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日本周遊紀行(93)八戸 「南部地方」
南部地方の「南部」とは方角ではない・・!!
八戸市の東に「南部町」がある。
甲斐国(山梨県)に栄え甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、平泉の奥州藤原氏征討の功で現在の八戸に上陸し、現在の南部町に根をおろしたとことは先に記した。
これが東北北部を占有した元祖・南部藩の始まりであるが、鎌倉時代に源頼朝に出仕して以来、鎌倉期から江戸末期までこの地方を統治し、700年間も同じ土地を領有し続けた大名は、薩摩の島津家と南部家の二家のみであるとされる。
八戸市街地の西方に「根城」(ねじょう)という地域があり、馬渕川沿いに根城城址がある。
八戸の町の始まりは、南部師行 が陸奥の国司・北畠顕家(きたばたけあきいえ:南北朝時代の公家・「神皇正統記」で知られる北畠親房の長男。 後に村上師清と名乗り、村上水軍の祖となる。北畠家は村上源氏の庶流)に従って甲州からやってきて、根城 に城を築いたときからとされる。
南部氏の祖は「南部光行」とその一族のことであるが、奥州に下向するにあたり出身地の甲州の地には、まだ光行の子息が残されていた。 その子から数えて四代目の子孫が根城南部氏を築いた「南部師行」であり、彼の子孫が八戸氏と称し、これが「八戸南部氏」の始まりといわれる。
これに対し、三戸(さんのへ)に根拠を置いた系統も存在した、これを「三戸南部氏」という。 三戸南部氏の出自については光行の二男・実光の系譜であるとされ、室町期の14世紀半ば頃に奥州に下向したようだが、南部氏が宗家としての地位をどの様に築いたかははっきりしないともいう。
何れにしても八戸南部氏も、三戸南部氏も初代光行の系譜で、ほぼ同格の存在としてみなされる。
又、室町時代後期には九戸氏も有力者として幕府(室町幕府)に認知されており、元より、九戸氏も南部氏の始祖光行の六男・行連を祖とする南部氏の一族である。
だが、室町期から戦国期にかけての北奥州地域の南部氏には、宗家と呼べるような確固とした勢力、権力を所持する家はなく、何れも地域に根を置く豪族といわれる同族連合の状況であったらしい。
しかし、八戸南部氏はその後衰退してゆくことになり、逆に三戸南部氏が伸張してゆくことになる。 この三戸南部氏が、後の江戸期の南部・盛岡藩に繋がったとされている。
三戸南部氏は南北朝時代以来、陸奥国・北部の豪族であった三戸城を居城とする南部信直(三戸南部氏)が、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣して秀吉の満悦を得、所領の安堵状と朱印状を賜り、奥州10ヶ郡(岩手・稗貫・和賀・紫波・鹿角・北・二戸・閉伊・九戸・三戸)におよぶ版図が確立している。
更に、関が原合戦の後の慶長5年(1600年)には徳川家康からも安堵を受け、大名として認知確立されるのである。
この頃から主藩は盛岡に置かれ「盛岡藩」となっている。
戦国末期の豊臣政権の軍勢下、南部信直は浅野長吉から不来方 (こずかた・今の盛岡)こそ南部の本城を置くのに適切ではないかと勧められたといわれる。
因みに、浅野長吉(ながよし:長政・ながまさ)は、豊臣政権の五奉行の一人であり、初名は長吉と名乗り「長政」は晩年の改名である。
子には浅野幸長、浅野長晟(ともに広島浅野氏)、浅野長重(赤穂浅野氏祖の長直の父)がいる。
引き続き八戸・「南部八戸」
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