google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2011-08-21

2011年8月27日土曜日

日本周遊紀行(163)宮崎 「神武天皇」

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日本周遊紀行(163)宮崎 「神武天皇」 ,






写真:宮崎神宮、神門より拝殿


【神武天皇の譜系】





宮崎神宮」は、地元では親しみを込めて「神武(じんむ)さま」と呼ばれていて、神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)=神武天皇(初代の天皇)を主祭神とし、父君・ウガヤフキアエズ、母君のタマヨリヒメ(玉依姫命)を相神としている。 
創建は社伝によると神代までさかのぼるが、現在の社殿は明治40 年に建て替えられたものという。 

社伝によれば、鎮座地である宮崎は、神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた天皇の孫とされる建磐龍命(タケイワタツノミコト)が、その縁に因んでこの地に創祀したという。
この神は、日本神話にも登場する人物で、阿蘇神社の主祭神であり、神武天皇の孫として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられる。


最初の天皇といわれる神武天皇が誕生した地は、同県内の高原町の「皇子原」といい、奇しくも、祖神であるニニギが降臨したとされる高千穂峰の山麓に当たる。 
幼名が「狭野尊」(サノノミコト)といわれたため同地に「狭野神社」が祀られている。
その後、宮崎神宮に西方、「皇宮屋」(下北方町)というところに住むようになった。

45 歳の時、「 東に良いところがあると聞く。恐らくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る・・」と察し、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)稲飯命(イナヒノミコト)と共に全国統一をめざして兄弟三人で日向を発つ。 
そして現在の日向市の美々津(みみつ)港から船で東方へ旅立ったと伝えられている。(詳細は美々津の項で記載) 


天下を統一し、政治(まつりごと)を行うべく、はるばる東遷の途に立たれたが、神武天皇は直接、大和に入ったのではなく、いろいろと寄り道をしている。 
日向⇒宇佐⇒筑紫の国の岡水門(おかのみなと)⇒安芸の国の埃宮(えのみや)⇒吉備の国の高島宮(たかしまのみや)と、数年かけている。

その後、浪速の津(大阪)へ上陸して生駒山の方から大和に入ろうとする。
ところが大和の長髄彦(ナガスネヒコ)の激しい抵抗に合い、進路を阻まれる。
このとき、神武天皇の長兄のヒコイツセは傷を負い、それが元で亡くなっている。 

神武天皇は、「太陽に向かって攻撃するのが良くない」として、熊野のほうに迂回する。 
回り道をし熊野の地にたどり着いたが、今度は、熊野の荒ぶれる神の毒気に当たり病に伏せる。
元気を取り戻した彼は、険しい山の中を八咫烏(やたがらす)に導かれ、苦労の末にナガスネヒコを滅ぼし、こうして幾多の困難に遭いながら東征から6年目で漸く(ようやく)大和の国に到達し安住の地とした。 

畝傍(うねび)の橿原(かしはら)の宮において即位の礼(神武天皇に即位)を挙げ、天皇を中心とした国の基を建てられ(建国)、荒ぶる国々を平定された。 
大和三山の一つ畝傍山の北東麓、玉砂利の参道と素木の大鳥居が立つところに神武天皇御陵があり、その南側に、明治天皇により創建された神武天皇祭神の「橿原神宮」が鎮座する。


神武天皇は、日向の国・高千穂に降臨したニニギノミコトから数えて四代目、天孫族の頭領・アマテラスからは六代目(又は五代目)そして、国生みの神々の祖神とされるイザナギ・イザナミからは七代目に当たるとされる。 

日向の「高千穂」という地名の起こりは、ニニギがこの地に降臨するとき千本の稲穂をつみ、その籾(もみ)をしごいて蒔いたとことから「千穂」というようになり、その上にニニギノミコトの尊さを意味する「高」の字を付けて「高千穂」と呼ぶようになったと言われている。

参考までに、高祖神々の系譜の概略を述べてみよう(参考・日本書紀系)・・、
日本神話に登場する最初の夫婦神とされるイザナギとイザナミがおられた。そして、その子の一人(神)が天照大御神である。


天照神以降の譜系は・・、
天照大御神(アマテラスオオミカミ:伊勢神宮の主祭神、初代皇祖神) ⇒ 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:英彦山神宮の主祭神・福岡県) ⇒ 彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト:新田神社、霧島神宮の主祭神、天孫降臨、日向初代、高千穂神社、可愛山陵) ⇒ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ:鹿児島神宮の主祭神、山幸彦、日向二代、妃・豊玉姫命・ トヨタマヒメノミコト ・乙姫:長崎・海神神社の主祭神、高屋山陵) ⇒ 日子波瀲武草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト:鵜戸神宮の主祭神、日向三代、妃・玉依姫命・タマヨリヒメノミコト・豊玉姫の妹:玉前神社の主祭神・千葉上総、吾平山陵) ⇒ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト:宮崎神宮、橿原神宮の主祭神・奈良県、玉依姫命の子、神武天皇、皇祖初代天皇・紀元前660年の紀元節)となる。 天照大御神から代代辿って、神武天皇までは六代目に当る


日向・宮崎は、神話と伝説の古里と言われており、天地が作られた天地開闢(テンチカイビャク)から天孫降臨、そして神武遠征まで様々な言い伝えが残り、宮崎の各地に祀られている。 
市内では、国生み神生みの日本最古の神、イザナギとイザナミのご神体を祀る「江田神社」、イザナギノミコトが禊(みそぎ)を行ったとされる阿波岐原のみそぎ池、イザナギノミコトを祀るイザナキの禊にまつわる「小戸神社」、イザナギの禊(みそぎ)の際に綿津見三神(ワタツミ・アマテラスの姉弟、住吉三神)を祀った「住吉神社」、ニニギの妻で海幸彦・山幸彦の母であるオオヤマツミの娘・コノハナサクヤが祀られている「木花神社 (きばな神社)」、山幸彦、豊玉姫のご夫婦神を祀っている青島神社、それにニニギは、高千穂町の高千穂神社、北川町に墓稜とされる可愛山稜に祀られている。
そして、神武天皇の東征前の皇居跡と伝えられる皇宮屋(こぐや・皇宮神社)、初代天皇である神武天皇とその父の鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアエズノミコト) と母の玉依姫命(タマヨリヒメ)を祀る「宮崎神宮」などがある。


次回は、「佐土原




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2011年8月26日金曜日

日本周遊紀行(163)宮崎 「宮崎神宮」

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 日本周遊紀行(163)宮崎 「宮崎神宮」  ,




写真:宮崎神宮、拝所とその奥が拝殿




神武天皇を祀る宮崎神宮・・、

一ッ葉道路は、国道10号の交通渋滞を解消するバイパスとして主に海岸を北上して佐土原に至っている。 別名「くろしおライン」ともいう。 

北部地域には、隣接している「フェニックス・シーガイア・リゾート」のグリーン地帯があり、こちらは世界でも屈指の施設で、自然と環境を備えた世界に誇れるリゾートだと当事者は自認しているようである。 
因みに、シーガイアとは、英語で海を意味する「Sea」と地球を意味する「Gaia」を組み合わせた造語である。


昨夜は、この道路のP・Aで夜を明かした。
車には柔らかな朝日が入り込んでくる、今日もいい天気のようである。 
海岸へ出ると陽光が海面に反射して一寸眩しいくらいである。 陽気のわりに打ち寄せる波は大きく白の飛沫を上げている、やはり日向の海である。 

近くのセブン・イレブンで配送したての朝食と、沸かしたての熱ったかコーヒーで鋭気を注入して、朝日に見送られながら出発である。 
今朝一番は、先ず宮崎市街地の「宮崎神宮」へ向かう。 


JR日豊線のその名も宮崎神宮駅は、神宮を模した木造建築で、赤の銅版屋根と朱に塗られた柱などの神宮との調和と風情を考慮したデザインの駅舎である。 
だが、木造の建物駅舎は長年風雨に晒され痛みも激しく、近年、取り壊しが決まっているらしい。 

目の前に宮崎神宮の銅板張りの大きな鳥居がデーンと建っていて、その奥に鬱蒼とした緑の森が広がっている、神宮の森であろう。

駅前からゆっくり進めると、東神苑という大きな駐車場が現れる。
我が愛車をこちらに止めて、そこから左方向へ玉砂利が敷き詰められた参道を行く。 

両側を宮崎を代表する照葉樹(シイ、カシ、タブノキ等)の森が鬱蒼と広がり、限りなく続いているようである。
境内の広さは広大で、何でも東京ドームの五倍以上もあるという。 
いかにも神苑の森といった感じで、その神聖な空気を味わいながら、暫くすると本殿正面のエリアに到達する。

西神苑の御奉安所というところには古代船・「おきよ丸」と称して、神武東征の神話を基に、西都原古墳群から出土したという“舟形埴輪”をモデルとした和船が展示されている。

秋の10月下旬に行なわれる御神幸行列で、神武天皇役やその姫であるアヒラツヒメ役らが乗船し、祭りの新しい目玉の一つになっているという。

ニの鳥居、三の鳥居から立派な社務所をすぎると、真っ直ぐな参道がいよいよ本殿に達している。 
先ず神門があって、その左手前には「手水所」があり参拝のための手や口を清める、所作は左手、右手の順に洗い、そして水を口に含んで清めるのが作法である。


本殿を模したとされる神門も豪奢な造りであり、左右の門扉には如何にも天皇家の祖神らしく神紋である大きな「菊の御紋」(正確には「菊花・三つ割菊に矢」というらしい)が配されている。 

神門をくぐると、石組みの参道が拝所まで真っ直ぐに延び、石畳みの両側は整然と掃き清められた玉砂利が敷かれている。 
神門も拝所も本殿と同じ「神明造り」といわれる造りで、屋根上には突き出た「千木」(社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した木;一般に先端が水平にきられている場合は女神、先端が垂直に切られている場合は男神とされる)や「鰹木」(神社本殿などの棟木の上に横たえ並べた装飾の木、数は奇数は男神、偶数は女神の社に見られる)が乗っている。 

拝所とは我等がお参りするところで、こちらで、心新たかにして鄭重に参拝を済ませる。 
この拝所には「神武天皇」と書かれた立派な額がかかっており、初代・神武天皇の御社であることが判る。
周囲は菊の御紋を記した、小さな御旗が取り囲んでいて、一層、厳かな雰囲気を醸し出している。

拝所の奥に、荘厳な拝殿が配してある・・?。 
拝殿の左右二つの左側が神饌所(しんせんどころ:お供え物を調理する所)、そして、右側に御料屋(神事を行うための色々な道具類を保管する一種の倉庫)と称している。
そして中央奥に正殿があるが社殿に隠れ、殆ど見ることは出来ない。

因みに、拝所と拝殿は、何れも本殿(正殿)に安置されている御神体を礼拝する場所であり、同じ意味合いを持つようであるが、ここでいう「拝所」は、一般参拝者が正殿に礼拝する所であり、「拝殿」は、正殿に宮司や神職のたちが神饌(神に供える飲食物、稲・米・酒・鳥獣・魚介・蔬菜ソサイ・塩・水など)を調理し、奉げて礼拝するところであり、又、記帳して御祓いを受ける参拝者が拝礼するところと理解する。


各社殿は、霧島神宮や鵜戸神宮の色彩豊かな華やかさとは違って、伊勢神宮に模した古代の神社様式とされる見事な「神明造り」である。 

落ち着いた木目の入った白木造りの建屋に、屋根は銅板葺きで千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が設けられ、その直線的で簡素な佇まいには、やはり伊勢神宮様式の影響が顕著である。
尚、伊勢神宮・正殿の場合は、他の神明造りとは異なり独自の様式を備えているため、特に「唯一神明造り」とも呼ばれている。



ここで、「社殿」について一言・・、
日本における古代神物(仏ではない・・、)信仰には、神社とか社殿などは元々存在しなかった。 
本来、神は目に見えない存在であり、特定の場所に常住しているわけでもなく、古代の人々は、祭りの度毎に祭祀場を設けて、神聖視された巨岩や樹木に神を迎えて、祭りが行われた。 
神が降臨し、依り代とされる神籬(ひもろぎ:古来、神霊が宿っていると考えた自然物である山・森・老木などの周囲に常磐木を植え巡らし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)という様式は、今でも地鎮祭などの祭場が小規模、簡素化した姿が見られる。

」が人間の住む家の形をした神社(かみやしろ)が建てられ、社殿の内に常住するようになったのは寺院様式の建築の影響が大であるとされる。 

仏教伝来以後に初めて、寺院に真似て神社の社殿が造られるようになったとする説は、史学界では有力とされ、仏教伝来が6世紀頃とされるので、それ以降に神社、神殿が造られ始めたことになる。

だが、神の住居としての独自性を強調するために、仏教寺院建築の様式とは別の、古来からの建築様式を神社の本殿建築に採用したともいう。
それは、弥生時代からの伝統である高床式の倉庫建築であるといわれ、穀倉倉庫を模した建物であるとされている。
それが高じて高床式建物は神聖視され、更に神に近づくため次第に高所化され、出雲大社のような高床の社殿が出来上がったのかもしれない。(出雲大社はこの後、記載します)


社殿造営で、古代の神社様式とされるのは神明造り、大社造り、住吉造り といわれる三つの古社様式である。
春日造り(奈良の春日神社本殿の形式・近畿地方に広く分布)、流造り(賀茂御祖神社・賀茂別雷神社の本殿の形式、全国に広く分布)、八幡造り(宇佐八幡宮本殿の形式)などが採用されるのは奈良・平安時代になってからとされる。


銅板葺きの屋根飾りには「鰹木と千木」が装飾されているが、神社本殿などの棟木の上に横たえて並べた装飾の木を鰹木といい、形は円柱状で鰹節に似ていることからという、勝男木とも書く場合がある。

千木は屋根隅の破風と呼ばれる所に、先端が延びて交叉した木のことで、祭神が男神の社は千木先端を垂直に削り、女神の社は水平に削るとされている。
また鰹木の数は其々、奇数は陽数で男神、偶数は陰数で女神とされていて、何れも、他の神社でもこれに倣っているものが多いという。 

当然、当社宮の祭神は神武天皇なので、拝殿の鰹木は7ヶ(神門は5ヶ)で千木先端は垂直の切込みである。 
因みに、伊勢神宮・御正殿は、祭神が女性の「天照大神」なので鰹木は10ヶ、千木先端は水平に切られている。

千木・鰹木ともに、元々は補強のためのものであったと考えられ、今では装飾として古来の建築方法に倣っている。


次回は、「神武天皇




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2011年8月25日木曜日

日本周遊紀行(163)宮崎 「グッバイ・ファミリー」 

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 日本周遊紀行(163)宮崎 「グッバイ・ファミリー」   、





宮崎F・Tの岸壁には、既に「マリンエキスプレス」が接岸していた・・、

宮崎自動車道から宮崎市内へでる。
今夜、ここ宮崎フェリーターミナルから最後の航海と言われる「マリン・エキスプレス」が出航するとのことで、我等の家族もこの船で帰路出航することになっている。
出航が午後8時頃とのことで、先ず、宮崎のF・Tを出向いて下見と出航手続をすることになる、手続といっても乗船券に交換するだけだあるが。

未だ、たっぷり時間があるのでお土産や夕食をとる事になったが、さてどちらへということになり、結局、かって知ったる宮崎空港へ行くことになった。 
大淀川を渡り返して空港へ向かう、やはりフェリー埠頭とは違って空港ターミナルは賑やかであり、お土産屋も食堂、レストランも充実していた。


夕闇が迫り、町の明かりが灯る頃、一時を過ごしたエア・ターミナルから再びF・Tへ戻る。 空港とF・Tは、宮崎市街の中心を流れる大河・「大淀川」を挟んで其々対岸に在り、一ツ葉道路という宮崎道と直結した湾岸を通る道路で、空港やF・Tを結んでいる。

宮崎 F・Tは、白の四角い事務所の手前が駐車場になっていて、(乗船用ではない)その横つまり事務所の正面の海側に、岸壁をつなぐ大きな道路が走っている。 
つまり、ターミナル事務所とフェリ-船は直結されてなく、乗船の際はこの大幅の道路を横断して勝手に乗り込めということらしい。 
しかも、事務所玄関から船着場までは、そこそこの距離があり、お年寄りやヨチヨチ歩きの子供は大変だろうことが想像できる・・!。
車優先の人間無視の造りである。


岸壁には既にマリンエキスプレスが接岸していた。 
人の気配も先ほどより、さすがに多く、孫たちに「あの、大きい船に乗るんだよ・・」と言うと、既にハシャギ回っている。 
乗船の客は、既に土産の大きな荷物を抱えて各自待機しているようで、その内、乗船の合図があった。 各自、一目散に船へと向かう。 元気のいい人は駆け足である。 
やはり、思案していた通りになった。

実は急ぐ必要があったのだ。
二等船室はフリースペースの部屋なので、より良い場所を確保するためである。 
我等も幼時三人と80歳の老婆を引き連れて、それでも急ぎ足で向かったが、やはり思ったとおり最悪の状態になったようである。 

指定された二等船室のスペースは、既にコーナーなどの良場所は人が満ちて、中程の中途半端なスペースのみが残されていた。 心配していたことが的中してしまったのである。 
小生は娘に、駄目を承知で「空き個室」の有無を確認するように言いつけた。 

早速、娘と上さんが、実際の交渉に出かけたようだ。 
我らは孫の為にデッキへ出て見物と洒落こんだが、余りの船の大きさに孫たちはピンときてないようである。 
ジジはここでお別れだから、元気でお家へ帰るんだよ・・」、孫達はキョトンとして
ジジ、どうして帰っちゃうの、どうして船から下りちゃうの・・、」と怪訝そうである。
父親が説明に躍起であった。



ところで、カーフェリーは、昨今の交通網の発達や原油高騰などの煽りを受け業績が悪化し、分社化や廃止を余儀なくされている。 
宮崎カーフェリのマリンエキスプレスは、2005年6月の川崎港発の宮崎港行き(京浜航路)の最終航海をもって、航路は全て休止となっているらしい。 

今回の乗船は最終航路の記念として、特別に旅行会社がツアーを企画したものであった。
「マリンエキスプレス」は、総トン数・12000t級、全長200m弱で速力25ノットの仕様らしい。


因みに現在、船の大きさは総トン、排水トン、載貨重量トンなど、船の容積や重量であらわされている。 
総トン数とは、船の大きさを表すもので「トン」という呼称が付くが、船そのものの重さを表しているわけではなく、船の容積を基に算出したものである。 

無論、数字が大きいほどその船は大きく、商船や漁船などでもっとも広くつかわれている。 他に載貨重量トンとは積める貨物、燃料、清水などの重さをあらわし、おもに貨物船や原油タンカーなどでつかわれている(積載総量)。 
又、排水トン数は船の重さをあらわし、船を水に浮かべたときに押しのける水の総重量で表され、主に軍船などでつかう。

日本では昔、船の大きさを五百石船とか千石船というように、積むことができる米の石数で表していた。 
当時の日本経済は、米を基準の物指しとしてたので、石数であらわすほうが便利だったからである。
明治時代になり、貿易がさかんになると国際化が進み、トン数であらわすようになった。

船や飛行機の速度単位は「ノット」と称して、国際標準の速度の単位であり、時速何海里かということである。 
つまり、1ノットは1時間に1海里進む速さと定義されている。 1海里 = 1852メートルなので、1ノットは1時間に1.852キロメートル進む速さとなる。 

ところで1海里は、地球上の緯度1分(地球の円周:約40000Km÷360度÷60分)の長さに等しいとされ、航空機や船舶は地球上を長時間航行するので、地図上では非常に判りやすい単位となっている。 

因みに、毎時25ノットを換算すると、25ノット*1852メートル=46.3キロメートル毎時である。



航海の無事を祈って皆々と別れ、小生は下船した。 
かなりの高位にあるデッキから可愛い孫たちが、絶叫に近い声で別れを惜しんでいて、何かジーンとくるものがある。 

天候は良さそうなので、きっと、いい船旅ができるだろう、それを祈るばかりである。
別れを惜しみながら、レンタカーを返却するため再再度、空港方面の大淀川の一ッ葉大橋を渡り返す。 

大淀川は、河口に近いこともあろう、1キロメートルにも及ぶ川幅一杯に満々と水を湛えて、滔々と流れ下る。
川は、九州でも五番目に大きい川で、その源を鹿児島県に発し、各支流を合わせつつ都城盆地を貫流して宮崎平野を潤し日向灘に注いでいる。 

往時、陸上交通の未発達の頃、大淀川は流域で生産された物資などを舟を使って河口まで運ぶ行路であった。 
河口部に位置する赤江港(河口の南側地区)からは更に千石船に積み替え、江戸や大坂へ運んだという。 
特に、内陸に位置する「都城」は日向地方の中心地であり、交通路は大淀川の船便に頼ったという。 

しかし、この川には難所が在った、都城盆地の北部「」地区というのがあり、その名の通り「白浪、厳に轟く」と言われるほどで、船を止めてしまうほど「瀬と滝」があったという。 

江戸期、都城領主であった島津久倫(しまずひさとも)は、激流のなかで開削の難工事を三年がかりで完成させ、都城から大淀川河口まで舟の通行を可能にすることができたという。(寛政の開削工事)、


空港近くのレンタカー事務所で車の返却手続中、娘からの電話で「 個室の申し込みは首尾良く『特等室』が二部屋取れました・・! 」と喜びの連絡が入った。 
小粒の孫三人と年寄りを抱えての船旅なので、何よりもホッとしたところである。

レンタカーの事務員に温泉施設の有無を確認したところ、幸いにすぐ近くに「がらっぱの湯」というスーパー銭湯が在るとのこと。 
「がらっぱ」とは、日向、薩摩地方で「河童」のことらしい。 

早速、その「河童の湯」を訪ねると、自前の温泉ではないが、岩風呂には霧島温泉の湯を直送しているとの事であった、ご苦労さん・・!。 

心身サッパリしたところで、今夜の泊まり場は久しぶりに愛車内とした。

次回は、「宮崎神宮




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2011年8月24日水曜日

日本周遊紀行(162) 都城 「母智丘の巨石」

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 日本周遊紀行(162) 都城 「母智丘の巨石」   .




母智丘は巨石文化の跡・・?

先ず、九州南部の火山について・・、
九州南端の鹿児島から、大分県南部を含む九州中央部まで、これらの地域の地表面から深さ10~70cm付近には、橙黄色のガラス質火山灰が堆積しているという。 

この火山灰は、凡そ約 6,000年前に「鬼界カルデラ」という巨大カルデラ(火山の活動によってできた大きな凹地のこと)が生成された時の大噴火の際に噴出したもので、この火山性土壌を特に「アカホヤ」とも呼ばれている。
この土壌は農業には適さないもので、地元・宮崎県の農家の人たちが、恨みを込めて名付けたともいわれる。


平家物語でも、平家に陰謀を企んだとして俊寛僧正らが流罪にされた島で有名な鬼界ヶ島であるが、現在、これらの島の場所ははっきりしないとされるが、鹿児島県南部の海域である薩南諸島の島のいずれかと考えられている。 

鬼界ヶ島で起きたとてつもない大噴火で、(鬼界カルデラを形成した噴火)上空高く舞い上がった火山灰は日本列島を縦断し、東北地方まで達しているともいう。 
火砕流という 噴火現象は、最近では1991~1995年の雲仙普賢岳噴火が思い出されるが、噴火の規模は、雲仙普賢岳などは対象外で、何でも、富士山一個分が全部吹き飛んだくらいの規模に相当するともいわれる・・?。


カルデラ形成を伴う大規模な噴火は、日本列島では1万年に1度くらい発生しているらしいが、有史時代以降には例がないという。 
人類としては、6000年前もの縄文人が唯一の目撃者で、残念なことに当時の縄文文化はこの時、一旦、ほぼ壊滅状態に陥ったことが推定されるという。 
大規模な噴火は、文明をも滅ぼすほどの大影響が有ったとされている。 

鬼界カルデラは、鹿児島県の南方に位置する竹島や硫黄島などの島々は、カルデラの縁の一部で、その殆どは海中に没しているともいう。 
因みに、鹿児島県下には他に、凡そ2万4、5千年前に鹿児島湾奥に生じた姶良火山(あいらかざん)というのもあり、桜島は姶良カルデラの外輪火山に相当するものともいう。 
九州は今でもそうだが、中央部の阿蘇から南部まで火山王国でもあった。

母智丘に巨石を奉ったとされる縄文人、あるいわ有史以前の人類は、この巨大な火山活動で絶滅の危機に陥ったことは確かだそうで尚、知恵をもって一筋の生命を絶やさなかったのも事実であるとされている。


そして、再び、巨石について・・、
石と人との付き合いは、つめれば人類が発生した当初から有ったと想像されてる。
道具として初め使用したのは「自然石」であっただろうが、後には石を加工して使用するようになり、生活用の備品としても使われた。 
以降、人間は自然と石を崇敬するようになり、ここから巨石文化、文明というのが日本を含め世界中に広がったとされている。
そして、これらは遺跡として現在に残されている。

巨石文明遺跡とは、明かな意志を持って人が築き上げた建築物であり、自然の悪戯で移動や加工された岩ではない。
しかし、巨石文明という言葉が生まれたように、数千年前のある時期に極めて広範囲に渡って巨石建造物が出現したことは事実であり、このような慣習が広い範囲に渡って生まれた背景は、尚、考察すべき価値があるといわれる。 


有名なエジプトのピラミッドのように、古代史の一角に占めるものはともかく、石器から縄文時代において巨石を加工し、運搬し、高位に揚げる技術は超人間的行為とされて、更に、研究推考が残されているという。 

いずれにしても、巨石文明は人為儀礼、太陽崇拝、天文台説などに繋がるともいわれる。 

母智丘神社の主要な巨石は全て「神石」とされ、巨石の前には赤い鳥居が設えてあって、その結界を示している。
ところで、普通に見られる神社などの「鳥居」というのは、最初は石の門であったとの説もある。
石門は結界(俗世間と神域の境目)への出入り口として非常に重要視され、それは普通の石ではなく巨石のカタチであるとされ、それが今の鳥居としての原型が継承されているとも言われる。


母智の丘の巨石は、麓から積み上げた超人間的な造作物か、霧島辺りの大噴火で吹き飛んできて堆積した自然造詣のものかは、尚、創造、研究が待たれるともいう。 

尚、この神社に似たような巨石に縁が深いと言われるのが、隣の山田町に在る「東霧島神社」(つまきりしま)であるという。 
ここの階段は自然石でてきており、「鬼が一夜にして積んだ」という伝説がある。 
神石といわれる別名、「裂磐(さくいわ)」もあり、巨木と巨石の林立する境内は、古代人の祭祀跡や住居跡があったともいわれる。 

東霧島神社、母智丘神社とも天孫降臨の「高千穂の霊峰」が望まれ、尤も、都城の町からも高千穂峰を主峰とする霧島連山が仰げる。 
地元の人は、高千穂峰のことを「おてんじょだけ」といい、「御天上獄」と書いているらしい。 
昔から都城盆地内に住む人達の祖先は、この山を「父なる山」と崇め、こう呼んできたという。


次回、「グッバイ・ファミリー




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2011年8月23日火曜日

日本周遊紀行(162) 都城 「島津の荘」

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 日本周遊紀行(162) 都城 「島津の荘」    ,




母智丘神社
写真:母智丘神社・拝殿

陰石
御神体とされる「陰石」




都城は、薩摩・島津氏の本家筋であった・・

東九州道を経て国道10号より「都城」へ入った。
地元の人はミヤコノジョウではなくて、薩摩風に“ミヤコンジョウ”と発音するそうである。 

南九州の山間の盆地であり、牛、豚、鶏などの畜産飼育が盛んでJA(Japan Agricultural Cooperative:農協)は日本の中で5本の指に入るくらいの豊かさだという。 
交通網も古来より発達していて、今では鉄道、高速道は勿論一般道も蜘蛛の巣のように張り巡らせている。 
平成18年1月1日、都城市、山之口町、高城町、山田町、高崎町の1市4町が合併し、新・都城市が誕生するという。



この地は、薩摩・島津の本家筋であることは意外と知られていない。
平安時代の後期に、大宰府の役人(平季基・たいらのすえもと)が当地を開いて「島津荘」を起こしたといわれる。 
以降「島津の庄」と称し、鎌倉期になると南九州一円に広がり日本最大の荘園になっていて、中央文化も流入し神社や寺院の建立など繁栄を極めたという。 
その頃の島津荘の中心であった都城一帯を、中世を通じて近年まで「庄内」とも呼ばれていた。

鎌倉幕府が成立すると、惟宗忠久(これむねただひさ)という人物が日向、大隅、薩摩の守護地頭としてこの地方を治める事になる。 
忠久は源氏宗家出身で、頼朝の子(御落胤)という説もあり、後に姓を地名に因んで島津と改め、島津の元祖となっている。 

戦国期、九州の関ケ原といわれる島津一族の伊集院氏と島津氏の内紛・攻防である「庄内の乱」というのが勃発する。
この内戦は、都城盆地を舞台に約一年余り続いたというが、ついに伊集院氏が降伏、北郷忠能(ほんごうただよし・島津家の筆頭分家)が城持領主となり、薩摩藩最大の私領(支領)として幕末まで都城を領している。

「都城」の地名は都乃城(城郭)から起こっていて、14世紀頃に北郷氏が当地、都島に築城された故に「都之城」と名付けられ、後に一帯の地名と由来となったといわれている。 
行政名として「都城」が発祥するのは比較的新しく、明治初期の「新県設置の令」が発せられ都城県が置かれたのが始まりという。


神話の国、天孫降臨の日向の国であるが、実際はどうであったか・・?
都城、つまり庄内にはいつ頃から人が住み着いたか確定はされていないが、遺構、遺物等から凡そ、10,000年~6,000年位前の縄文時代早期には既に人が生活していたと言われている。 
その痕跡が、市街地の北西に鎮座する「母智丘神社」にあるといわれている。 

遠目から見ると、お椀を伏せたような小山が点々と有り、その内の一角に、こんもり丸いカワイイ山がその名も母智の丘といい、読みは「モチオ」というらしい。 
社宮は、江戸期の創建で神社としては比較的新しく、本殿もごく普通の造りで特に派手な煌びやかさはない。
御祭神は豊受姫神(トヨウケヒメノカミ)と大年神(オオトシノカミ)で、豊受神はご承知、伊勢神宮の外宮の祭神・豊受大神宮に由来し、因みに、神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。


又、この神社の特徴的なのが「磐座・巨石」を御神体とし、聖なる石として崇めていることだろう。 
社殿の裏には石峰稲荷という一枚岩の巨石を中心とした巨石群が散在する。

この丘の巨石群は、実際は火山の噴出によるものとも言われるが当時は、火山灰であるアカホヤ土(赤ボラともいう※)という地中に埋まっていたもので、母智丘神社再建工事のときに発掘されたという。 

巨石はワニ石、稲荷石、陰陽石などと命名され、特に、陰陽石は数m規模の大きさで雌石、雄石を表し母智丘神社の主神体になっているという。 
陰石(雌石)はこの神社の象徴で、願水をかけると縁結び、安産の霊験があるとされている。

ある筋の専門家に言わせると、この丘は巨石を積み上げた小山(高さ約30m位のピラミッド)に違いないと称し、ストーンサークルやストーンヘンジのような巨石を配した巨石文化の象徴であり、日本のピラミッドである可能性もあるともいわれるが・・?。
  

次回、「母智丘の巨石




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2011年8月22日月曜日

日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩と土佐」

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日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩と土佐」 ,



城山の麓、鹿児島市内を見守る「西郷どん」




「薩摩には 偉大な山が 三つあり 桜に開聞 西郷どんよ」・・、

鹿児島市内から再び九州道に乗り、加治木JCTから東九州道を経て都城へ向かう。
朝方の雨模様から、今はすっかり青空の区域が広がっている。
雨で洗われたせいか、鹿児島市街の上空も澄んでいて、再び煙がたなびく桜島の勇姿が望めるようになっていた。

鹿児島の錦江湾に浮かぶ桜島は、どこから見ても雄大で美しく見るものを圧倒する。
そして、鹿児島では桜島にも引けをとらない偉大なる人物で人気者は、やはり「西郷どん」であろう。

過日、市内の名所を訪れた時に、西郷隆盛のことを記したが、「西郷と言えば薩摩、薩摩と言えば西郷」と言われる程である。 
克って、土佐の竜馬は西郷を「西郷は馬鹿である。しかしその馬鹿の幅が、どれ程大きいか判らない、小さく叩けば小さく成り、大きく叩けば大きく成る」と言っている。 

一方、西郷も竜馬のことを、「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」と称している。


『 薩摩には 偉大な山が 三つあり 
           桜に開聞 西郷どんよ
 』 小生


思えば、西郷の薩摩と龍馬の土佐は共通項が多いのに気が付く。
前述した焼酎に関しては、土佐も焼酎造りが盛んで、鹿児島県のいも焼酎はともかく、土佐は栗焼酎が有名である。 
土佐の高知は古来より栗の特産地で、特に四万十流域に多いと言う。 

地域的には、鹿児島も高知も江戸や京から覗うと辺境・僻地である。 
日本の果てといっていいほど、どちらも江戸・東京から遠い、遠すぎるのである。 

江戸時代には、島津の殿様は江戸と鹿児島を片道50泊かけて参勤交代したとされ、江戸からはどれだけ鹿児島が遠いところか分かる。 
だが、高知も遠さでは負けていない。本州の果てから瀬戸内海を渡ると、四国を横断する峻険な山地が控え、更に吉野川上流の大歩危・小歩危という渓谷を縫って、やっとの思いで高知に着く。 
紀貫之の「土佐日記」にも記されているように、京の人が土佐に旅することは、地の端に行くような覚悟が必要だったのではないだろうか。


ところで、中央から遠いからなのだろうか、薩摩も土佐も人柄が純朴そうなイメージがあり、薩摩は「ぼっけもん」、土佐は「いごっそう」というい、男子は、とても頑固で硬派な感じは共通する。 
薩摩隼人は怒ったり気合を入れる時に「ちぇすとー・・!」と掛け声を上げ、土佐人は腹が立つと「なめたらあかんぜよ・・!」と相手を威嚇する。

又、武士や藩主の間柄も共通部分が多い。
先にも記したが、薩摩武士(薩摩隼人)には城下士と郷士という身分制度があり、この間で格差、確執が激しかった。 
土佐では江戸初期に山内家が土佐に入り、山内士(やまのうちさむらい・城士)と旧来の一領具足(前領主・長宗我部氏によって行われた農兵制度、後には土佐藩・郷士の別名となる)所謂、郷士との身分格差による抵抗が激しかった。 

これらの相容れない競争意識が幕末、国を動かす原動力になっているのである。 
これに幕末には藩主・土佐の山内氏、薩摩の島津氏ともに改革派の名君として知られる。

又、現在でも、鹿児島も高知も教育熱が高い土地であるということも共通している。 
鹿児島はラ・サールや鶴丸、高知は土佐・高知学芸といった進学実績の高い名門高校も多く、高校野球も強い。 

そして何といっても、鹿児島と高知は歴史を変えた一大地域である。 
なにしろ鹿児島は西郷高知は龍馬の出身地で、彼らが成し遂げた大業は革命であり、その後の近代日本の国家百年の運命を決定づけ、日本史を変えた両雄であることは言を待たない。


次回は、「都城




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2011年8月21日日曜日

日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩・芋焼酎」

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 日本周遊紀行(161)鹿児島 「薩摩・芋焼酎」   .




鹿児島県は、全国生産量の7割を越す焼酎王国である・・、

再び、川辺I・Cより指宿スカイラインに乗り、国道225で鹿児島市内へ向かう。
途中、昼食を摂りながら同店内の、かなり大きな薩摩焼酎の展示、試飲及び御土産店を覗いてみた。 
主に鹿児島県内特産の各種“薩摩芋焼酎”をずらっと展示し試飲させている。 
人気のブランド一品購入する、更に、娘婿が気を利かして小詰(180mm)の芋焼酎を数本頂いた。 
飲兵衛の小生にとっては有難いことである。 


鹿児島の焼酎は、主として甘藷(カンショ・さつまいも)を原料にしていることは、愛飲家ならずともご承知である。
そもそも、焼酎は蒸留酒の一種で、一般的に、日本酒の製造過程の際の醪(モロミ)または酒粕を蒸留し、水で薄めたものである。 
焼酎の原料は多彩で米、麦、粟、黍(キヒ)、稗(ヒエ)、トウモロコシ、甘藷、馬鈴薯、糖蜜など各種で、つまり、デンプン質を含むものなら何でも可なのである。

因みに、お酒は醸造酒、蒸留酒、混成酒(醸造酒、蒸留酒、アルコール:飲用エチルアルコールに種々の果実、香料、甘味料などを加えて造った酒。
リキュール、果実酒、みりんの類などの再製酒)の三つに大別され、焼酎はむろん蒸留酒である。 

醸造酒の代表的なものには、うるち米と米麹(こめこうじ)を主原料とする清酒、もち米と麦麹でつくる紹興酒(紹興酒・中国の酒)、麦芽を主原料とするビール、ぶどうからつくるワインなどがある。 

蒸留酒は醸造酒を蒸留したもので、代表的なものは清酒を蒸留したものが米焼酎、ビールからはウィスキー、ワインからはブランデーがつくられる。 
実際には漉(こ)して澄んだ液(酒)を蒸留しても旨みが無いので、漉す前の発酵液を蒸留することになる。


焼酎の発祥は中近東、東南アジアとも言われ、それが中国に伝わり、更に、中国と交易のあった琉球へと伝わったという。 
東南アジアは米の原産地であるので、当然原料は米が主であり、琉球では泡盛(造るときに、蒸留器から滴る成分が泡になって、器に盛り上がるからその名が付いたという)と称していた。 

16世紀前半、薩摩には中世の港町であった「坊津」(ぼうのつ・※)を通じ、中国や琉球を経由して東南アジアの蒸留酒が伝えられたという。 
米の麹を唯一の原料とする琉球泡盛が本土九州に伝えられると酒粕、甘藷、麦などのほか、雑穀を原料として多種多様な焼酎が生まれた。 

元々、薩摩地方は火山国であり、桜島や開聞岳からの火山灰が積もった土壌(シラス台地)は稲作に不向きで、藩では米を他藩から買い入れて不足を補っていたともいう。 

シラス台地は稲作に適さないので、米の代用食として畑作のサツマイモが発達した。 
サツマイモは甘藷、唐芋といって、これも中国、琉球から伝わってきている。
甘藷の伝来が正確に何時のことであったかはともかく、米不足の薩摩で琉球から伝わった蒸留酒の原料になる米の代わりに、甘藷を使用するのは当然の成り行きであった。 
現在でも7割が畑として利用されており、畑地率が高く、畑作を代表する地域が薩摩半島南部である。

米のかわりに甘藷を使い、強い酒を生み出す唐芋焼酎づくりは急速に普及し、天明3年(1783年)には島津領内には3000軒の焼酎屋があったと言われている。 
その後、米麹と甘藷と水を一度に甕へ仕込む、「どんぶり仕込み」という製法は大正時代の初めまで続いたといい、 現在、鹿児島県は全国の7割を越す焼酎王国でもある。


(※) 「坊津」は薩摩(鹿児島)南端・西部海岸に位置し、古代から中国や南方諸国の受け入れ口として栄えた。
中世からは島津氏の中国・琉球貿易の根拠地でもあり、倭寇や遣明船の寄港地でもあった。 江戸時代になると貿易港としての重要地は長崎へ移り衰退するが、薩摩藩の密貿易の地としてその地位は保っていた。伊勢の「安濃津」、博多の「那ノ津」と並ぶ日本三古津の一つとされる。


次回は、「薩摩と土佐




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01. 15.

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