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2010年12月18日土曜日

日本周遊紀行(56)神戸 「阪神大震災」

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 日本周遊紀行(56)神戸 「阪神大震災」  、




阪神大震災で倒壊した「阪神高速道路」(ハーバーハイウェイ)


神戸が中心だった「阪神大震災」のことである

三宮駅前正面・神戸市役所南側にある東遊園地内に「平成7年1月17日」に発生した阪神・淡路大震災の慰霊と復興のモニュメントがある。 
震災を記憶し、復興の歩みを後世に伝え、犠牲者の慰霊と市民への励まし、大規模災害に対する世界的規模での連帯による復興の意義をアピールすることを目的として、平成12年1月16日に設置された。

このモニュメントを含む東遊園地全体では、毎年1月17日にご遺族やボランティアのみなさんと神戸市によって「阪神淡路大震災1.17のつどい」が毎年開催されてる。 
又、中央区波止場町 メリケンパーク東端、メリケン波止場の一部(約60メートル)を震災で壊れた状態のまま保存しており、 震災の被害の凄まじさを目の当たりにすることができる。神戸港の被災状況や復旧の過程などを紹介してる。


阪神・淡路大震災は、1995年(平成7年)1月17日(火) 午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震である。 
淡路島及び阪神間(神戸市・芦屋市・西宮市・宝塚市・尼崎市・伊丹市・大阪府豊中市など)を中心に大きな被害をもたらし、特に神戸市中心部は壊滅状態になった。 
地震による揺れは、阪神地方の一部で震度7の揺れを観測した、戦後国内での最大の震災となった。

大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話など、所謂、ライフラインは寸断され、広範囲で全く機能しなくなった。 
港湾都市である神戸は、神戸港も被害を受け多くの埠頭が使用不能となった。
また埋め立て地を中心に地面が軟弱化する「液状化現象」が見られた。当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震の直接的な被害は無かったが、全長が1m伸びるという事態が発生したという。

これらの被害については、死者 : 6,433名、 行方不明者 :3名、 負傷者 :43,792名 、避難人数 : 30万名以上、住家被害 :全壊104,906棟、半壊:144,274棟、全半壊合計約25万棟(約46万世帯)、一部損壊263,702棟、火災被害 :住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯 、その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所 、被害総額:10兆円規模とされる。

因みに、先の大戦で神戸が空襲などで被災した数は死者7500人、重軽傷者1万7000人と言われ、主に、終戦間際の昭和20年8月に入ってからの数字である。
死者の数こそ戦災の方が多いが、震災は1日の一瞬の出来事である。 如何に神戸の震災が甚大であったかが判る。


元々日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも堪えうる構造であるとされていたが、ビルやマンション、病院、鉄道の駅舎などで広範囲にわたり倒壊、全半壊が多くみられた。 
特に火災の被害が甚大であった神戸市長田区では、地震直後の火災に伴う火災旋風が確認されたが、消火活動が間に合わず、被害をより大きくする結果となった。 西宮市においても、住宅街に面した山腹の斜面において大規模な地滑りが起こり、多くの人々が犠牲になった。
三宮駅前に林立する、所謂ペンシルビルと言われる建物は斜めになって、隣のビルに次々寄りかかるという異常な事態になり、新開地近くの金融関係のビル群は座屈、市中を走る「ハーバーハイウェイ」(阪神高速道路)が横倒しになった。 
この凄惨な震災現場は、今度の震災の大きさの象徴的場所でもある。

一方、基礎工事がしっかりしていた最近の高層ビルは、ガラス一枚割れることなく無償であり、神戸大空襲の時に焼け残った昭和初期の建物も殆どが倒壊を免れたとも言われる。
従って、この事象による差異は、ある種の建築手法による人災ではないか、とも囁かれたが・・?

いずれにしても阪神・淡路大震災は、戦後の自然災害史上では最も大きな被害をもたらし、その後の復旧・復興過程を含めた生活への影響は実に甚大でかつ非常に深いものであった。 
戦後の日本社会が経験してきた諸災害と比較しても、被災者が受けた衝撃は余りにも大きく、被害の大きさ(全半壊家屋数、人的被害の大きさ)からも、けた違いの災害であり、被災後の社会的対応という面でも、かってない規模と内容の広がりをみせ、社会的問題が一気に噴き出した。 
それに対する行政、防災関連機関をはじめとする社会のすべてのレベルにおける対応のあり方も問われたのであった。

次回は、「淡路島



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2010年12月17日金曜日

日本周遊紀行(56)神戸 「大楠公と湊川の戦い」

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 日本周遊紀行(56)神戸 「大楠公と湊川の戦い」  ,


皇将・楠木正成はこの地で散った

前項で記した「源平一の谷合戦」が行われたすぐ近辺に位置する神戸・兵庫区「湊川」は、その後も軍事上の拠点ともなり、 150年後の南北朝時代において最後の決戦が行なわれた所でもある。

南朝・後醍醐天皇の「建武の中興」で天皇を支えた「楠木正成」が、反旗をひるがえし京都奪回を目指す北朝軍・足利尊氏との最後の決戦に臨むため、京都から兵庫に下る。 
途中、「桜井」(京・大阪の中間地、大阪府三島郡島本町桜井)の地まで同行していた長子・正行(まさつら)には、この地で別れて故郷(河内国石川郡赤坂村:現大阪府南河内郡千早赤阪村)へ帰るように命じる。 
正行を呼び「この世でお前の顔を見るのも最後だ。自分が死ねば尊氏の天下になろうが、命を惜しんで長年にわたる天皇への忠義を捨ててはならない」と諭す。  

別れた正成は、味方わずか七百余の勢力で、迫り来る数万の足利尊氏軍を湊川の地で迎え討ち、激戦の末に破れ華と散る。(湊川の戦い・1336年,九州から東上した足利尊氏の軍が兵庫・湊川で新田義貞・楠木正成らを破った戦い)
後に正行は、湊川の戦いで父の正成が戦死したことを知り、覚悟していたこととはいえ父・正成の首級が届き、ショックのあまり自刃しようとしたが母に諭されてる。
その後は父の遺言どおり南朝方として戦い、1348年に行われた「四條畷の戦い」(河内・四條縄手)において敗北し、自刃している。



現在の神戸市中央区・神戸駅北口正面には、楠木正成・正季兄弟終焉の地として正成ら楠木一族を祭神に祀った「湊川神社」があり、徳川光圀(水戸黄門・・?)自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の忠魂碑などが存在する。

楠木正成の命日は、670年前(1336年)の5月25日であり、偶々(たまたま)、小生の道中の昨日に当たる。 
地元・湊川神社では明治5年、殉節された5月25日に鎮座したことも併せて、氏子等が私祭としての「楠公祭」が行われ、大楠公を大将とする騎馬武者行列などが執り行われた。(官祭は新暦7月12日が例祭日)


桜井の別れ』 詞、落合直文 曲、奥山朝恭

青葉茂れる 桜井の       正成涙を うちはらい
里のわたりの 夕まぐれ     わが子正行 よび寄せて
木の下蔭に 駒とめて      父は兵庫に おもむかん
世の行く末えを つくづくと    かなたの浦にて 討死せん
忍ぶ鎧の 袖の上に       いましはここまで 来つれども
散るは涙か はた露か      とくとく帰れ ふるさとへ

この歌は、昭和の初期まで国民的に慕われ、歌われた。

鎌倉時代以降は武家政権が続いたが、明治期になって再び朝廷政治へと戻る。 明治政府は、皇家の最大の忠臣者・英雄として、湊川の戦いで戦死した「楠木正成」 を祭神とした 「湊川神社」(神戸駅前・兵庫県神戸市中央区多聞通)を創建している。 
東京駅前の皇居外苑には、出陣する姿の正成の銅像が建立され、皇居の守りについている。



神戸は、江戸時代には鎖国政策のもとで外国貿易は途絶えていたが、国内では西廻り航路の北前船や内海回船の国内の要港として栄えた。
だが、江戸末期の1858年(安政5年)、日米修好通商条約により開港が決められた。 
その後、江戸幕府の軍艦奉行であった勝海舟は、海防のため幕臣の教育施設として、この地に「海軍操練所」を設立、明治維新に多大な功績を残した坂本龍馬が塾長を勤めている。 
これをきっかけに「兵庫港」として開港し、同時に外国人居留地ができ始め、西洋文化の入り口として発展し、「神戸」の名が著名になっていった。 
神戸」(名前の由来は前項で記した)は、勅命により正式に名付けられたという。

次回、「阪神大震災



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2010年12月16日木曜日

日本周遊紀行(56)神戸 「一の谷」

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 日本周遊紀行(56)神戸 「一の谷」  、


平家終焉の序章 、

昨夜、あれだけ鮮明に見えていた神戸の街は、今朝はモヤのベールに包まれてボンヤリとしか望めない。
関西圏では京都や大阪が数回、また岡山や四国、はたまた昨夜の有馬温泉といい、過去に所によっては数回訪れてはいるが、大阪と並ぶ主要都市「神戸」は一度もなかった。
結局、今回も素通りすることに、なってしまったが。

東の横浜、西の神戸といわれているが、エキゾチックで異国情緒あふれる神戸は、昔の面影を残す港の雰囲気溢れる町並みであろう。 
海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深の有る扇状の入り江部に発展した理想的な港湾・神戸港を有する日本を代表する港町である。
市域中央に横たわる六甲山地の山上の高原一帯は日本における別荘・リゾート等の発祥地として有名であり、昨夜訪れた有馬温泉は六甲北麓、神戸市街の反対側に当たる。 
有馬温泉は日本三古湯の一つとして古来より名高い保養地であり、今では神戸市街の喧騒を六甲山系がシャットアウトし、都市神戸の奥座敷として願っても無い至近距離、好位置にある。


「神戸」という地名 、

神戸」は、かんべ、ごうど、じんこ、こうべ、といろんな読み方が有る。
主に地域の氏神である神社の経済的基盤を支えた住民や土地の地域のことを指していて、日本各地に神戸(読みはいろいろ)という地域名として存在する。

神戸は、現在の三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封(住民が租税や課役を神社に納めたり、祝などの役職を務めることで神社に奉仕した地)の集落、つまり神戸の地であったことに由来しているという。
神戸の民は、生田神社をはじめ、神戸三社(他に、長田神社や湊川神社)、市内ある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わり、それが、現在の灘五郷という「灘の生一本」で知られる日本酒の一大生産地につながったと言う。
(なだ)とは本来、風波が荒く航海の困難な海のことを意味するが、酒類業界では通常清酒の主産地である神戸市東部から西宮市今津(灘区、東灘区)に至る大阪湾に面した約12kmに及ぶ沿岸地帯を指している。


気候や立地に恵まれた神戸は、すでに古代から歴史の中に登場している。
大阪湾、瀬戸内海に面している神戸は京・大阪にも至近で、古くから海運、貿易港として、「」とともに発展を遂げ、奈良時代には既に存在した港「大輪田泊」という名称で登場し開港している。
平安後期には、その利点に目を付けた平清盛が、自国の荘園だったこともあって神戸の港・大輪田の泊を改修し、中国(当時は「宋」)と貿易を行っている。 
この時期、清盛は京都から神戸の福原に首都を移転して、所謂、現在の兵庫区を中心に「福原京」が設けられた。 つまり、海洋国家としての樹立をめざしたのであろう、実際のところは、源氏勢力から一時的に逃れるため、自らの強い勢力圏に天皇を移そうとしたという背景もあった。

そうした福原の建設途上、東国における源平の争乱はますます激化し、遂に、富士川の戦いにおいて平氏軍は大敗を喫した。
清盛は状況に抗しきれず、遂に福原をあきらめ平安京への還幸を決意することとなる。 
その後、清盛亡き後源氏の勢いは益々盛んで、平宗盛を総帥とする平氏一門は、源義仲に追われて都落ちを余儀なくされた。 宗盛らはその途上で福原に立ち寄り、邸宅のことごとくを焼き払っている。 
その後の源平合戦では英雄・源義経が、この地の「一の谷の戦い」で源氏が大勝利していることは周知である。

古書・平家物語には・・! 、
『 山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける。先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり』とある。

当時の福原の都の一角でもある平家の拠点・一の谷城は、現在の神戸市須磨区一の谷町にあたる。 そして義経が京を出発し丹波街道の篠山から一の谷へ到る途中に鵯越があるが、この地が六甲山系の西の山麓でもある現在の神戸市兵庫区鵯越町に当たる。 一の谷の逆落としを決行するのは、現在の須磨の鉢伏山(須磨浦公園)の海に向かった急斜面といわれている。
有名な「鵯越の逆落とし」で、義経を主将とする源氏軍はこの地で平家軍を破っている。 平家の予想を裏切る奇襲作戦だったようで、 平家物語には「およそ人間の仕業とは思えないことだ」と記されている。


詳細な場所については説が分かれているようだが義経は、この峻険な高地に立った時、この攻撃は無理だと内心思ったという。 傍らに居た佐原十朗義連(三浦党、三浦義連・よしつら)が、「こうゆう崖は、われわれ三浦の方では、普通の地形で、いわば三浦の者にとっては馬場のようなものだ」といったという。
人の目から見るとたしかに難攻な斜面であるが、馬の目で見るとそうでないかもしれない。 三浦党は馬の目をもっていたのだろう・・!。
義経の鵯越えの逆さ落しはこうして生まれたという。


青葉の笛』 ―敦盛と忠度―  

一の谷の 軍破れ         
討たれし平家の 公達あわれ
暁寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛


神戸の地は、150年後の南北朝時代においても再び戦乱に塗れれた。

次回は、皇将・楠木正成の最後



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2010年12月15日水曜日

日本周遊紀行(56)神戸 「有馬温泉」

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 日本周遊紀行(56)神戸 「有馬温泉」  、



有馬温泉立寄り湯「銀の湯」


三古泉・三名泉の一つである「有馬温泉」 、

国道176号を宝塚駅を過ぎて少し走り、中国道を左折すると県道51号の有馬街道に入る。 
道端には古い道標が残っていて、これは太閤秀吉が有馬街道で迷う人のないようにと、有馬への道標を刻ませたという道標だという。

すぐに急な登りのヘアピンがあってそこからカーブが連続する。 
六甲の北の山麓にあたり、前方にはパノラマのように「蓬莱峡」の景色が広がっている。
灰褐色の鋭い岩が乱立している光景は不思議な風景である。

蓬莱峡を過ぎて、長い上り坂を登りきったところに「船坂」の集落がある。
ここは標高400m近くあって寒冷な気候を生かし、今でも冬季には昔ながらの製法で「寒天づくり」が行われているという。
寒天といえば長野県中部の諏訪地方が全国一寒天の生産地である。
寒天は、寒風吹きすさぶ厳しい寒さと昼間の晴天という気温差による気候が寒天作りに適しているそうで、材料は海のもので天草(テングサ)を原料として作られている。

テングサは、現在は伊豆、伊豆諸島あたりから諏訪地方へ出荷されているようである。 
テングサは天草と書くが、一昔前は「心太草」とも書き、「太」がテンになり、それがなまってトコロテン(心太)になったらしい。 このトコロテンを寒晒したものが寒天である。
食用としては太古の奈良時代以前から食されたようで、当時は僧侶の間で盛んに食べられており、朝廷の供物にも用いられていたという。
今ではダイエット、健康食品として新しい姿を見せている。


西宮へ至る六甲北道路を直進し、更に芦屋に至る芦有ドライブウェイを過ぎると間もなく「有馬温泉」である。
清らかな有馬川沿いを行くと風情のある朱色の太閤橋が見えた。 近くに神戸が始発の神戸電鉄有馬線・有馬温泉駅が伺える。 
主要道路は、温泉街の中心ともいえる善福寺の前あたりが、程よく行き止まりになっている。 車を置いて暫し周辺の様子を確かめる、奥まった周辺は坂道の多い傾斜地に旅館やホテルが密集しているようだ。
左手に有馬温泉の名物湯「金の湯」が在ったが、残念ながら休館であった。 伺うと「銀の湯」は開業しているらしい。

有馬温泉の由来は神代の時代に遡るという、三古泉・三名泉の一つである。
孝徳天皇が妃ともに有馬温泉に滞在中、待望の皇子が生まれたので名を「有間」と名付けたといい、後の有馬皇子である。 
有間皇子は、大化の改新や皇位継承をめぐる複雑な争いの中で19歳の若さで散っていった悲運の人である。 日本書紀には、皇子は奇しくも紀州・白浜の湯で政変を企んだとのかどで絞首にされたと記されている。 奇しくも生死とも温泉に関係した皇子であった。

中世には清少納言は枕草子で有馬温泉に言及している。
太閤秀吉が愛した温泉地としても有名で、秀吉は有馬を何度も訪れている。
温泉寺の近くに「湯山御殿」を建てたと伝えられていたが,極楽寺本堂横の庫裏下から岩風呂や蒸し風呂,庭園跡などが発掘され、当時を偲ぶことが出来るという。 現在,太閤の湯殿館という資料館が開設され,遺構が保存されている。


大阪より1時間、神戸三宮より30分とアクセスも良く、関西の奥座敷として親しまれる。泉質は、含鉄強塩泉の金泉(金の湯)と呼ばれる赤褐色の湯と、無色の炭酸泉・銀泉(銀の湯)の2つ、交互に浸かれば相乗効果があると言われる。

車を池坊満月城ホテルの駐車場に預けて、先ずは銀の湯へ向かう。
西南の方向、温泉寺と念仏寺の急坂、階段を行く、有馬でも一等地の高台である。
この辺りは太閤秀吉が有馬を訪れていた頃は、足元から湯が湧き出していたと言われ、この温泉を「上之湯」とか「願の湯(ねがいのゆ)」と呼ばれていたらしい。
丁度この地に「太閤の湯殿館」というのが在り、秀吉の湯殿跡といわれるところらしい。
念仏寺は、太閤秀吉・北政所の別邸跡と言われる由緒ある寺院で、雰囲気も良く見晴らしも素晴らしい。

温泉寺と念仏寺の先に「銀の湯」が在った。
金の湯のモダンな洋風に比して、こちらは木造の純和風造りで、瀟洒な雰囲気をだしている。暖簾(のれん)をくぐり自動販売機で券を買い、受付でロッカーの鍵を貰って、そそくさと浴場へ。 
中は「太閤の蒸し風呂」と言われるサウナと泡風呂、一般浴槽のみで、残念ながら露天風呂はなかった。 せっかくの有名温泉地で、しかも周辺は自然豊かな所なので露天風呂も欲しいところであるが。 

先ずは有馬の湯に浸かる、金の湯とはお湯の質が異なるようで、こちらは炭酸泉・放射能泉(ラジウム泉)の無色透明な温泉で、全体にさらっとした感じの湯である。
情報によると、源泉からの湯量が低下した場合は不足を補うために加水することがあり (不定期) 、湧出温度が低いため加温して、循環(補充)しながら塩素による消毒を実施しているという。
さすが古来名泉といわれた有馬温泉も、現在では湯量、湯温には悩まされているようである。

銀の湯の裏手高台に温泉神社があった。
南側に愛宕山公園も隣接していて清閑な地にあり、この山の中腹に有馬の氏神・温泉守護神として崇められている。
歴史は古く、日本書記 (720年)に舒明天皇・孝徳天皇・白河法皇などの参拝が記されているといい、草創期の祭神は、有馬温泉を発見したと伝えられる大己貴命(大国主の若い頃の名前・大黒さま) と少彦名命 (スクナヒコナ・医薬の神) とされ、この神社にある熊野曼荼羅図は、国の重要文化財に指定されている。


温泉タウンで、格安安価な宿を探したが、いずれもべらぼうに高価で断念し有馬を後にした。
一旦、中国道の西宮北I・Cから山陽道へ行き、一気に淡路へ向かうことにした。
夜のライトに照らされた優雅な明石海峡大橋を渡って、淡路島の北端「道の駅・あわじ」にて今夜の宿、車中の人となる。 対岸の神戸の夜景が、眩しいくらいの輝きを見せ付けていた。

次回は「神戸


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2010年12月14日火曜日

日本周遊紀行(55)宝塚 「女の城に日本の紳士」

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日本周遊紀行(55)宝塚 「女の城に日本の紳士」 ・



女の城に日本の紳士がいた・・!  、


尼崎での鎮痛な気分を切り替えて、有馬温泉へ向かうため幹線道2号線から地方道42号を北上し、先ずは宝塚方面へ進む。 
阪神の沿岸地区の所謂、産業地区から、ようやく離れて新鮮な緑や川面の緑青が目に付き心が癒される。 西の方角は六甲の山並みが見え、緩やかな傾斜を辿りながら延びてきて、やがてこの辺りの武庫川を境に平地となっている。 

宝塚、西宮郊外、芦屋は六甲の山裾が東、東南へ延びて丘陵地形造り、阪神地区のベットタウンとして発展している。 
特に、芦屋地区は、当時は別荘地としても有名であった。 武田繁太郎の昭和30年代・芦屋マダムの生態を描いた「芦屋夫人」が猥褻(わいせつ)小説かどうかは別にして、当時流行の「有閑マダム」の代名詞になったのは事実である。 
宝塚市は、小林一三氏が手がけた阪急電鉄経営の宝塚歌劇が有名であり、美しき女性専門の歌劇団の所在地でもある。 又、関西の奥座敷として、温泉や芦屋市・西宮市とならんで高級住宅地としても知られる。


夕刻時分とあって、街へ近ずくにしたがい、R176と中国道の宝塚I・C付近からは一段と賑やかかさが伝わってくる。 間もなく緑豊かな公園の中に「手塚治虫記念館」(「鉄腕アトム」「ジャングル大帝」「火の鳥」などアニメ、漫画で知られる手塚治虫は宝塚出身)があり、その隣に巨大な建造物、赤い屋根の豪奢な建物が直ぐ目の前に現われてきた。
赤茶のスペイン風瓦屋根と白壁の外観が際立つ、南欧のお城をイメージしたと言われている宝塚歌劇団の本拠地、「宝塚大劇場」である。
数々の名公演や名女優を輩出した女性憧れの地、女の園であり、又、東京宝塚劇場や東宝系の映画制作、映画館の元祖とも言うべき本山でもある。

 
宝塚という場所は、元々は温泉地であったらしい。
宝塚電鉄並びに宝塚歌劇団の創始者小林一三翁が鉄道の乗客誘致のために温泉を作り、その余興として1913(大正2)年16人の少女によって結成された「宝塚唱歌隊」が宝塚歌劇団の前身であった。 そして翌年の1914年(大正3年)、プールを改造した劇場で初演の幕が上がり、間もなく1世紀にわたる歴史が始まったという。


宝塚歌劇団とは、阪急東宝グループを母体とする男役も女役もすべて女性が演じる劇団で、(スタッフは男性もいる)本拠地は兵庫県宝塚市の当地において、花、月、雪、星、宙(そら)の五つの組が交代でレビューや芝居を公演している。 
劇団員になるには、「宝塚音楽学校」への入学競争率約40倍・・!、「東の東大、西の宝塚」と言われるほどの難関を卒業する必要がある。 音楽学校時代の二年間の予科、本科。入団してからの研究科、と宝塚歌劇団そのものが大きな学校である。
各組には、トップスター、トップ娘役がいて主にこの二人を中心に舞台は作り上げられるという。
歌劇団退団後も、芸能界で活躍する女優も多く、大地真央、黒木瞳、天海祐希等、又、扇千景元国土交通相も宝塚歌劇団出身である。 小生の好きな「ズカ・ジェンヌ」OB・・否、OGは八千草 薫であったが・・!これは余計・・。



次に、今度は女性の事でなくは男性の事なのである 、

話は大きく転じて、
先の大戦(太平洋戦争)での敗戦の結果、占領軍が上陸して大臣、閣僚のお偉方が平身低頭して右往左往する中、ただ一人、占領軍・司令長官・マッカーサーに「NO」といった男・「白州次郎」のことである。 
この地、宝塚市は白洲家の出身地であり、白洲次郎は1902年(明治35年)、に生まれている。 
英国留学、更に英国赴任の時、駐英大使だった「吉田 茂」と面識を得、終戦時、英語が極めて堪能な彼は、終戦の始末を就けるべく吉田 茂の側近として、終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。

先ずエピソードを一つ、
彼は年末の或る日、天皇陛下からマッカーサー一家に贈るクリスマスプレゼントを託され、丁寧に手渡そうとした。マッカーサーは「その辺に置いておけ」というニベもない仕草を見せた。その瞬間、白洲は怒りを爆発させ、「いやしくもかつて日本の統治者であった者からの贈り物を、“その辺に置けとは何事か・・!”」と、そのままプレゼントを持ち帰ろうとした。驚いたマッカーサーは彼に陳謝し、テーブルを用意して鄭重に贈り物を置いたという。 これらの振る舞いにマッカーサー及びGHQは、白洲を「占領下、ただ一人の従順ならざる日本人」と評している。
GHQに従い、日本国憲法の起草に尽力した白洲は「この憲法はGHQによって創られたものであり、後に日本国民自身の手によって、作り替えねば、戦後は終わらない・・!」と称している。 
彼の一言は重要である・・!!、あれから今日までの幾星霜、「日本国憲法」はどうなっているか・・??。

サンフランシスコ講和会議の吉田茂首相の演説の場面は、時折、終戦記念などでTVでも放映されているが、この時予定としてはGHQと外務省が用意した演説原稿を英語で話すはずだった。 
これを知った白洲次郎は「日本は戦争に負けたのであって、奴隷になったのではない」と怒って、大きな巻紙に全文・日本語に書き換えて首相に渡したという。
吉田首相に独立国の面子として日本語で演説するように諫言し、実際、首相は羽織袴姿でテーブルの前に立ち、大きな巻紙をクルクル開きながら日本語で演説していたのである。 

白洲次郎は、185cmの長身、流暢な英語力、それに持って生まれた明晰な胆力で占領軍・米国首脳陣と対等に渡り合ったのである。そして条約締結、日本の独立が叶った時、秘書官として同行していた宮沢喜一(元総理)は、初めて白洲が泣くところを見たという。 
吉田茂も、白洲を高く評価し「白洲三百人力」と呼んだ。

その後、白州は、少資源国日本が生き残る道として、産業政策を輸出主導型へ転換させようと、「通産省」を設立するなど白洲と吉田は一蓮托生となり、吉田が退陣すると自らも政界から姿を消し、実業界へと転進し活躍するのである。
幼なじみの作家・今日出海(こん ひでみ)に「育ちのいい生粋の野蛮人」と評された白洲次郎は、「葬式無用、戒名不要」の言葉を残して、1985年(昭和60年)、83歳で世を去った。

ところで、その日本国憲法は、1947年に施行されて以来改正されたことはない。 
日本国憲法施行以来、自衛隊の合憲化や天皇性などを提言する側から、憲法草案がいくつも発表されてきた。そして、時の政権、自民党(自由民主党)の政策には、憲法改正が優先政策事項として挙げられ、「憲法改正草案大綱」なども作成しているが、いずれも保留又は撤回されている。
2006年、小泉総理から若手の安倍 晋三内閣総理大臣(2006年9月)へバトンタッチされてからは、彼の信条である憲法改正論議がようやく活発になってきた。 安倍総理は政策の中で、施行60周年を迎えた日本国憲法を改正すると宣言し、総理就任後の国会でも「現行の憲法は、日本が占領されている時代に制定され、60年近くを経て現実にそぐわないものとなっている、しかるに21世紀にふさわしい日本の未来の姿あるいは理想を憲法として書き上げていくことが必要と考えている」と述べ、日本国憲法の改正手続に関する法律案を、2007年の通常国会での成立を目指すとしており、 2007年夏の参院選では憲法改正を最大の公約に掲げている。

このブログを書いている最近(2008年11月)になっていて、現在の総理大臣は代わりに代わって麻生太郎氏である。 奇しくも麻生太郎は、当時、憲法草案に当たった吉田茂の孫である。 果たして、吉田茂の側近であった白洲氏が、「GHQによって創られた日本国憲法は、作り替えねば戦後は終わらない・・!」と言わしめた現憲法の事が、麻生氏の頭の中に有るかどうか・・?見守りたい・・!!。
特に憲法問題は、北朝鮮における拉致(人攫い問題)を含む南北統一問題、北方における領土問題、中国の東シナ海問題にも関連してくる・・!。

【追記】
NHK総合が、激動の昭和史を駆け抜けた一人の「侍」―白洲次郎・伝説の生涯を初ドラマ化!放送は2009年2月28日(土)から放送された。
白洲を異色の俳優・伊勢谷友介、妻の正子を中谷美紀が演じるほか、岸部一徳(近衛文麿役)・原田芳雄(吉田茂役)など白洲の親子愛・夫婦愛を描いている。


大阪、尼崎、宝塚と巡って記録に留めたい事がある・・、
1995年(平成7年)1月17日、阪神大震災が発生してから丁度10年目に当たる。 
道中巡って震災跡らしきものは全く見ていない。 巡った辺りは震源よりやや外れていたため、被害は軽微だったのであろうか・・?、又は完全復興したのであろうか・・?、
しかし、宝塚歌劇団の本拠地・宝塚大劇場は大きな被害を受けたようで、およそ2ヵ月半の間公演不能の状態になったという。
午前5時46分52秒、淡路島北部を震源として発生した(大都市)直下型の大地震である。 地震による揺れは、阪神地方の一部で震度7の揺れを観測した。死者:6,433名、 負傷者:43,792名、避難人数:30万名以上、被害総額:10兆円規模といわれる。 大都市を直撃した都市型災害としては関東大震災以来の未曾有の出来事であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などライフラインは寸断され広範囲で全く機能しなくなった。

尚、「阪神大震災」については、更に「神戸」の項で記載します。

次回は、「有馬温泉」



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2010年12月13日月曜日

日本周遊紀行(54)尼崎 「千の風になって」

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日本周遊紀行(54)尼崎 「千の風になって」 .



鎮魂の尼崎に、「千の風・・」が舞う、

今、「千の風になって」という唄が、静かなブームになっているという。
小生が何となくこの歌を見聞きしたのは何時の事だったか定かではないが、近々であることには違いない。 確か・・?、盲目のテノール歌手である「新垣勉」が、NHKの番組でこの曲を朗々と心に響くような歌い方で聞いた時であろう。 
その時は歌詞の内容は殆ど理解せぬまま、ただ、美しいハーモニーとメロディーのみが印象に残っていた。

この歌「千の風になって」は、悲しみの歌であり、悲しみを乗り越える歌でもあり、悲しみを忘れさせる歌であり、明日への希望の歌でもあるといわれる。 
人生には不都合、不運、不具合が付き物で、事故や災害で亡くなった方,病気でなくなった方や残された周りの方にとって,この歌はとても優しい歌であり、多くの人々を感動させているといわれる。

この歌が感動を呼ぶのは、多くの人々の「心痛める現実」にあり、それらを共有、共感し、歌詞のような気持ちを持つことによって、やっと救われるようなる。 
又、美しい曲を聞いていると「それ」を忘れてしまいそうになり、悲しみの当事者にとって,その一瞬でも違った心持ちになれるからではないかと・・!。

この近畿圏である兵庫、神戸界隈は近年大いなる悲劇に見舞われた。 
10年前(平成7年)の「阪神淡路大震災」(神戸の項で記載)そして、この度の「尼崎列車事故」である。
震災の回忌・追悼式や慰霊祭は元より、教会や各地各所、各人が寄り添って、この「千の風になって」を演奏し、唄われるという。

過ぎ去った時間を墓の前で悔いる人達を、彼らは『 空や木々の間を吹き渡っていて、死んでなんかいません 』と言う。 
慰霊や鎮魂は死んだモノたちではなく 残された者達の為にあり、過去を悔いながらも 墓の前にひざまずく足が、又、希望へと前に進めるようにと。

2005年には、地元・宝塚歌劇団が阪神大震災から10年のチャリティーコンサートとして歌はれ、又、劇映画も製作され、本も出版されたという。 
2004年には、前述の盲目の沖縄のテノール歌手「新垣勉」が唄った。 
この頃はまだ世間には知られていない流行以前の曲であったが、やはり全盲の歌手として活躍している「塩谷靖子」氏の優しい歌声と深い表現力が話題になり、あの、聖路加国際病院・名誉院長「日野原重明」の推薦するCDが新聞などの報道により話題を呼んだという。

その後、やはりテノール歌手の「秋川雅史」や「中島啓江」などによって唄われている。 
特に、この詩を新井満が日本語に訳し、曲をつけたものを、NHK紅白歌合戦(2006年)では秋川雅史がこの歌を熱唱し、多くの人々に感動を与えた。 
その後、問い合わせが殺到、翌年1月のオリコン総合チャートで1位を獲得している。

これらの歌詞は、新井満や塩谷靖子氏らによって翻訳詩、作曲されている。
また、海外では米国での「アメリカ同時多発テロ事件」(2001年9月11日)で亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読した。 
米紙によるとすでに1977年、映画監督ハワード・ホークスの葬儀で俳優のジョン・ウェインが朗読したといい、1987年には女優マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたらしい。


ところで、「千の風になって」の歌の内容は凡そ判ったが、原歌曲は一体、何処の、誰が、何のために創ったのか・・??、 甚だ、興味津々である。
以前、朝日新聞の「天声人語」(新聞の一面コラム・囲み記事、短評欄)に、「誰が創ったのか判らない一編の短い詩が、欧米や日本で静かに広がっている。 愛する人を亡くした人が読んで涙し、また慰めを得る。そんな詩である」とある。

この詩の起源に関してはいくつかの説があるが、原作者はメアリー・フライ(Mary Frye)という、アメリカ人女性が書いたのが最初の詩とする説が有力であるという。
メアリーが同居していた友人であるマーガレット・シュワルツコップ(Margaret Schwarzkopf、ドイツ系ユダヤ人少女)の母(ドイツ在住)が亡くなる。しかし、当時のドイツは、反ユダヤ主義の風潮の為に帰国出来なかった、そのことが原因で落ち込んでいた、そこで彼女のために一片の詩を書くのである。 
メアリーは、引きちぎった茶色の買物袋に一息に、込み上げる詩を書き付け、紙切れを差し出した。「これ、私が書いた詩なの、私の思う《人の生と死のあり方》なの、あなたのためになるかどうか分からないけど・・」
マーガレットは詩を一読し、メアリーを抱きしめて言った。 「私この詩を一生大切にするわ」、暫くして、彼女の家族の友達が、詩をはがきに印刷して人々に送り、これが人々に「人伝い」で広まった、これが最初のだといわれる。

そして、明らかになった事実は、メアリー・フライが友の癒し・追悼の為にこの詩を書き、この詩になんら「著作権」が設定されていない事実であった。 そのため、人々は自分の文体や言葉で自由に表現でき、その人の共有財産になったという。ということで原作者の彼女は、一銭の報酬も受けていないのである。
この件についてメアリー本人は次のように話している、「この詩は私だけのものじゃないの、皆のものよ、今でもそう思うの。これは、愛や安らぎについて書いたのよ、もし私がお金を受け取ったりしたら、意味が無くなるわ・・多分」


千の風になって』 原作詞:アメリカ メアリー・フライ 訳詞・作曲:新井満

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています
あの大きな空を
吹きわたっています

『A THOUSAND WINDS』
Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.


次回、女の城・宝塚に「日本の紳士



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2010年12月12日日曜日

日本周遊紀行(54)尼崎 「惨劇、そして悲劇」

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 日本周遊紀行(54)尼崎 「惨劇、そして悲劇」  ・



写真:事故直後の現場(読売新聞社提供)


写真:事故現場の報道陣、正面は仮祭壇



あの日を忘れない「尼崎の悲劇」 、

大阪城のすぐ北を国道1号線が走っている。
この国道1号は、JR大阪駅(私鉄・梅田駅)の駅前の主要十字路でR2(国道2号線)に引き継いでいる。
国道1号線は、東京都中央区日本橋から大阪市北区梅田新道までおよそ570km、途中横浜・静岡・名古屋・京都と主要な都市を結び、都市圏の産業道路であったり、名所の箱根や浜名湖畔沿いなど変化にとんでいる。 
もちろん現在の東海道の主役は新幹線や東名・名神高速道路であるのはいうまでもないが、地域の生活や産業にしっかり密着している国道のスーパースターである。

そのR1からR2に乗り継いで・・?、兵庫の六甲山麓の有馬温泉へと向う。 
その途中でもあり、邪心とは承知のうえで「尼崎」に寄ることにした。 邪心としたのは、その付近で最近(4月)大きな鉄道事故が発生していて、その現場を参見するつもりであるから。

大幹線道路、大型貨物車がゴーゴーと走る阪神工業地帯の真っ只中の尼崎駅前付近から、右方向の地方道へ入ってようやく開放された。 
工業地らしく大小の会社工場が乱立していて、近くをJR福知山線が走る、この線が東海道本線と合流する地点駅が尼崎駅である。 
そのすぐ北側を名神高速道が走り、福知山線と交差する辺りが悲しい事故現場のはずである。車をグルグル走らせて、どうやら目的の地へ着いたようである。


報道記者が数人カメラを持ち、高さのある脚立を構えて立っているし、ガードマンも直立不動で事に当たっている。 
車を「日本スピンドル」という会社工場の正門横に置いて、小生もカメラ片手に神妙に出かけた。
すぐ福知山線の踏み切りに来た、開かずの踏み切りでなく開けっ放しの踏み切りで、人も車も常時往来自由である。
無論、ここは事故現場で、この鉄道の列車は運休中なのである。 
右方のレール上はバリケードがしてあり、すぐ横にTV映像でも何回も見せられた白の幕で囲われた仮祭壇らしきものがあった、こちらは裏側にあたるのだろう中の様子は覗い知れない。

鉄路にそって、あの高層のマンションが立つ。 このマンションの地下駐車場に、事故列車の1両目の車両が殆ど突っ込み、死者凡そ30人を出した所でもある。
2両目は、この建物の前方に激突し、くの字にへしゃげて大破、死者およそ70人、そして3、4両目は脱線した衝撃で180度前後が入れ替わり大破した、死者4~5人出している・・!!。
この電車の乗客は約540人というから、死亡率18%、負傷率79%にもなる。


現場に居合わす鉄道関係者は基より報道、ガードマン、それらの人々はいずれの顔も強張って、堅そうで、緊張感のなかで脱力している。 
見れば、行き交う人々も表情は重く、何か悲しげである、この地上に居る人達は皆、そのようだ・・! 時折、子供のカン高い声が響き、車の行き交う無味は騒音が耳に届くが、否、この場に在る空気や人々の雰囲気が重いばかりでなく、周辺地域に住む人達も本来の笑い声は暫くは聞けないだろう、家族の対話も、近所の茶飲み話しも。 

あれから1ヶ月少々、こらから蒸すような暑い夏がやって来て、更に、悲しみの熱風が辺りを支配し、威圧し、人々は更に無口になってゆくだろう・・!。 
辺りを支配している死に到る悲しげなウメキの声が途絶えるのは、一体何時になるのか・・?苦悶の霊が漂い浮揚していて、怨念を負っている107の霊は、そう単純には仏となり得ず昇天は出来ないだろう・・!。 
それらの霊を救済する天女が現れて、元の晴れ間に戻るのは何時になるのか・・?、
やがてやって来る秋の涼風が吹く頃か・・?、天女が涼風に乗ってやって来て、これらの霊を慰め、静かに抱えて天界に同伴してくれれば良いが・・!。
その頃になって、世間からやっと人々の本来の笑い声、歓声が聞こえて来るかも知れない・・!。
それらが少しでも早からんことを本当に願い祈るのみである・・!。

小生も、邪心ながらも現場に立っていても悲惨で、遣り切れなくて、胸が詰まり、切なくなって、何か込み上げるものを禁じ得ないのである。 今は、ただただご冥福を祈るばかりである。
思えば、この事故は東京地区でいうなれば、品川駅近くで山手線か、京浜東北線かが事故を起こした様なものだろう、所謂、都市型の事故である。 
それは本年(2005年)4月25日の午前の事であり、この事故を一般に「JR福知山線脱線事故」と称している。 


2005年4月25日午前9時18分頃に、JR西日本福知山線(JR宝塚線)塚口~尼崎駅間で発生、107名の死者を出した列車脱線転覆事故である。
事故は、JR福知山線の兵庫県尼崎市久々知の右カーブ区間、塚口駅の南約1km、尼崎駅の手前約1.4km地点)で発生した。
事故列車は宝塚発、片町線(学研都市線)の同志社前行き上り快速電車である。列車の前5両が脱線して先頭2両は線路横の9階建てマンションに激突し原形をとどめない形で大破した。

余り知られてないが、同時刻には並行する下り線に新大阪発⇒城崎温泉行きの特急「北近畿3号」が接近中であった・・!!。
だが幸いなことに、事故を目撃した近隣住民の機転により、近くの踏切の非常ボタンが押され運転士が異常を察知し、凡そ100m手前で緊急停車したという。 そのために、二重事故が回避されているのである。 
曲線区間の制限速度は70km/hであるが、航空・鉄道事故調査委員会が解析を行ったところ、前から5両目と7両目に時速108kmの記録が表示されていた。この時の列車の運行時間は定刻より1分30秒程遅れていたとか。

救助作業は、昼夜を問わず24時間続けられ、3日後の4月28日に終了したという。
事故の犠牲者は、運転士を含む死者107名、負傷者は555名。 犠牲者の多くは1両目か2両目で、殆どが多発性外傷や窒息で亡くなっていて、所謂、クラッシュ症候群(挫滅症候群・ざめつしょうこうぐんともいい、身体の一部が長時間挟まれるなどして圧迫され、その解放後に起こる様々な症候をいう)という二次性の疾患も確認されている。

事故の規模は、死亡者の数に限定するならば戦後の旧国鉄時代を含めると1962年の三河島事故(この時は二重事故・死者160人)に次ぐ大惨事となり、JR発足以降に限定すると1991年の信楽高原鉄道(正面衝突・42名が死亡し、614名が重軽傷)での衝突事故を抜き、史上最悪の鉄道事故となった。


107人もの犠牲者を出したJR福知山線脱線事故において此の程、人命救助に尽力した人に「紅綬褒章」が授与された。 その中の一人に浜崎節美さんがいる、事故の時、近くを通りかかり、とっさに踏み切りの非常ボタンを押して対向の特急電車が突っ込む二重事故を防いだのである。

又、事故直後、近くの機械メーカー「日本スピンドル製造」では、斉藤社長号令の下に即時操業を中止し、社員全員工場から毛布、医薬品、工具を持ち出し救助に当たった。 トラック等も全車出して怪我人を乗せ、現場と病院をピストン輸送した。 
褒章を受けた両名は、「光栄に思う、と同時に戸惑いも感じる。それより何よりも、ご遺族と負傷者の皆さんを思うと心が痛む。」とコメントしている。
たまたま、この会社の正門横に車を止めていて、小生自ら撮った写真に社名が写っていた、確かに事故現場はすぐ前であった・・!!。

因みに尼崎は、先の(1995年1月17日) 阪神・淡路大震災で死者49人、負傷者7145人を出している。
(平成17年:2005年5月下旬訪問)

次回は、更に尼崎、「千の風になって


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