日本周遊紀行(41)江差 「鰊と追分と開陽丸」
国道228号線を別名「江差ソーランライン」とも呼んでいる。
鰊と民謡の「江差」に到った。
『 江差の町を 何かと問えば
昔は鰊で今追分か 中を取り持つ開陽丸 』・・小生
蝦夷・北海道で唯一藩の「松前藩」は万石挌の大名であった。
普通、石高というのは耕地面積、つまり米の収穫高で決まったが、山が迫り北国の蝦夷地・松前藩はその米が無かった。
藩は、蝦夷との交易や漁業(主に鰊)に依って経済収入を得ていた、それは鰊に伴う運上金(税金)のことで、特に江差から吸い上げた額は莫大であったという。
江差には藩の奉行所が置かれていたが、役人が在住するのはニシンが水揚げされる時だけとも云われた。
『 江差の五月は 江戸にもない 』
江差の五月は、ニシンが海上を泡たつように群れをなしてやって来る。
この時の賑わいは「江戸の街」以上のモノがあったという。
湾形に恵まれた江差は、時期になるとニシンが獲れに獲れて、「北海道一景気のいい町」と言われた時期も有った。
江差の浜に姥神町があり、「姥神大神宮」が祀られている。
松前地はもとより蝦夷地の一宮として、代々の藩主、領民の尊崇を集め、藩主の巡国の折には、かならず参殿して藩の隆盛、大漁、五穀豊穣を祈願する祈願所となっていた。
昔、江差の村に姥神という老婆が現れて・・、
「 この村に、ニシンという小さなサカナが打ち寄せるだろう。毎年、これを捕って暮らしたらよかろう 」と告げ、
なお「 網の大きさは、高さが五尺三寸(約1m59cm)目の数は63だよ 」といい、老婆はこれを固く守るようにと村人に言い渡して姿を消した。
江差の浜は、やがてニシンで満ちあふれ、村は豊かになった。
しかし、欲に目のくらんだ人々はいつしかこれを忘れて、大きな網で漁をするようになった。
それは明治の初めの頃だといい、この頃からニシンが次第に捕れなくなり、それは、老婆の言い付けを守らなくなったからと、信じる人が今もいるという。
その後漁民は、大網禁止を藩に直訴する騒ぎや、次々と大網を切る網切り事件も起きた、これを「檜山騒動」ともいう。
こんな騒ぎで、江差の浜は無人の浜になろうとしていた。
こんな中、10年ぶりにニシンが押し寄せてきたのである。
だが江差の浜にはすでに漁民がおらず、いても漁具が無く、ただ地団駄を踏みつつ巨万の富が去るのを眺めるしかなかったという。
その後、大正2年にもう一度ニシンが姿を見せたが、現在に至るまでニシンは完全に幻の魚になってしまったという。
姥神のお告げを無視した漁民は、自らその過ちのド壷に嵌っってしまったのであり、その教訓のためにも「姥神大神宮」が祀られているという。
16世紀頃から始まったといわれるニシン漁は、昭和30年代に終幕を告げた・・が、「江差追分」が江差に残った。
普通「追分」とは信州追分のことで、今の信州・小諸付近である。
ここは中山道が北国街道へ通ずる分岐点でもあって、 追分節の発祥「信濃追分」が北国街道の越後から北前船に乗って、松前や江差にやって来たといわれる。
これが「江差追分」の原点といわれる。
鰊漁で賑わう江差の番屋の宴会の席で、信濃の国からニシン漁の出稼ぎに来た人達が、故郷を想いながら唄う信濃追分に、一座の人は同様に郷愁を感じたのに違いない。
追分節は江差に馴染んだのである。
江差追分は今では日本を代表する民謡に発展し、今では「追分節」の中心挌になっている。
ともあれ、江差の風土にとけこみ、幾度もの変化をとげてきた追分節は、北前船が消えて、ニシンの大群が去っても人々の心に残り受け継がれた。
神宮大祭の「姥神祭」では今も祭りの前夜に江差追分が奉納されているという。
さらに近代では、独特の深い哀調や奥の深さから、江差だけでなく全国の民謡愛好家に歌われるようになった。
恒例の全国の大会もこの地で行われ、隆盛を極めているとか。
『江差追分』 北海道民謡
かもめの鳴く音に 江差の五月は 松前江差の
ふと目をさまし 江戸にもないと かもめの島は
あれが蝦夷地の 誇る鰊の 地からはえたか
山かいな 春の海 浮き島か
忍路高島 沖を眺めて 板一枚下が
およびもないが ホロリと涙 地獄のアノ船
せめて歌棄 空飛ぶ鴎が よりも下の二枚が
磯谷まで 懐かしや おそろしや
「忍路高島(おしょろたかしま)及びもないが せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで」と、江差追分の数ある歌詞の中で良く唄われている。
「忍路そして高島」は、積丹半島基部・余市に忍路があり、小樽市市街に高島、高島岬がある。
又、歌棄、磯谷は渡島半島の付け根、寿都町にある。
積丹半島の先端には神威岬があり、昔はこの岬から北へは女人禁制で、女性は入ることが出来なかったという。
岬を越えて恋しい人を追っていくことが出来ないので、せめて江差から忍路・高島の中間点の歌棄、磯谷までは参ろう、と歌っているのである。
江差の町入ると左に近代的な港湾が広がり、そこに資料館と大きな帆船が浮かんでいた。
「開陽丸」(復元された)である。
先刻の北海道を襲った台風18号の影響で部分的に被害を受け、見学乗船は出来なかったのが残念であった。
江戸幕府が、オランダに依頼して建造した最新鋭の大型軍艦「開陽丸」が横浜へ入港したのは、1867年3月である。
操艦したのは榎本釜次郎(武揚)が後の艦長になっている。
京の鳥羽・伏見の戦で幕府側は敗れ、当時の将軍・徳川慶喜は大阪よりこの開陽丸で江戸へ敗走している。
その後の江戸から東北の戦・「戊辰戦争」でも幕府軍は敗れる。
幕臣だった榎本は開陽丸、他数隻を率いて、蝦夷地に独立国を造るべく箱館へ向かった。
仙台より土方歳三以下陸兵を満載した船は函館へ上陸、そして五稜郭を落とす。
その後松前方面へ進撃して松前城を攻略する、この時の指揮官は土方である。
そして最後の砦となったのが江差であった。
榎本は土方と謀って、海からも攻めるべく開陽丸を江差え差し向ける、榎本はすぐ沖に開陽丸を停泊させて上陸した。
この時期11月(今の12月)であった。
その時から天候が急変し猛烈な吹雪になる。
操舵の甲斐も無く、一発の砲弾を撃ち込む事も無く、開陽丸は沈没してしまうのである。
それから幾星霜、昭和50年頃から、開陽丸調査発掘が行はれ、引揚げた遺物は2万点を超え、砲弾だけでも30トン・900発という。
因みにこの水面下一帯は「文化財埋蔵地域」になり、海底の開陽丸は文化財になっているという。
次回、奥尻島
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