google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2010-03-07

2010年3月13日土曜日

日本周遊紀行(62)別海 「根釧原野」

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日本周遊紀行(62)別海 「根釧原野」


野付半島から再び国道244へ戻ると間もなく別海町に入った。 

この海道は野付国道、別名「北方ロード」ともいう。 何も北国にあるから北方ではなく北方領土の「北方」なのである。
成る程、国道の傍らから時折、彼方に大きく横たわっている国後島が傍観できる。 

暫く行くと国道の傍らに「別海北方展望塔」があつた。 広々とした駐車場が有って、そこに北方領土返還要求運動の高揚を期するために建てたのであろう、『四島への道・叫びの像』がある。


『北方四島は俺達のもんだ・・!!早く還せ・・!!』 と叫んでいるようである。

この像は山形在住の実業家・鈴木博六氏が北方領土返還要求運動に情熱を込めて像を建立、町へ寄贈したものであるという。  
博六氏は、あの・・”デンデンデン、デン六豆、うまい豆・・”のコマーシャル・ソングでお馴染みの製菓会社で知られる、「でん六豆」の創始者であった。

無論、展望塔からは野付半島やオホーツク海に浮かぶ北方領土・国後島が一望でる。



更にR244の海岸線を南下する。

先程まで微かに遠望できた知床連山から派生している山並みは、すっかり姿を消し右手内陸方向は大平原地帯になっていた。 
平原といっても「マッサラ」ばかりでなく、起伏のある丘陵地、森林帯、草原帯と変化に富んでいる。 
この大平原地帯を「根釧原野」(こんせんげんや)と呼んでいるようである。 
この原野はいかにも北海道らしいというか道内でもでも最大級の広大さで、そのエリアは釧路より東部地域、阿寒から知床へ連なる高原、山岳地帯より南部地域一帯を指しているという。



因みに、この「根釧原野」(こんせんげんや)を地理上で観てみると・・、

釧路湿原を含むその東側である阿寒から知床へ至る山々より南側の平地、丘陵地帯を指し、その「原野」を景観で見ると海岸から内陸へ向かって大きく「海岸草原」、「森と湿原」そして「牧草地」との三つの各層に分けられるという。 

尤も、「根釧原野」と呼ぶとき使われる「原野」について北海道では、未開拓地や開拓まもない土地を明治時代以降に「原野」と呼んで来ている場合が多い。
特に釧路地方,根室地方の「原野」については人の手が入った二次林や森林伐採後でできた草原の部分と原始林、湿原や湖沼等の未開地の部分の両面をも指さしているようである。
つまり、原野といっても完全な原野ではなく、既に人の手が入った状態のものも「原野」と呼んでいるようである。


ここで「根釧原野」における各様相を地域的にみると・・、

先ず『海岸草原』とは花咲半島から落石岬(根室市)、恵茶人からホロト(浜中町)、湯沸岬(浜中町)、涙岬(浜中町)、尻羽岬(釧路町)などに見られる景観で、主に北太平洋シーサイドラインと呼ばれている道道の周辺にて良く見られる。

』とは、東から根室の温根沼西部に拡がる温根沼国有林、霧多布湿原西部から火散布沼、藻散布沼、厚岸湖を囲む厚岸道有林、別寒辺牛川中流にあるパイロット・フォレスト(パイロットファーム:実験農場、と同じ意味合いで、昭和31年頃から国策で進められた大規模造林地のことで場所は厚岸町の奥 標茶町との境あたりを指す)、上尾幌周辺に拡がる尾幌国有林などが森林景観として見て取れる。

湿原』とは、湖沼や湾が自然に埋め立てられた湿原と河川流域湿原がある。 
湾・海岸に面している風連湖、温根沼、火散布沼、厚岸湖などの周辺にある湿原や霧多布湿原は前者であるが、河川の中上流域に広がる流域湿原は広大で釧路湿原、厚岸湖に注ぐ別寒辺牛川(べかんべうし)、上流域に拡がる別寒辺牛湿原、風蓮川流域湿原、標津湿原などである。 その河川は釧路川とその支流、別寒辺牛川、風蓮川、ヤウシュベツ川、西別川、床丹川、春別川、標津川などである。

又、『牧草地』としては主に国道44号線の北側で阿寒、知床へ続く山々の麓まで拡がり北海道は無論、日本の代表的な一大牧草地、酪農地帯を形成しているのである。


次回は、根室・「風連湖と春国岱」




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2010年3月12日金曜日

世界遺産・知床(17) 羅臼「羅臼八景」

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世界遺産・知床(17) 羅臼「羅臼八景」



望郷台から望む羅臼市街、根室海峡と国後島


羅臼町は、知床半島の脊梁山脈にあたる知床連山が町境で、隣接する斜里町と二分されている。
目の前に広がる根室海峡の向こうには、北方領土の国後島が、羅臼町とほぼ平行に対峙しているて、近い所で25㎞しか離れていない。

知床連山に源を発した多くの河川が海に流れ込み、主に羅臼川河口部を中心に中心市街、集落があって、街の正面に当たる海岸線は、大半が「羅臼港」が占める。港の大きさが示すとおり、漁業従事世帯が総世帯の3分の1を占める漁業の町であり、「魚の城下町」とも呼ばれている。 羅臼の海産物はスケソウダラ、昆布、鮭、イカ、ウニなどが獲れ・・、特に羅臼コンブは有名。

「日本最後の秘境」、「原生の自然」などと謳われる「知床」だが、羅臼は、岬まで海岸線には30軒ほどの番屋が並び、夏の間はコンブ漁の漁師が番屋で暮らすという。 そもそも羅臼側は、人跡未踏というような場所ではなく、岬の先端部、その先の海までもが地元の人々にとっては生活圏といえる。
又、知床半島を斜里町と二分する羅臼町であるが、「ウトロ」と並んで知床半島観光の拠点となる町でもある。特に、先に紹介した露天風呂「熊の湯」や海峡に面し波打ち際に湧き出る「セセキ温泉」(満潮時には水没するという温泉)、相泊温泉(あいどまり:羅臼より15kmほど、海岸線の際にあり、砂利を掘って木枠で囲った湯船が設置されている)などユニークな温泉も多い。
又、『知床旅情』の唄の発祥地、人気ドラマ「北の国から 2002遺言」のロケ地などの人気のスポットでもあり、国内最大のヒカリゴケの群生地など、こちらも斜里町ウトロ側と並んで数多くの見所がある。

羅臼も、「世界自然遺産・知床」に代表される世界有数の自然に囲まれた町である・・、
或る漁業関係者は『世界遺産になったから素晴らしいとか、いいとかいう話じゃないんだよね。むしろ世界遺産になったからこそ、もう少しきちんとしなくちゃいけない、そう思ってやってるんだ』・・と
世界遺産である羅臼町(町域は含まない)は、知床観光もさることながら人々が暮らす漁業との二本柱の町なのである。


ここで、観光協会が推薦する「羅臼八景」を紹介しよう。


羅臼八景1【しおかぜ公園】
森繁久弥の像が立つ、見晴らしの良い公園


羅臼漁港を一望でき、まさに「潮風」を頬で感じる好立地!!オホーツク老人の像の横には森繁久弥がロケに協力した羅臼町民に感謝を込めて贈った歌「知床旅情」の歌詞が自筆で彫られている。

戸川幸夫小説「オホーツク老人」の碑が建ち、これを原作とした名作映画「地の涯てに生きるもの」の撮影から森繁久弥の『知床旅情』が生まれた。


羅臼八景2 【マッカウス洞窟(ひかりごけ)】


市街地から1.5km知床半島よりにある洞窟で、内部には幻想的な光を放つ「ひかりごけ」が自生している。ヒカリゴケは糸状に伸びた茎の部分にレンズ状の細胞が並んでおり、コレが光を反射して美しいエメラルド色に輝く。 自生規模が国内最大・・!

松浦武四郎が知床探検のとき一夜をここで過ごしたといわれる。

夏は日が差してる時間が見ごろで、冬はヒカリゴケに代わって氷の柱「氷筍」が見られる。北海道指定天然記念物の1つ。
見頃、5月~10月・・、12月~4月は氷筍が見られる


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羅臼八景3 【間欠泉】



市街地から知床峠方面へ約3km羅臼側支流「発電所川」の右岸川床に位置する・・、昭和36年ボーリング作業中に噴湯したという。 
間歇泉は比較的寿命が短く、全国でも数が少ないというが、こちらの間欠泉は1時間ごとに噴出すという・・!、高さは6m・・!、見頃は 5月~12月 。
北海道指定天然記念物の1つ。


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羅臼八景4 【クジラの見える丘公園】



道道87号線沿線、「ざいもく岩トンネル」上の羅臼灯台の隣に位置する。
「丘」から体長17mにも及ぶマッコウクジラの噴気やオッポを観察できるのは、日本でもココ羅臼だけという。 25km先には北方領土・国後島を・・、眼下には定置漁業のたて網が見られる。
展望台まで1車線の舗装路があるが、冬期間除雪されないので注意を要する。
スノーシューなどのトレッキングコースでもあり、双眼鏡は必携(7倍から10倍)とのこと。 概ね14時~日没30分前くらいが観察しやすいという。


羅臼八景5 【羅臼岳】
羅臼湖・三の沼と「羅臼岳」


知床半島の何処からでも見える主峰の羅臼岳は、日本百名山の一つで標高1660m、市街地からも一番目にする代表的な山である。
特に、「羅臼湖」から見る羅臼岳も絶景ポイントである・・!。(羅臼湖は下部特別編にて紹介)


羅臼八景6 【知床峠】



先にも紹介したが改めて・・、日本一開通期間が短い国道(11月上旬~4月下旬閉鎖)斜里町ウトロと羅臼を結ぶ知床横断道路の頂上。標高約740mの峠。 目前にそびえる羅臼岳の山容が美しく、根室海峡を越えて国後島が遠望できる。 全長約25km、羅臼市街から知床峠まで約15km。
知床峠~斜里町ウトロ側はゆるやかな傾斜で真っ直ぐに伸びる道路だが、知床峠~羅臼町は傾斜も厳しく、カーブも多いが、カーブ毎に現れる絶景(国後島や羅臼岳など)が見事である・・!!



羅臼八景7 【北の国から・・、ロケ地】
『北の国から・・・純の番屋』


北の国からのTVロケとして使われた「純の番屋」が、観光協会・町の有志・ボランティアの人たちによって、市街地に復元された。
フジテレビのドラマ「北の国から」シリーズの最終話となった「北の国から2002遺言」。羅臼は富良野と並ぶ主要な舞台となった。根強いファンが今尚、この羅臼を訪れている。
「北の国から2002遺言」のロケは、2001年9月に開始され翌年2月まで、数回に分けて行われた。

「道の駅・知床らうす」の2階展望室では、ロケの風景やパネル展を設置している。あの名曲のBGMを聴きながらゆっくり鑑賞したい。また、倉本聡がプロデュースした富良野と羅臼を結ぶ「北の国からパスポート」があり、ロケマップとパスポートを持って、ロケ地を巡り記念スタンプを集めるのも楽しい。


羅臼八景8  【北方領土・国後島】


「北方領土」とは国後島、択捉島、色丹島、歯舞諸島(多楽島、志発島、勇留島、秋勇留島、水晶島貝殻島)のことで、羅臼からは国後島のみが望める。 全長120km
海岸線からよく見えるのは羅臼から近いトマリ山(泊山)付近。知床峠や羅臼の望郷台、羅臼岳山頂からは遠くに白い雪をかぶった爺々岳(チャチャ岳)を見ることができる。羅臼から国後島まで最も近いところでわずか25kmしか離れていない。因みに、国道335合を北上すると、別海(べつかい)標津(しべつ)あたりでは見える方角から小さな島にしか見えないが、羅臼に入るとその全貌を現し始める。

あの島になぜ立ち入ることができないのか。あの島が誰のものなのか。「北方領土問題」を羅臼町で考えてみたい。

尚、国後島など「北方領土」に関する歴史は「次回」をどうぞ。

(日本周遊紀行(60) 羅臼・「北方領土・国後島」)

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羅臼八景・特別編 【羅臼湖】


深い原生林に囲まれた神秘的な湖であり、周囲約6㌔は知床半島では最も大きな湖・・、幻の湖として知られる。 周辺には大小5つの沼があり、高山植物などを見る事が出来る。 特に羅臼湖に向かう途中にある「三の沼」では湖面に映る羅臼岳の山容は絶景である。
横断道路・知床峠の近くにある湖で、1時間あまりハイマツ帯の中を歩くと現れる。 一般観光客は入らず、トレッキングコースとしては最適であろう。

「羅臼湖」はごく最近まで人跡未踏の地で、昭和34年に朝日新聞の記者だった本多勝一氏によって世に紹介された。 昭和37年に羅臼側からの登山道が付けられたが、横断道路が開通する前までは年間数百人しか歩かない、まさに秘境中の秘境であった。
因みに、市町村道・ウトロ羅臼線が開通したのは昭和38年頃である。 翌年の昭和39年知床半島が国立公園に指定され、1980(昭和55年)国道・知床横断道路が開通している。


世界遺産・「知床」編、 『終』
次回は、本編から「北方領土」




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2010年3月11日木曜日

紀行(61)標津 「標津と野付半島」

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紀行(61)標津 「標津と野付半島」


標津、そして野付の意外な歴史・・、


羅臼町域の境を過ぎてしばらく進むと、知床の山麓海岸から、やがて見通しの良い平坦部になり比較的大きな河川も多いようである。 
植別川を渡って「標津」(しべつ)に入る、広々とした平野が益々広がってきた。
ポー川という何とも愛らしい名前の河橋を渡る。
アイヌ語の「ポ」からで小さい・子供のような・・の川の意味らしい。
付近の標津川に比べ小さく、標津川を親に見立てれば子供のような関係に見立てて名付けられたものだと言えなくもない。 


この辺りワタスゲが有名で、国の天然記念物に指定されている「標津湿原」が雄大に広がる。 
一角には「三本木遺跡」などの案内標識もあった。 
やはり続縄文(弥生期)からオホーツク文化の史跡、集落住居跡が多数発見されているという。


湿原の平坦地をユッタリと多くの河川が流れる、その町内を流れる殆どの河川で「サケ」が遡上するという。 
薫別川」や、特にサーモンパークのある「標津川」はサケの大群が遡上することでも有名で、TVやマスコミでも度々取り上げられる。 
尤も町名になった「シベツ」の語源は、アイヌ語で「サケのいる大川、または本流」を意味するという。その標津は秋サケの水揚げは日本一を誇るといい、今はそのシーズンであろう。

成長したサケは、生まれ育った川を溯り産卵をして一生を終える。 
そのサケを冬のキタキツネやヒグマの餌になり、北海道らしい自然の循環を繰り返しているのである。
また上流部は「オショロコマ」などの珍しい魚が多く生息しているという。 

オショロコマは北海道独特の呼び名でイワナの仲間、主に北海道中部以北および東部の山岳地帯である石狩、知床、日高あたりの高山河川に広く生息分布している魚である。 
然別湖などの封鎖された区域、カルデラ湖なのに棲むのを「陸封型」、他の河川の魚は「降海型」ともいうとか。


この辺りでも最大と思われるその標津川を渡る。 
サケが喜んで這い上がってきそうな悠々たる流れであり、この川を渡ったところが標津の町並みが広がっていた。


嘗ては、この標津の町には国鉄線が走っていたという。 
駅の名前は何故か「根室標津」と称していたらしいが、国鉄・標津線がそれであった。 
経路は釧網本線の標茶駅から分岐して中標津町の中標津駅を経由して、標津町の根室標津駅に至る。 泉川、西春別、計根別、上武佐の各駅であり、又、中標津駅で分岐し根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線で、共和、春別、別海などの各駅からなっていた。
1933年(昭和8年)以来の開業であったが、やはり赤字路線らしく国鉄再建法の施行により一時JR北海道に承継されたが、1989年(平成元年)4月に廃止されている。

尚、根室標津駅から知床半島の付け根を横断する今の国道244号線と概ね並行した「根北線」(こんぽくせん)が通る予定だったらしい。 
「根北」とは根室・北見のことであり釧網本線の斜里駅(現・知床斜里駅)から標津線の根室標津駅を結ぶ目的に建設される予定だった。
根室国厚床付近ヨリ標津ヲ経テ北見国斜里ニ至ル鉄道』と明治期の鉄道法で定められており、戦争などの影響もあって1957年に斜里駅~越川駅がようやく開通した。 
その後、国道が開通するに及んで、沿線住民の流出などで乗客数は激減し、その存在意義は薄れ、北海道の路線の中で真っ先に廃止候補に上がり、わずか13年の短い営業期間で露と消えたという、まさに幻の路線だったと言える。
廃線路線は鉄道マニュアが時折訪れては郷愁を感じているらしいが、時と共に風化され、やがては自然に還るのであろう。



ところで、標津の市街地の一角、国道272の交差信号の近くの海岸沿いに「船長の家」という民宿がある。
小生の息子が旭川市在学中の頃、冬季にこの付近で交通事故(自爆)を起こし、たまたま通りかかった宿の主人に助けられ、宿にて介抱されて大変お世話になったところである。 
過る年、カミさんと道東旅行の際、立ち寄って挨拶お礼を申し述べた、が今回は目礼のみで通り過ぎることにする。


標津の町を抜けると間もなくの野付半島への分岐がある、その半島へ向かった。
この半島の雄大な自然については「温泉と観光の項」で述べるとして、驚いた事に、嘗てこの砂地の上には大きな街並みがあったという。
幻の歓楽街でその名を「キラク」という。

半島中央の森には擦文時代と思われる竪穴住居跡が多くあり、このひょろ長い半島に大昔から人跡が有ったことが標されている。 
又、近世江戸期の頃の酒徳利(焼酎)や寛永通宝などが出土し、さらに付近からは嘉永の年号が入った墓石なども見つかっているという。
町史によれば今から200年前の江戸後期・寛政年間の頃においても和人が住みついていたことが記されている。 
その根拠として地盤沈下(ナラワラ、トドワラの原因)をまぬがれている丘稜地帯には墓地や通行番屋跡が残存していて、墓地の規模から推測すれば少なくとも200人以上が埋葬されており、相当数の人口をもった街並みが形成されたようである。


現在、この一帯は荒涼たる草湿原にすぎないが、往時はトドワラ、ナラワラでも知れるとおり樹齢100年ほどの大森林が繁殖していて建物はこれら樹木によって造られ、巨大な通行番屋などが置かれ、大きいので建坪130坪にも及んでいたという。  
幕府によって野付崎に通行番屋が設けられ、北方至近の「国後島」へ渡る為の要所としての位置を占めていたらしい。 
又、18~19世紀の初め頃までは有数の鰊漁場でもあり、春になると根室場所の各番屋から出稼ぎにくる人々でにぎわい鰊番屋、蔵なども多数建てられていたという。

別海町に「加賀家文書館」なるものがある。 
北海道の父と呼ばれる松浦武四郎との交友も深かったとされ、この地の歴史の表現者・加賀伝蔵の記録が多く残されているという。 
江戸時代末期、別海町が根室場所と呼ばれていた頃、蝦夷地に夢を抱き秋田県の八森町から代々にわたり根室場所請負人の用人として働いていたのが加賀家の人達であり、文書館には彼等が残した文書が保管・研究・展示されているという。 
その中の一文に「野付崎にはキラクという歓楽街があり、遊女もいたし鍛冶屋もあった」と記されている。 
野付は古来より人々が住み着き、江戸期には鰊漁で多くの人々が集まり漁番屋も多く、野付から国後島に往来する人々も多かったらしい。 
こうしたことが「歓楽街・キラク」としての残影を今に残しているのかもしれない。 
しかし、「キラク」というのは地名なのか街の形容語なのか、日本語の喜楽・気楽が語源であるとも言われるが「幻の街・キラク」の如く定かではない。


次回は、「根釧原野」




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日本周遊紀行(60) 羅臼 「北方領土・国後島」

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日本周遊紀行(60) 羅臼 「北方領土・国後島」


我が領土、「北方領」を返せ・・!!



千島列島、樺太と北方四島(資料)


知床から太平洋側に出て、「羅臼」の町並みを過ぎてから根室海峡に沿って国道335を進む。 
別名「国後海道」(くなしりかいどう)というらしい。
その名の通り「国後島」が堂々と大きく、両端が霞んで見えなくなってしまう程の大陸の如きに横たわっている。 距離にして20km内外であろうか。
北方四島の「国後島」であるが、地図を見ると東北部に爺爺岳という和名の気高い山(1822m)も書かれている。

そうなのだ、北方四島は明らかに日本の領土なのである・・!!。
その歴史を辿ってみよう。

「18世紀」~「18世紀後半」=「日露通好条約」が結ばれ、日ロ両国の国境は択捉島と得撫島の間に決まる。 これにより江戸幕府が択捉島(えとろふとう)及びそれより南の島々に番所を置く。 
択捉島から南は日本の領土とし、 得撫島から北のクリル諸島(千島列島)はロシア領土として確認される。

「明治8年」=千島・樺太交換条約を結び、それまでロシア領であった得撫島以北の18島を譲り受ける。

「明治13年」=新しい行政組織のもと、色丹(しこたん)、国後、択捉の3島に村役場が置かれる。

「明治20年」=国後、択捉両島にも道路網が整備され郵便局、駅逓も置かれ、さらに島と北海道を結ぶ定期航路が開設され、電信も開通する。

「大正12年」=北方領土にも町村制が施行され、各島に村役場が置かれる。

「昭和14年」=北海道庁は、択捉島紗那村に千島調査所を設置し、軍事的緊張の中で開発が進められる。

「昭和20年」=太平洋戦争終結 ソ連、千島列島(北方四島)占拠 住民は北海道、他へ退去。

「昭和20年」=当時の根室町長が連合国最高司令官マッカーサー元帥に対し「択捉島以南の島々は、古くから日本の領土であり、これらの島々において、島民が安心して暮らせるよう措置してほしい」旨の陳情書を提出す。

「昭和26年」=日本はサン・フランシスコ平和条約に調印、この結果、日本は千島列島と樺太の権利、権原及び請求権を放棄した。 しかし、放棄した千島列島に固有の領土である「北方四島」は含まれない・・!!。

「昭和31年」=日ソ共同宣言により国交が回復す。
本宣言では、平和条約締結後、歯舞群島及び色丹島を日本に引き渡すことに同意する旨規定され、両国の国会・最高会議で批准される。

「昭和36年」=ソ連のフルシチョフ首相が「北方領土問題は解決済み」と言明して以来、領土問題は進展せず。

「平成3年」=ゴルバチョフ大統領がソ連の元首として初めて来日し、北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが確認され、平和条約締結作業を加速することの重要性が強調される。

「平成5年」=エリツィン大統領が来日し、『東京宣言』が署名され、「①領土問題を北方四島の島名を列挙し、その帰属に関する問題であると位置づけ。②領土問題を歴史的、法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成されるものとする。

「平成13年」=上海・APECでの日露首脳会談(森・プーチン)では、双方が前提条件を付けずに歯舞・色丹の議論と国後・択捉の議論を同時にかつ並行的に進めていくことで概ね一致す。

「平成16年」=チリ・APEC日露首脳会談(小泉・プーチン)でロシア側、二島返還(歯舞・色丹)を匂わせるも、直接言及無く進展はしていない。

尚、北方領土返還運動については、この先の根室が最前線になっている。 





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2010年3月9日火曜日

世界遺産・知床(16)羅臼 「知床旅情」

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世界遺産・知床(16)羅臼 「知床旅情」



<写真:森繁久弥像が立つ「しおかぜ公園」


羅臼の町の国道から半島沿いの東海岸・道道87号線を行くと、すぐ右側沿いに在るのが「しおかぜ公園」である。 
高台にあるので幅広い羅臼漁港の岸壁や最北の太平洋そして、あの「北方四島」の一つ・国後島(くなしりとう)を望むことができる。

羅臼は、森繁久弥氏と「知床旅情」に縁があることは知る人ぞ知る地であろうが、ここの公園は映画「地の涯てに生きるもの」のロケ地で,
森繁久弥氏がモデルになった「オホーツク老人」の碑が立っている。 

知床の岬に はまなすの咲く頃・・・」から始まるあの歌詞であり、あの有名な昭和の名曲『知床旅情』の出だしでもある。
このことは作家・戸川幸夫が、1959年から知床を訪れたことに始まるという。

戸川氏は昭和期の小説家で、特に、動物を主人公とした「動物文学」、「動物小説」というジャンルを確立させ、動物に関しては正しい観察、知識を元に物語を書いていた。 
その知床の旅の道中に立ち寄った番屋で、漁師から聞いた話をもとに書いた小説が、「オホーツク老人」であった。 
その小説が発表された後すぐ、これを映画化しようと考えたのが森繁久彌(もりしげひさや)氏自身であったという。

映画のタイトルは「地の涯に生きるもの」で、主人公の老人役を森繁が演じ、しかも知床としては初めての映画ロケということもあって、羅臼は村(現在の羅臼町)をあげて、大々的に歓迎し、村長も全面協力を申し出たという。 
そして、村人もエキストラとして多数参加し、村の人たちとも交流の機会も沢山あったようである。

これらに感激して別れの時に作ったのが「知床旅情」のはじまりで、当時は、「サラバ羅臼」という題名であったという。 
そして別れに際し、見送りの村民と歌の大合唱となり、感動的フィナーレを迎えたという。

その後、「知床旅情」が広まっていくのである・・が、
10年後、加藤登紀子氏が「知床旅情」を歌ったは周知であり、これが爆発的な人気を呼び、これが引き金となって知床観光ブームへと繋がっていったといわれる。 
その後も、石原裕次郎、美空ひばりなど多くの歌手たちに歌われた。

「知床旅情」の発祥地とでもいうべき場所が、羅臼町市街地に近い「しおかぜ公園」であり、歌碑や森繁氏そっくりの「オホーツク老人の銅像」が記念として立っている。


『知床旅情』が巷で歌われた当時の世相は、「ディスカバー・ジャパン」という旅行会社のキャッチフレーズもあって、全国的に旅行熱が高かった時期でもある。 
北海道・知床が特にその風が吹いていたようで、山口百恵の「いい日旅立ち」の曲に乗って、「知床旅情」の唄に引き寄せられるように観光客が訪れたという。 
その頃の知床は、人・人・人の山だったといい、景色と言うより人の後ろ姿を見て歩いた、という笑えるようなエピソードもあるくらいだったとか。

「世界遺産」となった今日、第二の知床ブームが押し寄せているというが・・?。


『知床旅情』 作詞・唄 森繁久弥、加藤登紀子

知床の岬に はまなすの咲く頃
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘に登れば
はるかクナシリに 白夜は明ける

別れの日は来た ラウスの村にも
君は出てゆく 峠を越えて
忘れちゃいやだよ 気まぐれ烏(カラス)さん
私を泣かすな 白いかもめよ


次回は、羅臼「羅臼八景」です



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2010年3月8日月曜日

世界遺産・知床(15)羅臼 「露天・熊の湯」

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世界遺産・知床(15)羅臼 「露天・熊の湯」



羅臼川の湯の橋に早朝の掃除の時間を知らせる「木板」と露天風呂・「熊の湯」

夕刻が近づいたので先を急ごう。
知床峠の茶屋で一服した後、その霧の中を羅臼へ向う。 

かなりの急勾配の屈曲した道を慎重に下る。 途中右側に無料の野天風呂「熊の湯」が有ったが、時間の都合で明日早朝に入浴することにした。
一旦、海辺の道の駅「羅臼」で一休みし、ここで小生の「来北・羅臼」を記念して、実家へ羅臼産の「タラバ蟹」を送った。 
因みに、先般訪れた時、カミさんが同じ店で、同じ店員で、同じ物を娘家族に送っている。

観光協会があって、そこで紹介してもらった「知床観光ホテル」へ向かった。 
そこは、来た道を戻るようであったが、少々高台の国道沿いの右側にあった。
「観光ホテル」と言うから、それなりのイメージと期待をもって訪れたが、それは脆くも崩れた。 

館主にはチョイト失礼ながら、そこは鉄筋コンのボロホテルであり・・よくよく見ると、学校を買い上げた改造物件であった。 
尚且つ、食事はスーパーから買ってきた物を、そのままバイキング方式であつらえた物であり、数多く旅先へ出向いたが、これ程劣悪な食事も初めてであった。 
管理者・オーナーには過酷だが敢えて記載しました。 
しかし温泉は良かった、これだけが慰めであった。


『羅臼温泉概要 』

泉 質  含硫黄ナトリウム塩化物泉
泉 温  高温泉(97度)
効 能  神経痛・筋肉痛・高血圧症他
案 内  北海道目梨郡羅臼町湯の沢町  (羅臼観光協会)
      TEL  0153-87-3360 (9時から17時)
ガイド  特に無料の露天風呂は人気があり、名前は「熊の湯」といい、羅臼の町から山側に約3km入った羅臼川沿いの山間にある。


北海道の9月末は既に暖房の季節であった。
昨夜は一日のマトメの執筆を行うのに早速暖房を入れ、入れ過ぎてやや暑いくらいであったが。
十畳以上も有ろうかと思われるこの広い部屋、今朝5時40分頃目覚めたが、さすがにウスラ寒さを感じた。 
とりあえず、朝飯前に昨日果たせなかった野天風呂・「熊の湯」へ浸かることにした。

宿を出て横断道路である国道334を知床峠方面へ、車で五分程度で着いた。 
数台の駐車場があって、湯ノ沢川を渡った所の木の幹に「熊の湯」の看板が有り、その左側にそれらしいものがあったが、・・ンン・・、残念無念、早朝は清掃のため閉鎖中との事であった(6~9時)。


実は、以前道東巡りの折、この「熊の湯」には一度浸かったこっとがあった。
その時の様子をふまえて。 

因みにこの露天風呂は道内でも比較的人気が高く、知床を訪れる温泉マニアは必ず寄る所で、羅臼川の上流、湯ノ沢川に源泉が在り、野天浴槽は野趣満点である。
国道沿いの「羅臼川」の木の橋を渡ったところに共同の無料露天風呂があり、男女別に脱衣所と風呂場が設けられているので、のんびり秘湯気分を満喫できる。 
すぐ横にの渓流を望みながら、周りは樹林帯が鬱蒼としている。 
エゾシカが常時姿を見せ、時折、その名の通りヒグマが顔を出すというが、もちろんこの時は入浴は中止になるらしいが・・?。

簡単な更衣室があり、のんびり秘湯気分を満喫できると思いきや・・!、実は、ここの温泉は極めて熱い・・!!。 
予想以上に熱いので、掛け湯を充分に行って熱湯に馴らしてからの入浴になる。 
知らず飛び込むと、「ぉうわぁ、あつっちっ」なんて事になる。 
お湯がとても熱いので一回に湯船に浸かる時間はせいぜい2分くらいだろう、その間身じろぎもせずじっと「耐える」のである、2回目、3回目入出を繰り返すうち、不思議とピリピリとした「熱湯感」がなくなってくる。
それで熱湯の苦手な小生などは、やはり2分以上入れないのは悔しい。

熱そうにしている観光客に堪り兼ねて、地元の人が「ほれ、一回出てからもう一回入ってみれ」等とアドバイスしてくれるのであり、旅行者は浮かれ気分で入ってはいけないのである。

勿論、露天風呂は男用、女用と別々にあるが・・、
男湯は簡単な脱衣場があるだけの完全な露天風呂であるが、向こう隣にある女湯は立派な・・?囲いの中にある。 
女湯から出てきた女性は、通りがかりでもあり必ずや男湯を覗いて、「あらいやだ・・、男の方は丸見えよ・・!!」などといいながら帰って行くらしい。 
このあたりがこの温泉のおもしろい所でもある。


熊の湯は本来、地元の漁師さん方が一日の仕事の疲れを癒す生活の場所でもあり、観光客のためではないのである。 
何故なら、この熊の湯は「熊の湯愛好会」の方々が造成したもので、日々清掃し、管理をして頂いていて、お陰で綺麗で清潔な露天風呂なのである。

熊の湯は「秘湯」ではあるけれど、事実上は秘湯ではないかもしれない。 地元の方々が家族連れで通う「みんなの温泉」である。
そこは羅臼やその周辺に住む人々の憩いの場であり、日常生活の一部であり、公共の場所である。 当然利用上のルールやマナーがある。

因みに、熊の湯の入り口には地元民による『入浴十ヶ条』<というのが記されて在る。

その1 入浴前に「注意書き」をよく読むこと
その2 湯船時は体を洗い、更にお湯を2,3杯かぶってから入ること。
その3 湯船に入って熱いと思ったら、1回目、2回目、3回目と静かに入ること。
その4 湯船に入って熱いと思ったら周囲に相談して冷ますこと。
その5 浴場には絶対アルコール類は持ち込まない事。
その6 湯船に水着で絶対に入らないこと。
その7 誰もいない湯船でも、出した水は必ず忘れず止めること。
その8 ここのお湯は飲服用しても体に良いのでぜひ服用して下さい。
その9 湯船を掃除している時は、お手伝いをお願いします。
その10 入浴を数回繰り返すと十分に温まります、疲れをとってお帰り下さい。
   (羅臼町、羅臼町観光協会、熊の湯愛好会)


羅臼温泉 『熊の湯』
 
泉質    含硫黄-ナトリウム-塩化物泉
泉温    源泉95℃、浴槽42~44度(熱め)
効能    神経痛・冷え性・慢性皮膚病・筋肉痛・きりきず
料金    無料
施設    更衣室あり
浴槽    男女野天風呂(女性―囲い有り)
案内    目梨郡羅臼町湯の沢町 (羅臼観光協会)

以上、過ぎし日の「熊の湯」入浴体験記より。


次回は、「羅臼」



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01. 15.

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