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2011年9月10日土曜日

日本周遊紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」

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 日本周遊紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」   .




写真:佐伯を代表する三の丸・櫓門の威容




秀吉子飼の毛利高政が、現在の「佐伯」の基礎を形造った・・、

北川町の道の駅、「北川はゆま」で一寸遅い食事をとる。 
ところで「はゆま」とは早馬(はやうま)から転じたもので、江戸期に設けられた駅制度により、駅(宿場)に置かれた馬のことであるらしい。 
ここは現在は国道10号線であるが、この地に昔の駅舎が在ったかどうか定かでないが、九州南北を縦貫する昔からのメインルートでもあったのは確かである。 


レール列車に駅があるように、車の道路にも全国的に駅やサービス・ステーションがある。
この「道の駅」は、休憩のためのパーキングとしてはもちろん、人と町の交流ステーションであり、地域の文化や歴史、名所や特産品などを紹介、発信する情報交流の場としても魅力を発揮している。 

小生のように、全国を股にかけている旅の者にとっては実に重宝で、一宿一飯の地にもなっている。 
それを示すように、駅の一角に巨大な「駅馬」のモニュメントが建っている。


国道10号線は、宮崎県から大分県に入ったようである。 
緑鮮やかな山間の地で、起伏曲折は多いが、さすがに1級国道で造りは立派、時速にして60kmで悠々と走れている。

内陸部の宇目町、直川町の山地をようやく抜けて、佐伯の町に来たようである。
佐伯市は2005年(平成17年)3月、上浦町・弥生町・本匠村・宇目町・直川村・鶴見町・米水津村・蒲江町が合併し、新市制によって広範な佐伯市が発足している。
元より、この地域は南海部郡(みなみあまべぐん)といって、以前から「佐伯南郡」とも呼ばれ、強い結び付きを有しているらしい。 住民の日常社会生活圏は連帯意識をもち、経済圏もほぼ一体的であったという。
そのため、県内でも最も早く合併に向けて2000年12月には佐伯市・南海部郡5町3村任意合併協議会が設置され、2005年に合併したことから、面積が九州最大となる新たな佐伯市が誕生している。 
本来、各地域は支所や支庁と言われるところ、ここではユニークにも「振興局」という名称が付けられているという。


国道10号線が番匠川に達した辺りから沿岸域に出たようである。
この辺りの海岸線は、凡そ200kmに及ぶ「日豊海岸国定公園」にも指定されてるリアス式海岸が続く峻険な地である。
そんな中、佐伯市街は九州有数の清流・番匠川の豊かな水に恵まれた地域であり、市の中心地はその番匠川の河口に広がる小域な沖積平野に市域を形造っている。


番匠大橋を渡って右折し、川沿いを行くと間もなく佐伯市街に入ったようで、街路案内によって左折すると、いきなり巨大な城門が現れた。 
歩道には石畳を敷き詰め、クロマツの並木を造り、一部区間では電線を地下埋設していて、シットリとした白壁の土塀が続く。
旧藩政時代の武家屋敷の佇まいで歴史的景観、街路の調和が実に良い。

この地域、市内中心部の大手門跡から櫓門前を通り、城山の麓にそって養賢寺(ようけんじ)までの約700mは「歴史と文学の道」とされ、「日本の道100選」にも選ばれているという。 
養賢寺は大屋根を持つ本堂や風格のある庫裡、経蔵など初代藩主毛利高政をはじめ歴代藩主の菩提を弔う大寺院で文化遺産でもある。

風格のある城門は三の丸御殿の正門として、寛永14年に創建された櫓門(やぐらもん)といい、江戸時代の城郭建築を色濃く残す、歴史的建造物でもある。


佐伯は、元より海の幸、山の幸に恵まれた富める海辺の村であったが、江戸開府と同時に大いに発展してゆくことになる。 
佐伯藩初代藩主・毛利高政は慶長6年(1601年)、日隈城(ひのくまじょう:大分県日田市亀山町)から佐伯二万石を封ぜられ、番匠川下流の左岸に位置する八幡山(城山)に佐伯城を築き、番匠川の河口付近の干潟を埋め立てて城下町を整備している。 

町の南側を大きく曲がり込む番匠川の本流が外堀となり、支流や入江も自然の防御線となっている。 更に湿地帯が内堀のようにして残され、軍事的な防備だけでなく、防火線にもなっていると言われる。 

番匠川は、下流部を中心に古くから舟運が発達しており、江戸時代から舟運のための流路や水深を確保するための工事が行われていたという。 
江戸時代の船着き場は藩主専用の乗船場、藩士の乗船場、一般の乗船場などに分けられていて、渡し船や定期船も多く、河川に沿って街が賑わいを見せていたという。
櫓門を起点にして武家屋敷の町並みが尽きるところに、藩主・毛利家の菩提寺であった名刹、養賢寺があり、裏の高台にもある毛利家累代の御廟所も壮麗である。



この地方は平安期より「豊後・佐伯の荘」と称していた。
鎌倉期には豪族・佐伯氏が領主として豊後守護・大友氏に属し、番匠川の上流の標高224mの栂牟礼山(とがむれさん)の山上に山城を築き、ここを本拠としていた。 だが戦国期の九州騒乱で主家・大友氏が失脚にともない佐伯氏も改易、城を去っている。 

現在の佐伯城(城址)は慶長6年(1601)、豊後日田の日隈城から移封された毛利高政が11年の歳月を費やして、標高140mの八幡山に築城した山城である。 

高政は、豊臣秀吉子飼いの武将で、元々、森を姓としていた。 
ところが天正10年(1582年)秀吉による中国攻めの最中、本能寺の変で織田信長が凶刃に倒れたため、秀吉は中国の毛利氏と急遽和議を結んで、森高政を毛利方への人質とした。 
ところが高政は、当主・毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にもあり、以後、毛利姓を名乗るようになる。 

その後は、大坂城の築城や秀吉による朝鮮出兵の際の対馬に城を築くなど活躍、豊後・日田二万石の大名となって五層の天守(日隈城)を築くなど威勢を張った。 
しかし、毛利高政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で石田三成方の西軍に組したため、徳川家康によって佐伯二万石へ転封された。 

以後、佐伯城は、毛利氏12代の永きに亘って居城となし、明治維新まで続くことになる。 
関ヶ原の合戦を経て佐伯藩に移封、築城と町づくりの礎を固めることになるが、江戸期、多くの藩が移封、転封される中、秀吉子飼いの大名でありながら、綿々と引き継がれ明治維新まで存続できたのは佐伯藩だけであるという。

尚、戦乱の時代も去った寛永14年(1637)、毛利氏三代目・高尚は八幡山麓の三の丸に居館を移したため、佐伯城は山城としての役目を終えることになる。 
そして、三の丸への登城門が現在の「櫓門」である。 
尚、佐伯城城郭は、明治の「廃城令」で城が取り壊されて現在は遺構のみが残っている。
山城へのルートは幾筋かあるが、いずれも昔の面影を残しており、山頂からは佐伯の町が一望できる。


次回は、「津久見


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2011年9月9日金曜日

日本周遊紀行(167) 九州山地 「米良地方」

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 日本周遊紀行(167) 九州山地 「米良地方」   .




次に、九州山地の米良地方(めらちほう)について・・、

先ず、伝説を一つ。
日向・高千穂に降臨したニニギノミコトが巡遊しているとき、好漢と見たオオヤマミズミコトは二人の娘のイワナガヒメ(姉)とコノハナノサクヤビメ(妹)の両方を嫁にしようとした。
だが、ニニギは、花のような美人である妹のコノハナノサクヤだけを選び妻とした。 
失意のイワナガヒメは一ツ瀬川を遡り、この地に田を開き、実り豊かな稲作を作られたという。 

ヒメの作った米が非常に「良い米」であったので、この地方に「米良」という名が起こったという。 
そして後々、良い米から米焼酎が作られ、好まれるようになったという。



日向、肥後(熊本)国境付近の山間には椎葉(椎葉山・椎葉荘)と米良(米良山・米良荘)呼ばれる地域があり、山深い地域のため有力大名の支配も及びにくく、半独立的な地域であった。

米良地方は椎葉同様、平家落人の隠遁僻地として知られる。 
なかでも「村所」を中心とする米良部落は、南北朝時代の末期、肥後の菊池一族が足利方の九州探題・今川氏(戦国期、駿河地方を支配した今川義元の祖先)に敗れ、この米良の山奥に隠れ住んだといわれる。 

入山した菊池氏は、それ以来、米良姓を名乗り、文武に優れ、礼節を重んじ、村では合議制による民主的な施政を敷き、幕末までの約400年にわたり統治したという。 
そして、明治期の版籍奉還に際し、最後の領主となった米良(菊池)則忠公は、領地の全てを領民に分かち与え、人々の生活を担保したとされえる。
その遺徳は今もなお、米良の歴史とともに語り継がれているという。 

九州では、現在でも米良姓を名乗る人は、その菊池一族ゆかりの末商だとも称している。
この米良地方は、近年になって明治22年(1881)に西米良村と東米良村に分割され、更に、昭和期の1962年に一ツ瀬川の銀嶺地区辺りを境に、東側の東米良村は西都市・木城町に編入されている。


西米良村は、九州山地にへばりついている村で、一ツ瀬川の最上流部が村を貫通している。
江戸期まで米良地方は肥後・人吉藩の領地であったらしいが、明治初期の廃藩置県により日向・宮崎県に割譲された。
従って、地風は肥後・菊池氏の影響もあって、人吉・球磨地方の色合いが濃く、宮崎県になって130年たった今でも、米良地方と肥後・球磨地方の人々は、年賀を欠かかさず、お互い交流しあっているという。


ところで、焼酎処とも言われる西米良村の中心地、「村所」の酒屋の店先には、「白岳」、「極楽」といった球磨焼酎の銘柄が正面に並び、日向の「霧島」などは隅っこに追いやられているという。
酒屋さん曰く、「西米良では今は焼酎はつくっとらんが、球磨焼酎がやっぱり地元になりますね、白岳がよう出ます」といった具合で、西米良村民達は、独特な球磨焼酎を求めているという。

人吉地方は、球磨焼酎作りのメッカといわれる。 
垣根の向こうから「ちょっとお茶でもせんかね」(ちょっとお茶でも飲んでいきませんか)と、声がかかる。
それでは えんりょなく」と、垣根の内に入れば 爺さんが球磨焼酎の一升びんと湯のみを持ってくる。 肴は自家製の漬物。これを指でつまみながら、焼酎をちびりちびりとやるうちに心と心がつながってきて・・、 

一方、日向地方は、薩摩が焼酎作り日本一なら、宮崎は焼酎消費の日本一だそうである。
米良地方は日向・宮崎に属しているが、歴史の流れからも窺えるように、人脈、物資の流通は昔から肥後・人吉、八代との繋がりが強いといわれる。
今でも流通路である国道など、熊本県方面は概ね整備が進められているが、宮崎・西都市方面は交通が困難な難所区間がある。


肥後・球磨地方の湯前町から西米良へ通ずる横谷峠越えは、通称・横谷越え(現、国道219号線)と言われる難所中の難所で、昔は、凡そ20k行程の山道を荷駄で行き来した旅人や焼酎のびんを積み上げた馬方さんが往来し、その旺盛な脚力には敬服していたとされ、 

又、近年に至っても、道路の状況はあまり変わらず、ここを走っていた定期運行の国鉄バスのドライバーのテクニックには驚いていると地元住民の評判であったとか。 
現在は、横谷峠直下に長大なトンネルをぶち抜いて、相当に交通が楽になっている。

村は、村所地区を中心にして菊池氏・所縁(ゆかり)の城址、御所跡、神社仏閣、記念館など歴史、文化、自然や風土など地域固有の観光資源がある。 
又、最近では特に、生涯現役元気村と名打って、「カリコボーズの休暇村・米良の庄」等、テーマ性を持たせた地域づくりを推進しているという。 
「カリコボーズ」とは、山を守るもの、森の精霊、神的存在の言霊ともいうべきもので、村おこしのイメージ・キャラクターとしているらしい。


米良で善政を施した菊池氏の本拠は、現在のその名も熊本県菊池市で、古来から市名に名を残す由緒ある一族であり、平安期までは九州の政治・文化の中心地として栄えた。
このような関係から現在、西米良村と菊池市は「友好姉妹都市」を結んでいる。

米良地区は、これまで、2004(平成16)年度に地域づくり総務大臣表彰、2000(平成12)年度に過疎地域自立活性化優良事例国土庁長官賞、優秀観光地づくり賞を受賞しているという。
更に、2004(平成16)年度は黒木村長が観光カリスマ百選にも選ばれ、2005(平成17)年度は、オーライ!ニッポン大賞を受賞していて、正に、地域振興の牽引的役割と見本を示している。 


次回は、「大分・佐伯






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2011年9月8日木曜日

日本周遊紀行(167) 九州山地 「南郷村」

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 日本周遊紀行(167) 九州山地 「南郷村」   .




椎葉の南に位置する南郷村は、百済王の伝説の地であった・・! 、

飛鳥期の660年代、「白村江の戦い」(はくすきのえ:今から1300年以上も昔、朝鮮南西部を流れる錦江と呼ばれる河口付近で、日本と唐:中国との海戦が行われた。)において、朝鮮半島の百済の国の要請により応援にかけつけたのが我が大和(日本)の水軍であった。
だが錦江下流の白村江の河口に乗りこんだとき、そこには唐と新羅の連合水軍170艘が、時こそ来れりと待ち構えていて挟み撃ちにされ、無念の惨敗を喫してしまう。

朝鮮の史記の記述によれば、「大和軍の船は火災につつまれて次々と沈没、海に呑まれる兵士は数知れず、炎は天を焦がし、海の水は朱に染まったという惨状であった」とされている。 

敗戦の悲報は、翌月には早くも筑紫の「那の津」(現在の博多)の本営にもたらされ、やがて敗残兵や戦に敗れて亡命する百済人たちが那の津の浜に次々と渡来してきた。 
この時、連合軍に滅ぼされた百済の王族達は大和・畿内地方に亡命してきたが、その後、国内の内戦、動乱に巻き込まれ、その王族たちは日本を転々としながら最終的に落ち着いたのが、九州の山奥の地「南郷村」であったという。

南郷村の中心に位置し、守護神でもある「神門(みかど)神社」には、百済王の御神体が祀られ、隣にある「西の正倉院」といわれる倉庫には、百済製とされる銅鏡や馬鈴・馬鐸(鈴などの馬に付ける装飾具)などの遺品が多数収蔵されているという。
古色蒼然たる神門神社の創建は西暦718年という古社で、主祭神に大山祀命(オオヤマズミノミコト)と百済国・禎嘉帝を奉ってある。


普通、日本各地の神社には、偉人や神格化された人物以外の例外を除いて、概ね、神話に出てくる国造りの神を主祭神として祀っている。 大山祀神もその一神である。 
ここ神門神社は、それ以外に韓国の百済滅亡の時逃れてきた禎嘉帝(伯智王ともいうらしい)をも奉ってある珍しい神社である。 
神社はこの地に伝わる百済王伝説と密接なかかわりを持ち、しかも併せて、千年以上の長い間、百済王の秘宝とされる宝物が神社に保存され、地域の人々によって守り継がれてきたという。


南郷村に落ち着いたとされる百済の王族は、禎嘉王とその子の福智王で、本国より追尾の手が迫ったが土地の豪族の援助もあり、これを撃退したと伝えられている。 
王はこの地で崇敬され死後、神として祀られたといい、福智王は現在の木城町(宮崎県木城町)に住んだとされ、町の比木神社に奉られている。 

神門神社の近くには、「百済王禎嘉帝古墳」と書かれた標柱が立てられ、王の遺品として伝わる鏡24面が社宝として残っているという。 
又、本殿内には、千点以上の鉄鉾や鉄製の武器類が保管されており、当時の戦闘の様子や関わりが考えられるという。

さらに、須恵器(古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた、大陸系技術による素焼の土器)の大甕(おおがめ・底の深い壺形の陶器)や古墳時代の直刀や銅鈴、馬鐸(ばたく)などが保存されている。 
これらの宝物、遺蹟品は「西の正倉院」といわれる特別仕立ての倉に納められている。


因みに、「正倉院」とは、奈良の東大寺・大仏殿の北西に位置する。
高床の大規模な校倉造り(あぜくらづくり)といわれる特殊な木造建築で造られた倉庫で、聖武天皇や光明皇后(東大寺や各地の国分寺を建立)に縁(ゆかり)の品をはじめとする、天平時代(奈良時代のこと)を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設である。 
奈良・正倉院は、東大寺伽藍の一部として、「古都奈良の文化財」のユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
正倉」とは、中央や地方の官庁や寺が、宝物を収めるために設けた倉庫のことである。   


南郷村の神門神社に保存されていた数々の遺品のうち、特に貴重とされる宝物も有ったという。
それは奈良・正倉院にあるものと同じ伝世品(美術品などの、古くから大切にされて世に伝わってきたもの)の鏡銅といわれる宝物があり、しかも、奈良正倉院のものが、遺跡から発掘された出土品であるのに対して、こちらの神門神社の鏡は大切に保管、保存されていたものであった。 
これによって更なる調査が始まり、数々の遺品を鄭重に保存すべく、東大寺・正倉院を忠実に再現した南郷・正倉院を建造することなったという。

村人は、「本物をつくる」ことにこだわり抜き、門外不出の正倉院の設計図を学術目的で入手、木曽の国有林からヒノキを調達、建築方法から瓦、金具にいたるまで学術支援のもと、古代建築の修復などに携わった名工達を呼んで当たらせたという。 
この間、柱を運ぶ御木曳式(おきびきしき)、礎石の上に柱を立てる立柱祭、上棟式など大切な行事には村人が総出で参加し、「西の正倉院」は計画から10ヶ年の歳月をかけて平成8年に完成したという。 

現在、神門神社の東側には、西の正倉院といわれる奈良・東大寺の正倉院と寸分違わぬ造りで、巨大な姿を見せ、その高さは4階建てのビルに匹敵するほど大きいという。 
館内には銅鏡をはじめ、神門神社に集積された宝物、又、百済王伝説の祭りとされる「師走まつり」に関連する物など、百済伝説を紹介する品々などが展示されている。 


それにしても、よくぞ人口2500人足らずの貧村が、歴史に残る豪奢な建物を造ったもんであると感服する。 
現在でも、離れ離れになった百済王の子孫達が、祖先である百済の人々の御霊をお祀つりするため、年に一度再会するという「師走祭り」が、1300年以上もの間村民によって受け継がれている。 

南郷村の「百済小路」といわれる村を見下ろす小高い丘には、「南郷温泉・山霧」をはじめ西の正倉院、百済の里、恋人の丘、コテージ山霧・霧の宿等数多くの観光施設が点在している。


次回は、「米良地方




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2011年9月6日火曜日

日本周遊紀行(167) 九州山地 「椎葉村」

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 日本周遊紀行(167) 九州山地 「椎葉村」   .



次に、日向・宮崎の山村で椎葉、米良、南郷地方について・・、

椎葉」は、九州山地の中央部の山襞深く、県境、五家荘や五木村に接する日向の最奥部に位置し、共に平家の落人伝説を秘めた地である。 
昔から人跡まれな秘境として知られ、俗に「推葉千軒」という一郡にも匹敵する広い面積の士地に、わずかな人家が散在していたのである。 

昭和30年に、我国初のアーチ式ダムである上椎葉ダムができるまでは、車も行けない秘境であったらしく、今は自動車で行けるが、けっして道は広くなく山また山を超えて細い道を行くことになる。 

もともと日向・椎葉は、中央から離れ、陸の孤島とされた内陸の流刑地として、有名無名の罪人がこの地に遠流された地でもあったという。


1185年、源平の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は、全国各地へと落ち延びるが、ある一行は険しい山を越え、熊本の阿蘇路を経て九州山脈の最も奥深い椎葉へと辿り着き、かくれ住んだという。 

だが、この山地も鎌倉幕府の知るところとなり、追手が迫ることになる。 
源氏の棟梁・源頼朝より追討の命を受けたのは「扇の的射」で有名な那須与一宗高であった。
ところが、与一自身は病の床に伏していたので、弟の那須大八郎宗久が軍勢を率いてこの椎葉を目指すことになる。 

険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見するが、そこで大八郎が目にしたものは、かつての栄華もよそに、ひっそりと農耕をしながら平和に暮す農民達であった。 
大八郎は哀れに思い「椎葉の平家の残党は一人残らず討ち果たした・・、」と幕府に嘘の報告する。

その後、大八郎はこの地に屋敷を構え、この場所で生活することを決め、やがて、平清盛の末裔とされる「鶴富姫」と出会い、二人の間にロマンスが芽生える。 
そして姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音の合図に逢瀬を重ねる。 

そんな中、幕府から、「すぐに兵をまとめて帰れ」との命が届き、仇敵平家の姫を連れて帰るわけにもいかず、大八郎は一人で帰ることにした。
この時既に、鶴富姫は身ごもっており、大八郎は「生まれた子が男子ならば我が故郷下野の国へつかわせ、女ならこの地で育てよ」と言い残し椎葉を発つ。

この大八郎と鶴富の運命的な逢瀬の時に生まれたのが、全国的にも有名な「ひえつき節」であったという。


ひえつき節』 宮崎民謡

庭の山椒(さんしゅう)の木 鳴る鈴かけて 
ヨーオー ホイ(以下、おなじ)
鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれヨー

鈴の鳴る時ゃ 何と言うて出ましょ 
駒に水くりょと 言うて出ましょヨー

おまや平家の 公達(きんだち)流れ 
おまや追討の 那須の末ヨー

那須の大八 鶴富捨てて(おいて) 
椎葉たつ時ゃ 目に涙ヨー

恋の別れの 那須大八が 
鶴富捨てて 目に涙ヨー

泣いて待つより 野に出て見やれ
野には野菊の 花盛りヨ

以上、那須の大八と鶴富姫の下りだが、歌詞は、まだまだ続くという。


椎葉村は、標高千メートル近い山の斜面を切り開いて、雑木や雑草を焼き、残った灰を肥料としてソバやヒエが作られてきた。 
有名な「ひえつき節」は、このような生活の中から生まれた椎葉を代表する民謡で、焼畑によって収穫されたヒエを木臼に入れて杵でつくときに歌われる労作業歌でもある。

平家の鶴富姫と源氏の武将・那須大八郎の平家落人にまつわる伝説は、今も残っており、鶴富姫が住んでいたといわれる豪壮な屋敷も存在する。 
その屋敷は平安期の寝殿造りで、建築様式から約300年前の建立と云われ、昭和31年国の重要文化財となっている。

毎年11月の初旬の3日間「椎葉平家まつり」が行われ、祭りのハイライトは大和絵巻武者行列で十二単の平家方の鶴富姫と源氏方の那須大八郎が、よろい姿の騎兵と一緒に町中を練り歩くという。
 

次回は、「南郷、米良




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2011年9月5日月曜日

日本周遊紀行(167) 九州山地 「五家荘、五木村」 

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 日本周遊紀行(167) 九州山地 「五家荘、五木村」   、



序(ついで)ながら、「西南の役」で敗れて、敗残の薩摩軍が辿ったといわれる、所謂、九州脊梁山地の町村について述べてみよう。 

北は阿蘇山系、南は霧島山系に挟まれ、宮崎と熊本の県境の九州の屋根と言われる山峡の地に、郷愁と伝説を秘めた村々や部落が点在する。 先ず、肥後・熊本に属する「五家荘」(ごかのしょう)と「五木村」について述べてみたい。

「五家荘」について・・、
1300~1700m級の九州山地の奥深い位置に点在する五家荘は現在、八代市泉町(旧:泉村)の中の旧村であった椎原、仁田尾、樅木、葉木、久連子の五つの集落の総称であって、特に五家荘という行政地名としては地図には載っていない。

五家荘地方は、平家落人伝説の残る九州中央山地の奥深い山間に点在する集落のことで、九州の秘境中の秘境と言われている地域である。 

管原道実の子孫や平家の落武者と源氏の追討など追われる者と追う者達が山奥深く入り込み、そのまま住みついてしまったという興味ある伝承の地でもある。


菅原道真は、藤原氏の策略によって太宰府に左遷されるが、道真の死後、長男と次男にも追討の手が延び、それを逃れるためこの地に入り、左座(ぞうざ)という氏名を名乗って、仁田尾(にたお)、樅木(もみき)辺りに住みついたといわれる。

又、平家一門の平清経(平重盛の三男)は、源義仲が上洛したことにより豊後竹田の緒方氏を頼って四国から豊後鶴崎を経て竹田に入ったとされている。 
緒方氏の娘を妻として緒方姓を名乗ったが、緒方維義が叛旗を翻し源氏方へ寝返ったため、清経は太宰府から山賀の城、柳が浦へと落ち、世をはかなんでそこで入水したとされる。 だが、五家荘の地へ逃げ込んだという伝承もあり、その後、三人の息子たちが其々の里に住み着き、庄屋として領地を開拓したという。 


五家荘にある「平家の里」は、都を偲ぶ隠れ里の雰囲気が漂い、朱色が鮮やかな神殿造りの「平家伝説館」(資料館)には平家落人伝説の資料などが展示してある。
又、能舞台や当時を偲ばせる古民家が点在し往時を偲ばせている。 
他に、最奥部の樅木(もみき)地区には、現在は観光名所となっている「ロープの吊橋」が多数見られる。 

「五家荘」は川辺川の上流域にあり、深い渓谷に架かる藤の蔓を使用した吊橋が、地域住民の日常生活に重要な役割を果してきた。
だが現在は、大部分がワイヤーロープの吊橋に架け替えられ、五家荘の名所となっている。
「五家荘」は、豊かな自然とロマンが今も残っている地域である。


次に、五木村について・・
おどま盆ぎり盆ぎり・・」と、どことなく哀愁をおびた子守唄である。

五木の子守唄」で有名な五木村は、川辺川上流に沿って集落が点在している。 
現在、この五木の近辺はダム工事のために狭い道をダンプカーが行き来しており、道路工事などの最中であるらしく、いづれは、子守唄の里でもある五木の中心地は、ダムの底に沈むことになるようである。


壇の浦の戦に破れた平家の一族である武将17人、そして従者135人が五木、五家荘の山中にひそみ、さらに世人の目をくらますため、源氏の武将の姓である土肥、椎葉、那須、黒木らを名のり、居着いた(いつき=五木)であろうという伝承(平家伝説)がある。

五木村から肥後・八代へ抜けるのに「大通峠」というのがあり、かつて貧しい五木の名子(なご・中世から近世、一般農民より下位に置かれ、主家に隷属して賦役を提供した農民)達は、娘たちが七つ八つになると、ロベらし(クチ減らし・家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数を減らすこと)のため、町(八代)に女中奉公に出したもので、そのための親子は、必ずこの峠で別れなければならなかった。 

マチさ行けば毎日マンマ(御販)が食べられるとバイ」・・と、母親の声を後に泣きながら山を下って行く光景がしばしば見られたという。 
五木の子守唄の一節に、「おどま親なし七つの年に、よその子守で苦労する、つらいもんばい他人の飯は、煮えちゅおれども のどこさぐ・・」
と、当時の悲しい様子が見て取れる。

子守唄公園には温泉センターや歌碑、ユニークな子守唄像が立っており、かやぶき茶屋や子守茶屋の店もあり、お茶や椎茸などの地元名産品などが販売されている。

五木の子守唄』  熊本県民謡
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
盆が早よくりゃ 早よもどる

辛いもんだな 他人の飯は
煮えちゃおれども のどにたつ

おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆
よか衆ゃよか帯 よか着物(きもん)

歌詞にある「おどま勧進勧進」の勧進とは、「もの乞い、乞食」のことで、「私は乞食(こじき)」という意味である。 
哀愁を帯びたメロディーと切ない思いが伝わる日本でも代表的な子守歌であるが、レコード等で全国的に有名になった「五木の子守唄」とは別に、五木村で古くから唄い次がれてきた「正調五木の子守唄」もある。

正調五木の子守唄』 伝承者 吉松 保
おどまいやいや 泣く子の守にや
泣くと言われてにくまれる
泣くと言われてにくまれる

ねんねこした子の可愛さむぞさ
おきて泣く子のつらにくさ
おきて泣く子のつらにくさ


全国的にも有名な「五木の子守唄」であるが、歌詞は様々なものが伝えられているという。 特に、正調五木の子守唄は歌詞で1番、2番というもはなく、どれが元唄で、何番まであるかなど全然判っていいないという。
専門家によると、多分、即興的に歌われ、そして消えていったものも多数有るともいわれている。  

又、歌詞やメロディの発生時期・時代についての記録も伝承もなく、自然発生的に歌われだしたものが、今日まで伝承されてきたと解釈されている。
伝承者によって似たようなものもあれば、ひらがな、漢字などを含め、記述した人によっても微妙な違いがあるともいわれる。


次回は、「椎葉村






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2011年9月4日日曜日

日本周遊紀行(166) 延岡 「延岡版・西南の役」

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 日本周遊紀行(166) 延岡 「延岡版・西南の役」  ,




写真:北川・表野の児玉熊四郎邸(西郷隆盛宿陣跡資料館)の西郷の最後の軍議の様子




可愛岳周辺は、「西南の役」における西郷軍の最後の激戦地であり、退却地でもあった・・、

現在、北川の「表野」辺りは実に長閑で雛びたところであり、時が止まっているような地である。 
だが、明治初期の一時期、この辺りは一大騒乱の地であった。


可愛山稜の伝説の地から東側に沿っての表野集落の一角に旧邸らしい「岡田邸」があるが、元は児玉邸という邸宅であったらしい。 
現在、この地は可愛岳への登山口になっており、、登山愛好者が集うところでもある。 
併せて、ここには「桐野利秋宿営の地」と白の看板が立ち、更に、横に「可愛嶽突囲戦薩軍登山口」とある。 

案内板の主文には『 明治18年8月15日、和田越の戦いに敗れた西郷軍は、ここ表野に集結した。17日の夜には官軍の包囲網は完成していて、翌朝は西郷本陣を総攻撃する手筈になっている 』 とある。

児玉熊四郎邸は、当時、西郷軍の本陣であり最後の軍儀が開かれた所で、最後の決戦か、降伏か、あるいは鹿児島への脱出か、三者択一を迫られた場所であった。 
本営地の頭上は、岩峰鋭い天険の山・「可愛岳」が聳えていて行軍には最大の難所であるが、それでも西郷隆盛は栄光の脱出行を決断し、選択したのである。 
そして遂に西郷は、薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いて捨てたと言われている。 
現在この場所は「西郷隆盛宿陣跡資料館」となっていて、西郷軍が最後の軍議を開いたときの様子が、人形(ひとがた)を使って再現してある。



西南戦役」については先に熊本の項・「田原坂」でも記したが、熊本では谷干城司令官(たに たてき:土佐藩士、軍人・坂本竜馬の同輩)率いる政府軍がたてこもる熊本城に総攻撃をかけたものの城を落とすことはできず、頼みの田原坂の防衛ラインも分断され、田原坂も政府軍の手に落ちてしまう。 この後、西郷軍の敗走が始まるのである。 

政府軍に追われて右往左往する西郷軍は、矢部(現、上益城郡山都町)から「椎葉越え」をして人吉へ、更に、薩軍は人吉盆地での攻防戦を経て小林-野尻-高岡から宮崎と向かっている。(別働隊は人吉から米良村の横谷峠を越えて村所、一ノ瀬川沿いを宮崎方面へ)実に九州の脊梁山地といわれる急峻なる難所を踏破し、漸く(ようやく)にして現在の宮崎市広島1丁目近くの農家・黒木某宅に本陣を置き、約2ヶ月滞在している。
跡地には「西郷隆盛駐在の地」として「敬天愛人」の石碑と案内板が当時の様子を伝えている。

しかし、そこにもそう長く滞留することは出来ず、佐土原-美々津と日向各地を転戦し、さらに延岡まで退却することになる。 

延岡が官軍の手におちる直前、延岡の山中から五ヶ瀬川を下り、東海港(延岡市東海)を経て北川を遡り、野峰の吉祥寺(国道10、326号の分岐点)に入る。 
隊士たちも続々北川・長井村に集結し、西郷軍は最後の決戦となる「和田越戦」の軍議を開き、この席で、西郷は「明日の和田越戦の指揮は、直接自分が執る」と伝えたと言われている。

和田越の戦い」は、西南の役、最後の激戦地としても有名で、西郷軍三千に対して、政府軍は山県有朋指揮いる五万の大兵力であり、朝から昼過ぎまで灼熱地獄の中での死闘5時間続いた戦闘であった。

しかし、善戦はしたものの多勢に無勢、所詮勝ち目はなく西郷軍は敗れて空しく敗走、再び北川の俵野に至る。 

和田越は、現在、延岡市無鹿町の北側丘陵に当たり、北川西岸の国道10号線と日豊本線の和田越トンネルが抜けている。


和田越の案内板より・・、
『 8月15日晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場・和田越山上に立つ。薩軍3,500は長尾山、小梓山、和田越、無鹿山に布陣し、樫山山上に立った。この戦い南洲翁死処を求めし最後の決戦なり。』

トンネルの入口には「西南の役・和田越戦跡」の標柱と、反対側の出口には野口雨情が、

『 逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの 落人に 』 

と歌い、その歌碑や案内板が建っている。 



西郷隆盛最後の本陣となった俵野の児玉熊四郎宅で最後の合議がなされたのは、時に明治10年8月15日であった。そして、8月16日、最終的に西郷が解軍を決意し令を出した。
『 我軍の窮迫、此に至る。今日の策は、唯、一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際、諸隊にして、降らんと欲するるものは降り、死せんと欲する者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其の欲する所に任ぜよ 』 

これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ 1,000名程が残ったという。 そして、8月17日の夜、可愛岳突破を敢行するのである。 

先頭に2人の猟夫と数人の樵夫(きこり)を道案内に立て、険しい岩場や鬱蒼とした樹木の間をくぐり、傷だらけになっての山越えであったという。 

実際に、この山を越えたのはわずか200名足らずだったそうで、あとはこの地で、官軍に投降したという。 


その後、薩軍は、上祝子(かみほうり)、鹿川(ししがわ)、三田井(みたい)、七ツ山(ななつやま)、松平、御門と九州山地を南下するが、道なき道の山岳逃避行は故郷・鹿児島まで半月近く続いたという。 

そして、9月1日には懐かしの鹿児島に到着し、城山・岩崎谷において最後の籠城するも、同24日、西郷らは自刃し、ここに半年間に亘る西南戦争は終結するのである。


次回は、「九州山地





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01. 15.

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