google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2010-06-13

2010年6月19日土曜日

日本周遊紀行;温泉と観光(30)風間浦 「下風呂温泉」

是より東北沿岸部(太平洋岸)の「温泉と観光」を巡ります。




日本周遊紀行;温泉と観光(30)風間浦 「下風呂温泉」


下風呂温泉の大湯

大湯の湯船



先ずは本州北の果ての温泉「下風呂温泉」から・・、

大間に到着した頃には、すっかり闇に包まれていた。 これからの目的地は評判の「下風呂温泉」である。

本州最北端の村・風間浦の海道沿いである国道279号を行く。 
暫くすると、いささか眩しいくらいのネオンの歓迎灯が光っている。 
路地へ入ると田舎の小さな温泉街の風情があった。


共同浴場は二軒大湯と新湯があるようだが、その「大湯」へ向かった。 300円の銭湯を払ってイザ湯船へ。
硫黄の香りがプンプンする、お湯は緑白色、身体にジンワリと効きそうだ。
湯船と床は総ヒバ・・?(この地から内陸部に、明日向かう予定の薬研地区はヒバの原生林で有名)造りで感触が実に気持ちが良い。 

洗い場で若い衆と御老体が盛んに会話を交わしていたが本場の津軽弁であろう、東北出身(いわき)の小生でもチンプンカンプンである。

湯上りに何とはなしに、おしゃべり好きそうな番台の女将が『この大湯はNHKで放送している、「ふだんぎの温泉」で、第一回目に放送された記念の湯だよ、この前も民放TV局が来て色々撮って行ったよ・・、』と津軽弁で話してくれる。 
小生も何度か、この放送は見ている。 
吉 幾三のテーマ曲にのって地域密着、全国各地の情緒たっぷりの温泉を紹介しているのである。



下風呂温泉は下北半島の「まさかり形」の北側にあり、津軽海峡に面している。
対岸は北海道の函館と恵山で、特に恵山を眺めるには絶好の場所でもある。 

井上靖は昭和33年、この温泉地で小説「海峡」を執筆し、作品の舞台にもなっていて、当地・長谷旅館はその「海峡」の宿として知られる。
また、水上勉「飢餓海峡」の舞台にもなり、この作品は映画化もされている。



それにしても温泉場の名称が『風呂』と付くのが面白い。
下風呂」が在るのだから上風呂という名も在りそうだが、そうではないらしい。
温泉名は、この地域のことをアイヌ語で岩(シュマ)臭い(フラ)が語源とされ、「シュマフラ」と言っていたことに由来するという。

尤も、風呂そのものの語源が、「窟」(いわや)や「岩室」(いわむろ)の意味を持つ室(むろ)が転じたという説があるという。
又、抹茶を点てる際に使う釜の「風炉」から転じたという説もあるが。



序ながら「風呂」について・・、  

昔の人の「風呂」という概念は釜に湯を沸かし、その蒸気を浴槽内に送り込み、熱い水蒸気により身体の垢を浮き上がらせてから、ぬるま湯や冷水で身体を洗うといったもので、現在に言う、蒸し風呂・サウナのようなもだった。 

江戸期初期の頃に「戸棚風呂」といって下半身を湯に浸し、上半身を蒸気で蒸すという。 お風呂と湯浴をミックスした仕組みになっていたらしい、云わば、半身浴のようなものだったという。 
現代のような、全身を湯が満たされた浴槽に入るようになったのは江戸期以降といわれて、その頃江戸に湯屋が開業し、風俗絵にもなっている。


下風呂温泉は室町時代からの歴史をもつといわれ、室町期の地図にも「湯本」との記載がされているという。
江戸初期の1656年には、南部藩藩主・南部重信が入湯しているとも云われる。


近世はニシン漁師の湯治場として栄え、現在はイカ漁の行われる漁港として温泉街が成立している。
温泉は、大畑と大間の中間あたりの海岸にあり、温泉ホテル、宿、民宿が立ち並んでいるが鄙びた温泉場という印象で、チョットした温泉街という雰囲気では本州最北端であろう。 

泉質は、含塩化土類硫化水素泉と、今で言う硫黄泉であろう室町時代から刀傷や槍傷に薬効のある湯治場として知られたらしい。 


街には二つの共同浴場があり、「大湯」は硫黄分の多い白濁した高温の湯、通称男湯、そして「新湯」は幾分柔らかめで食塩が多く透明の湯らしい。 
切り傷、打撲傷、神経痛、婦人病、皮膚病などに効能がるといい、源泉は66度であると。

湯上りに、地元の寿司屋で生ビールと地元特産の海鮮丼をいただき、大満足であった。 

夜もトップリと更けてきて、今夜は大畑漁港の海辺で、マイカー宿とする。


次回は下北・「薬研温泉



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2010年6月18日金曜日

日本周遊紀行(111)いわき 「勿来の関」

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 日本周遊紀行(111)いわき 「勿来の関」 



勿来の関と源義家(八幡太郎義家)の像


いわき湯本から旧国道(6号)を経て、茨城県の県境でもある「勿来」(なこそ)へ来た。

国道から勿来海岸の反対側に小高い丘があり、その一角に古来の「勿来の関」がある。

東北の三古関白河の関、念珠関=鼠ヶ関)の一つであり、因みに、念珠が関(ねずがせき)は小生が出発して2日目に通過している。
又、この古関は源義経と弁慶ら主従一行が平泉に逃避する際に通過したことで知られる。 


勿来の関」は、往年の東北の都・多賀城へ通ずる、陸前浜海道の東北(蝦夷)への入り口として重要な関所であった。 
古記には大和朝廷期にヤマトタケルが蝦夷(えみし)の蛮族を征伐するのに通った、との記載もあり、既に4世紀ごろから主要街道として機能していたという。 

平安期の後期(1051年)においては東北・陸奥の国で一大動乱(前九年の役、後三年の役)が勃発する。
朝廷はこれを治めるべく源氏の棟梁「源義家」(八幡太郎義家)を陸奥国守として任地の陸奥国に赴かせる。 

この時、源義家は「勿来の関」で休泊の時、一句詠んでいる

 『吹く風を 勿来の関と 思へども
          道も背にちる 山桜かな



平安期の頃は東北(蝦夷)の戦乱期も加わって、この浜海道は大往来時代を迎えている。 
近くには岩城(いわき湯本)の「三箱の湯」もあって、高家、武人、都人、文人墨客(万葉人)等も多く行き来していた。

太洋を望む美景の丘・「勿来の関」は、奥州三古関 と呼ばれており、古くから万葉集の中でも詠まれ、その後も多くの歌人らによって詠まれたのがこの地である。

この周辺は古来より風光明媚な地にあって、松のこずえ越しに太平洋が一望できる。
今でも山桜の名勝としても有名で、県立自然公園に指定されている景勝地である。 
そして歌枕としても名高い「勿来の関」は、古来、“やんごとなき”人々より愛され、詠まれているのである。



みるめ刈る 海人のゆきゝの 湊路に 
        勿来の関も わが据なくに
』 新勅撰和歌集 「小野小町」
《海人が往来す湊路に来ないで、などという関は設けていないのに最近あなたは逢いに来てくれないのね》

惜しめども とまりもあへず 行く春を 
        勿来の山の 関もとめなむ
』 夫木和歌集 「紀 貫之」 
《いくら惜しんでも過ぎて行く春だけど、勿来の関よどうか春を止めて欲しい》

なこそとは 誰かはいひし 云はねども
         心に据ふる 関とこそみれ
』 玉葉和歌集 「和泉式部」 
《逢いに行けないと言う恋人の返事に《来ないでなんて誰が言ったと言うの、いいえ誰も言ってはいないわ、あなたが心に関を作って私に逢いに来ないだけだわ》

吹く風を 勿来の関と 思へども    
        道も背にちる 山桜かな
』 千載和歌集 「源 義家」
《花を散らす風は「来るな」、と言う勿来の関には来ないはずだが、何と道いっぱいに山桜が散っているとは・・・》

陸奥の 信夫の里に やすらいで
      勿来の関を 越えぞわずらふ
』 新勅撰和歌集 「西行」
《誰にも言えぬ人目を忍ぶ恋に、「来るな」と言う関を越すべきか越さざるべきか迷い悩む私です》

都には 君に相坂 近ければ 
      勿来の関は とほきとを知れ
』 続千載和歌集 「源 頼朝」

次回は、茨城県・「北茨城



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2010年6月17日木曜日

日本周遊紀行(111)いわき 「蛙の詩人・草野心平」

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 日本周遊紀行(111)いわき 「蛙の詩人・草野心平」  



「いわき」を語る時、一人の偉大な人物がいた。 

しかも、小生の大先輩でもあるから是非紹介しておきたい。 
かえるの詩人・「草野心平」氏である。



春の歌』 詩 草野 心平

かえるは、冬のあいだは土のなかにいて、春になると地上に出てきます。 
そのはじめての日のうた。

ほっ まぶしいな
ほっ うれしいな
みずはつるつる
かぜはそよそよ
ケルルン クック
ああいいにおいだケルルン クック

ほっ いぬのふぐりがさいている
ほっ おおきなくもがうごいてくる
ケルルン クックケルルン クック




かえるのシンペイ」は・1987年の文化勲章を受章している。

1931年、東京・麻布十番で焼鳥屋台「いわき」を開店した、
1952年、文京区に居酒屋「火の車」を開店、
1957年には新宿にバー「学校」を開いている。

かえるのシンペイは、やはりかえる同様、水に縁があったようだ。 
それでも貧乏神はシンペイの元を去らず、未だ面識のなかった宮沢賢治あてに「コメ1ピョウタノム」と電報を打った。 
賢治に電報を打ったのは、彼が農場を持っているのを知っていたのである。



この賢治のことをシンペイは、『 現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある天才は宮沢賢治だと言いたい。 世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。 彼の存在は私に力を与える(中略)、私は今只、世間ではほとんど無名に近い一人のすばらしい詩人の存在を大声で叫びたいのである。(中略)今後、彼はどんな仕事をしていくか、恐るべき彼の未来を想うのは私にとって恐ろしい悦びである。 宮沢賢治の芸術は世界の第一級の芸術の一つである 』と断言している。


そして、若き天才・宮沢賢治の死後まもない昭和8年、「日本詩壇」に載ったシンペイが送った追悼文の末尾に、『 最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つに、類まれなる大光芒が「宮沢賢治」であることはもう断じて誰の異義をもはさめない、一つのガンとした現実である 』と書いている。   

宮沢賢治
の偉大さと、又それを見抜いた草野心平の凄さがよく理解でき、草野心平はただ単なる「蛙の詩人」ではなく、彼こそ原始から未来への線上で大光芒を放つ詩人であり、世界に誇る哲学的詩人である。 
宮沢賢治と並ぶ、もう一人の「東北人らしい感性豊かな人の代表」なのである。


「草野心平」はただ単なる「蛙の詩人」ではない、偉大なる「蛙の詩人」なのである。

詩集「第百階級」の扉には、四行の題詞が書かれている。

「蛙はでつかい自然の讃嘆者である」
「蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである」
「蛙は明朗性なアナルシストである」


そして、『 蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す、この定義は悪魔だ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕は、それ故にのみ“かへる”を慈しみ、嫉妬の如き憎む 』とある。

かえる」は、自然の食物連鎖の中に組み込まれ、他の生物の食料になる可能性の中にいることが、他の生物を食料とすることの正当性がある。 

人間は自然の枠外に出て、しかも食物連鎖の頂点に立つ。 
もはや正当性はない。 
互いに殺しあうことによってのみ、その正当性を無理やり見出す。 
その幸、不幸を唱えるならば、悪夢を持たない「」のなんと幸福なこと・・!!と、「」を賛美しているのである。



草野心平は、1903年石城郡上小川(現いわき市小川)で生まれている。 
兄も詩人で、心平に大きな影響を与えたという。

旧制磐城中学(現、磐城高校・・小生の大先輩)、慶応大学普通部の入・退学を繰り返し、中国に渡って嶺南大学(現、中山大学)で学ぶ。 
帰国後、詩を書きながら貧窮の中で各地を転々としながら、編集者、記者、宣伝部員から貸本屋、焼鳥屋、居酒屋の経営まで手がけるが、商売上手ではなかったようである。 

そんな中で、宮沢賢治と八木重吉(日本の詩人:明治31年、町田市相原町に生まれる、キリスト教徒、肺結核により29歳の若さで死去)を広く世に紹介し、高村光太郎との温かい友情は終生続いたという。


詩人としては、詩集「第百階級」「定本・蛙」などで評価を確立し、蛙を通して生命力への賛美と自然のエネルギーをうたう「蛙の詩人」と親しまれた。
それが縁で、隣の福島県川内村(天然記念物モリアオガエルの生息地)の名誉村民になって毎年村を訪れ、自分の蔵書を村に寄付しているという。

いわき市名誉市民、日本芸術院会員、文化功労者のほか、昭和62年には文化勲章受賞。 昭和63年(1988)11月12日、85歳で生涯を終えている。


次回は、勿来の関



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2010年6月16日水曜日

日本周遊紀行(111)いわき 「いわき平」

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 日本周遊紀行(111)いわき 「いわき平」 



「いわき・平」について・・、


いわき市」は当時は、ひらがなの地域名として珍しがられた。 

昨今、多くの市町村が合併する際、さまざまな思惑から「ひらがな名」とした例が多いが、本市はその魁(さきがけ)といえる。 
そして、2003年4月までは日本一の面積を誇っていた。 

昭和40年の初め磐城地方の中心都市の平市(平・四倉地区))、炭鉱と歴史の内郷市(内郷・白水地区)、温泉と炭鉱の常磐市(湯本・湯長谷地区))、港湾都市の磐城市(小名浜・泉地区)、海浜と歴史の勿来市(勿来・植田地区)、と周辺五市が大合併して現在の「いわき市」が誕生している。 そして、市域面積も日本一になっていた。

しかし、2003年4月、静岡市と清水市の合併で、最大面積を持つ市の座を明け渡すこととなり、現在は、岐阜県高山市が日本一面積の大きな市となっている。
ちなみに本年(2006年)では、地域面積は第13位になっているようだが、最近の平成の大合併で、今後多いに変動する可能性はある。


2006年4月現在の市町村面積(km2)

1  岐阜県 高山市  2,177.67
2  静岡県 浜松市  1,511.17
3  栃木県 日光市  1,449.87
4  北海道 北見市  1,427.56
5 北海道足寄郡 足寄町 1,408.09
・・・
13  福島県 いわき市  1,231.34


「いわき市」は、福島県浜通りの南東に位置し、東は太平洋に面し、西は阿武隈高地に面し7割が山間部で、残る3割に居住区が分散する。 
東北地方としては珍しく、涼夏暖冬地域で、比較的寒暖の差も少なく、山間部を除いてめったに雪は降らない。 
又、地盤が硬いために大きな地震が起き難いと云われるようである。

この、いわきの中心、浜通り地区の最大都市が「平地区」である。 
行政、商勢圏とも今、再開発の発展途上にあるようで、駅前辺りの景観がガラリと変わるらしい。 
駅名は、近年の平成6年(1994年)、常磐線・平駅から市民の要望により「いわき駅」に改名している。

常磐線・平駅は、小生が学生の頃の昭和30年代前半頃までは、まだ、SL・蒸気機関車であった。 黒煙を吐きながら、力強く前進する蒸気機関車の列車が懐かしい。

学生当時、平~湯本間を通学(県立磐城高校)していた頃はまだS・Lで、発車してもユックリ発進したもんで、時折、改札を通らないで駅舎の端から線路沿いに追いかけて行ってデッキに飛び乗ったものであった。
3学年頃になって、気動車(ジーゼルカー)になり、発車速度も速く、自動ドアーになったため、その楽しみも出来なくなったが、後の昭和30年後半には平駅まで電化された。 
その時も、電車の始動の速さに驚いたものであった。
因みに、当時のSLで平⇒上野は7時間前後かかっていたが、現在では2時間少々のようである。



「いわき」の歴史概要について・・、

先にも記載したが・・、いわき地方は元は石城、石城郡と称し、小生幼少の頃は「福島県石城郡・・」であった。

石城地方は歴史的には古く、奈良時代までに遡るといわれる。 
当時は常陸国(ひたちのくに)属し石城郡(いわきのこおり)と称し、大化の改新後、陸奥国・略して「みちのく」に編入され、同時に「磐城」に改名している。(明治になって周辺合併で、再び「石城郡」となる) 


平安後期には、岩城氏が石城地方に勢力を得て、中心を「岩城の平」とした。 

岩城氏は常陸・平氏 (ひたちへいし:武士の発生の大元と言われる常陸の平将門の同系)の血を汲む名族であり、その子孫が奥州に土着したことが岩城氏の始まりと言われ、その祖先の名を戴いて『』としたらしい。  
岩城氏は、平安期の奥州藤原氏(清原氏)との関係も深く、石城一帯の領国支配に成功する。

戦国期は、小田原城攻めで豊臣秀吉に謁見し領土は安堵されるが、関ヶ原の戦いで石田三成に加担、徳川家康に降伏して磐城12万石は除封され、お家は断絶となる。
尚、当時の岩城貞隆は、後に家康の重心(土井氏、本田氏)の助言や大阪夏の陣の功により、信濃・川中島藩1万石の創設を許され大名に復帰している。

又、その息子である岩城吉隆は出羽秋田・亀田藩に封され藩主となっている。(亀田藩の創立;現在の秋田・岩城)
更に、子供のなかった伯父・佐竹義宣(常陸の国より転封・初代秋田藩主)の養子に迎えられて秋田藩52万石の第二代藩主「佐竹義隆」となっている。


江戸期においては鳥居氏、内藤氏、井上氏、安藤氏の歴代藩主が其々入封している。

鳥居氏は、あの有名な関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる「伏見城攻防」での功により、直接家康より賜っていて、この時期に「磐城平城」が築城されている。 

磐城平城は、「いわき駅」裏手の城山地区にあった城で、今は住宅地となり昔の面影は城址が僅かに残るのみである。 
当時の姿は「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われ、この城の主目的は仙台藩・伊達氏の押さえにあったとされる。 
平の街並も純然たる城下町で、今も鍛冶町、紺屋町、材木町といった往時の職人街と思しき懐かしい地名が今も各所に残っている。


「内藤氏」について・・、

鳥居家が山形に転封後、磐城に来たのが「内藤氏」であった。
これにて磐城平藩は7万石となり、内藤家は永く江戸初期から125年間、六代の永きに亘って治めていた。 

六代目・内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられ、領民の不満が鬱積していた。

そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。 
その責任をとって内藤政樹は日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。

去るに及んで・・、

『 日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡) 
           またみちのくの(磐城) 人に逢うべし
 』 

と詠んでいる。


江戸期最後の大名は「安藤氏」で入封後、藩校・「施政堂」を八幡小路に創設し藩士の子弟を教育を行うなど善政を施している。 
特に、歴代藩主の中で最も有名なのは、第五代藩主・「安藤信正」であった。 

幕末の桜田門外の変の後、老中として幕政を主導したが、文久2年(1862年)の「坂下門の変」(江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃した事件で、この結果、安藤は負傷し、老中を罷免された)で失脚した。 
現在は「松ヶ岡公園」に銅像が残る。

その後の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟として西軍と決戦、鳥居氏築城から260余年を経て、いわき平城は落城している。


昭和41年、5市(平市、内郷市、常磐市、磐城市、勿来市)、4町(四ツ倉町、小川町、遠野町、久ノ浜町)、 5村(箕輪村、赤井村、三和村、好間村、大久村)が大同合併し、現在の「いわき市」が発足している。


次回は、「草野心平」




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2010年6月15日火曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 追筆「長谷寺」

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日本周遊紀行(110)いわき湯本 追筆「長谷寺」




上湯長谷「宇治山・長谷寺」


いわき湯本・「長谷寺」の追筆・・、 

過日、平成19年の秋分の日(2007年9月23日)に先祖が眠る故郷・田舎の寺院(白鳥山龍勝寺)がある白鳥、いわき湯本を墓参のために訪ねた。 
そして、その帰路、上湯長谷の「宇治山・長谷寺」へ立ち寄った。

県道・湯本-植田線の下湯長谷地区・スーパー「マルト」の信号を上湯長谷地区に向かって1kmほど行くと、そこに広い境内を構えた長谷寺があり、正面に大きく「長谷寺」と書かれた石柱が立っていた。


思えば、この辺りは子供の頃よく遊んだ地域でもあった。 
小さな丘の東方に「湯本第一小学校」があって、この学校は小生の母校であり、しかも住居は小学校のすぐ隣にあったのである。 
又、寺のすぐ北方直近には「湯本第一中学校」があって、通学途上は小学校の校庭を横断して寺の境内の直ぐ横を通り、通学していたものであった。 

寺院境内の様子は、昔日と今日とではおのずと様変わりしているとは思われるが、いずれにせよ小学校時代や中学の通学途中の道草によく遊び、ヤンチャをしたものである。
長谷寺は、幼少の頃の遊び場であり、実に懐かしい地域なのである。


今日は、彼岸の御中日ということも有って、墓参のための檀家衆の出入りも激しく車の交通整理員が2人も3人も出ているほどである。
舗装された坂道の両脇には大きな駐車場もあるが、ほぼ満車状態であった。

ところで、昨今われ等の生活状態も豊かになったのであろうか・・?、 
気が付くことに何れの寺院の墓地、墓石も新調しているらしく、真新しく光り輝いているのである。 無論、長谷寺の墓地も例外ではなかった。 

同寺の主要な墓地・霊園は北面高所にあって、杉林の囲まれヒッソリと、と言いたいが、本日は彼岸ということもあって大勢の参拝者で賑わっている。  
実は、小生は当持院に墓参に来たわけではなく、寺院本堂に参拝の傍ら長谷寺の歴史に興味があって、それらに関して訊ねて来たのである。


車を置いて本堂境内に向かう入り口に、これまた立派な石柱が立っていて、右に「宇治山・長谷寺」(うちさん・・)、左に「大同二年徳一大師開山」としてあった。更に進むと左手の大きな堂宇があり、その正面の上部、横向き看板に「徳一大師開山1200年記念・・・」と記してあった。

そうなのである・・!、 
本年は2007年、開山が平安初期の和暦の大同二年は西暦の807年に当たり、今年は実に限(きり)のいい1200年の開山記念の年なのである。 


境内は古刹寺院の瀟洒(しょうしゃ)な面影を存分に漂わせていて、心が洗われる清楚な雰囲気を醸し出している。
本堂に一礼を済まして横の寺務所を訪ねると、やはりというか、住職、若僧は秋の彼岸会などで出向いているようで不在であった。 
家人に1200年記念法事の件や同寺院の縁起書、案内書なるものの有無を訊ねたが要領を得ず、同寺の「観音立像」のパンフ一葉を有難く頂いて退所することにした。

尚、1200年記念大法要は、本年11月初旬に行われるらしい・・!。



「観音立像」の概要・・、

『 県重文(彫刻) 木造十一面観音立像 一体  本像は、別名長谷式十一面観音像といわれ、通常の十一面像と異なり、右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、岩座に立つ姿であり、材質はカヤ材と判定される。・・・腕は豊満な丸みを帯び、・・肩から腰の衣文(いもん)、腰から下の裳(も)はゆるく反転してて彫が深く、重量感をかもし出す。天衣は仏体とともに木で、彫刀のさえはみごとであり、鎌倉時代末期の特色である写実味をかなり表現している。・・・なお、本像の胎内銘については昭和35年以降その読解に努力し、・・・それによると胎内の腹部・背部の内刳り(うちえぐり)部分と両肩の腕側継ぎ目、さらに足先の裏面から総計673文字の墨書銘が確認された。 造立は文保二年(1318年)。延べ38日で完成したらしく、・・・仏師は能慶。 また造立者は岩崎氏。同氏の隆義公が父、隆印の七回忌と祖先の供養を兼ねた。それらの人名は、岩崎氏系図の欠を補う。当地の地名「岩崎西郷内長谷村」も確認した。また「奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也」と徳一大師による堂宇建立を示す中世資料の所在を証左した。・・付記、いわき市常磐上湯長谷町堀の内  長谷寺所有。  「いわき市の文化財」「市史調査報告」より・・ 』

と記している。

概説すると・・、

「 現在の観音様は、鎌倉時代後期の作で文保2年(1318)いわきの豪族岩崎氏が同家の先祖菩提を念じて大仏師・能慶をして、カヤ材寄木造りの総丈約270センチの檀像を長谷寺に寄進したとする。
観音様は右手に錫杖を持ち、岩座の台座に立つ典型的な長谷式の十一面観音である。 そして、衆生の苦悩の声を聞きつけると即座に台座より飛び降り、どんな地獄の底であっても杖をついて衆生に救いの掌をさしのべる、このような慈悲心溢れる姿で本堂中央に立っている。 尚、観音像は難陀龍王(なんだりゅうおう:両手に宝珠を持つ八大龍王の筆頭)、雨寶童子(うほうどうじ:福を得て災を除くという。神仏習合によって日本で創造されたもので、難陀龍王と共に十一面観音の脇侍として祀られることが多い。)を両脇侍に従え、所謂、長谷観音三尊仏として多くの参詣者に拝まれている
。 」

(平成19年:2007年9月下旬、 追加記載)

次回は、いわき平 



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2010年6月14日月曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と新興仏教」

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 日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と新興仏教」 


序ながら、徳一に関連して東北進出における奈良期から平安初期における仏教、仏僧について・・、


仏教界で大きく飛躍するのは、奈良から平安にかけてで新興宗教といわれる真言宗と天台宗で、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。 

従来は、奈良仏教と言われ「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、平城(奈良)から平安(京都)に都が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を吹き込み、これが平安二宗と呼ばれるものであった。

その時期、徳一という偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その南都六宗の中心にいたのが彼であった。 
当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったという。


最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。 
徳一は、その最澄に反撃を加えて五カ年間にわたる理論闘争三一権実諍論:法相宗の僧侶・徳一と日本天台宗の祖・最澄との間で行われた仏教宗論)を行い、その結果において最澄は徳一に勝てなかったとされている。 

最澄は、徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが徳一に遮られて成功しなかったという。

一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 
会津において磐梯恵日寺の建立時、空海は徳一に宛てて書をしたためている。

『 聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。 珍重珍重・・・』

 

小生拙宅(神奈川・厚木市)の二階の窓から、丹沢山系の一つ「大山」(おおやま・1252m)が見渡せる。 
山好きな小生が手軽に日帰りで行ける山であり、年に数度はトレーニング代わりに登山している山でもある。
思えばこの山も、徳一に因んだ筑波山、湯の岳、強いては大和の三輪山に類似しているのである。 

この丹沢大山も、神の山で古来より崇められ、江戸期にもなると「大山参り」といって近郷近在をはじめ遥か彼方より参詣にこられた由緒ある山なのである。

平安初期の820年、「空海」47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。
山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。 
現在は神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊が配してある。



同時期、東北にはもう一人偉大な人物がいた・・!、
これが最澄の弟子といわれるのが皮肉で面白い、慈覚大師「円仁」である。 

小生が東北を巡った際もお目にかかったが、東北の北端に三霊山と称される恐山・円通寺、瑞巌寺、それに中尊寺、山形市の立石寺(山寺)など、これら著名な仏閣の開祖である。
坂上田村麿の往くところ、「円仁」の蔭があったともいわれ、東北文化の成立に大きな役割を果たした高僧なのである。 


奈良末期から平安期の初年にかけて、東北・奥羽の先住民族である蝦夷(えみし)と大和朝廷との関係は緊迫していて、蝦夷との争乱がしばしば記録にも出てきている。 
大和朝廷は国の統一と西方文化を広めるため、都からの援軍、増派が度々されているが、蝦夷側の抵抗が激しく支配下に収めることに難渋していた。 

そんな中、蝦夷鎮圧(大和文化に従わせる)と西の文化(稲作文化)の融合を推し進めるべく登場したのが「坂上田村麻呂」であった。 
朝廷は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、武装した”稲作キャンペーン集団”ともいうべき大軍を派遣して、これを収めている。

坂上田村麻呂に制圧された後の陸奥の国において、蝦夷(エミシ)たちの疲弊した精神に対する戦後処理、情操にあたったのが、当時の国家的な仏教でもある天台宗であり、慈覚大師・円仁の存在であった。

円仁は最澄を超え、空海を超え、徳一を超えたともいわれ、円仁が布教活動にもっとも力を入れたところ、それが東北地方であった。 
円仁は、わが国が誇るべき世界の偉人であるともされている。



終わりに、「徳一」の偉大で尚且つ特異さは貴族の出でありながら、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済を熱心に説き、努めた大人物であった。 
その徳一が開祖した「いわき湯本の長谷寺」は、2007年(平成19年)で丁度、開建1200年の記念の年に当たる。

過日、この寺院を訪ねる機会を得た、それは次回でどうぞ。




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2010年6月13日日曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と藤原氏」

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 日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と藤原氏」



前回は奈良の三輪山、大和の国、そして大和朝廷の関わりを述べてきたが・・、

ここで、「藤原氏」が登場する。
これら大和朝廷及び天皇家を擁護し画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。 
製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 
「旧秩序」、「旧勢力」、「旧豪族」を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。


常陸の国に「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市宮中:常陸国一の宮)が壮大に鎮座している。香取神宮と並ぶ東国の大社であり、霞ヶ浦を中心とする大水郷地帯の歴史的中心でもある。

藤原氏の祖・藤原鎌足(中臣・なかとみのかまたり)は、この鹿島の地で生まれたと伝えられ、やがて大和の都に「春日大社」を分社遷宮し創祀したといわれる。 

この地鹿島は中臣(藤原)氏本流の地で、海人族であったとも言われる。 
鹿島神宮は、「常陸国風土記」や「延喜式神名帳」などに多くの記載があり、武甕槌命(タケミカズチ)とその子神の天足別(アマタラシワケ)命を祭神としている。 

武甕槌命は通常、記紀では迦具土神(カグツチノカミ)の血から生まれた神とされるが、藤原氏が奉斎する鹿島神宮の祭神・武甕槌命は、元より天孫降臨・天照大神の一族とされ、出雲の国の「国譲り」では、かの諏訪大社の大神・建御名方神(タケミナカタ)と相争い、これが日本における「大相撲」の起源ともされているのは有名な話である。


藤原鎌足は飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖にあたる。 
大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍するのは歴史上でも有名であるが。 
その子「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が実質的な「藤原姓」を名乗り、藤原氏の祖と言っても良い。 
その孫に藤原仲麻呂がいて、仲麻呂の第11子が「徳一」とされている。 
つまり、徳一は偉大なる不比等の曾孫にあたるのである。



ここまで、だいぶ話が飛び飛びになったが・・、

徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 
しかし、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として活躍したと思われる。


石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。 
常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 つまりは、早くから開けていたというより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。 
ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていたrasii


九州から畿内へ、更に中部、関東と大和朝廷の新勢力が広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが。 
この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが「徳一」であり、道具は武器でなく、仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。



仏教の普及が、古代からの信仰である土着神と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段で活躍したのは言うまでもない。

藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥の常陸の国・筑波山であるが、これより蝦夷への進出地と目されたのが、西の街道では陸奥の南端である会津地方であり、東の街道が「石城」であったのである。

徳一は筑波山に中禅寺を置いて根拠とし、会津の磐梯山に恵日寺を、そして「石城」には湯の岳山麓に長谷寺を置いて根本道場としたのである。 

その時、藤原家の相当なる経済的政治的な側面援助があったことは言をまたない。 
徳一は、藤原家の活躍地である大和の国・三輪山を念頭に、筑波山や磐梯山を開き、石城に湯の岳を開いたのである。 
領民のために、大和の三輪山を紹介して「サハコ神社」(温泉神社)を造らせたのかもしれない。



因みに筑波山については、『筑波詣』という記録に「本尊観世音坂東の札所なり。大堂巍々雲を貫き、結構美々たる荘厳は、中々言語に絶したり」とある。 又、『筑波山縁起』によれば「近国他国より参詣の輩、袖を連ね裾をからげ、昼夜の堺も無く、山の繁昌時を得たる有様であった」と記されている。 
何れも大繁盛として記録されている。 筑波山・中禅寺は、筑波神社との神仏習合の地であった。

そして、磐梯山・恵日寺(慧日寺)は会津地方最古の寺で、磐梯山の大噴火の翌年(807年)に開いたとされている。 
磐梯恵日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部をその境内とするほど広大な敷地を有し興隆をきわめたという。 無論、藤原一族の援助もこれあり、一時は寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたという。 
時期としては磐梯山の恐ろしい天変地異の後なので、農民達はあっさり入信したといわれ、会津地方に仏教文化が大きく花が開いたとされる。 

今でも厚い信仰と優れた仏教遺産が残っている。 
広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、将来に向けて復元整備が図られようとしている。 慧日寺は、磐梯神社との神仏習合の地でもある。



さて、地元・湯本のことであるが・・、

宇治山・長谷寺」は、湯の岳をいただく裾野のいわき市は湯本にある。 
正確には、いわき市上湯長谷堀の内地区で、湯本温泉地から歩いてもすぐのところである。

長谷寺の現状は、上記の二院ほどの華やかさは今のところは無い。 
徳一が、蝦夷開発の基地とし、隣国の常陸にも近く、藤原家の後押しがされたと思しき長谷寺は、往時は壮大無比の大寺院を想定されるが、今のところ、そのような痕跡はまったく無いのか、或いは発見されてはいないのである。
だが、霊峰・湯の岳を仰ぎ、霊験あらたかな温泉神社を配し、道後温泉、有馬温泉とともに三大古湯といわれるサハコの湯の古湯に漬かれば良しとしよう。
これも徳一の思し召しかもしれないのである。 


陸奥の国・「いわき湯本」が大きく拓けるのは平安中期以降の頃で、藤原家の御人々や源家の武人が、勿来の関で歌を詠み、サハコの湯に漬かって風雅に過ごしたとされる。 
戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として 文人芸人の来遊が絶えなかったという。

次回は、 いわき湯本・「徳一と新興仏教




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前回は奈良の三輪山、大和の国、そして大和朝廷の関わりを述べてきたが・・、

ここで、「藤原氏」が登場する。
これら大和朝廷及び天皇家を擁護し画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。 
製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 
「旧秩序」、「旧勢力」、「旧豪族」を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。


常陸の国に「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市宮中:常陸国一の宮)が壮大に鎮座している。香取神宮と並ぶ東国の大社であり、霞ヶ浦を中心とする大水郷地帯の歴史的中心でもある。

藤原氏の祖・藤原鎌足(中臣・なかとみのかまたり)は、この鹿島の地で生まれたと伝えられ、やがて大和の都に「春日大社」を分社遷宮し創祀したといわれる。 

この地鹿島は中臣(藤原)氏本流の地で、海人族であったとも言われる。 
鹿島神宮は、「常陸国風土記」や「延喜式神名帳」などに多くの記載があり、武甕槌命(タケミカズチ)とその子神の天足別(アマタラシワケ)命を祭神としている。 

武甕槌命は通常、記紀では迦具土神(カグツチノカミ)の血から生まれた神とされるが、藤原氏が奉斎する鹿島神宮の祭神・武甕槌命は、元より天孫降臨・天照大神の一族とされ、出雲の国の「国譲り」では、かの諏訪大社の大神・建御名方神(タケミナカタ)と相争い、これが日本における「大相撲」の起源ともされているのは有名な話である。


藤原鎌足は飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖にあたる。 
大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍するのは歴史上でも有名であるが。 
その子「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が実質的な「藤原姓」を名乗り、藤原氏の祖と言っても良い。 
その孫に藤原仲麻呂がいて、仲麻呂の第11子が「徳一」とされている。 
つまり、徳一は偉大なる不比等の曾孫にあたるのである。



ここまで、だいぶ話が飛び飛びになったが・・、

徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 
しかし、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として活躍したと思われる。


石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。 
常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 つまりは、早くから開けていたというより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。 
ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていた。

九州から畿内へ、更に中部、関東と大和朝廷の新勢力が広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが。 この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが「徳一」であり、道具は武器でなく、仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。



仏教の普及が、古代からの信仰である土着神と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段が活躍したのは言うまでもない。

藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥の常陸の国・筑波山であり、又、蝦夷の進出地とされる陸奥の南端では西の街道の会津地方であり、東の街道が「石城」であったのである。

徳一は、筑波山に中禅寺を、磐梯山に恵日寺を、そして「石城」には湯の岳山麓に長谷寺を置いて根本道場としたのである。 
その時、藤原家の相当なる経済的政治的な側面援助があったことは言をまたない。 
徳一は、藤原家の活躍地である大和の国・三輪山を念頭に、筑波山や磐梯山を開き、石城に湯の岳を開いたのである。 
領民のために、大和の三輪山を紹介して「サハコ神社」(温泉神社)を造らせたのかもしれない。



因みに筑波山については、『筑波詣』の記録に「本尊観世音坂東の札所なり。大堂巍々雲を貫き、結構美々たる荘厳は、中々言語に絶したり」とある。 又、『筑波山縁起』によれば「近国他国より参詣の輩、袖を連ね裾をからげ、昼夜の堺も無く、山の繁昌時を得たる有様であった」と記されている。 
何れも大繁盛として記録されている。筑波山・中禅寺は、筑波神社との神仏習合の地であった。

そして、磐梯山・恵日寺(慧日寺)は会津地方最古の寺で、磐梯山の大噴火の翌年(807年)に開いたとされている。 磐梯恵日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部をその境内とするほど広大な敷地を有し興隆をきわめたという。
無論、藤原一族の援助もこれあり、一時は寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたという。 

恐ろしい天変地異の後なので、農民達はあっさり入信したといわれ、会津地方に仏教文化が大きく花が開いた。 
今でも厚い信仰と優れた仏教遺産が残っている。 
広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、将来に向けて復元整備が図られようとしている。 慧日寺は、磐梯神社との神仏習合の地でもある。



さて、地元・湯本のことであるが・・、

宇治山・長谷寺」は、湯の岳をいただく裾野のいわき市は湯本にある。 正確には、いわき市上湯長谷堀の内地区で、湯本温泉地から歩いてもすぐのところである。

長谷寺の現状は、上記の二院ほどの華やかさは今のところは無い。 
徳一が、蝦夷開発の基地とし、隣国の常陸にも近く、藤原家の後押しがされたと思しき長谷寺は、往時は壮大無比の大寺院を想定されるが、今のところ、そのような痕跡はまったく無いのか、或いは発見されてはいないのである。
だが、霊峰・湯の岳を仰ぎ、霊験あらたかな温泉神社を配し、道後温泉、有馬温泉とともに三大古湯といわれる、サハコの湯の古湯に漬かれば良しとしよう。
これも徳一の思し召しと思えば良しとしよう。 

陸奥の国・「いわき湯本」が大きく拓けるのは平安中期以降の頃で、藤原家の御人々や源家の武人が、勿来の関で歌を詠み、サハコの湯に漬かって風雅に過ごしたとされる。 
戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として 文人芸人の来遊が絶えなかったという。

次回は、 いわき湯本・「徳一と新興仏教」




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