日本周遊紀行(60) 羅臼 「北方領土・国後島」
我が領土、「北方領」を返せ・・!!
知床から太平洋側に出て、「羅臼」の町並みを過ぎてから根室海峡に沿って国道335を進む。
別名「国後海道」(くなしりかいどう)というらしい。
その名の通り「国後島」が堂々と大きく、両端が霞んで見えなくなってしまう程の大陸の如きに横たわっている。 距離にして20km内外であろうか。
北方四島の「国後島」であるが、地図を見ると東北部に爺爺岳という和名の気高い山(1822m)も書かれている。
そうなのだ、北方四島は明らかに日本の領土なのである・・!!。
その歴史を辿ってみよう。
「18世紀」~「18世紀後半」=「日露通好条約」が結ばれ、日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決まる。 これにより江戸幕府が択捉島(えとろふとう)及びそれより南の島々に番所を置く。
択捉島から南は日本の領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認される。
「明治8年」=千島・樺太交換条約を結び、それまでロシア領であった得撫島以北の18島を譲り受ける。
「明治13年」=新しい行政組織のもと、色丹(しこたん)、国後、択捉の3島に村役場が置かれる。
「明治20年」=国後、択捉両島にも道路網が整備され郵便局、駅逓も置かれ、さらに島と北海道を結ぶ定期航路が開設され、電信も開通する。
「大正12年」=北方領土にも町村制が施行され、各島に村役場が置かれる。
「昭和14年」=北海道庁は、択捉島紗那村に千島調査所を設置し、軍事的緊張の中で開発が進められる。
「昭和20年」=太平洋戦争終結 ソ連、千島列島(北方四島)占拠 住民は北海道、他へ退去。
「昭和20年」=当時の根室町長が連合国最高司令官マッカーサー元帥に対し「択捉島以南の島々は、古くから日本の領土であり、これらの島々において、島民が安心して暮らせるよう措置してほしい」旨の陳情書を提出す。
「昭和26年」=日本はサン・フランシスコ平和条約に調印、この結果、日本は千島列島と樺太の権利、権原及び請求権を放棄した。 しかし、放棄した千島列島に固有の領土である「北方四島」は含まれない・・!!。
「昭和31年」=日ソ共同宣言により国交が回復す。
本宣言では、平和条約締結後、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する旨規定され、両国の国会・最高会議で批准される。
「昭和36年」=ソ連のフルシチョフ首相が「北方領土問題は解決済み」と言明して以来、領土問題は進展せず。
「平成3年」=ゴルバチョフ大統領がソ連の元首として初めて来日し、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが確認され、平和条約締結作業を加速することの重要性が強調される。
「平成5年」=エリツィン大統領が来日し、『東京宣言』が署名され、「①領土問題を北方四島の島名を列挙し、その帰属に関する問題であると位置づけ。②領土問題を歴史的、法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成されるものとする。
「平成13年」=上海・APECでの日露首脳会談(森・プーチン)では、双方が前提条件を付けずに歯舞・色丹の議論と国後・択捉の議論を同時にかつ並行的に進めていくことで概ね一致す。
「平成16年」=チリ・APEC日露首脳会談(小泉・プーチン)でロシア側、二島返還(歯舞・色丹)を匂わせるも、直接言及無く進展はしていない。
尚、北方領土返還運動については、この先の根室が最前線になっている。
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