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【北海道・オホーツク海道】稚内⇒⇒⇒⇒根室
日本周遊紀行(53)猿払 「或る海難事故」
「宗谷岬」よりは、いよいよオホーツク海沿岸を南下することになる。
気のせいか、オホーツク沿岸は明るく輝いているようにも感じられる。
猿払村へ入っても、宗谷丘陵の草原状の伸びやかな風景が凹凸を繰り返しながら、延々と続いている。
気持ちも周りの風景に馴染んで何となく晴れ晴れとして、小気味良くアクセルを踏んでいる。
牧場の牛もノンビリ草を食んでいて、いかにも牧歌的な悠々たる世界である。
海岸の公園(道の駅)に来た。
猿払公園にはホテル、サイクリングの拠点、ゴルフやキャンプ場等の施設が整っている道の駅の公園である。
この中に目を引いたのが、海岸が一望に見通せる所に「インディギルカ号遭難慰霊碑」というのがあった。
その昔大きな海難事故があったようで、そのための慰霊碑らしい。
その「インディギルカ号遭難」とは・・?、
珍しい形のモニュメントと石碑が据えてある。
そして、その石碑には日本語とロシア語で・・、
『 昭和14年12月12日 ソ連船「インディギルカ号」とそれ
に乗合せていた人々に最後の時がやってきた
「イ」号は 秋の漁場を切上げて帰る漁夫及びその家族106
4名を乗せて カムチャッカからウラジオストークに向って航海
中 折からの暴風雪に押し流され 乗務員たちの必死の努力も空
しく 進路を失い 12月12日未明浜鬼志別沖1500メート
ルのトド岩に座礁転覆 700余名の犠牲者を出す海難史上稀有
の惨事となった
身をさくような厳寒の海上で激浪と斗い 肉身の名を叫び続け
ながら力尽きて死んで行った人々のことと その救助に全力を注
いだ先人たちの美しい心情は 人類のある限り忘れてはならない
この碑は 北海道はもとより国内の数多くの人々 並びにソ連
側の海員 漁夫の善意に基く浄財によって 「イ」号と運命を共
にした人々の冥福を祈るとともに 国際親善ならびに海難防止の
願いをこめて建立されたものであり 台座の石はソビエト社会主
義共和国連邦から寄贈された花崗岩である』
と記してある。
昭和14年12月中、寒冷吹き荒ぶ(すさぶ)オホーツク海に、一艘の大型輸送船が咆哮していた・・!、ソ連船インディギルカ号だった。
カムチャッカ半島より漁夫等千数百人を乗せてウラジオストックへ向かう途中であり、彼らは鮭・鱒等の魚場の作業を終えて一旦ウラジオへ戻る途中であった。
冬のオホーツク海は気候が変わり易く、尚且つこの時期、低気圧が日本海に有って勢力を増しながら東北に進みつつあり、この時の天気状況は北海道北部沿岸に暴風警報を出すほどであったという。
同船はそれを聞かずか、或いは知らずに出航してしまったらしい。
本来、ウラジオに向かうには宗谷岬の北方より西に進路を執らねばならぬのに、この時の時化(しけ)と急潮流で猿払の沖まで流されて来てしまったらしい。
そして「トド岩」という岩礁に乗り上げ、底を引き裂かれて横転してしまった。
乗組員の内の数人が猿払の部落へ救援を求め、村人は小船を操って救助に当たり、同時に周辺各地域も大騒ぎとなり救助救援に大童(おおわらわ)だったという。
しかし、その頃はすでに水死体が岸に打上げられ、朝になると無数の死体がときには二重になって、浜鬼志別、知来別、浜猿払の海岸30kmにわたって打上げられていたという。
遭難者は700人を超えた。
昭和14年(1939年)とは、どのような時代だったか・・?
昭和14年(小生の誕生年、満州国で誕生した年でもある)というと戦争の影が忍び寄っていた時期でもあり、その顕著なものが日本とソ連との間に勃発した「ノモンハン事件」というのがあり、所謂、日本とソ連は険悪な対立状態の間柄であった。
しかし、そんな最中でも村人の周辺各層の人は、人道的立場で命を懸けて事に当たったという。
この遭難碑と同様、美談は今でも村人の間に伝わり残っているという。
序(ついで)ながら「ノモンハン事件」とは・・、
ノモンハン事件は、1939年5月から9月にかけて、満州国(中国東北部・日本統治国)とモンゴルの間の国境線をめぐって発生した軍事衝突である。
初め、満州国軍とモンゴル人民共和国軍の戦渦であったが、実質的には両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト連邦軍の主力の衝突が勝敗の様相を決したという。
当時の大日本帝国とソビエト連邦の公式的見方では、この衝突は一国境の紛争に過ぎないとしたが、モンゴル国自体は、この衝突は「戦争」であると認識していたようである。
以上の認識の相違を反映して、この紛争については日本および満洲国は「ノモンハン事件」、ソ連は「ハルハ河の事件, 出来事」と呼び、モンゴル国のみが「ハルハ河戦争」(ハルヒン・ゴル戦争)と称している。
戦役は、第一次ノモンハン事件(5月11日~5月31日)、ノモンハン第二次事件(7月1日~6日)と二度に亘る激しい戦闘の中、日本軍は多数の死傷者を出し壊滅的な打撃を受けた。
その後、終戦締結がなされ、新たに国境線を画したが、日本軍の損失は戦死7720人、戦傷、戦病者合わせて計1万8979人に上った。
これに対して、ソ連側の損害については正確な数字は公開されてこなかったが、近年になって(1990年代)ソ連側から資料が公開され、ソ軍の戦死者・行方不明約8000人、負傷・病気約1万6000名、合計約2万4000名、飛行機の損失約350機、装甲車両約300両という意外に多くの損害を出していたことが明らかになった。
余談だが・・、
以降、日本とソ連の関係は稚内の項でも述べた通りで周知であるが、現在も北方領土問題等の冷戦状態(・・??)が続いているようである。
つまり、猿払村の人道的配慮は生かせれてはいなかったのである。
後述するが、遥か以前にも同様の遭難事件が起きている。
1890年(明治23年)に和歌山県串本沖で、トルコの「エルトゥールル号遭難事件」というのが発生している。 この時同様に地元・「樫野埼」住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係が今現在でも続いている。
このことは「西日本編・串本」の項で述べるとして、両遭難事件の因果は異なるであろうが、両国の現在に到るまでの対応の違いには注目しないわけにはいかない・・!!。
「猿払村」は日本最北の村、昔は相当な貧村に喘いでいたようだが、いまは日本一のホタテ漁を筆頭に北方漁業、広大な丘陵牧草帯を持つ酪農、そして湖沼、原生花園の大自然に恵まれた観光資源など一体となって、大きく発展しているという。
次回は、流氷海道「オホーツク」
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