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日本周遊紀行(82)伊達 「円空と蝦夷」
思うに・・、
小生、北国の東北・北海道を巡ってきて気が付くのは、北国はやはり太古の大自然が残されているのが一大特徴であろう。 そしてやはり、文化的な香りが漂う土壌はやや西日本に軍配が上がりそう気がするのである・・??。
実を言うと今時既に「西日本の周遊」を終えていて、やはり感想というか印象に残ったのは歴史、文化の色の濃さであった。 特に著名な神社、仏閣、墓稜、歴史的遺産などの歴史を刻む建築物が大いに目を引いたのものであった。
北海道にもアイヌ文化、蝦夷文化をはじめ歴史的な寺社など、又、古くは縄文期の遺構、遺跡等・・多く存在しているが、注目度としては西方のほうが、神話や古書を含めた歴史の広さや深さにやや軍配が上がりそうなのである。
そうした中でも北海道へは何人かの文化人が渡来してきて、それなりの影響を残している。
幕府の役人、探検家として渡来した文化人は伊能忠敬、間宮林蔵、近藤重蔵、松浦武四郎、最上徳内など、商人、船乗りなど商行為のため渡来したのは高田屋嘉平衛、銭屋五兵衛など、又、文芸、絵画、書道、評論などで渡来した文化人は池野大雅、菅江真澄、大原呑響などとされている。
そして「僧侶」として布教のため渡来したのは、「円空」をはじめ木食、文翁、壮海、秀暁など各上人たちがいる。
お節介のようだが、蝦夷・北海道文化や近代史に興味のある御仁は、これら先駆者といわれる人々のことをより深く調べ・研究することによって、より一層北海道への理解が深まるのではとも思われる。
そんな中、美濃(岐阜県)出身の「円空」が北海道に渡ったのは、江戸初期の寛文5年(1665)であった。
鉈(なた)一丁を下げての遊行僧・円空は、北辺の地・蝦夷地でも意欲的に作仏活動を続けていて、現代から300年の風雪を経てもなお円空仏は今も人々の信仰を集めているという。
円空上人は寛永9年(1632年)、美濃国(現岐阜県)生まれ、早くから小僧として仏門に入り、やがて寺院を出て窟ごもりや山岳修行をするようになる。 そして美濃国を拠点としながらも修行を重るため全国を行脚し、各地の寺院の住職や民衆たちと交流を深め、随所で「鉈作り」や「木っぱ仏」と呼ばれる仏像を彫刻し、残している。
円空は、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを分別しながら刻み歩いたようである。
その足跡は、美濃・飛騨・近隣の愛知・滋賀・長野などにとどまらず、近畿・関東・東北そして北海道にまで及んでいる。 元禄8年(1695年)、故郷で64歳で亡くなるまでにその数は何と「12万体」に及んだともいわれ、晩年の作は他の追随を許さない境地に達し、日本の彫刻史上確固たる地位を占めているといわれる。
寛文6年(1663年)に流浪の身を咎められ、津軽藩の弘前城下からも追われて松前に渡ったことは知られてる。 その後、道南の渡島半島の各地を廻り、広尾や釧路の近くに至るまで多くの仏像を彫っている。
円空はその生涯の多くの時間を旅とその途上での仏像の制作に費やした人のようだが、なかでも30代半ばの蝦夷地(北海道)への困難な旅の目的は、有珠善光寺や太田権現という道南の古刹霊場に触れる事だったようで、彫り上げたその殆どの仏像は洞窟の中などに祀られているという。
因みに、「大田権現」は渡島半島西部・瀬棚町大成区大田にある日本海に面した社宮で、古く平安期の頃から祭られていて現在は「太田神社」とも呼ばれている。 参道は山道で急傾斜の崖を登り、更に、百数十段の急な石段を鎖・ロープにつかまって登る難所で、鉄ばしごやロープを伝う急な山道や絶壁を進むこと約40分、拝殿に「猿田彦命」が祀られている。
太田山(485m)全体をご神体とする山岳信仰の場でもあり本殿は、太田湾を一望する山頂直下の切り立ったがけの岩穴にある。
当初は庶民が地蔵尊を祀ったのが始まりらしく、その後「円空」等によって観音像が祀られた円空仏堂もあるという。 航海の守り神、霊神の加護として信仰されている。
円空が釧路まで足を延ばしたかは定かではないらしいが、釧路の厳島神社に円空の彫った観音仏が祀ってあり、日本で最も北東の地にある円空仏であるという。
円空が渡った江戸の初期には、松前藩によるアイヌに対する支配が浸透しつつあった時期だが、当時、円空の彫った観音像をアイヌの人たちが「アカンカムイ」として拝んでいたといわれる。
円空は、アイヌの人たちの居住域をも旅しているので、アイヌの世話になることも多く、円空が彫った像がアイヌのカムイ(神)として祀られ、拝まれたこともあったと想像できるのである。
円空が仏像に「くすりのたけごんげん」などと銘打ったことについて・・、
円空が仏を彫るにあたって、背銘にそれぞれ「いわうのたけのごんげん」、「くすりのたけごんげん」、「たろまえごんげん」などと記されてあるという。
当時は蝦夷地といえど、遊行者でも自由に旅をすることはできなかった、そこで背銘にその名を刻し、仏が安置されるべき場所を書いたともいわれる。
因みに、「いわうのたけ」は豊浦町礼文華の「いわう岳権現」(岩屋観音)、「たろまえ」とは苫小牧市高岳の「樽前岳権現」(樽前神社)であり、「うすおくのいん小島」は有珠善光寺・奥の院小島(洞爺湖中島)であり、そして「くすりのたの・・、」とは釧路市米町「久寿里岳権現」(厳島神社:アイヌの聖地といわれる)であることは明白であるという。
今の釧路・厳島神社は元々は阿寒大神、つまり厳島神社の原型といわれる円空仏がまつられていたという。
釧路市史によると、『阿寒大神は、往古よりアイヌ人が「アカンカムイ」(アイヌの神)として祭祀してあったものと伝えられ、むかしは漁船が入港する時、社殿が見える所までくると必ず船を幾度か廻し豊漁と航海の安全を祈念し、また感謝して帰港したものといわれる・』と記している。
阿寒大神(アカンカムイ)は、「阿寒岳を霊峰とする山神さまでアイヌの神」とされているが、円空の「くすりのたけごんげん」が、釧路=久寿里(くすり)地方の霊峰の神に捧げられたことでアイヌにも深く受容されたといい、後には厳島神社が勧進されて海の神としても信奉されている。
釧路地方のアイヌは松前藩にとっては大事な漁業労働者であり、彼らはアカンカムイを祭祀するが、和人の弁天(厳島神)や稲荷神などの海や漁業の神として、併せて祭祀していたという。 厳島神社は無論、芸州・宮島の厳島神社のことで「海の神」といわれ、航海安全と豊漁祈願のために本来、和人が分霊、勧請したものである。
現在の釧路・厳島神社の祭神は宗像三神の市杵島姫大神(イチキシマヒメ)であるが、相殿として阿寒大神(アイヌの神)をはじめ、他に稲荷、金比羅などが祀ってある、何れも海や海運の守護神である。 久寿里(くすり)とは「釧路」の語源となったもので、原名アイヌ語のクシル、クシ「越える」 ル「路」からなり、「ここより各地へ道が通じていった」の意味とされる。
次回は、長万部
尚、洞爺湖や有珠山、昭和新山は「温泉と観光」の項で述べています。
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