日本周遊紀行(80)苫小牧 「制覇・駒大苫小牧高」
2004年夏、初めて東北・白川の関、北海道・津軽海峡を越えて全国制覇を果たした「駒大苫小牧高校」
厚真川を渡ると「苫小牧市」にはいる。
苫小牧は北日本最大の港湾都市である。 北海道の空の玄関「新千歳空港」に隣接し、道都「札幌」の表側の玄関口でもあり、首都圏方面へ長距離フェリーも運航している。
港湾での貨物、製造品の扱い額では人口10倍以上を有する札幌市を上回り、道内はおろか北日本有数の総合工業地として発展している。
こんな「苫小牧」に今年な夏(2004年)、とんでもない事が起きた。
高校野球ファンの小生にとっても、しびれるような真夏の一日であった。
ところで、高校野球の優勝高は春夏を通じて北日本のチームは一度もない、つまり「白河の関」を未だ越えてないと、よく言われた。
因みにこれまでの北日本のチームの最高成績を記してみよう。
昭和44年、51回夏大会決勝戦、松山商(愛媛)0-0、4-2三沢高校(青森)延長18回引き分け再試合。
『手に汗握る好試合で、三沢には勝つチャンスは十分にあったが、延長18回決着がつかず、翌日再試合となった、結果は野球王国、四国勢の粘りに今一歩及ばなかった 』
昭和46年53回夏大会決勝戦、桐蔭学園(神奈川)1-0磐城(福島)
『何といっても磐城は我が母校である。 小さな大投手と言われた磐城の田村とアンダースローの大塚の壮絶な投げあい、1-0で迎えた9回裏二アウト三塁、次の打者は無念ながら一塁フライで終わりゲームセット・・、』
平成元年71回夏大会決勝戦、帝京(東東京)2-0 仙台育英、 平成13年、73回センバツ決勝戦、常総学院(茨城)7-6仙台育英・・、といずれも決勝戦で敗れている。
2004年、第86回全国高校野球選手権大会は、8月22日(第16日)、決勝戦を迎え、駒大苫小牧(南北海道)対済美(愛媛)の決勝戦が行はれた。
互いに序盤から点を取り合い、逆転に次ぐ逆転の末、駒大苫小牧が13―10で振り切り、済美を破った。
北海道勢としては勿論、北日本勢としては初の全国制覇を果たしたのだ。
駒大苫小牧は序盤に5点を失いながらも、4回に一気に逆転した。
6回表に再逆転を許したが、その裏2点本塁打を放ち、すかさず同点。7回連打で3点差。8回にも1点を加え、毎回の20安打で強打の済美に打ち勝った。 済美は3点を追う9回、二塁打から2死一、三塁と攻め立て、合計19安打の猛攻を見せたが、選抜大会に続く初出場初優勝はならなかった。駒大苫小牧の今大会通算打率4割4分8厘は、第83回大会の日大三を上回る大会最高打率で華を添えた。
TV観戦氏の小生も、あまりの激しい試合に手に汗にぎり、息を呑んだ。
最終回の2走者でも尚不安がよぎる、西日本勢の粘りの野球には定評があり、いつもホゾをかみ悔しい想いをしてきた。 最後の打者を打ち取った瞬間は、一瞬呆然としたが、すぐ立ち上がり飛び跳ねてバンザイした。 目にはウッスラと泪がにじんだ。
「北海道のチームでもやれる」、攻守に輝いた駒大苫小牧が高校野球の歴史を変えた瞬間だった。
決勝戦(8月22日)
済 美 230013010=10
駒大苫小牧 10230331X=13
エピソードを一つ・・、
大会を制した駒大苫小牧の地元・苫小牧市の桜井忠市長にあてに、福島県白河市の成井英夫市長が23日、祝福の手紙を出した。『「駒大苫小牧高校」・・、全国優勝おめでとうございます・・!!、優勝旗の「白河の関越え」は北国チームの悲願でありました。 初めて実現させた駒大苫小牧高の活躍を讃え、そして白河市の知名度アップへの「貢献」にも有難く御礼を述べます。 ただ、優勝旗が東北を素通りし、津軽海峡まで越えてしまったことに一抹の寂しさもあります。 市職員達は「これで『白河越え』が死語になるかも・・、」という心配もあるようです』・・と。
市長の現実的配慮に敬意を表したい。
驚いたことに次年・平成17年の第87回大会においても駒大苫小牧高は「連続優勝」を果たしてしまったのである。 決勝戦の結果は、駒大苫小牧(南北海道)が5―3で京都外大西(京都)を破り、大会史上6校目、1947年、48年の小倉(小倉中、福岡)以来57年ぶりの大会2連覇を果たした。
決勝戦(8月20日)
京都外大西 100000200=3
駒大苫小牧 10001120X=5
駒大苫小牧は5試合で2失策の堅い守備と勝負強い打撃、そしてタイプの違う3人の投手起用で熱戦を勝ち抜いた。 特に2年生・田中は150キロを記録する速球とスライダー、フォークなどが武器は、チーム最多の25回を投げきった。
弱劣と言われた北海道のチーム、「北国の高校は夏の大会では勝てない」というジンクスを完璧に払拭し、揺るぎないものとした。
連続で全国制覇したことは驚嘆に値するが、これらの連続優勝は平成18年の全国大会を顧みるに及んで、それは序章にすぎなかったのか・・?。
全国高校野球選手権大会で2連覇した駒大苫小牧高がその後、野球部長が部員に暴力をふるっていた問題で日本高校野球連盟は当該部長に対しては有期の謹慎処分を、野球部については優勝を取り消しかという世間の注目を浴びたが結局、警告処分相当として同校の優勝は取り消すことなく有効であると決定している、当然のことである。
2006年の選抜大会では夏春連覇が期待されたが、更に、3年生の飲酒事件が起こり、出場が決まっていながら辞退するという事態も起きている。 しかし、これらの問題にも一向にメゲズ、2006年の全国大会には堂々と甲子園出場を果たしたいる。
そして、ヤンヌルカナ・・!!
再び再び、3年連続、決勝戦に勝ち進んできたのである。
次回も「駒大苫小牧高」
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「スキー履歴」
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2010年4月3日土曜日
2010年4月2日金曜日
日本周遊紀行(79)日高地方 「新冠、門別、鵡川」
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写真:新冠の道の駅:ハイセイコーの馬像
日本周遊紀行(79)日高地方 「新冠、門別、鵡川」
二十間道路の進入地点である道道71を横断すると、間もなく「新冠」(にいかっぷ)に入る。 新冠もサラブレット生産地としてよく耳にする町名である。
新冠川に沿って北上すると「明和牧場」がある、御存知「ハイセイコー」の産地である。
『シンザンを越える強い馬は、近い将来おそらく出るであろう、しかしハイセイコーの人気を上回る馬はおそらく出ることはないだろう』とまで言われた馬である。
昭和48年、弥生賞が行われる中山競馬場には12万3千人という史上空前の超満員となっていた。 地方で連勝を重ね、初の中央進出であったためである。 その後も10戦10勝、ハイセイコーの不敗神話は頂点に達した。
その後ダービーでも「あの怪物ハイセイコーが負けるわけがない」と、ハイセイコーは単勝支持率66.7%という圧倒的な一番人気で、ダービー史上最高でおそらくこれから先も破られることがないだろうと思われる支持率である。
しかしその「ダービー」でハイセイコーは3着と敗れたのだった。 勝ったのはハイセイコーの終生のライバルになるタケホープであった。
その後の成績はあまりかんばしくなく、人気が実力を潰した感じであったという。 戦績は地方で6戦6勝、中央で16戦7勝。
ハイセイコーを送る歌として騎手の増沢末夫が歌う「さらばハイセイコー」が作られ大ヒット曲となったのはご承知である。
国道235沿いに「道の駅・サラブレッドロード新冠」がある。名前の通り各名馬の像が並んでいる、道路際には一際大きくハイセイコーの馬像が建っていた。
馬をやらない小生が勝手に選んだ新冠産名馬:ハイセイコー、スピードシンボリ、ナリタブライアン、トウカイテイオー、タケシバオー
「門別町」には日高地方唯一つの公営競馬場が在る、門別競馬場である。
克って北海道競馬のトレーニングセンターとして使用されていたコースを、改装して造った日本一新しい競馬場である。 コースは一周1,600mと中央競馬場にもひけを取らないが、スタンドは収容人数500人という小さなものであった。
北海道主催の公営競馬場は、現在は門別の他札幌、旭川の三箇所であるとか。
序ながら北海道特有の「ばんえい競馬」について・・、
馬がそりを曳きながら力と速さを争う競馬の競走で、一般には「ばんえい競馬」と呼ばれ、乗馬に対し輓馬(ひきうま)で曳くことから「輓曳」(ばんえい)と表記される。世界で唯一、北海道でのみ行われている競馬である。
一般の平地競馬で使われているサラブレッド系種などの「軽種馬」は使わず、古くから農耕馬として利用されてきた体重約800~1200 kg前後の「ばんえい馬」(重種馬)が、騎手と重量物を積んだ鉄製のそりを曳き、2箇所の障害が設置された直線200 mのコースを力と持久力を競う。
荷物を運びきる事を重視しているので、ゴールは通常の競馬と違って「鼻の先」ではなく、最後尾が通過した時点で判断するのが特徴である。 速さだけだなく、パワーと持久力がもとめられ、一気に攻めたり、いったん止まって力を貯めたりと、坂の前で見せる旗手同士の駆け引きも勝敗のポイントになるという。
ばんえい専用の競馬場としては北見・岩見沢・帯広と、平地競走(北海道競馬)と併催する旭川競馬場の四箇所で持ち回りで開催していたが、近年のレジャーの多様化などで売り上げが伸び悩み、平成10年頃には赤字に転落する。 厳しい運営状況から旭川市・北見市・岩見沢市が撤退を表明、残る帯広市も単独での開催継続は負担が大きすぎるとして難色を示し、ばんえい競馬は60年の歴史に幕を閉じ、廃止が濃厚と見られていた。
しかし、ファンらの嘆願やソフトバンク子会社の支援を申し出たことから、以降はは帯広市単独での開催継続が決まったという。
輓曳競馬の由来は北海道開拓期における余興や催事として行われたのが始まりで、木材を運び出していた馬の力比べに起源を持つという。
当初は2頭の馬に丸太を結びつけ、互いに引っ張りあっていたというが、明治末期頃から荷物を載せたソリを引かせる現行の競走方式が登場した。
最古の輓馬競走の競技記録として相撲好きな北海道らしく、ソリに土俵を乗せて競走が行われたことなども記載されているという。
馬をやらない小生が勝手に選んだ門別産名馬=スペシャルウイーク、シンボリルドルフ。
国道235は鵡川町(むかわちょう)に入った。
今まで「馬」に関する記述が多かったので、ここらで話題を変えよう。
鵡川町のほぼ中央に日高山脈を源流とする比較的大きく道内一の清流・「鵡川」が蛇行を繰り返しながら穏やかに太平洋に注いでいる。
この川に秋になると大量の「シシャモ」が遡上すると言い、鵡川はシシャモの街で「町魚」にもなっている。
シシャモは栄養豊富な魚でビタミンA、B2、D、Eが含まれている、勿論、カルシウムの所要量は高く、1日の必要量が7~8匹で摂取できるという。 最近では『骨粗しょう症』や『老化防止』などの、手軽な食品として重宝がられている。
シシャモは和語で「柳葉魚」と書く、 ところが、全国で市販されている「子持ちししゃも」の90%は柳葉魚ではないという、カラフトシシャモといって価格が安く、外観や食感が柳葉魚に似ているが本物の柳葉魚の風味には到底かなわないそうだ。 カラフトシシャモの鱗は、小さくほとんど無いように見えるが、本物の柳葉魚の鱗は、大きくはっきりとしている。 スーパーや居酒屋でチェックしてみるとおもしろいかも。
鵡川町の柳葉魚で、一杯飲みながら本物の柳葉魚の風味を味わいたいものである。
時期になれば、地元の鮮魚店で全国宅配も有るという、純品は季節限定である。
国道235号と鵡川・鵡川橋のたもとに、その名も「シシャモパーク」と云う公園が在る。
更に、「馬」の話であります・・、
厚真町と苫小牧に挟まれた北側に「安平町」(あびらちょう:2006年3月、早来町と追分町が合併して誕生)というのがある、この町でも一頭の名馬を輩出している、「ディープ・インパクト」という馬である。
ところで「ディープ・インパクト」とは、数年前の上映された映画(1998年、アメリカ)の題名で、地球に巨大彗星が直撃することが明らかになり彗星を爆破しようとするが失敗、 彗星の一部がカリブ海を直撃してアメリカ全土を超巨大津波が襲う。 彗星本体の直撃まで後数時間、人々はどう行動するのか、というSFパニック映画である。若年期よりSF映画の好きな小生は、早速は拝見しているが。
そして更に米航空宇宙局(NASA)の探査機「ディープ・インパクト」が2005年1月、ケープカナベラル空軍基地から打ち上げられた。 こちらも同じく彗星で、この星に衝撃弾をぶつけ、彗星の内部構造を解明しようという大胆なプロジェクトである。「ディープ・インパクト」とは以上のことで馴染みのある名称だった。
しかし、3度目の「ディープ・インパクト」では、馬をやらない小生にとってもディープのインパクトを与えてくれた。 そう・・、引き続き馬の話なのである。
「凱旋門賞」というフランスで行はれた世界最高峰のレースといわれ、世界の最強馬決定戦の意味合いで「ディープ・インパクト」が出場したのであった。 本年(2006年)のその日、日本の放送史上初めて地上波での海外競走馬の生中継が行われたことでも話題となったが、しかし、ディープインパクトはレールリンク、ブライド(ともにフランス)の強襲に合い3着に終わった。
しかも、その後、薬物使用と判定され失格処分になったが、ゴール前の得意の直線コースで、「らしさ」の切り裂くような走りが中央で揉まれて出来なかったのである。
「ディープインパクト」は北海道早来町(現在の安平町)の「ノーザンファーム」で生まれている。その後、栗東トレーニングセンター(滋賀県栗東市・琵琶湖近辺)池江厩舎に所属する。 2歳でデビューするとクラシック(桜花賞、皐月賞、オークス、日本ダービー、菊花賞)へ順調に駒を進め、2005年に史上6頭目となるクラシック三冠馬(皐月賞 、東京優駿:日本ダービー、菊花賞)に輝いている。
シンボリルドルフ以来、史上2頭目となる無敗の三冠馬として2005年には社会現象的に注目される存在となったが、この年の締めくくりを飾る「有馬記念」ではハーツクライに破れ生涯初の黒星を喫した。
なお主戦騎手である武豊氏は、皐月賞における同馬の走りを「飛んでいる」ような走りと表現しており、以来ディープインパクトの走りは「飛ぶ」と表現されるようになる。そして有馬記念の敗戦の弁では「今日は飛ばなかった」と評している。
凱旋門賞の後、圧倒的戦績とファンの惜しむ声を振り切って年内限りで現役を引退することを表明した。 フランスからの帰国後はジャパンカップ、有馬記念を危なげなく制しシンボリルドルフ、テイエムオペラオー、アドマイヤドンに続く四頭目の七冠馬(クラシック三冠を含めG1を7勝)に輝き、2006年12月24日の有馬記念の圧倒的勝利を最後に引退、同日の最終レース終了後にそのまま引退式が行われた。
既に総額51億円の種牡馬シンジケートが組まれており、今後は、同じく北海道安平町の社台スタリオンステーションで種牡馬入りするという。戦績は14戦・12勝(勝率8割6分)1敗1失格。 「ディープインパクト」について武豊は、「走りたいと思う気持ちを強く持ちすぎていて、乗るのが難しい馬」と語っている。
普段は人懐っこくておとなしく、厩舎では「お坊ちゃま」のニックネームで呼ばれていた。 厩務員の市川氏は「素直な性格」は「天然」だとも言って、非常に利口な馬で普通の馬が10回で覚えることをディープインパクトは2、3回で覚えると調教助手は語っている。
菊花賞で無敗の三冠馬となったディープインパクトだが、同じ無敗の三冠馬のシンボリルドルフ(17戦・14勝:勝率8割2分、3敗:2・3・6着)との比較という点においては、同馬の主戦騎手だった岡部氏が「ルドルフのほうが強い」と答えている。 しかし、自ら「ディープの追っかけ」と言うほどディープインパクトのファンでもあった。
柴田政人騎手は「ルドルフを超えたというよりも、すごい馬が出てきたという感じで、ポテンシャル(潜在能力)は他の馬とはまるで異なる」と評している。
次回は苫小牧・「全国制覇・駒大苫小牧高」
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写真:新冠の道の駅:ハイセイコーの馬像
日本周遊紀行(79)日高地方 「新冠、門別、鵡川」
二十間道路の進入地点である道道71を横断すると、間もなく「新冠」(にいかっぷ)に入る。 新冠もサラブレット生産地としてよく耳にする町名である。
新冠川に沿って北上すると「明和牧場」がある、御存知「ハイセイコー」の産地である。
『シンザンを越える強い馬は、近い将来おそらく出るであろう、しかしハイセイコーの人気を上回る馬はおそらく出ることはないだろう』とまで言われた馬である。
昭和48年、弥生賞が行われる中山競馬場には12万3千人という史上空前の超満員となっていた。 地方で連勝を重ね、初の中央進出であったためである。 その後も10戦10勝、ハイセイコーの不敗神話は頂点に達した。
その後ダービーでも「あの怪物ハイセイコーが負けるわけがない」と、ハイセイコーは単勝支持率66.7%という圧倒的な一番人気で、ダービー史上最高でおそらくこれから先も破られることがないだろうと思われる支持率である。
しかしその「ダービー」でハイセイコーは3着と敗れたのだった。 勝ったのはハイセイコーの終生のライバルになるタケホープであった。
その後の成績はあまりかんばしくなく、人気が実力を潰した感じであったという。 戦績は地方で6戦6勝、中央で16戦7勝。
ハイセイコーを送る歌として騎手の増沢末夫が歌う「さらばハイセイコー」が作られ大ヒット曲となったのはご承知である。
国道235沿いに「道の駅・サラブレッドロード新冠」がある。名前の通り各名馬の像が並んでいる、道路際には一際大きくハイセイコーの馬像が建っていた。
馬をやらない小生が勝手に選んだ新冠産名馬:ハイセイコー、スピードシンボリ、ナリタブライアン、トウカイテイオー、タケシバオー
「門別町」には日高地方唯一つの公営競馬場が在る、門別競馬場である。
克って北海道競馬のトレーニングセンターとして使用されていたコースを、改装して造った日本一新しい競馬場である。 コースは一周1,600mと中央競馬場にもひけを取らないが、スタンドは収容人数500人という小さなものであった。
北海道主催の公営競馬場は、現在は門別の他札幌、旭川の三箇所であるとか。
序ながら北海道特有の「ばんえい競馬」について・・、
馬がそりを曳きながら力と速さを争う競馬の競走で、一般には「ばんえい競馬」と呼ばれ、乗馬に対し輓馬(ひきうま)で曳くことから「輓曳」(ばんえい)と表記される。世界で唯一、北海道でのみ行われている競馬である。
一般の平地競馬で使われているサラブレッド系種などの「軽種馬」は使わず、古くから農耕馬として利用されてきた体重約800~1200 kg前後の「ばんえい馬」(重種馬)が、騎手と重量物を積んだ鉄製のそりを曳き、2箇所の障害が設置された直線200 mのコースを力と持久力を競う。
荷物を運びきる事を重視しているので、ゴールは通常の競馬と違って「鼻の先」ではなく、最後尾が通過した時点で判断するのが特徴である。 速さだけだなく、パワーと持久力がもとめられ、一気に攻めたり、いったん止まって力を貯めたりと、坂の前で見せる旗手同士の駆け引きも勝敗のポイントになるという。
ばんえい専用の競馬場としては北見・岩見沢・帯広と、平地競走(北海道競馬)と併催する旭川競馬場の四箇所で持ち回りで開催していたが、近年のレジャーの多様化などで売り上げが伸び悩み、平成10年頃には赤字に転落する。 厳しい運営状況から旭川市・北見市・岩見沢市が撤退を表明、残る帯広市も単独での開催継続は負担が大きすぎるとして難色を示し、ばんえい競馬は60年の歴史に幕を閉じ、廃止が濃厚と見られていた。
しかし、ファンらの嘆願やソフトバンク子会社の支援を申し出たことから、以降はは帯広市単独での開催継続が決まったという。
輓曳競馬の由来は北海道開拓期における余興や催事として行われたのが始まりで、木材を運び出していた馬の力比べに起源を持つという。
当初は2頭の馬に丸太を結びつけ、互いに引っ張りあっていたというが、明治末期頃から荷物を載せたソリを引かせる現行の競走方式が登場した。
最古の輓馬競走の競技記録として相撲好きな北海道らしく、ソリに土俵を乗せて競走が行われたことなども記載されているという。
馬をやらない小生が勝手に選んだ門別産名馬=スペシャルウイーク、シンボリルドルフ。
国道235は鵡川町(むかわちょう)に入った。
今まで「馬」に関する記述が多かったので、ここらで話題を変えよう。
鵡川町のほぼ中央に日高山脈を源流とする比較的大きく道内一の清流・「鵡川」が蛇行を繰り返しながら穏やかに太平洋に注いでいる。
この川に秋になると大量の「シシャモ」が遡上すると言い、鵡川はシシャモの街で「町魚」にもなっている。
シシャモは栄養豊富な魚でビタミンA、B2、D、Eが含まれている、勿論、カルシウムの所要量は高く、1日の必要量が7~8匹で摂取できるという。 最近では『骨粗しょう症』や『老化防止』などの、手軽な食品として重宝がられている。
シシャモは和語で「柳葉魚」と書く、 ところが、全国で市販されている「子持ちししゃも」の90%は柳葉魚ではないという、カラフトシシャモといって価格が安く、外観や食感が柳葉魚に似ているが本物の柳葉魚の風味には到底かなわないそうだ。 カラフトシシャモの鱗は、小さくほとんど無いように見えるが、本物の柳葉魚の鱗は、大きくはっきりとしている。 スーパーや居酒屋でチェックしてみるとおもしろいかも。
鵡川町の柳葉魚で、一杯飲みながら本物の柳葉魚の風味を味わいたいものである。
時期になれば、地元の鮮魚店で全国宅配も有るという、純品は季節限定である。
国道235号と鵡川・鵡川橋のたもとに、その名も「シシャモパーク」と云う公園が在る。
更に、「馬」の話であります・・、
厚真町と苫小牧に挟まれた北側に「安平町」(あびらちょう:2006年3月、早来町と追分町が合併して誕生)というのがある、この町でも一頭の名馬を輩出している、「ディープ・インパクト」という馬である。
ところで「ディープ・インパクト」とは、数年前の上映された映画(1998年、アメリカ)の題名で、地球に巨大彗星が直撃することが明らかになり彗星を爆破しようとするが失敗、 彗星の一部がカリブ海を直撃してアメリカ全土を超巨大津波が襲う。 彗星本体の直撃まで後数時間、人々はどう行動するのか、というSFパニック映画である。若年期よりSF映画の好きな小生は、早速は拝見しているが。
そして更に米航空宇宙局(NASA)の探査機「ディープ・インパクト」が2005年1月、ケープカナベラル空軍基地から打ち上げられた。 こちらも同じく彗星で、この星に衝撃弾をぶつけ、彗星の内部構造を解明しようという大胆なプロジェクトである。「ディープ・インパクト」とは以上のことで馴染みのある名称だった。
しかし、3度目の「ディープ・インパクト」では、馬をやらない小生にとってもディープのインパクトを与えてくれた。 そう・・、引き続き馬の話なのである。
「凱旋門賞」というフランスで行はれた世界最高峰のレースといわれ、世界の最強馬決定戦の意味合いで「ディープ・インパクト」が出場したのであった。 本年(2006年)のその日、日本の放送史上初めて地上波での海外競走馬の生中継が行われたことでも話題となったが、しかし、ディープインパクトはレールリンク、ブライド(ともにフランス)の強襲に合い3着に終わった。
しかも、その後、薬物使用と判定され失格処分になったが、ゴール前の得意の直線コースで、「らしさ」の切り裂くような走りが中央で揉まれて出来なかったのである。
「ディープインパクト」は北海道早来町(現在の安平町)の「ノーザンファーム」で生まれている。その後、栗東トレーニングセンター(滋賀県栗東市・琵琶湖近辺)池江厩舎に所属する。 2歳でデビューするとクラシック(桜花賞、皐月賞、オークス、日本ダービー、菊花賞)へ順調に駒を進め、2005年に史上6頭目となるクラシック三冠馬(皐月賞 、東京優駿:日本ダービー、菊花賞)に輝いている。
シンボリルドルフ以来、史上2頭目となる無敗の三冠馬として2005年には社会現象的に注目される存在となったが、この年の締めくくりを飾る「有馬記念」ではハーツクライに破れ生涯初の黒星を喫した。
なお主戦騎手である武豊氏は、皐月賞における同馬の走りを「飛んでいる」ような走りと表現しており、以来ディープインパクトの走りは「飛ぶ」と表現されるようになる。そして有馬記念の敗戦の弁では「今日は飛ばなかった」と評している。
凱旋門賞の後、圧倒的戦績とファンの惜しむ声を振り切って年内限りで現役を引退することを表明した。 フランスからの帰国後はジャパンカップ、有馬記念を危なげなく制しシンボリルドルフ、テイエムオペラオー、アドマイヤドンに続く四頭目の七冠馬(クラシック三冠を含めG1を7勝)に輝き、2006年12月24日の有馬記念の圧倒的勝利を最後に引退、同日の最終レース終了後にそのまま引退式が行われた。
既に総額51億円の種牡馬シンジケートが組まれており、今後は、同じく北海道安平町の社台スタリオンステーションで種牡馬入りするという。戦績は14戦・12勝(勝率8割6分)1敗1失格。 「ディープインパクト」について武豊は、「走りたいと思う気持ちを強く持ちすぎていて、乗るのが難しい馬」と語っている。
普段は人懐っこくておとなしく、厩舎では「お坊ちゃま」のニックネームで呼ばれていた。 厩務員の市川氏は「素直な性格」は「天然」だとも言って、非常に利口な馬で普通の馬が10回で覚えることをディープインパクトは2、3回で覚えると調教助手は語っている。
菊花賞で無敗の三冠馬となったディープインパクトだが、同じ無敗の三冠馬のシンボリルドルフ(17戦・14勝:勝率8割2分、3敗:2・3・6着)との比較という点においては、同馬の主戦騎手だった岡部氏が「ルドルフのほうが強い」と答えている。 しかし、自ら「ディープの追っかけ」と言うほどディープインパクトのファンでもあった。
柴田政人騎手は「ルドルフを超えたというよりも、すごい馬が出てきたという感じで、ポテンシャル(潜在能力)は他の馬とはまるで異なる」と評している。
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【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観
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「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》
「スキー履歴」
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2010年3月31日水曜日
日本周遊紀行(77)日高地方 「静内とアイヌの戦い」
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日本周遊紀行(77)日高地方 「静内とアイヌの戦い」
アイヌと和人の最後の戦い・・、そして「アイヌ」は・・?、
国道235は沿岸地を北西に進む、日高本線・「日高三石・ひだかみついし」駅を右にみて、次の「春立・はるだち」駅付近からはすでに静内町である。
静内町は周辺の町と同様大部分は日高山地の領域に属するが、町並みは太平洋岸から内陸へ静内川を中心に発展しているようである。
日高支庁管内のほぼ中央に位置し夏は涼しく、冬は雪が少ないため道内では最も気候の温和な地域と言われる。 その気候風土と恵まれた自然環境から「北海道の伊豆」とも称されている。
現在、静内も同様に近隣の三石町、新冠町と合併協議が進んでいるらしい。
住み良い町「静内」は、やはり古代から住人は在ったようで、既に約9000年も前から石器や土器を使った人達が住んでいたことが遺跡の調査によって確認されている。 その後も紀元前後の縄文時代から、古墳(飛鳥)、奈良、平安時代へと移りかわり鎌倉、室町時代にはアイヌ文化になっていたといわれる。
ただ、北海道には時代の経過とともに独特の文化が栄えたことで知られるが、同一民族が同一文化を継承したとは一概にいえないともいう。 それはアイヌ民族は記録を持たず、文化の変遷にともなう民族の存亡や移動の記録、伝承がまったく観られないからだと・・。
そのアイヌ達は樺太(サハリン)、千島、北海道、そして東北北部に暮らしていたことが確認されている。
この「静内」も、昔からアイヌコタンが沢山あり豊かな大自然の中で狩猟、漁労、採取を中心に独自の生活を営み、様々な生活の知恵と風俗、習慣、言語、信仰を受けつぎ、自由で豊かな生活が営まれてきた地域である。
アイヌとは、アイヌ語で「人間」という意味である。
江戸時代も後期の頃、静内(シベチャリ)川で砂金が採れるようになり、これを目的に内地から和人が住み着くようになり、和人の移住が増えるにつれて利権等が絡むようになり、アイヌ人との衝突も起こり易くなった。
こんな時期に道内でも最大と言われるアイヌ民族の存亡をかけた「シャクシャインの戦い」が勃発するのである。
『シャクシャインの戦い』
1669年(寛文9)頃、日高から釧路に及ぶ地域集団の総大将である「シャクシャイン」を中心に松前藩の収奪に抵抗しておきた近世最大のアイヌ民族の反乱であり、静内町(しぶちゃり)を拠点として増毛から白糖にいたるアイヌがいっせいに蜂起した事件である。
松前藩はアイヌに対する交易の独占化をはかり、アイヌ自らの自由交易を禁止したのと合わせて、和人による不正な相場による取引が後を断たなかった。 藩は交換レートは今までの数倍にも引き上げた。当然、アイヌ人達は松前藩や和人商人に対する不満が高まった。 アイヌは「シャクシャイン」を中心とし、蝦夷地・樺太・千島に居住するアイヌウタリ(同胞)に決起を促し、アイヌの国に入り込んできて権益を貪る和人達を殺し食糧を確保して松前へ攻め入り、和人を撃退してアイヌの国を取り戻そうと呼びかけた。 呼びかけに応じ、石狩・宗谷・利尻などの一部地域を除く殆ど全道に及ぶアイヌがいっせいに蜂起し、殺害された和人の数は太平洋岸で120人、日本海岸では240人に達したといわれる。
アイヌの攻勢を攻めあぐねた松前藩は、1669年(寛文9)10月、和義を結ぶという理由で酒宴を開いた。 シャクシャイン以下74名のリーダー的アイヌ人は武装を解いて藩側の陣営を訪れ、宴席が盛り上がったところで全員が松前藩によって謀殺されたという。
騙まし討ちであった。
この乱の結果以降、松前藩は蝦夷地に勢力をひろげ、アイヌ民族に対する政治的・経済的支配をますます強めた。 また武器を取り上げ、鉄器の流入を制限してアイヌ民族の抵抗力を奪い、隷属化するようにした。
この戦いをもってアイヌ民族の悲劇が始まり衰亡、根絶へ向ったともいわれる。
静内川(シベチャリ川)流域には16世紀から18世紀に遺された「アイヌの遺跡」が5箇所ありこれは国指定史跡として保存されている。
シベチャリチャシ跡、ホイナシリチャシ跡、メナチャシ跡、オチリッチャシ跡、ルイオピラチャシ跡などがある。 チャシ(アイヌ語)とは 一般には「砦」・「城」と訳されているが、言葉から連想するような強固でしっかりとしたものではなく、元来あった自然地形を利用して築かれた簡便なもので、丘陵の突端の一部に壕をめぐらし、地上を地ならしして柵や見晴らしなどを施したものが多い。 北海道および東北諸県に五百近い址が残存しているという。
次回は、引き続き静内の「開拓期」
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日本周遊紀行(77)日高地方 「静内とアイヌの戦い」
アイヌと和人の最後の戦い・・、そして「アイヌ」は・・?、
国道235は沿岸地を北西に進む、日高本線・「日高三石・ひだかみついし」駅を右にみて、次の「春立・はるだち」駅付近からはすでに静内町である。
静内町は周辺の町と同様大部分は日高山地の領域に属するが、町並みは太平洋岸から内陸へ静内川を中心に発展しているようである。
日高支庁管内のほぼ中央に位置し夏は涼しく、冬は雪が少ないため道内では最も気候の温和な地域と言われる。 その気候風土と恵まれた自然環境から「北海道の伊豆」とも称されている。
現在、静内も同様に近隣の三石町、新冠町と合併協議が進んでいるらしい。
住み良い町「静内」は、やはり古代から住人は在ったようで、既に約9000年も前から石器や土器を使った人達が住んでいたことが遺跡の調査によって確認されている。 その後も紀元前後の縄文時代から、古墳(飛鳥)、奈良、平安時代へと移りかわり鎌倉、室町時代にはアイヌ文化になっていたといわれる。
ただ、北海道には時代の経過とともに独特の文化が栄えたことで知られるが、同一民族が同一文化を継承したとは一概にいえないともいう。 それはアイヌ民族は記録を持たず、文化の変遷にともなう民族の存亡や移動の記録、伝承がまったく観られないからだと・・。
そのアイヌ達は樺太(サハリン)、千島、北海道、そして東北北部に暮らしていたことが確認されている。
この「静内」も、昔からアイヌコタンが沢山あり豊かな大自然の中で狩猟、漁労、採取を中心に独自の生活を営み、様々な生活の知恵と風俗、習慣、言語、信仰を受けつぎ、自由で豊かな生活が営まれてきた地域である。
アイヌとは、アイヌ語で「人間」という意味である。
江戸時代も後期の頃、静内(シベチャリ)川で砂金が採れるようになり、これを目的に内地から和人が住み着くようになり、和人の移住が増えるにつれて利権等が絡むようになり、アイヌ人との衝突も起こり易くなった。
こんな時期に道内でも最大と言われるアイヌ民族の存亡をかけた「シャクシャインの戦い」が勃発するのである。
『シャクシャインの戦い』
1669年(寛文9)頃、日高から釧路に及ぶ地域集団の総大将である「シャクシャイン」を中心に松前藩の収奪に抵抗しておきた近世最大のアイヌ民族の反乱であり、静内町(しぶちゃり)を拠点として増毛から白糖にいたるアイヌがいっせいに蜂起した事件である。
松前藩はアイヌに対する交易の独占化をはかり、アイヌ自らの自由交易を禁止したのと合わせて、和人による不正な相場による取引が後を断たなかった。 藩は交換レートは今までの数倍にも引き上げた。当然、アイヌ人達は松前藩や和人商人に対する不満が高まった。 アイヌは「シャクシャイン」を中心とし、蝦夷地・樺太・千島に居住するアイヌウタリ(同胞)に決起を促し、アイヌの国に入り込んできて権益を貪る和人達を殺し食糧を確保して松前へ攻め入り、和人を撃退してアイヌの国を取り戻そうと呼びかけた。 呼びかけに応じ、石狩・宗谷・利尻などの一部地域を除く殆ど全道に及ぶアイヌがいっせいに蜂起し、殺害された和人の数は太平洋岸で120人、日本海岸では240人に達したといわれる。
アイヌの攻勢を攻めあぐねた松前藩は、1669年(寛文9)10月、和義を結ぶという理由で酒宴を開いた。 シャクシャイン以下74名のリーダー的アイヌ人は武装を解いて藩側の陣営を訪れ、宴席が盛り上がったところで全員が松前藩によって謀殺されたという。
騙まし討ちであった。
この乱の結果以降、松前藩は蝦夷地に勢力をひろげ、アイヌ民族に対する政治的・経済的支配をますます強めた。 また武器を取り上げ、鉄器の流入を制限してアイヌ民族の抵抗力を奪い、隷属化するようにした。
この戦いをもってアイヌ民族の悲劇が始まり衰亡、根絶へ向ったともいわれる。
静内川(シベチャリ川)流域には16世紀から18世紀に遺された「アイヌの遺跡」が5箇所ありこれは国指定史跡として保存されている。
シベチャリチャシ跡、ホイナシリチャシ跡、メナチャシ跡、オチリッチャシ跡、ルイオピラチャシ跡などがある。 チャシ(アイヌ語)とは 一般には「砦」・「城」と訳されているが、言葉から連想するような強固でしっかりとしたものではなく、元来あった自然地形を利用して築かれた簡便なもので、丘陵の突端の一部に壕をめぐらし、地上を地ならしして柵や見晴らしなどを施したものが多い。 北海道および東北諸県に五百近い址が残存しているという。
次回は、引き続き静内の「開拓期」
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2010年3月30日火曜日
日本周遊紀行(76)日高地方 「三石」
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日本周遊紀行(76)日高地方 「三石」
次は「三石町」で、同様の沿岸国道235沿いに「道の駅・みついし」がある。
ここを過ぎてT字路を右へ、日高本線の本桐(ほんきり)駅を左に見ながら、川の東方に「信田牧場」がある。2003年頃に大ブレークした有名馬「ハルウララ」の出身地である。 因みに、先に紹介した「シンザン」とは好対照の位置にいる馬である。
ハルウララは1996年2月牝馬として生まれた、
その後、遥か遠い南国の日本一小さい高知競馬場の厩舎へ入る、調教師は宗石 大氏。 1998・11月デビュー戦、結果は5/5着、以下5/6, 6/6, 5/7, 6/9・・、と負け続ける。 その後も走りに走って、2003・12・14には遂に100戦目を迎える、結果は9/10着であった。
ハルウララは上記のように一度も勝ったことのない競走馬である。
高知競馬・宗石 大・厩舎(きゅうしゃ)に所属する7歳牝馬(ひんば)は、デビューして以来今年2004・2月のレースまで連敗を続けて2着は4度、3着も4度はあった。 5着までに入れば賞金がもらえるが、ただし、ハルウララが出走できるレースはレベルの低い下級戦で賞金も安く、これまで稼いだ賞金の合計は100万円そこそこにしかならない。
2004・3・22中央競馬界の有名騎手「武 豊」が第106戦にして特別騎乗、結果は10/11でやはり惨敗に終わった。
ところで同時期、富士テレビ系の朝の番組「とくダネ!」の小倉智昭氏のオープニングトークで高知競馬の「ハルウララ」のことを取り上げ、90連敗以上しているこの馬に親愛の情を込めて語っていたのである。
此れがきっかけに視聴者から問い合わせのメールや電話が鳴りだし、マスコミ等でも注目をされ始め、負けを重ねるごとに人気が急上昇し、100戦目が1回目の話題のピーク、106戦目が2回目のピークであったという。
負け続けることで人気を得た「ハルウララ」は、出走するレース毎に馬券の売り上げは伸びたという。単勝馬券を「御守り」として買う人も現れ、1着になることがないので単勝馬券は「当たらない」、だから「(車)に当たらない」というので「交通安全」のお守りになったともい・・?。 又、いつまでも走る姿にあやかった「リストラ除(よ)け」や、長期間、長距離走っても怪我や故障をしない丈夫さで「無病息災」の縁起を担ぐと。
勝てなくても個性があればファンは集まる。
しかし、長い競馬の歴史の中にはハルウララを超える「大物」がいたともいう・・!。
いみじくも「武 豊」騎手が第106戦に特別騎乗後曰く、『ハルウララについてはあまりにも異常な騒がれ方で正直なところ辟易としています。競馬をよく知らない一般の方の話題になって、盛り上がることについては大いに歓迎なのですが、生涯で一度も勝ったことがない馬がGIレースを勝った馬達よりも注目を集める対象になるというのは、どうにも理解し難いものがあります、』
又、信田牧場関係者や地元の人は、『ハルウララ人気が盛り上がって高知競馬にとっては明るい話題ですが、この馬が三石産というのがどうも、 生産者のところへも取材が来ているが複雑な気持ちです。 活躍馬ということでの取材なら大喜びでしょうが、百戦もして勝てない馬の生産者といわれては立つ瀬がない。 生産者にはあまり関係のない話ですから、なるべく触れないでもらいたいきもちです・・、』と。
それにしても馬主さんも「ハルウララ」とは、おおらかな名前を付けたものですよね・・!!。
日本競馬史上、最も弱い馬が、大ブレークして、最も有名な馬になってしまったのだから。
育ての親の調教師・宗石氏は体の小さな彼女と初めて出会った時、「ゆっくり育ててやるか、みんな大切な命、春のゴールはきっと来る・・、」と、彼女を「ハルウララ」と陽春の希望をもって名付けたといい、以来、負けても負けても彼女は112回も走り続けている。
そして遂に高知競馬のハルウララは「ハルウララ」として、映画にもデビューする事になってしまった。 「一頭の競走馬の命の輝きと出会った時、そんな厳しい時代に生きる人たちが、一つに結ばれあって、この今の日本に奇跡のような現代童話が誕生したのではないでしょうか・・」 と映画化時の監督の感想。
映画は2005年に公開された、監督: 森川時久、キャストは渡瀬恒彦・夏来千香子・前田吟・ガッツ石松・竹中直人、他
馬をやらない小生が勝手に選んだ三石産の印象馬=アカネテンリュウ(菊花賞・・美浦厩舎、小生が最初で最後に買った馬)、オグリキャップ(有馬記念連勝・他)
次回は日高・「静内」
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次は「三石町」で、同様の沿岸国道235沿いに「道の駅・みついし」がある。
ここを過ぎてT字路を右へ、日高本線の本桐(ほんきり)駅を左に見ながら、川の東方に「信田牧場」がある。2003年頃に大ブレークした有名馬「ハルウララ」の出身地である。 因みに、先に紹介した「シンザン」とは好対照の位置にいる馬である。
ハルウララは1996年2月牝馬として生まれた、
その後、遥か遠い南国の日本一小さい高知競馬場の厩舎へ入る、調教師は宗石 大氏。 1998・11月デビュー戦、結果は5/5着、以下5/6, 6/6, 5/7, 6/9・・、と負け続ける。 その後も走りに走って、2003・12・14には遂に100戦目を迎える、結果は9/10着であった。
ハルウララは上記のように一度も勝ったことのない競走馬である。
高知競馬・宗石 大・厩舎(きゅうしゃ)に所属する7歳牝馬(ひんば)は、デビューして以来今年2004・2月のレースまで連敗を続けて2着は4度、3着も4度はあった。 5着までに入れば賞金がもらえるが、ただし、ハルウララが出走できるレースはレベルの低い下級戦で賞金も安く、これまで稼いだ賞金の合計は100万円そこそこにしかならない。
2004・3・22中央競馬界の有名騎手「武 豊」が第106戦にして特別騎乗、結果は10/11でやはり惨敗に終わった。
ところで同時期、富士テレビ系の朝の番組「とくダネ!」の小倉智昭氏のオープニングトークで高知競馬の「ハルウララ」のことを取り上げ、90連敗以上しているこの馬に親愛の情を込めて語っていたのである。
此れがきっかけに視聴者から問い合わせのメールや電話が鳴りだし、マスコミ等でも注目をされ始め、負けを重ねるごとに人気が急上昇し、100戦目が1回目の話題のピーク、106戦目が2回目のピークであったという。
負け続けることで人気を得た「ハルウララ」は、出走するレース毎に馬券の売り上げは伸びたという。単勝馬券を「御守り」として買う人も現れ、1着になることがないので単勝馬券は「当たらない」、だから「(車)に当たらない」というので「交通安全」のお守りになったともい・・?。 又、いつまでも走る姿にあやかった「リストラ除(よ)け」や、長期間、長距離走っても怪我や故障をしない丈夫さで「無病息災」の縁起を担ぐと。
勝てなくても個性があればファンは集まる。
しかし、長い競馬の歴史の中にはハルウララを超える「大物」がいたともいう・・!。
いみじくも「武 豊」騎手が第106戦に特別騎乗後曰く、『ハルウララについてはあまりにも異常な騒がれ方で正直なところ辟易としています。競馬をよく知らない一般の方の話題になって、盛り上がることについては大いに歓迎なのですが、生涯で一度も勝ったことがない馬がGIレースを勝った馬達よりも注目を集める対象になるというのは、どうにも理解し難いものがあります、』
又、信田牧場関係者や地元の人は、『ハルウララ人気が盛り上がって高知競馬にとっては明るい話題ですが、この馬が三石産というのがどうも、 生産者のところへも取材が来ているが複雑な気持ちです。 活躍馬ということでの取材なら大喜びでしょうが、百戦もして勝てない馬の生産者といわれては立つ瀬がない。 生産者にはあまり関係のない話ですから、なるべく触れないでもらいたいきもちです・・、』と。
それにしても馬主さんも「ハルウララ」とは、おおらかな名前を付けたものですよね・・!!。
日本競馬史上、最も弱い馬が、大ブレークして、最も有名な馬になってしまったのだから。
育ての親の調教師・宗石氏は体の小さな彼女と初めて出会った時、「ゆっくり育ててやるか、みんな大切な命、春のゴールはきっと来る・・、」と、彼女を「ハルウララ」と陽春の希望をもって名付けたといい、以来、負けても負けても彼女は112回も走り続けている。
そして遂に高知競馬のハルウララは「ハルウララ」として、映画にもデビューする事になってしまった。 「一頭の競走馬の命の輝きと出会った時、そんな厳しい時代に生きる人たちが、一つに結ばれあって、この今の日本に奇跡のような現代童話が誕生したのではないでしょうか・・」 と映画化時の監督の感想。
映画は2005年に公開された、監督: 森川時久、キャストは渡瀬恒彦・夏来千香子・前田吟・ガッツ石松・竹中直人、他
馬をやらない小生が勝手に選んだ三石産の印象馬=アカネテンリュウ(菊花賞・・美浦厩舎、小生が最初で最後に買った馬)、オグリキャップ(有馬記念連勝・他)
次回は日高・「静内」
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日本周遊紀行(75)日高地方 「様似・浦河」
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日本周遊紀行(75)日高地方 「様似・浦河」
国道336(浦河国道)は再び山地へ入ってきた。
山地といっても沿岸部を離れて山地に入ったのではない、海岸そのものが山地なのである。 正面に編み笠の様な端正な山がボンヤリと見えている、標識等で確認すると「アポイ岳」というらしい。
国道より見渡せる様似八景の「親子岩」、父と母と子が寄り添うように並んでいる。
様似町(さまにちょう)は日高山系の南部山塊にスッポリ収まったような地形の町で、山塊はむろん海岸にまで押し出し、それが断崖絶壁や奇岩怪岩となって大洋に落ち込んでいるのである。
これがまた美しい海岸美を形造っている。 この海岸を「日高耶麻渓」という。
永い年月をかけて、冬島地域の奇岩穴岩から幌満川河口までの間(約6キロ)の海岸線を侵食した絶景が日高耶馬渓である。
海岸からほぼ垂直に駆け上がる崖の美しさが、大分県の耶馬渓に似ていることから、この名称が付けられている。
因みに本当の「耶馬渓」は、九州大分の中津・日田・宇佐の3市と玖珠町とに跨る広大な地域で、全68景ともいわれる絶景が展開する景観地である。
大分県の北部、福岡県との県境を北流する山国川の中、奥流に位置し、英彦山(ひこさん)系の小山群が連なり、山岳地帯は溶岩侵食により奇岩奇峰が起伏し、小さな開けた平野に集落が点在している。
耶馬溪エリアは本耶馬、深耶馬渓、裏耶馬、奥耶馬とに別れ、「山国川」沿いに奇岩、奇峰群が圧巻である。 又、そこに壮観な石橋や禅海和尚が手掘りで掘ったという「青の洞門」なども有名である。又、古刹・羅漢寺や英彦山(ひこさん)など歴史の宝庫でもある。
「アポイ岳」である・・、
アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところある。
日高山系は帯広の北西、国道38号線の狩勝峠を境に、北は十勝連山、南に連なっているのが「日高山系」である。 この山系にはアポイをはじめ、チロロ、ヒパイロ、エサオマントッタベツ、イドンナップ、カムイエクウチカウシ、コイカクシュサツナイ、ペテガリ、ソエマツ、ピリカヌプリ、トヨニなど、いかにもチョット難儀なアイヌ語の呼称による山名が多く、標高・1600から1900mの山峰が連なる。
日高山系の東側を十勝地方、西側を日高地方と称しているが、アポイ岳、その奥のピンネシリ岳は日高の主脈からはチョット外れて稜線を成し、その南端に位置して海岸に迫っている。 標高も810mと低いが、山稜は気象条件によって2000メートル級の山と同じ様相であるという。
特徴的なのがこの山様で、ここにしか生育しない固有種を含む多数の貴重な高山植物が確認されており、「アポイ岳高山植物群落」は1952年(昭和27年)に国指定の特別天然記念物に指定され、1981年(昭和56年)には日高山脈襟裳国定公園の特別保護地区に指定されている。 つまりこれはこの山そのものが特別天然記念物であり、特別保護地区であると言うことで、北海道でも極めて稀で、人気の高い山なのである。
参考までに、高山植物群落が特別天然記念物に指定されているのは、当地北海道・アポイ岳、岩手県・早池峰山(はやちねさん)、長野県・白馬岳(しろうまだけ)と全国でも三カ所だけである。
余計だが長野県・白馬岳(しろうまだけ・2932m)は、我が別宅の在る白馬村(はくばむら)に連なる。 そして、本年(平成16年)8月、齢(よわい)65歳で4回目の登頂を行っている。
この際、稜線で強烈な雷に遭遇し、あわや・・! という目にあっている、後日のニュースで今年は例年になく雷雨が多く発生し、特に山間部では激しく、ここ一週間で同じ稜線で落雷のよる数人の死亡事故が発生していると報じていた。
尚、特別天然記念物の高山植物群落は、かの有名な「大雪渓」の上部から稜線直下に特に多く展開している。
尚、近年の白馬岳の登山記録です。
『白馬岳記録』
http://www.geocities.jp/orimasa2001/hakuba-1.htm
「アポイ岳」の山麓を通過した辺りから山容が次第に遠のき、丘陵地または平坦地になってきた。 まもなく浦河町にはいった。
所謂、日高地方とは浦河、三石、静内、新冠、門別の海岸沿いと平取、日高町の内陸部の総称である。 この太平洋に面した国道を「サラブレット・ロード」、又は「サラブレット銀座」と称している。 言わずと知れたこの日高地方は日本競争馬の一大産地であり、全国の8割以上がこの地方から生産されているという。
牧場で見る「馬」は端正そのもの、つまり「カッコイイ・・!」とはこれら馬のことであろう。 脚は細く絞まって、背が高く、鼻筋とおって首が長く、胸部たっぷりで胴が長い、全体に筋肉質で、いかにも走る為に造られた芸術品である。 伝統、血統が造りあげた一級品の「サラブレット」とは「徹底的に品種改良された・・!」という語源になっているという。
『サラブレットの生涯』
★誕生期 誕生・哺乳期で1~2再起
★離乳期 母馬から離し、軽いトレーニング期に入る 2~3歳期
★セリ調教期 良血統馬は数千万から億単位の馬もいるという、買手の厩舎にて本格トレーニングに入る 3歳期
★出走期 いよいよレースに出場、先ずは地方競馬から
★4歳期 レースの華「クラシックレース」が始まる
★競争期 厳しい競争の中、1着は勝ち、2着以降は負けといわれる、この時期に勝てない馬は淘汰されてゆく
★引退期 5歳期以降は引退期に入る、古馬といわれる、子孫を残す
「クラシックレース」とは4歳馬限定で、戦前より存在するGⅠ競走のことを指す。
語源は近代競馬の「母国」イギリス。 日本では牡馬・牝馬による皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞と牝馬限定の桜花賞・優駿牝馬(オークス)を指し、同時にこれらの競走は優秀なる種牡馬及び繁殖牝馬選定のレースでもある。 この5つに春秋の天皇賞及び有馬記念を「8大競走」と言うが、シンボリルドルフの「7冠馬」、シンザンの「5冠馬」、ミスターシービー、ナリタブライアンの「4冠馬」という言い方は正式ではなく、あくまで「俗称」であると。
さて「浦河」である・・、
日高幌別川を渡ってすぐ、国道235と国道236の交差点がある。 ここを右へ行くと間もなく「谷川牧場」がある。 「馬」をやらない小生でも知っている名馬「シンザン」の故郷である・・!
御存知、五冠馬のシンザンは1961年にこの牧場で生まれている。 セリには300万円と、この馬にしては比較的安値で買われ京都の武田厩舎へ入った。 デビュー戦は3歳後半で見事に新馬戦を飾る。 4歳でG1レースの皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞の三冠を果たした。
この年は東京オリンピックが行はれた年でもあり、日本経済は大飛躍期で神武景気等と言われ競馬熱も最高潮に達していた時期でもある。 歳で秋の天皇賞、有馬記念を制し、日本初の五冠馬になった。 始めの頃は馬主(橋元)、調教師(武田)共その実力を見抜けずにいたし、調教時の動きも地味な方で勝ってもスレスレの勝利だった。 ただ調教師は後足の蹴りが異常に強いのに気が付き、蹄鉄を改良してから本来の強さが出現したといわれる。
全通算19戦15勝、他は2位とずば抜けた強さを発揮し名馬中の名馬、歴史に残る馬になった。 引退後も、シンザンは驚異的な生命力を発揮し35年3ヶ月目の1996年7月13日、生まれ故郷の谷川牧場で永眠した。 これは現在、日本サラブレッド最長寿記録となっている。人間なら百歳をゆうに超す年齢である。
戦後初の三冠馬でしかも天皇賞、有馬記念、宝塚記念といった当時の大レースを全て制し、生涯成績も2着以下はなしという完璧な競走成績であり、又、繁殖の成績も優秀で多数の名馬を送り出している。 に、サラブレッド最高齢を記録など生命力も抜群だったシンザンはまさに「サラブレッドの中のサラブレッド」である。 今後「シンザン」を個々の能力において上回る馬は現れるに違いないが、これほどまでに完璧な能力を示すのは容易なことではないだろうといわれる。 獲得賞金は当時で6000万円。
現在、京都競馬場にシンザンの銅像と蹄鉄が展示されている他、毎年1月の同場での3歳馬の重賞レースに同馬の名前を冠した「(日刊スポーツ賞)シンザン記念」が開催されている。 また毎年8月には当地で「シンザンフェスティバル」が開かれている。
馬をやらない小生が勝手に選んだ浦河町出身の印象馬=シンザン、タケホープ、ミスターシビー(以上ダービー)、ティエムオペラオー(皐月賞)、メジロマックイーン(菊花賞)など。
次回は、 日高・「三石・静内」
【小生の主な旅のリンク集】
《日本周遊紀行・投稿ブログ》
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《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」 日本周遊紀行「西日本編」 日本周遊紀行 (こちらは別URLです)
【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床 白神山地 紀伊山地の霊場と参詣道 安芸の宮島・厳島神社 石見銀山遺跡とその文化的景観
ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008 北海道道北旅行 北海道旅行2005 南紀旅行2002
【山行記】
《山の紀行・記録集》
「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》
「スキー履歴」
.
日本周遊紀行(75)日高地方 「様似・浦河」
国道336(浦河国道)は再び山地へ入ってきた。
山地といっても沿岸部を離れて山地に入ったのではない、海岸そのものが山地なのである。 正面に編み笠の様な端正な山がボンヤリと見えている、標識等で確認すると「アポイ岳」というらしい。
国道より見渡せる様似八景の「親子岩」、父と母と子が寄り添うように並んでいる。
様似町(さまにちょう)は日高山系の南部山塊にスッポリ収まったような地形の町で、山塊はむろん海岸にまで押し出し、それが断崖絶壁や奇岩怪岩となって大洋に落ち込んでいるのである。
これがまた美しい海岸美を形造っている。 この海岸を「日高耶麻渓」という。
永い年月をかけて、冬島地域の奇岩穴岩から幌満川河口までの間(約6キロ)の海岸線を侵食した絶景が日高耶馬渓である。
海岸からほぼ垂直に駆け上がる崖の美しさが、大分県の耶馬渓に似ていることから、この名称が付けられている。
因みに本当の「耶馬渓」は、九州大分の中津・日田・宇佐の3市と玖珠町とに跨る広大な地域で、全68景ともいわれる絶景が展開する景観地である。
大分県の北部、福岡県との県境を北流する山国川の中、奥流に位置し、英彦山(ひこさん)系の小山群が連なり、山岳地帯は溶岩侵食により奇岩奇峰が起伏し、小さな開けた平野に集落が点在している。
耶馬溪エリアは本耶馬、深耶馬渓、裏耶馬、奥耶馬とに別れ、「山国川」沿いに奇岩、奇峰群が圧巻である。 又、そこに壮観な石橋や禅海和尚が手掘りで掘ったという「青の洞門」なども有名である。又、古刹・羅漢寺や英彦山(ひこさん)など歴史の宝庫でもある。
「アポイ岳」である・・、
アポイ岳は、北海道の脊梁である日高山脈の南に位置して、脊梁から少し西に外れたところある。
日高山系は帯広の北西、国道38号線の狩勝峠を境に、北は十勝連山、南に連なっているのが「日高山系」である。 この山系にはアポイをはじめ、チロロ、ヒパイロ、エサオマントッタベツ、イドンナップ、カムイエクウチカウシ、コイカクシュサツナイ、ペテガリ、ソエマツ、ピリカヌプリ、トヨニなど、いかにもチョット難儀なアイヌ語の呼称による山名が多く、標高・1600から1900mの山峰が連なる。
日高山系の東側を十勝地方、西側を日高地方と称しているが、アポイ岳、その奥のピンネシリ岳は日高の主脈からはチョット外れて稜線を成し、その南端に位置して海岸に迫っている。 標高も810mと低いが、山稜は気象条件によって2000メートル級の山と同じ様相であるという。
特徴的なのがこの山様で、ここにしか生育しない固有種を含む多数の貴重な高山植物が確認されており、「アポイ岳高山植物群落」は1952年(昭和27年)に国指定の特別天然記念物に指定され、1981年(昭和56年)には日高山脈襟裳国定公園の特別保護地区に指定されている。 つまりこれはこの山そのものが特別天然記念物であり、特別保護地区であると言うことで、北海道でも極めて稀で、人気の高い山なのである。
参考までに、高山植物群落が特別天然記念物に指定されているのは、当地北海道・アポイ岳、岩手県・早池峰山(はやちねさん)、長野県・白馬岳(しろうまだけ)と全国でも三カ所だけである。
余計だが長野県・白馬岳(しろうまだけ・2932m)は、我が別宅の在る白馬村(はくばむら)に連なる。 そして、本年(平成16年)8月、齢(よわい)65歳で4回目の登頂を行っている。
この際、稜線で強烈な雷に遭遇し、あわや・・! という目にあっている、後日のニュースで今年は例年になく雷雨が多く発生し、特に山間部では激しく、ここ一週間で同じ稜線で落雷のよる数人の死亡事故が発生していると報じていた。
尚、特別天然記念物の高山植物群落は、かの有名な「大雪渓」の上部から稜線直下に特に多く展開している。
尚、近年の白馬岳の登山記録です。
『白馬岳記録』
http://www.geocities.jp/orimasa2001/hakuba-1.htm
「アポイ岳」の山麓を通過した辺りから山容が次第に遠のき、丘陵地または平坦地になってきた。 まもなく浦河町にはいった。
所謂、日高地方とは浦河、三石、静内、新冠、門別の海岸沿いと平取、日高町の内陸部の総称である。 この太平洋に面した国道を「サラブレット・ロード」、又は「サラブレット銀座」と称している。 言わずと知れたこの日高地方は日本競争馬の一大産地であり、全国の8割以上がこの地方から生産されているという。
牧場で見る「馬」は端正そのもの、つまり「カッコイイ・・!」とはこれら馬のことであろう。 脚は細く絞まって、背が高く、鼻筋とおって首が長く、胸部たっぷりで胴が長い、全体に筋肉質で、いかにも走る為に造られた芸術品である。 伝統、血統が造りあげた一級品の「サラブレット」とは「徹底的に品種改良された・・!」という語源になっているという。
『サラブレットの生涯』
★誕生期 誕生・哺乳期で1~2再起
★離乳期 母馬から離し、軽いトレーニング期に入る 2~3歳期
★セリ調教期 良血統馬は数千万から億単位の馬もいるという、買手の厩舎にて本格トレーニングに入る 3歳期
★出走期 いよいよレースに出場、先ずは地方競馬から
★4歳期 レースの華「クラシックレース」が始まる
★競争期 厳しい競争の中、1着は勝ち、2着以降は負けといわれる、この時期に勝てない馬は淘汰されてゆく
★引退期 5歳期以降は引退期に入る、古馬といわれる、子孫を残す
「クラシックレース」とは4歳馬限定で、戦前より存在するGⅠ競走のことを指す。
語源は近代競馬の「母国」イギリス。 日本では牡馬・牝馬による皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞と牝馬限定の桜花賞・優駿牝馬(オークス)を指し、同時にこれらの競走は優秀なる種牡馬及び繁殖牝馬選定のレースでもある。 この5つに春秋の天皇賞及び有馬記念を「8大競走」と言うが、シンボリルドルフの「7冠馬」、シンザンの「5冠馬」、ミスターシービー、ナリタブライアンの「4冠馬」という言い方は正式ではなく、あくまで「俗称」であると。
さて「浦河」である・・、
日高幌別川を渡ってすぐ、国道235と国道236の交差点がある。 ここを右へ行くと間もなく「谷川牧場」がある。 「馬」をやらない小生でも知っている名馬「シンザン」の故郷である・・!
御存知、五冠馬のシンザンは1961年にこの牧場で生まれている。 セリには300万円と、この馬にしては比較的安値で買われ京都の武田厩舎へ入った。 デビュー戦は3歳後半で見事に新馬戦を飾る。 4歳でG1レースの皐月賞、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞の三冠を果たした。
この年は東京オリンピックが行はれた年でもあり、日本経済は大飛躍期で神武景気等と言われ競馬熱も最高潮に達していた時期でもある。 歳で秋の天皇賞、有馬記念を制し、日本初の五冠馬になった。 始めの頃は馬主(橋元)、調教師(武田)共その実力を見抜けずにいたし、調教時の動きも地味な方で勝ってもスレスレの勝利だった。 ただ調教師は後足の蹴りが異常に強いのに気が付き、蹄鉄を改良してから本来の強さが出現したといわれる。
全通算19戦15勝、他は2位とずば抜けた強さを発揮し名馬中の名馬、歴史に残る馬になった。 引退後も、シンザンは驚異的な生命力を発揮し35年3ヶ月目の1996年7月13日、生まれ故郷の谷川牧場で永眠した。 これは現在、日本サラブレッド最長寿記録となっている。人間なら百歳をゆうに超す年齢である。
戦後初の三冠馬でしかも天皇賞、有馬記念、宝塚記念といった当時の大レースを全て制し、生涯成績も2着以下はなしという完璧な競走成績であり、又、繁殖の成績も優秀で多数の名馬を送り出している。 に、サラブレッド最高齢を記録など生命力も抜群だったシンザンはまさに「サラブレッドの中のサラブレッド」である。 今後「シンザン」を個々の能力において上回る馬は現れるに違いないが、これほどまでに完璧な能力を示すのは容易なことではないだろうといわれる。 獲得賞金は当時で6000万円。
現在、京都競馬場にシンザンの銅像と蹄鉄が展示されている他、毎年1月の同場での3歳馬の重賞レースに同馬の名前を冠した「(日刊スポーツ賞)シンザン記念」が開催されている。 また毎年8月には当地で「シンザンフェスティバル」が開かれている。
馬をやらない小生が勝手に選んだ浦河町出身の印象馬=シンザン、タケホープ、ミスターシビー(以上ダービー)、ティエムオペラオー(皐月賞)、メジロマックイーン(菊花賞)など。
次回は、 日高・「三石・静内」
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【山行記】
《山の紀行・記録集》
「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》
「スキー履歴」
.
日本周遊紀行(74)襟裳 「襟裳岬」
.
日本周遊紀行(74)襟裳 「襟裳岬」
「襟裳岬」
「風の岬」に台風襲来・・!、
十勝港を過ぎると、いきなり山間に入ってきた。
小雨模様だった様気がだんだん強雨になってきて風もでてきて、路岸に打ち寄せる波浪も激しくなってきている。
広尾町から約30kmにもおよぶ国道は今までの平穏な様相から一変して、急峻な大地が連続して海に迫る壮絶な風景を呈している。
この海道・国道336は別称「黄金道路」と称している、この近辺から「黄金が産出する」という意味ではない。
日高山脈が太平洋に落ち込む海岸道路の建設は大変な難工事であった。
迫りくる断崖絶壁、落石、海からの高い波に耐えられるだけの盛り土、数々のトンネルや覆道と、実に道路に「黄金を敷詰めたよう」な膨大な金がかかったそうである。このことから、ここを「黄金道路」と称しているという。
今も修復工事が所々で行われていて、その度に片側通行を余儀なくされ、 更には国道は連続降雨が80mmで通行止めになるらしい。
厳しい海岸道路を過ぎるあたりが「庶野」(しょや)という集落へでた。
国道はここから内陸へ向け、岬の反対側の海岸へ延びている。
小生の車は「襟裳岬」へ向かうため道道34を更に進む事になる。
日高山地の荒々しい山肌もこの辺りで途切れて、見通しの良い低丘陵地帯の砂防林が現れてきた。
本来、地形的に地獄から天国へ来た様な気持ちに成れる筈であるが、ところが地獄は続いた。風雨が更に激しくなってきて暴風雨である・・!!、ラジオニュースが「台風情報」を報じていた。
昨日(29日)、台風21号は鹿児島県に上陸していて、鹿児島市では最大瞬間風速52.7m/sを記録したといい、その後台風は四国、紀伊半島から北陸、東北地方を横断し、本日(30日)午前10時には三陸地方にあるという。
ここ襟裳岬付近も台風の暴風雨圏の一端かも知れないのである。
岬の手前の辺りを「百人浜」といい、浜辺には悲しい歴史があったという。
襟裳岬は通常でも風が強く、別名「風の岬」とも言い海の難所で海難事故が多い。 嘗て、この沖で南部藩の御用船が転覆し、その船の乗組員がこの浜になんとか流れ着いた、しかし飢えと寒さで命を落としたという。
その数が100人にもなったため「百人浜」と名付けられたという。
気が付けば十勝港から険しい海岸道路を走行中、全くと言っていいほど対向車に会ってない、この岬付近も人の気配は全くなかった。それもそのはづ岬周辺は台風の影響をモロに受けて荒れ狂っているのである。しかし、雨量は未だ80mmには達していないらしく、車は風に揺れながらも何とか走れる。
恐怖の「黄金道路」と「百人浜」であったが、何とか「襟裳岬」へ着いた。
正面に円形のモニュメントに襟裳岬・風の館とあったが、横殴りの風雨は車を左右に揺らすぐらいの勢いである、とても車外には出られたもんではない。
仕方なく車フロントより記念写真・・?を収める。 そして、残念ながら早々に退散である・・!!
先にも記したが再びこの地を訪れている。 そしてその様子を次のように記していた。
『 襟裳岬は穏やかな快晴に恵まれていた。岬に立って紺碧の水平線に地球の丸味・・??を感じながら、大きく深呼吸する、実に気持ちがいい、岬先端より点々と派生している小島に「ゼニガタアザラシ」の子育ての様子を確認しようとしたが、できずに残念。 土産店の食堂で「えりもラーメン」を食し、岬を後にした。 風光が目に眩しいくらいの「百人浜」を行く・・、』 とある。
「襟裳の春は何もない春です・・、」と歌にも歌われているように、襟裳岬には風以外のものは一切ないように見える。
年間平均風速10メートルを超えるような場所には当然高木高樹は育たず、囲いをつけて育っている低木と草、岩、海の風景が襟裳岬周辺では見慣れた風景である。
このように一見殺風景なように見える岬であるが、実は海の恵みは多く豊かな海の幸を気前よく恵んでくれる大自然があるのです。
襟裳岬(えりもみさき)は北海道の形を大きく特徴付ける自然地形の一つで、最北端「宗谷岬」に対極するのがこの「襟裳岬」である。
日高山脈の最南端で太平洋に突き当たって長年の強風と荒波に削られ、徐々に落ち込む鋭角を成す南端部がこの岬である。
岬の先にある岩礁群も日高山脈の一部であり、沖合い7kmまで岩礁群が連なる。 そして高さ60mに及ぶ断崖絶壁が岬を囲み、展望は群を抜いている。
地名の由来はアイヌ語の「エンルム」(突き出た頭)から起こったといわれる。
岬上の襟裳岬燈台は北海道でも数少ない有人の灯台であり、常時3人の灯台守が駐在して船の航行の安全を守ると共に、気象情報を記録しているという。
1889年初点灯されている灯台は海抜73m、光達距離・22海里で、他にも霧笛や無線方向探知局などが備えられている。 これは沖合で暖流の黒潮(日本海流)と寒流である親潮(千島海流)とがぶつかり、濃霧が発生しやすい気象条件を有しているためである。
従って、この海域は多種にわたる暖流、寒流の魚たちが群らがり、世界有数の漁場ともなっている。 また、冷たい霧や強風が多い岬の周辺では、植物は丈が短く茎が太くなることで厳しい自然環境に適応している。
ヤマツツジは襟裳岬の丘陵に背丈を低く、まるで盆栽のような姿であたり一面を赤色に染める。 エゾスカシユリ、エゾカンゾウが時期になると絨毯のように咲き乱れ、又、襟裳の愛くるしい名物は、岬の突端の岩場を中心に棲息している「ゼニガタアザラシ」で、現在300~400頭が確認され、双眼鏡でも観察が可能だという。
岬は「風の岬」と言われるほどの強風でも知られ、襟裳岬周辺は一年のうち風速10mを超える強い風がおよそ290日以上も吹くという場所で、その風の強い所に世界に類を見ない「風」をテーマにした「風の館」がある。
館内には、日高山脈襟裳国定公園や襟裳岬灯台の解説パネルおはじめ、襟裳岬の展望と襟裳の「風」を実感できるテーマ館となっている。
森進一が唄い、レコード大賞を受賞した「襟裳岬」で一躍有名となったが、実は「襟裳岬」の歌は二つある。
もう一つは島倉千代子の曲で、小生が少年期頃の昭和30年代の歌で、当時、適当にヒットした曲でもあり、若かりし「お千代さん」の絶頂期の唄でもあった。この歌が「襟裳岬」元祖であることは余り知られてないようだ。
森進一の「襟裳岬」に、「エリモは何もない春です・・、」と歌われていて、地元の人にとってある種の抵抗があり、苦情もあったとされているが、こと自然に関して言えば「全てが有る豊かな場所」なのである。
『襟裳岬』 森進一(昭和48年)吉田拓郎・曲
北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由の分からないことで
悩んでいるうち
老いぼれてしまうから
黙り通した 歳月を
ひろい集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です
『襟裳岬』 島倉千代子(昭和36年)遠藤実・曲
風はヒュルヒュル
波はざんぶりこ
誰か私を 呼んでるような
襟裳岬の 風と波
憎い憎いと 恨んだけれど
今じゃ恋しい あの人よ
視界350度と言われる岬の先端に立つことも無く、灯台(全国でも数少ない有人灯台)の様子を確かめる事も無く、無念の気持ちで襟裳岬を後にする。
今は、「風はヒュルヒュル 波はざんぶりこ」等といった平穏な状態ではない、風はゴーゴー 波はドドドーン」である・・!。
はじめは海からの強烈な風だったが、今は陸側から猛烈に吹き付ける。車は左右に振られ、ハンドル持つ手も緊張がはしる。
再び、国道336に合流し、「えりも」の街並辺りで暴風雨も少々収まりかけて来たようで胸を撫で下ろした。
次回は、名馬の産地「日高地方」
【小生の主な旅のリンク集】
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【山行記】
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「山行履歴」 「立山・剣岳(1971年)」 白馬連峰登頂記(2004・8月) 八ヶ岳(1966年) 南ア・北岳(1969年) 北ア・槍-穂高(1968年) 谷川岳(1967年) 丹沢山(1969年) 西丹沢・大室山(1969年) 八ヶ岳越年登山(1969年) 西丹沢・檜洞丸(1970年) 丹沢、山迷記(1970年) 上高地・明神(2008年)
《山のエッセイ》
「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》
「スキー履歴」
.
日本周遊紀行(74)襟裳 「襟裳岬」
「襟裳岬」
「風の岬」に台風襲来・・!、
十勝港を過ぎると、いきなり山間に入ってきた。
小雨模様だった様気がだんだん強雨になってきて風もでてきて、路岸に打ち寄せる波浪も激しくなってきている。
広尾町から約30kmにもおよぶ国道は今までの平穏な様相から一変して、急峻な大地が連続して海に迫る壮絶な風景を呈している。
この海道・国道336は別称「黄金道路」と称している、この近辺から「黄金が産出する」という意味ではない。
日高山脈が太平洋に落ち込む海岸道路の建設は大変な難工事であった。
迫りくる断崖絶壁、落石、海からの高い波に耐えられるだけの盛り土、数々のトンネルや覆道と、実に道路に「黄金を敷詰めたよう」な膨大な金がかかったそうである。このことから、ここを「黄金道路」と称しているという。
今も修復工事が所々で行われていて、その度に片側通行を余儀なくされ、 更には国道は連続降雨が80mmで通行止めになるらしい。
厳しい海岸道路を過ぎるあたりが「庶野」(しょや)という集落へでた。
国道はここから内陸へ向け、岬の反対側の海岸へ延びている。
小生の車は「襟裳岬」へ向かうため道道34を更に進む事になる。
日高山地の荒々しい山肌もこの辺りで途切れて、見通しの良い低丘陵地帯の砂防林が現れてきた。
本来、地形的に地獄から天国へ来た様な気持ちに成れる筈であるが、ところが地獄は続いた。風雨が更に激しくなってきて暴風雨である・・!!、ラジオニュースが「台風情報」を報じていた。
昨日(29日)、台風21号は鹿児島県に上陸していて、鹿児島市では最大瞬間風速52.7m/sを記録したといい、その後台風は四国、紀伊半島から北陸、東北地方を横断し、本日(30日)午前10時には三陸地方にあるという。
ここ襟裳岬付近も台風の暴風雨圏の一端かも知れないのである。
岬の手前の辺りを「百人浜」といい、浜辺には悲しい歴史があったという。
襟裳岬は通常でも風が強く、別名「風の岬」とも言い海の難所で海難事故が多い。 嘗て、この沖で南部藩の御用船が転覆し、その船の乗組員がこの浜になんとか流れ着いた、しかし飢えと寒さで命を落としたという。
その数が100人にもなったため「百人浜」と名付けられたという。
気が付けば十勝港から険しい海岸道路を走行中、全くと言っていいほど対向車に会ってない、この岬付近も人の気配は全くなかった。それもそのはづ岬周辺は台風の影響をモロに受けて荒れ狂っているのである。しかし、雨量は未だ80mmには達していないらしく、車は風に揺れながらも何とか走れる。
恐怖の「黄金道路」と「百人浜」であったが、何とか「襟裳岬」へ着いた。
正面に円形のモニュメントに襟裳岬・風の館とあったが、横殴りの風雨は車を左右に揺らすぐらいの勢いである、とても車外には出られたもんではない。
仕方なく車フロントより記念写真・・?を収める。 そして、残念ながら早々に退散である・・!!
先にも記したが再びこの地を訪れている。 そしてその様子を次のように記していた。
『 襟裳岬は穏やかな快晴に恵まれていた。岬に立って紺碧の水平線に地球の丸味・・??を感じながら、大きく深呼吸する、実に気持ちがいい、岬先端より点々と派生している小島に「ゼニガタアザラシ」の子育ての様子を確認しようとしたが、できずに残念。 土産店の食堂で「えりもラーメン」を食し、岬を後にした。 風光が目に眩しいくらいの「百人浜」を行く・・、』 とある。
「襟裳の春は何もない春です・・、」と歌にも歌われているように、襟裳岬には風以外のものは一切ないように見える。
年間平均風速10メートルを超えるような場所には当然高木高樹は育たず、囲いをつけて育っている低木と草、岩、海の風景が襟裳岬周辺では見慣れた風景である。
このように一見殺風景なように見える岬であるが、実は海の恵みは多く豊かな海の幸を気前よく恵んでくれる大自然があるのです。
襟裳岬(えりもみさき)は北海道の形を大きく特徴付ける自然地形の一つで、最北端「宗谷岬」に対極するのがこの「襟裳岬」である。
日高山脈の最南端で太平洋に突き当たって長年の強風と荒波に削られ、徐々に落ち込む鋭角を成す南端部がこの岬である。
岬の先にある岩礁群も日高山脈の一部であり、沖合い7kmまで岩礁群が連なる。 そして高さ60mに及ぶ断崖絶壁が岬を囲み、展望は群を抜いている。
地名の由来はアイヌ語の「エンルム」(突き出た頭)から起こったといわれる。
岬上の襟裳岬燈台は北海道でも数少ない有人の灯台であり、常時3人の灯台守が駐在して船の航行の安全を守ると共に、気象情報を記録しているという。
1889年初点灯されている灯台は海抜73m、光達距離・22海里で、他にも霧笛や無線方向探知局などが備えられている。 これは沖合で暖流の黒潮(日本海流)と寒流である親潮(千島海流)とがぶつかり、濃霧が発生しやすい気象条件を有しているためである。
従って、この海域は多種にわたる暖流、寒流の魚たちが群らがり、世界有数の漁場ともなっている。 また、冷たい霧や強風が多い岬の周辺では、植物は丈が短く茎が太くなることで厳しい自然環境に適応している。
ヤマツツジは襟裳岬の丘陵に背丈を低く、まるで盆栽のような姿であたり一面を赤色に染める。 エゾスカシユリ、エゾカンゾウが時期になると絨毯のように咲き乱れ、又、襟裳の愛くるしい名物は、岬の突端の岩場を中心に棲息している「ゼニガタアザラシ」で、現在300~400頭が確認され、双眼鏡でも観察が可能だという。
岬は「風の岬」と言われるほどの強風でも知られ、襟裳岬周辺は一年のうち風速10mを超える強い風がおよそ290日以上も吹くという場所で、その風の強い所に世界に類を見ない「風」をテーマにした「風の館」がある。
館内には、日高山脈襟裳国定公園や襟裳岬灯台の解説パネルおはじめ、襟裳岬の展望と襟裳の「風」を実感できるテーマ館となっている。
森進一が唄い、レコード大賞を受賞した「襟裳岬」で一躍有名となったが、実は「襟裳岬」の歌は二つある。
もう一つは島倉千代子の曲で、小生が少年期頃の昭和30年代の歌で、当時、適当にヒットした曲でもあり、若かりし「お千代さん」の絶頂期の唄でもあった。この歌が「襟裳岬」元祖であることは余り知られてないようだ。
森進一の「襟裳岬」に、「エリモは何もない春です・・、」と歌われていて、地元の人にとってある種の抵抗があり、苦情もあったとされているが、こと自然に関して言えば「全てが有る豊かな場所」なのである。
『襟裳岬』 森進一(昭和48年)吉田拓郎・曲
北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由の分からないことで
悩んでいるうち
老いぼれてしまうから
黙り通した 歳月を
ひろい集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です
『襟裳岬』 島倉千代子(昭和36年)遠藤実・曲
風はヒュルヒュル
波はざんぶりこ
誰か私を 呼んでるような
襟裳岬の 風と波
憎い憎いと 恨んだけれど
今じゃ恋しい あの人よ
視界350度と言われる岬の先端に立つことも無く、灯台(全国でも数少ない有人灯台)の様子を確かめる事も無く、無念の気持ちで襟裳岬を後にする。
今は、「風はヒュルヒュル 波はざんぶりこ」等といった平穏な状態ではない、風はゴーゴー 波はドドドーン」である・・!。
はじめは海からの強烈な風だったが、今は陸側から猛烈に吹き付ける。車は左右に振られ、ハンドル持つ手も緊張がはしる。
再び、国道336に合流し、「えりも」の街並辺りで暴風雨も少々収まりかけて来たようで胸を撫で下ろした。
次回は、名馬の産地「日高地方」
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