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日本周遊紀行(78)日高地方 「静内の開拓期」
北海道・静内と四国・阿波・・?、
静内は江戸末期から明治初頭にかけて一種の過渡期を向かえる、それはアイヌ文化の終焉期、そして和人達による開拓期でもあった。
話は、突然であるが南国・阿波の徳島へ飛びます。
戦国時代、信長の後を継いだ豊臣秀吉によって天下はほぼ治まった。
秀吉の重臣であった蜂須賀氏は、四国攻めに功が有ったとして阿波の国・一国を与えられる。 ご承知秀吉と蜂須賀の関係は、彼が幼名「日吉」の頃矢作川で出会って以来、終生子分になることを誓っていた。(小六、太閤記)
その蜂須賀小六の重臣に稲田氏がいた。
重臣とはいっても小六とは義兄弟の仲であり二人はともに豊臣秀吉のために戦い大いなる功績を残している。 蜂須賀氏が阿波16万石になったとき、城代家老であった稲田氏は1万4千石で淡路・洲本城を預かっている。
稲田家は瀬戸内を中心に豊かな経済力をもち、また貴族や公卿とも縁組をするなど、その地位を高めていった。 一方、蜂須賀家は徳川家と縁組を持ち、松平家を名のるほどになる。
江戸末期、尊皇攘夷の風が吹く中、稲田家とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。 又、蜂須賀家は徳川近親であることから公武合体の中立を保つ。
稲田家は維新戦争の際には官軍として多数の人員を派遣し、明治維新には大きな功績をのこしたはずであった。藩として方向性の異なる両家は、次第に確執を生ずるようになる。
明治政府は明治2年、「版籍奉還」、「廃藩置県」を実施した。
特に武士の身分を士族と卒族(平民)に分け、俸禄も減じられた。
稲田家は元々蜂須賀家の家臣だった為その減額は甚だしく、家臣は士族への編入を嘆願するとともに稲田家の分藩独立運動をおこした。 堪りかねて蜂須賀家の一部過激派が決起し、鉄砲、大砲を持ち込み洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃するという一大紛争となった。これに対し稲田側は一切無抵抗であったといわれ・・、被害は自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り焼き払われた屋敷25棟にのぼったという。
明治政府はこの事件が一部の激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で激派を煽動していたりはしなかったか調査をし、仲裁に乗り出して解決に至った。
その判決・決済は両者共に厳しいものとなった。
徳島藩側主謀者10人に切腹、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に及んだ。(武士社会に於ける、最後の切腹事件といわれる) 又、稲田家側は朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の「静内郡と色丹島」(後に返上、現北方領土)への移住・開拓が申し渡された。
勤皇党で明治維新に大いに貢献した稲田家にとっても過酷な内容であった、が見方によっては両家の怨恨を無くする為に、お互いを遠ざけた結果とも云える。
この事件を「庚午事変」((こうごじへん:稲田騒動)と称してる。
明治3年、版籍奉還★(後の廃藩置県★につながる)がもとで起こった庚午事変の結果、北海道静内郡と色丹島の開拓を命ぜられた稲田邦植と137戸、546人の旧家臣たちは、三隻の汽船に分乗し淡路・洲本港を出発する。 そして春まだ浅い北海道・静内の海岸に到着した。
ここに静内町の開拓の歴史の第一歩が刻まれたのである。
この静内町の開拓の歴史、稲田家家臣の壮絶な開拓者魂を主題にした映画「北の零年」が本年(2005年)製作された。 これは製作費15億円を投じて長期ロケを敢行、豪華キャストに加えて延べ7000人のエキストラなど、すべてが近年の日本映画の常識を打ち破る文字通りの「大作」と言われる。
キャスト吉永小百合、渡辺兼、豊川悦司、柳葉敏郎、石原さとみ、香川照之、石田ゆり子他、名優多数、来初春、2005年1月大公開された。
又、船山馨の時代小説「お登勢」はこの時代、ここ稲田藩を背景に描いている。そのNHK金曜時代劇で沢口靖子主演で本年秋TV放映された。
★「版籍奉還」(はんせきほうかん)
1869年(明治2)に明治政府によって行われた地方制度改革で、薩摩・長州など多くの大名が領土(版)、領民(籍)を朝廷(天皇を中心とした中央政府)に奉還したもの。 これにより形式上は中央集権の国家体制となったが、知藩事には旧来の藩主、大名が任命されたので実質的にはまだ不十分であった。 そのきっかけを作ったのが幕末動乱期の徳川慶喜で、将軍としての地位や徳川領を投げ捨て(実際は所領は取り上げられる)大政奉還を断行した。 この時を以って徳川幕府の各藩支配(幕藩体制)が終了したのであり、武士の統領である徳川家が先ず「版籍奉還」を行った一種の事例といえる。 その後は先ず薩摩・長州・土佐・肥前の各藩の藩主の連名によって「版籍」が「奉還」されることになり、他の藩もそれに倣って一斉に版籍奉還が行われた。 明治2年ことであった。
★「廃藩置県」(はいはんちけん)
明治維新後の1871年(明治4)に明治政府がそれまでの藩を完全に廃止し、地方統治を中央管下の府や県に一本化した政治改革である。 廃藩置県の主目的は年貢を新政府にて取り纏め納める、即ち中央集権を確立して「国家財政」の安定化を図る。 又、「国家徴兵制」を確立するもので、軍制を敷くために各藩から派遣された藩士が国家の兵士となり、国としての軍隊を構成することにあった。 これは富国強兵もさることながら、全国約200万人に上るとも言われる藩士の解雇と雇用にも関係するものであった。 藩が廃された結果、当初、地方は3府302県となり,知藩事に代わって府知事・県令(のちの県知事)が中央から派遣された。 更に府県を統合して3府72県とした。(更に後の1890年には、ほぼ現在の3府43県としている)
国道235号線の静内市街地より道道71(平取静内線)で内陸へ5kmほどいった所に静内の名所「二十間道路」が在る。 日高山地に向かって直線凡そ7km、両側にわたってエゾヤマザクラが約一万本咲き誇る。
ここは道内では松前公園に次ぐ桜の名所である。
大正5年、御料牧場を視察するための皇族方を迎えるために3年の歳月をかけて近隣の山からエゾヤマザクラをこの道路の脇に移植したのが始まりで、約1万本の桜が植えられたこの桜並木は、直線約7kmにわたる日本一の桜並木である。
幅が二十間(約36m)あるので「二十間道路桜並木」と呼ばれるようになったという。 ここを通り抜けた前方に新冠牧場の広大な敷地が広がる。 同牧場の前身は「新冠御料牧場」で宮中御料馬の生産、北海道固有の野馬「道産子」の改良を担った。
日露戦争下では陸軍の求めに応じて、多数の軍馬を拠出した実績などもある。
当然、皇族や文武の高官の訪問も頻繁になる、その為、行啓道路として造成されたのが二十間道路である。
そんな中に「龍雲閣」がある、牧草地帯の一角にぽつんとたたずむ御殿造りの木造建築物は、賓客の宿舎施設として1909年(明治42年)に建設されたもの。 桜の開花時期に一般公開されている。
馬をやらない小生が勝手に選んだ静内産名馬=タニノムーティエ、ウイニングチケット、トウショウボーイ、サクラローレル等々。
静内は、2003年1月頃から新冠町、三石町と合併を協議し、当初は市に昇格予定で新市名称は「ひだか市」に決定していたが、その後新冠町から合併の時期の延期申し入れがあり、2004年12月7日をもって3町による合併協議は休止される事になった。 その後、三石町と新たに協議会を設置し、新町名を「新ひだか町」、合併期日を2006年3月31日とすることで合意している。
次回は日高・「新冠・門別」
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