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2010年6月11日金曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と長谷寺」

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 日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と長谷寺」 


高僧・藤原徳一と長谷寺について・・、 

湯本の駅から1.5km、歩いても15分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」がある。 
今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、この寺は「徳一」が開基したとされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。

長谷寺の本尊である十一面観音(県重文)は鎌倉末期の仏像であるが、その胎内には長文が記されていて、その中に 『 奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也 』とあって、徳一建立が明記されている。 

この古書は古寺の第一級資料に当たるとされ、内文によって「神明鏡」(14世紀後半頃、神武天皇から後花園天皇までの年代記。 時代ごとに仏教や合戦などの特色が説明文で記載されている文献)と比較対照すると、平城御願長谷寺、つまり平城天皇(第51代の天皇・在位806年~809年頃で、桓武天皇の長男)の意思で建てられたか、或はそれに準ずる貴人によって建てられた格式のある寺であったとされる。 
つまり、建立に当たっては中央政権下の藤原氏の強力な支援があったとされ、そのことが歴史的に大きい意味合いを持つとも言われる。


徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・?、 
それは、正面に拝謁できる「湯の岳」を目にしたからに他ならないといわれる。
徳一の故郷・奈良の都には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。



湯嶽、湯の岳(ゆのたけ)は先にも記したが、神代の昔から地元民から尊崇された御神体山であり信仰の山であった。 標高593m、湯本の町を一望におさめる名峰である。
古代においては、湯嶽(湯岳)を三箱山(三函山)とも称したらしく、徳一は、この神霊なる「湯の岳」を仰ぎ見て、山腹の観音堂に「三学の箱(函)」を納めたたことから、この地名が付いたといわれる伝説もある。

中世(鎌倉~室町期)には既に、この山は「サハコ山」ないし「サハク山」と呼ばれており、現在でも、それに因んで山麓地域である湯本地区には「三函」という名もあり、温泉もまた三函(サハコ)の湯あるいはサハクの湯と称している。

因みに、「三学」とは戒・定・慧(かい・じょう・え)のことで、仏教の実践の三大綱要で戒学・定学・慧学の仏道修行の根本を三学をいう。 つまり善を修め悪を防ぐ戒律と、精神を統一する禅定と、真理を悟る智慧をいう。

湯の岳の中腹に、その所伝の観音堂跡があり、この観音堂こそが徳一の根本道場の一つだったことを物語っているし、この山全体が徳一観音信仰の霊場だったようにでもある。 
徳一開祖の会津の磐梯山・恵日寺、筑波山の中禅寺などと同じように、徳一開創観音寺とする伝えは、きわめて真実味があり由緒あるものといえる。

三函(サハコ)の地名は、今も湯本の町内に住所名として存在するが、「長谷寺」の所在地は上湯長谷である。 読みは「かみゆはせ」ではなく、「かみゆながや」と称している。
「湯長谷(ゆながや)」の長谷(ながや)は、当然、長谷寺の「長谷(はせ)」に由来する。 
因みに、隣地に「下湯長谷」もある。 湯の岳に向かって近いの方、つまり上の方が長谷寺の在る上湯長谷であり、遠く下の方が下湯長谷地区である。



次に、先に温泉神社の由来については触れたが・・、

温泉神社は、奈良期の7世紀頃、神体山である「湯の岳」より降臨(神仏などの天下ること)して里宮として遷座したもので、元より大和国・三輪神社(現、大神神社:現在奈良県桜井三輪)の主神を勧請し、祭祀されたとものいわれる。

三輪山は、奈良盆地をめぐる山でも高さ467メートルの一際形の整った円錐形の山であり、いわき湯本の「湯の岳」と類似形をしている。 
そして太古より神宿る山で、そのものが神体であり、原始信仰の対象であったとされるのも酷似しているのである。

奈良盆地の大和国は、奈良期の仏教伝来後、最も盛んに根本仏教が栄えたところであることは周知である。 
奈良時代の仏教が波及するようになって間もなく、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という神道と仏教を両立させるための信仰行為が成立する。 神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とも言われる。

仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からであったが、実は天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、100%仏教とは行かなかったようである。 
つまり、仏教は、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。 

飛鳥期の蘇我氏と物部氏の施政時代、伝来してきた仏教を擁護し世に広めるか、又は、仏教を排斥して従来の国家神道を貫くか否か、世に言う蘇我と物部氏の争いである。 
結果は仏教擁護派の蘇我氏が勝利し、神道派の物部氏は滅亡してしまう、そしてこの後、聖徳太子(当時は廐戸皇子・うまやどのおうじ、聖徳太子は死後に贈られた諡号・しごう)等によって仏教は大きく世に広がることになる。

結局、旧来の神様と新興の仏様が歩み寄ることになり、歩み寄ったのは神様の方であり、因みに、その一番手が八幡神(宇佐神宮・応神天皇、大分県宇佐市)だったとされている。



日本において神と仏が融合する神仏習合思想に基づいて、神社を実質的に運営する仏教寺院が設けられ、この寺院を「神宮寺」と称している。 
そこで三輪神社の神宮寺は大神寺、通称、大御輪寺であったとする。(現在は、神仏分離で三輪若宮神社になっているらしい)この寺院には天平国宝の十一面観音が祀ってあり、観音信仰の菩薩である。

観音信仰の中心とされるのは「長谷寺」であるが、その根本御堂が三輪神社・三輪山の東に位置する大和・初瀬(泊瀬)川の「長谷寺」であることは周知である。 
初瀬川は聖なる川といわれ、初瀬が生じて「はつせ」・「はせ」・「長谷」になったとされている。 初瀬川は長谷の川でもある。 
三輪山の神に仕える巫女、彼女たちが禊ぎをするのが初瀬川であり、長谷寺の興りはこの三輪山と初瀬川であるとも想起できるのである。 
三輪山のご神体が、初瀬川で生まれた「龍神」であり、龍神信仰と結びついたのが長谷信仰の根本である「十一面観音」であったとされている。



大和の王城について・・、

三輪山の神に囲まれた大和は王城の地であった。 ではそれ以前は・・? 旧態豪族の住む地であったとされる。

神武天皇が九州の地(日向・美々津)から紀の国へ上陸し奈良盆地を平定するとともに、この地域全体を「大和」と呼ぶようになり、さらに日本全土を「大和の国」と呼び習わすようになったといわれる。 
大和朝廷の都の成立であり、その信仰の中心的支柱が「三輪山」であり、歴代大王=歴代天皇家の地となった。 
つまり、時代背景としては近畿地方において旧来の豪族たちを駆逐、叉は統一して新政治体制である大和朝廷(大和王権とする見方もある)が成立した時期であろう。


三輪山の神は本来は、旧来の豪族たちの神々、つまり出雲系(大国主神・国造りの神など)であったが、後に大和朝廷が駆逐して開いたこの地は、それ以降は大和系の天皇の神々を祀った。 このため大国主神は出雲へ追いやられるのである。 
しかし、後に三輪の大和の神も伊勢の地に遷宮され、次の三輪の神になったのが「大物主神」であった。 
移ったのは皇祖神である「天照大神」が伊勢の神(伊勢神宮)であり、出雲では「出雲大社」であった。

因みに、遷宮された後に三輪山の新たな主に収まった大物主神は、大国主神の別霊とされている。 大国主が転じて和魂となったのが「大物主神」であるとされてる。

次回は、 「徳一と藤原氏




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