google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2011-01-16

2011年1月22日土曜日

日本周遊紀行(69)高知 「よさこい節」

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日本周遊紀行(69)高知 「よさこい節」 ,




現代の土佐の高知の「はりまや橋」と高知城


土佐の高知の はりまや橋で
土佐の高知の「よさこい節」は昭和30年代、ペギー葉山が「南国土佐を後にして」歌って大ヒットした曲で、南国土佐を全国に知らしめた。 そして、半世紀たった今日、今度は「よさこい・ソーラン祭り」で全国的に有名になった。

1991年、愛知出身の北海道大生(長谷川岳)が、高知の「よさこい祭り」を目にして感動。大学生は北海道にも「よさこい祭り」のようなお祭りを作れないかと、学生ばかり100名以上の仲間で「YOSAKOIソーラン祭り実行委員会」を発足している。
最近では(2007年)参加チームが340、観客動員数は200万という札幌では「札幌雪祭りに」に次ぐ大イベントになっている。
因みに、小生の娘と孫も東京・町田で「踊り連」を形成、練習に励んでいて、この度(2008年)の札幌の祭典に小生家族共々参加し、思い出に残している。


一方の高知では・・、
戦後の復興の中、徳島県の阿波踊りに負けない、市民の祭りをつくろうと高知市商工会議所が中心となり、昭和29年「第一回よさこい祭り」が開催された。
「阿波踊りの素手に対して、鳴子を手に持とう」と提案。 鳴子とは、稲に群がる鳥などを追い払うために、揺らして音を出す農具として作られたものを手に持つように改良されて、現在の形になったという。今日では両手に鳴子を持ち「よさこい鳴子踊り」のフレーズを曲に入れる以外、踊り方や衣装は全く自由というお祭りとして発展し、現在では130チーム以上、約1万5千人が参加しているという。

さて土佐の高知の「播磨屋橋」の現況は・・?、
高知港の入江運河とも思える、幅のある国分川の橋を渡ると高知市街のビル群が現れる。 
先ずは高知の名所・・?、「はりまや橋」(播磨屋橋)を目指す。 
高知市街の目抜き通りと思しき大きな交差点(はりまや橋)を右折すると高知駅へ向かうが、直ぐに「はりまや橋」と大きな標識が頭上にあった。 しかし、辺りを見回すとそれらしいものは見当たらない、探しながら気がつくと脇道の路地風の所に可愛い紅い橋が設けて在った。

小生が20代に訪れたときは、大通りに「欄干のみ」があって、そこに名前が付されてあった、と記憶しているが・・?。 
昔は、この大通りに欄干に見合う大きな、立派な、そして華麗な「播磨屋橋」が架けられてあったのだろう・・? 
現在の、はりまや橋は、取って付けたような、朱色の飾り橋で、俗人に言わせれば「日本三大ガッカリ名所」と嘯(うそぶく)かれているとか・・?。

「はりまや橋」の始まりについては、『 是ハ先年モ無之処、播磨屋宗徳北地ニ住居、南地ニ櫃屋道清住居、此通行之為仮橋ヲ掛通路ス、是ヨリ播磨屋橋ト申馴、其後ハ公儀ヨリ御作事也 』、と「高知風土記」述べられているらしく、播磨国播磨(兵庫県)の出身で江戸初期の豪商・播磨屋宗徳(播磨屋)と同じく商人の櫃屋道清(櫃屋)とを往来する為に、掘割川に架けた個人的な橋であったが、後に公橋になったようである。

序に、この辺りの「はりまや町」は、西武、大丸などのデパートや帯屋町・京町などの繁華街が並んでいる。
はりまや橋の交差点を中心に路面電車が、東西南北に運行し、北(JR高知駅)南(高知港)東(南国)西(伊野)と分岐している。やはりというか、「はりまや橋」、その名も、「はりまや町」は、高知市の中心でもあった。
 
よさこい節』 高知県民謡
土佐の高知の はりまや橋で
坊さん かんざし 買うを見た
ヨサコイ ヨサコイ
御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜
    (以下、繰り返し)

南国土佐を後にして』 歌:ペギー葉山
南国土佐を 後にして
都へ来てから 幾歳ぞ
思い出します 故郷の友が
門出に歌った よさこい節を
「土佐の高知の ハリマヤ橋で
坊さんかんざし 買うをみた」

月の浜辺で 焚火を囲み
しばしの娯楽の 一時を
わたしも自慢の 声張り上げて
歌うよ土佐の よさこい節を
「みませ見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜」

国のおやじが室戸の沖で 
鯨釣ったと云うたより
僕も負けずに励んだ後で  
唄うよ土佐のよさこい節を
「云うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 
潮吹く鯨が泳ぎよる  よさこいよさこい」

南国土佐を後にして」の原曲は戦中、戦後まもないころ、四国、土佐地方の軍属関係者によって歌われていたが、昭和30年代なってNHK高知放送局の電波に乗りレコード化され、つぎにペギー葉山が歌って大ヒットしたものである。 元歌は「よさこい節」である。

「よさこい節」の歌詞〈一番〉については、一般に、五台山・竹林寺の御坊「純信」が、思いをかけた人「お馬」のために、「かんざし」を買って与えた、そこが、はりまや橋のたもとにあった小間物屋であったと言われている。 これがいつのまにか評判になり、よさこい節で歌われ有名になってしまったという。

当時、仏僧の色恋沙汰は御法度であり、二人は逃避行(かけおち)を選び、伊予へ逃れる。 土佐から伊予へ山深い峠を越えていくが、その峠の名が「予佐越」=よさこい峠であり、これが題名になっているという。
予佐越峠は高知の西隣・伊野町からR194号で北上し、本川村で県40号(石鎚公園線)で石鎚山方面に行く、この県境付近の石鎚山を望む峠のことで、ここ山深い峠に小さな標があり、哀しい物語の結末が書かれた小さな看板と共にひっそり佇んでいるという。
現在、予佐越峠は西日本では最高峰を誇る四国の名峰(日本100名山)・石鎚山の登山基地になっているとか。

ガッカリの名所”の「はりまや橋」を後にして、高知城へ向かう。はりまや橋の交差点を西に行くと、間もなく「高知城」である。
高知城正面に高知市役所が在り、更に、堀の内に県庁がある。 緑と史跡の城下公園内に無味無粋なコンクリートの高層建物が存在するのは、美観を甚だ損なっているが・・!!

市役所横から右方角へ行ったところに、高知城の玄関口「追手門」があった。
高知城の表門で、石垣の上に載せた櫓(やぐら)門が城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えをみせている。 
門を潜ると早速「板垣退助の像」がある、「板垣死すとも、自由は死せず・・」という名言は有名であるが、実際には死ななかったともいうが。 板垣は、土佐出身の自由民権の創始者であった。

気がつくと、後ろの木々の間から華麗な天守閣が覘いている。 
杉の段(「井戸の段」とも呼ばれた。藩主自らこの井戸段に出向いたという。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきた所)と呼ばれる広いスペースから 鉄門をへて本丸・天守閣へ向かう。
周囲土台を重層な石垣で築かれ、その上に堂々と城郭・天守閣が聳える。 
四重五階の望楼型天守で、最上階には廻縁(まわりぶち)の欄干が付けられている。 
華麗にして優美であり、ここから高知の市街が一望できる。
天守閣、追手門は築城当時の姿を留めている、数少ないお城の一つであるという。(本丸御殿、天守閣とも、国の重要文化財に指定されている。

次回は、山内一豊



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日本周遊紀行(69)高知 「五台山と牧野富太郎」

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日本周遊紀行(69)高知 「五台山と牧野富太郎」  、



写真:高知県で唯一の竹林寺「五重塔」



高知県の偉人の一人・牧野富太郎

世間が、今日の活動を開始する前の早朝、出立する。 未だ人の気配もマバラな後免駅前に出た。
この駅は、旧来の土讃線に乗り入れている「ごめん-なはり線」(土佐くろしお鉄道)の始発駅でもある。駅舎は真新しく、やや円形を帯びたモダンな造りである。
それもその筈で土佐くろしお鉄道は、ごく近年の2002年(平成14年)7月に開業したばかりであった。


高知の市電であろうか・・?、行き先表示に「ごめん」と書いた黄色味を帯びた電車が、路面を滑るようにゴーゴーと音を立てて通り過ぎてゆく。 そう云えば、ここ後免町がやはり終点のようである。この電車道を横切るようにして、とりあえずへ出て、そして一路、高知市内を目指す。

すぐにT字路の大きな交差点が現れた。 こちらは高松へ通ずる国道32であり、高松市から高知市へ至る幹線国道である。 つまりは国道55はこの地が終点のようである。
思えばR55号は、四国へ上陸した直後の徳島から、ここ高知の後免町まで概ね辿ってきた道程であった。
徳島市から小松島、阿南、室戸岬を越えてこの地まで、所謂、現代の遍路道でもあり、多くのお遍路さんが利用する道にもなっている。 聞くところ日和佐の薬王寺から室戸岬の最御崎寺までの長い道のり、約75kmの間には札所寺院がないため、夏の暑い日などは、日中を避けて夜を徹して歩く遍路さんも多いようである。


以降、高知方面の32号線を走ることになる。
途中、標識に「五台山」、「牧野富太郎記念館」とあり、左方には小高い丘のような、小山のようなものがコンモリと見えている。 
五台山公園で頂上には第32霊場「竹林寺」があり、麓に牧野富太郎記念館があった。


五台山にある竹林寺
山門の階段下からの眺めはなかなかのもので、今頃の若葉の時節もいいが、紅葉の季節には京都寺社の風景にも負けないくらいの絵になる景色であろう。本堂・山門・本堂南側の赤色の社殿・五重塔などが見事に並んでいる。 
「五台山」とは、元もとは峨眉山、九華山、普陀山とともに中国仏教の四大聖地の一つで、(現、山西省五台県の東北部に位置する)奈良期、「行基禅師」が唐の五台山で修行、帰国後、諸国を修行中に当地を訪れ、地形が五台山に似ているので命名したという。 

ここにお堂を建て、文殊菩薩を納めたのが「竹林寺」の始まりであった。 
文殊菩薩は「三人寄れば文殊の知恵」の文殊で、知恵の菩薩様であることは周知であるが、この文殊の「高い知恵」に因んで、「高知」の地名が生まれたともわれる。

境内上部にチョッと派手色の赤味がかった「五重塔」が立つ。 
寺にはかつて三重塔があったが、明治32年の台風で倒壊してしい、現在、境内にある五重塔は高知県で唯一のものとして、昭和55年に完成したという。  高さ31mの木造の塔は国内でも珍しく、総檜造りで、鎌倉時代初期の様式に倣っているという。
又、竹林寺の庭園は、鎌倉から南北朝時代に学僧・夢窓国師の作とされ国の指定名勝となっている。
「文殊の知恵」にあやかろうと受験シーズンには合格祈願に大勢の人が訪れるという。

土佐の高知のはりまや橋で 、坊さんかんざし買うを見た、よさこいよさこい』、と「よさこい節」に唄われている。 実は、江戸時代に実在したお馬という女性と僧侶との悲恋物語が歌い込まれている。 その僧侶の名を純信といい、竹林寺脇坊・南の坊の修行僧であったという。(次回で詳細述べる予定)



五台山の東側に牧野富太郎植物園と記念館がある

『 草を褥(しとね)に 木の根を枕 花と恋して 九十年 』

「高知県の偉人は?」と尋ねられたならば、土佐の人は、迷わず牧野富太郎博士の名前をあげるという。
「牧野富太郎」は、著名な植物学者で知られる。 

私は生まれながら草木が好きである。何故に好きになったという動機は何にももない。5,6歳の時から町の上の山へ行き、草木を相手に遊ぶのが一番楽しかった。」幼少の頃より病弱で、ひとり動植物に親しんだという。

富太郎は、文久2年(1862)4月,高知県高岡郡佐川町(高知市佐川町)に生まれている。 小学校を中退し、家の資産を食いつぶして植物の採集と分類に没頭、財産を使い果たしたあとも、貧困に苦しみながら研究を続けた。 そのため、独学・苦学の研究者として有名である。上京して東京帝国大学理学部植物学教室に出入りを許され、谷田部良吉教授(明治時代の植物学者)らもと接している。

植物研究のため実家の財産も使い果たし、さらに妻が経営する料亭「いまむら」の収益もつぎ込んだ。 その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した、「植物図鑑」等の出版が元で大学を追われたこともある。しかし、彼自身、名誉とか権威という自己欲には全く無頓着で、逆に、当時の帝大教授たちや学界の権威といったものの「愚かさ」を浮き彫りにさせたともいう。

『 何よりも 貴き宝 もつ身には 
         富みも誉れも 願はざりけり
 』

この時期、妻の壽衛(スエ)が54歳の若さで死去している。

『 朝な夕なに 草木を友にすれば さびしいひまがない 』

仙台にて新種の「ササ」を発見、翌年、ササに妻の名を入れた「スエコザサ」と命名している。
牧野富太郎は、植物の種類に精通し鑑定の的確なことでは他人の追随を許さず、日本の本草学を植物分類学へと転換した第一人者である。
その反面、近代生物学の理論的な面はほとんど理解しなかったという。
主著(1908年)は何度か改訂改題を重ね、現在は『原色牧野植物大図鑑』として刊行されている。

1948年、86歳の時、皇居を参内し天皇陛下に植物学を講義されている。 
日本学士院会員(1950年)、文化功労者(1951年)、東京都名誉都民(1953年)などに選ばれる。1957年(昭和32年)1月18日永眠、 没後、文化勲章を授与される。 
「日本の植物学の父」と呼ばれる牧野富太郎の生誕日(4月24日)を記念し,この日を「植物学の日」としている。

次回は、土佐の高知の「はりまや橋



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2011年1月21日金曜日

日本周遊紀行(68)南国 「土佐の国司・紀貫之」

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日本周遊紀行(68)南国 「土佐の国司・紀貫之」 、



紀貫之は「土佐日記」に、この地で亡くした娘を思い、

『 都へと 思ふをものの 悲しきは 
          帰らぬ人の あればなりけり
 』
と詠んでいる、


昨夜は、蛙の子守唄で寝に就いたが、今は全く昨夜の合唱が嘘のように、朝のシジマ(静寂)の中にいる。
蛙の合唱で気がついたことがある。
歌声は波のように響き渡り、その波が次第に小さくなって一瞬止むのである。 始まりは先ず殿様蛙が第一声を発すると、次に重臣諸侯が歌いだす、その後は一族郎党が一斉に大合唱で歌いだすのであり、それの繰り返しである。 端的な例かもしれないが、ベートーベンの第九交響曲(合唱)の第四楽章の合唱シーンで、先ずリードシンガーの男性ソロ、女性ソロが歌いだし、次に選抜された男女諸氏が歌いだす、その後は男女混声大合唱団が一斉に歌いだす、これを何回か繰り返す。
昨夜はこんな事を感じ入り、想像しながら眠りについたのであった。


時に、早朝5時少々過ぎた頃、先ずは今日も好天のようだ。周囲は青々とした田園が広がっている、民家は周囲にポツポツとあるだけで、いわゆる日本の原風景を感じられる。
蛙の合唱が、ベートーベンの第九交響曲「合唱」に譬えられるなら、こちらの風景はさしずめ、ベートーベンの第六交響曲「田園」であろうか。 
しかも、南国市は、土佐の稲作の発祥の地といわれている。 この地方は日本でも温暖、多雨であり、その恵まれた自然と環境を生かし、現在でも米の二期作が盛んなところでもある。


ここは四国・南国市の外れ、都会の田舎である。
昨夜、「ながおか温泉」に立ち寄ったが、「ながおか」という名称は、この周辺の小学校の建物などの一部に残るが、地域名、行政名としては既に無い。 昔は長岡郡長岡村と称して、立派に存在していたが、町村の合併によって消失したらしい。 尤も、この地区の遥か北方、本山町、大豊町は長岡郡として、僅かにその名残がある。


近郊北方に「比江」、「国分」といった地名がある。 
この地区は古代、土佐の都があった所だという。奈良時代、この地に国分寺が建立され、前後して土佐国府が置かれ、土佐の中心地となった。 これに伴って、京と国府を結ぶ官道が、四国山地を横断する道や海路を辿る道とが開かれた。 
だが、都の人々にとって土佐は、あまりに遠く「遠流(おんる)の国」とされた。 しかし、その都からの流人達が都の文化、芸術や学問をこの地に伝え、この国の歴史を造ったともいわれる。
平安時代には、紀貫之が「土佐日記」を著したことは有名である。 しかし、この地に土佐守(土佐国守)として、赴任していたことは、あまり知られていない。 
土佐日記は、紀貫之が国司の任期を終えて土佐の国から京まで帰京する途中に起きた出来事や思いを書いた日記である。

『 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。 それの年の、十二月(師走)の、二十日余り一日の日の、戌の時に門出す。そのよし、いささかにものに書きつく。 ある人、 県の四年五年果てて、例のことどもみなし終へて、解由など取りて、住む館 より出でて、船に乗るべき所へわたる・・』

現語訳
( 男も書くという日記というものを女も書いてみようと思って書くのである。承平4年の、12月の、21日の午後8時頃に出発する。国司の館からの出立の様子を少しばかり紙に書き付ける。 ある人が、国司としての任期の4・5年が終わって、定められた国司交代の際の引き継ぎ事項、事務をみなすませて、任務完了の解由状など受け取って、住んでいた国司の官舎から出て、船に乗るはずの所へ移る・・)
 
旅日記は比江・国司の館を出発してから、京の自邸に着くまでの55日間にわたって記されている。 
「土佐日記」は平仮名で書かれた最初の日記風文学で、日本特有の「文字文学、ひらがな文学」が大きく発展するきっかけになったといわれている。

『 都へと 思ふもものの 悲しきは 
          帰らぬ人の あればなりけり 
』  貫之

50数日間という長い旅を経て貫之が、やっと京に帰ったときには、既に元の自分の家は荒れ果ていた。 この家で生まれた我が子を、土佐の僻地まで連れて参ったが、土佐で亡くしてしまった。 愛児への哀惜の思い、世の無常を感じ歌に詠んだ。 
紀貫之が国司の務めを終えて船出した港は、南国市の大湊であり、その公園に記念碑がある。毎年、「貫之出港記念祭」が開催されているという。

現在、国府の在った「比江」は見渡す限り広々とした田園地帯となっていて、国分寺だったとされる森だけがこんもりとして、その面影を残している。 
紀貫之は、醍醐天皇の勅命で「古今和歌集」撰進の中心となり、仮名序を執筆したことでも知られる平安前期の歌人、文学者で、漢文学の素養が深く、三十六歌仙の一人として古今調を作りだした。 他に「新撰和歌集」、歌集「貫之集」なども残している。


すぐ近郊の「岡豊」は、長曽我部元親が岡豊城を築き、後に高知の浦戸に城を移すまで、実に、この地域は千年近くもの間「土佐の都」であった。 
又、この地「後免」は江戸期、ここに入植し、開墾する者には土地を与え、租税や諸役を免除していた、この町は諸役御免の町「御免町」と呼ばれ、のちに「後免町」となった。 今は「南国市」の中心市街地を形成している。

南国市は「みなみのくに」という意味ではあるが、「国」を「ごく」とは呼ばず、「こく」と呼ぶことになり、「なんこくし」と呼称するそうである。

次回は、高知、「五台山と牧野富太郎



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2011年1月20日木曜日

日本周遊紀行(67)安芸 「土佐の海と岩崎氏」

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 日本周遊紀行(67)安芸 「土佐の海と岩崎氏」  、



ベテランになった大相撲の「土佐の海」 、

鮎漁で知られる、安田川の安田町から安芸市へ入る。
高知県安芸市出身、伊勢の海部屋・・、』、 幕内力士「土佐の海」のことである。
立会いで仕方なく「待った」をすると大きな声で「スイマセン!」と相手に礼をする、立会いから取り組み中は“ウオッツ、ウオッツ”と気合を入れながら取り、殊勲の勝利を挙げ、インタビューに答える時は、嬉しそうに極めて明瞭に返答する。 
又、敗れたときは土俵際で丁寧に“お辞儀”をし、且つ、突き押しの戦法を一途に取る彼は、姑息な手段で敗れても嫌な顔ひとつせず正々堂々と花道を引き上げて去ってゆく。

大相撲ファンの小生にとって、気合の入った角界でも最も紳士的な、こんな姿の「土佐の海」は大好きな力士の一人である。 
近年、30代半ばにさしかかり、力量不足も否めず、幕内下位に甘んじている。 尚且つ、土佐ノ海は、年寄名跡「立川」を取得したそうで、年寄株を取得すると、引退も近づいてきたようで寂しいが、年寄名跡を取得したことで、引退後も相撲界に残れるわけで、そういう意味ではややホッとはしている。 
もしもの引退した場合は、是非、NHK相撲解説で、あの明晰な口調によって相撲内容、相撲界を語って欲しい。
因みに、2003年夏に引退した元関脇「安芸乃島」(藤島襲名)は、同じ安芸でも、広島県豊田郡安芸津町の出身である。(金星16個・三賞・19回:殊勲賞7回、敢闘賞8回、技能賞4回 は共に歴代1位である)。 この力士も正攻法の取り口で始終し、小生の好きな力士の一人であったが。



安芸市井ノ口にある岩崎弥太郎の生家

江戸末期の安芸の著名人に、NHK大河『龍馬伝』でお馴染みだった「岩崎弥太郎」がいる。 三菱財閥の創始者である。
身分制度(後述)の激しい土佐国の「地下浪人」の子として生まれている。
地下浪人とは、無禄の藩士であり、収入を得るために自ら商売をしたり、力仕事をしなくてはならなかった。即ち、正規の土佐藩士たちから蔑まれ、常にいじめられる存在だった。家の事情を知る弥太郎は、幼少の時分より勉学に励み、幕末時に坂本龍馬や後藤象二郎の知遇を得る。

『 後日 英名ヲ天下ニ轟カサザレバ 
         再ビ帰リテ此ノ山二登ラジ
 』

山とは弥太郎生家(保存邸宅)の近く、妙見山の星神社のことである。
1873年に現在の大阪市の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立、海運業を経営する。
この時に、三菱の商標(三菱マーク)が定められたそうで、見慣れたこの三菱マークは、岩崎家の紋である三蓋菱(三層にかさなった菱形を側面から見た形)と土佐藩主山内家の三葉柏(柏の葉三枚を図案化したもの)の紋を組み合わせたものだと云われている。 
台湾出兵・西南戦争の頃は軍事物資の運搬を独占し、莫大な利益を上げて三菱は急成長する。 国内船舶の7割を押さえ海運業を独占した時期もありその後、日本郵船となり三菱財閥の源流を創る。

岩崎弥太郎は元々、海援隊員(坂本龍馬が中心となり結成した貿易結社)でもあって海運業に力を入れ、「東洋の海上王」と呼ばれるまでに発展する。
海援隊」を創った坂本龍馬は、幕末の政局急変の時期、主役には躍り出ず脇役で通した。彼は政治家より、海外貿易などを通した経済人が望みだっらしく、長崎時代は、かのトーマス・グラバー氏(英国商人・グラバー商会を設立)に強く影響を受けていたという。
グラバーは1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎に高島炭鉱(グラバー経営)を譲るが、三菱財閥の相談役としても活躍し、岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎をも築いている。 岩崎弥太郎はグラバーの思いに従い、坂本龍馬の意思をも継いだのかもしれない、明治18年(1885年)、52歳の若さで亡くなっている。なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。


安芸の市街を抜け、阪神タイガースのキャンプで知られる「安芸ドーム」をを右にみながら、夕刻迫った土佐街道を行く。 「土佐くろしお鉄道」と並行し、芸西村、夜須町等を後にしながら「物部川」を渡って南国市に来た。

ところで本日は、未だ宿泊の場所を決めていない、どうすべきか思案しながら、先ず近くの温泉地の有無を確かめた。スタンドのオニイサンに聞いたところ「ながしま温泉」が近くに在るとのこと。 

R55より北方、後免駅の近くらしい、電話番号よりカーナビを頼って目的地へ向かった。
市街地より離れ、田園地帯も混在する静かな住宅地の離れたところに、一際大きな建物が「ながしま温泉」であった。 
新装したばかりの和式のゆったりした館内であり、浴室、湯船、露天風呂とも石を基調とした造りとなっている。湯に浸かり、道中の緊張した体を解す、このリラックスした気分は変えがたい。
泉質がナトリウム・塩化物温泉の天然温泉というところも良い。
休憩は畳みの大広間で食事を摂りながら過ごす、今日一日の状況をメモに取りながら。
休泊は、田園路上の車泊としたが、側溝の水路の水音が些か気になったので、少々移動し、今度は蛙の声を子守唄に眠りに就いた。

次回は、土佐の国司・「紀貫之


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2011年1月18日火曜日

日本周遊紀行(66)田野 「二十三の郷士」

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日本周遊紀行(66)田野 「二十三の郷士」 、



土佐勤王の志士とライオン宰相

ごめん-なはり
「奈半利」という町に来た。 ナハリと詠む。
人名や地名は、時に不可解な名称は当たり前であるが、何か気になるときがある、ナハリもそうである。この語呂が気になったので一応調べてみたが一向に見当たらない。一見アイヌ語ような響きがあるが、定かでない・・?「ごめん-なはり」とシャレ謝りをしておく。

実は、“ごめん-なはり”は後免-奈半利のことで、この奈半利は最近の平成14年7月に開通した「土佐くろしお鉄道」の起点であって、南国市の後免駅より東へ20番目の東の端の駅にあたる。別名「ごめん・なはり線」ともいっている。 これはさて置き、奈半利は由緒ある歴史の町でもある・・。


奈半利の町から北東にR493が、東海岸の東洋町野根へ連なっている。
地図上でみても細く曲りくねって描いてあり、一見して山間の難路が続くようである。R55の土佐浜街道と比較して、距離にして20kmほど短縮できる野根山越ながら、国道493号の道は決して快適とはいえない。 だが、現在も土佐・高知と阿波・徳島を結ぶ最短のコースに代わりは無い。
しかし昔は、阿波と土佐を結ぶには野根山街道のみであった。 

往時の野根街道は、奈半利から尾根づたいに野根に至る約35キロの只一つの街道で、国司、土佐流人の移動、調庸物搬入出の道として開発され、古代・養老年間(奈良中期)にはすでに利用されていたという。
戦国初期、長宗我部氏が四国制覇進行の軍略路として通い、藩政時代は参勤交代の通行路ともなった。 また幕末の激動には、中岡慎太郎をはじめ志士達の脱藩の道、二十三士動乱の道でもあった。室戸岬に立つ「中岡 慎太郎」は、この街道沿いの北川郷柏木で生まれている。
野根山街道は、今でも当時の面影をそのまま留めた、全国的にも珍しい歴史の街道であるといえる。


道の駅・田野」で一服する。 
正確には「田野駅屋」といい、“田野へ来いや”(土佐弁で田野へいらっしゃいと言う意味)という意味らしい。 
鉄道(土佐くろしお鉄道)の駅と一体となった珍しい道の駅でもあり、駅舎の一連の建物は巨大な木造、瓦屋根の建築である。
聞くところ、 田野町は古くから木材の集積地であり、木材製材工業が盛んであったという。 現在でも木材製品の流通の中心地であるらしい。 この駅舎は、そのアピールでもあり、シンボルでもある。

田野町は奈半利川西岸を挟んで、総面積6.56km2、住戸1300戸と小さな町域である。
しかし、江戸期は田野村の藩の御用商人(5人衆といわれる・・)が、奥地の山林資源の開発により富強となり、田野千軒が浦として繁栄した。その一部の豪商邸宅が完全に保存され、当時の建築様式がそのまま残されている。
幕末には安芸郡奉行所が設置されるとともに、藩校・田野学館が併設されて、安芸郡における政治・経済・文化の中心地として栄えたという。 幕末、高知の城下で尊王攘夷を唱える「土佐勤王党」が成立し、この田野の地区からも数人参画している。 

土佐藩は一時期、藩内の抗争、藩政に反抗する者として首領・武市半平太(瑞山)はじめ、主だった者14名が投獄されている。 この時、田野の郷士・清岡道之助を首領とする二十三士は、武市半平太らの出獄などを求める嘆願書を藩庁に提出した。 しかし、反乱分子とみなされて相容れられず逆に兵を向けられ、志士たちは抵抗すること無く捕らえられ、ここ奈半利川河畔において斬首されたという。

現在、河畔近く福田寺境内に二十三士の墓と碑および武市瑞山像があり、国道をはさんだ同公園内には、二十三士殉節之地碑が残る。 
首領・清岡道之助邸は典型的な郷士屋敷で、田野町が保存管理している。 因みに道之助の妻は、昭和初期“ライオン宰相”と呼ばれた浜口雄幸首相(田野町出身、明治生まれの初の内閣総理大臣)の叔母にあたるという。 近くに浜口雄幸旧邸も復元保存されている。

浜口は、明治生まれの初の第27代・内閣総理大臣であった。 
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相であったという。 
濱口は「我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、「我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず」とまで述べている。
日本の国力、実力を知る浜口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。 このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクし、戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に国民負担を軽減する施策を提示したのであった。

次回は讃州・安芸「土佐の海



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日本周遊紀行(65)室戸 「岬と最御崎寺」

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 日本周遊紀行(65)室戸 「岬と最御崎寺」  ,


写真:室戸崎灯台


国道55号は、いよいよ室戸岬を目指す。
道路は「土佐浜海道」、「土佐東海道」とも称し、室戸への“V形の辺”を40kmほど太平洋を眺めながら、長い長い海岸沿いの道を南下する。 
特にR493が分岐する東洋町・野根と言う集落を過ぎると、打ち寄せる波濤と山崖が車窓に迫り圧巻である。 
しかし、沿道にはすっかり集落、人家がなくなってしまい、モノ悲しい雰囲気は否めない。延々と走ってようやく集落が現れた。 佐喜浜の浦という集落だが、人の気配が全く無く過疎化が感じられる集落でもある。

ここから先は急に道が細くなり、普通車のすれ違いもままならないほどである。 アップダウンも激しく、所々で人家の真前(まんまえ)を通過するようにもなる。
台風の備えであろうか、民家の前は石垣でしっかりガードしてあり、一種風物にもなっているとか。
気がつくと新道らしきのと合流した。 知らぬ間に旧道を走っていたようであるが、こらはこれで良しとする。

暫くして「室戸岬」のバス停のある公園風のところに到着した。 早速、背後の山の中腹にある展望台に上って岬の先端を眺める。 真に雄大の極みである。
例によって地球の丸さを感じる地点であるが。(実は視界が丸みを帯びて見えているにすぎない) 
岬の先端からは大きな岩礁や奇岩が連なり無限の太平洋に延びていて、こちらも奇怪(きっかい)にして驚きの眺望である。 
すぐ背後は山腹が覆っているように、岬は太平洋に突き出た山地がそのまま海に落ち込んでいる様子が分かる。
渚の公園入口の道脇には、大きな土佐の志士「中岡慎太郎」の像があった。
2010年度のNHK大河ドラマで『龍馬伝』が放送された。 主演の坂本龍馬に福山雅治、中岡慎太郎に上川隆也が演じていたが、最終回あたりで、両人が京・近江屋で暗殺されてしまうのである。


中岡慎太郎は、室戸岬半島の付け根に当たる北川村の村役場の付近で、庄屋の倅として生まれている。 7歳にして論語や孟子など四書を学び、14歳の時にはすでに塾の代講を務めるまでになっていた。その後、藩校・田野学館が開校した時、18歳で武市半平太と出会い、その人柄に惹かれた彼は24歳の時に半平太率いる土佐勤王党に参加、高知の城下へ出て行く。 
26歳で土佐を脱藩、藩の庇護を離れ倒幕活動に奔走したが、大政奉還後に坂本龍馬と一緒のところを京・河原町近江屋で「見回り組」の刺客に襲われ暗殺されている。

中岡慎太郎はじめ、土佐脱藩浪士の多くは志半ばで非業に倒れたが、その活躍は明治維新で土佐藩が薩摩・長州に次ぐ地位に立つ下地となった。 
中岡は、この世に2人といない智慧者ぢゃったが、竜馬先生はハンコを押すだけぢゃった」という著名氏の見方もあるとか、享年30歳。

中岡慎太郎像の入口から海岸へ出ると、「乱礁遊歩道」とい長さ約3kmの散策道が延びている。
太平洋の荒波に浸食された奇岩や岩礁が屹立し、ダイナミックな景観が堪能でき、付近にはタコの足のように気根が伸びる亜熱帯植物のアコウという木(天然記念物)が鬱蒼と繁る。



最御崎寺・本堂界隈


二十四霊場・最御崎寺へ 、 
山腹の上部に灯台と第24番の霊場が在るはずなので、急ぐことにしよう。 
国道55を一旦岬の西側へ出て、標識に従って右折する。土佐湾が雄大に広がり、室戸港を眺めながら、急勾配の大きなヘアーピンカーブを数度曲がって、暫く行くと「最御崎寺」の参道入り口が右に在った。 
第二十四番 最御崎寺ほつみさきじ)」と書かれた石刻柱の横に、緩やかな参道が林の中に延びている。
300m位行ったところで、左へUターンするかたちで山門へ出た。 
なるほど入り口側は寺院の裏手(北側)になるのだが、横を通り境内の南側(大洋側)へ一旦来て、それから本堂へ向かうようである。

この寺院まで今では室戸スカイラインができて車では便利になったが、徒歩巡礼の場合は昔ながらの下の岬から急な山道を辛苦しながら登って山門に達するのである。 
更には、阿波の最後の札所である薬王寺(23番)から、こちらの高知県最初の札所・最御崎寺へ達するのには、Vの字を描いた室戸半島の長い長い海岸線の道が続く。 
特に宍喰町を過ぎてから室戸市の入木までは、雨宿りの場所もなく荒波が打ち寄せる四国でも一番の難所といわれる。 最長の距離(約80km)と最難関の霊場である。 
その名も最御崎寺は、「土佐・修行の道場」の一番目に当たる。 

さて、山門を潜ると境内には沢山のお地蔵様が目に付く。参道左手に太子堂、 右手に古き貫禄の鐘楼堂が建つ。 この寺院の鐘楼は、NHKの大晦日の除夜の鐘でも有名で、記念碑に昭和37年ラジオ、昭和53年ラジオ、昭和55年テレビ、平成元年ラジオ、平成13年テレビなどと記されているという。 正面に大屋根・四柱造りの本堂、その手前に丸みの多宝塔があった。

この地を訪れた大師は、この四国でも最も僻地の室戸岬を修行の地と定め、お寺を建立し、虚空蔵菩薩を刻んで本尊として安置したという。 
岬一帯は若き日の弘法大師が修行を積んだ場所といわれ、至るところに大師ゆかりの遺跡が残っているとも。 
徒歩の遍路道近くに大師が修行した御蔵洞があり、この御洞の正面は「大空と大海」のみが望め、「空海」の名は、この大自然を黙視しながら「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるという。

嵯峨天皇の時代(平安初期・九世紀初)、勅願により伽藍を建立し、室戸山・最御崎寺と号し、第24番の霊場に定められた。 
室町時代には土佐の安国寺に定められ、以後各武将の寄進により七堂伽藍も整う大寺院になったという。 当時の「安国寺」とは安国寺利生塔(あんこくじりしょうとう)とも称し、南北朝時代、その戦死者の追善または国家安穏の祈祷場として、足利尊氏・直義兄弟が夢窓疎石(夢窓国師)の勧めにより、1338年から日本六十余州の国ごとに設営させたという臨済宗の寺である。
 

室戸山・最御崎寺の山門を出て、真南の一段低いところに基礎から丸型の白亜の室戸岬灯台があった。 フェンスに囲まれ、やや草生したところに一棟孤高に建っている。 完全無人の灯台と思しきが、何故か上部に展望用であろうか・・?一周柵のテラスがあった。   
明治32年(1899)の完成以来、休むことなく海の安全を守り続けている室戸灯台は、日本-の大きさを誇るという。 直径2・6mのレンズは、光度190万力ンテラ、光遠距離は56kmと長い。 毎年7月20日の海の日と灯台祭りの日(11月1日の灯台記念日に最も近い日曜日)の2回、無料公開されているらしい。


帰路は、室戸スカイラインを行く。
屈曲した上下動の激しい道路だが、真っ赤なハイビスカスと亜熱帯特有の緑濃き樹林が気持ちを癒してくれる。 山上より室戸岬港が遠望でき長い防波堤が印象的である。
室戸半島の東側は手付かずの無味な海岸線が延々と連続するが、こちら反対側の西海岸は岬の近場に室戸港をはじめ人々の息吹がある。 
暫く、スカイラインの山腹を走ったあとは室戸の市街地へ出た。 室戸でも比較的賑やかな町並みのようだ。 
法務局や郵便局、商店街など室戸市の目抜き通りを静かに抜けて、R55を今度は北上することになる。 

途中、国道横に大きな鯨の剥製か模型が目に付いたので立ち寄ってみた。「道の駅・キラメッセ室戸」といい、鯨館・鯨の郷でもある。 
室戸は捕鯨で栄えた歴史があり、今でも「ホイール・ウォッチング」が盛んなところらしい。 ここには鯨の資料館があり、鯨の生態、勢子舟(せこふね・捕鯨では最も重要な役目を持ち、網の中にいれ易いようにクジラを追ったり、網の中に入ったクジラに銛(もり)を打ち込んでクジラを殺す舟である)、捕鯨図、鯨組の羽織など古式捕鯨を展示し、全長10mのマッコウクジラとザトウクジラの模型が対で並ぶ。レストランでは鯨の刺身やステーキが楽しめるという。 


室戸市吉良川町という集落には所々特異な建物が目に付く。
蔵のような垂直の白い漆喰壁に、数段の軒瓦風のものが周囲に付帯している。 この瓦は水切瓦と云い、漆喰は土佐地方独特の土佐漆喰の壁という。 台風銀座といわれるこの地方、気候と適合するような建築法をあみ出したらしい。 
この土佐漆喰と水切瓦建築は、土佐の厳しい気候に適合させた見事な意匠であり、又この町の代表的町並景観として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されているらしい。

次回は後免・奈半利(ごめんなはれ・?)


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2011年1月16日日曜日

日本周遊紀行(64)閑話休題 「四国について」

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日本周遊紀行(64)閑話休題 「四国について」 、



高知へ到ったが、その前にチョッと閑話休題・「四国」について

阿波・徳島を周って、土佐の高知に到った訳だが、ここで「四国」について触れて見よう。
一般に四国は北四国、南四国といって瀬戸内海側と太平洋側とに区分される、だが、気候、風土的には瀬戸内海沿岸地域、四国山地地域、南四国地域の三地域にも分けられる。
瀬戸内海は日本最大の内海で、穏やかな波や美しい島々があり、一大美観で大半が国定公園に指定されている。
瀬戸内海とは、北側は関門海峡、東側は鳴門海峡、そして西側には豊予海峡(速吸瀬戸)と何れも強力な潮の流れの激しいところの内側の海域を指した名称である。
因みに、「瀬戸」とは幅の狭い海峡、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずるところを指す。

瀬戸内海沿岸地域の気候の特性は年間降水量が少なく、しばしば渇水になる特性があるようだ。 これは後日、高知の沿岸(太平洋側)と愛媛の瀬戸内側を巡るうち、河川の水量が全く異なることに気がついている。
特に、この時期になると(4~6月・・?)高知の四万十川等は満々と水量が豊富なのに対して、瀬戸内側の大小河川は、ほぼ完全に渇水状態であったこと。 これはダムの残水量等、時折、生活上問題にもなっているようで、吉野川水系の明浦ダムが渇水に見まわれ、連日水不足がニュースや新聞のトップ項目に挙げられるなど全国的にも話題となっている。

又、四国山地地域は、四国の中央部を東西に貫く山地で、中央構造線の南に千数百メートル級の急峻な山々が連なり様々な様相をなしている、四国山脈ともいう。
この地域では多くの自然と景観が合間って信仰の地でもある。険しい山々が荘厳で神々しいことから古代より山岳修行が盛んであり、西日本最高峰の石鎚山や剣山などはその代表格である。 さらには弘法大師ゆかりの四国八十八箇所遍路は、四国の全山、全域が霊場といっても過言ではない。

南四国地域は、気候は海洋性で温暖湿潤であり、台風の通過も多い。
徳島に四国一の河川である急流・吉野川が流れ、高知に四国二の河川てある四万十川の清流が流れる。 然るに水資源が豊富で住民の節水意識が薄いとも言われるが、これは北四国がたびたび水不足に見舞われる地域であるのとは対照的である。 それは四国山地の影響度もある。

経済的に観ると、北四国が瀬戸内海ベルト地帯の一環として経済発展したのに対し、南四国は発展から取り残され、所得水準や工業生産高では大きく差が開いているとも云われ、全国的に見ても開発が遅れた地域であるとみなされているようだが。 
しかし、近年は四国各地を結ぶ「四国縦横断自動車道」の開通など交通の便が改善されたこともあり、現在では四国を南北のブロック分けすることは少なくなっているともいう。



四国は、古くは奈良時代の古事記に『身一ニシテ面四ツ有リ』と書かれていて、更に、「伊予之二名島」とも記されている。
伊予国の愛比賣(エヒメ)と土佐国の建依別(タケヨリワケ)、阿波国の大宜都比賣(オオゲツヒメ)と讃岐国の飯依比古(イイヨリヒコ)との男女二神ずつが一対として表わされている。
つまり、伊予の愛・ヒメと土左の建依別 (愛らしい姫様と力強い建の男)、阿波(粟)の大宜都ヒメと讃岐の飯依ヒコ(男女一対:両方とも穀物・食事関係して神)を現しているという。 俗に言う、愛媛女と土佐男、讃岐男に阿波女といわれる。 
「伊予之二名島」の二名とは、その二対のことであった。 讃岐は香川県,伊予は愛媛県,土佐は高知県,阿波は徳島県である。 


四国は、国造時代から四カ国が寄り添いあって現代に到っている。 
尤も、領土的には変遷もあったようで、伊予国守・高安王(たかやすのおおきみ・敏達天皇の孫である百済王の後裔といわれる)が阿波、讃岐、土佐三ヶ国を合わせて領したこともあった。
一時期、中世の細川氏、戦国初期の長宗我部元親が四国を一国として統治していたが、長宗我部は豊臣秀吉によって征伐され、元の鞘(四ヶ国)に戻っている。


さて、これより訪ねる土佐の高知であるが 
奈良後期、国郡の制が定まり、駅制が整備されてからは京都と四国の国府を結ぶ官道の往来が賑やかになった。
国の格付は土佐が中の国で、他の三ヶ国は上の国といわれた時期もあり、都から見れば土佐は最も遠い国であったが為かもしれない・・?。
国守では、「土佐日記」を著した土佐守・紀貫之が有名(後述)で代表格であろう。 この頃から平安末期頃まで、土佐は遠流の国となり、貴き方々(都人)が流人として配流されている地域となった。 

戦国末期、土佐は長宗我部氏のあと、1601年(慶長6)に山内一豊が20万石余で入国している。(NHK大河ドラマ「功名が辻」で放映、詳しくは後述) その後の江戸末期、土佐の国から日本を背負い立つ傑物も現れている。
土佐もっこす」という言葉もあり、一本気で骨太で信用がおけるが、頑固で融通がきかないといった土佐人の県民性を表した言葉のようで、古事記に言う、土佐は「男の国」なのである。

次回は、高知の「室戸崎


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「スキー履歴」



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日本周遊紀行(63)海南、海部 「大師と海部氏と甲浦」

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 日本周遊紀行(63)海南、海部 「大師と海部氏と甲浦」  ,


鯖大師(八坂寺)・本坊


四国・海南地域は歴史の表舞台でもあった

道の駅・日和佐を出ると海岸部から離れて再び山間部を走る。
海岸線は「南阿波サンライン」といって極めて風光明媚な所,と言いたい所だが起伏が激しく悪路も予想されるので国道55を直進することにした。 
Jr牟岐線とともに日和佐トンネルなど大小トンネルを抜けながら山間部を走る。 山河内からも延々と山間部を走り続け、寒葉坂峠を境に牟岐町に入る。ここからは下り勾配を4~5キロ走り山間部を抜けて平野部を牟岐川に沿って行くと牟岐の街へ出る。 
途中、海上に浮かぶ出羽島の姿が美しく、牟岐町きっての観光の目玉らしい。

Jr牟岐線はここの地名を付けたもので、牟岐駅は当初の牟岐線の終点であったが、近年この先の海部まで延びている。この沿線に沿って明るい海岸が見通せる、景勝「八坂八浜」と称している。その名のとおり屈曲した八ッ坂があり、その度に八ッ浜が見られるという、路行く者には大変な難所の海岸線だった。この中間に「鯖大師」、別名でその名も「八坂山・八坂寺」というのがある。

日和佐の23番薬王寺から室戸岬の24番最御崎寺までは凡そ80キロの長丁場で、歩けば2日以上かかる距離であり、1日歩いても一つの札所にさえ行き当たらない。 そのため、番外札所と言われるのが八坂寺であった。鯖大師は別格二十霊場にも数えられ、弘法大師と鯖に因んだ話が伝わっていて、鯖の話はこの八坂八浜の大坂を舞台にしたものである。
「 馬の背に鯖を積んだ馬追に、大師が鯖を1匹くれとたのんだ。馬追が断ると大師は次のような歌を詠んだ。 」

『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 
         大師にくれで 馬の腹や(病)む
 』

すると馬が苦しんで歩けなくなった。
驚いた馬追が鯖を差し出すと大師は別の歌を詠んだ。

『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 
         大師にくれて 馬の腹や(止)む
 』
そうすると馬の苦しみはおさまったという。
」と「」と「」で歌の違いが判り、面白い。


高台を走る道路は時折、優美な海岸風景を見せている。 左手に浅川湾を見ながら走る。
再び山間部を走り、間もなく海部川の清流を渡ると海部町である。海部川は四万十川より美しいといわれる清流で時期になると鮎の太公望で賑わうという。
ところで、海部町は四国・徳島でも極めて小さな町域である。しかし歴史は古く、中世よりこの地方を「かいふ」と呼称し、海部氏が海部川流域を支配しながら勢力を拡大していたとされる。 

中世・平安時代から室町時代にかけて、現在の海南地域(海南、海部、宍喰)は、「海部郡司の領地」であったとも「宍咋庄」という荘園に属していたともいわれる。 そして、中世の阿波南部・海部地方に勢力をもっていたのが「海部氏」であった。
水軍の側面も有する海部氏は特産品である「海部刀」をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によって大いに勢力を伸張したものと言われる。 記録によれば、114万振の海部刀が輸出されたことが知られる。
戦国初期、四国を制覇しつつあった長宗我部元親によって滅ぼされているが、江戸期は、蜂須賀氏の出城で、隣国土佐高知の防衛線としての要をなしていたという。


海部川を渡って、すぐのところが海部町である。
所謂、海南地域といわれる海部町、海南町と南隣の宍喰町と三町で合併の話が進んでいるらしいが、最初は宍喰町に反対論が多かったという。海南町役場と海部町役場は、海部川を挟んだ対岸に位置しており1kmも離れていない。 いわば海部川を共有した兄弟といった感じの関係なのである。宍喰町が疎外感を覚えるのも判らぬでもないが、その後どうなっているかは定かでない。
追記:2006年(平成18年)3月31日 海部町、海南町、宍喰町と合併し、新しく「海陽町」が発足している。

 宍喰町の国道55沿いには洒落た「道の駅・宍喰温泉」があった、真向かいには、雄大な太平洋が広がる。 
この道の駅は、通常の観光ターミナルの他に、道の駅としての宿泊施設と王宮のような建物で南国情緒を漂わせる「ホテル・リビエラししくい」、そして温泉が同居していた。 
物産館の横に、尾崎将司の「すこやかに さわやかに おおらかに」と石碑が建っていた。 
尾崎 将司は、ここ海部郡宍喰町の出身のプロゴルファーである。「ジャンボ尾崎」の別名でもよく知られる。公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記され、世界ランキングの自己最高位は8位としてあった。
この町を境に、いよいよ高知県に入る。

東洋町・甲浦について 、
「東洋町」とは大仰な地名である。 
行政名は東洋町であるが、どうも地域に馴染んだ名称は甲浦(かんのうら)が一般的のようで、地名、港湾名、学校名、はたまた神社、駅名の名称まで甲浦である。

山内一豊が土佐に移封されることに決まった慶長5(1600)年の暮れ、大坂を出発し、翌6年1月に、この地、甲浦に上陸し、8日に浦戸城(高知)に入城している。
又、この甲浦で「佐賀の乱」(明治7年に江藤新平・島義勇〈しまよしたけ:北海道開発、特に札幌の開拓の父とも呼ばれる〉らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ)に破れた江等新平が捕まっているという。 
江藤は、鹿児島から四国に渡り高知で再起を計ったが失敗し、虚しく立ち去らねばならなかった。更に高知から東進して、ここ甲浦に至った。この進行には艱難を極めたらしく、江藤をして「自分は母の胎内から出て、未だかつてこんな苦痛に遭ったことがない」と言わしめた。この時既に甲浦にまで江藤の人相書は出回っていた。

甲浦は、当時上方へ渡る船の入出する港であり、江藤らがここを通過することが十分予想されたのであって、江藤はこの網に引っかかったのである。佐賀の乱の敗走から1ヶ月であった。
甲浦という僻村が歴史に登場したのは、江藤の騒動が最初で最後かも知れない・・?。 
この様な鄙びた町に、東洋町と言う大仰な地名、否、行政名を誰が付けたのだろうか・・?。たしかに東に大洋を望む地域だが・・、いっその事、高知の東の端に当たるので「東端町」にでもすれば良かったものを、と勝手に思ったりして。 

甲浦地区の一集落に点在する古い建築様式に、「仏頂造り」という建築物が在る。
昔ながらの和式住宅が建ち並ぶ通りに、家の雨戸にあたる部分が面白い形状をしているのである。 板でできた戸が、上半分と下半分に分かれており、それぞれ上下に開く、ちょうど観音開きを横向きにしたような形である。開くと上半分は庇のようになり、下半分は縁側のようになる。
克ってはこの甲浦は、土佐藩主山内氏が参勤交代の際にも利用され、藩主の宿舎や関連施設、浦奉行などが置かれていた。 
街道集落でもあった甲浦では、この仏頂様式の縁側で商品を陳列したり、旅人を接待したりしたという。この造りは人で賑わう玄関港と台風の通過地という場所で生まれた生活の知恵でもあったようである。 
街並みは徐々に最近の一戸建て住宅に更新が進んでいるようであるが、いくつかの古い民家には、今も仏頂造りが残っている。


甲浦駅は鉄道の終点でもある。 
JR牟岐線がR55と並行して、更に海部駅から甲浦までを結ぶのが阿佐海岸鉄道である。 一応、徳島(阿波)と高知(土佐)を結んでいることになり、「阿佐」の線名に相応しい。 
もともとこの海部から高知市に近い駅を結ぶ、国鉄阿佐線として計画されていて、室戸岬を経由する気宇広大な計画だったのだが、国鉄再建、民営化に伴って工事は中断されてしまったという。一方、高知県側の後免-奈半利間は「土佐くろしお鉄道」が開業している。

次回は、閑話休題:「四国」について、



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