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紀行(61)標津 「標津と野付半島」
標津、そして野付の意外な歴史・・、
羅臼町域の境を過ぎてしばらく進むと、知床の山麓海岸から、やがて見通しの良い平坦部になり比較的大きな河川も多いようである。
植別川を渡って「標津」(しべつ)に入る、広々とした平野が益々広がってきた。
ポー川という何とも愛らしい名前の河橋を渡る。
アイヌ語の「ポ」からで小さい・子供のような・・の川の意味らしい。
付近の標津川に比べ小さく、標津川を親に見立てれば子供のような関係に見立てて名付けられたものだと言えなくもない。
この辺りワタスゲが有名で、国の天然記念物に指定されている「標津湿原」が雄大に広がる。
一角には「三本木遺跡」などの案内標識もあった。
やはり続縄文(弥生期)からオホーツク文化の史跡、集落住居跡が多数発見されているという。
湿原の平坦地をユッタリと多くの河川が流れる、その町内を流れる殆どの河川で「サケ」が遡上するという。
「薫別川」や、特にサーモンパークのある「標津川」はサケの大群が遡上することでも有名で、TVやマスコミでも度々取り上げられる。
尤も町名になった「シベツ」の語源は、アイヌ語で「サケのいる大川、または本流」を意味するという。その標津は秋サケの水揚げは日本一を誇るといい、今はそのシーズンであろう。
成長したサケは、生まれ育った川を溯り産卵をして一生を終える。
そのサケを冬のキタキツネやヒグマの餌になり、北海道らしい自然の循環を繰り返しているのである。
また上流部は「オショロコマ」などの珍しい魚が多く生息しているという。
オショロコマは北海道独特の呼び名でイワナの仲間、主に北海道中部以北および東部の山岳地帯である石狩、知床、日高あたりの高山河川に広く生息分布している魚である。
然別湖などの封鎖された区域、カルデラ湖なのに棲むのを「陸封型」、他の河川の魚は「降海型」ともいうとか。
この辺りでも最大と思われるその標津川を渡る。
サケが喜んで這い上がってきそうな悠々たる流れであり、この川を渡ったところが標津の町並みが広がっていた。
嘗ては、この標津の町には国鉄線が走っていたという。
駅の名前は何故か「根室標津」と称していたらしいが、国鉄・標津線がそれであった。
経路は釧網本線の標茶駅から分岐して中標津町の中標津駅を経由して、標津町の根室標津駅に至る。 泉川、西春別、計根別、上武佐の各駅であり、又、中標津駅で分岐し根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線で、共和、春別、別海などの各駅からなっていた。
1933年(昭和8年)以来の開業であったが、やはり赤字路線らしく国鉄再建法の施行により一時JR北海道に承継されたが、1989年(平成元年)4月に廃止されている。
尚、根室標津駅から知床半島の付け根を横断する今の国道244号線と概ね並行した「根北線」(こんぽくせん)が通る予定だったらしい。
「根北」とは根室・北見のことであり釧網本線の斜里駅(現・知床斜里駅)から標津線の根室標津駅を結ぶ目的に建設される予定だった。
『根室国厚床付近ヨリ標津ヲ経テ北見国斜里ニ至ル鉄道』と明治期の鉄道法で定められており、戦争などの影響もあって1957年に斜里駅~越川駅がようやく開通した。
その後、国道が開通するに及んで、沿線住民の流出などで乗客数は激減し、その存在意義は薄れ、北海道の路線の中で真っ先に廃止候補に上がり、わずか13年の短い営業期間で露と消えたという、まさに幻の路線だったと言える。
廃線路線は鉄道マニュアが時折訪れては郷愁を感じているらしいが、時と共に風化され、やがては自然に還るのであろう。
ところで、標津の市街地の一角、国道272の交差信号の近くの海岸沿いに「船長の家」という民宿がある。
小生の息子が旭川市在学中の頃、冬季にこの付近で交通事故(自爆)を起こし、たまたま通りかかった宿の主人に助けられ、宿にて介抱されて大変お世話になったところである。
過る年、カミさんと道東旅行の際、立ち寄って挨拶お礼を申し述べた、が今回は目礼のみで通り過ぎることにする。
標津の町を抜けると間もなくの野付半島への分岐がある、その半島へ向かった。
この半島の雄大な自然については「温泉と観光の項」で述べるとして、驚いた事に、嘗てこの砂地の上には大きな街並みがあったという。
幻の歓楽街でその名を「キラク」という。
半島中央の森には擦文時代と思われる竪穴住居跡が多くあり、このひょろ長い半島に大昔から人跡が有ったことが標されている。
又、近世江戸期の頃の酒徳利(焼酎)や寛永通宝などが出土し、さらに付近からは嘉永の年号が入った墓石なども見つかっているという。
町史によれば今から200年前の江戸後期・寛政年間の頃においても和人が住みついていたことが記されている。
その根拠として地盤沈下(ナラワラ、トドワラの原因)をまぬがれている丘稜地帯には墓地や通行番屋跡が残存していて、墓地の規模から推測すれば少なくとも200人以上が埋葬されており、相当数の人口をもった街並みが形成されたようである。
現在、この一帯は荒涼たる草湿原にすぎないが、往時はトドワラ、ナラワラでも知れるとおり樹齢100年ほどの大森林が繁殖していて建物はこれら樹木によって造られ、巨大な通行番屋などが置かれ、大きいので建坪130坪にも及んでいたという。
幕府によって野付崎に通行番屋が設けられ、北方至近の「国後島」へ渡る為の要所としての位置を占めていたらしい。
又、18~19世紀の初め頃までは有数の鰊漁場でもあり、春になると根室場所の各番屋から出稼ぎにくる人々でにぎわい鰊番屋、蔵なども多数建てられていたという。
別海町に「加賀家文書館」なるものがある。
北海道の父と呼ばれる松浦武四郎との交友も深かったとされ、この地の歴史の表現者・加賀伝蔵の記録が多く残されているという。
江戸時代末期、別海町が根室場所と呼ばれていた頃、蝦夷地に夢を抱き秋田県の八森町から代々にわたり根室場所請負人の用人として働いていたのが加賀家の人達であり、文書館には彼等が残した文書が保管・研究・展示されているという。
その中の一文に「野付崎にはキラクという歓楽街があり、遊女もいたし鍛冶屋もあった」と記されている。
野付は古来より人々が住み着き、江戸期には鰊漁で多くの人々が集まり漁番屋も多く、野付から国後島に往来する人々も多かったらしい。
こうしたことが「歓楽街・キラク」としての残影を今に残しているのかもしれない。
しかし、「キラク」というのは地名なのか街の形容語なのか、日本語の喜楽・気楽が語源であるとも言われるが「幻の街・キラク」の如く定かではない。
次回は、「根釧原野」
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