日本周遊紀行(33)伊勢神宮 「参道界隈」
参道入り口に立つ「宇治橋」
伊勢神宮の参道周辺の紹介・・!、
内宮の入口部にあたる宇治橋近辺は平日の夕刻迫る頃とあって、さすがに参拝客の出入も少ないように見受けられるが、心を平静に保ちながら宇治橋を渡る。
ここからは神宮の神域である、弧状の板橋の欄干に神々しさがただよう、前後には巨大な鳥居が二基、俗世と神域の境界を示しているようである。その姿は感動的ですらあり、身も心も正して清浄な宮域に入る心構えの大切さを感じさせる。
この宇治橋は20年毎に、かけ替えられるという。(式年遷宮・・後述)
宇治橋の外と内に高さ7.44mの大鳥居が立ってるが、内側の鳥居は、内宮の旧正殿(しょうでん)の棟持柱(むなもちばしら・大黒柱・支柱)が用いられ、外側の鳥居は外宮のものが当てられているといい、橋同様、共に20年毎に建て替えられる。
この鳥居がさらに20年経つと、内側の鳥居は、鈴鹿峠のふもとの「関の追分」へ、外側の鳥居は桑名の「七里の渡」の鳥居となり、ともに正殿の棟持柱となって以来、60年のお勤めを果たすという。
風雨に晒されること60年(鳥居の姿となって、正しくは40年)、幾ら管理が行き届いているとはいえ、改めて木製の強靭さに舌を巻くのである。
左右を松や杉等の緑樹に囲まれ、玉砂利を敷き詰めた参道は「神苑」と呼ぶそうである。
参道に立ち並ぶ鉾杉(ほこすぎ)は神域の森厳さを保ち、またモミ、マツ、ヒノキ、カシ、シイ、クス、サカキなどが繁り、暖帯北部の代表的な林相を成している。
「日除橋」を渡ると右手に「手水舎」があって、参拝前に手を清め、口をすすぐ。
「清め」は、本来は川や海の中に入って禊(みそぎ)をし、心身を清めていた行いであるが、これを簡略化したものであるという。
手水の所作についても作法があり、まず柄杓に水を汲んで左右の手を洗う、次に左の掌に水を受けて口をすすぐ。
柄杓から直接口をつけるのは不作法とされる。
神宮・内宮の場合は、五十鈴川の「御手洗場」で口と手を清めるのが普通である。
「一の鳥居」をくぐると独特で有名な「五十鈴川と御手洗場(みたらし)」に来た、残念なことに、ここは工事中のため御手洗の所作は出来なかったが。
五十鈴川は、内宮の清らかさを示す象徴的場所
右手のゆるやかな斜面を下りていくと、元禄5年(1692年)徳川綱吉の生母・桂昌院が寄進したものといわれる石畳の五十鈴川の清流に出る、この岸が御手洗場である。
神路山を水源とする神路川と、島路山を源とする島路川の二つの流れが合流して、五十鈴川となる。
神域の西側を流れる五十鈴川は別名「御裳濯(みもすそ)川」とも呼ばれ、倭姫命が御裳の裾のよごれを濯がれたことから名付けられたという伝説がある。
水源を神路山、鳥路山に発する神聖な川、清浄な川として知られる五十鈴川の水で、心身ともに清めてから参宮するところである。
五十鈴川の畔から参道は、ほぼ直角に左折する。 「二の鳥居」をくぐると左側に大きな入母屋造の建物がある「神楽殿」である。
神宮の神楽は一般に大々神楽と称していて、 江戸期、お蔭参りでの人々の一番の憧れは、お伊勢さまへの参拝と「大々神楽」を拝見することだったという。
大々神楽の「神楽」とは神遊びともいって、わが国の大古から神事に用いられてきた歌舞である。天照大御神の神恩に感謝をささげるために奏するものであるが、それと共に皇室の繁栄、国の平安、町や家の安全、心願の成就などの祈祷がされる。
現在、大々神楽の主たる祭事は春の神楽祭、秋の神楽祭で、皇居および皇室安泰をまつるために奏するといわれるが、民間の神社の祭儀で奏する歌舞は「里神楽」といって全国各地に様々な系統があるという。
神楽の発祥については、日本神話によると太陽神である天照大神(内宮祭神)が天岩戸に隠れて世界が真っ暗になった時、何とか気を引こうとアメノウズメが「神がかり」になってて舞ったのが神楽の起源であるとされている。
大々神楽は古き伝統に基づき、一般の歌舞祈祷は参拝者の申し出により随時執り行われているという。
隣に「御神札授与所」があり、おなじみの御神札(おふだ・皇大神宮札)・御守などの授与を取り扱っている。
又、神宮独特の遷宮(20年に一度の御建替・・後述)の造営資金の献金も受付ている。
伊勢神宮のお神札(ふだ)は 一般に「神宮大麻(たいま)」(大麻とは、古くは「おおぬさ」と読み、「お伊勢さん」、「お祓いさん」、「神明様」などと呼ばれ「天照皇大神宮」と印され,神宮の清浄なる地で祈りを込めて奉製されている)と称して、全国の神社(氏神さま)を通じても毎年年末に神宮から「天照大御神(皇大神宮)」として、各家庭に頒布(はんぷ)される。
序ながら、拙宅では
拙宅でも年末には神棚を新装し、近所の氏神さまより「皇大神宮」の神札を戴いている。
同時に「大年大神」(おおとしのおおかみ・日本でも珍しい家宅の神様)と「火産霊大神」(ほむすびのおおかみ・同義に火雷神(ほのいかづちのかみ)で火の神様、火伏せの神)も戴き、三柱を祀っている。
さて、同じ並びに「御酒殿」(みさかどの)、「御稲御倉」(みしねのみくら)、「忌火屋殿」(いみびやでん)、「籾だね石」(もみだねいし)、「踏まぬ石」(ふまぬいし)といった、およそ祭事の催物に関係した建物や石物が並ぶ。
その奥まった一段高い処に「荒祭宮」(あらまつりのみや)の社殿が鎮座している。
「荒祭宮」とは、天照大神の同一神
内宮(皇大神宮)には、別宮(わけみや)と称するのが十宮(下宮は四宮)存在し、周辺地域に八宮、この境内に二宮祭ってある。
別宮は正宮についで、崇拝される御宮であり所属宮社(他に摂社、末社、所管社等、合わあせると125の社がある)のなかでも重んじられている。
その荒祭宮は天照大御神の荒御魂を祀っている宮で、時に荒く猛々しく困った時に助けてくださる神様、長生きさせてくださる神様と、昔から厚い信仰があるとされている。
別宮のなかでも第一の宮に位置するという。
参道を挟んだ向かい側に五十鈴川に架かる、これまた神聖で古式ゆかしい「五十鈴川御橋」(風日祈宮橋)がある。
この辺りの森の雰囲気も実にいい。
クイズに「森」と「林」の違いは・・?とあったが、一般的には林は人の手が加わったもの、森は自然のままのものと言われる。
だがこの神宮の森は「自然のまま」の放ったらかしではなく、上手に人の手が入って管理されているもの・・と理解したい。
この奥に二つ目の別宮である「風日祈宮」(かざひのみのみや)の社がある。
外宮の風宮と同じく、天候の順調や豊作を祈る風の神をまつり、元寇(鎌倉期の蒙古との戦役)に神風を吹かせたのはこの風日祈宮といわれてる。
日本語の文言に「風光」とか「風雨」とか、よく言われる。
光は風を呼び、風は雨を呼ぶ。
この自然界の営みがバランス良く行はれるところに、自然の良質な豊かさや実りを得ることが出来、瑞穂の国、日の本はまさに恵みの国である。
光の神は天照大御神、そして風の神は風日祈宮である。
その瑞穂の国をお守りするのが、お伊勢さん「伊勢神宮」なのである。
参道にて、なにやら中国人らしい団体さんが大声を張り上げて雑列をなしている。
物見遊山の見物でその騒々しさに嫌気が指すが、彼等にしても日本人の心の故郷、拠り所である「御正殿」へ参拝して、日本人の心の一端でも知ってもらえれば、それで良しとしよう。
それにしても彼等は「靖国神社」をどう思っているのだろう・・?
靖国も国内の名所の一つであるゆえ、参拝してみては如何かな・・!。
間もなく「本殿」(御正殿)に到着である。
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