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2011年6月2日木曜日

日本周遊紀行(135)大分 「豊後・大友氏」

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 日本周遊紀行(135)大分 「豊後・大友氏」    、



大友氏は、我が相模の国(神奈川・小田原)の出身であった・・?

さて、「大友氏」の時代である。 
大友氏は中世・鎌倉初期に東国より豊後に入国して以来、戦国時代の終わり頃までの約320年余り豊後地方の守護職(領主:鎌倉期は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職・しゅごしき・といった)を務めた。 

鎌倉時代は源頼朝が相模の国・鎌倉に幕府を置き、武士階級が天皇・貴族階級と分離して新たな支配体制を創った時代で、開府は1192年のことであった。 
この時期、平安期までの荘園に変わって全国に領主となる守護・地頭を設置し、守護は一国に一人ずつ配置された。 

西国においては、東国から有力御家人衆を派遣、入国させ領地を安堵させた大名としては肥前国の千葉氏、九州探題となった渋川氏、中国地方最大の勢力となる毛利氏、安芸守護の安芸武田氏、日向・薩摩の島津氏、そして豊後国守護に任命された大友氏等であろう。


中国を治めた毛利氏については小生の在住地、神奈川県厚木市より移遷されていったことは中国・山口の項で述べた。 

島津氏については頼朝が幼少時流人の身であった頃、世話をしたのが比企家(埼玉、武蔵の荘)の禅尼であり、その娘(丹後の局)と頼朝の間に産まれたのが島津忠久だという。 御落胤である。 
一時、畠山重忠に預けられ、後に九州日向の国、島津の荘を賜る。これが九州の覇者、島津藩の開祖である。(更に、宮崎の項で述べます・・、)


そして豊後・大友氏も相模国の小田原大友郷が出実であると言われる。 
現在の神奈川県小田原市に西大友、東大友という地名が、酒匂川と曽我梅林に挟まれた静観の地域に今も残る。 

大友郷の初代の祖は源頼朝の庶子(しょし:妾腹の子、嫡子以外の実子)か或は、頼朝の側近であった中原親能(鎌倉初期の文官御家人、公家)の猶子(ゆうし・兄弟の子、甥)と言われているが、その中原氏はその土地の名をとって大友氏を名乗っていた。 

豊後はかっては平家の基盤であり、平家没落後も平家武将が多く残存していた。
その九州に対する抑えの役割が必要であり、その監視と抑えに大友氏が派遣されたといわれる。


豊後地方は、室町期から戦国初期までは大友、大内(周防・山口県の守護大名で、豊前の守護職も兼ねる)、少弐(しょうに:筑後の守護大名)の三国抗争が続くが、戦国期、大友義鎮(大友宗麟)が勢力を伸ばし、一時期は豊後を直轄支配地とし更に豊前・筑前・筑後・肥前・肥後を勢力下にして九州北部を領有するまでになる。



「大友宗麟」について・・ 、

大分・豊後といえば大友義鎮(よししげ=宗麟、鎌倉の初代から21代領主)で、キリシタンを保護し自らも改宗して歴史に名高いキリシタン大名となっている。 

フランシスコ・ザビエルをはじめとするポルトガル人宣教師やポルトガル商人が宗麟のもとに、当時、府内と呼ばれていた現在の大分市に頻繁にやって来た。
又、自らも当時世界の最富強国であったイスパニア・ポルトガルなど日本人として初めてヨーロッパに渡り、世界の指導者らと会見している。 

宗麟の外交使節の役割は文化、宗教史上に留まらず交易を含む多方面にわたったとされ、当時としては画期的であったという。
戦国時代の国際都市であった豊後は、日本初の西洋式病院を設けられるなど南蛮文化が花開き、大分の全盛時代を築き上げた。

反面、キリシタンであったがため、元来より八幡信仰や仏教信仰の篤い家臣団との軋轢を生じることにもなる。 
宗麟はキリスト教の理想国を建国するという計画に没頭しはじめるが、しかし、このことが遠因となって、やがて没落の道を辿ることになる。
この頃、隆盛著しい「島津氏」が勢力を伸ばし、九州制覇へ向けて動きだす事になり、豊後を侵攻するようになる。 
後に、宗麟は圧倒的勢力の島津氏との正面対決により大敗北を喫し(耳川の戦い・詳細は後報・・)、豊後から退却する結果となる。 
あと一歩で大友氏の息の根を止めるところまで追い込んだ島津だが、豊臣秀吉による九州征伐で九州は平定され、大友氏は縮小されながらも豊後一国を安堵される。 
この時期の1587年、宗麟は58歳で生涯を終えている。 


その後の大友氏は秀吉の朝鮮出兵の際、失態により改易、更に、江戸期には一旦、旗本取り立てられるが、その子の義親の代になって無嗣(家督を相続する子がいない)のため事実上大友家は滅亡する。

改易とは、所領や家禄・屋敷を没収せれることで、特に江戸時代の刑では蟄居(チツキヨ)より重く、切腹より軽いといわれる。 


大分市顕徳町三丁目周辺に、豊後国府といわれる大友氏館跡や大友氏の菩提寺である万寿寺跡の遺跡が在り、現在も発掘調査が行われているという。 
館跡は北部九州六カ国の守護職を務めた大友宗麟の館跡で、京都の室町将軍邸をモデルに造られた守護館の典型的な姿であるという。 
その歴史的価値の高さから、「大友氏遺跡」として国の史跡に指定されている。



大分市は、2005年1月に北海部郡佐賀関町、大分郡野津原町は大分市に編入され、新「大分市」発足している。

佐賀関町は大分市の東方、豊後水道に突き出した三角形の町で、対岸の愛媛県佐田岬半島へは豊予海峡を挟んでわずか14kmの距離である。 
東九州の玄関口であり九州でもっとも四国に近い町であり古代よりの要港であった。 
そして、握り寿司などでもお馴染みの 「関あじ・関さば」の産地でもある。 
豊予海峡は急流うずまく「速吸瀬戸」(はやすいのせと)とも呼ばれる好漁場で、ここで育った魚類は身がしまって絶品であるという。

又、野津原町は大分の南部に位置し山間の静かな町で、町域の中心を竹田に向かって国道442号が走る。 
更に、矢の原から県道412号が国道と並行して走る。 

この道は豊後街道といって、江戸期は肥後熊本城主・細川氏や豊後岡藩主(竹田藩)・中川氏の参勤交代道路として利用されていたことは先に述べた。 

南部に位置する「今市」はこの豊後街道にあり、中川氏が岡藩の宿場として設けた宿場町でもある。
今も、当時の名残の石畳が道路の真ん中に続いている。

その豊後街道から竹田を目指した。

次回は、「竹田



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九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
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