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2011年2月6日日曜日

日本周遊紀行(76)宇和島 「和霊神社」

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 日本周遊紀行(76)宇和島 「和霊神社」   、




写真:和霊神社本殿




宇和島・和霊神社は一藩士が神霊として祀られている・・、

宇和島城の北・須賀川畔に高さ12mの石造りの大鳥居と夏祭りで名高い「和霊神社」が鎮座している。 
この神社は宇和島・伊達家に縁起するものであり、伊達家のみならず宇和島の守護神でもあるという。

南伊予(宇和島地方)の中世・守護(鎌倉、室町期)の時代は闇だったという。 
京の都から「西園寺」という食いつめ公卿一族が流れてきた。
一部の例外者を除けば、白粉を塗った中央官庁の役人が、南西の果てに流されてきて、土着の国、民に善政を施せる訳はなかった。 
鎌倉初期から室町末期(戦国時代)の凡そ350年間、西園寺氏から長宗我部氏の時代のことである。

戦国期、短期間ながら藤堂高虎が赴任した頃は築城もさることながら、まずまずの善政を執いたといわれるが、この前後の戸田氏や富田氏は、同様にいけなかったらしい。 領民は長年の悪性に荒(すさ)み、疲弊しきっていた。
戦国期も終わり、世は江戸期の安定期を迎えた頃の1614年、欧州の覇者・伊達政宗の嫡子・秀宗が、宇和郡十万石として赴任してきた。
宇和の疲弊し、荒みきっている事情を話に聞いて知った伊達政宗は長子・秀宗の宇和島執政に当たり、仙台・伊達家家老団の一人・民生・財政に詳しく、正宗の信任厚い「山家 清兵衛」(やんべ せいべい)を抜擢し伴わせた。 

清兵衛は藩財政の苦慮する中、藩内には厳しく、領民には善政を施した。特に農民に対する徴税を出来るだけ安くし、租税能力のない者は機に応じて免除したともいわれる。
この時期、日本史上でも民政家・山家 清兵衛ほど一地域の民衆の間で、深く尊崇されている例は絶無であろうといわれる。

藩主・秀宗が入部する際、本家仙台より相当額の借金をしてきた。
その返済の時期が迫り、本家よりの返納督促もあった。 この時、清兵衛は領民には藩事情は一切知らせず、藩内藩士の給金を一部返上(半額という説もある)して、その処置を行おうとした。 
この事が一部藩士の恨みをかい、政敵・桜田一派との確執のなかで政争に敗れ、1620年ついには暗殺されるにいたった。 領民は深く嘆き悲しみ、藩主に清兵衛の霊を慰むべく社を建てるよう懇願した。願いは叶って小さな社ができ、民衆はこぞって御参りしたという。  

藩主・秀宗は民の意を悟って数年後、この社を土俗神から京都の正使・奉幣使(ほうへいし:勅命によって幣帛〔へいはく 供物〕を山陵・神宮・神社に奉献する使者)を呼んで御祓いを上げ、正規に神社とし一社を改たに建立した。
これが和霊神社の起こりであり、 民意によって、しかも一藩士のための神社を起こした例は日本では皆無であろう。
清兵衛という、領民のための政治を行った江戸初期では珍しい行政家が、一藩の中心的「」に成ってしまった為、この藩の行政体質がその後引き締まったことは想像に難くない。
そのことは江戸末期、伊達宗城(だて むねなり)という名君が生まれたのは、無関係では無さそうである。

因みに、土佐・高知の龍馬の祖先である才谷屋(現「南国市才谷」出身で、高知城下で質屋を営んでいた。
幕末は土佐藩の家老や中老の家禄を抵当にして金銀の融通を行う商家。
坂本家の祖先に当たる)が、この社の事情に感じ入って和霊神社を坂本家の守り神として宇和島から分霊し建立している。 
幕末、脱藩の決意を固めた龍馬は、この和霊神社(高知市神田)に立ち寄り、同志・沢村惣之丞とともに水盃(別れの杯)をしたと伝えられている。 
高知・和霊社は、脱藩して大きく飛躍し新しい日本をつくった坂本龍馬の事跡を讃え、後世に伝えていくことを目的に例年、「龍馬脱藩祭」が行われているという。
 

宇和島・和霊神社は海上守護神としても信仰を集め、地元では「和霊さま」の名で親しまれているという。
境内には「和霊土俵」といって宇和島の代表的な闘牛場があり、宇和島最大の祭り、和霊大祭と相まって名物の闘牛大会が例年の時期に行はれる。

宇和島の闘牛は全国的に知る人ぞ知るで、当地方の代表的行事である。 
人間の相撲と同様、前頭から横綱まで番付があるが、闘牛は横綱は横綱、大関は大関、同じ格付けで闘う。もし仮に横綱と前頭を対戦させたとしても勝負にならないという。
闘牛は、八百長なしの真剣勝負の世界なのである。 
相撲には賞金が出るが、闘牛では「給金」とよばれるファイトマネーが支給されるという。 しかも敗けた方の牛に多く支払われるといい、勝牛4割、負牛6割と決まっているという。これには敗けた方の牛主に対する慰めの意味があり、宇和島ならではの麗しき伝統でもある。

闘牛の歴史は鎌倉時代に遡るという・・、
農民が農耕用の強い和牛をつくることから自然に野原で牛の角を突き合わせ、これを娯楽にしていたとの説もある。 
明治・大正期や戦後のGHQ(連合軍総司令部)により、一時期、規制や禁止されたが、庶民の闘牛熱はきわめて盛んで愛媛、隠岐、越後(新潟地震で大被害を被った、あの山古志村)の闘牛関係者等から陳情が繰り返され、2年後には解禁となった。 
今では正月場所と夏の和霊大祭場所は特に賑わい、客席は手弁当や一升瓶を提げた観客であふれ、2時間に及ぶ大勝負にやんやの喝采を送る。 和霊神社のほか、駅東方の丸山山頂に、ドーム型の宇和島市営闘牛場がある。

平成10年8月、島根県隠岐郡西郷町の提唱により「全国闘牛サミット協議会」が発足、関係市町村において「全国闘牛サミット・全国闘牛大会」が開催される運びとなり、宇和島市は築城400年祭記念事業として、平成12年には「第3回全国闘牛サミット・全国闘牛大会」を盛大に開催した。

海岸沿いにR56のバイパス新道が走っているが、市内の旧道をそのまま前進させる。 
賑やかな栄町の五差路を過ぎると、和霊という町名や建物、施設がやたらと目に付く。 
緑濃き和霊公園の須賀川を挟んだ向こう側に和霊神社が鎮座している。 
和霊の交差点を左折して須賀川を渡り過ぎると、すぐに街の喧騒からも離れる。

次回は、宇和から大洲方面へ、



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