日本周遊紀行(70)十勝地方 「十勝川と十勝太」
音別町の直別駅を過ぎると国道38は一旦、山岳地にはいる。
山地を離れると浦幌町の町並みへ来て、ここ吉野地区で国道及び根室本線は内陸の帯広方面へ向っているが、小生は国道336の沿岸部を走ることになる。
この辺りから再びで大きく開けてきて湿原地もあり、大小の河川を渡ると周辺は北海道を代表する「十勝川」の沖積平野である。 その雄大な十勝川本流を渡る。
一級水系・十勝川は十勝地方を流れる十勝川水系の本流で、帯広をはじめ十勝平野に肥沃な沖積土をもたらし、日本を代表とする畑作・酪農地帯として北海道らしい勇大な農村風景を形成している。
河川延長156km、支川204河川、水系延長、流域面積とも我が国屈指の大河で、その源を北海道の屋根・大雪山連峰十勝岳に発しサホロ川、芽室川、美生川、然別川等を合わせて十勝地方の中心都市・帯広に達する。
このあたりより水量も増大し音更川、札内川、士幌川、途別川、猿別川さらに利別川等と合流しながら原野を悠々と直進して中川郡豊頃町大津において太平洋に注いでいる。
流域面積は全国6位(北海道2位)である。
十勝地方、所謂、十勝川流域の本格的な開拓は明治16年、静岡県伊豆・松崎出身の「依田勉三」が同志等とともに北海道開墾のための「晩成社」なるものを組織したことに始まるという。(詳細後述、伊豆松崎にても・・、)
その後、多くの開墾者が入地し、物資を輸送するために十勝川河口の大津を起点として茂岩、利別、幕別、猿別、帯広、芽室へと十勝川を行き来する川船も多くなり、これらの市街地は「川港市街」として栄えた。
帯広をはじめ、十勝地方の繁栄は十勝川無くしては考えられず、即ち「母なる川」なのである。
ところで、地図を丹念に見ると十勝太付近の河川名は「浦幌十勝川」とある。 開拓、改良、開墾される以前の原始の時代においては、こちらが十勝川の本流であったらしい。 十勝川という名称は、こちら十勝太の集落の地名を取って命名したともいう。
国道336号線は、日高地方の浦河町からかの襟裳岬を経てこの地に至っている。(実際は38号線と重複して釧路まで到っているらしい)。
しかし、計画は十勝川河口流域を直進し、「十勝太」(とかちぶと)という集落を経て音別、釧路方面へ向かう予定だったらしい。
何故、沿岸・直進の国道は消滅したか・・?、
実は国道は消滅しているが、一般道のダートコースが昆布刈石まで、更に厚内から直別で国道38に繋がっている。
消えてなくなった国道の浦幌町十勝太の集落周辺は、牛などを放牧している酪農丘陵地が広がる。 そしてこの丘陵地一帯は縄文時代早期(約1万年年前)から擦文時代(約1000年前)までの住居跡や墓、アイヌのチャシ(城柵)跡などが広範囲にわたり残っているという。
これは国道建設に伴う発掘で発見されたもので、擦文時代の住居跡の周辺には無数の食生活の痕跡である骨の破片などが多数埋まり、それも現在のに比べると大型のものが殆どでありクジラなどはゆうに10メートルを超えるという。
つまり海や大河の流域近くは、様々な魚などが豊富に取れたことを物語っている。
何千年もの間、十勝太一帯は太古の昔から住みやすい「住宅街」だったのであり、そこには食料がフンダンにあり、しかも食料は海から川からと、向こうからやって来るのである。
十勝太河岸段丘の高所には、それらの遺跡群を眺めるために展望台も設(しつら)えて在り、凡そ10万6000㎡にも及ぶ遺跡群は「北海道遺産」にも指定され、出土品は浦幌町立博物館に所蔵されているという。
国道が途中から立ち消えになって吉野方面に迂回したのは、これらの遺跡群に理由があったのかも知れない。
序(ついで)ながら同地区において、もう一つの交通路が変更させられたことについて・・、
目の前に太平洋が広がる浦幌町十勝太地区は、現在50世帯、120人が住むという小さな集落である。
この地区に明治時代、開拓が本格化するころに「大都市」を建設する計画があったという。
そして十勝太には国鉄の鉄路、河口では海運船の運航、高台には灯台、そして公園の設置、更には遊郭までもが予定されていたという。
(当地、毎日新聞資料)
明治中後期、道庁において「十勝川河口都市」構想が策定され、国が公布した「北海道鉄道敷設法」(29年)に基づき、旭川から帯広を通って十勝太まで、更に釧路から延びてきた鉄路が十勝太を基点にしてつながるという壮大な計画だったらしい。
しかし、実際の鉄路は釧路方面から内陸部の現在の浦幌町市街地を通って豊頃へ向かうことになり、十勝太への計画は立消えになった。
その原因の一つ、地元の人たちの噂によると内陸部の浦幌駅一帯は、或る有力国会議員が経営する農場敷地であり、計画変更はその農場内に駅を造るという当代議士による圧力的要求が有ったためとも言われる。
十勝太の都市造りの構想は今考察しても順当なもので、当地は大洋と大河に面し、後背の肥沃な十勝の大平野を要している。 もし鉄路、道路も計画通り順調に敷設されていれば、釧路を凌ぐ大都市も夢ではなかったのかもといわれる。
都市化を夢みて周辺から早々と移り住んだ人々もいたようであるが、あっという間に幻と化してしまったのである。 合わせて、縄文時代の賑わいの再来も露と消えた。
一個の権力者による私利私欲が、地域を台無しにしてしまった端的な一例でもあろう。
因みに、太(ブト)とはアイヌ語のプトから来ていて、口のことであり、アイヌの人も河口のことを口と捉えていたようである。
次回も「十勝地方」
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