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2011年9月10日土曜日

日本周遊紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」

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 日本周遊紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」   .




写真:佐伯を代表する三の丸・櫓門の威容




秀吉子飼の毛利高政が、現在の「佐伯」の基礎を形造った・・、

北川町の道の駅、「北川はゆま」で一寸遅い食事をとる。 
ところで「はゆま」とは早馬(はやうま)から転じたもので、江戸期に設けられた駅制度により、駅(宿場)に置かれた馬のことであるらしい。 
ここは現在は国道10号線であるが、この地に昔の駅舎が在ったかどうか定かでないが、九州南北を縦貫する昔からのメインルートでもあったのは確かである。 


レール列車に駅があるように、車の道路にも全国的に駅やサービス・ステーションがある。
この「道の駅」は、休憩のためのパーキングとしてはもちろん、人と町の交流ステーションであり、地域の文化や歴史、名所や特産品などを紹介、発信する情報交流の場としても魅力を発揮している。 

小生のように、全国を股にかけている旅の者にとっては実に重宝で、一宿一飯の地にもなっている。 
それを示すように、駅の一角に巨大な「駅馬」のモニュメントが建っている。


国道10号線は、宮崎県から大分県に入ったようである。 
緑鮮やかな山間の地で、起伏曲折は多いが、さすがに1級国道で造りは立派、時速にして60kmで悠々と走れている。

内陸部の宇目町、直川町の山地をようやく抜けて、佐伯の町に来たようである。
佐伯市は2005年(平成17年)3月、上浦町・弥生町・本匠村・宇目町・直川村・鶴見町・米水津村・蒲江町が合併し、新市制によって広範な佐伯市が発足している。
元より、この地域は南海部郡(みなみあまべぐん)といって、以前から「佐伯南郡」とも呼ばれ、強い結び付きを有しているらしい。 住民の日常社会生活圏は連帯意識をもち、経済圏もほぼ一体的であったという。
そのため、県内でも最も早く合併に向けて2000年12月には佐伯市・南海部郡5町3村任意合併協議会が設置され、2005年に合併したことから、面積が九州最大となる新たな佐伯市が誕生している。 
本来、各地域は支所や支庁と言われるところ、ここではユニークにも「振興局」という名称が付けられているという。


国道10号線が番匠川に達した辺りから沿岸域に出たようである。
この辺りの海岸線は、凡そ200kmに及ぶ「日豊海岸国定公園」にも指定されてるリアス式海岸が続く峻険な地である。
そんな中、佐伯市街は九州有数の清流・番匠川の豊かな水に恵まれた地域であり、市の中心地はその番匠川の河口に広がる小域な沖積平野に市域を形造っている。


番匠大橋を渡って右折し、川沿いを行くと間もなく佐伯市街に入ったようで、街路案内によって左折すると、いきなり巨大な城門が現れた。 
歩道には石畳を敷き詰め、クロマツの並木を造り、一部区間では電線を地下埋設していて、シットリとした白壁の土塀が続く。
旧藩政時代の武家屋敷の佇まいで歴史的景観、街路の調和が実に良い。

この地域、市内中心部の大手門跡から櫓門前を通り、城山の麓にそって養賢寺(ようけんじ)までの約700mは「歴史と文学の道」とされ、「日本の道100選」にも選ばれているという。 
養賢寺は大屋根を持つ本堂や風格のある庫裡、経蔵など初代藩主毛利高政をはじめ歴代藩主の菩提を弔う大寺院で文化遺産でもある。

風格のある城門は三の丸御殿の正門として、寛永14年に創建された櫓門(やぐらもん)といい、江戸時代の城郭建築を色濃く残す、歴史的建造物でもある。


佐伯は、元より海の幸、山の幸に恵まれた富める海辺の村であったが、江戸開府と同時に大いに発展してゆくことになる。 
佐伯藩初代藩主・毛利高政は慶長6年(1601年)、日隈城(ひのくまじょう:大分県日田市亀山町)から佐伯二万石を封ぜられ、番匠川下流の左岸に位置する八幡山(城山)に佐伯城を築き、番匠川の河口付近の干潟を埋め立てて城下町を整備している。 

町の南側を大きく曲がり込む番匠川の本流が外堀となり、支流や入江も自然の防御線となっている。 更に湿地帯が内堀のようにして残され、軍事的な防備だけでなく、防火線にもなっていると言われる。 

番匠川は、下流部を中心に古くから舟運が発達しており、江戸時代から舟運のための流路や水深を確保するための工事が行われていたという。 
江戸時代の船着き場は藩主専用の乗船場、藩士の乗船場、一般の乗船場などに分けられていて、渡し船や定期船も多く、河川に沿って街が賑わいを見せていたという。
櫓門を起点にして武家屋敷の町並みが尽きるところに、藩主・毛利家の菩提寺であった名刹、養賢寺があり、裏の高台にもある毛利家累代の御廟所も壮麗である。



この地方は平安期より「豊後・佐伯の荘」と称していた。
鎌倉期には豪族・佐伯氏が領主として豊後守護・大友氏に属し、番匠川の上流の標高224mの栂牟礼山(とがむれさん)の山上に山城を築き、ここを本拠としていた。 だが戦国期の九州騒乱で主家・大友氏が失脚にともない佐伯氏も改易、城を去っている。 

現在の佐伯城(城址)は慶長6年(1601)、豊後日田の日隈城から移封された毛利高政が11年の歳月を費やして、標高140mの八幡山に築城した山城である。 

高政は、豊臣秀吉子飼いの武将で、元々、森を姓としていた。 
ところが天正10年(1582年)秀吉による中国攻めの最中、本能寺の変で織田信長が凶刃に倒れたため、秀吉は中国の毛利氏と急遽和議を結んで、森高政を毛利方への人質とした。 
ところが高政は、当主・毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にもあり、以後、毛利姓を名乗るようになる。 

その後は、大坂城の築城や秀吉による朝鮮出兵の際の対馬に城を築くなど活躍、豊後・日田二万石の大名となって五層の天守(日隈城)を築くなど威勢を張った。 
しかし、毛利高政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で石田三成方の西軍に組したため、徳川家康によって佐伯二万石へ転封された。 

以後、佐伯城は、毛利氏12代の永きに亘って居城となし、明治維新まで続くことになる。 
関ヶ原の合戦を経て佐伯藩に移封、築城と町づくりの礎を固めることになるが、江戸期、多くの藩が移封、転封される中、秀吉子飼いの大名でありながら、綿々と引き継がれ明治維新まで存続できたのは佐伯藩だけであるという。

尚、戦乱の時代も去った寛永14年(1637)、毛利氏三代目・高尚は八幡山麓の三の丸に居館を移したため、佐伯城は山城としての役目を終えることになる。 
そして、三の丸への登城門が現在の「櫓門」である。 
尚、佐伯城城郭は、明治の「廃城令」で城が取り壊されて現在は遺構のみが残っている。
山城へのルートは幾筋かあるが、いずれも昔の面影を残しており、山頂からは佐伯の町が一望できる。


次回は、「津久見


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祝い・・!!  平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 
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