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日本周遊紀行(78)松山 「野球王国」 ,
伊予松山に野球王国を作り上げた大元は、「正岡子規」であった・・、
松山道は、松山市の南端で西よりへ向かい、瀬戸内の西条市からさらに高松へ延びている。
松山ICより、待望の松山市内へ入ったようであり、一旦、国道33号線へ出る。
この国道は土佐の高知から内陸部を通って松山に到るもので、松山側からは「土佐街道」、高知側からは「松山街道」と称しているようである。
次に、松山のほぼ市街に入ったところで、国道11号線と合流する。こちらは阿波の徳島を起点として讃岐の高松を経て、伊予小松と、ほぼ瀬戸内沿岸から松山に達している。通称、松山側で「伊予小松街道」、この先を「讃岐街道」と言っているようだ。
小生、20代後半、仕事で瀬戸内の直島(岡山県玉野市のすぐ前にありながら四国・香川県所属=香川郡直島町)で半年間、出張勤務してた時期があった。作業勤務が終了して、本社(東京)へ戻るとき、休暇をとって四国の主要都市を巡る一周の旅をしたのが、この二つの国道ルートであった。
松山市街は夕刻時でもあろうか、車の往来も激しく、人の行き来も気ぜわしく感じる。
しかし、首都・東京周辺の気違いじみた渋滞や喧騒は無く、やはり、田舎の都会なんだなあ・・、と実感する。
石手川の立派な橋を渡って間もなく、都会の真中に「松山商高」があるのに気がついた。
四国は高校野球が盛んで全国的にもレベルが高い、愛媛県はその筆頭だろう。
その中で松山商高は歴史、伝統ともに抜きん出ていることは、高校野球ファンならずとも大衆が認めるところであろう。
高校野球ファンの小生には、この松商の試合で強烈に印象に残っているのが二試合ある。
一つは昭和44年・夏の大会決勝戦の試合である。
この時は小生、勤務を早引きして近所の公民館でテレビ拝見した時の事である。相手は青森県・三沢高校である、通のファンなら「ああ、やっぱりあの試合か・・」と思うに違いない。
優勝経験が豊富な甲子園常連の伝統校と、本州最北端の文字どおりの田舎チーム。
戦前からこのような試合展開を予想した人がいただろうか。 松商といえば、全国2,500余校の野球部が目標とするには申し分のない、日本高野連も太鼓判を押す模範校である。
一方、青森県東方・田舎の都市の代表・三沢高校は、高校野球不毛の地として定着していた。陸奥から突然変異的に現れたポッと出の無名チーム、ハナから勝負にならないだろうと思う人がいても無理はない。
投手は、松商・井上明、三沢・大田幸司。
試合は両投手とも好投して0対0のまま譲らず、遂に延長15回を迎える。 松商は、無得点で、その裏、三沢の攻撃である。 今まさに、この田舎チームは伝統的な日本野球そのものみたいな松山商業に対してとんでもないことをしでかそうとしていた。 それは、陸奥(みちのく)の人々の誰もが見た「全国高校野球の頂点」という夢に、史上最も近づいた瞬間であった。
先ず、5番菊池からの攻撃。粘った菊池が5球目を左前に運んで出塁。 6番高田は2球目を三塁前にバント、三塁手谷岡が猛然とダッシュしてくる、これを名手谷岡がジャックルして一塁も二塁もオールセーフだ!両軍を通じてこの試合初めてのエラーが、何と鉄壁の守りを誇る松山商業に出て、無死一二塁である。 三沢高校はサヨナラの走者を得点圏(2塁上)に置いてなおノーアウト。 7番谷川は、プレッシャーの中で初球のバントを失敗し、続く2球目を投手前へバント。 井上が猛ダッシュして一塁に送球、アウトで見事送りバントが成功・・!、松山商業は1死二三塁という重大なピンチに立たされた。 8番滝上、9番立花は今日ノーヒットで当たりが出ていないのでスクイズも十分考えられる。 球場全体が異様なムードに包まれる中、滝上への初球、井上は外角に外してボール。 松山商業の一色監督はバッテリーに敬遠策を指示したようで、滝上は敬遠の四球を選ぶ、これで1死満塁・・!、9番立花が打席に入る。 井上-大森バッテリーはスクイズを警戒しながら、立花への初球、さらに2球目も、外し気味に流れる外角のカーブで0-2。 三塁側アルプスの三沢高校応援団は大歓声だ。 井上は暫し間をおいて、立花に対してカーブを続けた0-2からの3球目は直球、コースは決まらずストライクを取りに行った球が内角高めに外れるボールだ。
その瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。1死満塁、カウントは0-3!大変なことになった。井上が絶体絶命の危機に立たされ、3球続けてストライクを投げないと押し出し!無常にもこの試合は終了し、陸奥の地に初めて深紅の大優勝旗が渡る、その瞬間が迫っているのである。
小生もこの瞬間を固唾お呑み、手に汗を滲ませながら食い入っていた、気がつくと、TVの前は初め数人であったが、いつの間にか黒山になっている。公民館の職員も、はたまた近所の勤め人も、一時仕事を放り投げて、この場所に詰め掛けたのだろう。
小生も東北出身(福島県・いわき市)のはしくれであり、深紅の優勝旗が白河の関を越えることは、東北、北海道人にとって永年の悲願であった。今だから書けるが、小生の出身母校である磐城高校は、この年の来々年の昭和46年、第53回夏季大会の決勝戦で神奈川県・桐蔭学園に1対0で敗れ、悔しくも、惜しくも優勝を逃しているのである。その後も、宮城の仙台育英、東北高校が夏の決勝戦に臨んだが、いずれも敗退している。
さて、こうなった以上、決着はついただろう、この様子を見守る誰もが、そう信じたに違いない。 どうする!井上・・!!、 後日談だが、この時、松商ナインはカウントが0-3になった時点で負けを覚悟したという、しかし井上は違ったらしい。 4球目、渾身で投げた球は真ん中低めのストライクで1-3。 問題の5球目は更にドロンとした低めの真ん中である、この瞬間、我々傍(はた)では、「よし、決まった」、と思ったに違いない。 打席の立花も、背番号10の主将で三塁コーチャーをしていた河村も低いと思ったはずだ。 「やった!」三沢ベンチに座っていた太田が腰を浮かせた次の瞬間、ひと呼吸おいて郷司球審が右手を上げてストライク・・!、球場内の至るところから「アーッ!エーッ」」という歓声とも悲鳴とも聞こえる声が上がった。 この時、試合中だというのに、この判定に対する抗議の電話が全国から大会本部に殺到したという。
以下、攻守交替するまで、1球、1投、1打すさまじいドラマが連続するが、ここでは割愛する。 松山商業は絶体絶命のピンチを井上の決死の粘投で奇跡的に切り抜け、井上投手にとっては、まさに15回裏・奇跡の25球であった。試合はその後、両者得点無く延長18回終了で翌日再試合になり、結局、松商が4対2で勝ち、優勝しているのは周知である。
次には平成8年・第78回夏季・決勝戦で松商は熊本工と対戦、延長11回、やはり奇跡的とも言える粘りの試合で全国優勝をものにしているのである。
因みに、この記憶に残る大試合から実に35年後、悲願の深紅の大優勝旗は昨年(2004年)、白河の関はおろか津軽海峡を越えて、一気に北海道の地へ上陸した。東・北海道代表「駒大・苫小牧高校」が全国制覇したのだ・・!!。 くしくも、この時の相手が愛媛県代表の済美高校である。 更に驚くべきことに本年(2005年)の大会も駒大・苫小牧高が連続優勝している。
小生、2004年の秋、東日本周遊の際、全国優勝したての駒大・苫小牧高校を訪れて見た。 正門の前に立ち、大きく張られた横断幕「祝い・全国制覇・・・」を感慨深げに拝見したのが記憶に新しい。
【追記】
平成18年(2006年)の 第八十八回夏季大会に於いて、何となんと・・!、駒大苫小牧が3年連続、決勝へ「駒」を進めたのであった。 相手は早稲田実(西東京)・・、
決勝戦は8月20日、早稲田実・斎藤投手、三回途中から救援の駒大苫小牧・田中投手の両右腕が冴え、息詰まる投手戦は1対1のまま延長戦となり、十五回両者譲らず、驚くことに引き分け再試合となった。(大会規定)
決勝戦・再試合は翌日行はれ、早稲田実が4―3で勝利し、27回目の出場で初優勝を果たした。 早稲田実は1回、2死一、三塁から船橋の適時打で先制し、2回にも川西の適時二塁打で1点を追加。6回、7回には、四死球で得た好機を生かして加点した。準々決勝から4連投の先発・斎藤は、140キロを超える速球と鋭い変化球で13三振を奪い、無四球で完投した。 駒大苫小牧は6回、三谷のソロ本塁打で1点を返した。9回には中沢の2点本塁打で1点差に迫った。主戦の田中は、先制を許した直後の1回2死一、二塁から登板し、後続を断った。その後も連打を許さず投げ続けたが、無念ながら、駒大苫小牧の史上2校目の大会3連覇はならなかった。
それにしても、今年の高校野球は、中盤から接戦・熱戦で盛り上がり、決勝戦に至っては近年、稀な程の熱気で、そのピークに達した。無論、北海道の駒大苫小牧が3連覇なるかにあったことは言うまでもないが、早稲田実の斎藤投手が「ハンカチ王子」と持て囃され、一種のヒーローが出現したことにもよる。そのため、少女から中年のオバサンまでもが甲子園に足を運び、大騒ぎで大盛況であった。
因みに、今年のプロ野球で、パ・リーグは北海道・札幌に根拠を持つ「日本ハム・ファイター」が優勝している。高校野球も、プロ野球も今年の野球は大盛況であり、特に北海道民の野球ファンは、堪らない年であったはずである。
さて四国、そして愛媛は野球王国と知られているのは衆知である、それはプロ野球の出身者を見ても判る。
野球発祥の地・アメリカに倣って「野球殿堂」というのが有る。
日本のプロ野球などで顕著な活躍をした選手や監督・コーチ、また野球の発展に大きく寄与した人物に対して、その功績を称えるために創設された殿堂である。
この殿堂に現在160人が居て、その内の9人が愛媛出身であり、さらにその内の6人が松山商高の出である。
この中で目を引くのが、最近(2002年)に殿堂入りした松山出身の「正岡子規」であろう。
正岡子規については次項にも記すが、この子規は上京して野球を知り、熱中するようになった、合わせて、愛媛に野球を伝えたという。
幼名は升(のぼる)、この名に因んで野(の)球(ぼーる)を野球と命名し、四球、死球、飛球、打者、走者といった、今も使っている訳語をつくり出し、定着させたという。
この正岡子規によって愛媛の野球が盛んになり、古豪・松商の存在があるとも云われる。
『 夏草や ベースボールの 人遠し 』 子規
松山商高のすぐ近くを走る国道11より、道後温泉へ向かう。
「勝山」という、国道同士が交差する大きな交差点より、松山の路面電車が並行するようになる。都市型の乗り物の代表格であった市電(又は、都電)も、今では交通事情によって次々と姿を消し、珍しい存在になりつつある。
明治36年開業し、東京都内を縦横に走っていた都電も完全に姿を消したようだが、北海道の札幌、函館では今でも現役で、今朝の高知でも、その姿を拝見したが。
失礼、都電は1972年以降は、荒川線(荒川区・三ノ輪橋駅から新宿区・早稲田駅、12、2km)のみは運行されている。
市電とは市営電車の略称で、市営の路面電車のことである。 ただし、市営でない路面電車のことまで市電と呼ぶこともある。 この場合は市街電車・市内電車の略と思われる。松山の市電は伊予鉄道(株)という民間会社が経営する路面電車、所謂、市街電車のようである。
松山駅前から来たのであろうか、「道後温泉」行きの市電とすれ違う、このまま路線を辿って行けば道後温泉に着くようである。
「上一万」の交差点を右に行くと、間もなく温泉地へ着いたようである。
奥まった旅館、ホテルや土産商店街が並ぶ中心に、あの夏目漱石の「坊ちゃん」で知られる「道後温泉会館」が貫禄たっぷりに在った。 周囲を、ほんの少々ブラツイテ・・、温泉会館の情報を伺うと早朝6時より営業していると聞いた。 小生の今夜の宿場は「奥道後」で、これより更に4kmほど奥まった所であり、時間も迫っているので本館入浴は明日早朝と腹に決めた。
こんもりした道後公園、子規記念館から、第51番霊場の「石手寺」の前を通り、石手川に沿って山あいを行くと、目指すNTT保養所「拓泉荘」が判りやすく在った。
次回は、松山・「道後温泉」
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