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日本周遊紀行(94)階上、種市 「洋野町」
「洋野町」は瑞祥地名・・?
県道1号は、海岸に沿って八戸線と並行して走っている。
八戸線は、八戸市の八戸駅から久慈市の久慈駅を結ぶJR東日本であり、「うみねこレール」という愛称が付けられているとか。
間もなくその踏切を横切って、国道45号へと合流した。
途中、用を感じたので案内に従って「道の駅・はしかみ」へ寄った。
気がつい付いて、「はしかみ」は当地「階上町」のことであった、「かいじょう」では無いらしい・・、妙な名であるが。
「かい」は音読みであることは判るが、「はし」と訓読みであろうことは気ずかなかった。
因みに、漢字は中国の文字でるが、日本に伝えられて、そのまま使われているわけではなく、例えば、「山(サン)」、「川(セン)」のような中国読みを「音読み」として、そのほかに、「山(やま)」、「川(かわ)」というような日本読みを「訓読み」というらしい。
「階上」は音読み、つまり中国式読み方で「はしがみ」となる。
いやはや、日本語は難しい・・。
町によれば、「はしかみ」の語源については定かでないが、往時、糠部五郡の中に階上郡があり、当時の郡役所の仕事をしていてた役人たちが「階上岳」という山の北麓にある八つの村を統合する名称として「階上・はしかみ」 と命名されたのではないかといわれている。
明治の大合併で、旧八カ村を合併して「階上村」となり、昭和55年には、町制施行により「階上町」となったとされている。
既に、「岩手県」に入っていたようで、 種市町である。
またまた、合併の話であるが、種市町は内陸部の隣村、大野村と合併協議が進み、新町名「洋野町」(ひろのちょう)として発足するらしいが、事実、2006年(平成18年)1月1日同町村がが正式合併し、九戸郡「洋野町」が誕生したという。
この地域は八戸市の生活圏、経済圏に属していることから、八戸市との将来的な越境合併も視野に入れて、広域圏の中心である久慈市との合併を拒否していた経緯があったらしい。
結局、八戸、久慈市の両市とも合併せず、九戸郡種市町と同郡大野村の2町村だけの合併を選択したようである。
町名は一般公募により「洋野町」と決められた。
だが「洋野町」という名称は、一種の「瑞祥地名」ではないか、という批判もあったという。
洋野の「野」と大野村の「野」は直接な関係はないというが。
瑞祥地名(ずいしょうちめい)とは、目出度い意味の言葉をそのまま地名にしたり、良い意味合いの言葉から地名を創作したりするものとされる。
古里、故郷、ふるさとは、人間のアイデンティティ(精神的同一性、自己の存在証明、同一性)を形成するのだともいわれる。
合併などにより新しい自治体が誕生する度に、ツルンとした瑞祥地名をつけるのは住民を「精神的根無し草」にする可能性を秘めていろと、ある専門家はいう。 「それは故郷を失ったに等しい」とする見方でもあると。
そして合併の際にどちらの地域も自分の地名を残したい一心で、双方から一文字づつ取って作る「合成地名」も結果は同じであろうと。
瑞祥地名であるが・・、
平成の大合併においては市町村名にまで「商品名」のような瑞祥地名が用いられるようになり、和や美、清、栄といった文字を使った地名など、その土地の歴史を反映していないものが多くなっているという。
地名研究家などからは「安易である」、「個性が無く日本全国どこでもその地名をつける事ができる」などといった批判も多い。
反面、特に対等合併の場合などどちらの地名を付けるか、お互いが主張しあって難儀である。又、個々の地名はある程度限られた地点の名称であるため、合併により広域となった地域を総称するに相応しい名称が無い場合もあり、これらを考慮して理解を示す向きもあるというが・・?。
突飛で 且つ私事であるが、小生若い頃、東京の「大手町」(東京都千代田区大手町)という地名のある、とある会社に勤めていた。
大手町は当然江戸城、現在の皇居の大手門に位置する事から名付けられたのは周知で・・、城下町なら何処にでもある町名である。
大手町の反対側、つまり皇居の反対に位置する赤坂に(赤坂、赤坂見附は江戸城外堀の名称)「紀尾井町」という、何やら意味深の地名がある。
この地は、130年前の江戸時代には徳川御三家の「紀州家」「尾張家」と、幕末の大老家である「井伊家」の屋敷が占めていたという。
その頭文字を一字づつ取って「紀尾井町」としたのである。
無論これは近年の合併で生まれた地名ではないし、合成地名の様ではあるが江戸期の昔から界隈の人々が”紀尾井様の居られる処”ということで、自然とこの名が付いたという。
まことに一語で歴史や当時の様子が窺える由緒ある地名だと、カネガネ思っていたのである。
序ながら、地域の合併、特に近年では「明治の大合併」(1889年の市町村制施行に伴い基礎自治体の数が1888年では71314から15859に減少)と「昭和の大合併」(1953年の町村合併法施行から1956年を経て1961年までに9868の基礎自治体が3472に減少)の大規模な市町村合併があった。
現在は「平成の大合併」が進行中であるが、この町村合併では、一貫して市町村数は減少する傾向にあり、合併の例が分割の例に比べて圧倒的に多い。 又、合併や分割の協議の決裂により、飛地が発生する場合もあったらしい。
もし、ここで八戸市と緊密な関係にあった種市町が、希望通り八戸と合併し、新八戸市が誕生していれば、間に階上町が存在していて種市地区は八戸市の「飛地」になるわけである。
因みに、中間に位置する階上町は、今時、合併話はないらしい・・?。
種市町であるが・・、
種市町のユニークさの一つに、「南部もぐり」というのが有るらしい。
一般にもぐり・潜水というと、素潜り、素潜り漁を連想するが、南部もぐりは古くからの伝統を生かし、技術的に高め、これを確立したことにある。
今から約100年前の明治期、種市沖で貨客船が座礁し、その解体引き揚げ工事のために、房州(千葉)から潜水夫がやってきた。
この房州潜りの組頭が住民のひとりに ヘルメット式の潜水技術を伝授したのが始まりだといわれている。
素潜りしか知らなかった彼らが、この技術を広範に広めていき、 そして、この地方に豊富な魚介類を採る沿岸養殖漁業に潜水を利用することを考え、今日の三陸沿岸の養殖漁業の基礎を築いたという。
戦後の昭和期、潜水士を養成するために、当時としては極めて珍しい岩手県の高等学校で「潜水科」が開設された、種市高である。
今、現在の種市高等学校の海洋開発科は、学習と実習を通して土木と潜水の基礎知識を学ぶことが出来る全国唯一の学科だそうで、生徒たちは海洋開発に必要な基本的な知識と技術を習得し、海洋工事全般に携わる高度な技術者を養成するための、 資格や免許も取得できるようになった。
卒業生は港湾土木や橋りょう建設、海底調査など国内外で顕著な活躍しているという。
次回は、「久慈」
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