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日本周遊紀行(4)湯河原 「温泉と土肥氏」
城願寺:土肥実平御手植えとされる樹齢800年の「ビャクシン」、左の建物は「7騎堂」
「真鶴・岩」・・、
いわゆる西湘バイパスから小田原の石橋を抜けると、間もなく「真鶴」である。
半島の手前に「岩」という小さな海岸が在る。
夏になると孫達を連れて、海水浴をしに海辺の民宿に数回泊まりに来た事があった。
波の小さな入り江の砂浜と端には適当な岩場があって磯遊びも出来る。
正面には真鶴道路の岩大橋が高方に架かる。
この「岩」にも中世に歴史の一コマが有った。
平治の乱で敗れた源頼朝が伊豆へ流されて20数年、北条氏の庇護のもと娘・政子を妻に娶って更に強固な姻戚関係を結んでいる。
一方中央・都では奢れる平氏を打つべく、後白河天皇の皇子「以仁王」が諸国の源氏に令旨(皇太子、親王等の命令を伝える文書・勅書に次ぐ物)を出し、伊豆の頼朝にもその親書が届けられる。
頼朝は、これを期に北条時政や土地の豪族を頼って、伊豆に威を張る平兼隆を討つ、そして正規に平家打倒の旗を挙げる。
しかし次の「石橋山の戦い」では三百騎を率いる頼朝を討つべく集まった平家に仕える地族ら三千余騎との戦いに敗れ去る。
その際、土肥実平の案内で土肥の山中に逃げ込み、平家方の追っ手から逃れる。
土肥実平は土肥郷に勢力をもつ武士であり、その土肥郷とは現在の伊豆の土肥ではなく湯河原町,真鶴町,小田原市の一部であったとされる。
追ってを逃れた頼朝は更に真鶴から海路安房の国への逃走を成功させる、逃亡する際に船出した港がこの「岩」海岸と伝えられている。
湯河原について・・、
真鶴半島の付け根、山中のJR真鶴駅前を過ぎて海岸に出ると、そこには湯河原の広大な海岸線が眩いくらいに光っている。
こちら湯河原そして熱海は伊豆半島の首根っこ、付根の部分に位置する。
伊豆半島は伊豆箱根富士国立公園と合い間って、富士火山脈の中枢に当たる。
ある機関によると、伊豆半島は富士火山脈の上にあり地質上地殻変動のために割れ目が多く、また火山活動が活発で、周囲を海に囲まれ、降水量は年間3,500mm内外で、年平均気温は16℃内外と高温多湿で、植物の生息に好適な気象条件を備えているという。
それ故、植物の育成が良好で、森林区域は半島面積の74%に達し、したがって地下水の保水量が多く、温泉湧き出しには好条件であるという。
静岡県は温泉湧出量が全国で有数の温泉県になっていて、源泉数は大分、鹿児島に次いで三番目であり、その殆どが伊豆半島に占められている。
失礼・・、「湯河原」は神奈川県でしたが、県境の川を隔てて静岡県熱海市泉地区にも温泉宿があり、伊豆湯河原温泉と称している。
温泉場の中央、千歳川と富士木川が合流するところに万葉公園がある。
これは万葉集にあやかって名付けたもので、湯河原温泉は万葉集にも詠われている程の古湯で、それが為か往時は文人の湯とも言われた。
湯河原の地域以外に「万葉の湯」という名称の湯館があるが、湯河原の温泉湯を持ち込んでその名を付している。
湯河原駅から千歳川の谷を遡るように温泉街が続いている。
隣の熱海には巨大温泉ホテルが林立しているが、こちら湯河原は日本形旅館が主体で、古くからある「温泉街」の風情が残っている。
湯河原吉浜海岸は長大な砂浜が広がっていて、遠浅なのでサーファーやファミリーにも最適な海水浴場になっている。
土肥の庄・・、
湯河原は歴史の舞台でも著名なところである。
平安期の頃は「土肥の庄」と呼ばれていた。 その土肥の統領・「土肥実平」は頼朝の熱い信頼ある御家人だった。
頼朝の源氏旗揚げの時は、平氏の嫡流の身でありながら、土肥の郷主・土肥二郎実平は源頼朝に付き、奮闘貢献し平氏滅亡に寄与している。
湯河原駅北側に城願寺という立派な寺院がある。
後年、実平は土肥郷内に寺院を創建し、其の後土肥氏の総菩提寺となっている。
一時、土肥一族は鎌倉で滅亡したと言われたが、実平の子孫は着実に有ったという。
孫は安芸国(広島県)に移り「小早川」を名乗り、後に毛利家の筆頭家老となる小早川家の祖となっている。
また四代目は越中・富山郷(富山県)に移り、土肥称を名乗り、戦国期、江戸期を生き抜いて実平から800年以上、土肥氏は今も其の地で繁栄を続けているという。
富山周辺地域は今も土肥称が多いという。
土肥郷の城願寺には越中の土肥氏の多くも葬られているという。
土肥家は、あの毛利家の支柱・小早川家の祖でもある・・、
因みに、相模国土肥郷(神奈川県湯河原町土肥)を本拠地とした頼朝の第一の忠臣・土肥実平の嫡男・遠平は、小田原の早川に領地を与えられ地域にちなんで「小早川」を名乗った。
後に、源頼朝が全国に守護・地頭職を置いた時に、遠平は旧平家氏領の安芸国沼田庄(広島県三原市周辺)の地頭職に任じられる。
小早川家は、戦国時代に入ると中国を支配した大内家傘下の国人領主となるが、その後、大内氏が毛利に亡ぼされると、1544年に毛利元就の三男・隆景が小早川家の養子に迎えられ、小早川隆景は、兄の吉川元春とともに毛利家を支える「両川」と呼ばれる筆頭家老になる。(毛利両川体制、所謂、毛利・「三本の矢」:本家、吉川、小早川家の三強体制のこと)
本能寺の変後、羽柴秀吉が織田信長の後継者としての地位を確立すると、毛利家は豊臣政権下では五大老にまでなり、隆景には子供がいなかったため家督は豊臣秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が養子として継ぎ、小早川本家は毛利一門と併せて、豊臣一門にもなった。
ご存知、小早川秀秋は関ヶ原の戦い(秀吉の正妻・北の政所の影響で西軍から東軍に寝返ったとされる)での功績により、備前51万石に加増移封されたが、嗣子なくして病没し、小早川家は名実ともに断絶したというのが定説である。
ただし、近年の2007年10月、秀秋には側室の子・土肥秀行がおり、足守木下家に仕えて存続したとする家伝が、隆景像とともに子孫である足守藩士(備中岡山)の家から発見された。
この家系が他の秀秋の兄弟による跡目の継承によって復活したものでない秀秋の血統であるとすると、豊臣姓・小早川(土肥)氏は現在も存続していることになるともいう。
湯河原・城願寺には、土地の豪族「土肥実平・遠平」父子の像が立ち、本堂左方に土肥氏一族の墓所、66基の墓石がある。
墓石は重層塔、宝筺印塔、五輪塔などの各種の墓型が揃っていて、このように一墓所に各種の墓型がそろっているのは、関東地方ではめずらしく貴重なものだそうだ。
一角に七騎堂なる御堂がある。
頼朝が石橋山に陣を布き、手勢300騎で平家方の大庭景親軍3000騎と対戦したが、多勢に少勢、勿ち敗走して土肥の山中の洞窟に身を隠し、真鶴海岸から房州に落ち延びた。
この時、同船して落延びたのが頼朝以下主従七騎であったので、世にこれを頼朝七騎落と呼んでいる。
七騎堂にはこれら七士の霊を弔っているという。
又、境内には迫力の樹木がある。土肥実平が寺院創建時に、自ら植えと伝えられる「ビャクシン」の大樹で、幹のねじれが著しく、小枝もよく茂った古木である。
樹齢約800年(推定)といわれ、国の天然記念物に指定されている。
因みに、このビャクシンという樹は長寿で、樹齢約1500年に達するものもあると言われている。
次は「熱海温泉」
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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2010年9月17日金曜日
2010年9月16日木曜日
日本周遊紀行(3)葉山 「湘南地方」
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日本周遊紀行(3)葉山 「湘南地方」
『瀟湘湖南』(しょうしょうこなん)・・、
三浦半島最南端;城ヶ島に架かる「城ヶ島大橋」
三浦半島最南端、城ヶ島や油壺は通年人々で賑わう観光地であ
三崎漁港は我が国有数の漁業基地、特にマグロの水揚げは焼津に次いで2番目をキープしている。
城ヶ島大橋を渡ると、北原白秋の詩でも知られる城ヶ島である。
その西端の入り組んだ入り江である長津呂湾は、岩場に囲まれた天然のプールになっていて、我も時折・・?夏になると孫共と一緒にはしゃいだもんでであった。
詩歌人の北原白秋は27歳、東京を引き払って家族とともに三浦三崎に新居を構える。
三崎は白秋の新生の地となって白秋文学のうえでも、新しい境地がひらかれるきっかけとなった。
白秋は三崎を訪れた数多い詩人の誰よりも三崎を愛し、なつかしんだ人でもあったという、三崎時代のも多くの作品がのこされている。
『城ヶ島の雨』 詩:北原白秋 曲:梁田貞
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
「利休鼠の 雨がふる」
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟
因みに、「利休鼠の雨」とは・・、
茶道の「千利休」、即ちお茶、抹茶の色、利休鼠は抹茶の色と鼠色を合わせた色のことのようである。
利休鼠は江戸時代後期から明治時代にかけて利休茶とともに流行した染色の色名で、鼠のような灰色のこと。 利休という字が付く染色名は利休鼠、利休茶、利休白茶、利休色、濃利休、薄利休、錆利休、藍利休などの8色があるといわれる。
戦国期、利休は秀吉の勘気に触れ天承19(1591)年2月28日京都・葭(かや)町の自邸で切腹を命じられている。
2月28日は旧暦で現在の太陽暦になおすと4月9日前後で、その日は霰をまじえた大雨が降るなど異常な天気であったという。
このことから利休鼠の雨の語源があるという説がある。 元より、利休は華美を嫌い鼠色を好んだといわれ、利休鼠の色は暗い灰色で英語のストームグレーのような色を指しているとといわれる。
R134は三浦半島を北上する、内陸部から海岸に出る。葉山、逗子の海は既にウィンドウサーフィンやボードセーリングを楽しむ若者達で賑わっている。
葉山は明治期から保養地として注目されていた、皇室関係者や貴族の別荘も多く、明治26年、明治天皇の御用邸が竣工され、今の御用邸に継続されている。
平成年号の前の「昭和」の年号はこの葉山から発せられたという。
大正天皇は病気療養のため葉山御用邸付属邸に行幸されていた、 しかし、国民の平癒祈願も空しく崩御された。
お見舞いのため滞在中の皇太子・同妃両殿下(昭和天皇・皇后)は、直ちに「践祚(せんそ)の儀」を行われ、付属邸において天皇の位を受け継ぎ、「昭和」と改元されたという。
葉山御用邸を挟むかたちで、長者ヶ崎、一色海岸、森戸海岸、逗子海岸と海のレジャー基地が並ぶ。小生も若かりし頃、葉山の一色海岸に会社の保養所があったので、海水浴等で青春を謳歌したものであった。
「湘南」について・・、
普通に湘南(しょうなん)といえば、神奈川県の相模湾沿いの地方のことを言い、厳密な定義はないようだ。
概ね大磯~葉山のあたりを指すが、それとは別に大磯以西を西湘(せいしょう)と呼び、三浦半島は湘南に含めないこともある。
元々は、中国湖南省の瀟水、湘江を含む洞庭湖一帯を「瀟湘湖南」と呼ぶところから来ていると言われている。
なんでも、その風景が相模湾一帯とよく似ているそうで、江戸時代、盛んに中国へ渡来していた禅僧たちが、その《湘南》という言葉を日本に持ち込んだという説が有力である。
石原慎太郎(現東京都知事、石原裕次郎の実兄)の著作「太陽の季節」から太陽族やその映画の主役・石原裕次郎、また若大将シリーズの加山雄三が湘南のシンボルだった1950年代にはヨットやクルーザーなどのマリーナがある地域(葉山から江ノ島)が湘南と考えられた。
なお現在、神奈川県の行政区域名としては、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町を湘南と規定する。
国土交通省陸運局の自動車ナンバープレイトに「湘南」がある。 湘南族にとって秦野、伊勢原、寒川の内陸地が何で湘南なんだヨ・・!、という異論もある。
次回は「湯河原」
【注記】 鎌倉そして江ノ島から小田原にかけての湘南地区は別途・日本周遊紀行(ホームページ)として記載してます。 従って次回からは、湯河原へ飛びます。
鎌倉編:
http://orimasa2005.web.fc2.com/km-1.htm
湘南編:
http://orimasa2005.web.fc2.com/sn-1.htm
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日本周遊紀行(3)葉山 「湘南地方」
『瀟湘湖南』(しょうしょうこなん)・・、
三浦半島最南端;城ヶ島に架かる「城ヶ島大橋」
三浦半島最南端、城ヶ島や油壺は通年人々で賑わう観光地であ
三崎漁港は我が国有数の漁業基地、特にマグロの水揚げは焼津に次いで2番目をキープしている。
城ヶ島大橋を渡ると、北原白秋の詩でも知られる城ヶ島である。
その西端の入り組んだ入り江である長津呂湾は、岩場に囲まれた天然のプールになっていて、我も時折・・?夏になると孫共と一緒にはしゃいだもんでであった。
詩歌人の北原白秋は27歳、東京を引き払って家族とともに三浦三崎に新居を構える。
三崎は白秋の新生の地となって白秋文学のうえでも、新しい境地がひらかれるきっかけとなった。
白秋は三崎を訪れた数多い詩人の誰よりも三崎を愛し、なつかしんだ人でもあったという、三崎時代のも多くの作品がのこされている。
『城ヶ島の雨』 詩:北原白秋 曲:梁田貞
雨はふるふる 城ヶ島の磯に
「利休鼠の 雨がふる」
雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟
因みに、「利休鼠の雨」とは・・、
茶道の「千利休」、即ちお茶、抹茶の色、利休鼠は抹茶の色と鼠色を合わせた色のことのようである。
利休鼠は江戸時代後期から明治時代にかけて利休茶とともに流行した染色の色名で、鼠のような灰色のこと。 利休という字が付く染色名は利休鼠、利休茶、利休白茶、利休色、濃利休、薄利休、錆利休、藍利休などの8色があるといわれる。
戦国期、利休は秀吉の勘気に触れ天承19(1591)年2月28日京都・葭(かや)町の自邸で切腹を命じられている。
2月28日は旧暦で現在の太陽暦になおすと4月9日前後で、その日は霰をまじえた大雨が降るなど異常な天気であったという。
このことから利休鼠の雨の語源があるという説がある。 元より、利休は華美を嫌い鼠色を好んだといわれ、利休鼠の色は暗い灰色で英語のストームグレーのような色を指しているとといわれる。
R134は三浦半島を北上する、内陸部から海岸に出る。葉山、逗子の海は既にウィンドウサーフィンやボードセーリングを楽しむ若者達で賑わっている。
葉山は明治期から保養地として注目されていた、皇室関係者や貴族の別荘も多く、明治26年、明治天皇の御用邸が竣工され、今の御用邸に継続されている。
平成年号の前の「昭和」の年号はこの葉山から発せられたという。
大正天皇は病気療養のため葉山御用邸付属邸に行幸されていた、 しかし、国民の平癒祈願も空しく崩御された。
お見舞いのため滞在中の皇太子・同妃両殿下(昭和天皇・皇后)は、直ちに「践祚(せんそ)の儀」を行われ、付属邸において天皇の位を受け継ぎ、「昭和」と改元されたという。
葉山御用邸を挟むかたちで、長者ヶ崎、一色海岸、森戸海岸、逗子海岸と海のレジャー基地が並ぶ。小生も若かりし頃、葉山の一色海岸に会社の保養所があったので、海水浴等で青春を謳歌したものであった。
「湘南」について・・、
普通に湘南(しょうなん)といえば、神奈川県の相模湾沿いの地方のことを言い、厳密な定義はないようだ。
概ね大磯~葉山のあたりを指すが、それとは別に大磯以西を西湘(せいしょう)と呼び、三浦半島は湘南に含めないこともある。
元々は、中国湖南省の瀟水、湘江を含む洞庭湖一帯を「瀟湘湖南」と呼ぶところから来ていると言われている。
なんでも、その風景が相模湾一帯とよく似ているそうで、江戸時代、盛んに中国へ渡来していた禅僧たちが、その《湘南》という言葉を日本に持ち込んだという説が有力である。
石原慎太郎(現東京都知事、石原裕次郎の実兄)の著作「太陽の季節」から太陽族やその映画の主役・石原裕次郎、また若大将シリーズの加山雄三が湘南のシンボルだった1950年代にはヨットやクルーザーなどのマリーナがある地域(葉山から江ノ島)が湘南と考えられた。
なお現在、神奈川県の行政区域名としては、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町を湘南と規定する。
国土交通省陸運局の自動車ナンバープレイトに「湘南」がある。 湘南族にとって秦野、伊勢原、寒川の内陸地が何で湘南なんだヨ・・!、という異論もある。
次回は「湯河原」
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2010年9月15日水曜日
日本周遊紀行(2)浦賀 「開国の町」
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日本周遊紀行(2)浦賀 「開国の町」
(クリック大)
嘉永6年(1853年)、黒船に乗ったペリー提督率いる米国艦隊が上陸した地に、「記念碑」(伊藤博文の筆)が立ち、奥の方に「ペリー記念館」が建つ
『 太平の 眠りを覚ます 蒸気船
たった4杯で 夜も眠れず 』
浦賀は、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督が 日本上陸の第一歩をしるした地である。
ペリー提督の一行はアメリカ人として初めて日本の土を踏み、アメリカ合衆国大統領の親書を幕府側の代表奉行に手渡し、日米の友好と通商を求め、港を開くよう要求した。
はじめは鎖国政策を押し通そうとした幕府も、欧米の最新の文化、強力な軍事力を目のあたりにし、時代の潮流には抗しきれず、ついに長い間の鎖国政策を転換して、翌、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び伊豆の下田へ来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港した。
日本は世界に向けての第一歩を踏みだし、「日本の近代化」がここから出発したといってよい。
『 泰平の 眠りを覚ます 上喜撰
たった四杯で 夜も眠れず 』
こちらは、江戸庶民が詠った狂歌である。
うららかな日に、たった4杯の高級なお茶(上喜撰)で眠気がすっとび不眠になってしまったように、たった4隻の黒船(蒸気船)による開国の要求に日本は平和ボケから目を覚まされ、開国以外に選択の余地のないところへ追い込まれた・・と、幕政に対して失笑しているのである。
江戸中期、この浦賀に陸の関所ならぬ海の関所といわれる広大な奉行所が置かれていた。
江戸の発展増大に伴う人口の流入、商品流通を掌握するため、江戸に近く港も広い浦賀港が下田より移されたと考えられている。
小さな藩の転封(諸大名の領地を他へ移しかえること。移封、国替)みたいなものだ。
下田奉行の守をはじめ、下田奉行所に付属する一切の施設、役人、回船問屋の人々まで浦賀に移り住んだという。戸数10数戸の小さな漁村だった浦賀の町は、そのために1000戸にも以上にも達し、相模国では小田原に次ぐ街に膨れ上がったという。
業務内容は、船の積み荷の検査(船改め)、海の関所、三浦半島の天領(幕府の直轄地)の支配、沿岸警備、海難救助、地方行政、警察、裁判所など。
江戸後期には外国船が来航するようになり海防の仕事も加わって更に忙しくなったという。海防の指揮や監督、外交交渉の窓口として、浦賀奉行所の重要性が増大し、地位も長崎奉行の上席に昇格した。
この奉行所は、1868(慶応4)年、幕府滅亡により廃止された。
横須賀港と浦賀港は歴史的同義で繋がっている・・、
横須賀と浦賀の街について簡単にいってしまうと、横須賀は近代海軍によってひらかれた街であり、主にそこで働く職人たちの街として繁栄した。
一方、浦賀は元々「開国の町」であり、それによって海防の総合力が発揮され、豪商や財力で「浦賀ドック」に見られるように造船技術も発達し、栄えた港町であった。
浦賀ドックについて・・、
浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航まで遡る。
この時幕府は大船建造禁止令を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造したところである。
また1859年(安政6年)には日本初のドライドック(船の建造や修理などを行う施設)が完成し、アメリカへ向かうための咸臨丸の整備が行われている。
戦時下では戦艦を造り続け、特に駆逐艦の造船は有名であると。
戦後も自衛艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修や日本丸建造なども行われたという。そして浦賀地区は工場集約のため近年の2003年(平成15年)に閉鎖された。
現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちの一つであり、国内でも明治期のものとして「浦賀ドック」は貴重な文化遺産である。
今と昔の差異はあろうが、三浦半島先端に発達した海防の町は、どちらも大江戸そして大東京を守る要(かなめ)なのであり、国防の港であった。
一昨年(2003年)、日米開国150周年に当たりワシントンでその祝賀行事が小泉総理とブッシュ大統領の下で行われた。
現在は浦賀は行政上横須賀市に統合されたものの、歴史が異なるため居住者の意識にも若干の差異があるといわれるが・・?。
この浦賀港を今は久里浜港と称している。
三浦半島と房総半島、久里浜・金谷を結ぶフェリーが片道40分で往来している。
ここは広い東京湾の出入口に当たり直線距離で15kmと最狭部になっている、晴れた日には東京湾を往来する大小多数の船舶が望めるところでもある。
次回は、「湘南・葉山」
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.
日本周遊紀行(2)浦賀 「開国の町」
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嘉永6年(1853年)、黒船に乗ったペリー提督率いる米国艦隊が上陸した地に、「記念碑」(伊藤博文の筆)が立ち、奥の方に「ペリー記念館」が建つ
『 太平の 眠りを覚ます 蒸気船
たった4杯で 夜も眠れず 』
浦賀は、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督が 日本上陸の第一歩をしるした地である。
ペリー提督の一行はアメリカ人として初めて日本の土を踏み、アメリカ合衆国大統領の親書を幕府側の代表奉行に手渡し、日米の友好と通商を求め、港を開くよう要求した。
はじめは鎖国政策を押し通そうとした幕府も、欧米の最新の文化、強力な軍事力を目のあたりにし、時代の潮流には抗しきれず、ついに長い間の鎖国政策を転換して、翌、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び伊豆の下田へ来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の2港を開港した。
日本は世界に向けての第一歩を踏みだし、「日本の近代化」がここから出発したといってよい。
『 泰平の 眠りを覚ます 上喜撰
たった四杯で 夜も眠れず 』
こちらは、江戸庶民が詠った狂歌である。
うららかな日に、たった4杯の高級なお茶(上喜撰)で眠気がすっとび不眠になってしまったように、たった4隻の黒船(蒸気船)による開国の要求に日本は平和ボケから目を覚まされ、開国以外に選択の余地のないところへ追い込まれた・・と、幕政に対して失笑しているのである。
江戸中期、この浦賀に陸の関所ならぬ海の関所といわれる広大な奉行所が置かれていた。
江戸の発展増大に伴う人口の流入、商品流通を掌握するため、江戸に近く港も広い浦賀港が下田より移されたと考えられている。
小さな藩の転封(諸大名の領地を他へ移しかえること。移封、国替)みたいなものだ。
下田奉行の守をはじめ、下田奉行所に付属する一切の施設、役人、回船問屋の人々まで浦賀に移り住んだという。戸数10数戸の小さな漁村だった浦賀の町は、そのために1000戸にも以上にも達し、相模国では小田原に次ぐ街に膨れ上がったという。
業務内容は、船の積み荷の検査(船改め)、海の関所、三浦半島の天領(幕府の直轄地)の支配、沿岸警備、海難救助、地方行政、警察、裁判所など。
江戸後期には外国船が来航するようになり海防の仕事も加わって更に忙しくなったという。海防の指揮や監督、外交交渉の窓口として、浦賀奉行所の重要性が増大し、地位も長崎奉行の上席に昇格した。
この奉行所は、1868(慶応4)年、幕府滅亡により廃止された。
横須賀港と浦賀港は歴史的同義で繋がっている・・、
横須賀と浦賀の街について簡単にいってしまうと、横須賀は近代海軍によってひらかれた街であり、主にそこで働く職人たちの街として繁栄した。
一方、浦賀は元々「開国の町」であり、それによって海防の総合力が発揮され、豪商や財力で「浦賀ドック」に見られるように造船技術も発達し、栄えた港町であった。
浦賀ドックについて・・、
浦賀での造船の歴史は1853年(嘉永6年)のペリー来航まで遡る。
この時幕府は大船建造禁止令を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造したところである。
また1859年(安政6年)には日本初のドライドック(船の建造や修理などを行う施設)が完成し、アメリカへ向かうための咸臨丸の整備が行われている。
戦時下では戦艦を造り続け、特に駆逐艦の造船は有名であると。
戦後も自衛艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修や日本丸建造なども行われたという。そして浦賀地区は工場集約のため近年の2003年(平成15年)に閉鎖された。
現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちの一つであり、国内でも明治期のものとして「浦賀ドック」は貴重な文化遺産である。
今と昔の差異はあろうが、三浦半島先端に発達した海防の町は、どちらも大江戸そして大東京を守る要(かなめ)なのであり、国防の港であった。
一昨年(2003年)、日米開国150周年に当たりワシントンでその祝賀行事が小泉総理とブッシュ大統領の下で行われた。
現在は浦賀は行政上横須賀市に統合されたものの、歴史が異なるため居住者の意識にも若干の差異があるといわれるが・・?。
この浦賀港を今は久里浜港と称している。
三浦半島と房総半島、久里浜・金谷を結ぶフェリーが片道40分で往来している。
ここは広い東京湾の出入口に当たり直線距離で15kmと最狭部になっている、晴れた日には東京湾を往来する大小多数の船舶が望めるところでもある。
次回は、「湘南・葉山」
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2010年9月14日火曜日
日本周遊紀行・西日本編 「出発;先ず横須賀へ」
.
日本周遊紀行・西日本編 「出発;先ず横須賀へ」
いよいよ後半、「西日本方面」への出発の運びと相成った。
以前、東日本方面の時の準備と経験が大いに役立ち、概ねそれらと同様に実施する事に成り、当初、考えていた梅雨入り前のゴールデンウイーク明けということで本日を向かえた。
大雑把に見積もっても東日本方面と比較して地形的にも、都市部というか人口の集約度も高く、観光名所も多い。
これらを考察しても相当の日数と距離がかかりそうで、妻にはそれなりに話しておいたが。 ところで、妻と娘家族が故あって6月の初め鹿児島方面へ旅行するらしく、その時の再会を楽しみに。
前日、娘家族が見送りの為に来てくれて、旅先への思い入れ等を話す。
6時に起床した時は妻は既に台所に立っていて、朝の支度に余念がなかった・・?
軽く挨拶を交わして6時40分には家を出た。
R246から東名の横浜町田IC近くよりR16の保土ヶ谷バイパスへ、八王子、相模原、東名高速のICと大横浜市を結ぶ唯一といってもよいぐらいの幹線道路は平日だと早朝から慢性渋滞の常連地である。
しかし、さすがに日曜日の早朝(・・でもないかな、)とあってスイスイと走り抜けた。新保土ヶ谷ICからは横横道路(横浜・横須賀道路)の有料道路に入る、初めに三浦半島の横須賀へ向かう。
「戦艦三笠」・・、
一昨年から昨年に掛けて、司馬遼太郎作の「坂の上の雲」の大長編を読破した。
明治時代、伊予松山の秋山兄弟と正岡子規はその時代どように生きたか、明治国家の背景は・・?、兄好古は陸軍騎兵の創設者、弟真之は日本海海戦の名参謀、文壇俳句の大元、子規・・と三人三様が明治の日清・日露戦争にどのように拘わっていくのか・・?
極近年(2009年・・?)、NHK大河ドラマ(日曜日・・?)がこのスペクタクル大叙事詩を放映するとか。
横須賀港に記念鑑として保存されている「戦艦三笠」
2005年の今年は、日本海海戦の大勝利と講和発行の日露戦争終結から100周年に当たり、それは奇しくも五月であった。
日本海軍の旗艦であった「三笠」の等身大の姿が、横須賀港の三笠公園に停泊している。
大正期に現役を退き、記念艦として保存されていたが、太平洋戦争後、占領軍の命令により大砲、マスト、艦橋などが撤去され、見る影もなく荒れ果てていたが、 その後、「三笠」を復元させようとの声が内外で高まり、多くの人々からの募金、政府の予算、アメリカ海軍の支援もあり、昭和36年(1961年)に現在の姿になったという。
まだ時間的に開館前であったが、半開きの門をカメラ片手に忍び入った、中央に元帥・東郷平八郎の立像が三笠を背にして立っている。
見据える先は東京の国会議事堂か、はたまた皇居か・・? 殆ど灰黒色に鋳ぬられた本艦横に「日本海海戦100周年」の横断幕が張られて在った。
時は「明治」・・、
日露戦争前後の世界情勢は帝国主義の真っ只中にあり、外交官と軍人が最も活躍した時代であった。
日本は日清戦争(1894年)に勝利し、翌年には、日本有利な下関条約を締結したものの、ロシア・フランス・ドイツの、いわゆる三国干渉によって、遼東半島(朝鮮半島の北にあり、北を渤海、南を黄海に囲まれており、最西端部に旅順や大連などの都市がある。全体に山がちで平野は少ない)の租借権(ある国が他国の領土の一部を借りること、原則として租借国が統治権を行使する)を清に返還せざるを得なくなった。
ところがロシアは、日本が手放した租借権を得て遼東半島へ進駐、旅順にロシア太平洋艦隊を配置した。
これにより日本における対露感情が決定的に悪化し、民衆は臥薪嘗胆(復讐の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味)というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていった。
その後ロシアは満州へ侵攻、全土を占領下に置いた。ロシアは清朝を脅迫し、満州の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議、ロシアは撤兵を約束した。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行おうとせず、むしろ駐留軍の増強を図った。
日清戦争で実力を知ったイギリスは日本と同盟(日英同盟)を結ぶ、これによって国内世論も定まり、積極的な戦争準備を開始した。
ロシアは朝鮮半島北部へ侵攻領有する構えをみせ始め、日本側では朝鮮半島にロシア側の利権がどういう形であれ、入ってくるのは日本本土の防衛上不利と考え、開戦へと国論をまとめた。
当時の日本の外務大臣・小村寿太郎はロシアに国交断絶を言い渡した。
かくして、ロシア皇帝・ニコライ2世は、1904年、日本との戦闘行為を容認し、事実上日本との戦争を決断した。
「戦艦三笠」は避けられないロシアとの戦争に備えて、1896年の10ヵ年計画における4隻の新造戦艦の4番艦として、1902年3月に完成していた。
その設計は英国のビッカーズ社のJames Dunn氏を中心として、当時の英国戦艦にさえ導入されていない最新の技術が盛りこまれた、当時世界最大最強の戦艦であった。
1904年に始まった日露戦争では、東郷提督の率いる連合艦体の旗艦として、ロシアの太平洋艦隊との黄海海戦で勝利を収め、その経験を生かしてバルチック艦隊との日本海海戦では、ロシアのほとんどの艦艇を沈める戦果を上げた。
このとき、伊予・松山出身の秋山真之は旗艦三笠を指揮いる東郷司令長官の横に居って作戦指揮し、名参謀ぶりを発揮する。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』は、短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として評価されている。またZ旗の信号文『皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ』も彼の作である。
尚、大陸陸上部では日本陸軍騎兵隊指揮いる秋山真之の実兄・秋山好古が、ロシアコサック騎兵隊を悩ませ勝利に導いていく。
三笠公園への途中、間違って「アメリカ海軍横須賀基地」(横須賀ベース)に入ってしまうところを黒人の米兵に止められて「ミステイク・・ソリー・・」といってUターンしたが・・、
横須賀基地(よこすかきち、JMSDF Yokosuka Naval Base)は、海上自衛隊及び在日米海軍司令部の基地で第7艦隊の前方展開拠点として置かれている。基地には、以前は空母ミッドウェイ、空母インディペンデンス、最近では空母『ジョージ・ワシントン』の寄港地として有名。また、イージスシステムを搭載したミサイル巡洋艦及びミサイル駆逐艦(イージス艦)といった軍艦が事実上の母港としている。
米海軍の基地としての是非はともかく、自衛隊とともに、日本国土や首都・東京の防衛に当たっていることも確かである。
基地内部には一般人は立入れないが、年に1、2度公開され、空母の中にも入れることがあるという。昔の核持込疑惑の頃は船が入る(空母が入港することを地元の人間はこう呼ぶ)度に大騒ぎだったが、最近はとても静からしい・・?。
R16からR134を行く、細長く入組んだ浦賀湾を左に見ながら一つの丘を越えると再び見通しの良い湾に出た。その名も「開国橋」と名の付く橋を渡って間もなく「ペリー公園・ペリー上陸記念館」があり、園の中央に「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」(伊藤博文・書)の大きな文碑がある、海岸には錨のモニュメントがあった。
次回は、・開国の町・「浦賀」
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いよいよ後半、「西日本方面」への出発の運びと相成った。
以前、東日本方面の時の準備と経験が大いに役立ち、概ねそれらと同様に実施する事に成り、当初、考えていた梅雨入り前のゴールデンウイーク明けということで本日を向かえた。
大雑把に見積もっても東日本方面と比較して地形的にも、都市部というか人口の集約度も高く、観光名所も多い。
これらを考察しても相当の日数と距離がかかりそうで、妻にはそれなりに話しておいたが。 ところで、妻と娘家族が故あって6月の初め鹿児島方面へ旅行するらしく、その時の再会を楽しみに。
前日、娘家族が見送りの為に来てくれて、旅先への思い入れ等を話す。
6時に起床した時は妻は既に台所に立っていて、朝の支度に余念がなかった・・?
軽く挨拶を交わして6時40分には家を出た。
R246から東名の横浜町田IC近くよりR16の保土ヶ谷バイパスへ、八王子、相模原、東名高速のICと大横浜市を結ぶ唯一といってもよいぐらいの幹線道路は平日だと早朝から慢性渋滞の常連地である。
しかし、さすがに日曜日の早朝(・・でもないかな、)とあってスイスイと走り抜けた。新保土ヶ谷ICからは横横道路(横浜・横須賀道路)の有料道路に入る、初めに三浦半島の横須賀へ向かう。
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一昨年から昨年に掛けて、司馬遼太郎作の「坂の上の雲」の大長編を読破した。
明治時代、伊予松山の秋山兄弟と正岡子規はその時代どように生きたか、明治国家の背景は・・?、兄好古は陸軍騎兵の創設者、弟真之は日本海海戦の名参謀、文壇俳句の大元、子規・・と三人三様が明治の日清・日露戦争にどのように拘わっていくのか・・?
極近年(2009年・・?)、NHK大河ドラマ(日曜日・・?)がこのスペクタクル大叙事詩を放映するとか。
横須賀港に記念鑑として保存されている「戦艦三笠」
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日本海軍の旗艦であった「三笠」の等身大の姿が、横須賀港の三笠公園に停泊している。
大正期に現役を退き、記念艦として保存されていたが、太平洋戦争後、占領軍の命令により大砲、マスト、艦橋などが撤去され、見る影もなく荒れ果てていたが、 その後、「三笠」を復元させようとの声が内外で高まり、多くの人々からの募金、政府の予算、アメリカ海軍の支援もあり、昭和36年(1961年)に現在の姿になったという。
まだ時間的に開館前であったが、半開きの門をカメラ片手に忍び入った、中央に元帥・東郷平八郎の立像が三笠を背にして立っている。
見据える先は東京の国会議事堂か、はたまた皇居か・・? 殆ど灰黒色に鋳ぬられた本艦横に「日本海海戦100周年」の横断幕が張られて在った。
時は「明治」・・、
日露戦争前後の世界情勢は帝国主義の真っ只中にあり、外交官と軍人が最も活躍した時代であった。
日本は日清戦争(1894年)に勝利し、翌年には、日本有利な下関条約を締結したものの、ロシア・フランス・ドイツの、いわゆる三国干渉によって、遼東半島(朝鮮半島の北にあり、北を渤海、南を黄海に囲まれており、最西端部に旅順や大連などの都市がある。全体に山がちで平野は少ない)の租借権(ある国が他国の領土の一部を借りること、原則として租借国が統治権を行使する)を清に返還せざるを得なくなった。
ところがロシアは、日本が手放した租借権を得て遼東半島へ進駐、旅順にロシア太平洋艦隊を配置した。
これにより日本における対露感情が決定的に悪化し、民衆は臥薪嘗胆(復讐の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味)というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていった。
その後ロシアは満州へ侵攻、全土を占領下に置いた。ロシアは清朝を脅迫し、満州の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議、ロシアは撤兵を約束した。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行おうとせず、むしろ駐留軍の増強を図った。
日清戦争で実力を知ったイギリスは日本と同盟(日英同盟)を結ぶ、これによって国内世論も定まり、積極的な戦争準備を開始した。
ロシアは朝鮮半島北部へ侵攻領有する構えをみせ始め、日本側では朝鮮半島にロシア側の利権がどういう形であれ、入ってくるのは日本本土の防衛上不利と考え、開戦へと国論をまとめた。
当時の日本の外務大臣・小村寿太郎はロシアに国交断絶を言い渡した。
かくして、ロシア皇帝・ニコライ2世は、1904年、日本との戦闘行為を容認し、事実上日本との戦争を決断した。
「戦艦三笠」は避けられないロシアとの戦争に備えて、1896年の10ヵ年計画における4隻の新造戦艦の4番艦として、1902年3月に完成していた。
その設計は英国のビッカーズ社のJames Dunn氏を中心として、当時の英国戦艦にさえ導入されていない最新の技術が盛りこまれた、当時世界最大最強の戦艦であった。
1904年に始まった日露戦争では、東郷提督の率いる連合艦体の旗艦として、ロシアの太平洋艦隊との黄海海戦で勝利を収め、その経験を生かしてバルチック艦隊との日本海海戦では、ロシアのほとんどの艦艇を沈める戦果を上げた。
このとき、伊予・松山出身の秋山真之は旗艦三笠を指揮いる東郷司令長官の横に居って作戦指揮し、名参謀ぶりを発揮する。
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三笠公園への途中、間違って「アメリカ海軍横須賀基地」(横須賀ベース)に入ってしまうところを黒人の米兵に止められて「ミステイク・・ソリー・・」といってUターンしたが・・、
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2010年9月13日月曜日
日本周遊紀行:西日本編 「はじめに」
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日本周遊紀行:西日本編 「はじめに」
『 国に山河在り、人に歴史有り 』
主に沿岸地方であったが・・、「日本一周」を無事大過なくやり過ごすことが出来た。
そして概ね、「日本という国の形」を歴史文化、自然風土に素人的に触れることが出来、この国の活力を感じ入った次第です。
これだけでも今回の周遊の旅の目的が達せられたと満足しているが・・、
東日本の特徴は、何と言っても奥深く雄大な太古の自然が、ソコ・ココに残されていることであろう。
原始の自然は人類創生以前の地球の営みを見ているようで、圧倒的に迫ってくるものがある。
東北では世界遺産の白神山地をはじめ津軽地方、下北半島の奥深さや特異な海岸(仏が浦)、三陸の緑と豪快な海岸線、そして優美な松島の海岸。
北海道に到れば雄大かつ変化に富む山岳、広大な湿原、美しい景観の天然湖沼などの大迫力に圧倒される。
中でも渡島半島の山地、サロベツ原野、宗谷丘陵、オホーツクの海岸線、知床、そして、野付から根室の海岸線、根釧原野など、道内を一周すると殆どの地域が国立、国定、道立公園の範疇に入り、世界遺産の「知床」やラムサール指定地など、湖沼、湿原、原生花園、原野など優美で広大な大自然に驚嘆したのである。
対して西日本は、どちらかというと歴史や文化が深く息ずいていることが主体であろう。
例えば、我等現代人でもある本来の大和民族のルーツを思う時・・、
縄文期の頃までは、今の日本である北海道から琉球沖縄まで、人種の流入過程は異なるが、概ね同系、同種の縄文人であったとされる。
ところが、弥生期から飛鳥期において大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が九州、そして中国・近畿・北陸地方にやって来て、従来の縄文人を駆逐し、ないしは融合し、同化していった。
つまり、弥生文化の覇権のため武装(金属の銅や鉄器)した技術集団、農業集団でもある、所謂、稲作キャンペーン集団とも云える新たな民族がやってきて技術面は勿論、文化面、宗教面においても全国に一大革命を起こすのである。
つまるところ2000年にわたる、集団で定住化された「米」が主食になる稲作農業文化が、画一化された弥生人を創りあげ、国内においては旧来の縄文人の姿、形まで変えてしまったようである。
即ち、文化や文明が歴史として現代にまで滔々と流れ下り、受け継がれて現代人と現代文明が形成されていったのである。
但し、この様な弥生文化の駆逐は、北海道と沖縄には平安期の頃まで全く及ばなかったともされる。
両地域とも、本土のよう稲作文明は波及しておらず、従って、本土と並立した「弥生時代」というのは存在しないと言われる。
縄文時代の次の時代は、沖縄では「貝塚時代」(前期、後記)、東北北部から北海道では「続縄文時代」とも呼ばれる縄文様式の継続文化が営々と続いたのである。
その現況が蝦夷・アイヌの民や琉球人の姿、形に、今ででも見ることが出来るとも言われる。
特に、西日本では、これら日本人(大和民)のルーツから、現在に至るまでの進化の過程を記紀(古事記、日本書紀)伝説、伝承や遺跡・史跡、痕跡、神社、仏閣等から伺い知ることが出来るのである。
ところで、歴史というものはどの時代を通じても、全て繋がりの連続性を持っていて澱(よど)みなく、そして絶え間なく流れ続ける大河のようなものであろう。
そして、多岐に渡る小河の歴史が寄せ集まり、厳選されて現代に繋がっているのである。
更に、時代という綿々と流れてきた歴史大河は、主要事項が重なり合って後世に一つの現象を生み出し、影響を与えながら未来へと繋がっていくものでもあろう。
こんなんが歴史の面白さでもあろうか・・? 。
『西日本編』は、東日本編に引き続き今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」を主題に、景勝地や温泉等の観光面を併せてピックアップしながら紹介致します。
周遊は『西日本編』に移り、神奈川県厚木市を出発して、以下の各県順に巡りました。
『西日本編』: :行程・・・神奈川県厚木市(出発地)⇒ 神奈川⇒ 静岡⇒ 愛知⇒ 三重⇒ 和歌山⇒ 大阪⇒ 兵庫⇒ 四国全県(時計回り一周)⇒ 岡山⇒ 広島⇒ 山口⇒ 九州全県(福岡より西回り一周)⇒ 山口⇒ 島根⇒ 鳥取⇒ 兵庫⇒ 京都⇒ 福井⇒ 石川⇒ 富山⇒ 新潟⇒ 長野⇒・・・神奈川帰着
最初は神奈川県・三浦半島からです。
2010年 小生著作(orimasa)
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《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)
【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観
ハワイ旅行2007 九州旅行2008 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002
【山行記】
《山の紀行・記録集》
「山行履歴」
「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 北ア・槍-穂高(1968年) 上高地・岳沢・穂高(1979年) 上高地・明神(2008年) 南ア・北岳(1969年) 八ヶ岳(1966年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 奥秩父・金峰山(1972)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
.
日本周遊紀行:西日本編 「はじめに」
『 国に山河在り、人に歴史有り 』
主に沿岸地方であったが・・、「日本一周」を無事大過なくやり過ごすことが出来た。
そして概ね、「日本という国の形」を歴史文化、自然風土に素人的に触れることが出来、この国の活力を感じ入った次第です。
これだけでも今回の周遊の旅の目的が達せられたと満足しているが・・、
東日本の特徴は、何と言っても奥深く雄大な太古の自然が、ソコ・ココに残されていることであろう。
原始の自然は人類創生以前の地球の営みを見ているようで、圧倒的に迫ってくるものがある。
東北では世界遺産の白神山地をはじめ津軽地方、下北半島の奥深さや特異な海岸(仏が浦)、三陸の緑と豪快な海岸線、そして優美な松島の海岸。
北海道に到れば雄大かつ変化に富む山岳、広大な湿原、美しい景観の天然湖沼などの大迫力に圧倒される。
中でも渡島半島の山地、サロベツ原野、宗谷丘陵、オホーツクの海岸線、知床、そして、野付から根室の海岸線、根釧原野など、道内を一周すると殆どの地域が国立、国定、道立公園の範疇に入り、世界遺産の「知床」やラムサール指定地など、湖沼、湿原、原生花園、原野など優美で広大な大自然に驚嘆したのである。
対して西日本は、どちらかというと歴史や文化が深く息ずいていることが主体であろう。
例えば、我等現代人でもある本来の大和民族のルーツを思う時・・、
縄文期の頃までは、今の日本である北海道から琉球沖縄まで、人種の流入過程は異なるが、概ね同系、同種の縄文人であったとされる。
ところが、弥生期から飛鳥期において大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が九州、そして中国・近畿・北陸地方にやって来て、従来の縄文人を駆逐し、ないしは融合し、同化していった。
つまり、弥生文化の覇権のため武装(金属の銅や鉄器)した技術集団、農業集団でもある、所謂、稲作キャンペーン集団とも云える新たな民族がやってきて技術面は勿論、文化面、宗教面においても全国に一大革命を起こすのである。
つまるところ2000年にわたる、集団で定住化された「米」が主食になる稲作農業文化が、画一化された弥生人を創りあげ、国内においては旧来の縄文人の姿、形まで変えてしまったようである。
即ち、文化や文明が歴史として現代にまで滔々と流れ下り、受け継がれて現代人と現代文明が形成されていったのである。
但し、この様な弥生文化の駆逐は、北海道と沖縄には平安期の頃まで全く及ばなかったともされる。
両地域とも、本土のよう稲作文明は波及しておらず、従って、本土と並立した「弥生時代」というのは存在しないと言われる。
縄文時代の次の時代は、沖縄では「貝塚時代」(前期、後記)、東北北部から北海道では「続縄文時代」とも呼ばれる縄文様式の継続文化が営々と続いたのである。
その現況が蝦夷・アイヌの民や琉球人の姿、形に、今ででも見ることが出来るとも言われる。
特に、西日本では、これら日本人(大和民)のルーツから、現在に至るまでの進化の過程を記紀(古事記、日本書紀)伝説、伝承や遺跡・史跡、痕跡、神社、仏閣等から伺い知ることが出来るのである。
ところで、歴史というものはどの時代を通じても、全て繋がりの連続性を持っていて澱(よど)みなく、そして絶え間なく流れ続ける大河のようなものであろう。
そして、多岐に渡る小河の歴史が寄せ集まり、厳選されて現代に繋がっているのである。
更に、時代という綿々と流れてきた歴史大河は、主要事項が重なり合って後世に一つの現象を生み出し、影響を与えながら未来へと繋がっていくものでもあろう。
こんなんが歴史の面白さでもあろうか・・? 。
『西日本編』は、東日本編に引き続き今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」を主題に、景勝地や温泉等の観光面を併せてピックアップしながら紹介致します。
周遊は『西日本編』に移り、神奈川県厚木市を出発して、以下の各県順に巡りました。
『西日本編』: :行程・・・神奈川県厚木市(出発地)⇒ 神奈川⇒ 静岡⇒ 愛知⇒ 三重⇒ 和歌山⇒ 大阪⇒ 兵庫⇒ 四国全県(時計回り一周)⇒ 岡山⇒ 広島⇒ 山口⇒ 九州全県(福岡より西回り一周)⇒ 山口⇒ 島根⇒ 鳥取⇒ 兵庫⇒ 京都⇒ 福井⇒ 石川⇒ 富山⇒ 新潟⇒ 長野⇒・・・神奈川帰着
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《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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2010年9月12日日曜日
日本周遊紀行 『旅・旅・旅』 「昔の旅人:三人の挿話」
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日本周遊紀行 『旅・旅・旅』 「昔の旅人:三人の挿話」
前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った「御三方」の旅の様子を記したい・・。
先ず、「吉田松陰」のこと・・、
江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。
その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。
旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。
それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。
吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し、将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。
記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。
最大の難関は豪雪地帯の会津から越後への道のりで、冬場は今でも危険だといわれる峠越えを敢行する。 諏訪峠を5時間かけて峠まで上がり、そこで松陰は超人的な苦難を味わうことになる。
無論、安らぎの一時もあったようで、特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。
松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。
次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、
江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。
芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。
道中でこれにはこんなエピソードもある・・、
越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。
この時の一句に
『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』
を詠んでいる。
この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。
そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。
この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。
しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。
普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう・・。
推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。
いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。
松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である・・。
だが、気楽な気持ち(実はそうではない、当時既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで、「正岡子規」(1867-1902)のことである。
『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、
しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない 』・・子規
芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・
『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』
と軽く一句捻っている。
四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。
この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。
「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。
巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京
余分ながら・・、この時、山形・最上川では・・、
『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』
と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
発想の契機は芭蕉の 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』 にある。
元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。
子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。
『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』
余りにも有名な句であるが・・、
正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。
子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。
子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く人」と呼んだ。
小生が選んだ御三方とも、旅先は何れも主に東北・陸奥の旅であったが、これは偶然である。
因みに、平安期の一時期を除いて、特に明治の夜明け頃までは、陸奥は”地の果て”という見方もあったようで、明治黎明期の或る長州人は、”白河以北は(陸奥)は一山一文の未開の地”とまで言ってのけた。
御三方は、この未開の・・?陸奥を目指したことに価値が有るのである。
さて、話を戻そう、(旅に関してであるが・・)
昔日は、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代である、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。
そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。
特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。
それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。
だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、移動手段はともかく、今も昔も変わることは無い。
文明が進んで、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いた。
その事を示す例として、日本の鉄道開発、敷設の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参詣のために造られた事が挙げられるのである。
小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
それは実に単純で「計画段階の楽しみ」、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながらアレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。
吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」ではないが、確かめて知識を得るのも楽しみである。
実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが・・。
いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである・・。
続いて、『日本周遊紀行』 東日本編に引き続き「西日本編」 を記載いたします。
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前回に続いて一昔前の、チョット印象に残った「御三方」の旅の様子を記したい・・。
先ず、「吉田松陰」のこと・・、
江戸末期、攘夷論者で有名な吉田松陰は、自国の長州・萩から江戸、そして「脱藩」して東北は本州最北端の竜飛崎まで巡遊しているのである。
その時の旅の様子を綴ったのが見聞記・『東北遊日記』であった。
旅をしたのは、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけてであるから、松陰が満22歳のときである。
それによれば、江戸(嘉永4年12月14日)─水戸─白河─会津若松─新潟─佐渡─新潟─久保田(秋田)─大館─弘前─小泊─青森─八戸─盛岡─石巻─仙台─米沢─会津若松─今市─日光─足利─江戸(4月5日)・・、江戸に戻ったのは、嘉永5(1852)年4月であった。
吉田松陰は長州藩士、思想家、教育者、兵学者と様々な顔を持ち、一般的に明治維新の事実上の精神的指導者・理論者として名が挙げられる。
松蔭は、塾生(松下村塾)達にむかって常に「情報を収集し、将来の判断材料にせよ」と説いた。これが松陰の「飛耳長目」(ひじちょうもく:見聞を広め、物事を鋭敏に観察すること)と云われる思想で、その見本として彼自身が率先して、東北から九州まで脚を伸ばし各地の情報を見聞きし、動静を探った。
記録によると、その旅の殆どの部分は苦労の連続であったらしい。
最大の難関は豪雪地帯の会津から越後への道のりで、冬場は今でも危険だといわれる峠越えを敢行する。 諏訪峠を5時間かけて峠まで上がり、そこで松陰は超人的な苦難を味わうことになる。
無論、安らぎの一時もあったようで、特に、「東北・十三潟(津軽半島・十三湖)の潟を過ぎ、小山を越えたところの眼前には初春の穏やかな風景が広がっていて、浮世の憂さを忘れさせる絶景であった・・」たという下りもある。
松蔭は、降りしきる雪や打ち寄せる波、枯地・荒野などの自然景観が、自身に知恵や見識、勇気を与えてくれたことを察している。
松蔭は、この旅を経験するに従って、洞察力を見に付け「人は知識を付けてから旅をするというのが一般的であるが、旅をして学識を広めるものでもある」とも言っている。
次に、御存じ「松尾芭蕉」であるが・・、
江戸初期、伊賀の国・上野を出て江戸に出向き、45歳で「奥の細道」へ俳諧師として江戸の「芭蕉庵」を旅立ち江戸から日光⇒白河の関⇒松島⇒平泉⇒山形領・立石寺⇒新庄⇒象潟⇒越後⇒出雲崎⇒市振の関⇒山中温泉⇒敦賀⇒大垣と奥州から本州中央部を歩いている。
芭蕉の旅の目的は勿論、日本の風土を愛で(めで)歩きながら俳句をたしなむ私的な道中であったが、他に公的な役割を担い情報収集をともなったとも言われている、つまり、隠密、忍者であるという説である。
道中でこれにはこんなエピソードもある・・、
越後の能生町、糸魚川から親不知の難所を越えて「市振の関」に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したことになっている。
この時の一句に
『 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月 』
を詠んでいる。
この句にもあるように、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るためにたまたま同宿している。
そして、明けの朝遊女らは、芭蕉を修行僧と観て暫しの「同行」を頼むのである。
この遊女達は何処から出発したかは定かでないが、この先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経て鈴鹿峠から津を越え、伊勢に至るのであろうが、実に500~600kmの長道中である。
しかし、彼はあっさり、つれなく断っているのである。
普通、若い女性にモノを頼まれれば古今東西を問わず断れないのが男というもんで、多少なりともお付き合いをしてやるのが普通であろう・・。
推測だが、やはり公的(公儀隠密、特に仙台藩の内部調査とも言われる・・??)な仕事にも携わっていたこそ・・、と想像してしまうのである。
いずれにしても当時、一生に一度の伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか想像するに難いが、大変な道中であることは確かなのである。
松蔭といい、芭蕉といい、遊女といい、徒歩での大変な辛苦の長旅である・・。
だが、気楽な気持ち(実はそうではない、当時既に「肺病」を患っていたのだが・・)の長道中もあったようで、「正岡子規」(1867-1902)のことである。
『 悟りは平気で死ぬことではなく、どんな場合でも平気で生きること、
しかも楽しみを見出さなければ生きている価値がない 』・・子規
芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規は、いとも気楽に・・
『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』
と軽く一句捻っている。
四国の松山から東京(江戸から東京になる)へ出て、在学しながら芭蕉顔負けの秋田まで気軽に脚を延ばしているのである。
この時に、芭蕉の「奥の細道」に因んで『はて知らずの記』を残している。
「房総紀行」、「水戸紀行」、「木曽旅行」など旅の連続であったが、その後更に明治26年7月から芭蕉の足跡を辿りながら帰京するまで1ヶ月間の東北旅行を行っている。
巡った先は上野⇒白川⇒飯坂温泉⇒仙台⇒松島⇒山形⇒作並温泉⇒天童⇒最上川⇒酒田 鳥海山を見ながら吹浦⇒八郎潟⇒秋田⇒大曲⇒象潟⇒岩手・湯田温泉郷⇒黒沢尻⇒水沢 ⇒帰京
余分ながら・・、この時、山形・最上川では・・、
『 ずんずんと 夏を流すや 最上川 』
と、圧倒される勢いで流れる最上川の水量の豊かさを詠んでいる。
発想の契機は芭蕉の 『 五月雨を 集めて早し 最上川 』 にある。
元々、正岡子規は芭蕉に対する批判者として俳句界に登場したとも云われる。
子規は評論の『芭蕉雑談』の中で芭蕉の高名な俳句を次次批判したといい、芭蕉の業績を全面的に否定したわけではないが、芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性(「深さ」、「捻り」、「切り」)が欠けていることを難じたのであった。
『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 』
余りにも有名な句であるが・・、
正岡子規が最後に奈良を訪れたのは明治28年10月、肺結核を病む身で郷里松山を出て上京の旅の途中で奈良を訪れている。 この時に詠んだ句である。
この後、7年に及ぶ闘病生活を過ごすことになるが、子規にとって奈良の旅が生涯最後の旅となっている。
子規の文学は、殆どが旅の体験をもとに構築されていったという。
子規の文学は、「吟行」と言われる旅の表現であり、大江健三郎は子規を称して「歩く人」と呼んだ。
小生が選んだ御三方とも、旅先は何れも主に東北・陸奥の旅であったが、これは偶然である。
因みに、平安期の一時期を除いて、特に明治の夜明け頃までは、陸奥は”地の果て”という見方もあったようで、明治黎明期の或る長州人は、”白河以北は(陸奥)は一山一文の未開の地”とまで言ってのけた。
御三方は、この未開の・・?陸奥を目指したことに価値が有るのである。
さて、話を戻そう、(旅に関してであるが・・)
昔日は、今日のように一般庶民には移動の自由が公には認められていなかった時代である、人々は、今の観光とは異なって神社仏閣への参拝や宗教的な巡礼を理由に旅をする事が多かった。
日本では、お伊勢参り、善光寺参拝など、ヨーロッパではキリストの聖杯、聖遺物などの使徒の誰彼の遺物が安置されているといわれる大寺院、修道院への巡礼が盛んに行われた。
そもそも、「旅」という概念からして、今と昔では受け取る印象は大分様子が異なる。
特に、現代ではインフラの発達により土地を離れるということに対して、飛行機や新幹線など労力を要しなくなった。 その他にも選択肢は数多く存在する。
それに比べれば、徒歩という手段しか持ち得なかったころの昔の遠出は、即ち苦しいことに違いなかった・・と想像するしかない。
だが、旅の目的は「移動しながら、何をするか」ということにおいては、移動手段はともかく、今も昔も変わることは無い。
文明が進んで、旅から物理的な苦しみの部分を取り除いた。
その事を示す例として、日本の鉄道開発、敷設の初期の目的は関西では伊勢への「近鉄」、高野山への「南海」、関東では日光への「東武」、成田山への「京成」、高尾山への「京王」などというように多くが社寺参詣のために造られた事が挙げられるのである。
小生は、旅には三つの「楽しみ」が有ると思っている。
それは実に単純で「計画段階の楽しみ」、「旅本番の楽しみ(苦しみ・・?)」、そして帰ってきた後の思い出しながらアレコレ調べ確かめて観る楽しみがある。
吉田松蔭の言葉を借りれば「旅をして学識を広めるもの・・」ではないが、確かめて知識を得るのも楽しみである。
実は、その結果がこの本文・『日本周遊紀行』を表すのに繋がったのであるが・・。
いずれにしても、「旅行」とは一般に効率的に行うものであろうが、「旅」は非効率であり、それがまた良いのである・・。
続いて、『日本周遊紀行』 東日本編に引き続き「西日本編」 を記載いたします。
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《山の紀行・記録集》
「山行履歴」
「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 北ア・槍-穂高(1968年) 上高地・岳沢・穂高(1979年) 上高地・明神(2008年) 南ア・北岳(1969年) 八ヶ岳(1966年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 奥秩父・金峰山(1972)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
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01.
15.