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2010年8月2日月曜日

日本周遊紀行(128)千葉 「千葉氏と上総氏」

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 日本周遊紀行(128)千葉 「千葉氏と上総氏」 




「千葉」の由来と千葉氏、上総氏・・、

アクアラインの「海ほたる」から周囲を眺めると大東京のビル群、左に横浜、川崎、そして直ぐ右手に隣接して千葉のタウンと日本の中心である大都市圏がパノラマに見渡せる。



チョット詮索して「千葉」の地名の由来について・・、
これは諸説あって古代のアイヌ語とか、安房の国の地勢や自然を形容して表現されたものとか、定説は確かでないようである。

房総の内陸地形は1000mを越えるような急峻な山岳地は存在しなく、せいぜい300m前後の山々というより低山か、高目の褶曲した丘陵地が連続している。
地図を眺めても、縦横に道路が走り交差していて、その間に広がる多くのゴルフ場などが点在し、その数は日本一を誇るともいう。
開発される前の大昔の千葉・房総は、時期ともなれば重畳たる緑の絨毯が広がっていたに相違ない。

」や「」に形容される言葉に、「千も万もない」、「あれやこれやと言うには及ばない」、「千も万も論は無用」という意味でもあろう。

房総」を形容すると、濃緑の葉の広がり繁る様はまさに「千・万の如し」なのである。 
この様な地域には自然発生的に「千葉」という語が生じたと考えれば、無理はないように思えるが・・?。 
しかし、「千葉」の語源を詮索しても、これは余り意味の成さないが、奈良期以前の書物や歌本にも「多くの葉が繁るところ」の意味合いで、「千葉」という形容言葉は使われていたようである。 
又、平安時代中期に作られた総合辞書で地名などが記載してある有名な「和名抄」(和名類聚抄:わみょうるいじゅしょうともいい、平安時代中期に作られた辞書)にも、「下総の国千葉郡千葉郷」と既に記されているという。

そして、この地域に既に在った「千葉」の名称によって、中世より在来した「千葉氏」が起こったとされるのは妥当であろう。



千葉氏と上総氏

千葉氏といえば、やはり平安末期の頼朝挙兵時に照準を合わせねばならんであろう。
一般に、「千葉氏」は平安京をつくった桓武天皇の血をひく「桓武平氏」の一族で、中世の房総半島を中心に栄えた大豪族といわれている。 
平安末期、千葉氏は下総国(千葉県北部)の在庁官人(国府に勤める役人)で、千葉の庄などを治める一領主にすぎなかった。 
その後、源頼朝に挙兵から一貫して源氏に味方・協力したことで頼朝の信頼を得、鎌倉幕府の成立後には東北から西方の地まで、全国各地に領地を与えられることになる。



平安末期、奢れる平氏も清盛亡き後、さすがに箍(たが)が緩んできた。
期に乗じて、都(京)付近では以仁王(もちひとおう:後白河天皇の第三皇子)が摂津源氏である源頼政の勧めに応じて、平家追討を発して挙兵するなど、争乱、内乱が始まり、以仁王への同調者らによって各地に雌伏する源氏へと伝達されていった。

そのうちの一人である「源頼朝」も都より伝達され、源氏累代の家人とされる相模、伊豆、武蔵の武士団への呼びかけを始める。
そして治承4年(1180年)、伊豆・蛭ヶ小島に流されていた源頼朝がついに挙兵、伊豆在住・監視役の山木兼隆を襲撃して殺害する。
その直後、相模国石橋山にて大庭景親らと交戦するが、数にまさる平家の大群に手痛い敗北を喫し、ひとまず房総半島に逃れるべく、三浦半島から海を渡るのである。(石橋山の戦い)。

それ以前に、つまり挙兵前から頼朝は房総の上総広常、下総の千葉常胤(ちば つねたね)らとも気脈を通じ合っていて、特に常胤の子・胤頼は挙兵の少し前に相模の三浦義澄(三浦地方の豪族)とともに頼朝の配所で三者の密談もされていたという。
こうして房総に渡った頼朝は、敗者でありながら源氏の棟梁として房総三国を参下に治めることになる。

日本史上の大きな変わり目の中、千葉氏の房総での果たした役割は非常に大きいものがあり、頼朝が鎌倉を幕府拠点として選んだのも千葉常胤の献策だったとも言われている。



平安末期当時の房総は、平氏の分流である「上総氏」と「千葉氏」が勢力を競っていたが、上総氏の方が領地、勢力とも圧倒的に優位にあったとされる。
旗揚げに際して頼朝がもっとも頼りとしたのは、房総の地では両者の上総広常と千葉常胤であったことは云うまでもない。 
この時、常胤は頼朝からの使者・安達藤九郎盛長を迎えたときには感激し、一族を挙げて味方すると宣言したという。
併せて、頼朝に相模の鎌倉を本拠にすることを進言し、頼朝支持の態度を明確に示したのであった。

一方、頼朝からの使者に対する広常の態度はすっきりしないものであったという。
千葉常胤は下総地方の平家方の掃討作戦を展開していて、下総国府で頼朝が再旗揚げした時は即刻参会したが、その時の総勢は僅か三百余騎であった。 
だが、後に、上総広常が頼朝に参向したときに率いていた数は二万余騎であったという。 
この数字を比較しても千葉氏と上総氏の勢力の差は歴然としていた。
しかし、常胤に対する頼朝の信頼は広常より勝っており、後の千葉氏の発展は、このときの常胤の真意、行動が発端になったものといってよい。 
その後、千葉介常胤は頼朝から「師父」とも呼ばれるほどの深い信頼を得て、重臣として参戦してゆくことになる。

一方の房総平氏の宗家にあたる上総広常も木曾義仲や平家との戦いに活躍しつつ、房総に広大な勢力を持ち拡大してゆくことになる。 
だが、上総広常は拡大した勢力を盾に、その振る舞いに傲慢な所が多く、遂には頼朝の不信をかい恐れさせたともいう。 
やがて広常は、謀叛の疑いで頼朝に誅殺されることになる。

これによって千葉氏(千葉介と名乗る)は、上総の一族も支配下に治め事実上、房総一の惣領となった。
その後も、千葉常胤は一族を率いて頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に尽力する。 
その功績を認められて千葉氏は、陸奥や西国、下総など数ヶ国の所領を与えられ、「千葉六党」といわれるほどの大勢力となった。



千葉氏は、平安時代から続く日本屈指の古族で歴史も非常に長いため、そこから分かれた一族たちも膨大な数がある。
彼らは下総に残って千葉介(千葉宗家)に従った一族、下総を離れて別天地で栄えた一族、宗家と敵対した一族など、様々な経緯をたどって時代を乗り越えていった。

しかし、お膝元の下総の千葉宗家は、室町期において鎌倉公方と古河公方の対立や安房の里見氏の勃興もあり、又、千葉氏自体の内紛などが起因して弱体化が進み、千葉氏十四代胤直の時に宗家は滅亡することになる。

次回も引続き「千葉」




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