google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2010-04-04

2010年4月9日金曜日

日本周遊紀行(85)内浦湾岸 「鹿部、南茅部町」

.


日本周遊紀行(85)内浦湾岸 「鹿部、南茅部町」


砂原町の沿岸からから観る「駒ケ岳」の勇姿が良い。


北海道の大沼・駒ヶ岳周辺は国定公園に指定された美しい景観で知られるが、渡島富士ともいい大沼側から見る湖沼を配した駒ケ岳が優美に映る。 だが、ここから観る駒ケ岳も天を指す弧峰で雄雄しく壮観である。 


しかし、駒ヶ 岳は今も激しい噴火をしている活火山である。
1640年、寛永の大噴火では山体の上部が爆裂で南と東に相ついで溶岩流を伴なって崩れ落ちた。 南側山麓(七飯方面)では 低い土地、河川を埋めて大沼、小沼と、それらの中に点在する島々ができ今の姿になった。 
また東側に(砂原、鹿部方面)崩れ落ちた山の一部は 内浦湾(噴火湾)に達し、大津波を起こした。 数ある噴火の中でも、この時が最大で大噴火と大津波で死者700名を出す大惨事となったという。 
平成に入っても小規模な噴火を繰り返し、近くは平成12年にも数回激しい噴火があった。
今この地点からは風向きにより確認できないが、火口付近では現在でも弱い噴気活動を行なっているはずである。 従って登山、登行は禁止されているという。(平成16年末)



火山や火山帯の近くには必ずと云っていいほど良い温泉地が在る。 国道278の海岸沿いにあるのが「鹿部温泉郷」である。 
温泉の町・鹿部でも特にめずらしいのが周期的に地面から噴き出す「鹿部間歇泉」である。 

鹿部町の間歇泉は大正13年に温泉を掘っているときに偶然見つかったもので、日本でも大変珍しいといわれる。 
間歇泉は、他に別府や諏訪、鳴子にもあるが世界的にはアメリカのイエローストーン公園の大間歇泉が有名であろう。 
鹿部間欠泉は5~6分間隔で103度もの熱湯が15mもの高さまで噴出すという。 
こちらの間歇泉は公園施設の中にあり入場有料(300円)であるが、ここには足湯もあり脚を浸しながらブワーッ!!と吹き上げるのをのんびり見物できるのがいい。

鹿部町の温泉は泉源が30ヶ所以上もあり、ナトリウム・カルシウム-硫黄塩泉が主だが、それぞれ泉質が異なるの特徴をもつ。 適応症は、神経痛、関節痛、うちみ、痔症、リウマチ性疾患、創傷及び火傷、皮膚症などに効果があるという。 
銭湯は亀の湯、寅の湯があり入浴料350円也。

間欠泉公園から少し行った所の国道沿いに「三味線滝」という優美な滝が在った。
高さ30m程の品の良い滝で、見ていてホッとする。 その名前の由来は流れ落ちる音が三味線の音色に似ているからと言われるが、果たしてどうであろう。

 

駒ケ岳を望むゆったりした低丘陵地から、海岸際に沿っている国道278(恵山内浦ライン)南茅部町に入る。 
この辺りから風景は一変して、海岸近くまで山稜が迫り、背後の町界部は600m前後の山塊が波打っていて、海洋の町でもあるが山間の町でもある。 
町は内浦湾に面する幅が5~6kmの細長い町であり、山が迫る狭い海岸線に道路が通り家が並んでいる。 
風光も道内では最も温暖な地域であろうし、漁業資源も豊富のようだ。 


この幅の狭い地域に、山襞に沿って幾筋もの急峻な河川が流れ下る。
この川筋の段丘に大昔、人々が何千年もの間生活していた、長さ30キロメートル余りの海岸線には、ほぼ4キロメートルおきに縄文遺跡が連なって発見されているという。

一般に、縄文期とは早期から晩期までの凡そ1万年から2千年前あたりを云うが、この地区一帯には、それらの時代の殆どの期間に人々が在住し生活していたとみられる。 
その考古学上の遺跡調査は1973年に始まり28年間に及んだといい、その規模は町内に88ヶ所、面積にして150万平方m、出土品総数は350万点にも達するとのこと。 
南茅部地区は縄文人達による一大国家が形成されていた事になり、これは青森の「三内円山縄文人」の遺跡を凌ぐものとも云われる。 或いは青森などと盛んに交流等も行はれていたのでは・・??。 
南茅部町は古代の香りのするロマンの町でもあった・・!!。

この南茅部町をはじめこれから訪れる椴法華村、恵山町、戸井町そして函館市による広範な地域の合併の話があるようで、しかも既に各市町村は合併協議の合意を得て平成16年12月には新しい「函館市」になることが決定しているという。



ところで道内の行くとこ、行くとこ合併協議がもちきりである。

合併についてはスムースに行われる所もあれば、中には地域の止むに止まれぬ事情、個々の議員さんの利害得失等で見送り解散になるケースも少なくないようである。 小生が「日本一周の旅」の最中でも着々刻々と合併の話が進行中であり、又、合併が済んで新しい市町村名に出くわし頭を悩ますこともあるが、この記録表示については出来るだけ従来の名称で記載しようと勤めている。
因みに、全国的にみて平成の大合併が始まる以前の1999年(平成11年)3月頃までは3200余の市町村であった。 合併が進んで以来、2004年11月現在では2400程度に減少したようだが、更に進行中で2005年(平成17年)にかけては合併のピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了した2006年(平成18年)4月には1800程度にまで減少したという。 つまり全国の市町村が、当初より4割以上も減少したことになる。 
合併によって財政支援が受けられる「合併特措法」なるものの有効期限は2005・3月迄で、それ以降の恩典は無くなっている。 従って、この期日以降の合併の動きは鈍くなっているが、これ以降も都道府県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けては多少なりとも合併の動きが進むことが予想されるという。 

全国の首長の皆さん、お国のために、わが地域のために奮闘努力してくださーい・・!!


次回は「椴法華・恵山」




【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


.

日本周遊紀行(84)噴火湾 「八雲、森町」

.


日本周遊紀行(84)噴火湾 「八雲、森町」


八雲町へ入った・・、

農業が盛んな町のようで、柔らかい斜面の丘陵地には広大な畑と牧場に色分けされている。
牧場は、主に牛のようで畜産、酪農か主体であろう。 
以前、カミさんと訪れたとき、この辺りでKFCの農場・フアームを見物したはずだが・・??、あの時は確か「KFCプランテーション・ハーベスター八雲」とかいう名称だったと思う。 
名が示すとおりケンタッキーフライドチキン(KFC)の実験農場という形態を採ったレストランを中心にした施設だった。 国道5号線から内陸方面に入ると、とても雰囲気の良い並木道が続いていたはずなのだが、それがない・・?。

事実KFCは実験農場としての役割は終了したとして、別の経営母体に売却したともいわれるが・・?。



ところで繰り返し述べてきたが、北海道は元々はアイヌの住む地で蝦夷地といわれた。 
江戸期に松前藩が置かれて、これがきっかけで各地に和人が住み着くようになった。 
当時はアイヌとの交易や外国に対する北方警備が主な任務で、所謂、北海道の開拓や開発とは縁遠いものだった。
幕末になって内地国内では大きな時代のウネリ・変革がもたれされていた。 明治維新である。

明治期、版籍奉還、廃藩置県、そして身分制度の変化等に伴なって武士社会は崩壊し特に下級武士はいきなり平民に格下げされ、そして生活面でも苦境に陥った。 
明治中央政府は、これら身分制度によって生じた旧武士達の救済を兼ねて、未開地であった広大な蝦夷地の開拓、開発政策に乗り出したのである。 
先ず、蝦夷地に開拓使(黒田清隆等の特使又は長官、判官)を置き、指令による派遣(※屯田兵)や自由意思による移民政策を奨励し、併せて、北方の防衛(主にロシア)をも兼ねたものだった。

このような状況の中、この八雲町は徳川御三家の一つ「尾張藩」の旧臣達の入植により開祖、開発が行はれたのであった。 
生活に困窮する元武士たちは、旧臣授産(旧臣達の失業者または貧困者に、仕事を与え、生計をたすけること)の道を開こうと藩の支持、協力を仰いで新天地を目指した。 
この地に150万坪の下付を受け、藩土を移住させて拓いたのが「徳川農場」の始まりであり、この町の団体移民の最初であった。 
さらに移住者が増え、1881年(明治14年)には47戸、260余名だったという。 
農場では牧畜も手がけ、混合農業を行い、加えて味噌、醤油の醸造にも着手している。

ちなみに八雲町の名付親は旧尾張藩主「徳川慶勝」卿である。 


古事記に記されている・・、

『 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 
            八重垣作る その八重垣を
 』

(神が天井より天下へ降臨する時に八重の雲が湧き上がり、地上は楽園になろう)
を引用したもの。 
この歌は出雲開祖の神:スサノオノミコトが出雲の地を拓き、宮(出雲大社)を作ったときに詠んだと伝えられている。 
出雲地方(島根県)にも八雲村があり、この八雲町も同様の意味を込めて命名したという。


北海道を旅行すると土産店に「熊の木彫り」の彫刻が売られている。 この熊の彫り物は、ここ八雲町が発祥といわれる。 
同町内にある徳川牧場主・徳川義親が欧州旅行の際、スイスで熊をモデルにした木彫りの民芸品が売られているのを見付け、これを八雲農民の副業に奨励してその生活向上に役立たせようと考え、見本となる木彫り熊を買い求めて帰国したといわれる。 
そして、直後に八雲を訪れた義親はこれらの見本を農民に示し、出来上がった製品はすべて買い上げることとして制作を試みるよう奨励したという。

2005年10月、道内でも有数の酪農地帯である八雲町と、日本海に面した往時はニシンの千石場所として栄えた熊石町が合併し、新しい八雲町が誕生している。
太平洋と日本海の両太洋をを抱く珍しい地域になっている。



森町に入った・・、

山中に「濁川温泉」があり、そこに温泉利用した地熱発電所があるという。 
この発電所は10万世帯分の発電能力を持つといい、地下2,000メートルの熱水や蒸気を利用ししているが、しかしながら、地熱発電は火力に比べ採算が合わないといわれる。 
道内の地熱・熱水地帯は国立公園内がほとんどで、新規の開発にも制限があるといわれ、ここが北海道では最初で最後であるとか。 
思うに、日本は火の国・火山の国である。 
無尽蔵にあるこのエネルギー資源、排出ガスを伴わない環境に優しい、このエネルギーを国家を挙げて有効に利用できないものか・・??。 
この地熱を利用した農家では、トマトや葉菜の等、地熱によるハウス栽培が多くあるという。


森町市街地手前に「鷲の木」という海岸がある。 

時は幕末、慶応4年(明治元年・1868年)、江戸城が開放されて戊辰戦争も幕府軍の敗戦が決定的となり、戦後処理として西軍は榎本武揚が所持する軍艦を接収しようとした。 これをきらった榎本幕府軍2000名が、「開陽丸」を旗艦とする幕府艦隊8隻をしきいて江戸を脱出、出港してしまう。 途中、仙台に立ち寄った後、10月20日に、この地「鷲の木」に上陸しているのである。 
函館戦争の始まりであった。

10月26日に榎本幕府軍は函館・五稜郭を占拠し、松前城・江差を奪取して渡島半島の蝦夷地を手中にして、一時は蝦夷共和国を建国した。 
その後は開陽丸の不慮の沈没事故もあり、西軍は周辺で激戦を繰り返しながら函館周辺を制圧し、土方歳三ら多数の戦死者を出しながら、翌年5月17日榎本武揚は降伏する。
五稜郭が明け渡され、函館戦争を最後に戊辰戦争は終結した。
ちなみに新撰組(2004年、NHK大河ドラマ放映)副隊長で、後に榎本軍の陸軍参謀であった土方は自ら死地へ出陣している。 
因みに、函館戦争で多くの戦死者を出したが、榎本軍の軍幹部の死者は、「土方歳三」たった一人であったという。 残った幹部は全て新政府の要職に付いている。

森町はモリマチと呼ぶ。 道内で「町」は「ちょう」と呼ぶのが殆どであり、「マチ」と呼ぶのはこの森町だけらしい。 因みに、静岡県に、あの「森の石松」の出身地である森町は、同様に「モリマチ」と呼ぶのは周知である。



国道5号線をこのまま進むと、大沼から函館へ出る。
本来、一般の観光客は幹線(国道、鉄道)が走る森から函館へ向うのが普通であろう。 小生の今回の旅の目的は沿岸外周が目的なので、当然国道278方面へ向かう。
鷲の木辺りから海岸沿いの市街を行くと、左側真近に函館本線の「森」駅が在った。

海岸なのに、森とはこれいかに・・?」 

次回は、鹿部、南茅部町



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


.

2010年4月7日水曜日

日本周遊紀行(83)噴火湾 「長万部」

.


日本周遊紀行(83)噴火湾 「長万部」


長万部に至っている・・、「長万部」・・?、「オシャマンベ」と読む。

幼少の頃、親父に新聞記事か何かを見て、「この字なんて呼ぶの・?」、「オシャマンベだよ、北海道の地名で、たぶんアイヌ語だろう」、こんな会話を記憶している。 
長万部は、蝦夷・北海道らしいアイヌ語で面白い呼名だなーと、かねがね思っていたが、当たらずとも遠からずであった。

長万部」は昔,長万部川の河口付近にヒラメが豊富に生息していたため,アイヌ語で「オ・シャマンベ」(ヒラメのいる所)と呼んでいたもの。 これをもって元治元年,箱館奉行が「長万部」と名付けることを命じたらしい。 長万部は「ひらめ」かー・・!!。



長万部は昔から交通の要衝として栄えてきた。
渡島半島の付け根に在り、日本海側の漁場に通じる交通上の要(かなめ)であり、ここから往来するのが最短で便利であった。 

江戸後期~明治初期にかけては黒松内道も完成し、鰊漁場として人々を集めて日本海の寿都(すっつ)へ向け多くの人々が歩いてたという。  当時長万部を巡視に訪れた松浦武四郎(北海道の父・北海道の名付親)の記録にも『山越内は大変な人で、人別改めで日によっては1万人にもおよび、長万部までの海浜は一条の蟻道のごとく黒くなって絶え間なく人が行きあった』と書かれたほどだという。

現在は、道路が小生が通ってきた国道37号と内陸道の国道5号、鉄道が室蘭本線と内陸の函館本線が函館を起点として、この長万部で分岐している。
更に道央自動車道は平成9年に、この長万部を起点として開通している。



長万部町中心街から北西方向の奥約20kmの地点、町民の 「ふるさとの山」、道内岳人にも人気のある長万部岳(972m)が聳える。 東斜面は急峻で山形もよく、高山の風格があるといわれるが・・、山のことではない、温泉のことである。

この長万部岳の東麓・二股川の上流に北海道でも有名な秘湯の一つでもあ「二股ラジウム温泉」がある。温泉の泉質は特異で、炭酸カルシウムが大量に含まれ、それによって巨大な石灰華(石灰の湯の花)ができている。 この石灰華の上に明治時代に開かれという古びた湯治宿がある。 
一軒宿の温泉で周囲は深い原生林に囲まれ、今でも重い病気の治療のために熱心に湯治する人がいるという。 湧出する温泉は純度の高い鉱泉水で炭酸カルシウムが大量に含まれ、その沈殿物である温泉湯華によって雄大な大積層が築かれ、巨大なドームが形成されている。 

この種の温泉湯華は世界中でも珍しく、アメリカの国立イエローストン公園のマンモス温泉郡と二股温泉の二ヶ所のみと云われており、大正9年に東京大学の脇水教授によって初めて科学的に調査研究され、実証されたといいう。

「石灰華」は温泉水に含まれた炭酸石灰成分が湧出によって温度、圧力が下がり沈殿したものといわれ、ドームは非常に巨大で長さ400m、幅200m、厚さ25mもあるという。 濃度の濃い温泉の特質として、浴室はいたるところが赤褐色になっていて手すりの鉄パイプや桶まで湯華がつき、浴槽にも分厚く湯華がついていると。 温泉の色も濃い褐色を呈し、タオルなどもすぐに茶色に染まってしまうとか。 源泉の温度は50度であるが、浴槽温は温めなので湯治向きには最適といえよう。
泉質は含ラジウム炭酸カルシウム泉、結晶の湯の華は各地へ持ち込んで、温泉として利用されているともいう。



長万部からの国道5号は、「噴火湾」を左に見ながら気持ち良い直線道路である。
しかし交通の要所だてあって車の量はさすがに多い、よそ見油断はならぬ・・!、それでも思わず、この海を唄った鳥羽一郎の「北斗船」を口ずさむ。



『北斗船』  鳥羽一郎 唄

みぞれまじりの しぶきを頭から
浴びて乗り出す 噴火湾
海は荒れても 行かねばならぬ
今年六十の お袋さんに
ハワイ旅行が させたくて


内浦湾を別名「噴火湾」というのは、北に有珠山、南にこれから向かう大沼・駒ケ岳、亀田半島先端の恵山の火山群を要しているからとか。 
明治時代に当地を訪れた英国人船長が、湾を取り囲む北海道駒ヶ岳や有珠山などの火山を見て「これはVolcano Bay=噴火湾だ」と語ったことに由来するといわれる。


次回は、八雲、森町


..【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


.

日本周遊紀行(82)伊達 「円空と蝦夷」

.


日本周遊紀行(82)伊達 「円空と蝦夷」



思うに・・、

小生、北国の東北・北海道を巡ってきて気が付くのは、北国はやはり太古の大自然が残されているのが一大特徴であろう。 そしてやはり、文化的な香りが漂う土壌はやや西日本に軍配が上がりそう気がするのである・・??。

実を言うと今時既に「西日本の周遊」を終えていて、やはり感想というか印象に残ったのは歴史、文化の色の濃さであった。 特に著名な神社、仏閣、墓稜、歴史的遺産などの歴史を刻む建築物が大いに目を引いたのものであった。 

北海道にもアイヌ文化、蝦夷文化をはじめ歴史的な寺社など、又、古くは縄文期の遺構、遺跡等・・多く存在しているが、注目度としては西方のほうが、神話や古書を含めた歴史の広さや深さにやや軍配が上がりそうなのである。  


そうした中でも北海道へは何人かの文化人が渡来してきて、それなりの影響を残している。
幕府の役人、探検家として渡来した文化人は伊能忠敬、間宮林蔵、近藤重蔵、松浦武四郎、最上徳内など、商人、船乗りなど商行為のため渡来したのは高田屋嘉平衛、銭屋五兵衛など、又、文芸、絵画、書道、評論などで渡来した文化人は池野大雅、菅江真澄、大原呑響などとされている。

そして「僧侶」として布教のため渡来したのは、「円空」をはじめ木食、文翁、壮海、秀暁など各上人たちがいる。 
お節介のようだが、蝦夷・北海道文化や近代史に興味のある御仁は、これら先駆者といわれる人々のことをより深く調べ・研究することによって、より一層北海道への理解が深まるのではとも思われる。



そんな中、美濃(岐阜県)出身の「円空」が北海道に渡ったのは、江戸初期の寛文5年(1665)であった。 
鉈(なた)一丁を下げての遊行僧・円空は、北辺の地・蝦夷地でも意欲的に作仏活動を続けていて、現代から300年の風雪を経てもなお円空仏は今も人々の信仰を集めているという。

円空上人は寛永9年(1632年)、美濃国(現岐阜県)生まれ、早くから小僧として仏門に入り、やがて寺院を出て窟ごもりや山岳修行をするようになる。 そして美濃国を拠点としながらも修行を重るため全国を行脚し、各地の寺院の住職や民衆たちと交流を深め、随所で「鉈作り」や「木っぱ仏」と呼ばれる仏像を彫刻し、残している。  
円空は、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを分別しながら刻み歩いたようである。

その足跡は、美濃・飛騨・近隣の愛知・滋賀・長野などにとどまらず、近畿・関東・東北そして北海道にまで及んでいる。 元禄8年(1695年)、故郷で64歳で亡くなるまでにその数は何と「12万体」に及んだともいわれ、晩年の作は他の追随を許さない境地に達し、日本の彫刻史上確固たる地位を占めているといわれる。

寛文6年(1663年)に流浪の身を咎められ、津軽藩の弘前城下からも追われて松前に渡ったことは知られてる。 その後、道南の渡島半島の各地を廻り、広尾や釧路の近くに至るまで多くの仏像を彫っている。
円空はその生涯の多くの時間を旅とその途上での仏像の制作に費やした人のようだが、なかでも30代半ばの蝦夷地(北海道)への困難な旅の目的は、有珠善光寺や太田権現という道南の古刹霊場に触れる事だったようで、彫り上げたその殆どの仏像は洞窟の中などに祀られているという。

因みに、「大田権現」は渡島半島西部・瀬棚町大成区大田にある日本海に面した社宮で、古く平安期の頃から祭られていて現在は「太田神社」とも呼ばれている。 参道は山道で急傾斜の崖を登り、更に、百数十段の急な石段を鎖・ロープにつかまって登る難所で、鉄ばしごやロープを伝う急な山道や絶壁を進むこと約40分、拝殿に「猿田彦命」が祀られている。 
太田山(485m)全体をご神体とする山岳信仰の場でもあり本殿は、太田湾を一望する山頂直下の切り立ったがけの岩穴にある。 
当初は庶民が地蔵尊を祀ったのが始まりらしく、その後「円空」等によって観音像が祀られた円空仏堂もあるという。 航海の守り神、霊神の加護として信仰されている。


円空が釧路まで足を延ばしたかは定かではないらしいが、釧路の厳島神社に円空の彫った観音仏が祀ってあり、日本で最も北東の地にある円空仏であるという。

円空が渡った江戸の初期には、松前藩によるアイヌに対する支配が浸透しつつあった時期だが、当時、円空の彫った観音像をアイヌの人たちが「アカンカムイ」として拝んでいたといわれる。 
円空は、アイヌの人たちの居住域をも旅しているので、アイヌの世話になることも多く、円空が彫った像がアイヌのカムイ(神)として祀られ、拝まれたこともあったと想像できるのである。



円空が仏像に「くすりのたけごんげん」などと銘打ったことについて・・、

円空が仏を彫るにあたって、背銘にそれぞれ「いわうのたけのごんげん」、「くすりのたけごんげん」、「たろまえごんげん」などと記されてあるという。
当時は蝦夷地といえど、遊行者でも自由に旅をすることはできなかった、そこで背銘にその名を刻し、仏が安置されるべき場所を書いたともいわれる。 
因みに、「いわうのたけ」は豊浦町礼文華の「いわう岳権現」(岩屋観音)、「たろまえ」とは苫小牧市高岳の「樽前岳権現」(樽前神社)であり、「うすおくのいん小島」は有珠善光寺・奥の院小島(洞爺湖中島)であり、そして「くすりのたの・・、」とは釧路市米町「久寿里岳権現」(厳島神社:アイヌの聖地といわれる)であることは明白であるという。

今の釧路・厳島神社は元々は阿寒大神、つまり厳島神社の原型といわれる円空仏がまつられていたという。 
釧路市史によると、『阿寒大神は、往古よりアイヌ人が「アカンカムイ」(アイヌの神)として祭祀してあったものと伝えられ、むかしは漁船が入港する時、社殿が見える所までくると必ず船を幾度か廻し豊漁と航海の安全を祈念し、また感謝して帰港したものといわれる・』と記している。

阿寒大神(アカンカムイ)は、「阿寒岳を霊峰とする山神さまでアイヌの神」とされているが、円空の「くすりのたけごんげん」が、釧路=久寿里(くすり)地方の霊峰の神に捧げられたことでアイヌにも深く受容されたといい、後には厳島神社が勧進されて海の神としても信奉されている。 
釧路地方のアイヌは松前藩にとっては大事な漁業労働者であり、彼らはアカンカムイを祭祀するが、和人の弁天(厳島神)や稲荷神などの海や漁業の神として、併せて祭祀していたという。 厳島神社は無論、芸州・宮島の厳島神社のことで「海の神」といわれ、航海安全と豊漁祈願のために本来、和人が分霊、勧請したものである。 

現在の釧路・厳島神社の祭神は宗像三神の市杵島姫大神(イチキシマヒメ)であるが、相殿として阿寒大神(アイヌの神)をはじめ、他に稲荷、金比羅などが祀ってある、何れも海や海運の守護神である。 久寿里(くすり)とは「釧路」の語源となったもので、原名アイヌ語のクシル、クシ「越える」 ル「路」からなり、「ここより各地へ道が通じていった」の意味とされる。

次回は、長万部 
尚、洞爺湖や有珠山、昭和新山は「温泉と観光」の項で述べています。



.【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


.

2010年4月5日月曜日

日本周遊紀行(82)伊達 「伊達家と有珠善光寺」

.


日本周遊紀行(82)伊達 「伊達家と有珠善光寺」


北海道南部の伊達市は道内でも最も温暖な地といわれ、「北の湘南」とも呼ばれる。
伊達市の「伊達」は、あの奥州の勇・伊達家から由来し、伊達邦成(くにしげ)がこの地を開拓したことから付けられたものという。

伊達」を開いた伊達邦成(仙台藩一門、宮城・亘理地方)は伊達家の15代目当主である。 邦成は亘理(わたり: 仙台より南方25kmの地点、仙台城の南の守備要の位置にある、現・亘理町)の殿様であったが、維新の版籍奉還や廃藩置県の布令で新しい世の中になり、大名たちの土地は国の物となった。 
また、家来の平武士達は平民となり、一部の人々は生活が困難になった。 その為、家老の田村顕允(あきまさ)を筆頭に北海道で新しい暮らしをしようと考え、 明治3年3月、邦成は大工・人夫などあわせて250人々が先ず室蘭港に上陸した。 
その後、モンベツ(現、伊達市:JR駅名は伊達紋別)へ行って荒れた土地に入り、木を切り倒し、笹やぶを切り開いて粗末な小屋を建てて生活を始めた。 移住は明治14年まで9回にわたり行われ、延べ2700人余りが入植したという。

因みに、伊達を開拓した人たちは、国からの募集移民とは違い、食べ物・交通費・農具など自前でお金を出し合い、開拓したともいわれる。
温暖な地(平均気温10度上)の伊達は、道内で早くも米作りが盛んに行われ、又,内浦湾(噴火湾)では海面が黒くなるほど魚類が豊富であったという。これらが幸いして伊達家の人々は次第に、この地に土着していった。

ところで、昨今同じ道内で、石炭の街として有名であった「夕張市」が財政破綻して、四苦八苦している様子が報じられ、話題にもなっている。
現在、我が国自体の財政がきわめて厳しい状況にあるが、(国の借金は平成17年度で凡そ500兆円:国債発行額、国民総員の一人あたり400万円になる。
主要先進国でも最悪国といわれる)危機的な財政状況にあるのは地方財政も例外ではない、特に、財政基盤の弱い地方自治体の「家計」は火の車になっているという。
地方財政とは、都道府県・市町村の財政の総称で、特に財政力の弱い市町村が多いといわれる。 

こんな中、当地、「伊達市」は極めて財政は健全で、毎年の経常収支は道内の市町村でも筆頭クラスの黒字を計上していると言われる。 伊達市は全国で初めてのゴミの有料化を実施したことから、環境への取り組みにも優れている市として知られ、高齢者や障害者手当てを積極的に受け入れ、新しい福祉の考え方を模索・実践している(市民参加型の地方行政モデル)。
又、2005年には、小泉内閣の推進する構造改革の一環である都市再生のモデル都市としても紹介されてる。

国道37号と道央道伊達ICを結ぶ途中に「伊達開拓記念館」がある。
開祖・邦成公ゆかりの家、屋敷、史料、美術品等の貴重の品々が展示・所蔵してあり、周辺は緑豊かな広い庭園で、四季折々の趣が有り市民の憩いの場所になっている。 
伊達市は、伊達・仙台藩の藩祖:伊達政宗の血脈を汲む土地柄であるが、正宗は御存じ戦国の雄として名を成し、「秀吉・家康を翻弄した男」といわれる。
その伊達政宗の国家経営が伊達家及び諸侯に浸透し、幕藩体制においても最優良藩であったといわれる。
各種事業での藩興しの傍ら、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保したともいわれる。 一説には江戸中期には300万石を超えていたとも。伊達藩を祖としている伊達市は、脈々とその手腕を受け継いでいるのであろう。

合併特例法に基づく市町村合併で、伊達市は山間部の大滝村と合併することが決定しているという(壮瞥町を間に挟むため飛地合併となる)。 当初 1市1町1村(伊達市・壮瞥町・大滝村)が合併の協議会を開催していたが、2004年12月に一旦解散している。 その後、 1市1村(伊達市・大滝村)で協議会を再開し、2005年3月に合意・調印され、2006年3月に実施されるという。 
飛地の合併というのは行政区域がバラバラで、行政運営や都市計画上など、やり難い面も多いと思うが・・?。 

因みに、道内では昨日通過した「日高町」が同様の飛地合併になっている。 
2006年3月に新設合併される旧日高町・門別町の2町で新たに「日高町」となる、間には、平取町が入っている。 
尚、ほぼ同時期に後から誕生する「新ひだか町」(静内町と三石町とが合併)とは関係ないらしい。



伊達の市街地を抜けると広々とした見通しの良い丘陵地が広がっている。 
遠くの山並みは有珠山であろうか、手前を傍若無人に道央自動車道が横切っていて景観を損なっているが。
国道37号線は室蘭本線と並行して走っているが、この路線を跨いだ海岸寄りが「有珠」の駅前だった。 有珠は、こじんまりした町並みで、駅舎はチョット洒落た洋風がかった左右対称の建物であった。ただ、駅前は人の姿は見られず閑散としている。

有珠・ウスはアイヌ語の「ウシ」(湾)からでたものらしい、そう言えばすぐ近くに有珠湾の入り江があって、湾を取り囲むように町並みが立ち並んでいるようである。
国道をこのまま進めると、「有珠・善光寺」という古刹寺院があるらしく、長野の白馬に別宅を持つ小生にとって「善光寺」というのは長野の「善光寺」を思い起こし、懐かしい名前なのでチョット寄り道してみた。


国の史跡に指定されている茅葺屋根の古刹・「有珠善光寺」本堂

茅ぶき寄せ棟造りの本堂をはじめ、重厚な建物が江戸時代のたたずまいを伝えている。
近年を含め江戸期の二度の有珠山噴火からも難を逃れてほぼ原型をとどめているという。その本堂伽藍もさることながら、庭園の素晴らしさ広大さに舌を巻く。 

有珠善光寺」は大洋・噴火湾に面して建っている。
当寺院は、徳川幕府から「蝦夷三官寺」(厚岸町の国泰寺、様似町の等じゅ院)なる指定をされているという。 根本堂の歴史は古く平安初期、比叡山の僧・慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し開基したと伝えられている。
江戸の芝・増上寺の末寺で総本山は京都・知恩院ということで浄土宗のお寺であり、長野の善光寺とは直接の関係はなさそうである。 

因みに長野の善光寺は、仏教伝来(538年)とほぼ同時に創建されたと言われる由緒あるお寺で、従って仏教が各宗派に分かれる以前のものであり、宗派は持たない。
つまり、宗派における付属の寺や末寺は無かったのである。

5万平方米にも及ぶという庭園は、古くから桜の名所として知られ、昭和初め頃までは有珠駅前から寺まで、数キロにわたって桜並木が続いていたらしい。(その多くは戦後の混乱期に燃料として伐採されてしまったらしい) 
花見は庶民の数少ない娯楽のひとつで、季節になると「桜列車」も出るほどの賑わいだったという。 もちろん、今も境内に咲く桜を見に多くの観光客が足を運ぶが。 
境内にある「有珠郷土館」には、釈迦如来大仏(道指定文化財)、円空上人の鉈作りの観音菩薩(同)などの文化財・宝物が数多く展示されている。

その「円空上人」は、全国各地を放浪して数多くの鉈作りの仏像を残し、日本彫刻史上に特異な地位を築いた人物として知られる。(登別・地獄谷の項で述べる) 円空は、善光寺を再興し本尊ほか一体を奉納し、また傍らの小祠にも三体を奉納したといわれる。
その前後に有珠山に登り、眼下の洞爺湖に浮かぶ「中島」を善光寺・奥の院と定め、あるいは湖中の中島(現在の観音島)に渡ったあと、善光寺・円空の彫像を納めたらしい。

次回も伊達市「円空と蝦夷」



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


.

日本周遊紀行(81)白老 「アイヌ文学とイヨマンテ」

.



日本周遊紀行(81)白老 「アイヌ文学とイヨマンテ」


前回に引続いてアイヌ文化の一端であるが・・、

アイヌは文字を持たなかった・・!!」、 その意味合いで好例がある。 
ユーカラ」という言語、アイヌ語をご存知の方も多いと思われるが、ユーカラ(Yukar)とは「物真似をすると」いう意味で、アイヌに伝承・口承されてきた叙事詩といわれる物語文学の一つである。 「孤児として育った少年が両親の仇を討つ物語や許嫁(いいなずけ)の奪還のため敵と戦う・・、」という戦いの数々の物語で広義には主に女性や自然神(カムイ)を主人公とする叙事詩(民族その他の社会集団の歴史的事件、特に英雄の事跡を叙述する作品)のことである。

アイヌの人々が文字を持たないアイヌ語によって、自然の神々の神話や英雄の伝説を口伝えの言葉による豊かな表現で語り伝えてきた。 しかし、アイヌ語・アイヌ文化の衰退とともに、「ユーカラ」をはじめとする口承文芸の語り手も次第に少なくなっていったという。 
ただ近年アイヌ語・アイヌ文化の復興運動の中で、ユーカラをはじめとする口承文芸を習得しようとする気運もたかまり、研究や学問によって新しい「語り手」も育ってきているという。

「ユーカラ」を和人世界に紹介したのは言語・国語学者の金田一京助氏であり、そして、最大の伝承者はアイヌの「金成まつ」である。 
金成まつは、若い頃習い覚えた「ローマ字」で妹と永年手紙のやりとりをしており、日本語も堪能であったという。 「金成まつ」がユーカラを書きだすのは、先ず前人の書いたものを見習い、暗誦しているものを思いつくまま自由に書き流したもので、ローマ字を使って自分の言葉を記録したものである。 
これに、金田一氏が「訳と注」を付けて出版したものである。

それは、15年以上かけ70余冊、実に1万7千ページに及ぶ堂々たるアイヌ文学の巨冊が出来上がったのである。 金成まつはアイヌ名・イメカヌといい、執筆したのは晩年の54歳から70歳の期間であったといわれる。  彼女はクリスチャンで日高・平取の教会に勤務し、その後、35歳の頃から旭川郊外の近文(ちかぶみ:地名)で伝道に従事しながら、大正7年にアイヌ語の調査に来た金田一氏と出会っている。 
氏は、金成まつや妹の家族と親交をもちながら共同作業のような形で長期にわたり研究、執筆を続け、遂にノート17、000ページにおよぶ大著を完成するに至る。 金田一京助氏は大量のアイヌ文学記録化の功績が認められ、紫綬褒章を下賜されている。
同時に、「ユーカラ」は無形文化財に指定されている。

金田一氏が訳・注を付けて全7巻の「金成まつ・ユーカラ集」が三省堂から出版されている。



先にも記したが、アイヌの民族文化に「イヨマンテ」というのが有る。 熊の霊送りやお祝いのときに踊るもので神々への感謝の意味が込められている祭事である。 
熊猟で成獣を仕留めた際に残された仔熊を人里へ連れ帰り、1~2年飼育した後、盛大な儀式を執り行って親元である神の国に「送る」儀式である。 この際「送る」とは、実際には「殺す」という行為である。
狩猟を主な生業の一つとしていたアイヌにとって熊は最も位の高い神の一つであり、熊の霊送り=イヨマンテはアイヌ民族の最大の儀式であると同時に、アイヌ文化の核心でもあるという。 
江戸期の頃までは、全道の各地に散在するコタンで盛大な「イヨマンテ」が行われていた。
だが、明治以降の同化政策によってアイヌの生活文化が急激な変容を受け、言語をはじ多くの習俗が現実の生活から遊離していったように、年間の最大の儀式であったイヨマンテも次第に行われることが少なくなってきたという。



白老町であるが・・、

この地は日本人が入植するはるか以前から、アイヌコタン(アイヌの大集落)があった地域であり、古文書にもいくつかのコタン名が記載されており、現在でもアイヌ人の血を引く人たちが多く住んでいるという。

白老町の観光の一端として、観光客の人々に対し有志らがアイヌ民族の解説をしたり伝統芸能を披露したりして、それら文化的観光事業として時折、「イヨマンテ」が古来通りに行われていたといわれる。 
しかし、戦後に至ると、こうした儀式そのものも殆ど行われなくなり、以前のようにコタンをあげて実施していたイヨマンテは白老町でも昭和29年の町制施行記念の行事として盛大に行われたのが最後であったという。 
「イヨマンテ」は国の重要無形民族文化財に指定されている。


ところでアイヌの食文化の中での排泄行為、つまり「トイレ」の事についてであるが・・、
昔のアイヌ文化には便所は無く、一定の場所で用を足すという習慣はなかったという。 
アイヌ語で便所のことを「アシンル(asin-ru)」といい、「新しい路」という意味があるそうで、森の中の方々で用を済ませたという。 
しかし、近年になって倉の脇にあるゴミ捨場のそば等一定の場所で「用を済ませる」、つまり便所としての用途が定着したようで、それらの資料も残っているという。
この便所については、もう一つの違う使われ方がされたとも伝えられる。 それは熊のお仕置き場としてで・・、熊は神としてアイヌの間では大事に扱われてきたが、時として人を襲い噛み殺した場合など首をはねて、この便所脇に首を吊るし「人間を殺すと汚物をぶっかけるぞ」という、他の熊への見せしめだったそうである。


『イヨマンテの夜』伊藤久雄唄 (昭和24年)

アホイヤァーーーーー 「イヨマンテ」
熊祭(イヨマンテ) 燃えろかがり火
ああ 満月よ
今宵 熊祭 踊ろう メノコよ
タムタム 太鼓が鳴る
熱き唇(クチビル) われに寄せてよ
ああ ーーーー ーーーー ーーーー
あああ ーーー イヨマンテ


次回は仙台(伊達)縁の「伊達市
(尚、登別は後編の「温泉と観光」の項に記載します)


【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


.

日本周遊紀行(81)白老 「アイヌ文化」

.


日本周遊紀行(81)白老 「アイヌ文化」



苫小牧の市街地を抜けると国道は36号線となって再び海岸沿いを走りながら、間もなく室蘭本線と真近に並行して、白老町(しらおい)に至る。 

都市対抗野球で大昭和製紙が北海道(白老町)の代表として、出場していたので、その名称は承知しているが、一般に白老町は登別市、苫小牧市に挟まれ、存在感がやや薄いようであるが・・?。
登別は温泉の街、苫小牧は港湾都市、紙の街(新聞紙の生産は日本一)として全国的にもある程度の知名度があるが、白老はこれに比して地味なのは仕方がない。
白老町に日本人が始めて入植したのは幕末の頃、仙台藩がこの地に北方警備のため陣屋を建設し入植している、これが白老町の開祖と言われ、町内には仙台藩の陣屋史跡や資料館も在る。



「白老町」はアイヌの町である。



この地には和人(日本人)が入植する遥か以前から、アイヌコタン(アイヌ人集落)があり、現在でもアイヌ人の血を引く人たちが多く住んでいるらしい。 
室蘭本線に「白老」という駅がある。
駅の近くには「ポロト湖」が広がり、その湖畔にアイヌの人々が生活していた「ポロトコタン」が在って、その中に日本で唯一の「アイヌ民族博物館」がある。 
「ポロトコタン」は「ポロ(大きな)ト(湖)コタン(村)」のことで「大きな湖のほとりの村」という意味になる。コタンの入口には大きい像(コタンコルクルの像:部落の首長)が出迎え、北海道犬やヒグマの檻、アイヌの復元住居(チセ)などがある。 
チセ(アイヌ語で家)にて、アイヌ民族の楽器「ムックリ」の演奏やアイヌ民族舞踊の「イオマンテリムセ」の鑑賞をしたり、アイヌ文化の説明・紹介などをしているという。



アイヌは蝦夷地(北海道)の先住民であるが、江戸期頃より和人が各所に入植し、勢力を拡大するに従って葛藤を重ねながらも共存するようになる。 その後、明治政府の同和政策にて渾然一体となるか或いは衰退し、純粋なアイヌは近年では伝統文化を伝える見世物に成ってしまったようである。
思えばアイヌ民族は、「アメリカインディアン」やオーストラリアの先住民である「アボリジニ」などと同じ運命を辿ったことになるのだろうか・・?。 



「アイヌ」の事であるが・・、 

アイヌとは、「人、人間」を意味する。 
「アイヌ」=「人間」、つまり、アイヌ人という言い方は意味的にはおかしいかもしれない。アイヌ民族は「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなし、日々の生活のなかで祈り、さまざまな儀礼を行う。 
それらの神々には火や水、風、雷といった自然神、クマ、キツネ、シマフクロウ、シャチといった動物神、トリカブト、キノコ、ヨモギといった植物神、 舟、家財道具といった物神、更には家を守る神、山の神、湖の神などがある。 それらの神に対して人間のことを「アイヌ」と呼ぶという。

アイヌ民族とよく言われるが、広い意味での民族としての分布があるようで、千島列島北端の占守島(シュムシュ島)からウルップ島までを「千島アイヌ民族」、 樺太(北蝦夷地)の南半分を「樺太アイヌ民族」、 そして日本固有の領土である北方四島を含む北海道から現在の青森県の一部を「北海道アイヌ民族」と分類出来るという。そして、これら分散しているアイヌ民族の文化圏をアイヌモシリ=「人間の国」(アイヌ=人間 モ=静かな シリ=土地)、で「アイヌ民族の国土」と呼んでいた。

又、江戸期における北海道、つまり蝦夷地を地理的に分類すると松前からみて、東の方を東蝦夷地、西の方を西蝦夷地とよんでいる。 詳しくは、渡島半島・八雲町あたりから内浦湾(噴火湾)、襟裳岬を経て知床岬にいたる太平洋岸に面した地域を指して東蝦夷地といい、これに対して熊石町以北、瀬棚、寿都、増毛、宗谷を経て知床岬にいたる日本海、オホーツク海岸の地域を西蝦夷地といっている。 
因みに、八雲町から熊石を結ぶ線から南の間を和人地と呼んでいたようである。



アイヌ人と琉球人は面相、体型、そして体質までもが似ているといわれる。 
元々、琉球から蝦夷まで古代の和人(北方モンゴロイド系人・・?)は同一人物系だったが。その後、大陸や半島からの伝来文化の影響を強く受けて急進化してきたのが和人(アイヌ以外の人々)で、ほとんど影響を受けずに小進化してきたのがアイヌと琉球人であるといわれる。


アイヌの歴史は、大和民族程の歴史ほど鮮明ではない・・!
 
それはアイヌ民族は元来文字をもっていなかったので物語や伝説、体験談や人生の教訓などの全てを口承(口伝え)によって語り継いできた、つまり文書による記録が存在しなかったためと言われる。
アイヌ民族は古来から固有の文字を持ってなかった・・!、
尤も日本のカタカナやひらがなは漢字から変化したものであり、漢字はお隣の中国から伝来したものを長いこと使ってきたもので、いわば借り物なのである。


アイヌ民族は、なぜ文字を使わなかったか・・?、

一般に、普通の人々が普通の生活をするのに文字などは必要では無いのであって、文字使用の目的、手段は主として記録として残しておく事の必要性から生じたといわれる。 それは、国家なり、支配者一族が指示命令を伝達したり、事績(歴史)の記録を残すことが、必要とされた文字記号の使用法だったと考えらるという。 
アイヌ民族にとっては社会構成上の段階的組織などはなく、従って文字の必要がなかったと、ある専門家はいう。 隣地(隣国)に和人がいて文字を使ってはいたが、江戸期の頃まではお互いに、特に文化面では干渉する事もなく、従って必要に迫られて和人から文字を吸収する必要がなかった。 
しかし、社会が急激に進歩し、明治時代になってアイヌの人々が必要と思われて日本語の文字を学べるようになった時には、今度は日本人への同化政策(アイヌの日本人化)がとられ、文字はおろかアイヌ語も次第に日常生活で使われなくなってしまった。



元々、物を書くということは「忘れないために書く」、従って「書くと忘れる」という対極の意味にもなり、書くと安心して忘れてしまいがちなのである。 
アイヌの熟年たちの話を聞くと記憶力、博識なことに驚かされるという。 必死に覚えた知識は頭の中に入っていて、何時でも取り出せる仕組みになっていたらしい。 
現代は情報化社会というけれど、我々は如何ほどの知識を蓄えているのか・・?、アイヌの知識人と呼ばれる人々はパソコンのような頭脳を持っていたのかも知れない。


次回は、引続き「アイヌの事」



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


.

2010年4月4日日曜日

日本周遊紀行(78)日高地方 「静内の開拓期」

.


日本周遊紀行(78)日高地方 「静内の開拓期」


北海道・静内と四国・阿波・・?、

静内は江戸末期から明治初頭にかけて一種の過渡期を向かえる、それはアイヌ文化の終焉期、そして和人達による開拓期でもあった。



話は、突然であるが南国・阿波の徳島へ飛びます。

戦国時代、信長の後を継いだ豊臣秀吉によって天下はほぼ治まった。 
秀吉の重臣であった蜂須賀氏は、四国攻めに功が有ったとして阿波の国・一国を与えられる。 ご承知秀吉と蜂須賀の関係は、彼が幼名「日吉」の頃矢作川で出会って以来、終生子分になることを誓っていた。(小六、太閤記) 

その蜂須賀小六の重臣に稲田氏がいた。 
重臣とはいっても小六とは義兄弟の仲であり二人はともに豊臣秀吉のために戦い大いなる功績を残している。 蜂須賀氏が阿波16万石になったとき、城代家老であった稲田氏は1万4千石で淡路・洲本城を預かっている。 
稲田家は瀬戸内を中心に豊かな経済力をもち、また貴族や公卿とも縁組をするなど、その地位を高めていった。 一方、蜂須賀家は徳川家と縁組を持ち、松平家を名のるほどになる。

江戸末期、尊皇攘夷の風が吹く中、稲田家とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。 又、蜂須賀家は徳川近親であることから公武合体の中立を保つ。 
稲田家は維新戦争の際には官軍として多数の人員を派遣し、明治維新には大きな功績をのこしたはずであった。藩として方向性の異なる両家は、次第に確執を生ずるようになる。


明治政府は明治2年、「版籍奉還」、「廃藩置県」を実施した。 
特に武士の身分を士族と卒族(平民)に分け、俸禄も減じられた。 
稲田家は元々蜂須賀家の家臣だった為その減額は甚だしく、家臣は士族への編入を嘆願するとともに稲田家の分藩独立運動をおこした。 堪りかねて蜂須賀家の一部過激派が決起し、鉄砲、大砲を持ち込み洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃するという一大紛争となった。これに対し稲田側は一切無抵抗であったといわれ・・、被害は自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り焼き払われた屋敷25棟にのぼったという。

明治政府はこの事件が一部の激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で激派を煽動していたりはしなかったか調査をし、仲裁に乗り出して解決に至った。 
その判決・決済は両者共に厳しいものとなった。 

徳島藩側主謀者10人に切腹、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に及んだ。(武士社会に於ける、最後の切腹事件といわれる) 又、稲田家側は朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の「静内郡と色丹島」(後に返上、現北方領土)への移住・開拓が申し渡された。 
勤皇党で明治維新に大いに貢献した稲田家にとっても過酷な内容であった、が見方によっては両家の怨恨を無くする為に、お互いを遠ざけた結果とも云える。
この事件を「庚午事変」((こうごじへん:稲田騒動)と称してる。


明治3年、版籍奉還★(後の廃藩置県★につながる)がもとで起こった庚午事変の結果、北海道静内郡と色丹島の開拓を命ぜられた稲田邦植と137戸、546人の旧家臣たちは、三隻の汽船に分乗し淡路・洲本港を出発する。 そして春まだ浅い北海道・静内の海岸に到着した。  
ここに静内町の開拓の歴史の第一歩が刻まれたのである。  



この静内町の開拓の歴史、稲田家家臣の壮絶な開拓者魂を主題にした映画「北の零年」が本年(2005年)製作された。 これは製作費15億円を投じて長期ロケを敢行、豪華キャストに加えて延べ7000人のエキストラなど、すべてが近年の日本映画の常識を打ち破る文字通りの「大作」と言われる。 
キャスト吉永小百合、渡辺兼、豊川悦司、柳葉敏郎、石原さとみ、香川照之、石田ゆり子他、名優多数、来初春、2005年1月大公開された。

又、船山馨の時代小説「お登勢」はこの時代、ここ稲田藩を背景に描いている。そのNHK金曜時代劇で沢口靖子主演で本年秋TV放映された。

 

★「版籍奉還」(はんせきほうかん)

1869年(明治2)に明治政府によって行われた地方制度改革で、薩摩・長州など多くの大名が領土(版)、領民(籍)を朝廷(天皇を中心とした中央政府)に奉還したもの。 これにより形式上は中央集権の国家体制となったが、知藩事には旧来の藩主、大名が任命されたので実質的にはまだ不十分であった。 そのきっかけを作ったのが幕末動乱期の徳川慶喜で、将軍としての地位や徳川領を投げ捨て(実際は所領は取り上げられる)大政奉還を断行した。 この時を以って徳川幕府の各藩支配(幕藩体制)が終了したのであり、武士の統領である徳川家が先ず「版籍奉還」を行った一種の事例といえる。 その後は先ず薩摩・長州・土佐・肥前の各藩の藩主の連名によって「版籍」が「奉還」されることになり、他の藩もそれに倣って一斉に版籍奉還が行われた。 明治2年ことであった。



★「廃藩置県」(はいはんちけん)

明治維新後の1871年(明治4)に明治政府がそれまでの藩を完全に廃止し、地方統治を中央管下の府や県に一本化した政治改革である。 廃藩置県の主目的は年貢を新政府にて取り纏め納める、即ち中央集権を確立して「国家財政」の安定化を図る。 又、「国家徴兵制」を確立するもので、軍制を敷くために各藩から派遣された藩士が国家の兵士となり、国としての軍隊を構成することにあった。 これは富国強兵もさることながら、全国約200万人に上るとも言われる藩士の解雇と雇用にも関係するものであった。 藩が廃された結果、当初、地方は3府302県となり,知藩事に代わって府知事・県令(のちの県知事)が中央から派遣された。 更に府県を統合して3府72県とした。(更に後の1890年には、ほぼ現在の3府43県としている)



国道235号線の静内市街地より道道71(平取静内線)で内陸へ5kmほどいった所に静内の名所「二十間道路」が在る。 日高山地に向かって直線凡そ7km、両側にわたってエゾヤマザクラが約一万本咲き誇る。
ここは道内では松前公園に次ぐ桜の名所である。

大正5年、御料牧場を視察するための皇族方を迎えるために3年の歳月をかけて近隣の山からエゾヤマザクラをこの道路の脇に移植したのが始まりで、約1万本の桜が植えられたこの桜並木は、直線約7kmにわたる日本一の桜並木である。
幅が二十間(約36m)あるので「二十間道路桜並木」と呼ばれるようになったという。 ここを通り抜けた前方に新冠牧場の広大な敷地が広がる。 同牧場の前身は「新冠御料牧場」で宮中御料馬の生産、北海道固有の野馬「道産子」の改良を担った。

日露戦争下では陸軍の求めに応じて、多数の軍馬を拠出した実績などもある。 
当然、皇族や文武の高官の訪問も頻繁になる、その為、行啓道路として造成されたのが二十間道路である。 
そんな中に「龍雲閣」がある、牧草地帯の一角にぽつんとたたずむ御殿造りの木造建築物は、賓客の宿舎施設として1909年(明治42年)に建設されたもの。 桜の開花時期に一般公開されている。



馬をやらない小生が勝手に選んだ静内産名馬=タニノムーティエ、ウイニングチケット、トウショウボーイ、サクラローレル等々。  



静内は、2003年1月頃から新冠町、三石町と合併を協議し、当初は市に昇格予定で新市名称は「ひだか市」に決定していたが、その後新冠町から合併の時期の延期申し入れがあり、2004年12月7日をもって3町による合併協議は休止される事になった。 その後、三石町と新たに協議会を設置し、新町名を「新ひだか町」、合併期日を2006年3月31日とすることで合意している。



次回は日高・「新冠・門別



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


.

日本周遊紀行(80)苫小牧 「駒大苫小牧高」(2)

.


日本周遊紀行(80)苫小牧 「駒大苫小牧高」(2)



高校野球ファンの小生が「歓喜」した年・・!、

この年(2,006年)、駒大苫小牧は中京商(現・中京大中京)以来の73年ぶり3連覇を目指した。
3回戦、準々決勝と粘りの逆転勝ちをして観客を魅了し、決勝戦は駒大苫小牧のエース・田中将大投手と早実のエース・斎藤佑樹投手の投手戦となった。 
そして、20日の試合では延長15回引き分けで決着がず翌日の決勝再試合では、この試合で4連投となった早実斎藤投手の前に3対4で惜敗する。 
駒大苫小牧の3連覇はならなかったが。 しかし、北国のチームが3年連続決勝進出はまさに快挙であり、そしてこの決勝戦は歴史に残る一戦ともなった。 田中将大投手は試合後、「全力でやったので悔いはないし、涙も出てこなかった。」と語っている。

ちなみに夏の甲子園の決勝戦で、引き分け再試合になったのは1969年(昭和44年)大会の松山商(愛媛県)と三沢(青森県)の決勝戦以来・37年振り2回目である。 
この時は延長18回制だったので15回に縮小されてからは初めての決勝引分け再試合であるが、あの時は松山商が再試合で勝利を収めて優勝している。(詳細は「西日本編・松山市」の項で記す予定 ) 

又、駒大苫小牧は2005年夏の南北海道大会支部予選1回戦から2006年夏の甲子園準決勝・智弁和歌山戦まで「公式戦48連勝」を記録していたという。
史上2校目の3連覇がかかった駒大苫小牧(南北海道)と27回目出場で初優勝を目指した早稲田実(西東京)が対戦した試合は、延長15回を終えて1―1で譲らず規定により引き分け再試合となった。本格派右腕のエース、粘り強い打線など決勝で対戦する両校は似た部分が多く、チーム力も互角だが、3年連続決勝進出の経験と日程面での有利さで駒大苫小牧が頂点に近いと見ていた。 

ここまで4試合を戦った駒大苫小牧に対し早稲田実は5試合、先発が予想される駒大苫小牧の田中が2連投に対し早稲田実の斎藤は3連投になる。 さらに駒大苫小牧にとっては、田中が復調の兆しを見せたことは追い風でもあった。
しかし、結果は両エースは譲らず翌日再試合になる。

高校野球FanでTV観戦士の小生は、試合開始を今や遅しと待ち構えていた、それにしても凄い試合であった。 
田中(先発は菊池)と斎藤の投げ合いは予想通りであり、両チームともチャンスは作るが、あと1本が出ない、7回まで0対0、8回に両チームとも1点を入れた時には、これで試合は動くと想定したが更に投手戦が続く、両投手による力のこもった投球に酔いしれて気が付いたら夕刻になっていた。1点をめぐる攻防は更に延々と繰り広げられ固唾を呑んで見ている間に、こうなれば是非引き分け再試合になって欲しいと願うばかりになっていたが、遂にそれが実現し明日へともつれ込んだのであった。 甲子園らしい炎天下、野球の醍醐味を堪能させてくれた1日であり、又、明日1日楽しみを延ばしてくれたのは有難かった。 

次の日、37年ぶりの決勝再試合は大会を一層盛り上げたといってよい。 
TV、新聞は大見出しで大騒ぎをし、野球が低迷すると言われる中、野球Fanならずとも興味を注いだ。 特に、早実の斉藤投手がマウンドで汗を拭くシーンが話題となり、「青いハンカチ王子」といって女性連がもてはやし、久しぶりに「甲子園のアイドル」が出現したのであった。

さて、再戦もやはり投手戦模様で推移したようで、夏の大会は、猛暑の中でエース投手が連投に次ぐ連投で投げ抜くのが常であり、再度の決勝戦を見た限りでは田中投手は調子が万全でなく、むしろ斎藤投手のタフさばかりが際立ったようで、最後は両エースの微妙な調子の差が明暗を分けたようである。そして残念ながら駒大苫小牧高の三連覇はならなかったが、その戦いぶりと結果は多くの人々に、それ以上の強烈な印象を与えた。


平成18年度、仙台・楽天イーグルスに高校生ドラフト一巡目で入団した田中将大投手、甲子園決勝では球史に残る投げ合いを演じた斎藤投手は早稲田大へ其々進路が決まったようだ。 
田中にとっては、何かと斎藤と比較されたことが「嫌でした」と本音を吐露し、斎藤には夏の決勝、国体と敗れたがプロでは後れを取るつもりはない。 斎藤は4年後のプロ入りを視野に入れてるが「年俸とか、成績面とかで引き離していきたい」と言い切った。
勝利の女神は早実にほほ笑んだけれど、北日本勢が力をつけていることを全国に印象づけた。

因みに、1回戦チームと揶揄され、ほとんどの選手を地元出身で固めて山形県勢として初めて準々決勝まで進み、早実を終盤までリードして苦しめたのは日大山形高だった。
2回戦では山形県勢の初ベスト8なるかの注目の試合で、名門・今治西高との対戦は延長13回、今治が2点を挙げて勝負あったかなと思ったが、その裏3点を挙げてサヨナラ勝ちを演じたのだ。 

勝負の結果は「下駄を履くまで判らない」と言われるが、1回戦オンリーの県代表・山形ナインがそれをやってのけたところに意義があり、東北人の小生は当然山形勢を応援していたが、この結果には踊り上がったものだつた。

時に勝負の神様は残酷な演出をするものであるが、一発勝負の高校野球は特にそうであり、ここが又、たまらない魅力なのである。
駒大苫小牧高の選手諸君、感動を有難う・・!!。


【決勝】  
駒大苫小牧 1 - 1 早稲田実 ※延長15回引き分け(決勝での引き分けは37年ぶり2度目)
駒大苫小牧  000000010000000=1
早稲田実業  000000010000000=1



【決勝・再試合】
駒大苫小牧  000001002=3
早稲田実業  11000110x=4



国道235は沼ノ端のウトナイ湖を右に見る、この都会地近くにおいても湖は原野、湿原などの豊かな自然が形成されている。 すなわち動植物の宝庫、野鳥の楽園である。
マガンや白鳥の集団飛来地として、国際的にも知られ、日本では4番目にラムサール条約に登録されている地域であった。 

ここから国道はR236となり2車線の広い道を西へ行く、程なくして、右側に、その「駒大苫小牧高」が在った。ゆったりとした広い敷地に北海道らしく白樺の樹林が植栽されている、校門には全国制覇を祝う看板が、校舎には横断幕が掲げてあった。

近所の親子ずれの小さな女の子が、小生を指差して「ママ、また写真撮りに来てるよ・・!!」の一言が心に残った。


次回は、 白老・「アイヌ文化



【小生の主な旅のリンク集】

《日本周遊紀行・投稿ブログ》
GoogleBlog(グーグル・ブログ)   FC2ブログ   C・掲示板   FC2 H・P   gooブログ   yahooブログ

《旅の紀行・記録集》
「旅行履歴」
日本周遊紀行「東日本編」   日本周遊紀行「西日本編」   日本周遊紀行 (こちらは別URLです)

【日本の世界遺産紀行】
北海道・知床   白神山地    紀伊山地の霊場と参詣道   安芸の宮島・厳島神社   石見銀山遺跡とその文化的景観

ハワイ旅行2007 沖縄旅行2008   北海道道北旅行   北海道旅行2005   南紀旅行2002

【山行記】

《山の紀行・記録集》
「山行履歴」   「立山・剣岳(1971年)」   白馬連峰登頂記(2004・8月)   八ヶ岳(1966年)   南ア・北岳(1969年)   北ア・槍-穂高(1968年)   谷川岳(1967年)   丹沢山(1969年)   西丹沢・大室山(1969年)   八ヶ岳越年登山(1969年)   西丹沢・檜洞丸(1970年)   丹沢、山迷記(1970年)   上高地・明神(2008年)

《山のエッセイ》
「上高地雑感」   「上越国境・谷川岳」   「丹沢山塊」   「大菩薩峠」

《スキー履歴》
「スキー履歴」


.
01. 15.

トラッキングコード3