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日本周遊紀行(73)大樹 「大気町・・?」
大樹町は大気の町であった・・!、
その大樹町の中心部を東西に貫流しながら太平洋に注ぐ延長60数キロの「歴舟川」の清流が流れる。
「清流日本一」といわれるこの川は水質測定では1987年から3年連続と91、93、2000年に「日本一きれいな川」と環境省がお墨付きを与えた。
国土交通省より「水の郷百選」にも選ばれ、ニジマスやヤマベなど川魚が豊富であり又、「カムイコタン」をはじめとする中流域には「十勝八景」といわれる大自然の優景が見られるという。
又、この川は「宝の川」とも言われ、周辺では砂金を採取していた記録があり、明治中期ごろが砂金採取の黄金期を向えて一獲千金を目指した人が大挙して訪れたという。
この歴舟川の河口の北方、浜大樹を挟んで巨大な公園が在る。
太平洋に面し「大樹町多目的航空公園」といい、全国的にも珍しい航空専門の公園である。 グライダーなどのスカイスポーツなどを楽しむ場としても利用してきたが、現在は主に航空宇宙の研究実験が優先的に行われているという。
国が進める一大プロジェクトとしてJAXA(宇宙航空研究開発機構)やNICT(情報通信研究機構)といった国の研究機関が主唱する「成層圏プラットフォーム」と銘打って、通信放送や地球観測、災害監視などに関わる数々の実験・研究を実施しているという。
このプロジェクトは高度約20キロの成層圏に全長250メートルの飛行船十数機を浮かべ、「定点滞空飛行試験」と称して様々な実験を行っているのである。
実験の主な目的は・・、
1、 新しい通信・放送: :デジタル放送、携帯端末、超高速インターネット、移動通信などの先端技術。
2、 地球観測: :海洋、大気などの現象観測。
3、 気象情報のキャッチ、災害監視: :詳細気象観測、山火事、赤潮等の監視
4、 高層における大型飛行船の研究: :特に、この飛行船は地上近辺で運航する現有の飛行船とは異なり、成層圏の高度において実験研究するもので高高度、気象環境ともに技術的に難しい問題が多くある。 それは成層圏は低温、地上より強い紫外線、風力、風速といった環境であり、それにに耐えうる軽量な材料、十分な浮力と滞空能力などを必要とすること。 又、長期間の飛行に必要な昼夜の推進の動力源である太陽エネルギーを使った太陽電池や燃料電池などの効率のよい電源の問題。 それに、長期の運行に必要な浮力ガスであるヘリウムの漏れを最小にすること、等々の研究であるという。。
これらはいずれも世界で初の実験・研究といわれる。
十勝の野は平坦地で日照率が高く一定方向に吹く風など、比較的気候条件には恵まれ安定しているといわれる。又、この公園は太平洋に隣接していて、元々そこに広大な「多目的公園」を保有していた。 これ等の理由で国策としての実験場に選定されたという。
大樹町多目的航空公園では、その他にも航空に関する未来を見据えての「宇宙間の航空機」や「無人航空機」の実験研究やパイロットテスト等、各種航空に関する研究も同時に行っているという。
太平洋に面しているため船舶からも、「あの巨大な物体は何だ・・!!」と遥かに空飛ぶ飛行船に驚いた漁業者もいたとか。
大樹町は航空の町であり、大樹町は大気町でもあった。
次回は「襟裳岬」
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「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」
《スキー履歴》
「スキー履歴」
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2010年3月26日金曜日
日本周遊紀行(72)大樹町 「マルセイバターサンド」
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日本周遊紀行(72)大樹町 「マルセイバターサンド」
大樹は晩成・・・?、
ホロカヤントウ沼のすぐ近くに「晩成温泉」がある。 十勝地方には珍しい海岸沿いにある温泉であろう。
窓からは大平洋の大パノラマが広がっており、最近になって温泉に殺菌作用、高血圧に効果がある大量のヨードが含まれていることが判り、注目が高まっているといわれる。
温泉の名称もさることながら、この辺りの地域を「晩成」と称している。
大樹町の晩成で、これを模じって「大樹晩成」(大器晩成)にしたのではないが、 十勝・大樹地方は静岡県伊豆出身の依田勉三率いる「晩成社」(一種の会社組織)一行が明治16年に入植したのが開拓の始まりといわれ、そのためこの辺りの地名を「晩成」としたという。
一般に、北海道の開拓といえば官主導の屯田兵や旧幕府家臣によるものが主であるが、十勝、帯広一帯は一般民間人に拠るものが多く、晩成社はその一環でもある。
大樹町の「晩成温泉」はそれらに因んだ名前であり、現代に生きる人が祖先の人々に敬意を表して命名したのであろう、結構ことである。
十勝開拓のパイオニアとして知られる依田勉三氏にまつわる「晩成社史跡」が大樹町の晩成の生花苗地区にある。
サイロ跡や石碑などと共に復原された「依田勉三住居」は1893年(明治26年)に建てられたもので、切り妻様式の簡素な住居は1915年(大正4年)まで勉三が住んでいたという。
茫漠とした辺りの風景とともに往時の労苦を忍ばせる。
入植の3年後には大樹町に晩成社牧場を開いて酪農に取り組みながらバターなどの製造を開始、多くの苦難を乗り越えながら同牧場付近でさまざまな事業にも着手している。
勉三氏は大正14年、帯広の自宅で73歳の生涯を終えている。 勉三最後の言葉は「晩成社には何も残らん、しかし十勝の野には・・、」と言ったという。
因みに、北海道でも人気の高い有名な帯広・六花亭の銘菓「マルセイバターサンド」がある。 「六花亭」として社名変更した際に新登場したらしく、名前の由来は十勝開拓の祖・依田勉三が率いる晩成社が十勝で最初に作ったバター「マルセイバター」に因むものである。 包装紙は、勉三翁経営の晩成社牧場がバターを発売した当時に使ったラベルをソックリ模写したものであるという。
白地の用紙(包装用箱)に中央部が角ばった赤の図柄で、左より商品名の由来となる「成」の丸囲み文字つまりマルセイとして、○成の左右にはバとタの文字があり、中央に「MARUSEI BUTTER、MADE AT YODA BOKUJO、TOKATI HOKKAIDO JAPAN」とし、右に「マルセイバタ、依田牧場製、北海道 十勝」としてある。
当時はバターをバタと呼んでおり、包装紙にも「バタ」の表記が残る。
いずれも明治期に作られたクラシカルな絵柄の感じが良い。
「六花」(ろっか)とは、結晶が六角形であるところから雪の異称を指している。 六花亭には実際に「晩成」という名のお菓子もある。
因みに「マルセイバターサンド」は、20世紀を代表する日本の土産品でお菓子部門のアンケートでは、全国Best10の第7位にランクされているという。 小生たちが北海道を訪れた際は北海道でも名の知れた「白い恋人」が有るが、我々は「マルセイバターサンド」を好んでお土産にしている。
尚、大樹町は息子の嫁(実家は旭川市)の母の実家で、本年(平成17年)のゴールデンウイークに訪れている、詳しくは下記H・Pへ、
北海道旅行2005年
http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hokkaidou2005.htm
ところで、この晩成温泉などの位置関係は地域的には「大樹町」に属しているが、ほぼ隣接して忠類村がある。
大樹町は大きな町で、西側を日高の山地を境に太平洋、更には小さな忠類村を抱くように北側の地域にまで広がっている。
現在進行中である近隣町村の合併については、隣町の豊頃町や浦幌町が合併協議を進めていたらしいが、いろいろな事由によって賛成が得られず、協議会は破談になっている。
又、虫類村は北部に隣接する幕別町と合併の話が現在進行中であるとか。 (追記、2006年・平成18年 2月6日、忠類村を編入合併している)
虫類村は太平洋の沿岸至近にありながら、地域は内陸へ向かっていて海岸に接してはいない、隣接する大樹町が忠類村を抱くように海岸線を寡占しているのである。
私的考だが地理的には忠類村は大樹町と合併すべきである、と思うのだが 、やはり何か 思惑があるのだろうか。
忠類村は道内でも最も小地域の村ではあるまいか・・?、その忠類村は1969年に日本で初めてナウマン象の化石が発掘されたことで有名になり、ナウマン象が村のシンボルにもなっているという。
次回も、大樹町は大気町・・?
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日本周遊紀行(72)大樹町 「マルセイバターサンド」
大樹は晩成・・・?、
ホロカヤントウ沼のすぐ近くに「晩成温泉」がある。 十勝地方には珍しい海岸沿いにある温泉であろう。
窓からは大平洋の大パノラマが広がっており、最近になって温泉に殺菌作用、高血圧に効果がある大量のヨードが含まれていることが判り、注目が高まっているといわれる。
温泉の名称もさることながら、この辺りの地域を「晩成」と称している。
大樹町の晩成で、これを模じって「大樹晩成」(大器晩成)にしたのではないが、 十勝・大樹地方は静岡県伊豆出身の依田勉三率いる「晩成社」(一種の会社組織)一行が明治16年に入植したのが開拓の始まりといわれ、そのためこの辺りの地名を「晩成」としたという。
一般に、北海道の開拓といえば官主導の屯田兵や旧幕府家臣によるものが主であるが、十勝、帯広一帯は一般民間人に拠るものが多く、晩成社はその一環でもある。
大樹町の「晩成温泉」はそれらに因んだ名前であり、現代に生きる人が祖先の人々に敬意を表して命名したのであろう、結構ことである。
十勝開拓のパイオニアとして知られる依田勉三氏にまつわる「晩成社史跡」が大樹町の晩成の生花苗地区にある。
サイロ跡や石碑などと共に復原された「依田勉三住居」は1893年(明治26年)に建てられたもので、切り妻様式の簡素な住居は1915年(大正4年)まで勉三が住んでいたという。
茫漠とした辺りの風景とともに往時の労苦を忍ばせる。
入植の3年後には大樹町に晩成社牧場を開いて酪農に取り組みながらバターなどの製造を開始、多くの苦難を乗り越えながら同牧場付近でさまざまな事業にも着手している。
勉三氏は大正14年、帯広の自宅で73歳の生涯を終えている。 勉三最後の言葉は「晩成社には何も残らん、しかし十勝の野には・・、」と言ったという。
因みに、北海道でも人気の高い有名な帯広・六花亭の銘菓「マルセイバターサンド」がある。 「六花亭」として社名変更した際に新登場したらしく、名前の由来は十勝開拓の祖・依田勉三が率いる晩成社が十勝で最初に作ったバター「マルセイバター」に因むものである。 包装紙は、勉三翁経営の晩成社牧場がバターを発売した当時に使ったラベルをソックリ模写したものであるという。
白地の用紙(包装用箱)に中央部が角ばった赤の図柄で、左より商品名の由来となる「成」の丸囲み文字つまりマルセイとして、○成の左右にはバとタの文字があり、中央に「MARUSEI BUTTER、MADE AT YODA BOKUJO、TOKATI HOKKAIDO JAPAN」とし、右に「マルセイバタ、依田牧場製、北海道 十勝」としてある。
当時はバターをバタと呼んでおり、包装紙にも「バタ」の表記が残る。
いずれも明治期に作られたクラシカルな絵柄の感じが良い。
「六花」(ろっか)とは、結晶が六角形であるところから雪の異称を指している。 六花亭には実際に「晩成」という名のお菓子もある。
因みに「マルセイバターサンド」は、20世紀を代表する日本の土産品でお菓子部門のアンケートでは、全国Best10の第7位にランクされているという。 小生たちが北海道を訪れた際は北海道でも名の知れた「白い恋人」が有るが、我々は「マルセイバターサンド」を好んでお土産にしている。
尚、大樹町は息子の嫁(実家は旭川市)の母の実家で、本年(平成17年)のゴールデンウイークに訪れている、詳しくは下記H・Pへ、
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ところで、この晩成温泉などの位置関係は地域的には「大樹町」に属しているが、ほぼ隣接して忠類村がある。
大樹町は大きな町で、西側を日高の山地を境に太平洋、更には小さな忠類村を抱くように北側の地域にまで広がっている。
現在進行中である近隣町村の合併については、隣町の豊頃町や浦幌町が合併協議を進めていたらしいが、いろいろな事由によって賛成が得られず、協議会は破談になっている。
又、虫類村は北部に隣接する幕別町と合併の話が現在進行中であるとか。 (追記、2006年・平成18年 2月6日、忠類村を編入合併している)
虫類村は太平洋の沿岸至近にありながら、地域は内陸へ向かっていて海岸に接してはいない、隣接する大樹町が忠類村を抱くように海岸線を寡占しているのである。
私的考だが地理的には忠類村は大樹町と合併すべきである、と思うのだが 、やはり何か 思惑があるのだろうか。
忠類村は道内でも最も小地域の村ではあるまいか・・?、その忠類村は1969年に日本で初めてナウマン象の化石が発掘されたことで有名になり、ナウマン象が村のシンボルにもなっているという。
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2010年3月24日水曜日
日本周遊紀行(71)十勝 「巨魚・イトウ」
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日本周遊紀行(71)十勝 「巨魚・イトウ」
十勝川を過ぎると、サッパリした森林帯の中を、ややアップダウンを繰り返しながら進む。
ここから眺める事は出来ないが海岸線に沿って長節湖、湧洞沼、生花苗沼、ホロカヤントウ沼という湖沼愚群が点々と並び、周辺は大小の湿原が取り巻いている。 いかにも北海道らしい原風景であることに変わりなく、優美な風景を演出していることだろう。
中でも最大の湖沼は湧洞沼であり、この沼には「巨大イトウ」にまつわる伝説があるという。
『 沼とつながる湧洞川上流にアイヌ民族の村があった頃の話で、その年は大渇水に悩まされ人々は沼まで水をくみに行かねばならなかった。 近づくと、渇水期で水が少ないはずなのに、沼は満水状態で溢れ出るようであった。 見ると沼と川との水口に大きなイトウが横たわり、水の流れを塞いでいたのである。 そして周りには無数の小魚が群がっていたという。 「かねがね湧洞沼の主はイトウと聞いていたが、この干ばつで子孫の絶えるのを恐れて、自ら死をもって子孫のために堤となって犠牲になったのだろう」・・、』という話である。
現在、「イトウ」の生息地は、道内でも限られた河川流域でしか確認できないといい、激減、絶滅の危惧種の一種だという。
イトウは体長が2mを越す国内最大級の淡水魚、サケ科の大型魚で「幻の魚」と言われている。 かっては青森や岩手などにも生息していたが、今は北海道、サハリンなどロシア極東の一部にしか存在しないという。
成魚の体長は150cmを超え、一生の間に川の上流から下流を行き来し、稀に海にも出ることもある。 20年以上も生きた例も報告され、強い歯を持つ肉食魚で、マニアックな釣り人にも人気だが、近年は滅多に釣れないため「幻の魚」と言われる所以である。
「イトウ」といえば、克ってテレビのドキュメンタリー番組で「開高 健の海外釣紀行」(仮題)で、アラスカかどっかで巨大なイトウを釣り上げたのを記憶している。
開高 健(かいこう たけし)といえば、ベトナムで従軍記者として九死に一生を得た事でも有名であるが、むろん自然派の作家である。
後半生は熱心な釣師としても知られ、日本はもちろん世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、「オーパ」、「フィッシュ・オン」など釣りをテーマにした作品も多い。 現在では浸透している「キャッチアンドリリース」(釣った魚を河に戻す)という思想を広めたのも彼だと言われている。
その釣り紀行のエッセイ・ノンフィクションの内容は卓越したもので、その中で北海道の根釧原野で幻の魚イトウを初めて釣ったときのことを彼は記している。
『カッと巨口をひらいたまま息をひきとりつつ、肌の色がみるみる変わっていく二尺五寸(75センチ)のイトウに、いいようのない恍惚と哀惜、そしてくっきりそれとわかる畏敬の念をおぼえる。これこそがこの大湿原の核心であり、本質である。蒼古の戦士は眼をまじまじ瞠ったまま静かに死んでいき、顔貌を変えた』と。
又、釣り専門誌「オーパ!」の中での釣りを描写する語彙は、たちまち釣り師・釣り好きな少年たちの間に広まって、釣り雑誌には開高健の言葉が氾濫するようになったという。
『ふいに強い手でグイと竿さきがひきこまれたかと思うと、次の瞬間、水が炸裂した。一匹の果敢な魚が跳ねた。右に跳ねては潜り、消えては走り、落下しては跳躍した・・、』
かくして釣り雑誌では、いまだに「水が炸裂し」、魚が「走り」、「跳びまくっている」、などと独特の表現で書いているという。
北海道の川の生態系の頂点に君臨する王者イトウは、陸の「ヒグマ」、空の「シマフクロウ」とならぶ自然保護の象徴的生物でもある。時に、研究者によるイトウの生息調査が行なわれているが、実際のところ産卵可能な親魚が道内に何匹生息しているかはよく分かっていないという。 そして川魚を好む釣り人には「いつかは釣ってみたい魚」として人気が高く、一年中イトウだけを追いかけるというイトウ専門釣り師も存在する。
釣魚としての「イトウ」の魅力は、第一にその並外れた大きさであろう。
現在でも北海道には150cm以上のの巨大魚がいると真密かにいわれているという。 第二の魅力は「幻の魚」と呼ばれる希少価値であろう。 そう簡単に釣れないから釣り人は知識と経験と情報を総動員して、途方もないエネルギーと時間を費やしてこの名魚を追うのである。
次回は、大樹町
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日本周遊紀行(71)十勝 「巨魚・イトウ」
十勝川を過ぎると、サッパリした森林帯の中を、ややアップダウンを繰り返しながら進む。
ここから眺める事は出来ないが海岸線に沿って長節湖、湧洞沼、生花苗沼、ホロカヤントウ沼という湖沼愚群が点々と並び、周辺は大小の湿原が取り巻いている。 いかにも北海道らしい原風景であることに変わりなく、優美な風景を演出していることだろう。
中でも最大の湖沼は湧洞沼であり、この沼には「巨大イトウ」にまつわる伝説があるという。
『 沼とつながる湧洞川上流にアイヌ民族の村があった頃の話で、その年は大渇水に悩まされ人々は沼まで水をくみに行かねばならなかった。 近づくと、渇水期で水が少ないはずなのに、沼は満水状態で溢れ出るようであった。 見ると沼と川との水口に大きなイトウが横たわり、水の流れを塞いでいたのである。 そして周りには無数の小魚が群がっていたという。 「かねがね湧洞沼の主はイトウと聞いていたが、この干ばつで子孫の絶えるのを恐れて、自ら死をもって子孫のために堤となって犠牲になったのだろう」・・、』という話である。
現在、「イトウ」の生息地は、道内でも限られた河川流域でしか確認できないといい、激減、絶滅の危惧種の一種だという。
イトウは体長が2mを越す国内最大級の淡水魚、サケ科の大型魚で「幻の魚」と言われている。 かっては青森や岩手などにも生息していたが、今は北海道、サハリンなどロシア極東の一部にしか存在しないという。
成魚の体長は150cmを超え、一生の間に川の上流から下流を行き来し、稀に海にも出ることもある。 20年以上も生きた例も報告され、強い歯を持つ肉食魚で、マニアックな釣り人にも人気だが、近年は滅多に釣れないため「幻の魚」と言われる所以である。
「イトウ」といえば、克ってテレビのドキュメンタリー番組で「開高 健の海外釣紀行」(仮題)で、アラスカかどっかで巨大なイトウを釣り上げたのを記憶している。
開高 健(かいこう たけし)といえば、ベトナムで従軍記者として九死に一生を得た事でも有名であるが、むろん自然派の作家である。
後半生は熱心な釣師としても知られ、日本はもちろん世界中に釣行し、様々な魚を釣り上げ、「オーパ」、「フィッシュ・オン」など釣りをテーマにした作品も多い。 現在では浸透している「キャッチアンドリリース」(釣った魚を河に戻す)という思想を広めたのも彼だと言われている。
その釣り紀行のエッセイ・ノンフィクションの内容は卓越したもので、その中で北海道の根釧原野で幻の魚イトウを初めて釣ったときのことを彼は記している。
『カッと巨口をひらいたまま息をひきとりつつ、肌の色がみるみる変わっていく二尺五寸(75センチ)のイトウに、いいようのない恍惚と哀惜、そしてくっきりそれとわかる畏敬の念をおぼえる。これこそがこの大湿原の核心であり、本質である。蒼古の戦士は眼をまじまじ瞠ったまま静かに死んでいき、顔貌を変えた』と。
又、釣り専門誌「オーパ!」の中での釣りを描写する語彙は、たちまち釣り師・釣り好きな少年たちの間に広まって、釣り雑誌には開高健の言葉が氾濫するようになったという。
『ふいに強い手でグイと竿さきがひきこまれたかと思うと、次の瞬間、水が炸裂した。一匹の果敢な魚が跳ねた。右に跳ねては潜り、消えては走り、落下しては跳躍した・・、』
かくして釣り雑誌では、いまだに「水が炸裂し」、魚が「走り」、「跳びまくっている」、などと独特の表現で書いているという。
北海道の川の生態系の頂点に君臨する王者イトウは、陸の「ヒグマ」、空の「シマフクロウ」とならぶ自然保護の象徴的生物でもある。時に、研究者によるイトウの生息調査が行なわれているが、実際のところ産卵可能な親魚が道内に何匹生息しているかはよく分かっていないという。 そして川魚を好む釣り人には「いつかは釣ってみたい魚」として人気が高く、一年中イトウだけを追いかけるというイトウ専門釣り師も存在する。
釣魚としての「イトウ」の魅力は、第一にその並外れた大きさであろう。
現在でも北海道には150cm以上のの巨大魚がいると真密かにいわれているという。 第二の魅力は「幻の魚」と呼ばれる希少価値であろう。 そう簡単に釣れないから釣り人は知識と経験と情報を総動員して、途方もないエネルギーと時間を費やしてこの名魚を追うのである。
次回は、大樹町
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日本周遊紀行(70)十勝地方 「十勝川と十勝太」
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日本周遊紀行(70)十勝地方 「十勝川と十勝太」
音別町の直別駅を過ぎると国道38は一旦、山岳地にはいる。
山地を離れると浦幌町の町並みへ来て、ここ吉野地区で国道及び根室本線は内陸の帯広方面へ向っているが、小生は国道336の沿岸部を走ることになる。
この辺りから再びで大きく開けてきて湿原地もあり、大小の河川を渡ると周辺は北海道を代表する「十勝川」の沖積平野である。 その雄大な十勝川本流を渡る。
一級水系・十勝川は十勝地方を流れる十勝川水系の本流で、帯広をはじめ十勝平野に肥沃な沖積土をもたらし、日本を代表とする畑作・酪農地帯として北海道らしい勇大な農村風景を形成している。
河川延長156km、支川204河川、水系延長、流域面積とも我が国屈指の大河で、その源を北海道の屋根・大雪山連峰十勝岳に発しサホロ川、芽室川、美生川、然別川等を合わせて十勝地方の中心都市・帯広に達する。
このあたりより水量も増大し音更川、札内川、士幌川、途別川、猿別川さらに利別川等と合流しながら原野を悠々と直進して中川郡豊頃町大津において太平洋に注いでいる。
流域面積は全国6位(北海道2位)である。
十勝地方、所謂、十勝川流域の本格的な開拓は明治16年、静岡県伊豆・松崎出身の「依田勉三」が同志等とともに北海道開墾のための「晩成社」なるものを組織したことに始まるという。(詳細後述、伊豆松崎にても・・、)
その後、多くの開墾者が入地し、物資を輸送するために十勝川河口の大津を起点として茂岩、利別、幕別、猿別、帯広、芽室へと十勝川を行き来する川船も多くなり、これらの市街地は「川港市街」として栄えた。
帯広をはじめ、十勝地方の繁栄は十勝川無くしては考えられず、即ち「母なる川」なのである。
ところで、地図を丹念に見ると十勝太付近の河川名は「浦幌十勝川」とある。 開拓、改良、開墾される以前の原始の時代においては、こちらが十勝川の本流であったらしい。 十勝川という名称は、こちら十勝太の集落の地名を取って命名したともいう。
国道336号線は、日高地方の浦河町からかの襟裳岬を経てこの地に至っている。(実際は38号線と重複して釧路まで到っているらしい)。
しかし、計画は十勝川河口流域を直進し、「十勝太」(とかちぶと)という集落を経て音別、釧路方面へ向かう予定だったらしい。
何故、沿岸・直進の国道は消滅したか・・?、
実は国道は消滅しているが、一般道のダートコースが昆布刈石まで、更に厚内から直別で国道38に繋がっている。
消えてなくなった国道の浦幌町十勝太の集落周辺は、牛などを放牧している酪農丘陵地が広がる。 そしてこの丘陵地一帯は縄文時代早期(約1万年年前)から擦文時代(約1000年前)までの住居跡や墓、アイヌのチャシ(城柵)跡などが広範囲にわたり残っているという。
これは国道建設に伴う発掘で発見されたもので、擦文時代の住居跡の周辺には無数の食生活の痕跡である骨の破片などが多数埋まり、それも現在のに比べると大型のものが殆どでありクジラなどはゆうに10メートルを超えるという。
つまり海や大河の流域近くは、様々な魚などが豊富に取れたことを物語っている。
何千年もの間、十勝太一帯は太古の昔から住みやすい「住宅街」だったのであり、そこには食料がフンダンにあり、しかも食料は海から川からと、向こうからやって来るのである。
十勝太河岸段丘の高所には、それらの遺跡群を眺めるために展望台も設(しつら)えて在り、凡そ10万6000㎡にも及ぶ遺跡群は「北海道遺産」にも指定され、出土品は浦幌町立博物館に所蔵されているという。
国道が途中から立ち消えになって吉野方面に迂回したのは、これらの遺跡群に理由があったのかも知れない。
序(ついで)ながら同地区において、もう一つの交通路が変更させられたことについて・・、
目の前に太平洋が広がる浦幌町十勝太地区は、現在50世帯、120人が住むという小さな集落である。
この地区に明治時代、開拓が本格化するころに「大都市」を建設する計画があったという。
そして十勝太には国鉄の鉄路、河口では海運船の運航、高台には灯台、そして公園の設置、更には遊郭までもが予定されていたという。
明治中後期、道庁において「十勝川河口都市」構想が策定され、国が公布した「北海道鉄道敷設法」(29年)に基づき、旭川から帯広を通って十勝太まで、更に釧路から延びてきた鉄路が十勝太を基点にしてつながるという壮大な計画だったらしい。
しかし、実際の鉄路は釧路方面から内陸部の現在の浦幌町市街地を通って豊頃へ向かうことになり、十勝太への計画は立消えになった。
その原因の一つ、地元の人たちの噂によると内陸部の浦幌駅一帯は、或る有力国会議員が経営する農場敷地であり、計画変更はその農場内に駅を造るという当代議士による圧力的要求が有ったためとも言われる。
十勝太の都市造りの構想は今考察しても順当なもので、当地は大洋と大河に面し、後背の肥沃な十勝の大平野を要している。 もし鉄路、道路も計画通り順調に敷設されていれば、釧路を凌ぐ大都市も夢ではなかったのかもといわれる。
都市化を夢みて周辺から早々と移り住んだ人々もいたようであるが、あっという間に幻と化してしまったのである。 合わせて、縄文時代の賑わいの再来も露と消えた。
一個の権力者による私利私欲が、地域を台無しにしてしまった端的な一例でもあろう。
因みに、太(ブト)とはアイヌ語のプトから来ていて、口のことであり、アイヌの人も河口のことを口と捉えていたようである。
次回も「十勝地方」
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日本周遊紀行(70)十勝地方 「十勝川と十勝太」
音別町の直別駅を過ぎると国道38は一旦、山岳地にはいる。
山地を離れると浦幌町の町並みへ来て、ここ吉野地区で国道及び根室本線は内陸の帯広方面へ向っているが、小生は国道336の沿岸部を走ることになる。
この辺りから再びで大きく開けてきて湿原地もあり、大小の河川を渡ると周辺は北海道を代表する「十勝川」の沖積平野である。 その雄大な十勝川本流を渡る。
一級水系・十勝川は十勝地方を流れる十勝川水系の本流で、帯広をはじめ十勝平野に肥沃な沖積土をもたらし、日本を代表とする畑作・酪農地帯として北海道らしい勇大な農村風景を形成している。
河川延長156km、支川204河川、水系延長、流域面積とも我が国屈指の大河で、その源を北海道の屋根・大雪山連峰十勝岳に発しサホロ川、芽室川、美生川、然別川等を合わせて十勝地方の中心都市・帯広に達する。
このあたりより水量も増大し音更川、札内川、士幌川、途別川、猿別川さらに利別川等と合流しながら原野を悠々と直進して中川郡豊頃町大津において太平洋に注いでいる。
流域面積は全国6位(北海道2位)である。
十勝地方、所謂、十勝川流域の本格的な開拓は明治16年、静岡県伊豆・松崎出身の「依田勉三」が同志等とともに北海道開墾のための「晩成社」なるものを組織したことに始まるという。(詳細後述、伊豆松崎にても・・、)
その後、多くの開墾者が入地し、物資を輸送するために十勝川河口の大津を起点として茂岩、利別、幕別、猿別、帯広、芽室へと十勝川を行き来する川船も多くなり、これらの市街地は「川港市街」として栄えた。
帯広をはじめ、十勝地方の繁栄は十勝川無くしては考えられず、即ち「母なる川」なのである。
ところで、地図を丹念に見ると十勝太付近の河川名は「浦幌十勝川」とある。 開拓、改良、開墾される以前の原始の時代においては、こちらが十勝川の本流であったらしい。 十勝川という名称は、こちら十勝太の集落の地名を取って命名したともいう。
国道336号線は、日高地方の浦河町からかの襟裳岬を経てこの地に至っている。(実際は38号線と重複して釧路まで到っているらしい)。
しかし、計画は十勝川河口流域を直進し、「十勝太」(とかちぶと)という集落を経て音別、釧路方面へ向かう予定だったらしい。
何故、沿岸・直進の国道は消滅したか・・?、
実は国道は消滅しているが、一般道のダートコースが昆布刈石まで、更に厚内から直別で国道38に繋がっている。
消えてなくなった国道の浦幌町十勝太の集落周辺は、牛などを放牧している酪農丘陵地が広がる。 そしてこの丘陵地一帯は縄文時代早期(約1万年年前)から擦文時代(約1000年前)までの住居跡や墓、アイヌのチャシ(城柵)跡などが広範囲にわたり残っているという。
これは国道建設に伴う発掘で発見されたもので、擦文時代の住居跡の周辺には無数の食生活の痕跡である骨の破片などが多数埋まり、それも現在のに比べると大型のものが殆どでありクジラなどはゆうに10メートルを超えるという。
つまり海や大河の流域近くは、様々な魚などが豊富に取れたことを物語っている。
何千年もの間、十勝太一帯は太古の昔から住みやすい「住宅街」だったのであり、そこには食料がフンダンにあり、しかも食料は海から川からと、向こうからやって来るのである。
十勝太河岸段丘の高所には、それらの遺跡群を眺めるために展望台も設(しつら)えて在り、凡そ10万6000㎡にも及ぶ遺跡群は「北海道遺産」にも指定され、出土品は浦幌町立博物館に所蔵されているという。
国道が途中から立ち消えになって吉野方面に迂回したのは、これらの遺跡群に理由があったのかも知れない。
序(ついで)ながら同地区において、もう一つの交通路が変更させられたことについて・・、
目の前に太平洋が広がる浦幌町十勝太地区は、現在50世帯、120人が住むという小さな集落である。
この地区に明治時代、開拓が本格化するころに「大都市」を建設する計画があったという。
そして十勝太には国鉄の鉄路、河口では海運船の運航、高台には灯台、そして公園の設置、更には遊郭までもが予定されていたという。
(当地、毎日新聞資料)
明治中後期、道庁において「十勝川河口都市」構想が策定され、国が公布した「北海道鉄道敷設法」(29年)に基づき、旭川から帯広を通って十勝太まで、更に釧路から延びてきた鉄路が十勝太を基点にしてつながるという壮大な計画だったらしい。
しかし、実際の鉄路は釧路方面から内陸部の現在の浦幌町市街地を通って豊頃へ向かうことになり、十勝太への計画は立消えになった。
その原因の一つ、地元の人たちの噂によると内陸部の浦幌駅一帯は、或る有力国会議員が経営する農場敷地であり、計画変更はその農場内に駅を造るという当代議士による圧力的要求が有ったためとも言われる。
十勝太の都市造りの構想は今考察しても順当なもので、当地は大洋と大河に面し、後背の肥沃な十勝の大平野を要している。 もし鉄路、道路も計画通り順調に敷設されていれば、釧路を凌ぐ大都市も夢ではなかったのかもといわれる。
都市化を夢みて周辺から早々と移り住んだ人々もいたようであるが、あっという間に幻と化してしまったのである。 合わせて、縄文時代の賑わいの再来も露と消えた。
一個の権力者による私利私欲が、地域を台無しにしてしまった端的な一例でもあろう。
因みに、太(ブト)とはアイヌ語のプトから来ていて、口のことであり、アイヌの人も河口のことを口と捉えていたようである。
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2010年3月23日火曜日
日本周遊紀行(69)音別、尺別 「地名とアイヌ語」
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日本周遊紀行(69)音別、尺別 「地名とアイヌ語」
道内に多い、「別」という字はアイヌ語で「川」を現していた・・!、
人口約3000人、豊かな森林をもつ海沿いの町である音別は尺別、直別という地名も続き、音別をはじめJR根室本線の駅名にもなっている。
ところで、北海道内の地名で尾尻に「別」の字が付く呼名が多いのに驚く、小生の知っている市町地域でも江別、芦別、当別、登別、士別、陸別、紋別、湧別、頓別などなどと、他にも無数に存在するであろう。 何故だろう・・?、何か、いわく因縁があるのだろうか・・?、
ハイ有りました、判明しました。
「別」というのはアイヌ語で「川」を現しているらしい。
「別・ベツ」の他に「内・ナイ」も川を指すものと言われ、「ベツ」は比較的大きな川(大河)を指し、「ナイ」は小さな川(小川、沢)を指していると言われている。
序にアイヌ語の基本単語を幾つか挙げてみよう、「ベツ」の対語で「ヌプリ」:山、「アイヌ」:人・人間、「カムイ」:神様、「コタン」:集落・部落、「トマム」:湿地、「ピラ」:崖、「ト」:沼、湖、「トマリ」:港・湾、「ピンネ」:男・雄、「マッネ」:女・雌、「モシリ」:国・国土、「ワッカ」:水、「ポロ」:大きい、「ポン」:小さい、アシリ(新しい)、クンネ(黒い)・・、などなど。
あの愛らしいラッコもトナカイもアイヌ語らしい。
北海道を旅するとなかなか読めない地名や何んと読むのか判らない地名が多々有る。 北海道の市町村名のうち凡そ8割がアイヌ語に由来すると言われる。
アイヌの人たちは、生活する上で欠かせない産物を得る場所、狩猟や交易のために移動する通路、そのときの目印となる地形など、自らの生活に深く関わる土地に地名をつけた。
特に川や沢には、河口から水源までびっしりと地名がつけられている。これは、アイヌの人たちの多くが川筋に住んで、主に自然の中から食料や薬、衣服や道具などの資材を手に入れてきたからだとされる。
こうした地名が、現在、「○○別」、「××内」、「△△平」のような形で各地に残っており、アイヌ語を起源とする地名は当時の地形の特徴や産物、アイヌの人たちの暮らしなどを伝える貴重な文化遺産である。
現在、表記されている文字の内、アイヌ語の発音を聞き、当て字をしたのが「音訳」、アイヌ語の意味から付けたのが「訓訳」、それに音訳と訓訳の混ざり合ったのを「半訓訳」といって三種類の地名に分類されると言われている。
因みに、東北の仙台から秋田・山形県境付近にかけての線から北方にも、近世まではアイヌの文化圏、生活圏であり、北東北の蝦夷はアイヌ語を常用しアイヌ語の地名や足跡が多く残されているという。
例えば、秋田・能代に河口をもつ「阿仁川」筋ではどの沢をとっても内・ナイ地名で埋まっているという。 米内沢(イオナイ)、笑内(ウタシナイ)、浦志内(ウラシナイ)などなど多々。
尺別、直別など各地各駅周辺共小さな集落が点々として見られるが、うらぶれた寂れた感じは否めない。 中には、やはりと言おうか空家、廃屋も目立っている。
白糠炭田が隆興の頃は、この辺りも賑やかな街であったろうけど、時代の流れには、人々も同様に流され逆らえないものなのだろう・・!!。
この音別町の西端の駅が直別駅である。
国道38号線がすぐ駅前を走っているが、やはりというか駅付近には数軒の人家があるだけで、ログハウス風の小さな駅舎が建っていた。 当然というのは失礼ながら「無人駅」であった。
次回は「十勝地方」
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日本周遊紀行(69)音別、尺別 「地名とアイヌ語」
道内に多い、「別」という字はアイヌ語で「川」を現していた・・!、
人口約3000人、豊かな森林をもつ海沿いの町である音別は尺別、直別という地名も続き、音別をはじめJR根室本線の駅名にもなっている。
ところで、北海道内の地名で尾尻に「別」の字が付く呼名が多いのに驚く、小生の知っている市町地域でも江別、芦別、当別、登別、士別、陸別、紋別、湧別、頓別などなどと、他にも無数に存在するであろう。 何故だろう・・?、何か、いわく因縁があるのだろうか・・?、
ハイ有りました、判明しました。
「別」というのはアイヌ語で「川」を現しているらしい。
「別・ベツ」の他に「内・ナイ」も川を指すものと言われ、「ベツ」は比較的大きな川(大河)を指し、「ナイ」は小さな川(小川、沢)を指していると言われている。
序にアイヌ語の基本単語を幾つか挙げてみよう、「ベツ」の対語で「ヌプリ」:山、「アイヌ」:人・人間、「カムイ」:神様、「コタン」:集落・部落、「トマム」:湿地、「ピラ」:崖、「ト」:沼、湖、「トマリ」:港・湾、「ピンネ」:男・雄、「マッネ」:女・雌、「モシリ」:国・国土、「ワッカ」:水、「ポロ」:大きい、「ポン」:小さい、アシリ(新しい)、クンネ(黒い)・・、などなど。
あの愛らしいラッコもトナカイもアイヌ語らしい。
北海道を旅するとなかなか読めない地名や何んと読むのか判らない地名が多々有る。 北海道の市町村名のうち凡そ8割がアイヌ語に由来すると言われる。
アイヌの人たちは、生活する上で欠かせない産物を得る場所、狩猟や交易のために移動する通路、そのときの目印となる地形など、自らの生活に深く関わる土地に地名をつけた。
特に川や沢には、河口から水源までびっしりと地名がつけられている。これは、アイヌの人たちの多くが川筋に住んで、主に自然の中から食料や薬、衣服や道具などの資材を手に入れてきたからだとされる。
こうした地名が、現在、「○○別」、「××内」、「△△平」のような形で各地に残っており、アイヌ語を起源とする地名は当時の地形の特徴や産物、アイヌの人たちの暮らしなどを伝える貴重な文化遺産である。
現在、表記されている文字の内、アイヌ語の発音を聞き、当て字をしたのが「音訳」、アイヌ語の意味から付けたのが「訓訳」、それに音訳と訓訳の混ざり合ったのを「半訓訳」といって三種類の地名に分類されると言われている。
因みに、東北の仙台から秋田・山形県境付近にかけての線から北方にも、近世まではアイヌの文化圏、生活圏であり、北東北の蝦夷はアイヌ語を常用しアイヌ語の地名や足跡が多く残されているという。
例えば、秋田・能代に河口をもつ「阿仁川」筋ではどの沢をとっても内・ナイ地名で埋まっているという。 米内沢(イオナイ)、笑内(ウタシナイ)、浦志内(ウラシナイ)などなど多々。
尺別、直別など各地各駅周辺共小さな集落が点々として見られるが、うらぶれた寂れた感じは否めない。 中には、やはりと言おうか空家、廃屋も目立っている。
白糠炭田が隆興の頃は、この辺りも賑やかな街であったろうけど、時代の流れには、人々も同様に流され逆らえないものなのだろう・・!!。
この音別町の西端の駅が直別駅である。
国道38号線がすぐ駅前を走っているが、やはりというか駅付近には数軒の人家があるだけで、ログハウス風の小さな駅舎が建っていた。 当然というのは失礼ながら「無人駅」であった。
次回は「十勝地方」
.
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