google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 日本周遊紀行(68)南国 「土佐の国司・紀貫之」

2011年1月21日金曜日

日本周遊紀行(68)南国 「土佐の国司・紀貫之」

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日本周遊紀行(68)南国 「土佐の国司・紀貫之」 、



紀貫之は「土佐日記」に、この地で亡くした娘を思い、

『 都へと 思ふをものの 悲しきは 
          帰らぬ人の あればなりけり
 』
と詠んでいる、


昨夜は、蛙の子守唄で寝に就いたが、今は全く昨夜の合唱が嘘のように、朝のシジマ(静寂)の中にいる。
蛙の合唱で気がついたことがある。
歌声は波のように響き渡り、その波が次第に小さくなって一瞬止むのである。 始まりは先ず殿様蛙が第一声を発すると、次に重臣諸侯が歌いだす、その後は一族郎党が一斉に大合唱で歌いだすのであり、それの繰り返しである。 端的な例かもしれないが、ベートーベンの第九交響曲(合唱)の第四楽章の合唱シーンで、先ずリードシンガーの男性ソロ、女性ソロが歌いだし、次に選抜された男女諸氏が歌いだす、その後は男女混声大合唱団が一斉に歌いだす、これを何回か繰り返す。
昨夜はこんな事を感じ入り、想像しながら眠りについたのであった。


時に、早朝5時少々過ぎた頃、先ずは今日も好天のようだ。周囲は青々とした田園が広がっている、民家は周囲にポツポツとあるだけで、いわゆる日本の原風景を感じられる。
蛙の合唱が、ベートーベンの第九交響曲「合唱」に譬えられるなら、こちらの風景はさしずめ、ベートーベンの第六交響曲「田園」であろうか。 
しかも、南国市は、土佐の稲作の発祥の地といわれている。 この地方は日本でも温暖、多雨であり、その恵まれた自然と環境を生かし、現在でも米の二期作が盛んなところでもある。


ここは四国・南国市の外れ、都会の田舎である。
昨夜、「ながおか温泉」に立ち寄ったが、「ながおか」という名称は、この周辺の小学校の建物などの一部に残るが、地域名、行政名としては既に無い。 昔は長岡郡長岡村と称して、立派に存在していたが、町村の合併によって消失したらしい。 尤も、この地区の遥か北方、本山町、大豊町は長岡郡として、僅かにその名残がある。


近郊北方に「比江」、「国分」といった地名がある。 
この地区は古代、土佐の都があった所だという。奈良時代、この地に国分寺が建立され、前後して土佐国府が置かれ、土佐の中心地となった。 これに伴って、京と国府を結ぶ官道が、四国山地を横断する道や海路を辿る道とが開かれた。 
だが、都の人々にとって土佐は、あまりに遠く「遠流(おんる)の国」とされた。 しかし、その都からの流人達が都の文化、芸術や学問をこの地に伝え、この国の歴史を造ったともいわれる。
平安時代には、紀貫之が「土佐日記」を著したことは有名である。 しかし、この地に土佐守(土佐国守)として、赴任していたことは、あまり知られていない。 
土佐日記は、紀貫之が国司の任期を終えて土佐の国から京まで帰京する途中に起きた出来事や思いを書いた日記である。

『 男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。 それの年の、十二月(師走)の、二十日余り一日の日の、戌の時に門出す。そのよし、いささかにものに書きつく。 ある人、 県の四年五年果てて、例のことどもみなし終へて、解由など取りて、住む館 より出でて、船に乗るべき所へわたる・・』

現語訳
( 男も書くという日記というものを女も書いてみようと思って書くのである。承平4年の、12月の、21日の午後8時頃に出発する。国司の館からの出立の様子を少しばかり紙に書き付ける。 ある人が、国司としての任期の4・5年が終わって、定められた国司交代の際の引き継ぎ事項、事務をみなすませて、任務完了の解由状など受け取って、住んでいた国司の官舎から出て、船に乗るはずの所へ移る・・)
 
旅日記は比江・国司の館を出発してから、京の自邸に着くまでの55日間にわたって記されている。 
「土佐日記」は平仮名で書かれた最初の日記風文学で、日本特有の「文字文学、ひらがな文学」が大きく発展するきっかけになったといわれている。

『 都へと 思ふもものの 悲しきは 
          帰らぬ人の あればなりけり 
』  貫之

50数日間という長い旅を経て貫之が、やっと京に帰ったときには、既に元の自分の家は荒れ果ていた。 この家で生まれた我が子を、土佐の僻地まで連れて参ったが、土佐で亡くしてしまった。 愛児への哀惜の思い、世の無常を感じ歌に詠んだ。 
紀貫之が国司の務めを終えて船出した港は、南国市の大湊であり、その公園に記念碑がある。毎年、「貫之出港記念祭」が開催されているという。

現在、国府の在った「比江」は見渡す限り広々とした田園地帯となっていて、国分寺だったとされる森だけがこんもりとして、その面影を残している。 
紀貫之は、醍醐天皇の勅命で「古今和歌集」撰進の中心となり、仮名序を執筆したことでも知られる平安前期の歌人、文学者で、漢文学の素養が深く、三十六歌仙の一人として古今調を作りだした。 他に「新撰和歌集」、歌集「貫之集」なども残している。


すぐ近郊の「岡豊」は、長曽我部元親が岡豊城を築き、後に高知の浦戸に城を移すまで、実に、この地域は千年近くもの間「土佐の都」であった。 
又、この地「後免」は江戸期、ここに入植し、開墾する者には土地を与え、租税や諸役を免除していた、この町は諸役御免の町「御免町」と呼ばれ、のちに「後免町」となった。 今は「南国市」の中心市街地を形成している。

南国市は「みなみのくに」という意味ではあるが、「国」を「ごく」とは呼ばず、「こく」と呼ぶことになり、「なんこくし」と呼称するそうである。

次回は、高知、「五台山と牧野富太郎



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