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2011年8月31日水曜日

日本周遊紀行(165)日向 「耳川の戦い」

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 日本周遊紀行(165)日向 「耳川の戦い」   




九州の「関が原」と言われる「耳川の戦い」が・・、

国道10号線を快適に北上する。
川南町、都農町は日向灘に開けた明るい地域で、大部分が台地状の所謂、西高東低の、ゆるやかに傾斜した高台となっている。 
広大な畑作が広がっていて、きっと南国豊かな農業生産が主体の地域であろうことが想像できる。

日豊本線を跨ぐように、直線の高架線が走っている。 
以前になるが日豊本線の都農駅から美々津駅まで、リニアモーターカーの実験が行われていた所らしく、現在は、実験の舞台が山梨に移されていて、施設は取り壊されることなく現在もそこに居残っているのであろう。 

まもなく、日向市に入り「美々津」という港へきたようだ、清流・耳川の河口に当る。
耳川は一般の川の趣きとは異なり、巨大な中州を持つ湖のような泰然とした川である。 
川面は珍しく青緑、エメラルドグリーン、黄緑と天候や見る場所によって色が変化する不思議な川だという、五色川ともいうべきか。 
耳川は、九州山地(椎葉村三方山)に源を発し東へ向かって宮崎平野を流れ、日向市美々津町から日向灘に注いいでいる、長さ100kmの水系で美々津川とも呼ばれているらしい。


この川に「幻の魚」と呼ばれる、「アカメ」という魚が生息することでも知られてる。 スズキ目アカメ科の魚で、名前の通り目が赤く、北川、耳川のほか、高知県の四万十河口域など汽水域(真水と淡水が混じった水域)に生息し、体長1メートル、重さ20kの巨大魚になるという。 地元では“マルカ”とも呼ばれているらしい。 
尤もアカメは、ここ数年は魚影が見られなくなって、2007年には環境省のレッドリストの中の「絶滅危惧種」に指定されているとか。


ところで、往時はやはり「耳川」も河川流通路としての重要な地位を占めていたという。 
江戸期、この地方の産物である木材や炭を高瀬舟で河口の美々津に集め、大型船・千石船で大阪方面に送り出していた。
当時の美々津はそれら特産物の積出港として大いに賑わい、元禄年間には回船問屋や商家が数多く軒を連ね、「美々津千軒」とも呼ばれるほどの繁栄ぶりであったという。

現在、美々津、耳川の南部、国道10号線と海岸に挟まれた狭い一角は、江戸時代の回船問屋や明治、大正、昭和初期の商家などが数多く残されれており、当時の隆盛ぶりを知る事ができる。 
中でも現在、日向市歴史民族資料館となっている元廻船問屋・旧河内屋は間口が広く、美しい京格子と白壁で当時の繁栄を偲ばせている。
この美々津の町並みは、1986年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。


この耳川の南部地区は今でこそ鄙びた景観を呈しているが、この周辺、特に木城町にかけては古戦場としても今なお秘められた足跡を残しているという。 
戦国期の天正6年、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(木城町)を主戦場として激突した合戦で、「耳川の戦い」とも云われる。  ぞくに九州の「関が原」とも言われる。


九州の覇者「大友氏」(九州探題)と九州南部に勢力を持ち北部への進出を目論んでいた「島津氏」、この両者が九州の覇権をかけて戦いで主戦場は高城地区の(現、木城町南部)、そこを流れる小丸川を境に両軍は対峙することとなる。 
激戦の末、勝敗は大友軍が三千余の将卒を失い、壊滅状態となって敗退した。 
大友方は、さらに敗走する途中、城の北方の耳川で島津軍の迫撃に合い、戦死者の総数は二万人にも達したともいわれる。 

結果は、島津氏が勝利し九州の覇権は島津氏に移って行くが、更にそのことが起因して、天下を平定しつつある豊臣秀吉の九州出兵を促す原因となる。 
結末は秀吉軍が島津を抑えて、九州地方は平定されることになるのだが。


ところで、この合戦に島津勢が勝利した戦いを「耳川の合戦」と呼ばれるが、一方では、主戦場は耳川ではなく、宮崎県児湯郡木城町にある高城城下の高城川(現在の小丸川)であることから、「高城の戦い」とするのが妥当とする向きもある。 

耳川と高城川は、南北に凡そ20キロ離れているが、豊後地方に勢力をもつ大友軍から見ると、この耳川は南進北帰の生命線であり、そしてこの地で追撃する島津軍に完敗した地であることから「耳川の合戦」が妥当であるとも言われる。

その後、大友宗麟の要請もあり九州攻略のため本州勢力の秀吉軍が大挙して島津軍を攻めることになる、この時の主戦場がやはり高城であった。
秀吉の先鋒として戦ったのが大友の残兵(大友義統)でもあり、結果、秀吉軍が勝利したため大友家は豊後一国を安堵されている。 
この戦は「高城の戦い」とも称している。


次回は、日向・「美々津





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