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2011年6月30日木曜日

日本周遊紀行(145)薩摩 「島津氏」

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 日本周遊紀行(145)薩摩 「島津氏」   ,



以外だった、島津氏と堺商人の関係・・

400年前天下分け目といわれた「関が原」に、東西合わせて17万余の大軍が対峙した。
そして、慶長5年9月(西暦1600年10月)、遂に戦線の発端が開かれた。 

諸端の開戦からしばらくは西軍有利の状態が続いたが、突然の小早川秀秋の東軍・徳川方への寝返りによって形勢が一気に逆転し東軍が優勢になった。 

西軍は一斉に退却を始め、その西軍の中に薩摩軍の島津義弘がいた。 
屈強で知られる島津軍であるが未だ一発の銃砲も打たなかった、それは国元が「中立」を決め込んで援軍をよこさなかったためともいわれる。 

西軍総勢が退却する中、凡そ1000人の島津軍は突然、前へと突撃を始めた。 敵将・徳川家康の本陣を突くためにである。 
東軍本陣がたじろぐスキに、島津軍はそのまま伊勢路から甲賀へと退却する。

東軍も激しく追撃して殿軍(しんがりぐん)との戦いとなり、滋賀の信楽(しがらき)から奈良を抜け堺に辿り着いた時は、主従は80人に減っていたという。 

堺衆は義弘を匿い、その間に船や食料を調達して島津軍はようやく薩摩へ脱出した。 

帰国後、薩摩は軍備を強化し徳川方の来襲に備えたが、家康は攻めてこなかった。 
それは薩摩の巧妙な外交もあったが、家康は島津軍を極度に恐れたからであるという。 
退却の最中でも1000人が80人になるまで奮戦し、その強固な軍武魂は既に天下に知れ渡り、家康はそれを恐れたともいわれる。



戦後の始末において・・、

西軍の首謀者や各武将は捕縛されて斬首されたり、領地の召し上げや減封が行はれたが、島津氏は西軍の中で例外的に薩摩、大隈、日向の領地をほぼ現状維持で安堵されたという。 
その後の薩摩は2百数十年に亘り藩を改革し、近代化し、国力を蓄えた。
それが、明治維新の原動力となったことは言うまでもなく、維新という日本史上最大の改革の源流は関が原そして「」に有ったとも云われる。


その堺と薩摩の繋がりは鎌倉期から有ったとされる。
通説では源頼朝の御落胤とされる薩摩家初代の忠久は、大阪の住吉に生まれているという。 

堺の商人はこの住吉大社に参詣して忠久とは浅からぬ因縁があり、忠久の二代目・忠時は住吉地域の地頭を勤めたことも記されているという。 
又、室町期、堺の商人達は紀伊水道から土佐沖、南九州をして琉球にまで交易を発展させていた。 室町幕府は琉球貿易の管理を島津氏に任せたため、堺と薩摩は強く結びついていたとも言われる。 
現在の堺衆も「明治維新は薩摩をして、堺からはじまったんどっせ・・」と言うそうである。
そして、遂に江戸末期、文明開花の為に薩摩隼人は動くのである。


その薩摩・鹿児島で最も尊敬されている人物といえば、やはり「西郷隆盛」であろう。 
土佐の坂本竜馬もそうだが、特に、地元鹿児島では西郷隆盛の悪口を言うのはタブーとされ、西郷といえば質実剛健で骨太、頑固で気性の荒い豪傑で、理屈を言わず即実行に移す行動派というイメージがある。 

薩摩隼人は薩摩人の気質であり西郷隆盛そのものでもあるといい、男は「薩摩隼人」、女は「薩摩おごじょ」と称される。

古代より紛争が絶えなかった薩摩地方で、特にこの隼人、国分はその頃の城跡や隼人塚をはじめ、多くの古墳や遺跡が残っていると云われる。 
そんな中、隼人町の「隼人塚」は隼人の多くの亡霊が人民に祟りをすると恐れられ、其の霊を慰める為に造られた供養の塚だという。

今日(こんにち)の世代になっても薩摩隼人は、熊襲、隼人族の古代より脈々とした闘争的血脈が流れているといえる。 
もっとも、実際の西郷隆盛は一般に伝えられているイメージのような人物ではなかったという説もあるし、「いまどき薩摩隼人なんて・・・」という声がないこともない。 
しかし、特に男の場合(薩摩隼人・薩摩人)は、最近多くなった都会的な軟弱派とは一線を画しているのは事実であるという。


薩摩・藩島津氏の旗印は、「丸に十の字」として有名であるが、この旗印や紋は、隼人「隼」の字から、上の「隹」を取って「十」を表したと言う説もある 。

蛇足ながら、現在の「日の丸」の旗が正式に採用されたのは、薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)によるものと言われる。 
斉彬が船舶の建造申請を行ったときに日本船の総印として、白い帆に太陽を象徴した白地に朱色の日の丸の使用を求め、日の丸を日本全体の総印とするように進言し、これにより幕府もその必要性を認めて承認したという。 

斉彬は我が郷土の日向(ひむか)の国、日出ずる国を想定して決めたものと思われる。


次回は、「桜島




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