠 「北海道炭田・発祥地」
釧路は今でも「石炭」を掘っている・・?、
国道38号線、「庶路」の町並みを過ぎると白糠漁港の手前あたりに海岸に迫り出してくる小高い丘がある。 東山公園の一角で「石炭岬」というらしい。
石炭岬は道内最初の炭鉱があった場所で、開発の歴史は江戸時代にまでさかのぼるという。 現在は東山公園として町内を一望できる町民の憩いの場になっているが、その名の通り石炭に所縁のある名称である。
そしてすぐ先の太平洋に面した白糠の港は、江戸時代から開かれていた古い漁港で、北海道で採掘した石炭を最初に船積みしたところでもあった。
釧路炭田の歴史は幕末の1857年頃、白糠(しらぬか)石炭岬と釧路市岩見ヶ浜のオソツナイで採炭がされ始め、これが釧路地方の炭田開発の第一歩であったといわれる。
オソツナイは今の釧路市の東海岸付近、釧路市益浦(ますうら)の辺りを指し、益浦から桂恋に到る間の「岩見ヶ浜」では、地層と地層の間に挟まった露頭炭層を観察することができたという。
先ず、オソツナイで手堀の採掘が始まり、併せるように白糠のシリエト(石炭岬)でも石炭を掘り始められた。
江戸期の頃は、まだ「石炭」という言葉がなく「媒炭(ばいたん)」と呼んでいようである。
北海道で最初に石炭を掘り始めたのが釧路地方からであった。
幕末、箱館が開港されて港にくる外国船舶の要望に応じるため、外国船へは薪、水、食料、更には石炭を供給することになり、これをうけて釧路地方で石炭を採掘することになった。
箱館奉行は蝦夷地に5、6ヵ所の石炭山を既に見つけていたが、その品位がどの程度のものかは不明であった。 そのため鑑定をイギリスの技術者に頼んだところ、シラヌカの石炭が良質で有望であるとの意見を得た。
安政4年、栗原善八(蝦夷地、炭鉱開発の創始者)に採取を命じ、栗原は江戸から採炭夫を数名と人夫をつれてシラヌカにやってきた。 これが蝦夷地における石炭採掘のはじまりであった。 その後、大正年間には明治鉱業や安田炭礦を経て三井系財閥の太平洋炭礦が創業を開始している。
当時の日本は第一次世界大戦後の産業基幹の拡大や、家庭用暖房などの燃料需要増大が見込まれる時期でもあった。
財閥系と言われる「日本を代表する大資本が釧路の石炭産業に参加する」その意味合いは大きく、豊富な資金力で電力を活用した機械化が進められ、石炭採掘・輸送をするために鉄道を利用するという。
石炭を中心とした日本の産業革命ともいえる一面を象徴していたのであった。
太平洋・白糠炭田は昭和30年前期ころでは石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ最盛期を迎える。 しかし、昭和30年代半ば以降、エネルギー革命や海外炭との価格差とうに抗しきれず、次第に他国、他社の影響を受け、減産の途を辿ることになる。
遂には、政府政策による各地の炭鉱閉山が相次ぐ中、平成14年、太平洋炭礦(株)はその歴史の幕を閉じた。閉山までの82年間で採炭量は1億t以上にもなり、採炭の多くを海底の炭層から行っていたため「太平洋の海底炭」というネーミングで宣伝し販売をしていたという。
閉山前年の平成13年、地域経済への影響を懸念する中、地元釧路市財界関係者の出資により(株)釧路コールマインが設立され、釧路市に本社を置く日本の唯一の坑内掘・石炭生産会社となった。
平成16年以降には、中国の石炭需要増大による石炭価格の国際的な上昇に伴い業績は堅調だという。
更に、平成17年度には石炭の出炭総数が国内需要に満たないため、中国の提携炭坑から石炭を輸入して販売事業を展開するという皮肉な結果も招いているという。
併せて、アジアからの研修生受入や技術者派遣(国の「炭鉱技術海外移転事業」なども手がけている。
その「釧路コールマイン」の本社・工場は、石炭が最初に発見され採掘された釧路市益浦地区にある。
白糠町のほぼ中心を、美しい「茶路川」が流れている。
中茶路、上茶路、二股と河岸に沿って当時は石炭輸送のため国鉄「白糠線」が走っていたらしい。 炭鉱の閉山と国鉄の合理化に伴なってここも廃線の憂目を見たが、茶路川は今は良質な自然環境と魚類の宝庫になっているという。
「白糠」は当時、炭鉱で大いに栄えた街だったのである。
音別町は白糠郡にある町で、町名の由来はアイヌ語の「オムペツ」(川口がふさがる)からきているという。
町の地形から、形がミロのビーナスに似ている事から「北のビーナス」としての町おこしが進められているという。
国道沿いの町並みには116基の街路灯が、町の花・リンドウをモチーフしてデザインされていて夜は「日本一明るい町に」という願いがこめられている。
薄紫の淡い光が夜の音別町、国道をロマンチックに照らす光景は、ドライバーにはとても好評だとか。
音別町は2005年10月に釧路市、阿寒町の3市町が合併し、新生・釧路市の一部となっている。 しかし、間に「白糠町」が単独で存在するので、釧路市としての「飛地」(同じ行政区画に属するが、他にとび離れて存在する土地)になっている珍しい地域でもある。
次回は音別、尺別、直別・「北海道の地名とアイヌ語」
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2010年3月19日金曜日
日本周遊紀行(68)白糠 「恋問海岸」
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日本周遊紀行(68)白糠 「恋問海岸」
白糠(しらぬか)を「しらぬか」・・、
道内へ来て数日以来、初めて雨にみまわれた。 ここは白糠町の「道の駅・しらぬか恋間」である。
夜来より強めの雨が車をたたく、その為、時々意識が戻される。 ボンヤリ頭のまま、5時には目が覚めてしまった。
車内で点てた熱めのコーヒーを流し込みながら、昨夜調達したサンドイッチを頬ばる。
正面に、雨に打たれる恋問海岸という標識が立ち、その向こうの海はが霞んでいた。 ”恋問”(こいとい)とは何ともロマンチックな名前である。
駅内に、物産センター「恋問館(こいといかん)」があった。
早朝で今は未だ閉館中であるが、なんでも、土地柄に合わせたのだろう、恋愛成就や恋結び(縁結び)にちなんだ商品なども置いてあるとか。
面白いのは“形状記憶昆布”というのがあって、初めは乾燥した普通の昆布だが、湯水にさらすと”祝”や”寿”の文字になって表れるという。 祝儀の返礼にいいかもしれない。
ここ恋問海岸を一望できる広場はあまりのロケーションの美しさから、若いカップルの観光スポットと合わせてデートスポットにもなっていて、界隈ではベスト3にランキングされる人気があるという。
波の音と漁火を見つめながら、想いを語り合うお二人さん、はたして貴女の「恋の問」は解決しそうですか・・・?
トイレへ立って見て驚いた、ユッタリと広く清潔なのである。
おまけに、未だ凍えるような寒さではないのに、トイレの手洗いの水が温かいのである。
このあたり旅人の心をつかんだ気配りで有難く、これも北海道ならではの事なのだろう。
ただ、この道の駅には、「ごみ箱」が置いてなかった。 ごみはお持ち帰りくださいと書いてある。
自然に配慮した山奥の観光地ならいざ知らず、国道沿いの道の駅で、これは不可思議なことである。
缶飲料の自動販売機は何台も並んでいて、その空き缶を回収する箱も無いというのは、売る側の配慮はどうしたことか・・?。 缶飲料を1個売れば、確実に空き缶が1個発生するはずであるが。
環境がどうとか、美観がどうとかであれば、それなりの配慮をして備えればよいことである。
道の駅の条件には、無料駐車場とか24時間使えるトイレとかあったと思うけど、ごみ箱設置はうたっていないとでも言うのであろうか、不可思議なことである。
社会的責任と自己責任をはき違いてはしませんか。
空き缶が発生するのがいやなら、缶飲料を売らないことである。 利用者はこのことで特に困る事は無い。
ロマンチックな駅の名前に、やや水を指された感じである。 尤も、飲物の事であり、今は雨模様で、いずれも水物であったが・・!。
道中、「白糠を、しらぬか・・!」という結構にダ洒落た文言を見て苦笑した。
次回は白糠 「石炭産業発祥地」
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白糠の恋問海岸
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白糠(しらぬか)を「しらぬか」・・、
道内へ来て数日以来、初めて雨にみまわれた。 ここは白糠町の「道の駅・しらぬか恋間」である。
夜来より強めの雨が車をたたく、その為、時々意識が戻される。 ボンヤリ頭のまま、5時には目が覚めてしまった。
車内で点てた熱めのコーヒーを流し込みながら、昨夜調達したサンドイッチを頬ばる。
正面に、雨に打たれる恋問海岸という標識が立ち、その向こうの海はが霞んでいた。 ”恋問”(こいとい)とは何ともロマンチックな名前である。
駅内に、物産センター「恋問館(こいといかん)」があった。
早朝で今は未だ閉館中であるが、なんでも、土地柄に合わせたのだろう、恋愛成就や恋結び(縁結び)にちなんだ商品なども置いてあるとか。
面白いのは“形状記憶昆布”というのがあって、初めは乾燥した普通の昆布だが、湯水にさらすと”祝”や”寿”の文字になって表れるという。 祝儀の返礼にいいかもしれない。
ここ恋問海岸を一望できる広場はあまりのロケーションの美しさから、若いカップルの観光スポットと合わせてデートスポットにもなっていて、界隈ではベスト3にランキングされる人気があるという。
波の音と漁火を見つめながら、想いを語り合うお二人さん、はたして貴女の「恋の問」は解決しそうですか・・・?
トイレへ立って見て驚いた、ユッタリと広く清潔なのである。
おまけに、未だ凍えるような寒さではないのに、トイレの手洗いの水が温かいのである。
このあたり旅人の心をつかんだ気配りで有難く、これも北海道ならではの事なのだろう。
ただ、この道の駅には、「ごみ箱」が置いてなかった。 ごみはお持ち帰りくださいと書いてある。
自然に配慮した山奥の観光地ならいざ知らず、国道沿いの道の駅で、これは不可思議なことである。
缶飲料の自動販売機は何台も並んでいて、その空き缶を回収する箱も無いというのは、売る側の配慮はどうしたことか・・?。 缶飲料を1個売れば、確実に空き缶が1個発生するはずであるが。
環境がどうとか、美観がどうとかであれば、それなりの配慮をして備えればよいことである。
道の駅の条件には、無料駐車場とか24時間使えるトイレとかあったと思うけど、ごみ箱設置はうたっていないとでも言うのであろうか、不可思議なことである。
社会的責任と自己責任をはき違いてはしませんか。
空き缶が発生するのがいやなら、缶飲料を売らないことである。 利用者はこのことで特に困る事は無い。
ロマンチックな駅の名前に、やや水を指された感じである。 尤も、飲物の事であり、今は雨模様で、いずれも水物であったが・・!。
道中、「白糠を、しらぬか・・!」という結構にダ洒落た文言を見て苦笑した。
次回は白糠 「石炭産業発祥地」
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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2010年3月18日木曜日
日本周遊紀行(67)釧路 「釧路市と釧路町」
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日本周遊紀行(67)釧路 「釧路市と釧路町」
釧路の町と市、そして「鳥取」との関係・・?、
国道44号線(根釧国道)は道東の幹線道路であり、さすがに交通量は多い。
既に釧路町に入ったようである・・!、釧路市ではない、れっきとした行政区分上の町制の町である。
大正期に釧路町(現・釧路市)より分離独立し、昨今、国の市町村合併促進奨励にて、両「市」、「町」は再び合併のための協議を進めていたが、どうやらホゴ解散になってしまったようだ。
釧路市と釧路町の因果は・・、
1920年に当時の釧路郡釧路町が北海道区制(明治30年5月に明治政府が定めた北海道における地域区分制度、北海道区制,一級町村制及び二級町村制が公布された)が施行された際に「釧路区」と「釧路村」に分離し、それが現在の「釧路市」と「釧路町」になったという。
北海道では、1899年(明治32年)頃に札幌と函館に区制が施行され、それぞれ札幌区、函館区になった。 その後、小樽区、旭川区、室蘭区、そして1920年には釧路区が誕生している。
区になるためには、人口が集中する市街地の割合が大きいことが条件であり、釧路は当時から人口に比して面積が大きかったために要件を満たさず、逆に人口が少なく面積が広い地域を分離することで市街地域における人口の比率を増し、釧路区の実現を果たそうとした。
旧釧路町(釧路市)としては、釧路川より東の山間部の別保地区だけを分村しようとしたものの住民は、当時は湿原だった雪裡太(せちりぶと)地区も含めることを要求し、旧町側もいろいろと検討した結果、要求どうり2地区を分村したという。
結果、現在の姿は釧路市愛国地区と隣接する釧路町雪裡太地区が市町境界線になっている。 その後両地域とも住宅、商業地域として急速に発展したために、現、釧路町が2万を超える人口を有する町となっている。
釧路市としては、この雪裡太地区を譲り渡したことが、後になって悔やまれる結果となったのである。
釧路史によると、分村は旧釧路町(釧路市)役場と北海道庁との間で非公式に進められた秘策だったため、それが表に出るや地区住民が猛反発して大問題となり道庁が仲裁に入って解決に至ったという曰く因縁があった。
尚、分離された釧路村は、1955年に沿岸部の昆布森村と合併して新・釧路村となり、1980年には町制が施行され、現在の釧路町になっている。
今時、平成の大合併推進で平成15年、釧路地域では六市町村合併協議会が結成され、釧路市、釧路町、阿寒町、鶴居村、白糠町および音別町の広域合併に関する協議を行われ、検討されていたが、旧来の因縁で最初に釧路町が離脱している。
序ながら・・、
釧路市はその後、五市町村による枠組みなどについて調査協議をおこなっていたが、次に鶴居村が合併協議に参加せず単独の道を選択した。 結果、釧路市、阿寒町、白糠町および音別町による釧路地域四市町合併協議会に参加することを決定し協議を重ねていたが、その後更に、当初から合併協議を重ねてきた白糠町(しらぬかちょう)が離脱した。
結局、釧路市は2005年10月、阿寒郡阿寒町、音別町と新設合併することになり、新たに「釧路市」として発足したという。 それでも道内では北見市、足寄郡足寄町に次いで3番目に面積が広い市町村となっている。
もし、当初の枠組みで釧路市・釧路町・白糠町・音別町・阿寒町・鶴居村で、新釧路市として合併が実現していた場合、とてつもない広大な一行政地域となり、その面積は現在、広域度ナンバー1の岐阜県高山市(2180km2)を軽く超え、2960.2km2でダントツ1位になっているはずという。
因みに、これより狭い都府県域は香川・大阪・東京・沖縄・神奈川・佐賀と六つもあるのである。
気がつけば新「釧路市」は我が国では珍しい(初めて・・??)国立公園を二つ抱える町になったのである。 「釧路湿原国立公園」、「阿寒国立公園」、これはトピックスであろう。
さて、釧路の市街地で夕食を摂ろうと場末風のラーメン屋で生ビールにラーメン・ギョーザ定食を摂った。 これが実に美味い、いかにも北海道らしいグルメ感であり、値段も手ごろで大満足であった。
ところで、食事を摂ったこの辺りの地名を「鳥取町」といい鳥取大通り、鳥取ドーム、鳥取中学といった「鳥取」という地名、固有名が軒並み存在しているのに気が付いた。
そうなのである・・、この地域は昔は鳥取村、鳥取町と言った行政区域だったのであり、その鳥取町は1949年10月にが釧路市に編入していたのであった。
鳥取とは勿論、山陰の鳥取、鳥取県のことであった。
江戸末期、幕藩時代の動乱から「明治」が発足し、それに伴って明治2年版籍奉還、同4年に廃藩置県が実施され、武士のほとんどが窮乏の淵に立たされた。
鳥取・池田藩32万石は、特に窮乏がひどく経済的自立は困難であったといわれ、そのため士族授産(明治維新後、士族たちをなんらかの産業につかせようとした政策)として帰農移住・開墾を勧められ、新天地を目指した。 つまり、武士が失業したのであった。
当時の地元新聞は「鳥取県の士族の中には餓死寸前の者が80戸余りもいる」と報道している。
困窮にあえぐ士族に職を与えるため、県や明治政府もいろいろと授産事業を試み、その中で最も大きな期待をかけられたのが北海道移住であった。
1884年(明治17年)6月、鳥取県の士族39戸と平民2戸の家族を乗せた宿弥丸(1,200トン)は、釧路に向けて賀露港(鳥取市)を出帆した。 これが県・勧業課の指導による鳥取県士族の北海道移住の第一陣であった。
明治維新の社会変化によって、士族の生活は大きく変わり、その後、鳥取県士族の北海道移住は1889年(明治22年)までに合計8回続き、442戸が釧路や岩見沢、根室などに移住して行ったという。
移住者は、北方警備や原野の開拓に熱意を燃やしていたが、荒涼とした原野での生活は想像を絶する、言語に絶する幾多の苦難があったことは言を待たない。
しかし、移住者たちは強い団結で悪条件を克服し、釧路地方では鳥取村をつくり、やがて
鳥取町に発展させたという。
鳥取町は1949年(昭和24年)に釧路市に合併されたが、鳥取の名は今も残されており、鳥取県の士族が入植して100年余り経過した今日、釧路市は北海道東部の中心都市にまでなっている。
次いでながら、鳥取県と北洋漁業との関わりについて・・、
北方領土周辺の海域を含むオホーツク海、べ一リング海など北太平洋で行われる漁業を北洋漁業といい、この海域は暖流と寒流が交わっているため漁種も豊富で、世界でも有数の漁獲高を占める豊かな漁場である。
日本海に面する鳥取県は漁業が盛んで、近年、「境港」は全国屈指の水揚量を誇っているのは周知であるが、1972年(昭和47年)頃からは北方領土に近い北海道東海域からオホーツク海海域にも出漁するようになり、鳥取県の漁船にとって貴重な漁場の一つになっていた。
無論、北方領土の周辺は、北方系の魚・サケ、タラやホッケなどのほか、温帯系のアジ、サバ、イワシなども豊富で、鳥取県の漁船も制限水域の近くまで出漁している。
この時、前線基地として友好都市である釧路港が大いに役立った事は言うまでもない。
しかし、御存じソ連が200カイリ漁業水域を設定した1977年(昭和52年)からは、この海域での操業が難しくなり、境港から出漁する漁船は少なくなったという。
ところで、鳥取県民の身近にも北方領土問題と似かよった大変重要な問題がある。
それは、鳥取(島根県)沖合い隠岐島の北西約157km沖合に浮かぶ「竹島」の帰属問題である。 領土的には島根県に帰属するが、周囲の広大な排他的経済水域の漁業権や海底資源の権利は鳥取県にも存在する。
1952年(昭和27年)、大韓民国がいわゆる李承晩ライン宣言といわれる海洋主権宣言をし、竹島を大韓民国側に含めてしまい、更に1978年(昭和53年)以降は、鳥取・島根両県をはじめとする日本海沿岸の漁民にとって重要な漁場である竹島周辺12カイリ内の海域からわが国の漁船を締め出している。
わが国は、竹島問題を平和的に解決するため、粘り強く外交交渉を続けているが、現在も解決するまでには至っていない。
竹島問題で苦労してきた鳥取県民は領土の大切さを身近に感じ、合わせて北方領土問題についても強い関心を持たざるを得ない県民気質なのであった
次回は、釧路の炭鉱
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釧路市と釧路町の主要地域境界線
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日本周遊紀行(67)釧路 「釧路市と釧路町」
釧路の町と市、そして「鳥取」との関係・・?、
国道44号線(根釧国道)は道東の幹線道路であり、さすがに交通量は多い。
既に釧路町に入ったようである・・!、釧路市ではない、れっきとした行政区分上の町制の町である。
大正期に釧路町(現・釧路市)より分離独立し、昨今、国の市町村合併促進奨励にて、両「市」、「町」は再び合併のための協議を進めていたが、どうやらホゴ解散になってしまったようだ。
釧路市と釧路町の因果は・・、
1920年に当時の釧路郡釧路町が北海道区制(明治30年5月に明治政府が定めた北海道における地域区分制度、北海道区制,一級町村制及び二級町村制が公布された)が施行された際に「釧路区」と「釧路村」に分離し、それが現在の「釧路市」と「釧路町」になったという。
北海道では、1899年(明治32年)頃に札幌と函館に区制が施行され、それぞれ札幌区、函館区になった。 その後、小樽区、旭川区、室蘭区、そして1920年には釧路区が誕生している。
区になるためには、人口が集中する市街地の割合が大きいことが条件であり、釧路は当時から人口に比して面積が大きかったために要件を満たさず、逆に人口が少なく面積が広い地域を分離することで市街地域における人口の比率を増し、釧路区の実現を果たそうとした。
旧釧路町(釧路市)としては、釧路川より東の山間部の別保地区だけを分村しようとしたものの住民は、当時は湿原だった雪裡太(せちりぶと)地区も含めることを要求し、旧町側もいろいろと検討した結果、要求どうり2地区を分村したという。
結果、現在の姿は釧路市愛国地区と隣接する釧路町雪裡太地区が市町境界線になっている。 その後両地域とも住宅、商業地域として急速に発展したために、現、釧路町が2万を超える人口を有する町となっている。
釧路市としては、この雪裡太地区を譲り渡したことが、後になって悔やまれる結果となったのである。
釧路史によると、分村は旧釧路町(釧路市)役場と北海道庁との間で非公式に進められた秘策だったため、それが表に出るや地区住民が猛反発して大問題となり道庁が仲裁に入って解決に至ったという曰く因縁があった。
尚、分離された釧路村は、1955年に沿岸部の昆布森村と合併して新・釧路村となり、1980年には町制が施行され、現在の釧路町になっている。
今時、平成の大合併推進で平成15年、釧路地域では六市町村合併協議会が結成され、釧路市、釧路町、阿寒町、鶴居村、白糠町および音別町の広域合併に関する協議を行われ、検討されていたが、旧来の因縁で最初に釧路町が離脱している。
序ながら・・、
釧路市はその後、五市町村による枠組みなどについて調査協議をおこなっていたが、次に鶴居村が合併協議に参加せず単独の道を選択した。 結果、釧路市、阿寒町、白糠町および音別町による釧路地域四市町合併協議会に参加することを決定し協議を重ねていたが、その後更に、当初から合併協議を重ねてきた白糠町(しらぬかちょう)が離脱した。
結局、釧路市は2005年10月、阿寒郡阿寒町、音別町と新設合併することになり、新たに「釧路市」として発足したという。 それでも道内では北見市、足寄郡足寄町に次いで3番目に面積が広い市町村となっている。
もし、当初の枠組みで釧路市・釧路町・白糠町・音別町・阿寒町・鶴居村で、新釧路市として合併が実現していた場合、とてつもない広大な一行政地域となり、その面積は現在、広域度ナンバー1の岐阜県高山市(2180km2)を軽く超え、2960.2km2でダントツ1位になっているはずという。
因みに、これより狭い都府県域は香川・大阪・東京・沖縄・神奈川・佐賀と六つもあるのである。
気がつけば新「釧路市」は我が国では珍しい(初めて・・??)国立公園を二つ抱える町になったのである。 「釧路湿原国立公園」、「阿寒国立公園」、これはトピックスであろう。
さて、釧路の市街地で夕食を摂ろうと場末風のラーメン屋で生ビールにラーメン・ギョーザ定食を摂った。 これが実に美味い、いかにも北海道らしいグルメ感であり、値段も手ごろで大満足であった。
ところで、食事を摂ったこの辺りの地名を「鳥取町」といい鳥取大通り、鳥取ドーム、鳥取中学といった「鳥取」という地名、固有名が軒並み存在しているのに気が付いた。
そうなのである・・、この地域は昔は鳥取村、鳥取町と言った行政区域だったのであり、その鳥取町は1949年10月にが釧路市に編入していたのであった。
鳥取とは勿論、山陰の鳥取、鳥取県のことであった。
江戸末期、幕藩時代の動乱から「明治」が発足し、それに伴って明治2年版籍奉還、同4年に廃藩置県が実施され、武士のほとんどが窮乏の淵に立たされた。
鳥取・池田藩32万石は、特に窮乏がひどく経済的自立は困難であったといわれ、そのため士族授産(明治維新後、士族たちをなんらかの産業につかせようとした政策)として帰農移住・開墾を勧められ、新天地を目指した。 つまり、武士が失業したのであった。
当時の地元新聞は「鳥取県の士族の中には餓死寸前の者が80戸余りもいる」と報道している。
困窮にあえぐ士族に職を与えるため、県や明治政府もいろいろと授産事業を試み、その中で最も大きな期待をかけられたのが北海道移住であった。
1884年(明治17年)6月、鳥取県の士族39戸と平民2戸の家族を乗せた宿弥丸(1,200トン)は、釧路に向けて賀露港(鳥取市)を出帆した。 これが県・勧業課の指導による鳥取県士族の北海道移住の第一陣であった。
明治維新の社会変化によって、士族の生活は大きく変わり、その後、鳥取県士族の北海道移住は1889年(明治22年)までに合計8回続き、442戸が釧路や岩見沢、根室などに移住して行ったという。
移住者は、北方警備や原野の開拓に熱意を燃やしていたが、荒涼とした原野での生活は想像を絶する、言語に絶する幾多の苦難があったことは言を待たない。
しかし、移住者たちは強い団結で悪条件を克服し、釧路地方では鳥取村をつくり、やがて
鳥取町に発展させたという。
鳥取町は1949年(昭和24年)に釧路市に合併されたが、鳥取の名は今も残されており、鳥取県の士族が入植して100年余り経過した今日、釧路市は北海道東部の中心都市にまでなっている。
次いでながら、鳥取県と北洋漁業との関わりについて・・、
北方領土周辺の海域を含むオホーツク海、べ一リング海など北太平洋で行われる漁業を北洋漁業といい、この海域は暖流と寒流が交わっているため漁種も豊富で、世界でも有数の漁獲高を占める豊かな漁場である。
日本海に面する鳥取県は漁業が盛んで、近年、「境港」は全国屈指の水揚量を誇っているのは周知であるが、1972年(昭和47年)頃からは北方領土に近い北海道東海域からオホーツク海海域にも出漁するようになり、鳥取県の漁船にとって貴重な漁場の一つになっていた。
無論、北方領土の周辺は、北方系の魚・サケ、タラやホッケなどのほか、温帯系のアジ、サバ、イワシなども豊富で、鳥取県の漁船も制限水域の近くまで出漁している。
この時、前線基地として友好都市である釧路港が大いに役立った事は言うまでもない。
しかし、御存じソ連が200カイリ漁業水域を設定した1977年(昭和52年)からは、この海域での操業が難しくなり、境港から出漁する漁船は少なくなったという。
ところで、鳥取県民の身近にも北方領土問題と似かよった大変重要な問題がある。
それは、鳥取(島根県)沖合い隠岐島の北西約157km沖合に浮かぶ「竹島」の帰属問題である。 領土的には島根県に帰属するが、周囲の広大な排他的経済水域の漁業権や海底資源の権利は鳥取県にも存在する。
1952年(昭和27年)、大韓民国がいわゆる李承晩ライン宣言といわれる海洋主権宣言をし、竹島を大韓民国側に含めてしまい、更に1978年(昭和53年)以降は、鳥取・島根両県をはじめとする日本海沿岸の漁民にとって重要な漁場である竹島周辺12カイリ内の海域からわが国の漁船を締め出している。
わが国は、竹島問題を平和的に解決するため、粘り強く外交交渉を続けているが、現在も解決するまでには至っていない。
竹島問題で苦労してきた鳥取県民は領土の大切さを身近に感じ、合わせて北方領土問題についても強い関心を持たざるを得ない県民気質なのであった
次回は、釧路の炭鉱
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2010年3月16日火曜日
日本周遊紀行(66)霧多布 「湿原と縄文海進」
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日本周遊紀行(66)霧多布 「湿原と縄文海進」
根室市街から花咲半島を横切る形で「花咲港」へ出る。
根室港(現在の根室地区)と合わせ、日本北東端の要港として重要港湾に指定されている。 港に面した商店は「花咲カニ」の看板が賑やかである。
この地より北海道は南部に面した太平洋岸を巡ることになる。
「昆布盛」、「落石」を過ぎ、全く清閑な道道142を暫くすると「霧多布」の浜中町である。
広大な湿原を右手に見ながら、先ずは岬へ向かうべく新川のT字路を左折する。
霧多布の家並みをぬけて丘陵地へ到ると馬が放牧されたなだらかな草原、彼方に広がる薄青い海、まずは霧多布の東海岸、浜中湾に面した展望台へ到着した。
岬の突端間近に「湯沸岬灯台」が在る。
灯台表のローマ字表記では、touhutumisaki(とうぶつみさき)と書かれてある、「とうふつみさき」という表現も、現地での看板で見かけたが、何故、「湯沸」と言う変わった名称のを当てているか名前の由来は定かでない。
ただ「霧多布」の名前の通り「湯が沸き立つように霧が発生するところ」と、勝手に解釈したのだが・・?。
事実、この辺りの海域は霧の発生する日数は年間100日を超えるという。
霧の発生は春から秋、特に夏場に多く、これは、暖流(黒潮)の影響で温かく湿った南風が、寒流(親潮)によって上空で急激に冷やされることによって凝結し霧となるためらしく、一般に内陸部で朝に発生しやがて消えていく「放射霧」とは異なり、終日消えないのが特徴らしい。
「湯沸灯台」は、北海道で始めて小型・軽量で、霧が多いせいか高光度の灯器が使用されているといい、霧が多い日は霧笛も鳴り響くという。
「霧多布湿原」のド真中を車は走る。 ということは湿原の中に車道をこしらえたことになるが、昔だから許されていたが世界のお墨付きを頂いた今日(こんにち)では想像もつかないことであろう。
湿原の中心を流れる琵琶瀬川を渡ると河口の琵琶瀬漁港のすぐ向いに大きな島が見渡せる、「嶮暮帰島」(けんぼっきしま)というらしい。
1876年(明治9年)に岩手県出身者が移住し、コンブ漁を営んでいたという記録があるが、今は無人島らしい。
その後、動物作家のムツゴロウこと「畑正憲」氏が1971年(昭和46年)から約一年間定住したことにより嶮暮帰島の名は有名となったという。
畑正憲氏は九州・日田市出身で、娘が魚の命を奪って食べることを拒絶するようになったことに衝撃を受け、もっと深く生の自然に触れさせて表面的な生き物好きの虚弱精神を払拭させて育てることを決意し、東京を離れて浜中町の嶮暮帰島に移住したという。
更に対岸の浜中町に移り「ムツゴロウ動物王国」を開園している。
この道道沿いにその看板そして施設が在ったようだが、中標津町にも広大な牧場やログハウスの自宅を有したムツ牧場を開園しているという。
「ムツゴロウ動物王国」は、テレビ番組でも人気番組になったりしたが、ここの動物王国は原則非公開だった。
このため、都会の人々に動物に触れ合ってもらうと2004年、東京都あきる野市の東京サマーラド内の約9万m2の敷地に観光施設としての「東京ムツゴロウ動物王国」を開園している。 事実上「ムツゴロウ動物王国」は東京都に移転したことになるが・・?。
霧多布湿原が程よく見渡せる高台になっているところが「琵琶瀬展望台」である。
昨年、訪れた時は、その名のとおり霧が深く見通しは皆無であったが今般は納得の大展望が得られた。 そこからの眺望は海側も湿原側もなかなかのものであった、特に中央を琵琶瀬川が大きくウねっている姿が良い。
湿原は、この辺りの幌戸湿原、厚岸湖(湿原を含む)と合わせてラムサール条約(水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)の登録指定地である。
タンチョウ等、野鳥の観察にはこの地の中央に在る、「霧多布湿原センター」がよさそうである。
霧多布湿原(きりたっぷしつげん)は北海道の東部、釧路と根室のほぼ中間の太平洋岸にある。南西から北東に延びる海岸線に沿って長さ約9km、奥行き約3kmに広がる。
これから訪れる釧路湿原、あの弾丸道路が延びる道北のサロベツ原野に次いで国内3番目に広い湿原であり、春(6月)から秋(9月)まで、さまざまな花が順番に咲いて湿原を彩るため、花の湿原とも呼ばれている。
今は季節柄、茶褐色の枯草色の草原が果てしなく広がっている。
1993年にラムサール条約にも登録され、湿原の環境保護のため地元の有志を発起人とした”霧多布湿原トラスト”が作られ、湿原を保全し後世に残すよう活動を行っているという。
「トラスト」とは、歴史的建築物の保護を目的として英国において設立されたボランティア団体のことで、正式名称は「歴史的名勝と自然的景勝地のためのナショナル・トラスト」(National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty) といい、一般にはナショナル・トラストと略されている。
「霧多布」はアイヌ語(キイタップ:霧が多い地域・・?)の当て字であるが、実際、霧の多い土地であることは先に記した。
湿原の中心を横断する道(道道808・琵琶瀬茶内線)は湿原保存のため道の下を水が通る構造になっているという。この道はMGロード(Marshy Grassland Road)の愛称が付けられ、歩道が整備され、各所に見晴らし場所や記念碑が設けられている。
湿原の生成については、約6000年前の縄文期に遡るといわれる・・、
季節は世界的に今よりも温暖で、極地の氷床が大量に溶けて海水面が上昇したことが知られている(※「縄文海進」という)。
当時は霧多布湿原も釧路湿原も陸に大きく入り込んだ湾であった。 その後 気候の冷涼化に従って海水面が低下したが、霧多布では海岸部に砂丘があったため内陸側に沼が残り、この沼が水はけの悪い低地となりアシ、スゲ類(ワタスゲ)、ミズゴケなどが繁茂して湿原が形成されていったという。
(※)縄文海進(じょうもんかいしん)とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。
今から2万年近く前の縄文期、地球は厳しい寒さに包まれ南極・北極・高山の上に厚い氷河が凍りつき、海は氷河に水を取られて今より何十mも海面が低くなっていた。 日本はアジア大陸とつながった半島で、ナウマン象やそれを追う人々が行き来していたらしい。
寒さがピークを過ぎ、一転して暖かくなってくると氷河が溶け川を流れて海に注ぎ、海面がしだいに上がり、地殻変動とともに日本は大陸から切り離され「日本列島」となったという。
上がり始めた海面の勢いはそれでは止まらず、例えば関東地方では極寒期には東京湾が陸地になり利根川、荒川、多摩川を合わせた大河が深い谷を刻みながら流れていたが、一転、温暖期で海面が上昇すると東京湾が復活し、さらに谷に沿って現在の栃木県あたりまで海が進入したという。 この現象を「縄文海進」と呼んでいる。
因みに、現在の気温を標準(0度)とし、日本列島に人類が定住するようになった年代で比較すると、一万年前の縄文早期の頃は地球寒冷期で「-5度」、九千年前の鹿児島・上野原遺跡(鹿児島県霧島市上野原にある縄文時代早期の集落遺跡で「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という常識に疑問を呈する遺跡ともなった)の時期で暖流が日本海に入り日本風土形成された頃が「-3度」、六千~七千年前は青森・三内丸山遺跡の時期で暖温帯落葉樹林が列島に拡大し、「縄文海進」のピークを迎える頃は「+2度」、その後は一進一退を繰り返し、二千年前の弥生期で稲作が西から北進する頃は現在に近い気温とされている。
だが、いま起きている地球温暖化は、人為的な要因が大きいと考えられ、温室効果ガスである二酸化炭素の濃度により、現在すでに「過去数十万年間に起きた数値」を大幅に上回っているとも言われる。
次回は、「釧路」
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霧多布岬(湯沸岬)に立つ「湯沸岬灯台」
日本周遊紀行(66)霧多布 「湿原と縄文海進」
根室市街から花咲半島を横切る形で「花咲港」へ出る。
根室港(現在の根室地区)と合わせ、日本北東端の要港として重要港湾に指定されている。 港に面した商店は「花咲カニ」の看板が賑やかである。
この地より北海道は南部に面した太平洋岸を巡ることになる。
「昆布盛」、「落石」を過ぎ、全く清閑な道道142を暫くすると「霧多布」の浜中町である。
広大な湿原を右手に見ながら、先ずは岬へ向かうべく新川のT字路を左折する。
霧多布の家並みをぬけて丘陵地へ到ると馬が放牧されたなだらかな草原、彼方に広がる薄青い海、まずは霧多布の東海岸、浜中湾に面した展望台へ到着した。
岬の突端間近に「湯沸岬灯台」が在る。
灯台表のローマ字表記では、touhutumisaki(とうぶつみさき)と書かれてある、「とうふつみさき」という表現も、現地での看板で見かけたが、何故、「湯沸」と言う変わった名称のを当てているか名前の由来は定かでない。
ただ「霧多布」の名前の通り「湯が沸き立つように霧が発生するところ」と、勝手に解釈したのだが・・?。
事実、この辺りの海域は霧の発生する日数は年間100日を超えるという。
霧の発生は春から秋、特に夏場に多く、これは、暖流(黒潮)の影響で温かく湿った南風が、寒流(親潮)によって上空で急激に冷やされることによって凝結し霧となるためらしく、一般に内陸部で朝に発生しやがて消えていく「放射霧」とは異なり、終日消えないのが特徴らしい。
「湯沸灯台」は、北海道で始めて小型・軽量で、霧が多いせいか高光度の灯器が使用されているといい、霧が多い日は霧笛も鳴り響くという。
「霧多布湿原」のド真中を車は走る。 ということは湿原の中に車道をこしらえたことになるが、昔だから許されていたが世界のお墨付きを頂いた今日(こんにち)では想像もつかないことであろう。
湿原の中心を流れる琵琶瀬川を渡ると河口の琵琶瀬漁港のすぐ向いに大きな島が見渡せる、「嶮暮帰島」(けんぼっきしま)というらしい。
1876年(明治9年)に岩手県出身者が移住し、コンブ漁を営んでいたという記録があるが、今は無人島らしい。
その後、動物作家のムツゴロウこと「畑正憲」氏が1971年(昭和46年)から約一年間定住したことにより嶮暮帰島の名は有名となったという。
畑正憲氏は九州・日田市出身で、娘が魚の命を奪って食べることを拒絶するようになったことに衝撃を受け、もっと深く生の自然に触れさせて表面的な生き物好きの虚弱精神を払拭させて育てることを決意し、東京を離れて浜中町の嶮暮帰島に移住したという。
更に対岸の浜中町に移り「ムツゴロウ動物王国」を開園している。
この道道沿いにその看板そして施設が在ったようだが、中標津町にも広大な牧場やログハウスの自宅を有したムツ牧場を開園しているという。
「ムツゴロウ動物王国」は、テレビ番組でも人気番組になったりしたが、ここの動物王国は原則非公開だった。
このため、都会の人々に動物に触れ合ってもらうと2004年、東京都あきる野市の東京サマーラド内の約9万m2の敷地に観光施設としての「東京ムツゴロウ動物王国」を開園している。 事実上「ムツゴロウ動物王国」は東京都に移転したことになるが・・?。
霧多布湿原が程よく見渡せる高台になっているところが「琵琶瀬展望台」である。
琵琶瀬展望台よりの湿原
昨年、訪れた時は、その名のとおり霧が深く見通しは皆無であったが今般は納得の大展望が得られた。 そこからの眺望は海側も湿原側もなかなかのものであった、特に中央を琵琶瀬川が大きくウねっている姿が良い。
湿原は、この辺りの幌戸湿原、厚岸湖(湿原を含む)と合わせてラムサール条約(水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)の登録指定地である。
タンチョウ等、野鳥の観察にはこの地の中央に在る、「霧多布湿原センター」がよさそうである。
霧多布湿原(きりたっぷしつげん)は北海道の東部、釧路と根室のほぼ中間の太平洋岸にある。南西から北東に延びる海岸線に沿って長さ約9km、奥行き約3kmに広がる。
これから訪れる釧路湿原、あの弾丸道路が延びる道北のサロベツ原野に次いで国内3番目に広い湿原であり、春(6月)から秋(9月)まで、さまざまな花が順番に咲いて湿原を彩るため、花の湿原とも呼ばれている。
今は季節柄、茶褐色の枯草色の草原が果てしなく広がっている。
1993年にラムサール条約にも登録され、湿原の環境保護のため地元の有志を発起人とした”霧多布湿原トラスト”が作られ、湿原を保全し後世に残すよう活動を行っているという。
「トラスト」とは、歴史的建築物の保護を目的として英国において設立されたボランティア団体のことで、正式名称は「歴史的名勝と自然的景勝地のためのナショナル・トラスト」(National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty) といい、一般にはナショナル・トラストと略されている。
「霧多布」はアイヌ語(キイタップ:霧が多い地域・・?)の当て字であるが、実際、霧の多い土地であることは先に記した。
湿原の中心を横断する道(道道808・琵琶瀬茶内線)は湿原保存のため道の下を水が通る構造になっているという。この道はMGロード(Marshy Grassland Road)の愛称が付けられ、歩道が整備され、各所に見晴らし場所や記念碑が設けられている。
湿原の生成については、約6000年前の縄文期に遡るといわれる・・、
季節は世界的に今よりも温暖で、極地の氷床が大量に溶けて海水面が上昇したことが知られている(※「縄文海進」という)。
当時は霧多布湿原も釧路湿原も陸に大きく入り込んだ湾であった。 その後 気候の冷涼化に従って海水面が低下したが、霧多布では海岸部に砂丘があったため内陸側に沼が残り、この沼が水はけの悪い低地となりアシ、スゲ類(ワタスゲ)、ミズゴケなどが繁茂して湿原が形成されていったという。
(※)縄文海進(じょうもんかいしん)とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである。
今から2万年近く前の縄文期、地球は厳しい寒さに包まれ南極・北極・高山の上に厚い氷河が凍りつき、海は氷河に水を取られて今より何十mも海面が低くなっていた。 日本はアジア大陸とつながった半島で、ナウマン象やそれを追う人々が行き来していたらしい。
寒さがピークを過ぎ、一転して暖かくなってくると氷河が溶け川を流れて海に注ぎ、海面がしだいに上がり、地殻変動とともに日本は大陸から切り離され「日本列島」となったという。
上がり始めた海面の勢いはそれでは止まらず、例えば関東地方では極寒期には東京湾が陸地になり利根川、荒川、多摩川を合わせた大河が深い谷を刻みながら流れていたが、一転、温暖期で海面が上昇すると東京湾が復活し、さらに谷に沿って現在の栃木県あたりまで海が進入したという。 この現象を「縄文海進」と呼んでいる。
因みに、現在の気温を標準(0度)とし、日本列島に人類が定住するようになった年代で比較すると、一万年前の縄文早期の頃は地球寒冷期で「-5度」、九千年前の鹿児島・上野原遺跡(鹿児島県霧島市上野原にある縄文時代早期の集落遺跡で「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という常識に疑問を呈する遺跡ともなった)の時期で暖流が日本海に入り日本風土形成された頃が「-3度」、六千~七千年前は青森・三内丸山遺跡の時期で暖温帯落葉樹林が列島に拡大し、「縄文海進」のピークを迎える頃は「+2度」、その後は一進一退を繰り返し、二千年前の弥生期で稲作が西から北進する頃は現在に近い気温とされている。
だが、いま起きている地球温暖化は、人為的な要因が大きいと考えられ、温室効果ガスである二酸化炭素の濃度により、現在すでに「過去数十万年間に起きた数値」を大幅に上回っているとも言われる。
次回は、「釧路」
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日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」
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日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」
アイヌの反乱・・、
納沙布からの帰路は同じく道道35(根室半島線)の半島北側 (根室湾側)を戻る。
南側(太平洋側)が集落や港が多く点在して人々の生活が華やいでいるのに対して、こちらは路傍から覗う限り、温根元の小集落を過ぎてからは町並みはあまり見受けられない。 ただし、現在ではである・・??。
根室半島北部、ノッカマップの「北方原生花園」
海岸は海食断崖が続いているようで、そして内陸は波打つ丘陵の原野が広がり中でも「北方原生花園」は広大で見事である・・!!。
今は静寂の世界だが花の時期は多色多彩の賑わいを見せるであろう。 実は、別名この半島のことを花咲半島や花咲地区と称しているのは、この原生花園が由来なのかもしれない。
そして、一時代以前はこの根室北部地区には人的痕跡が多くあったという。
温根元の先に「トーサムポロ」という湖沼があり、これは当地の地名でも有るが、この地にオホーツク文化後期(3世紀から13世紀まで、オホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化)の頃の竪穴住居遺跡が多く発見されているところだという。
一般に海に近く、大きな湖沼や河川が存在する地域には自然環境や食域環境が整い、人が住みやすい状態になっている。 従ってこのような地形に人が住んだ痕跡や遺跡が存在する傾向はある。
例えば先刻訪れたオホーツク海域のサロマ湖や常呂町、網走周辺の地域に代表的な遺跡が存在している。 トーサムポロ沼付近にはトーサムポロ遺跡や温根元遺跡などが立地しているのは不思議ではない。
続いて「ノッカマップ」という地域に来た。
トーサムポロといいノッカマップといい異国の名称みたいであるが、これが蝦夷・北海道なのである。 ノッカマップというのはアイヌ語地名で「岬の上にある所」という意味らしく、現に、ノッカマップ岬という地が存在している。
ここも克っては多くの歴史の舞台であったといい、そして、この地は「根室発祥の地」だともいわれる。
「クナシリ・メシナの戦い」
「ノッカマップ」は嘗てはオホーツク界隈、北方地域の通商の中心地で、幕藩時代には大きな集落があり松前藩の役人が運上所(幕末、輸出入貨物の監督や関税の徴収などの事務に従った開港場の役所、今日の税関に当る)を設けていたという。 また、ノッカマップは民間の日露交渉等の発祥の地でもあるという。
そしてこの時期、蝦夷地最大と言われるアイヌ人の争乱があり、この罪でアイヌの民37人がノッカマップの地で処刑されたという出来事もあったらしい。
処刑方法はこれまた残虐で、斬首された上、胴体は埋められ、首は藩へ持っていくために塩漬されたという。
アイヌ人はこの血塗られた地を忌み嫌い、運上所と共に集落を今現在の「根室」に移したとされている。
現在のノッカマップは、こんな歴史は無かったかのようにひっそりとしている。
1912(大正元年)年5月、納沙布岬に近い「ごようまい」(珸瑤瑁と書くが難解である。根室市珸瑤瑁地区)という浜で、 砂に埋まっている石柱が発見された。 掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていたという。
現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられているが、この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、(文化九年は西暦の1812年)裏面には「寛政元年五月、この地において非常に悪いアイヌが集まり、突然に侍や漁民を殺した。 殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にもある。ここに供養し石を建てる」、と現代語に訳すと以上のような事が書かれてあったという。
これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということになり、果たして事実は真実の歴史はどうであったのか・・?。
江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれていたが、蝦夷地は松前藩の植民地のように支配されていた。
当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができない。 そのため松前は蝦夷地の交易による利益で藩が成立していた。
当時の交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは魚(サケ、ニシン、ホッケ、タラ)・鳥獣の獲物や毛皮、ワシの尾羽(矢の羽に使う)などであった。
最初は、松前藩の重臣や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになり、その商人の代表的人物は飛騨国・増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)という人物であった 。
飛騨屋は松前藩に多額の金を貸していたが、藩はこの借金を返す代わりに根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたという。
しかし、根室や国後(クナシリ)地方には強力なアイヌの勢力があって、当初、飛騨屋の交易は順調には進まなかったらしく、次第に松前藩をたてに強引な取引を始めるようになった。
1789年(寛政元)5月、和人たちによって厳しい生活を強いられ、飛騨屋の商取引の横暴さに不満と怒りを持ったクナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽をはじめ飛騨屋の現地支配人などを次々に殺害した。
さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた 飛騨屋の交易船を襲い、標津付近のアイヌも加わり海岸沿いにいた支配人、番人らを次々殺害し、メナシ地方(標津・羅臼付近)では49人を殺したとする。
結局クナシリ・メナシ地方合わせたアイヌが蜂起し71人の和人を殺したという。 このあたりにいた和人で生き残 ったものは数人いたが、殆ど全てが殺されたという。
この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧部隊260人をノッカマップに派遣し、取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力、脅迫、性的暴力、だまし、ツグナイ要求)の実態が明らかになった。
これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせ、またアイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で自分たちが冬に食べ る食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものも出る状態であったという。
アイヌたちは次第 に「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らは「アイヌは和人に根絶やしにされるかもしれない(皆殺し)」という噂や脅しも加わって、遂に蜂起に到ったのであった。
この蜂起の事実が松前城下に伝わり、藩はすぐに鎮圧部隊が組織され近代兵器を準備して、根室のノッカマップに向けて出発し、たちまちアイヌの反乱兵を鎮圧した。
この蜂起は、組織だった蜂起というよりは一揆のようなもので、松前の正規軍とは一戦も交えないうちに、長老たちの説得で戦いを止めたともいう。
その後、蜂起に関係したアイヌ人たちをノッカマップに集めさせ、やがてメナシとクナシリ合わせて300の人のアイヌがノッカマップに到着し取り調べが始まった。そして、その日の内に37人に対して重罪であるという理由で死罪が決定した。
この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されたが松前藩からは何の咎めもなく、結局、幕府は特にこの戦いに後新しい政策を打ち出すこともなく、この蝦夷地の出来事を黙認したのであった。
しかし、その後、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対して、再度強い関心を示すようになり、幕府の目が次第に北に向くきっかけにもなった。
この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、更に本州から持ち込まれる生活物資無しには生活できなくなった。 アイヌ自身による独自の政治力、経済力が育つ可能性も非常に少なくなり、弱体化の道を辿ることになる。
アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力はつみ取られ、和人とは従属関係の支配下で働かされるということが日常的になっていった。
北海道の名付け親でもある松浦武四郎によると、アイヌへの支配は苛烈で、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに使わされ、そこで漁師達の性奴隷になったといい。 また、人妻は会所で番人達の妾にされたともされる。 男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうで、その結果、寛政年間には2000余であったアイヌ人口が、数十年後の幕末には半減していたという。
このことはアイヌ人、アイヌ文化が衰亡してゆく過程の歴史の一コマでもあった。
この「戦い」は北海道にとっても日本に とっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても大変重要な出来事であり、そして根室市にとっても忘れてはならない悲惨な歴史の一コマであったとする。
近年、毎年秋になると当地・ノッカマップでアイヌの人たちが中心になって、「クナシリ・メナシの戦い」の犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )となった人々のの慰霊祭が行われていると言う。(アイヌ語で「イチャルパ」という意味)
因みに江戸期以降、和人の蝦夷地への渡来が増えるにつれてアイヌの人たちの生活が圧迫され、交易上の摩擦なども重なって各地で両者の間に争いが起きている。
その内のアイヌと和人の三大戦いが「コシャマインの戦い」(15世紀中頃に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。 松前藩が出来るきっかけになったといわれる)、「シャクシャインの戦い」(1669年に日高・静内のチャシを拠点に、松前藩の不公正な貿易などに対して起きたアイヌ民族最大の蜂起である)、それに「クナシリ・メシナの戦い」と言われる。
次回、霧多布湿原
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《スキー履歴》
「スキー履歴」
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日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」
アイヌの反乱・・、
納沙布からの帰路は同じく道道35(根室半島線)の半島北側 (根室湾側)を戻る。
南側(太平洋側)が集落や港が多く点在して人々の生活が華やいでいるのに対して、こちらは路傍から覗う限り、温根元の小集落を過ぎてからは町並みはあまり見受けられない。 ただし、現在ではである・・??。
根室半島北部、ノッカマップの「北方原生花園」
海岸は海食断崖が続いているようで、そして内陸は波打つ丘陵の原野が広がり中でも「北方原生花園」は広大で見事である・・!!。
今は静寂の世界だが花の時期は多色多彩の賑わいを見せるであろう。 実は、別名この半島のことを花咲半島や花咲地区と称しているのは、この原生花園が由来なのかもしれない。
そして、一時代以前はこの根室北部地区には人的痕跡が多くあったという。
温根元の先に「トーサムポロ」という湖沼があり、これは当地の地名でも有るが、この地にオホーツク文化後期(3世紀から13世紀まで、オホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化)の頃の竪穴住居遺跡が多く発見されているところだという。
一般に海に近く、大きな湖沼や河川が存在する地域には自然環境や食域環境が整い、人が住みやすい状態になっている。 従ってこのような地形に人が住んだ痕跡や遺跡が存在する傾向はある。
例えば先刻訪れたオホーツク海域のサロマ湖や常呂町、網走周辺の地域に代表的な遺跡が存在している。 トーサムポロ沼付近にはトーサムポロ遺跡や温根元遺跡などが立地しているのは不思議ではない。
続いて「ノッカマップ」という地域に来た。
トーサムポロといいノッカマップといい異国の名称みたいであるが、これが蝦夷・北海道なのである。 ノッカマップというのはアイヌ語地名で「岬の上にある所」という意味らしく、現に、ノッカマップ岬という地が存在している。
ここも克っては多くの歴史の舞台であったといい、そして、この地は「根室発祥の地」だともいわれる。
「クナシリ・メシナの戦い」
「ノッカマップ」は嘗てはオホーツク界隈、北方地域の通商の中心地で、幕藩時代には大きな集落があり松前藩の役人が運上所(幕末、輸出入貨物の監督や関税の徴収などの事務に従った開港場の役所、今日の税関に当る)を設けていたという。 また、ノッカマップは民間の日露交渉等の発祥の地でもあるという。
そしてこの時期、蝦夷地最大と言われるアイヌ人の争乱があり、この罪でアイヌの民37人がノッカマップの地で処刑されたという出来事もあったらしい。
処刑方法はこれまた残虐で、斬首された上、胴体は埋められ、首は藩へ持っていくために塩漬されたという。
アイヌ人はこの血塗られた地を忌み嫌い、運上所と共に集落を今現在の「根室」に移したとされている。
現在のノッカマップは、こんな歴史は無かったかのようにひっそりとしている。
1912(大正元年)年5月、納沙布岬に近い「ごようまい」(珸瑤瑁と書くが難解である。根室市珸瑤瑁地区)という浜で、 砂に埋まっている石柱が発見された。 掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていたという。
現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられているが、この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、(文化九年は西暦の1812年)裏面には「寛政元年五月、この地において非常に悪いアイヌが集まり、突然に侍や漁民を殺した。 殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にもある。ここに供養し石を建てる」、と現代語に訳すと以上のような事が書かれてあったという。
これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということになり、果たして事実は真実の歴史はどうであったのか・・?。
江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれていたが、蝦夷地は松前藩の植民地のように支配されていた。
当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができない。 そのため松前は蝦夷地の交易による利益で藩が成立していた。
当時の交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは魚(サケ、ニシン、ホッケ、タラ)・鳥獣の獲物や毛皮、ワシの尾羽(矢の羽に使う)などであった。
最初は、松前藩の重臣や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになり、その商人の代表的人物は飛騨国・増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)という人物であった 。
飛騨屋は松前藩に多額の金を貸していたが、藩はこの借金を返す代わりに根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたという。
しかし、根室や国後(クナシリ)地方には強力なアイヌの勢力があって、当初、飛騨屋の交易は順調には進まなかったらしく、次第に松前藩をたてに強引な取引を始めるようになった。
1789年(寛政元)5月、和人たちによって厳しい生活を強いられ、飛騨屋の商取引の横暴さに不満と怒りを持ったクナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽をはじめ飛騨屋の現地支配人などを次々に殺害した。
さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた 飛騨屋の交易船を襲い、標津付近のアイヌも加わり海岸沿いにいた支配人、番人らを次々殺害し、メナシ地方(標津・羅臼付近)では49人を殺したとする。
結局クナシリ・メナシ地方合わせたアイヌが蜂起し71人の和人を殺したという。 このあたりにいた和人で生き残 ったものは数人いたが、殆ど全てが殺されたという。
この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧部隊260人をノッカマップに派遣し、取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力、脅迫、性的暴力、だまし、ツグナイ要求)の実態が明らかになった。
これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせ、またアイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で自分たちが冬に食べ る食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものも出る状態であったという。
アイヌたちは次第 に「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らは「アイヌは和人に根絶やしにされるかもしれない(皆殺し)」という噂や脅しも加わって、遂に蜂起に到ったのであった。
この蜂起の事実が松前城下に伝わり、藩はすぐに鎮圧部隊が組織され近代兵器を準備して、根室のノッカマップに向けて出発し、たちまちアイヌの反乱兵を鎮圧した。
この蜂起は、組織だった蜂起というよりは一揆のようなもので、松前の正規軍とは一戦も交えないうちに、長老たちの説得で戦いを止めたともいう。
その後、蜂起に関係したアイヌ人たちをノッカマップに集めさせ、やがてメナシとクナシリ合わせて300の人のアイヌがノッカマップに到着し取り調べが始まった。そして、その日の内に37人に対して重罪であるという理由で死罪が決定した。
この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されたが松前藩からは何の咎めもなく、結局、幕府は特にこの戦いに後新しい政策を打ち出すこともなく、この蝦夷地の出来事を黙認したのであった。
しかし、その後、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対して、再度強い関心を示すようになり、幕府の目が次第に北に向くきっかけにもなった。
この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、更に本州から持ち込まれる生活物資無しには生活できなくなった。 アイヌ自身による独自の政治力、経済力が育つ可能性も非常に少なくなり、弱体化の道を辿ることになる。
アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力はつみ取られ、和人とは従属関係の支配下で働かされるということが日常的になっていった。
北海道の名付け親でもある松浦武四郎によると、アイヌへの支配は苛烈で、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに使わされ、そこで漁師達の性奴隷になったといい。 また、人妻は会所で番人達の妾にされたともされる。 男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうで、その結果、寛政年間には2000余であったアイヌ人口が、数十年後の幕末には半減していたという。
このことはアイヌ人、アイヌ文化が衰亡してゆく過程の歴史の一コマでもあった。
この「戦い」は北海道にとっても日本に とっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても大変重要な出来事であり、そして根室市にとっても忘れてはならない悲惨な歴史の一コマであったとする。
近年、毎年秋になると当地・ノッカマップでアイヌの人たちが中心になって、「クナシリ・メナシの戦い」の犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )となった人々のの慰霊祭が行われていると言う。(アイヌ語で「イチャルパ」という意味)
因みに江戸期以降、和人の蝦夷地への渡来が増えるにつれてアイヌの人たちの生活が圧迫され、交易上の摩擦なども重なって各地で両者の間に争いが起きている。
その内のアイヌと和人の三大戦いが「コシャマインの戦い」(15世紀中頃に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。 松前藩が出来るきっかけになったといわれる)、「シャクシャインの戦い」(1669年に日高・静内のチャシを拠点に、松前藩の不公正な貿易などに対して起きたアイヌ民族最大の蜂起である)、それに「クナシリ・メシナの戦い」と言われる。
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2010年3月15日月曜日
日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」
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アイヌの反乱・・、
納沙布からの帰路は同じく道道35(根室半島線)の半島北側 (根室湾側)を戻る。
南側(太平洋側)が集落や港が多く点在して人々の生活が華やいでいるのに対して、こちらは路傍から覗う限り、温根元の小集落を過ぎてからは町並みはあまり見受けられない。 ただし、現在ではである・・??。
海岸は海食断崖が続いているようで、そして内陸は波打つ丘陵の原野が広がり中でも「北方原生花園」は広大で見事である・・!!。
今は静寂の世界だが花の時期は多色多彩の賑わいを見せるであろう。 実は、別名この半島のことを花咲半島や花咲地区と称しているのは、この原生花園が由来なのかもしれない。
そして、一時代以前はこの根室北部地区には人的痕跡が多くあったという。
温根元の先に「トーサムポロ」という沼があり、これは当地の地名でも有るが、この地にオホーツク文化後期(3世紀から13世紀まで、オホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化)の頃の竪穴住居遺跡が多く発見されているところだという。
一般に海に近く、大きな湖沼や河川が存在する地域には自然環境や食域環境が整い、人が住みやすい状態になっている。 従ってこのような地形に人が住んだ痕跡や遺跡が存在する傾向はある。
例えば先刻訪れたオホーツク海域のサロマ湖や常呂町、網走周辺の地域に代表的な遺跡が存在している。 トーサムポロ沼付近にはトーサムポロ遺跡や温根元遺跡などが立地しているのは不思議ではない。
続いて「ノッカマップ」という地域に来た。
トーサムポロといいノッカマップといい異国の名称みたいであるが、これが蝦夷・北海道なのである。 ノッカマップというのはアイヌ語地名で「岬の上にある所」という意味らしく、ここも克っては多くの歴史の舞台であったという。
そして、この地は「根室発祥の地」だともいわれる。
「クナシリ・メシナの戦い」
「ノッカマップ」は嘗てはオホーツク界隈、北方地域の通商の中心地で、幕藩時代には大きな集落があり松前藩の役人が運上所(幕末、輸出入貨物の監督や関税の徴収などの事務に従った開港場の役所、今日の税関に当る)を設けていたという。 また、ノッカマップは民間の日露交渉等の発祥の地でもあるという。
そしてこの時期、蝦夷地最大と言われるアイヌ人の争乱があり、この罪でアイヌの民37人がノッカマップの地で処刑されたという出来事もあったらしい。
処刑方法はこれまた残虐で、斬首された上、胴体は埋められ、首は藩へ持っていくために塩漬されたという。
アイヌ人はこの血塗られた地を忌み嫌い、運上所と共に集落を今現在の「根室」に移したとされている。
現在のノッカマップは、こんな歴史は無かったかのようにひっそりとしている。
1912(大正元年)年5月、納沙布岬に近い「ごようま」(珸瑤瑁と書くが難解である)という浜で、 砂に埋まっている石柱が発見された。 掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていたという。
現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられているが、この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、(文化九年は西暦の1812年)裏面には「寛政元年五月、この地において非常に悪いアイヌが集まり、突然に侍や漁民を殺した。 殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にもある。ここに供養し石を建てる」、と現代語に訳すと以上のような事が書かれてあったという。
これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということになり、果たして事実は真実の歴史はどうであったのか・・?。
江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれていたが、蝦夷地は松前藩の植民地のように支配されていた。
当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができない。 そのため松前は蝦夷地の交易による利益で藩が成立していた。
当時の交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは魚(サケ、ニシン、ホッケ、タラ)・鳥獣の獲物や毛皮、ワシの尾羽(矢の羽に使う)などであった。
最初は、松前藩の重臣や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになり、その商人の代表的人物は飛騨国・増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)という人物であった 。
飛騨屋は松前藩に多額の金を貸していたが、藩はこの借金を返す代わりに根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたという。
しかし、根室や国後(クナシリ)地方には強力なアイヌの勢力があって、当初、飛騨屋の交易は順調には進まなかったらしく、次第に松前藩をたてに強引な取引を始めるようになった。
1789年(寛政元)5月、和人たちによって厳しい生活を強いられ、飛騨屋の商取引の横暴さに不満と怒りを持ったクナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽をはじめ飛騨屋の現地支配人などを次々に殺害した。
さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた 飛騨屋の交易船を襲い、標津付近のアイヌも加わり海岸沿いにいた支配人、番人らを次々殺害し、メナシ地方(標津・羅臼付近)では49人を殺したとする。
結局クナシリ・メナシ地方合わせたアイヌが蜂起し71人の和人を殺したという。 このあたりにいた和人で生き残 ったものは数人いたが、殆ど全てが殺されたという。
この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧部隊260人をノッカマップに派遣し、取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力、脅迫、性的暴力、だまし、ツグナイ要求)の実態が明らかになった。
これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせ、またアイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で自分たちが冬に食べ る食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものも出る状態であったという。
アイヌたちは次第 に「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らは「アイヌは和人に根絶やしにされるかもしれない(皆殺し)」という噂や脅しも加わって、遂に蜂起に到ったのであった。
この蜂起の事実が松前城下に伝わり、藩はすぐに鎮圧部隊が組織され近代兵器を準備して、根室のノッカマップに向けて出発し、たちまちアイヌの反乱兵を鎮圧した。
この蜂起は、組織だった蜂起というよりは一揆のようなもので、松前の正規軍とは一戦も交えないうちに、長老たちの説得で戦いを止めたともいう。
その後、蜂起に関係したアイヌ人たちをノッカマップに集めさせ、やがてメナシとクナシリ合わせて300の人のアイヌがノッカマップに到着し取り調べが始まった。そして、その日の内に37人に対して重罪であるという理由で死罪が決定した。
この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されたが松前藩からは何の咎めもなく、結局、幕府は特にこの戦いに後新しい政策を打ち出すこともなく、この蝦夷地の出来事を黙認したのであった。
しかし、その後、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対して、再度強い関心を示すようになり、幕府の目が次第に北に向くきっかけにもなった。
この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、更に本州から持ち込まれる生活物資無しには生活できなくなった。 アイヌ自身による独自の政治力、経済力が育つ可能性も非常に少なくなり、弱体化の道を辿ることになる。
アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力はつみ取られ、和人とは従属関係の支配下で働かされるということが日常的になっていった。
北海道の名付け親でもある松浦武四郎によると、アイヌへの支配は苛烈で、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに使わされ、そこで漁師達の性奴隷になったといい。 また、人妻は会所で番人達の妾にされたともされる。 男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうで、その結果、寛政年間には2000余であったアイヌ人口が、数十年後の幕末には半減していたという。
このことはアイヌ人、アイヌ文化が衰亡してゆく過程の歴史の一コマでもあった。
この「戦い」は北海道にとっても日本に とっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても大変重要な出来事であり、そして根室市にとっても忘れてはならない悲惨な歴史の一コマであったとする。
近年、毎年秋になると当地・ノッカマップでアイヌの人たちが中心になって、「クナシリ・メナシの戦い」の犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )となった人々のの慰霊祭が行われていると言う。(アイヌ語で「イチャルパ」という意味)
因みに江戸期以降、和人の蝦夷地への渡来が増えるにつれてアイヌの人たちの生活が圧迫され、交易上の摩擦なども重なって各地で両者の間に争いが起きている。
その内のアイヌと和人の三大戦いが「コシャマインの戦い」(15世紀中頃に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。 松前藩が出来るきっかけになったといわれる)、「シャクシャインの戦い」(1669年に日高・静内のチャシを拠点に、松前藩の不公正な貿易などに対して起きたアイヌ民族最大の蜂起である)、それに「クナシリ・メシナの戦い」と言われる。
次回、霧多布湿原
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日本周遊紀行(65)根室 「アイヌと根室」
アイヌの反乱・・、
納沙布からの帰路は同じく道道35(根室半島線)の半島北側 (根室湾側)を戻る。
南側(太平洋側)が集落や港が多く点在して人々の生活が華やいでいるのに対して、こちらは路傍から覗う限り、温根元の小集落を過ぎてからは町並みはあまり見受けられない。 ただし、現在ではである・・??。
海岸は海食断崖が続いているようで、そして内陸は波打つ丘陵の原野が広がり中でも「北方原生花園」は広大で見事である・・!!。
今は静寂の世界だが花の時期は多色多彩の賑わいを見せるであろう。 実は、別名この半島のことを花咲半島や花咲地区と称しているのは、この原生花園が由来なのかもしれない。
そして、一時代以前はこの根室北部地区には人的痕跡が多くあったという。
温根元の先に「トーサムポロ」という沼があり、これは当地の地名でも有るが、この地にオホーツク文化後期(3世紀から13世紀まで、オホーツク海沿岸を中心とする北海道北半、樺太、南千島の沿海部に栄えた古代文化)の頃の竪穴住居遺跡が多く発見されているところだという。
一般に海に近く、大きな湖沼や河川が存在する地域には自然環境や食域環境が整い、人が住みやすい状態になっている。 従ってこのような地形に人が住んだ痕跡や遺跡が存在する傾向はある。
例えば先刻訪れたオホーツク海域のサロマ湖や常呂町、網走周辺の地域に代表的な遺跡が存在している。 トーサムポロ沼付近にはトーサムポロ遺跡や温根元遺跡などが立地しているのは不思議ではない。
続いて「ノッカマップ」という地域に来た。
トーサムポロといいノッカマップといい異国の名称みたいであるが、これが蝦夷・北海道なのである。 ノッカマップというのはアイヌ語地名で「岬の上にある所」という意味らしく、ここも克っては多くの歴史の舞台であったという。
そして、この地は「根室発祥の地」だともいわれる。
「クナシリ・メシナの戦い」
「ノッカマップ」は嘗てはオホーツク界隈、北方地域の通商の中心地で、幕藩時代には大きな集落があり松前藩の役人が運上所(幕末、輸出入貨物の監督や関税の徴収などの事務に従った開港場の役所、今日の税関に当る)を設けていたという。 また、ノッカマップは民間の日露交渉等の発祥の地でもあるという。
そしてこの時期、蝦夷地最大と言われるアイヌ人の争乱があり、この罪でアイヌの民37人がノッカマップの地で処刑されたという出来事もあったらしい。
処刑方法はこれまた残虐で、斬首された上、胴体は埋められ、首は藩へ持っていくために塩漬されたという。
アイヌ人はこの血塗られた地を忌み嫌い、運上所と共に集落を今現在の「根室」に移したとされている。
現在のノッカマップは、こんな歴史は無かったかのようにひっそりとしている。
1912(大正元年)年5月、納沙布岬に近い「ごようま」(珸瑤瑁と書くが難解である)という浜で、 砂に埋まっている石柱が発見された。 掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていたという。
現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられているが、この碑の横面には「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、(文化九年は西暦の1812年)裏面には「寛政元年五月、この地において非常に悪いアイヌが集まり、突然に侍や漁民を殺した。 殺された人数は合計71人で、その名前を書いた記録は役所にもある。ここに供養し石を建てる」、と現代語に訳すと以上のような事が書かれてあったという。
これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということになり、果たして事実は真実の歴史はどうであったのか・・?。
江戸時代の北海道は蝦夷地と呼ばれていたが、蝦夷地は松前藩の植民地のように支配されていた。
当時の蝦夷地は米が獲れなく、本州のように年貢をとることができない。 そのため松前は蝦夷地の交易による利益で藩が成立していた。
当時の交易品には、和人側からは米・酒・鉄製品などの食糧や生活物資が、アイヌ側からは魚(サケ、ニシン、ホッケ、タラ)・鳥獣の獲物や毛皮、ワシの尾羽(矢の羽に使う)などであった。
最初は、松前藩の重臣や家臣が直接蝦夷地でアイヌの人々と交易していたが、しだいに商人にまかせるようになり、その商人の代表的人物は飛騨国・増田郡湯之島村(岐阜県下呂町)の飛騨屋久兵衛(武川久兵衛)という人物であった 。
飛騨屋は松前藩に多額の金を貸していたが、藩はこの借金を返す代わりに根室などの交易の権利を飛騨屋に与えたという。
しかし、根室や国後(クナシリ)地方には強力なアイヌの勢力があって、当初、飛騨屋の交易は順調には進まなかったらしく、次第に松前藩をたてに強引な取引を始めるようになった。
1789年(寛政元)5月、和人たちによって厳しい生活を強いられ、飛騨屋の商取引の横暴さに不満と怒りを持ったクナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽をはじめ飛騨屋の現地支配人などを次々に殺害した。
さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた 飛騨屋の交易船を襲い、標津付近のアイヌも加わり海岸沿いにいた支配人、番人らを次々殺害し、メナシ地方(標津・羅臼付近)では49人を殺したとする。
結局クナシリ・メナシ地方合わせたアイヌが蜂起し71人の和人を殺したという。 このあたりにいた和人で生き残 ったものは数人いたが、殆ど全てが殺されたという。
この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧部隊260人をノッカマップに派遣し、取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力、脅迫、性的暴力、だまし、ツグナイ要求)の実態が明らかになった。
これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせ、またアイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で自分たちが冬に食べ る食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものも出る状態であったという。
アイヌたちは次第 に「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らは「アイヌは和人に根絶やしにされるかもしれない(皆殺し)」という噂や脅しも加わって、遂に蜂起に到ったのであった。
この蜂起の事実が松前城下に伝わり、藩はすぐに鎮圧部隊が組織され近代兵器を準備して、根室のノッカマップに向けて出発し、たちまちアイヌの反乱兵を鎮圧した。
この蜂起は、組織だった蜂起というよりは一揆のようなもので、松前の正規軍とは一戦も交えないうちに、長老たちの説得で戦いを止めたともいう。
その後、蜂起に関係したアイヌ人たちをノッカマップに集めさせ、やがてメナシとクナシリ合わせて300の人のアイヌがノッカマップに到着し取り調べが始まった。そして、その日の内に37人に対して重罪であるという理由で死罪が決定した。
この戦いの後、飛騨屋は交易の権利を没収されたが松前藩からは何の咎めもなく、結局、幕府は特にこの戦いに後新しい政策を打ち出すこともなく、この蝦夷地の出来事を黙認したのであった。
しかし、その後、蝦夷地の経済的な価値やロシアの南下に対して、再度強い関心を示すようになり、幕府の目が次第に北に向くきっかけにもなった。
この戦いに敗北したアイヌ社会は松前藩との力の差を知ることになり、更に本州から持ち込まれる生活物資無しには生活できなくなった。 アイヌ自身による独自の政治力、経済力が育つ可能性も非常に少なくなり、弱体化の道を辿ることになる。
アイヌにとっては、蜂起前のように武力で立ち上がる力はつみ取られ、和人とは従属関係の支配下で働かされるということが日常的になっていった。
北海道の名付け親でもある松浦武四郎によると、アイヌへの支配は苛烈で、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに使わされ、そこで漁師達の性奴隷になったといい。 また、人妻は会所で番人達の妾にされたともされる。 男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったそうで、その結果、寛政年間には2000余であったアイヌ人口が、数十年後の幕末には半減していたという。
このことはアイヌ人、アイヌ文化が衰亡してゆく過程の歴史の一コマでもあった。
この「戦い」は北海道にとっても日本に とっても、そしてアイヌ民族の歴史にとっても大変重要な出来事であり、そして根室市にとっても忘れてはならない悲惨な歴史の一コマであったとする。
近年、毎年秋になると当地・ノッカマップでアイヌの人たちが中心になって、「クナシリ・メナシの戦い」の犠牲者(アイヌ37人、和人71人 )となった人々のの慰霊祭が行われていると言う。(アイヌ語で「イチャルパ」という意味)
因みに江戸期以降、和人の蝦夷地への渡来が増えるにつれてアイヌの人たちの生活が圧迫され、交易上の摩擦なども重なって各地で両者の間に争いが起きている。
その内のアイヌと和人の三大戦いが「コシャマインの戦い」(15世紀中頃に起きた和人に対するアイヌの武装蜂起である。 松前藩が出来るきっかけになったといわれる)、「シャクシャインの戦い」(1669年に日高・静内のチャシを拠点に、松前藩の不公正な貿易などに対して起きたアイヌ民族最大の蜂起である)、それに「クナシリ・メシナの戦い」と言われる。
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日本周遊紀行(64)根室 「納沙布岬・北方領土」
【北海道・太平洋道】 根室⇒⇒⇒⇒函館
日本の本土最東端・「納沙布岬」(諸島を除く)
日本周遊紀行(64)根室 「納沙布岬・北方領土」
歯舞の集落を抜けると、周囲の景色はただっ広い草原の海岸に変わる。
そして間もなく「納沙布岬」へ着いた。
先般、カミさんと訪れた時は風雨が激しく、車から一歩も出れない状態で早々に退散し、ホゾを咬む(臍を噬カむ:悔いること。後悔しても及ばないこと)想いであった。 たが、本日は薄曇りのマズマズの天候に恵まれていたのは幸いであり、北方の島もボンヤリながら見通せる事が出来た。
納沙布岬は北緯43度22分、東経145度49分に位置する「本土最東端の地」で、日本で一番早い日の出が見ることができるため、(実際は緯度が高いため日本一早いわけではない。 千葉銚子の犬吠埼である)正月元日の早朝はお目当ての人々で相当な混雑が有るとか。
岬の先端には道内最古の灯台が立ち、周辺は北方領土への思いを込めて造られた看板や石碑等が多く目につく。
また、岬の手前には「望郷の岬公園」というのが在って、「望郷の家・北方館」などの施設のほかモニュメントなどもある。
前の稚内の項でも記したが、「ノシャップ」というのはアイヌの意味で「岬が顎(あご)のように突き出したところ」という意味らしい。 地図を見ると、下顎に根室半島(納沙布)、上顎に知床半島で根室海峡が大きく口を開き、千島・北方諸島を今にも噛み付き、飲み込もうとしているようである。
「北方領土は俺のもんだ・・!!」 と言いた気(げ)である。
北方領土の事は先にも記したが、海のすぐ向こうには現在ロシア連邦の実効支配が続いている「歯舞諸島」が望まれる。 歯舞諸島、貝殻島まではわずか3.7kmしか離れておらず、ロシアの巡視艇が海上に頻繁に姿を現すという。
またこの辺りの海域は、日本海域とロシア海域が共に200海里(※)を取る事が出来ない海域の為、岬から歯舞諸島との間に日・露中間線(事実上の国境線)としてのブイがあるらしい。しかし、日本の漁船は生活のためしばしばこの境界を偶然または故意に越えてしまい、無許可で操業する結果となっていて、ロシア側に拿捕される事件が度々起こっているのも事実である。
(※)200海里とは、排他的経済水域(EEZ, exclusive economic zone)のことで、国連海洋法条約に基づいて設定される経済的な主権がおよぶ水域のことを指す。沿岸国は国連海洋法条約に基づいた国内法を制定することで自国の沿岸から200海里(約370km、1海里=1852m)の範囲内の水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利を得られる代わり、資源の管理や海洋汚染防止の義務を負うことになる。
「北方領土」の返還を祈念するために作られた高さ13m、底辺の長さ35mのシンボル像がある。 その像の下には「祈りの火」と呼ばれる点火灯台があるという。
沖縄県波照間島(八重山諸島にある日本最南端の有人島、人口は600人弱)から採火したもので、全国の青年団によるキャラバン隊の手により運ばれたものという。
1972年5月に、沖縄がアメリカ占領下から日本復帰へとげた。
日本の最南端に位置する島の波照間で、返還運動が全国に広がる象徴的意味合いを込め、又、その願いをこめて採火したものという。
その時のカンテラが種火とともに北方館に展示されている。
当初は、「全国民の北方領土返還に寄せる固い決意を返還実現の日まで燃やし続けよう」という事で24時間点灯されていたが、現在は燃料(ガス)経費の節約のため、北方館の開館時間(9:00~17:00)のみ火が灯されているという。
終戦直後、旧ソ連が不法に占拠した北方領土は、60年以上過ぎた今も日本に返還されていない。
日露間の交渉は今現在暗礁に乗り上げていて、この先いっこうに光がさしてこないのが現状である。
稚内の項でも記したが、ソ連軍は昭和20年9月5日頃までに北方領土を占領した。 無論、終戦宣言の以降のことである。
同年8月15日時点(終戦日)での北方領土の日本人島民は3120世帯、17300人を数え、7割以上が昭和元年以前から島に住むに人々であったという。
39校あった国民学校(小学校)などへ子供が通い、千島列島の北端の島には水産会社の社員2500人がいた。
ソ連軍が四島に侵攻した時、住んでいた一部の島民は着のみ着のまま北海道へ脱出したが、島に残った他の人々はシベリヤや樺太に抑留され強制労働をさせられた。
其の後、一部は昭和24年頃までに日本へ強制退去させられたという。
北方領土は我が国固有の領土であるが、現在はロシアの不法占拠の下にあるため現状は判らない部分もあるが、北方四島の規模、大きさは択捉島は3,139平方キロで鳥取県とほぼ同じ、国後島は1,500平方キロで沖縄本島とほぼ同じ、 色丹島は255平方キロで隠岐の島本島とほぼ同じ、 歯舞群島、つまり水晶島、秋勇留島、勇留島、志発島、多楽島、貝殻島等で構成されていて総面積は101.平方キロと小笠原諸島とほぼ同じである。
北方四島の総面積5000平方キロで福岡県より広く、沖縄県の2倍以上あるという。
地理的には、平均気温は8月で16度と涼しく北岸はオホーツク海、南岸の太平洋は千島海流(親潮)と黒潮の交流店で世界の三大漁場の一つともいわれ、サケ、マス、タラ、カニの宝庫ともいう。
【追記】
2006年8月16日、水晶島付近の海域で操業中の、根室市花咲港所属のカニかご漁船がロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する事件が発生した。 日本政府はロシア当局に対し、北方領土は日本固有の領土であるとの前提に立って「日本領海内で起こった銃撃・拿捕事件であり、到底容認できない」と抗議した。 しかし、この海域はロシア側の実効支配海域であるため、ロシア側にとっては国境侵犯密漁事件としており、日本側の「この海域は日本領海」とする抗議とは根本的な点で相容れないために今回の問題をさらに複雑にしている。 紛争自体は致し方ないとして、ロシア側に少なくと「未必の故意」(みひつのこい:実害の発生を積極的に希望ないしは意図するものではないが、自分の行為により結果として実害が発生してもかまわないという行為者の心理状態)としての殺意はあったと考えられ、重大事件にしては日本政府の反応がいかにも鈍い。
因みに、アメリカの漁船が同じようにロシアに拿捕、銃撃され殺されていたらどうなっているか。 アメリカ政府の対応は日本政府とはまったく違っていただろう。 その相手との力関係が如実に現れるのが外交力、国力であり、戦力という背景なのかも知れない。
いずれにしても、アメリカに日本の国自体を守ってもらおうという受身の意識が、独立国としての自立心、自尊心を弱め、アメリカの傘を借りなければ力のある外国に対抗できないという状況になっている。
今後の日本政府のロシアに対する迅速かつ的確な対応を期待したいのと同時に、周辺の怪しげな国々を見聞きするにつけ「日本人、日本国はどうあるべきか・・!」を真剣に考え、再構築しなければならない時期が到来しているようにも思われてならないのである。
次回は、根室のアイヌ民族
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そして間もなく「納沙布岬」へ着いた。
先般、カミさんと訪れた時は風雨が激しく、車から一歩も出れない状態で早々に退散し、ホゾを咬む(臍を噬カむ:悔いること。後悔しても及ばないこと)想いであった。 たが、本日は薄曇りのマズマズの天候に恵まれていたのは幸いであり、北方の島もボンヤリながら見通せる事が出来た。
納沙布岬は北緯43度22分、東経145度49分に位置する「本土最東端の地」で、日本で一番早い日の出が見ることができるため、(実際は緯度が高いため日本一早いわけではない。 千葉銚子の犬吠埼である)正月元日の早朝はお目当ての人々で相当な混雑が有るとか。
岬の先端には道内最古の灯台が立ち、周辺は北方領土への思いを込めて造られた看板や石碑等が多く目につく。
また、岬の手前には「望郷の岬公園」というのが在って、「望郷の家・北方館」などの施設のほかモニュメントなどもある。
前の稚内の項でも記したが、「ノシャップ」というのはアイヌの意味で「岬が顎(あご)のように突き出したところ」という意味らしい。 地図を見ると、下顎に根室半島(納沙布)、上顎に知床半島で根室海峡が大きく口を開き、千島・北方諸島を今にも噛み付き、飲み込もうとしているようである。
「北方領土は俺のもんだ・・!!」 と言いた気(げ)である。
北方領土の事は先にも記したが、海のすぐ向こうには現在ロシア連邦の実効支配が続いている「歯舞諸島」が望まれる。 歯舞諸島、貝殻島まではわずか3.7kmしか離れておらず、ロシアの巡視艇が海上に頻繁に姿を現すという。
またこの辺りの海域は、日本海域とロシア海域が共に200海里(※)を取る事が出来ない海域の為、岬から歯舞諸島との間に日・露中間線(事実上の国境線)としてのブイがあるらしい。しかし、日本の漁船は生活のためしばしばこの境界を偶然または故意に越えてしまい、無許可で操業する結果となっていて、ロシア側に拿捕される事件が度々起こっているのも事実である。
(※)200海里とは、排他的経済水域(EEZ, exclusive economic zone)のことで、国連海洋法条約に基づいて設定される経済的な主権がおよぶ水域のことを指す。沿岸国は国連海洋法条約に基づいた国内法を制定することで自国の沿岸から200海里(約370km、1海里=1852m)の範囲内の水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利を得られる代わり、資源の管理や海洋汚染防止の義務を負うことになる。
「北方領土」の返還を祈念するために作られた高さ13m、底辺の長さ35mのシンボル像がある。 その像の下には「祈りの火」と呼ばれる点火灯台があるという。
沖縄県波照間島(八重山諸島にある日本最南端の有人島、人口は600人弱)から採火したもので、全国の青年団によるキャラバン隊の手により運ばれたものという。
1972年5月に、沖縄がアメリカ占領下から日本復帰へとげた。
日本の最南端に位置する島の波照間で、返還運動が全国に広がる象徴的意味合いを込め、又、その願いをこめて採火したものという。
その時のカンテラが種火とともに北方館に展示されている。
当初は、「全国民の北方領土返還に寄せる固い決意を返還実現の日まで燃やし続けよう」という事で24時間点灯されていたが、現在は燃料(ガス)経費の節約のため、北方館の開館時間(9:00~17:00)のみ火が灯されているという。
終戦直後、旧ソ連が不法に占拠した北方領土は、60年以上過ぎた今も日本に返還されていない。
日露間の交渉は今現在暗礁に乗り上げていて、この先いっこうに光がさしてこないのが現状である。
稚内の項でも記したが、ソ連軍は昭和20年9月5日頃までに北方領土を占領した。 無論、終戦宣言の以降のことである。
同年8月15日時点(終戦日)での北方領土の日本人島民は3120世帯、17300人を数え、7割以上が昭和元年以前から島に住むに人々であったという。
39校あった国民学校(小学校)などへ子供が通い、千島列島の北端の島には水産会社の社員2500人がいた。
ソ連軍が四島に侵攻した時、住んでいた一部の島民は着のみ着のまま北海道へ脱出したが、島に残った他の人々はシベリヤや樺太に抑留され強制労働をさせられた。
其の後、一部は昭和24年頃までに日本へ強制退去させられたという。
北方領土は我が国固有の領土であるが、現在はロシアの不法占拠の下にあるため現状は判らない部分もあるが、北方四島の規模、大きさは択捉島は3,139平方キロで鳥取県とほぼ同じ、国後島は1,500平方キロで沖縄本島とほぼ同じ、 色丹島は255平方キロで隠岐の島本島とほぼ同じ、 歯舞群島、つまり水晶島、秋勇留島、勇留島、志発島、多楽島、貝殻島等で構成されていて総面積は101.平方キロと小笠原諸島とほぼ同じである。
北方四島の総面積5000平方キロで福岡県より広く、沖縄県の2倍以上あるという。
地理的には、平均気温は8月で16度と涼しく北岸はオホーツク海、南岸の太平洋は千島海流(親潮)と黒潮の交流店で世界の三大漁場の一つともいわれ、サケ、マス、タラ、カニの宝庫ともいう。
【追記】
2006年8月16日、水晶島付近の海域で操業中の、根室市花咲港所属のカニかご漁船がロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する事件が発生した。 日本政府はロシア当局に対し、北方領土は日本固有の領土であるとの前提に立って「日本領海内で起こった銃撃・拿捕事件であり、到底容認できない」と抗議した。 しかし、この海域はロシア側の実効支配海域であるため、ロシア側にとっては国境侵犯密漁事件としており、日本側の「この海域は日本領海」とする抗議とは根本的な点で相容れないために今回の問題をさらに複雑にしている。 紛争自体は致し方ないとして、ロシア側に少なくと「未必の故意」(みひつのこい:実害の発生を積極的に希望ないしは意図するものではないが、自分の行為により結果として実害が発生してもかまわないという行為者の心理状態)としての殺意はあったと考えられ、重大事件にしては日本政府の反応がいかにも鈍い。
因みに、アメリカの漁船が同じようにロシアに拿捕、銃撃され殺されていたらどうなっているか。 アメリカ政府の対応は日本政府とはまったく違っていただろう。 その相手との力関係が如実に現れるのが外交力、国力であり、戦力という背景なのかも知れない。
いずれにしても、アメリカに日本の国自体を守ってもらおうという受身の意識が、独立国としての自立心、自尊心を弱め、アメリカの傘を借りなければ力のある外国に対抗できないという状況になっている。
今後の日本政府のロシアに対する迅速かつ的確な対応を期待したいのと同時に、周辺の怪しげな国々を見聞きするにつけ「日本人、日本国はどうあるべきか・・!」を真剣に考え、再構築しなければならない時期が到来しているようにも思われてならないのである。
次回は、根室のアイヌ民族
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2010年3月14日日曜日
日本周遊紀行(63)根室 「珍客と歯舞」
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日本周遊紀行(63)根室 「珍客と歯舞」
根室に「歯舞」・・?、
根室市街に入った。
言わずと知れた根室は「北方領土」の街である。
先にも記したが北方領土とは、北方四島のことで択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼまいしょとう)のことである。
地理上では半島先端の納沙布岬から歯舞諸島の一島「貝殻島」まで僅か4kmたらず、「水晶島」まで10km少々でいずれも指呼の間である。
根室市役所の部署に対策協議会や対策本部が置かれ、返還運動の様々な活動を行っていることは周知であるが、根室を訪れ、北方領土を視察する役人、政府要人、担当大臣等のお歴々を接待し、案内し、時には公演や懇談をしてもらうらしい。
昨今発足した省庁の内、その環境省の中に「北方担当」というセクションが有り環境大臣が兼ねているようだが、北方領土返還問題が環境省の一部というのは些か解せなくもない、北方領土を環境保護の対象の島にでもしようというのか・・?、
本来取り扱うべき省庁は外務省ではないのか・・??。(尚、最近、中央省庁再編に伴う内閣府設置法の施行により「特命担当大臣」というのが法制化され、職位化されて国務大臣をもって充てられている。北方領土関係では「沖縄及び北方対策担当」いう名称になっている。)
現職の小泉総理は9月(平成16年)に巡視船にて北方領土海域を視察している、歴代総理で海上視察は初めてだとか。 しかし、一向に進展していないのである、中央政府としては、もっと強く捉えるべきと思うのだが。
産経新聞の「正論」欄(平成16年秋-伊藤憲一氏)によると、「政府は歴史を踏まえた対露大戦略を・・、」と題して、『日本の千島と樺太の一部放棄を定めたサンフランシスコ平和条約第二条C項は、ソ連(旧ソ連・現ロシア)の署名拒否によって死文化しており、日露間において択捉、国後、色丹、歯舞だけでなく千島、南樺太についても、領土問題は解決していない。 日本はこの立場を盾にロシアに国境線の画定を迫るべきだ・・、』と、述べている。
大賛成である!!、 強行で来るものは、強圧で跳ね返すべし、これが外交の基本ではないか。
突飛な私事ながら・・、
北方領土返還と悪の枢軸といわれる北朝鮮の大量誘拐事件(金体制下での拉致事件=金正日政権崩壊)の解決と、どちらが先に解決するか、尚且つ小生の寿命(現66歳)と合わせて三者何れが速いかを見守っている次第である。
昭和初期の近年、根室にチョットした素敵な出来事が有った。
昭和6年8月、快晴の朝の根室港にリンドバーグ夫妻の乗った飛行機・シリウス号が着水したという。リンドバーグ(アメリカ人)は1926(昭和元年)年、ニューヨークとパリ間の大西洋横断無着陸飛行を33時間29分かかって成功したことで世界的に有名になった人物である。 このときの様子は「翼よあれがパリの灯だ」という映画にもななった。
1931年航空路調査のため、新婚間もないアン夫人と日本を訪れる際、千島を飛んでまず根室へきたのである。 リンドバーグ夫妻が泊まったのは二美喜旅館ということで、外国夫妻を人目見ようと押しかけた人々は当時の絵葉書にもなったという。 根室へは、落石無線局(根室の南側の港)と交信しながら到着したといい、リンドバーグ夫妻の大歓迎式は花咲小学校を会場にして盛大に行われたという。その後、落石無線局をも訪問している。
二美喜旅館に泊ったアン夫人は、根室の朝の様子を次のように記しているのが面白い・・。『旅館で印象的だったのは、朝、多くの人の行き交う下駄の音で目がさめたことでした。 小石を敷きつめた道を、みんな木の下駄をカラカラ引きずって行きます。それは手をたたくような、なんともいえない音楽的な音がするのです、』
その2日後、リンドバーグ夫妻は茨城県の霞ケ浦をめざして飛び立ち、そして東京、大阪、福岡をへて中国へ出向いている。
後年、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The Spirit of St. Louis」(スピリット・セントルイス)を出版し、これにより1954年のピュリッツァー賞を受し、晩年は、妻アンと共にハワイのマウイ島に住んだという。
リンドバーグはこの時以降、自然環境(環境保護、保全)に力を注ぐようになり、多額の資金を寄付しながらマウイ島にて死去している、享年72であったとか。
国道44から道道35(根室半島線)を経て納沙布岬へ向かう。
はじめ北側から行こうと思ったが勘違いで南周りになってしまったようで、こちら側は太平洋岸である。
こちらの沿岸には幾つかの漁港が点在する。
落石、花咲、友知、歯舞漁港等、御存知「花咲カニ」はこの港の名を付けたものらしい。
「花咲ガニ」は北海道の東部にだけ生息する珍しい蟹で、現在は根室でしか水揚げされることのない貴重な蟹である。 しかも年々、入荷量が少なくなっていると。
花咲ガニの特徴は、ゴツゴツした外観とは異なり、身は柔らかく、独特の甘さを多く含んだ濃厚な風味で、カニ仲間ではNo1と言わしめている・・?、また、出汁が多く甲羅はダシをとって雑炊などにする。
花咲港はまた海上保安庁の基地になっていて、北方領土の視察はこの港より発っしている。 ロシア船が入港する港でもある。
根室市域であるこちらの沿岸に歯舞地区がある。
因みに、北方領土に歯舞諸島があるが、島の名称で「歯舞島」というのは無い。
歯舞諸島はここの歯舞村の一部地域であり、村の地名から付けられた「名」だという。
歯舞と名前の付いた看板の前で写真を撮って、首都圏の人に「北方四島の歯舞諸島へ行って来た」と写真を見せ、戯れ事を言ったら面白かろうな、などと思ったが。
歯舞海域は、わが国有数の昆布の産地どという。
大洋の恵みが肉厚の昆布を育み、身にぎっしりと詰まった味わいは数ある昆布のなかでも特に上質品とされているとか。 「昆布」といってもその種類は様々で、利尻や日高など特定の地方で採取されるものも有名であるが、歯舞で水揚げされる昆布は主に、「なが昆布」、「あつば昆布」、「猫足昆布」などと呼ばれるもので、豊潤な太平洋と厳寒な風土、さらに独自の潮流の影響から発育が非常によく、ビタミン・ミネラル・ヨードをたっぷり含んだ奥深い味わいが特徴となっているという。
蛇足ながら、この辺りの昆布は旨味成分である「マンニット」(表面に付着する白い粉)と言われる成分が豊富で、干し上がった製品を一目見ただけでその質の高さが判るという。
厚岸から根室半島に至るまで太平洋の「うねり」が大きく、そのうねりも歯舞漁港付近から納沙布岬にかけて比較的小さくなると言われる。
海草が密集しているのはこのあたりが理由らしい。
次回は、 根室「納沙布岬」(尚、「風連湖、春国岱」については後の「観光・温泉」の項で述べます)
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根室に「歯舞」・・?、
根室市街に入った。
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先にも記したが北方領土とは、北方四島のことで択捉島(えとろふとう)、国後島(くなしりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞諸島(はぼまいしょとう)のことである。
地理上では半島先端の納沙布岬から歯舞諸島の一島「貝殻島」まで僅か4kmたらず、「水晶島」まで10km少々でいずれも指呼の間である。
根室市役所の部署に対策協議会や対策本部が置かれ、返還運動の様々な活動を行っていることは周知であるが、根室を訪れ、北方領土を視察する役人、政府要人、担当大臣等のお歴々を接待し、案内し、時には公演や懇談をしてもらうらしい。
昨今発足した省庁の内、その環境省の中に「北方担当」というセクションが有り環境大臣が兼ねているようだが、北方領土返還問題が環境省の一部というのは些か解せなくもない、北方領土を環境保護の対象の島にでもしようというのか・・?、
本来取り扱うべき省庁は外務省ではないのか・・??。(尚、最近、中央省庁再編に伴う内閣府設置法の施行により「特命担当大臣」というのが法制化され、職位化されて国務大臣をもって充てられている。北方領土関係では「沖縄及び北方対策担当」いう名称になっている。)
現職の小泉総理は9月(平成16年)に巡視船にて北方領土海域を視察している、歴代総理で海上視察は初めてだとか。 しかし、一向に進展していないのである、中央政府としては、もっと強く捉えるべきと思うのだが。
産経新聞の「正論」欄(平成16年秋-伊藤憲一氏)によると、「政府は歴史を踏まえた対露大戦略を・・、」と題して、『日本の千島と樺太の一部放棄を定めたサンフランシスコ平和条約第二条C項は、ソ連(旧ソ連・現ロシア)の署名拒否によって死文化しており、日露間において択捉、国後、色丹、歯舞だけでなく千島、南樺太についても、領土問題は解決していない。 日本はこの立場を盾にロシアに国境線の画定を迫るべきだ・・、』と、述べている。
大賛成である!!、 強行で来るものは、強圧で跳ね返すべし、これが外交の基本ではないか。
突飛な私事ながら・・、
北方領土返還と悪の枢軸といわれる北朝鮮の大量誘拐事件(金体制下での拉致事件=金正日政権崩壊)の解決と、どちらが先に解決するか、尚且つ小生の寿命(現66歳)と合わせて三者何れが速いかを見守っている次第である。
昭和初期の近年、根室にチョットした素敵な出来事が有った。
昭和6年8月、快晴の朝の根室港にリンドバーグ夫妻の乗った飛行機・シリウス号が着水したという。リンドバーグ(アメリカ人)は1926(昭和元年)年、ニューヨークとパリ間の大西洋横断無着陸飛行を33時間29分かかって成功したことで世界的に有名になった人物である。 このときの様子は「翼よあれがパリの灯だ」という映画にもななった。
1931年航空路調査のため、新婚間もないアン夫人と日本を訪れる際、千島を飛んでまず根室へきたのである。 リンドバーグ夫妻が泊まったのは二美喜旅館ということで、外国夫妻を人目見ようと押しかけた人々は当時の絵葉書にもなったという。 根室へは、落石無線局(根室の南側の港)と交信しながら到着したといい、リンドバーグ夫妻の大歓迎式は花咲小学校を会場にして盛大に行われたという。その後、落石無線局をも訪問している。
二美喜旅館に泊ったアン夫人は、根室の朝の様子を次のように記しているのが面白い・・。『旅館で印象的だったのは、朝、多くの人の行き交う下駄の音で目がさめたことでした。 小石を敷きつめた道を、みんな木の下駄をカラカラ引きずって行きます。それは手をたたくような、なんともいえない音楽的な音がするのです、』
その2日後、リンドバーグ夫妻は茨城県の霞ケ浦をめざして飛び立ち、そして東京、大阪、福岡をへて中国へ出向いている。
後年、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The Spirit of St. Louis」(スピリット・セントルイス)を出版し、これにより1954年のピュリッツァー賞を受し、晩年は、妻アンと共にハワイのマウイ島に住んだという。
リンドバーグはこの時以降、自然環境(環境保護、保全)に力を注ぐようになり、多額の資金を寄付しながらマウイ島にて死去している、享年72であったとか。
国道44から道道35(根室半島線)を経て納沙布岬へ向かう。
はじめ北側から行こうと思ったが勘違いで南周りになってしまったようで、こちら側は太平洋岸である。
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「花咲ガニ」は北海道の東部にだけ生息する珍しい蟹で、現在は根室でしか水揚げされることのない貴重な蟹である。 しかも年々、入荷量が少なくなっていると。
花咲ガニの特徴は、ゴツゴツした外観とは異なり、身は柔らかく、独特の甘さを多く含んだ濃厚な風味で、カニ仲間ではNo1と言わしめている・・?、また、出汁が多く甲羅はダシをとって雑炊などにする。
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蛇足ながら、この辺りの昆布は旨味成分である「マンニット」(表面に付着する白い粉)と言われる成分が豊富で、干し上がった製品を一目見ただけでその質の高さが判るという。
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