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日本周遊紀行(77)宇和、大洲 「おはなはん」 、
完成ホヤホヤの「大洲城」
古風で教育熱心だった宇和地方の小都市・「宇和」 、
南伊予の海岸は山並みが海岸線にまで押し出し、これが複雑に重なり合っている所謂、リアス海岸を形成している。 従って、そこを走る道は山間を縫う様に、曲折しながら延びている。
吉田町は、こんな沿岸山地の一角にある。
陸奥・仙台から赴任してきた宇和島藩主の伊達秀宗の五男・宗純が三万石を分与されて吉田藩を創立、居館をこの吉田の地に定めている。
今でも武家屋敷や豪壮な商家など風格ある家並みが、往時の姿を留めている。
トンネルが連続する中、法華津トンネルは宇和町と吉田町の町境にあたる。
近世まで、南伊予・宇和島あたりは街道の行きつく果てと云われた。
旧道の峠は、かつては宇和島街道最大の難所といわれ、この最後の道程に「羊腸の小径」(箱根八里の歌詞から引用)たる法華津峠(ほけず)を越さねばならない。
仙台の伊達秀宗一行の小勢が、瀬戸内海を渡り、遥々この地まで来て法華津の峠に立ち、宇和海と行き着く土地柄を眺めた時の感慨は如何ばかりであったろう・・?、
今では、名勝とも言われる法華津の峠である。
頂上に立つと、眼下にリアスの入り組んだ海岸と紺碧の宇和海が織りなす、伊予屈指の大展望が開けるという。現在、この下を立派な国道が峠を刳り貫いて法華津トンネルが通貫している。
峠を下ると田園文化の町・宇和町に達する。藩政時代・宇和島藩に属し、純農村地帯として藩の米倉の役目を果たしていたらしい。
又、宇和町の国道を右に、古風な中町の町並みが整然としている。
幕末から明治初期、宇和島街道の宿場町として栄えた面影を残している。
その北の一角に、外観洋式の「開明学校」がある。
明治15年に建築された西日本最古級の現存する小学校舎で、モダンな校舎は国の重要文化財に指定されている。
尤も、明治5年の学制発布以前に、開明学校の前身である「申義堂」というのが、既に開かれていたという。
シーボルト(ドイツの医学者、動、植物学や民族学者、出島のオランダ館長、日本に深い理解者)の弟子蘭学者・二宮敬作と彼に師事した高野長英(陸奥・水沢出身、江戸後期の医者・蘭学者)、村田蔵六(山口・周防出身、後の官軍総督・大村益次郎)、シーボルトの娘・お稲などが学んでいたといい、明治以前から学問が盛んな土地柄であった。
現在は教育資料館として私塾時代の教科書など数千点を展示している。
因みに長野県松本市の松本城(黒城といわれる国宝)近くにある日本最古といわれる校舎・「開智学校」とは親善友好、文化財保護、教育文化等の進展に寄与し合おうと、「開明学校」とは姉妹館提携を結んでいるという。
宇和の町外れ北部に、昨今、松山道も開通している、その松山道に乗る。南海の僻地も今では近くなった。
大洲と長浜・・、
松山道を一旦「大洲」で下りる。
トンネルを抜けると突然、大洲(おおず)の町並みが広がる。
清流の一級河川・肱川(ひじがわ)の肱川橋付近、すぐ左に美しく華麗な天守閣が見えている。
平成16年、豊富な資料をもとに木造で復元したというピカピカの「大洲城」である。
初期の築城は鎌倉末期、伊予の守護として赴任してきた宇都宮氏が築いたという。
宇都宮氏の本家はご存知栃木・下野の国で、鎌倉戦国期、源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた武家本流の家柄で、伊予・宇都宮氏はその庶流(分家・本家から分れた家柄)といわれる。
戦国期、脇坂安治(近江出身戦国時代の武将、豊臣秀吉の部将賤ヶ岳の七本槍の一人、小田原征伐)が関ヶ原戦後は伊予大洲に封じられた時、現在の近い姿に改築された。
お城の天守は通常は三層か五層の奇数階であるが、こちらは珍しく四層四階の天守構造に成っていて、更に複連結式天守(大小の天守が繋がっている様)と呼ばれる構えでもある。
大洲城はその後戦乱に合うこともなく、明治維新後、政庁布令によって天守は取り壊された 。 しかし、城下町は今でも、その古い佇まいを残しており、武家屋敷や臥龍山荘、赤煉瓦館といった名所等、伊予の小京都と言われる風情をみせている。
昭和41年のNHK朝のテレビドラマで明治中期の大洲市を舞台にした樫山文枝、高橋幸二らが演じた「おはなはん」のロケが行われたことから、「おはなはん通り」という名称もあり、市民に親しまれているという。
河を渡った大洲の街並みも静かな落ち着いた佇まいである。
肱川(ひじかわ)が、この地区で大きく湾曲していて、そのため古くは河湊としての「津」(湊、港)があり、克っては大津と呼ばれていた。
ところが、赴任してきた脇坂安治が出身地の近江・大津と紛らわしいので「大洲」としたといわれる。
この湾曲した川州を利用して城下への交易、流通を盛んにし、商家として大いに発展した。
更に上流(現在の肱川町あたり)からは筏流しや川船で木材や木蝋などの特産品を水運していた。
肱川の河口に架かる、跳ね上げた状態の長浜大橋(赤橋;長浜町)
愛媛県を代表する川でもある肱川の河口に長浜町(現大洲市)があり、この河口に珍しい橋が架かっている。
長浜大橋、通称「赤橋」と呼んで地元民は親しんでいる。
架橋当時の旧長浜町は、秋田・能代(秋田杉・・)、和歌山・新宮(熊野杉、桧・・)とともに日本三大木材集積地として繁栄。上流から運ばれる木材を機帆船で京阪神地区へ出荷していた。 その際、上流に造船所や木材等の物資を運ぶ機帆船が航行することから、開閉式の橋が建設されたといわれる。
この橋は一部が動いて船を通す可動橋であるという。
一般に、可動橋の方式には三種類あって、一つは橋桁が跳ね上がる「跳開橋」で、赤橋はこのタイプである(バスキュール式)、二つ目は橋桁が旋回する「旋回橋」(日本三景の一つ「天橋立」に架かる小天橋回旋橋)、三つ目はエレベータのように上下に動く「昇開橋」である。
跳開橋には、東京の勝鬨橋(かちどきばし)のようにハの字型に開く橋もあるが、赤橋は片方だけが跳ね上がる。
昭和10年、待望の長浜大橋が完成している、現役の道路可動橋では日本最古となるという。
日本の代表的な開閉橋である勝鬨橋(※、東京都中央区にある隅田川に架かる橋)より5年早いという。
一時、撤去の話しも出たたが、地元の強い熱意で保存が決まり、生活道路として利用されているという。大戦中には米軍機の機銃掃射を受け、その痕が今も残っている。
1977年(昭和52年)、河口寄りに国道378号のコンクリート造の橋梁(新長浜大橋、長さ333m、幅10m)が架かり、幹線道路としての役割はそちらに譲ったが、現在でも生活道路として地元の車や通学の児童生徒によく利用されているという。1998年には国の登録有形文化財になっている。 過日、サンケイ新聞で1頁全面カラーで、この橋のことを記事にしていたのを思い出した。
「伊予の小京都」と呼ばれる大洲市は、2005年(平成17年)1月、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併し、新しい大洲市となっている。
※、因みに、小生初めて東京へ出て銀座見物した折、偶々(たまたま)、勝鬨橋を通ろうとして、その開閉に出会ったことがあり、その時の迫力に圧倒されたのを覚えている。隅田川の第一橋梁である勝鬨橋は、昭和15年に竣工している。
しかし、残念ながら昭和45年以来「あかずの橋」になってしまったようである。完成当時は、東洋一の規模をほこり、わが国最初のシカゴ式二葉の跳開橋として知られてうたという。
戦後、アメリカ軍がこの橋を見たとき、日本人が設計・施工したことを信じなかったそうで、近代史としても技術史としても大変価値ある橋である。
この「動く橋」を再起動させて、定例行事にすれば,東京の活性化,隅田川国際観光の大きなシンボルになり、動態保存にもなるということで、保存運動が盛んだというが、果たして・・?。
再び、松山道を行く、もう陽がだいぶ斜めに落ちてきた。
内子町の街並みが山々に囲まれて、押しつぶされそうに佇んでいる。
平成17年1月に、内子町、五十崎町、小田町の3町が合併し新内子町が誕生している。
この先、松山まで重畳たる山波が連続する。 もっとも今までもそうだったが、大洲盆地を含む喜多郡、伊予郡もみな波濤とような山並みが浮き沈みしているのである。
大洲の東、保内町で、その大山脈の片割れ片鱗が、東へ大きく大洋に向かって細長く伸び、佐田岬へ達している。
佐田岬は、付け根から先端まで「岬十三里」と呼ばれて50kmを超す「日本一長い岬」だそうだ。 豊予海峡に突き出ていて、大分県・佐賀関までの海峡は直線でわずか15kmまで接近している。 天気が良ければ九州の山並みが見ることが出来るという。
「さたみさき」は、九州本島最南端である佐多岬(さたみさき)があり混同し易い、「漢字の”た”」の字が異なる。 この後、訪れる予定でもあり楽しみにしている。
次回は、先ず野球王国・「松山」
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完成ホヤホヤの「大洲城」
古風で教育熱心だった宇和地方の小都市・「宇和」 、
南伊予の海岸は山並みが海岸線にまで押し出し、これが複雑に重なり合っている所謂、リアス海岸を形成している。 従って、そこを走る道は山間を縫う様に、曲折しながら延びている。
吉田町は、こんな沿岸山地の一角にある。
陸奥・仙台から赴任してきた宇和島藩主の伊達秀宗の五男・宗純が三万石を分与されて吉田藩を創立、居館をこの吉田の地に定めている。
今でも武家屋敷や豪壮な商家など風格ある家並みが、往時の姿を留めている。
トンネルが連続する中、法華津トンネルは宇和町と吉田町の町境にあたる。
近世まで、南伊予・宇和島あたりは街道の行きつく果てと云われた。
旧道の峠は、かつては宇和島街道最大の難所といわれ、この最後の道程に「羊腸の小径」(箱根八里の歌詞から引用)たる法華津峠(ほけず)を越さねばならない。
仙台の伊達秀宗一行の小勢が、瀬戸内海を渡り、遥々この地まで来て法華津の峠に立ち、宇和海と行き着く土地柄を眺めた時の感慨は如何ばかりであったろう・・?、
今では、名勝とも言われる法華津の峠である。
頂上に立つと、眼下にリアスの入り組んだ海岸と紺碧の宇和海が織りなす、伊予屈指の大展望が開けるという。現在、この下を立派な国道が峠を刳り貫いて法華津トンネルが通貫している。
峠を下ると田園文化の町・宇和町に達する。藩政時代・宇和島藩に属し、純農村地帯として藩の米倉の役目を果たしていたらしい。
又、宇和町の国道を右に、古風な中町の町並みが整然としている。
幕末から明治初期、宇和島街道の宿場町として栄えた面影を残している。
その北の一角に、外観洋式の「開明学校」がある。
明治15年に建築された西日本最古級の現存する小学校舎で、モダンな校舎は国の重要文化財に指定されている。
尤も、明治5年の学制発布以前に、開明学校の前身である「申義堂」というのが、既に開かれていたという。
シーボルト(ドイツの医学者、動、植物学や民族学者、出島のオランダ館長、日本に深い理解者)の弟子蘭学者・二宮敬作と彼に師事した高野長英(陸奥・水沢出身、江戸後期の医者・蘭学者)、村田蔵六(山口・周防出身、後の官軍総督・大村益次郎)、シーボルトの娘・お稲などが学んでいたといい、明治以前から学問が盛んな土地柄であった。
現在は教育資料館として私塾時代の教科書など数千点を展示している。
因みに長野県松本市の松本城(黒城といわれる国宝)近くにある日本最古といわれる校舎・「開智学校」とは親善友好、文化財保護、教育文化等の進展に寄与し合おうと、「開明学校」とは姉妹館提携を結んでいるという。
宇和の町外れ北部に、昨今、松山道も開通している、その松山道に乗る。南海の僻地も今では近くなった。
大洲と長浜・・、
松山道を一旦「大洲」で下りる。
トンネルを抜けると突然、大洲(おおず)の町並みが広がる。
清流の一級河川・肱川(ひじがわ)の肱川橋付近、すぐ左に美しく華麗な天守閣が見えている。
平成16年、豊富な資料をもとに木造で復元したというピカピカの「大洲城」である。
初期の築城は鎌倉末期、伊予の守護として赴任してきた宇都宮氏が築いたという。
宇都宮氏の本家はご存知栃木・下野の国で、鎌倉戦国期、源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた武家本流の家柄で、伊予・宇都宮氏はその庶流(分家・本家から分れた家柄)といわれる。
戦国期、脇坂安治(近江出身戦国時代の武将、豊臣秀吉の部将賤ヶ岳の七本槍の一人、小田原征伐)が関ヶ原戦後は伊予大洲に封じられた時、現在の近い姿に改築された。
お城の天守は通常は三層か五層の奇数階であるが、こちらは珍しく四層四階の天守構造に成っていて、更に複連結式天守(大小の天守が繋がっている様)と呼ばれる構えでもある。
大洲城はその後戦乱に合うこともなく、明治維新後、政庁布令によって天守は取り壊された 。 しかし、城下町は今でも、その古い佇まいを残しており、武家屋敷や臥龍山荘、赤煉瓦館といった名所等、伊予の小京都と言われる風情をみせている。
昭和41年のNHK朝のテレビドラマで明治中期の大洲市を舞台にした樫山文枝、高橋幸二らが演じた「おはなはん」のロケが行われたことから、「おはなはん通り」という名称もあり、市民に親しまれているという。
河を渡った大洲の街並みも静かな落ち着いた佇まいである。
肱川(ひじかわ)が、この地区で大きく湾曲していて、そのため古くは河湊としての「津」(湊、港)があり、克っては大津と呼ばれていた。
ところが、赴任してきた脇坂安治が出身地の近江・大津と紛らわしいので「大洲」としたといわれる。
この湾曲した川州を利用して城下への交易、流通を盛んにし、商家として大いに発展した。
更に上流(現在の肱川町あたり)からは筏流しや川船で木材や木蝋などの特産品を水運していた。
肱川の河口に架かる、跳ね上げた状態の長浜大橋(赤橋;長浜町)
愛媛県を代表する川でもある肱川の河口に長浜町(現大洲市)があり、この河口に珍しい橋が架かっている。
長浜大橋、通称「赤橋」と呼んで地元民は親しんでいる。
架橋当時の旧長浜町は、秋田・能代(秋田杉・・)、和歌山・新宮(熊野杉、桧・・)とともに日本三大木材集積地として繁栄。上流から運ばれる木材を機帆船で京阪神地区へ出荷していた。 その際、上流に造船所や木材等の物資を運ぶ機帆船が航行することから、開閉式の橋が建設されたといわれる。
この橋は一部が動いて船を通す可動橋であるという。
一般に、可動橋の方式には三種類あって、一つは橋桁が跳ね上がる「跳開橋」で、赤橋はこのタイプである(バスキュール式)、二つ目は橋桁が旋回する「旋回橋」(日本三景の一つ「天橋立」に架かる小天橋回旋橋)、三つ目はエレベータのように上下に動く「昇開橋」である。
跳開橋には、東京の勝鬨橋(かちどきばし)のようにハの字型に開く橋もあるが、赤橋は片方だけが跳ね上がる。
昭和10年、待望の長浜大橋が完成している、現役の道路可動橋では日本最古となるという。
日本の代表的な開閉橋である勝鬨橋(※、東京都中央区にある隅田川に架かる橋)より5年早いという。
一時、撤去の話しも出たたが、地元の強い熱意で保存が決まり、生活道路として利用されているという。大戦中には米軍機の機銃掃射を受け、その痕が今も残っている。
1977年(昭和52年)、河口寄りに国道378号のコンクリート造の橋梁(新長浜大橋、長さ333m、幅10m)が架かり、幹線道路としての役割はそちらに譲ったが、現在でも生活道路として地元の車や通学の児童生徒によく利用されているという。1998年には国の登録有形文化財になっている。 過日、サンケイ新聞で1頁全面カラーで、この橋のことを記事にしていたのを思い出した。
「伊予の小京都」と呼ばれる大洲市は、2005年(平成17年)1月、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併し、新しい大洲市となっている。
※、因みに、小生初めて東京へ出て銀座見物した折、偶々(たまたま)、勝鬨橋を通ろうとして、その開閉に出会ったことがあり、その時の迫力に圧倒されたのを覚えている。隅田川の第一橋梁である勝鬨橋は、昭和15年に竣工している。
しかし、残念ながら昭和45年以来「あかずの橋」になってしまったようである。完成当時は、東洋一の規模をほこり、わが国最初のシカゴ式二葉の跳開橋として知られてうたという。
戦後、アメリカ軍がこの橋を見たとき、日本人が設計・施工したことを信じなかったそうで、近代史としても技術史としても大変価値ある橋である。
この「動く橋」を再起動させて、定例行事にすれば,東京の活性化,隅田川国際観光の大きなシンボルになり、動態保存にもなるということで、保存運動が盛んだというが、果たして・・?。
再び、松山道を行く、もう陽がだいぶ斜めに落ちてきた。
内子町の街並みが山々に囲まれて、押しつぶされそうに佇んでいる。
平成17年1月に、内子町、五十崎町、小田町の3町が合併し新内子町が誕生している。
この先、松山まで重畳たる山波が連続する。 もっとも今までもそうだったが、大洲盆地を含む喜多郡、伊予郡もみな波濤とような山並みが浮き沈みしているのである。
大洲の東、保内町で、その大山脈の片割れ片鱗が、東へ大きく大洋に向かって細長く伸び、佐田岬へ達している。
佐田岬は、付け根から先端まで「岬十三里」と呼ばれて50kmを超す「日本一長い岬」だそうだ。 豊予海峡に突き出ていて、大分県・佐賀関までの海峡は直線でわずか15kmまで接近している。 天気が良ければ九州の山並みが見ることが出来るという。
「さたみさき」は、九州本島最南端である佐多岬(さたみさき)があり混同し易い、「漢字の”た”」の字が異なる。 この後、訪れる予定でもあり楽しみにしている。
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