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2010年8月7日土曜日

日本周遊紀行(129)東京 「江戸城城郭」

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 日本周遊紀行(129)東京 「江戸城城郭」 




江戸城内堀と天守閣の想像図(資料)


江戸城は、元は千代田城と呼ばれた・・、

大田道灌築城(前回記載)の江戸城は、後に北条氏(小田原・北条氏綱以降)の支配下となり、1590年、豊臣秀吉の小田原征伐により北条氏が滅びると、徳川家康の居城となった。
江戸城は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあり、別名は「千代田城」ともいい、江戸幕府の最高政庁であった。

家康公が初めて江戸城に入城した時は、城といっても名ばかりで、形ばかりの石垣を築いた簡素なもので、城自体も屋根は腐り雨が降ると天井から雨水が落ちるという。
あまりの荒廃ぶりにビックリしたそうである。

その後、栄華を誇った江戸城は、徳川家康、秀忠、家光の三世代にわたり諸大名の天下普請により30年をかけて築かれたといわれる。
完成時の江戸城は、五層六階(地下室もあった)の高層で約60メートルの高さがあり、当時の日本最大の木造建築物であったという。

参考までに、当時の城は大阪城の倍の面積があり、将軍様のお成りになる天守閣としては空前絶後の威容を誇こったとい。
総構えとしての全体の面積も、世界最大を誇る城郭であったといい、主な城郭は、本丸、大奥(中奥、表向)、二の丸、三の丸、西の丸、紅葉山(家康を祀る東照宮をはじめ、歴代将軍の霊廟がつくられていた)などである。

因みに、各大名などによる本丸までの登城コースとしては大手門⇒下乗橋⇒三の門⇒中の門⇒中雀門⇒玄関⇒本丸と、各橋を渡り各門を経て辿ることになる。
大名により異なるが、ランクにより大手門・下乗橋前で下馬(駕籠や馬から下りる)し、武家最上位の御三家でも中の門までで、玄関にまで乗り物を横付けできたのは朝廷からの勅使だけだったという。 
普通は大勢の家臣を持つ大名でも、付いてきた供の数も各門で減らされ、最終的に玄関から先は藩主か名代一人になったという。


城内を囲むお壕、所謂「内堀」は概ね現存するお壕で、日比谷門、馬場先門の在る日比谷壕から大手門、竹橋の竹橋門、武道館の在る田安門、千鳥が淵、半蔵門、桜田壕の桜田門などがある。 
一方、更に内堀から大名屋敷や町人その他の屋敷を取り囲む「外堀」は、東は江戸湾に面した浜御殿(浜離宮)から隅田川の両国、浅草、ここより山手線に沿った神田川が当時の外堀で、秋葉原近くの筋違御門、水道橋の小石川御門、飯田橋の牛込御門、市谷の市ヶ谷御門、四谷御門そして赤坂御門、溜池から虎ノ門、新橋に至るルートである。

又、この外堀には御門のほかに、三十六見附(みつけ:数の正確性は疑問)といわれる、所謂、敵の侵入を発見し、防ぐための構築物、見張り番所の城門がある。
現在でも「牛込見附」、「市ヶ谷見附」、「四谷見附」、「赤坂見附」の名称などは今も残っているのは周知である。

次回は、その「半蔵門



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2010年8月4日水曜日

日本周遊紀行(129)東京 「江戸城と太田道灌」

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 日本周遊紀行(129)東京 「江戸城と太田道灌」 



首都・東京・大江戸、先ずは江戸城と太田道灌・・、

東京湾上、「アクアライン」から見る東京市中のビル群は蟻塚のような様相である。この周辺では働蟻の如く様々な人々が、右往左往しながら営んでいることだろう。

日本の首都である「東京」は全国47都道府県の中でもっとも多い約1200万人が暮らす世界有数の大都会である。 
ところで日本一広大な関東平野に位置する大東京、この東京に2000m級の山岳が存在していることは、あまり知られていない。 東京三多摩の最奥部の「雲取山」である。
又、海洋部は東京都島嶼部(伊豆諸島・小笠原諸島)が含まれるため、日本の最南端である沖ノ鳥島と、最東端である南鳥島が東京都に属している。
実にまさか・・?本当かよ・・である。

因みに、「沖ノ鳥島」は東京から南南東に約1,700km離れたところにある。 
台湾よりも、ハワイのホノルルよりも南にあたる熱帯であるが、周囲何百キロも島のない絶海の孤島である。
報じられているように、「」という名前がついているが、実際は広い環礁の中に高さ1m弱の岩が二つあるだけ。 この岩が風化したり波の下にもぐってしまうと、日本の排他的経済水域40万平方km分を失ってしまうことになる。 日本の国土面積が約38万平方kmであるから、いかに大きなものかお分かりいただけると思う。
東京」は、内陸地こそ小さな面積ながらバラエティに富んだ地形であることが大きな特徴でもある。

昔の国名で言う武蔵国のほぼ全域、下総国の一部の範囲、伊豆国の一部の範囲を合わせたものが、現在の東京都の範囲に相当する。
面積は2,187平方キロ(陸地部)、人口は12,578,000人(2005年12月現在)である。 日本の都道府県の中では人口が最も多く、人口密度は大阪府と同程度である。



東京以前、つまり「江戸」は1603年に徳川家康がこの地に幕府を開いたことから繁栄が始まる。
当時は東京ではなく「江戸」と呼ばれ、既に18世紀ごろには人口100万人を超える大都市で、当時としても世界一の大都市であり、日本の政治、経済、文化の中心であった。

無論、現代においても様々な分野において日本の中心は「東京」である。
そして東京の中心はやはり「皇居」であろう。 かっての「江戸城」である。
東京の発展は江戸城なしでは語れない。 それらの総本家である江戸城は、云わずと知れた将軍家・「徳川家の居城」である。



太田道潅と山吹一枝・・、

江戸城の起源は平安時代末期、「江戸氏」を名乗った平重継の子孫の館が旧本丸、二の丸あたりにつくられたことにあると推測されている。
その館の跡に康正2年(1456年)、扇谷上杉氏の執事だった御存知「太田道潅」(資長・おおたすけなが:仏門に帰依して以降は道灌の号をもちいた)が築城完成させている。

室町中期の太田道灌は、鎌倉公方(関東地区を統治すべく中央から派遣された長官・足利氏)を補佐する関東管領・扇谷上杉氏に仕え、文武両道に秀でた武将であった。
江戸城を築いて東京の基礎を作ったことは広く知られており、江戸っ子から「道灌さま」と親しまれていた。 

若い頃の道灌は、武勇の名声は高かったものの学問や風流を解せず、ただ野山をかけては狩猟を楽しんでいたという。
そんな道灌が歌道に励む動機となったのが、例の「山吹の花・・」のエピソードである。


「 ある日、道灌は鷹狩りの途中でにわか雨にあい、近くの農家で雨をしのぐため簑(みの)を借りようと立ち寄った。 すると少女が出て来て、ただ無言のまま歌句の一句を添えて、黄色く咲いた山吹の一枝を差し出した 」 
道灌には、その「歌句と山吹」の意味が解らず「花を求めたのではない」と不機嫌のまま帰館した。 
そして後に、事の始終を家臣に話したところ、それは


 『 七重八重、花は咲けども 山吹の、 
            実の〈簑〉一つだに なきぞ悲し
 』

という古歌で返答したのだと教えられる。

花が咲いても実のつかない山吹の花にたとえ、「家が貧しくて簑さえ持ち合わせない」と、ゆかしく断ったのだった。
この時、道灌は自分の無学を恥じ、以来大いに発奮して勉学に励み、ついには歌人としても名をなしたという。



道灌暗殺・・、

文明18年7月26日(1486年8月25日)、主君・上杉定正の糟屋館(かすやのやかた:現、神奈川県伊勢原市)に招かれた道灌は、主君の手によってこの地でで暗殺された。 享年55であった。 
道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを家臣に襲われ、斬り倒されたという。 死に際に「当方滅亡」と言い残したという。
自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来は無いという、一種の予言であった。

京の都での騒乱・「応仁の乱」も収束し、次第に戦乱が地方に広がる、所謂、戦国時代・下剋上への突入の時代であった。 
太田道潅の暗殺後、扇谷上杉氏の家来が城代で「江戸城」を管理していたが、やがて小田原北条氏が関東を支配するようになり、北条氏の支城となる。 
道灌の予言は的中したのである。

北条氏綱は武蔵国の押さえとして江戸城を重視し、本丸に宿将の富永氏、二の丸に同じく遠山氏(遠山の金さんの先祖)、三の丸に道潅の孫の太田資高を配している。

現在、わずかに江戸城・内堀に、「道灌堀」としてその名をとどめている。

次回も「江戸城物語」



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2010年8月3日火曜日

日本周遊紀行(128)千葉 「千葉城」

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 日本周遊紀行(128)千葉 「千葉城」 



四層五階の「千葉城」って実際に在ったの・・?

今の千葉市に根拠を持った「千葉城」(別名、亥鼻城・いのはなじょう)は、源平争乱の時期、常胤の父・千葉常重によって築城されたといわれる。
当時の千葉城は都川の下流、東京湾に臨む「亥鼻丘」(千葉市亥鼻:いのはな)に築かれ、西は絶壁、北は都川が自然の水堀となり、南は細長い侵食谷、東は台地が続く天然の要塞であったという。 
だが、城郭としての天守や石垣はなく、木造の城主館に櫓、矢倉、米倉などを配した典型的な中世期の城郭であったという。
その千葉城跡の遺構は今はほとんど残っておらず、土塁や堀切の一部にその面影を留めるのみであるという。

尚、亥鼻山の北側の麓には史跡・「お茶の水」という井戸がある。
千葉氏の祖・平良文(平安中期の武将、千葉氏を含む坂東八平氏の実質的な祖とされる)の子、忠頼が生まれた時にこの泉が湧き出しと伝えられ、以降、千葉氏は代々この水を産湯としたと伝えられる。
源頼朝が千葉城に立ち寄った時、千葉常胤はこの湧水で茶を献じたという。



現在、亥鼻丘の千葉城跡は「文化の森」と呼ばれ、市民の憩いの場所になっていて、園内には昭和42年に四層五階の天守が小田原城を模して築かれたという。
天守の前には千葉常胤の銅像が建つ。 

しかし、今の模擬天守閣は、もちろん鎌倉から室町期においては、このような天守閣がありようはずもなく、復元ではなく近世の天守閣に擬した創作物であるとされている。
周辺には、北東の台地上に千葉大医学部があり、台地続きの南側に千葉県文化会館、千葉県立中央図書館、千葉城の西約400mの低地には千葉県庁などといった公共施設が多い。

ただ、前述したように、元々の千葉城は天守閣など持たない中世期の木造の平城であった。 従って、この四層五階の「千葉城郭」に関し史実とは異なるのではないか・・?、これは行政による偽造であり、捏造だと一部有識者が問題提起しているようである。
又、歴史の偽造を平気で行う当局・千葉市も問題であるが、それを批判しないで持ち上げるマスコミ・新聞もおかしいのではないか・・?、という批判も相次いだと言われる。

観光目的の見世物であり、似非物のお城だとすれば・・、これは一体どうなるのだろうか・・?。



千葉市繁華街中心、千葉駅東方に妙見様と言われる「千葉神社」がある。
初め、千葉氏の守護神である妙見菩薩を本尊とする寺院(千葉妙見宮)として建立されたもので、千葉氏宗家のみならず千葉氏一族の信仰が篤く、宗家の相続元服は代々この寺で行われたという。
また、千葉常胤の案内で同寺を参拝した事で知られる源頼朝からも手厚く保護されていたという。

江戸期までは、真言宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離によって千葉神社となり、本尊も祭神:天之御中主大神(アメノミナカヌシノカミ:古事記でいう天地創造の神で、天孫降臨以前の高天原の最初の神とされる)に改められた。 
ただし、妙見菩薩と天之御中主大神は長年、神仏習合によって同一とみなされてきた経緯があり、今日でも同社が「妙見信仰」として祀られている事には変わりがないという。

妙見様」とは妙見菩薩のことで、北極星あるいは北斗七星を神格化した菩薩で人の福寿を増すといい、特に、眼病平癒を祈る妙見仏の本尊として広く信仰されているという。



千葉市内のもう一社:上総の国の「寒川神社」についても触れておこう。 我が相模の国(神奈川)の一宮である寒川神社とは兄弟神に当たるからである。

千葉市のほぼ中心地に寒川町(さむかわちょう:千葉市中央区寒川町)という地名があって、こじんまりではあるが「寒川神社」が鎮座している。
相模の寒川神社が元宮であろうといわれているが実際には不明だとか、元は明神社と云われて寒川地区の総鎮守であり、天照大神を主神に寒川比古命、寒川比女命を相神に祀っている。

天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を寒川神社に改めている。
尚、「寒川神社」とはどのような神社なのか・・?これらの詳細は私論を含めて「日本周遊紀行:西日本編」の「茅ヶ崎:寒川神社」の項に記載いたします。



更に、千葉についてだが・・、

戦国末期、豊臣秀吉が天下を統一すると、関東の地を徳川家康に与えている。
次いで家康が江戸に幕府を開くと、両翼とされる相模の国同様、「房総・千葉」は江戸のおひざ元として、経済的にも軍事的にも重要な地になった。 
幕府は、当地に外様はもちろん譜代の藩も置かず、天領、旗本領として直轄支配していた。
こうして「千葉」は江戸幕府直轄地として発展し、現在に至っているのである。

次回は大東京、お江戸の象徴・「江戸城



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2010年8月2日月曜日

日本周遊紀行(128)千葉 「千葉氏と上総氏」

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 日本周遊紀行(128)千葉 「千葉氏と上総氏」 




「千葉」の由来と千葉氏、上総氏・・、

アクアラインの「海ほたる」から周囲を眺めると大東京のビル群、左に横浜、川崎、そして直ぐ右手に隣接して千葉のタウンと日本の中心である大都市圏がパノラマに見渡せる。



チョット詮索して「千葉」の地名の由来について・・、
これは諸説あって古代のアイヌ語とか、安房の国の地勢や自然を形容して表現されたものとか、定説は確かでないようである。

房総の内陸地形は1000mを越えるような急峻な山岳地は存在しなく、せいぜい300m前後の山々というより低山か、高目の褶曲した丘陵地が連続している。
地図を眺めても、縦横に道路が走り交差していて、その間に広がる多くのゴルフ場などが点在し、その数は日本一を誇るともいう。
開発される前の大昔の千葉・房総は、時期ともなれば重畳たる緑の絨毯が広がっていたに相違ない。

」や「」に形容される言葉に、「千も万もない」、「あれやこれやと言うには及ばない」、「千も万も論は無用」という意味でもあろう。

房総」を形容すると、濃緑の葉の広がり繁る様はまさに「千・万の如し」なのである。 
この様な地域には自然発生的に「千葉」という語が生じたと考えれば、無理はないように思えるが・・?。 
しかし、「千葉」の語源を詮索しても、これは余り意味の成さないが、奈良期以前の書物や歌本にも「多くの葉が繁るところ」の意味合いで、「千葉」という形容言葉は使われていたようである。 
又、平安時代中期に作られた総合辞書で地名などが記載してある有名な「和名抄」(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょうともいい、平安時代中期に作られた辞書)にも、「下総の国千葉郡千葉郷」と既に記されているという。

そして、この地域に既に在った「千葉」の名称によって、中世より在来した「千葉氏」が起こったとされるのは妥当であろう。



千葉氏と上総氏

千葉氏といえば、やはり平安末期の頼朝挙兵時に照準を合わせねばならんであろう。
一般に、「千葉氏」は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた大豪族といわれている。 
平安末期、千葉氏は下総国(千葉県北部)の在庁官人(国府に勤める役人)で、千葉の庄などを治める一領主にすぎなかった。 
その後、源頼朝に挙兵から一貫して源氏に味方・協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から西方の地まで、全国各地に領地を与えられることになる。



平安末期、奢れる平氏も清盛亡き後、さすがに箍(たが)が緩んできた。
期に乗じて、都(京)付近では以仁王(もちひとおう:後白河天皇の第三皇子)が摂津源氏である源頼政の勧めに応じて、平家追討を発して挙兵するなど、争乱、内乱が始まり、以仁王への同調者らによって各地に雌伏する源氏へと伝達されていった。

そのうちの一人である「源頼朝」も都より伝達され、源氏累代の家人とされる相模、伊豆、武蔵の武士団への呼びかけを始める。
そして治承4年(1180年)、伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝がついに挙兵、伊豆在住・監視役の山木兼隆を襲撃して殺害する。
その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦するが、数にまさる平家の大群に手痛い敗北を喫し、ひとまず房総半島に逃れるべく、三浦半島から海を渡るのである。(石橋山の戦い)。

それ以前に、つまり挙兵前から頼朝は房総の上総広常、下総の千葉常胤(ちば つねたね)らとも気脈を通じ合っていて、特に常胤の子・胤頼は挙兵の少し前に相模の三浦義澄(三浦地方の豪族)とともに頼朝の配所で三者の密談もされていたという。
こうして房総に渡った頼朝は、敗者でありながら源氏の棟梁として房総三国を参下に治めることになる。

日本史上の大きな変わり目の中、千葉氏の房総での果たした役割は非常に大きいものがあり、頼朝が鎌倉を幕府拠点として選んだのも千葉常胤の献策だったとも言われている。



平安末期当時の房総は、平氏の分流である「上総氏」と「千葉氏」が勢力を競っていたが、上総氏の方が領地、勢力とも圧倒的に優位にあったとされる。
旗揚げに際して頼朝がもっとも頼りとしたのは、房総の地では両者の上総広常と千葉常胤であったことは云うまでもない。 
この時、常胤は頼朝からの使者・安達藤九郎盛長を迎えたときには感激し、一族を挙げて味方すると宣言したという。
併せて、頼朝に相模の鎌倉を本拠にすることを進言し、頼朝支持の態度を明確に示したのであった。

一方、頼朝からの使者に対する広常の態度はすっきりしないものであったという。
千葉常胤は下総地方の平家方の掃討作戦を展開していて、下総国府で頼朝が再旗揚げした時は即刻参会したが、その時の総勢は僅か三百余騎であった。 
だが、後に、上総広常が頼朝に参向したときに率いていた数は二万余騎であったという。 
この数字を比較しても千葉氏と上総氏の勢力の差は歴然としていた。
しかし、常胤に対する頼朝の信頼は広常より勝っており、後の千葉氏の発展は、このときの常胤の真意、行動が発端になったものといってよい。 
その後、千葉介常胤は頼朝から「師父」とも呼ばれるほどの深い信頼を得て、重臣として参戦してゆくことになる。

一方の房総平氏の宗家にあたる上総広常も木曾義仲や平家との戦いに活躍しつつ、房総に広大な勢力を持ち拡大してゆくことになる。 
だが、上総広常は拡大した勢力を盾に、その振る舞いに傲慢な所が多く、遂には頼朝の不信をかい恐れさせたともいう。 
やがて広常は、謀叛の疑いで頼朝に誅殺されることになる。

これによって千葉氏(千葉介と名乗る)は、上総の一族も支配下に治め事実上、房総一の惣領となった。
その後も、千葉常胤は一族を率いて頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に尽力する。 
その功績を認められて千葉氏は、陸奥や西国、下総など数ヶ国の所領を与えられ、「千葉六党」といわれるほどの大勢力となった。



千葉氏は、平安時代から続く日本屈指の古族で歴史も非常に長いため、そこから分かれた一族たちも膨大な数がある。
彼らは下総に残って千葉介(千葉宗家)に従った一族、下総を離れて別天地で栄えた一族、宗家と敵対した一族など、様々な経緯をたどって時代を乗り越えていった。

しかし、お膝元の下総の千葉宗家は、室町期において鎌倉公方と古河公方の対立や安房の里見氏の勃興もあり、又、千葉氏自体の内紛などが起因して弱体化が進み、千葉氏十四代胤直の時に宗家は滅亡することになる。

次回も引続き「千葉」




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2010年8月1日日曜日

日本周遊紀行(127)袖ヶ浦 「アクアライン」

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 日本周遊紀行(127)袖ヶ浦 「アクアライン」 



木更津より海上部の「アクアライン」



「東京湾・アクアライン」・・、

袖ヶ浦蔵波台に、小生の実弟家族が住んでいる。
北国を遠路遥々(はるばる)巡ってきた、その様子を一言、二言話しをしてみよう、不在ならそのまま帰路をとろうと尋ねてみた。 
幸い奥さん(義妹)が在宅であったので事の様子を話し、ついでに四方山話(よもやまばなし)をしながら館山で求めた手土産を納めた。 
そして、心配りの渋茶と添え物を戴き、身も心も仄々(ほのぼの)として宅を辞した。

弟は学卒以来、土木建設の会社に一途に身を置き、千葉湾岸工業地域の造成開発、建設に勤しんでいる。 特に昨今開通した東京湾横断道路、愛称「東京湾アクアライン」の建設に携わり、その完成を見た時、一種安堵感と至福感を味わったと、しみじみ話していた。

これから、この東京湾アクアラインを渡ることになる。 



東京湾上に道路が開通した・・!、

1997年12月、東京湾に自動車専用道路が開通した。 
その名を愛称では「東京湾アクアライン」といい、正式名称は「東京湾横断道路」という。、
ここ木更津から東京湾を横断して神奈川県川崎市へ至っている自動車専用高速道路である。 木更津沖合い4.4km に造られた人工島「海ほたる」を接点として、海上ルート約5km と海底ルート約10km、つまりトンネルと橋梁を15kmで結ばれている。

世界で最も長い水底トンネルは本州と北海道を結ぶ青函トンネルで、長さは53.8kmとアクアトンネルの5倍以上の長さがある。 
しかし、この青函トンネルは鉄道トンネルであり、自動車が通行できる最長の水底トンネルと限定すれば、アクアトンネルが最長となるという。

文字どおり最先端のテクノロジーを駆使した20世紀最後のビッグプロジェクトであり、世界の様々な分野から注目を集めたという。 
海上ルートを支える橋梁の上・下部は、あらかじめ陸上で製作した構造体を海上輸送し、クレーン船や台船を使って設置。
トンネル部は外径14.14m、重量3,200tにも及ぶ世界最大級のシールドマシンが掘り進んだ。
また、海中に設置した汚濁防止膜や杭打ち時の防音対策などは、環境保全にも細心の配慮を施した工事として、世界的にも大きな評価を得ているという。

総工費は約1兆4,000億円、この高額建設費のため通行料が非常に高く、当初普通車で4000円以上であたが、現在は3000円である。実際、想定していたほどの利用車が無いのが現状で、年間の欠損は数百億円とか、昨今の道路公団の民営化で果たしてアクアラインは・・??。



木更津からは海の道を、川崎からは長いトンネルを抜けると、そこは東京湾のど真ん中、周辺の景色を360度一望できる「海ほたる」があり、海上に浮かぶ巨大なパーキングエリアである。 

1階から3階までは駐車場で約480台収容でき、4~5階には食堂、レストランや東京や神奈川のお土産、房総の名産・海産物、東京湾アクアライングッズなどを取りそろえたショッピング施設がある。 情報コーナーには、アクアラインの概要や建設に使用した各種工作物、巨大シールドマシンの断片などが展示してある。

ここの産かどうかは定かでないが、特大な貝付きの生牡蠣(なまがき)を買い、手土産にして袖ヶ浦の実弟宅で食したのが思い起こされる。 
「海ほたる」の5階・展望ゾーンから見る千葉市街から大東京のビル群は、小雨の中にやや霞んで見えていた。

次回は、「葉」




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01. 15.

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