google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2010-09-19

2010年9月25日土曜日

日本周遊紀行(8)南伊豆 「石廊崎」

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 日本周遊紀行(8)南伊豆 「石廊崎」 




石廊埼灯台(伊豆灯台)



伊豆半島の東海岸を南下したR135はここ下田でR136となって西伊豆方面へ向かっている。
小生もそれに従って進むことにする。 

吉佐美から標識にしたがって石廊崎方面へ、河口の青野川の対岸は美しい海岸が広がっている、「弓ヶ浜」である。
白砂の浜が弓なりに広がる美しい浜で、背後には松原の緑が迫る詩情豊かな景観である。

伊豆西南海岸といわれる県道から、石廊崎の取り付部である石廊崎港の遊覧船乗り場へ来た。ここは湾というか入り江というか、外洋から凡そ1kmも細長く入りこんだ先端にあたり、小波一つない静かな港である。

ここから石廊崎灯台へは15分程のやや急な登り道である。
路の脇には数件の土産店が軒を並べているが日曜の午後とあって、いずこもお暇な様子である。
一汗流してやっと灯台へ達した。 


石廊埼灯台(いろうざきとうだい)は伊豆半島・南伊豆町の最南端の石廊崎に立つ、白亜の塔形をした中型灯台で、「日本の灯台50選」にも選ばれている。
1871年(明治4)10月(旧暦では8月)に、設置・初点灯している。

かの、「灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントン(イギリスの工兵技監にして建築家、スコットランド人、明治政府の招聘により来日したお雇い外国人のひとり。
数多くの灯台の設計・設置を手がけた)の設計による八角形の木造灯台として建設され、日本では、10番目に古い洋式灯台だそうである。
昔から石廊崎沖は航海の難所でもあり、この沖の岩礁で座礁、難破する船も多くあったので、航行関係者からは是非にと、灯台が求められていたのであった。




伊豆南端、先端部の「石廊埼」
 


灯台周りには囲いがあって、見物できないのは残念である。
灯台から更に進むと紺碧の大海原が広がっていて、高さ50m~100mの断崖絶壁に黒潮が激しく波を打ちつけている。
又、断崖にへばりつくように鉄柵の遊歩道があって、その先の大岩を刳りぬいた部所に石室(いろう)神社の社が鎮座している。
その又突起の絶壁上に注連縄を張った小社が恐る恐る据わっている、実に迫力ある風景である。
特に岩の上から見る朝日は絶景で、正月のご来光は人気のスポットであるとか。

神社は奈良時代には開祖された様で「役の行者」にも因縁があり、中古以来、金剛山石室権現と尊崇されていたという。
石の廊下をつたって石室に安置されていたもので、維新後の神仏分離で伊波例命(イハレヒコノミコト:海上交通の守り神)を奉斎し、石室神社とされたといわれる。

石の廊下に石室で、社名も石室(いろう)神社と呼称しているようで、変じて一帯を石廊崎と称するようになったとか。 いずれも海上交通や縁結びにご利益があるという。

水平線に地球の丸さを実感・・・?? しながら、石廊崎を後にした。

 
西伊豆・「松崎」へ、



【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   
「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   北ア・槍-穂高(1968年)   上高地・岳沢・穂高(1979年)   上高地・明神(2008年)   南ア・北岳(1969年)   八ヶ岳(1966年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   奥秩父・金峰山(1972)   

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」



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2010年9月24日金曜日

日本周遊紀行(7)下田 「露使節・プチャーチン」

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 日本周遊紀行(7)下田 「露使節・プチャーチン」 




「ロシアと北方四島」

ペリーが下田を去って間もない同年(1854年)、ロシア使節・プチャーチンが日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する。
日米和親条約締結の話を聞きつけ、ロシアも日本と通商を求めるべく來日したもの。

同年、幕府役人との数度による交渉の結果、長楽寺にて日露和親条約が締結される。 
この日露和親条約が日米和親条約と大きく異なるのは、日露の国境が決められ、択捉島とウルップ島の間に国境線が記載されたことで、この日を以って北方領土の日(2月7日)として設定している。



因みに、先の大戦以降、未だに北方領土はロシアに占有されたままである。
長年に亘って日・ロとの返還交渉が成されてきたが、現代に到るまで解決されてない。
その返還については日本の長年の悲願である。

北方領土とは北海道東方、歯舞(ハボマイ)、色丹(シコタン)、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)の四島のことである。
昨年(2005年)10月東日本一周の際、北海道東方沿岸で国後島を遠望し、納沙布岬では歯舞諸島を真近に望めた。
これら地域、特に根室半島は北方領土返還の拠点になっていて、立て看板や石文が辛く、切なく、それらを物語っている。 


「蛍の光と北方領土」

ところで、「蛍の光」という唱歌があるのは周知だが、「北方領土」のことも歌詞にあるのは大方は判っておらず、まして、最近はあまり歌われていないようである・・?。

この歌は、明治14年(1881年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編に載せられている。 作詞は稲垣千頴(いながき ちかい)、作曲者は不詳であるが、元々はスコットランド民謡である。

明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するにあたって、稲垣千頴が作詞したものが採用され、「蛍の光」となったという。
歌詞の舞台は異なるが、遠く離れた友を思う心根は、原曲であるスコットランドも日本も共通である。

大日本帝国海軍では「告別行進曲」という題で、やはり各種学校の卒業式典曲として「仰げば尊し」と一緒に、最近まで使われ歌われた。

現在は『蛍の光』は二番までしか歌われていないが、本来は四番まである曲であった。 三番と四番は、辺境の地であっても、それは日本の守りのためであり国のために尽くす、というような歌詞であり、この内容が敬遠されて戦後には歌われなくなったようである。


以下の歌詞は、小学唱歌集初編(明治14年11月24日発刊)に掲載された時のものである。
前述の通り、戦後・昭和24年以降はこの中の1番と2番のみしか歌われていない。


蛍の光』詞:稲垣 千頴  スコットランド民謡
                    
蛍の光  窓の雪               
書(ふみ)読む月日 重ねつつ        
いつしか年も すぎの戸を          
開けてぞ今朝は 別れゆく          

止まるも行くも 限りとて
形見に思う 千万(ちよろず)の
心の端を 一言(ひとこと)に
さきくとばかり 歌(うと)うなり
               
筑紫(つくし)の極み  陸(みち)の奥     
海山遠く 隔(へだ)つとも          
その真心(まごころ)は 隔てなく       
ひとつに尽くせ 国のため


千島の奥も 沖縄も* 
八島のうちの 守りなり
到らん国に 勲(いさお)しく
努めよ我が背 つつがなく


※ 歌詞の内容に問題があるとされ、現在音楽の教科書等では第三節以降が省略されている。

この「蛍の光」は、悲しいまでに美しい旋律(メロディー)である。
幼少の頃は歌詞を理解してなくとも、歌ったり、聞いたりしただけで胸にジーンときたものであった。
しかも、1番から4番まで理解して歌う時、万感迫るものがある。 

「蛍の光」の1、2番は同窓の友や師との告別の意味であるが、3,4番は、将来は国のために心を合わせて協力するという歌である。
「蛍の光」を、この形、1から4番までしっかりと歌い続けていれば、北方領土の問題は日本人の意識にもっと深く存在し得たはずであろう。 
戦後の風潮、教育でこれらの感慨を全て捨て去った現在、所々にそれらの付けが回ってきている。

日本人の精神そのものが、今の北方四島を見ているようである。


尚、「蛍の光」のメロディは、本国のスコットランドや日本だけでなく、その他の各国にも浸透している。 
イギリスやアメリカ合衆国などでは新年(スコットランドでは大晦日から)を祝う歌であり、台湾やフィリピンでは新年と卒業式の両方で歌われ、かっては大韓民国(韓国)の国歌でもあったという。


次いでながら、「蛍雪の功」という言葉がある。
「蛍の光」の歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われる。 
一途に学問に励む事を褒め称える中国における故事が由来となっている。

東晋の時代(とうしん;3世紀、中国の西晋王朝に対して江南に建てられた王朝で、西晋に対し史書では東晋と呼んで区別している)の車胤(しゃ いん;東晋の官吏)は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。 
同様に、同じ頃の孫康(そんこう;東晋から劉宋にかけての人物・官吏)は、夜には窓の外に積もった雪の反射する光で勉強していた。
そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。



尚、プチャーチン提督が来日していたこの年(安政元年)、東海地方を巨大な地震が襲う、「安政の大地震」と言われるもので、この下田も津波によって全滅に近い甚大な被害を被っている。
津波てロシア軍艦・ディアナ号も大破し、亡くなっ水兵は今もこの玉泉寺の敷地内に眠っている。 
長楽寺は了仙寺の近くに在る。
詳細については西伊豆・「戸田」(へた)の項で記載します。


次回は伊豆南端:石廊崎まで行きます



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2010年9月23日木曜日

日本周遊紀行(7)下田 「ハリスとお吉」

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 日本周遊紀行(7)下田 「ハリスとお吉」 




幕末開国の歴史の中心舞台となり、ハリスがアメリカ総領事を置いた「玉泉寺・本堂」と隣接するハリス記念館




総領事官・ハリス

先刻、通ったR135より爪木崎方面へ向かう途中に「玉泉寺」があった。 
先の了仙寺とは対照的に人っ子一人居ない静寂の寺院であり、門前に” 安政年間・日本最初・米国領事館 ”の石碑があり、石段を登った本堂右手に「ハリス記念館」があった。 


ペリーが去って、1856年7月、日米和親条約の規定に基づき初代日本総領事「ハリス」が下田に着任し、この玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置された。
それから3年もの間オランダ人通訳・ヒュースケンと共に下田に滞在し通商条約締結に向けての幕府との交渉に臨む。
そして、翌1857年に下田協約(日米通貨協定、領事裁判権等)を結ぶ。

又、初め江戸入府を許可されなかったが、後に許されて陸路天城を越えて(前に記した天城峠越え)江戸城へと向かう。
ハリスは外国人としては初めて将軍・家定に拝謁し、家定は「 遠方からの書簡、又、口上、満足である。幾久しく交友したいと大統領に申し上げてもらいたい 」と述べている。
その後、幕府と根気強く条約交渉を進めた結果、1858年6月日「米修好通商条約」を横浜艦上で調印することに成功する。 


ハリスは実は親日家であったという。
ハリスの滞在日記『ハリス日本滞在記』の中で「 私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族より優秀であることを、繰り返し云う。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう」と記している。 

日本人を「特異で、半ば野蛮な国民」と称したペリーとは大違いである。



唐人お吉

下田一と評判の高い芸妓だった「お吉」が、17歳でハリスの世話人として上がる。
病弱で動けなくなったハリスは、身の回りの世話をしてくれる女性を幕府に要求していた。
幕府は交渉を優位に進めようと政略をもってお吉を送り込むが、そのことを知ったハリスは激怒し、3日で帰宅させてしまう。
その後、ハリスの人柄も聞かされ、支度金として受け取った25両のこともあって、改めて彼女の家族側から領事館にお願いし、奉公することになった。

ハリスに仕えた期間はほんの僅かだったが、その後のお吉は不運だった。
唐人」とののしられ蔑まれて、その後三島や横浜と移流する。

後には下田での商売はうまくいかず酒に溺れて、遂に明治24年豪雨の夜、下田・蓮台寺の稲生沢川の淵に身を投じ自らの命を絶っている。
波瀾にみちた51年の生涯は、あまりにも哀しい終幕で、この事件は幕末開国に伴う一悲話として小説や芝居の題材にもなっている。
お吉は身よりもなく「宝福寺」の住職に法名を戴き境内に厚く葬られた。

先代の水谷八重子の舞台が評判になったのをきっかけに、芸能人達によって墓石も寄進され、法要祭は下田の女連によって今でも行われている。

宝福寺は下田駅と了仙寺の中間、通称「まいまい通り」に在る。

引続き「下田」である。



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2010年9月22日水曜日

日本周遊紀行(7)下田 「黒船祭とペリー」

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 日本周遊紀行(7)下田 「黒船祭とペリー」 



「下田黒船祭」

今井浜温泉、河津浜温泉からR135は内陸の高所を行く。
その後、再び白州の浜に出た、伊豆白浜という。
白浜の地名は 他に安房の白浜、南紀の白浜を記憶している。

スイセン(1月頃30万本の自然のスイセンが咲きほこる)と須崎御用邸(昭和46年に三井の静かな入江に御用邸がたてられ、天皇陛下や、皇室関係の方が、海洋生物の研究やお休みにお出でになる)で有名な爪木崎を左に見ながら、とりあえず伊豆急の下田駅に向かう。
駅は鉄道・伊豆急の終着駅で東京から下田は凡そ2時間半で結んでいる。


観光案内所で歴史的名所のガイドを伺いながら、パンフを戴く。
聞くところによると5月20日~22日つまり本日まで「下田黒船祭」の真っ最中で、各処々でイベントが行われているとか。

ソウ云われれば、商店大通りでは賑やかに出店や露天商が並んでいて、着物のお嬢さんのソゾロ歩きや港街らしくセーラー服の若き水兵さんの姿も見かけた。
黒船祭は、当時亡くなった米兵の供養祭から始まり、現在は日米両国の親善を深めるため、下田条約が締結された5月に、毎年行われてる。


思えば今年は種々の記念の年に当たっている様だ。
太平洋戦争の終戦60年、日露戦争の終結100年、そして江戸末期の開国から150年と。
この下田こそが、江戸期の長い鎖国から世界への扉を開いた地である。

先ずそれらの跡を訪ねて観よう。
駅前から稲生沢川沿いを行くと、下田公園の手前に「ぺりー艦隊上陸の地」があった。 

船体を真っ黒なタールで塗りつぶした4隻の艦船が「浦賀」に来航したのは、1853年6月であった。

母国アメリカを出航した後、大西洋からアフリカ喜望峰を回りインド洋を抜け、香港・琉球(沖縄)を経由し226日にも及んだ長い航海の末、日本へとやっと到達した。
ペリーは久里浜(浦賀)にて、開国開港を要求する国書を幕府に受け取らせると、翌年再び来日し返答を聞くことを約束して一旦日本を去った。 

時を経て再び来日したのは翌年1854年、今度は9隻の艦船を率いて、無断で江戸湾(東京湾)の測量や乗組員を強引に横浜に上陸させ、条約草案を押し付ける等、威圧行為を行いながら、幕府との話し合いの場を設けることに成功する。

強引な手段に出たのには、前任の東インド艦隊司令長官が浦賀奉行に呈よく追い帰されたという経緯があった。
そのため万が一の場合には「武力行使も辞さない」といった断固たる決意で臨んだ為といわれる。
腹を決めた幕府は江戸近隣での開港を嫌い、下田・函館両港の開港案を提示する。

ペリーはさっそく下田周辺の海洋等の事前調査を行う、外洋と接し安全かつ容易に出入りが出来る下田湾を、当時ペリーは「 天然にしてこれほどの良港は望めない 」と絶賛したそである。
遂に艦隊を集結させたペリーは乗組員と共に、この地に上陸する。



ぺりー上陸地(下田黒船祭にあたり、胸像には花輪と花束が手向けてある)


上陸地の園地にはペリーの胸像があった。

ここから「了仙寺」までは300mもあろうか、石畳の道に風流な弥治川、ナマコ壁の屋敷前に架かる朱色の橋、小公園やガス灯など情緒あふれる散歩道、下田の町の風情を感じさせ、若者に人気のおしゃれストリートになっている。
通称「ペリーロード」と呼んでいる。
その先に了仙寺は在った。

さすがに大きめの駐車場の横は土産店が並び、その前に紫色の花木鉢が並んでいる。
聞くと「 アメリカジャスミンでこの寺の名所名物だよ、中庭は今が盛りだよ 」と言う。

成る程、肩ぐらいはあろうかと思われる位のその名もアメリカジャスミンが庭一面に今が盛りと満開の花を咲かせていた。
本堂も古式な由緒を感じさせる。 


了仙寺と真盛りのアメリカジャスミンの庭園



ペリーや艦船の乗組員たちは、このペリーロードを軍楽隊の演奏と共に派手に行進をしながら了仙寺へと入ったことだろう。

ペリーは下田の町家を下見、見聞しながら幕府側代表と何度も交渉を進め、念願の全12ヶ条から成る日米和親条約(神奈川条約)を締結したという。 

初め、街を歩く白い色や真っ黒い鬼のような形相の大男に恐れをなして家の中に閉じこもっていた下田の町民も、フレンドリーでユーモラスなアメリカ人とすぐに打ち解けることができ、敵対心を抱いて接していた幕府役人を尻目に、友好関係を築き上げていったという。

又、ペリー一行が下田に上陸して最初受けた日本人の印象は、自分たちが考えていた一見した以上に、生活や教育水準の高さ、職人たちの手の器用さに驚き、尚且つ、日本の風習にも相当なカルチャーショックを受けたようである。

引続き下田での「ハリスとお吉



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2010年9月21日火曜日

日本周遊紀行(6)伊東 「東伊豆」

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 日本周遊紀行(6)伊東 「東伊豆」 



「伊東温泉」

熱海のはずれにある網代温泉からは海岸近くでもかなり高所を走るようになる。
屈曲した道をしばらく行き最高所から一気に下った処は宇佐美の海岸である。
湾曲した砂浜の海辺は透明度も良く、夏は海水浴客で賑わう、民宿の町といってイイほど民宿が多く、我が家も子供が幼少の頃、毎年ここにはお世話になるところである。
ここは、すでに伊東市であった。


東海岸のR135沿いは大温泉タウンが並ぶ、湯河原、熱海、そして伊東温泉だ。
温泉街は熱海にも劣らぬ程のホテルや旅館が並ぶ、温泉は源泉の数が780本、毎分の湧出量は34,000Lもあり熱海より多い。
又、飲食店も多く昔の歓楽街的温泉の要素も多く現存する。



ところで熟年の方なら存知よりも多いと思うが、あの古賀メロデーの元祖ともいえる「湯の町エレジー」はここ伊東を舞台に生まれたともいう。  
あのギターの奏でる前奏、間奏のメロデーは、なんとも湯の街の哀愁にピッタリの曲で、小生、若かりし頃ギターをカジッタ時に最初に覚えた曲でもあった。 


湯の町エレジー』 詞 野村俊夫 曲 古賀政男 唄 近江俊郎
伊豆の山々 月あわく     淡い湯の香も 路地裏も
灯りにむせぶ 湯のけむり   君住む故に なつかしや
あああ 初恋の          あああ 忘られぬ
君をたずねて 今宵また    夢を慕いて 散る泪
ギターつまびく 旅の鳥    今宵ギターも 咽(むせ)びなく



「東伊豆温泉郷」

また伊東はもう一つの顔がある。
南部は概ね丘陵地帯になっていて、大室山の麓にある伊豆高原や一碧湖周辺は四季を通じて一大レジャー基地になっている。
城ヶ崎海岸は大室山の大噴火で溶岩が海に落ち込んだ際に形成されたリアス海岸で、断崖絶壁は見る者を圧倒する景観だ。
特に門脇崎の吊橋から、絶壁に白く飛沫を上げる波濤を見下ろすときは冷や汗ものだ。

伊豆高原から赤沢温泉、北川温泉を経て熱川温泉へ・・、
この辺りは天城山系の最高峰、百名山でもある「天城山」(1406m)がいきなり海岸へ落ち込んでいるところで、そのためR135も細々と通っている。
かなりの高所の国道沿いに標識があり、細い急な路地を下ると、まもなく海岸沿いに熱川の細長い温泉街があった。


熱川温泉・「高磯の湯」

処々のホテルには温泉の掘削井戸があって、そこからモウモウと噴気煙が上がっていて、源泉温度はほぼ100℃に達しているという高温泉である。
温泉街の外れに目的の波打ち際の「高磯の湯」があった。季節的に水を抜かれた青いプールの脇を通って露天風呂へ、ライダー連が数人いて些か騒々しいが、やはり露天風呂はいい。
湯は真透明でごくわずかに細かい白っぽい湯の花があるようだ。

海岸なのでやや塩味がする。
しかし周囲は野生味が感じられないのは残念、コンクリートの床で海際は鉄柵で囲ってあるので、湯に浸かると紺碧の海原は見えない。
人工物が自然を邪魔しているのだ、早々に退散した。 
ついでに熱川温泉は大田道潅が発見したといわれるが・・、



「天城トンネル」  

稲取温泉から河津浜へ・・、 
ここは伊豆半島中央を貫く幹線路R136、R414、修善寺、湯ヶ島、湯ケ野の合流点になる、通称中伊豆とも称している。こちらも趣のある温泉地や自然が多い、なかでも何かと有名な天城峠は御存知だと思う・・が、川端康成の「伊豆の踊子」は天城峠つまり旧天城トンネルが舞台になている。

明治38年に完成したトンネルは全長445メートル、アーチ・側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては日本に現存する最長のものであるとか。
有形文化財に登録され、2001年には道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されている。 また、「日本の道百選」にも選ばれている。

今は静寂を保つこのトンネルは歴史的にも、文学的にも観光の名所になっている。 
トンネルの手前には旧峠道が延びている。
トンネルができる前の往時の路は、急峻な地形や切り立った崖の上で、そのため天城越えで尊い命を落とした人もいたという。

幕末アメリカ領事館の初代総領事ハリスが通商条約締結のため, 下田より江戸に上ったときに通ったのがこの峠である。
そのときのハリス一行の日記には・・,

『 路は狭く, 鋭角で馬の蹄を置く場所もなく、ようやく峠を越えて湯ヶ島に着く。 今日の路は道路ではなく通路とも言うべきものだ 』

と記されていることから, 相当な難所であったことが判る。

旧天城トンネル、更に新天城トンネルの完成で北伊豆と南伊豆の距離は一挙に短縮された。


次回、伊豆南端の「下田」は、「黒船祭り」の真っ最中であった。




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2010年9月20日月曜日

日本周遊紀行(5)熱海 「熱海・湯の町」

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日本周遊紀行(5)熱海 「熱海・湯の町」




写真 熱海海岸と寛一お宮の像



「熱海温泉」・・、

総じて云える事だが、伊豆半島は山岳半島であろう、多くの山々は海岸線まで迫り出している。 特に東海岸のすぐ後ろは箱根高地から伊豆箱根スカイラインが天城高原、天城山辺りまで天空を走っている。

このスカイラインの下、伊豆半島の付根部分を丹那トンネル(たんなトンネル)が1934年に開通している。 
東海道本線の熱海駅~函南駅間にある複線規格のトンネルで総延長7804m、完成当時は清水トンネルに次ぐ日本第2位の長さで、鉄道用複線トンネルとしては日本最長であった。
火山地帯特有の断層と温泉湧出という難工事で16年の長期間と事故による67名という犠牲者を出している。 

それまでは箱根の連山をぐるっと北側を廻る、現在の御殿場線が東海道線であった。
このトンネルの開通で日本の大幹線といわれる東名阪の交通事情は大きく進展したといわれる。 
この丹那トンネルの東の入り口が「熱海」である、古くからの温泉地であり、地名は「海から熱い湯が湧き出ていた」ことからであろう。
山地丘陵地の狭いエリアに大型ホテル・旅館が立ち並び、国鉄東海道本線開通以降、首都圏からの保養客が押し寄せ一大保養地になった。
かつては新婚旅行や社員旅行の定番の行き先であったが、社員旅行自体の衰退と大型宿泊施設を敬遠するムードから斜陽傾向にある、2000年代に入り温泉を引いたマンションが増加しているという。 
保養マンションが主であろうが新幹線を使用すれば首都圏へは通勤圏内でもある。


熱海温泉は日本の三大温泉(熱海、別府、南紀白浜)の一つ。 また、日本の三大温泉場(別府、熱海、伊東)の一つとされ、源泉湧出数500本以上、古くは大半の源泉が硫酸塩泉であったが、近年ボーリングによる源泉開発を多数行った結果、海沿いの源泉は海水の混入量が増えているという。

熱海のスポットと言えば海岸にある「お宮の松」と「寛一・お宮の像」であろう。 
尾崎紅葉の「金色夜叉」から模じったもので、その前に砂浜のサンビーチが広がっている。 



市街地より東方山地に「伊豆山神社」がある。
頼朝が鎌倉に幕府を開くに及んで、幕府最高の崇敬社として箱根とともに二社を関八州鎮護とした。 
元はといえば頼朝の恋人であった北条政子が、密かに逢瀬を楽しんだ神社といわれる。
父に逆らって恋人の元に抜け出してゆく「政子」は、後に政権を握ることなど考えもしなかったに違いない。源氏旗揚をした後、この社にせっせと戦勝祈願をしたという。


新金色夜叉』 曲・詞・宮島郁芳 
熱海の海岸を散歩する     僕が学校おわるまで
貫一お宮の二人連れ      何故(なぜ)に宮さん待たなんだ 
共に歩むも今日限り       夫に不足が出来たのか 
共に語るも今日限り       さもなきゃお金が欲しいのか

 
次回は、伊東温泉



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01. 15.

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