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日本周遊紀行(98)三陸宮古 「宮古湾海戦」
宮古湾の湾口にある「浄土ヶ浜」
維新時の「宮古湾海戦」とは・・、
田老町は、2005年3月で宮古市になる。
小雨の中、国道45を南下しながら、山間地を抜けて見通し良くなったところが宮古市である。入り江になっている宮古湾が大きく見渡せる。
宮古湾は向かい側・重茂半島(おもえ:三陸海岸最大の半島)の閉伊崎(へいざき)から凡そ10kmもV状に入り組んだ深い湾になっている。
その湾口部・喉仏の様なところの先端に、陸中海岸を代表する景勝地である「浄土ヶ浜」がある。
300年以上前、この地を訪れたお坊さんが、「さながら極楽浄土のごとし」とその美しさに感嘆したことからこの名がついたとか。
このあたりの地質が白い石英であることから、太平洋の荒波に削られて様々な形状で林立する岩や砂浜は白く、透明度の高さを誇る美しい海(日本の水浴場88選)の群青とのコントラストが美しい。真夏にはこの景観を愛でながら海水浴客で賑わうという。
この浄土ヶ浜の南側に宮古港が広がっている。
宮古は、陸中海岸国立公園のほぼ中央に位置し、美しい海岸風景が続く。 その宮古港は、古くから三陸沖の漁業基地として位置付けられてきた。
又、浄土ヶ浜を初めとする美しく、勇壮な景観の海岸が多く存在する観光の町でもある。
古くは明治維新当時、宮古以北には艦隊が物資を補給できる良港がなかったため、蝦夷に向かう船は必ず宮古港に停泊したといわれる。
榎本武揚率いる旧幕府軍もまた蝦夷に向かう途中の明治元年(1868)10月、宮古湾に入港して兵糧等を補給、出航した記録が残っているという。
そして、その凡そ半年後、宮古港内で維新史の戦争末期、日本海戦史に残る壮大な海戦が行はれたことは余り知られてない。
その名も「宮古港海戦」という。
明治2年3月、榎本武揚の率いる旧幕府軍は、箱館の五稜郭にたてこもって官軍と対峙していた。
この時、榎本軍を攻略すべく北上する政府軍の軍艦「甲鉄」を旗艦とする艦隊が、宮古湾に進入、停泊するとの情報を得た。 これを知った榎本は「甲鉄」の乗っ取りを企てるのである。
そして3月20日、榎本武揚率いる幕府軍艦、回天を旗艦に蟠龍、高雄の三艦が南下出撃する。
乗っ取り作戦には特に訳があった。
艦長・榎本が最も信頼していた幕府旗艦「開陽丸」が明治元年11月、大嵐のため江差沖で座礁し沈没してしまったのである。 不慮の喪失であった。
海軍の将・榎本としては、何としても代替の新鋭艦が欲しかったのである。
時に宮古湾に投錨していた官軍の軍艦は、「甲鉄」を先頭に八艦停泊していた。
甲鉄はアメリカから購入した当時の最新鋭艦であり、艦砲の他にガトリング砲まで装備していた鉄鋼艦であった。
ここで榎本軍率いる旧幕軍の艦隊は、思わぬアクシデントに見舞われるのである。
南下の途中、暴風にあって各艦は離ればなれになってしまい、「蟠龍」が行方知れずとなり、24日には嵐がやや静まったものの、25日までに山田港(宮古湾)に到着できたのは「回天と高雄」のみだった。
25日早朝、回天は米国旗、高雄は露国旗を掲げて宮古港に接近したが、更に、高雄が機関故障を起こして作戦から離脱、旧幕府艦隊はやむなく回天のみで作戦を敢行することになった。
3月25日未明、回天は甲鉄に直角に接舷し、土方歳三を始め新選組の元隊員らが乗り込んで斬り込みを掛けた。
その壮絶無比な戦闘は、新政府艦隊「春日」の三等士官として乗り込んでいた「東郷平八郎」(後の海軍連合艦隊司令長官)はその衝撃を後年まで忘れず、「意外こそ起死回生の秘訣」として対馬沖海戦(日本海海戦)のヒントになったとも言われる。
しかし、回天の突入部隊は、ガトリング砲(速射砲・手動式機関銃)などの反撃で壊滅的損害を出し、わずか30分で回天は撤退した。
回天と甲鉄は甲板の高さに差があって、回天から飛び下りた斬り込み部隊の多くが足を挫き、そこをガトリング砲で狙われたと言う証言もある。
又、更に不運だったのが、追跡して来た新政府艦隊・春日(出撃体制にあって艦砲合戦がまともに出来たのは春日だけだったらしい)によって、機関故障中の「高雄」が田野畑沖で発見され、激しく砲撃されて座礁し、多くの乗組員が戦死している。
この時、座礁してやむなく上陸した乗組員を、政府軍兵が虐殺したとも伝えられている。 尚、蟠竜と回天は後に合流し、二隻共に翌明治2年5月の戦闘まで生き残り、最期は函館湾で座礁・沈没している。
政府軍による虐殺行為は、「天下の官軍が蛮族の行為をおこなった」と酷評し、函館戦争の敗戦後、榎本達の助命嘆願の一因となる効果を生んだともされる。
事実、函館戦争終戦時は、榎本以下旧幕軍の主な幹部は土方を除いて殆どが助命されていて、尚且つ、新政府の要職に付いたという。
この海戦は、わが国近代海戦史上初の海戦であり、後の、日清、日露の海戦の勝利へとつながったともいわれる。
「宮古湾海戦」と銘打った国際戦史にも記録されたこの作戦は、近代戦史では、特に東洋では特筆すべき戦役であったともされている。
宮古港から車で10分ほどのところに陸中海岸の景勝地である「浄土ヶ浜」があり、この浜の一角、台場展望台へ向かう道の入口のところに「宮古港海戦記念碑」がある。
「宮古の名勝」
★浄土ケ浜=ダイナミックな断崖や奇岩が複雑に入り組んだ岩塊が続く合間に、白い砂浜が在る、透明度の高い青い海と緑の松のコントラストは絶景。
★トドヶ崎=最東端の岬、灯台は本州で最も東に位置する、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の手記の舞台となったことで知られる。
★ロ-ソク岩=高さ40メ-トル、幅7メ-トルの文字通りのロ-ソクのように天にそそりたっている。
★潮吹穴=荒波が押し寄せるたびに、幅約30センチの岩の隙間から海水が吹き上がり、荒天時には30メ-トルにも達する。
国道45号・陸前浜海道は、宮古湾を見納めると再び山中となる。
並行している三陸線も山間を曲がりくねって延びている。
最高所の「石峠」を越えると山田町である、間もなくその山田湾に出た。
山田湾には無数の筏が浮かぶ、カキ、ホタテに代表される養殖漁業であろう。 又、ウニ、アワビなどの漁獲も多い、この街の活力源であり観光資源でもある
その筏群の中にお椀を伏したような、コンモリした中央に浮かぶ大小の島を「オランダ島」という。
凡そ、360年前の江戸初期(1643)年、水と食料を求めたオランダ商船・ブレスケンス号が、山田湾に入り大島に停泊した。
知らせを聞いた大槌代官所の奉行はとりあえず給水を許可し盛岡藩主に報告、盛岡藩は幕府に指示を仰ぐ。
しかし、幕府からは逮捕命令が出てしまい、やむなく船長ら10人が逮捕され江戸に護送された。
ただ、山田村民の強い解放願いもあって、江戸で取調べを受けた後は国内を見物しながらも、9カ月後、長崎からオランダへ帰っていったという。
このことがあって大島は後に「オランダ島」と名付けられたという。 この事件は、ブレスケンス号事件として、地元では今も語りつがれていると。
平成12年、オランダのザイスト市と山田町は友好都市の締結を行い、現在お互いの町を行き来する交流が続いているという。
山田港にオランダ島行きの乗船場・桟橋があって、今は渡し舟は停泊してないが、長閑な雰囲気が漂っている。
島の周囲は、緑の森、砂の浜、海の青が相まって大変な美しさである。
次に、「船越湾」沿いを行く、この辺りも実に良い眺めである・・!。
そして「吉里吉里」(きりきり)という地名に目が止まった。
昔、自称、吉里吉里人・井上ひさしの「吉里吉里王国」という本がベストセラーになったのを思い出した。 東北地方の小さな村が突如日本から独立するという1981年に刊行された井上ひさしの同名小説・『吉里吉里人』である。
吉里吉里とは・・、
昔、この辺りは「吉里吉里村」というのが存在していて、明治期に町村合併で大槌町となった経緯が或る。 この地を、井上ひさし氏は実際に尋ねているらしい。
因みに、元々、「キリキリ」とはアイヌ語で「白い砂浜」を意味しているらしく、吉里吉里の海岸線は美しい透明な砂と水が自慢のビーチであった。
今は、あくまで長閑な田舎町であった。
次回は、鉄の町「釜石」
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