google.com, pub-6886053222946157, DIRECT, f08c47fec0942fa0 各県の主要な温泉地や観光地を、気ままに巡ってます。: 2011-05-29

2011年6月3日金曜日

日本周遊紀行(136)竹田 「竹田・岡城」

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 日本周遊紀行(136)竹田 「竹田・岡城」  ,



岡城址
写真:豊後竹田・「岡城址」

滝廉太郎像
本丸跡に建つ「滝廉太郎像」



岡城と名曲・「荒城の月」とは・・

豊後国風土記」によれば豊後には八つの郡があり、それらの郡名は基本的に現代まで引き継がれて使用されている。 
その中の直入郡には「郷4、里10、駅1」、大野郡には「郷4、里11、駅2、烽1」があると述べられている。 

このことは八世紀の奈良期の頃の地方の行政単位や軍事施設が確認することができ、大野川流域・地域もしっかり中央政府の支配下にくみこまれていることが判る。


その大野川流域が注目されるのは、平安時代の終盤からであるという。 
平家滅亡後、頼朝と対立した義経をこの奥豊後の地・「竹田」に迎えるための城を用意したといい、それが竹田市の「岡城」の始まりであるといわれている、しかし、義経の豊後下向は失敗した。 

頼朝に敵し得ないことを知った義経は、西国へ逃れることを模索して京都を発ち、摂津(大阪)の大物浜から乗船して九州を目ざしたが、船が難破して渡海をあきらめた。
鎌倉幕府の九州支配が開始されると、豊後国は頼朝の知行国として直接掌握され、頼朝の支配が大野川流域にまで及んだ。 
それは頼朝直系の家臣・「大友氏」を守護として豊後に赴任させた時期でもあった。


16世紀末、大友氏の滅亡した後の江戸期の豊後は小藩に分けられ、その結果、大野川の流域は概ね岡藩(中川氏)の領となった。 
内陸部を領地とした岡藩は、参勤交代や諸物資交易のため大野川の水運を利用すようになり、克つ、瀬戸内海運への重要拠点として中流域に犬飼町と河口の三佐町鶴崎(大分市)の整備に力をいれ、犬飼は岡藩主の中継、休憩基地として繁栄している。 
また河口の鶴崎は熊本藩の豊後拠点であり瀬戸内への窓口、参勤交代の中継地として繁栄した。
その後、大野川の船運は江戸時代から明治時代に入ると、竹田まで通じるようになり更に発展することになる。


竹田の「岡城址」は市街の東方、標高325mの天神山台地に築かれている。 

大野川と稲葉川のほぼ合流地点にあって天然の要害をなし、険しい地形を作り出している。 岡城石垣は苔生し草茂るも堂々とした造りで、曲線を多用しているところは熊本城の「武者返し」に似ている。 
世に岡城は、難攻不落の日本三険城の最上の城ともいわれている。

中世・平安末期の1185年頃の岡城は、平家が壇ノ浦で滅亡した際、豊後の豪族である緒方惟栄(これよし)が「源義経」を迎えるために築城したのが始まりと伝えられている。 

緒方惟栄は平安時代末期から鎌倉時代初期の武士で、豊後国大野郡緒方庄(現在の豊後大野市緒方町)を中心に活躍し、平家物語にも登場したほどの人物である。 
元々、荘園・緒方庄は宇佐神宮の所領で、緒方氏はその領主をつとめ平氏側の一族であった。 
平家一族の都落ちを知ると一族を率いて源氏方に寝返り、平氏の九州上陸を阻止するなどの働きを見せた。 こうした緒方一族の寝返りによって鎌倉幕府の九州統治が進んだともいわれる。

源義経が源頼朝に背反した際には義経方に荷担したとされ、このとき彼を匿うために築城したのが岡城とされている。

しかしこれが仇となって、後に処罰(流罪)されることになるが、ただし処罰の対象になったのは惟栄とその直接の親子兄弟のみであったため緒方一族の大勢には影響がなく、その系流にある各家は後々まで豊後南部を拠点として活躍し続けたという。

鎌倉末期に大友氏の一族・志賀貞朝がその砦を修築、拡大させ「岡城」と名付け、代々の居城とした。



戦国末期には中川氏が入国、 以降、近代城郭として一応の完成をみた。
岡藩は、中川秀成が初代藩主となり、以降中川家は明治維新まで存続している、父はあの戦国の勇将・中川清秀である。 

清秀は当初は池田勝正に属し、後、荒木村重(戦国時代の武将、明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名)の配下となる。 
摂津・茨木城主時代に荒木村重の謀反が起きると信長に従っているが本能寺の変後、羽柴勢に加わり山崎の合戦で活躍する。
後の賤ヶ岳の合戦では奮闘するも戦死している。

父・清秀が賤ヶ岳の戦いで戦死した後、家督は兄の秀政が継いでいた。 
しかし、その秀政も早世してしまったため、その弟である秀成が跡取りとなり播磨国六万六千石を継いで豊臣秀吉に仕えることとなった。 
その後に秀吉から豊後・岡に七万四千石の所領を与えられている。


尚「岡藩」は、豊後国内で存在した藩の中では最大の藩であり、しばし竹田藩と呼ばれることがあるが、岡城と城下町の竹田とは離れていたため「岡藩」が正しいとされている。

明治7年(1874)の廃城令によって「岡城」は大分県に入札、払い下げされ、城郭・建造物は全て取り壊されている。 現在は雄大な石垣のみが残り、城趾は「国指定史跡」に指定されている。 



荒城の月」という愛唱歌がある・・、
作曲家の滝 廉太郎は東京で生まれているが、父・吉弘は役人で大久保利通の秘書をしていたといい、大久保の没後、地方官として大分県竹田市に移り住んでいる。 

父の赴任に伴い幼少の頃の廉太郎少年は、4年間を大分県竹田市で過ごしている。 
15歳の頃、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学し、作曲とピアノ演奏で才能を伸ばしていった。

一方、奥州・仙台出身の土井晩翠が「荒城の月」の作詞をモデルにしたのは故郷仙台市の「青葉城」や福島県会津若松市の「鶴ヶ城」と言われている。 

東京音楽学校(東京芸大)の教科書唱歌、歌詞コンクールに晩翠は「荒城の月」を応募、そして入選している。

これを当時音楽講師だった滝廉太郎に作曲を依頼する。 
廉太郎は幼少時代を過ごした竹田に、21才の頃帰省して「岡城跡」に想いを込めながら、この曲を完成させたといわれている。 

晩翠は『 滝 廉太郎は歌詞を抱いて故郷大分の竹田町に帰り、その郊外に位置する岡城趾で「荒城の月」を完成した 』と言っている。 

「荒城の月」は、廉太郎の岡城趾の原風景と晩翠の「青葉城」、「鶴ヶ城」の詩的情感を加えた名城合作と言えなくはない。 


岡城の本丸跡には瀧廉太郎の銅像が建てられている。 
不朽の名曲「荒城の月」は日本歌曲の原点として、また日本人の心のよりどころとして永遠に歌い継がれている楽曲でもある。
 

荒城の月』 詞・土井晩翠  曲・滝廉太郎

春高楼の 花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝(エ) わけいでし
昔の光 いまいずこ

天井影は かわらねど
栄枯は移る 世の姿
写さんとてか 今もなお
ああ荒城の 夜半の月
 

次回は、軍神・「広瀬中佐」



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2011年6月2日木曜日

日本周遊紀行(136)竹田 「名水の里」

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日本周遊紀行(136)竹田 「名水の里」  、




久住の国道442号線から少し奥に入った場所にある妙見神社下の岩盤から湧き出る「老野の湧水」。 「豊の国名水15選」にも選ばれている。




竹田の町は名水の里として、環境省選定「名水百選」にも選ばれている・・、

大分から竹田、熊本へ通ずる道の主要路は、国道10号線から国道57号線を行くのが一般的であるが、小生はあえて野津原町の国道442を選択して竹田方面を目指してみた。
さすがに車の数は少なく、ゆったりした走行が出来る。 

山間とはいえ人家は途切れることなく点在していて、いかにも長閑な風景日和である。 
内陸へ進むにしたがって道路は未改良区間も多くなり、しかも曲線区間が連続して見通しが悪く幅員も狭小なる。 

車がやっと通れるような狭さの道が暫く続くが、これが昔ながらの住人の生活道路でもあろうか。 

所々、高速道路の誘致看板が目に付くが、この界隈を予定されている、それにしてもこの一般道路の改良整備することが先決であろう・・?。


町境を過ぎ朝地町に入って道路もだいぶ良くなり、間もなく国道57号へ合流した。
この辺り朝地町のこじんまりとした町並みで、近くは豊肥本線の朝地駅もある。
やがて、竹田の町へ入る、この後、国道442号は先刻通った久住高原、南小国、日田市へ向かう、所謂、日田往還道路である。 


すぐ近くを稲葉川、玉木川といった清流が勢いよく流れてる。 
水源は無論西方の久住高原、阿蘇外輪といった豊陵な山地・大草原であるが他に、竹田は緒方川、白滝川など阿蘇の山々の水を集めた川が蛇行しながら幾筋も市内を流れている。
これらは一部が伏流水となって涵養された地下水が市内のあちこちに豊かに湧出している。

奥豊後の竹田は名水の里としても有名で、環境省選定「名水百選」に選ばれ、その湧水数は50ヶ所を超え、湧水量は一日6トンを超えるとも云われている。 

阿蘇山系の数ある湧水の中でも水質は軟水で常温は16℃と安定した透明さを誇り、美味しさの点では群を抜いているととわれる。 
これらの水流はやがて大河の大野川となって、流域を肥沃にしながら大分平野を形造っている。 

大野川は今も流域の竹田市、直入郡、大野郡の穀倉地を潤し、大分平野の豊養な土地を育み潤している母なる川であるが、流域には多くの歴史遺産も多数あり、縄文時代の遺跡も出土しているという。


江戸期、中流域の犬飼河港は岡藩中川公の参勤交代で犬飼までは陸路、犬飼から大分までは大野川を下るのが常であったという。
その影響を受けて一帯は、川筋の物資の集散地としても大いににぎわったという。 

古来、大野川の河川流通を通じて、竹田へ文化の波も寄せているという。

次回は、竹田・「岡城



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日本周遊紀行(135)大分 「豊後・大友氏」

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 日本周遊紀行(135)大分 「豊後・大友氏」    、



大友氏は、我が相模の国(神奈川・小田原)の出身であった・・?

さて、「大友氏」の時代である。 
大友氏は中世・鎌倉初期に東国より豊後に入国して以来、戦国時代の終わり頃までの約320年余り豊後地方の守護職(領主:鎌倉期は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職・しゅごしき・といった)を務めた。 

鎌倉時代は源頼朝が相模の国・鎌倉に幕府を置き、武士階級が天皇・貴族階級と分離して新たな支配体制を創った時代で、開府は1192年のことであった。 
この時期、平安期までの荘園に変わって全国に領主となる守護・地頭を設置し、守護は一国に一人ずつ配置された。 

西国においては、東国から有力御家人衆を派遣、入国させ領地を安堵させた大名としては肥前国の千葉氏、九州探題となった渋川氏、中国地方最大の勢力となる毛利氏、安芸守護の安芸武田氏、日向・薩摩の島津氏、そして豊後国守護に任命された大友氏等であろう。


中国を治めた毛利氏については小生の在住地、神奈川県厚木市より移遷されていったことは中国・山口の項で述べた。 

島津氏については頼朝が幼少時流人の身であった頃、世話をしたのが比企家(埼玉、武蔵の荘)の禅尼であり、その娘(丹後の局)と頼朝の間に産まれたのが島津忠久だという。 御落胤である。 
一時、畠山重忠に預けられ、後に九州日向の国、島津の荘を賜る。これが九州の覇者、島津藩の開祖である。(更に、宮崎の項で述べます・・、)


そして豊後・大友氏も相模国の小田原大友郷が出実であると言われる。 
現在の神奈川県小田原市に西大友、東大友という地名が、酒匂川と曽我梅林に挟まれた静観の地域に今も残る。 

大友郷の初代の祖は源頼朝の庶子(しょし:妾腹の子、嫡子以外の実子)か或は、頼朝の側近であった中原親能(鎌倉初期の文官御家人、公家)の猶子(ゆうし・兄弟の子、甥)と言われているが、その中原氏はその土地の名をとって大友氏を名乗っていた。 

豊後はかっては平家の基盤であり、平家没落後も平家武将が多く残存していた。
その九州に対する抑えの役割が必要であり、その監視と抑えに大友氏が派遣されたといわれる。


豊後地方は、室町期から戦国初期までは大友、大内(周防・山口県の守護大名で、豊前の守護職も兼ねる)、少弐(しょうに:筑後の守護大名)の三国抗争が続くが、戦国期、大友義鎮(大友宗麟)が勢力を伸ばし、一時期は豊後を直轄支配地とし更に豊前・筑前・筑後・肥前・肥後を勢力下にして九州北部を領有するまでになる。



「大友宗麟」について・・ 、

大分・豊後といえば大友義鎮(よししげ=宗麟、鎌倉の初代から21代領主)で、キリシタンを保護し自らも改宗して歴史に名高いキリシタン大名となっている。 

フランシスコ・ザビエルをはじめとするポルトガル人宣教師やポルトガル商人が宗麟のもとに、当時、府内と呼ばれていた現在の大分市に頻繁にやって来た。
又、自らも当時世界の最富強国であったイスパニア・ポルトガルなど日本人として初めてヨーロッパに渡り、世界の指導者らと会見している。 

宗麟の外交使節の役割は文化、宗教史上に留まらず交易を含む多方面にわたったとされ、当時としては画期的であったという。
戦国時代の国際都市であった豊後は、日本初の西洋式病院を設けられるなど南蛮文化が花開き、大分の全盛時代を築き上げた。

反面、キリシタンであったがため、元来より八幡信仰や仏教信仰の篤い家臣団との軋轢を生じることにもなる。 
宗麟はキリスト教の理想国を建国するという計画に没頭しはじめるが、しかし、このことが遠因となって、やがて没落の道を辿ることになる。
この頃、隆盛著しい「島津氏」が勢力を伸ばし、九州制覇へ向けて動きだす事になり、豊後を侵攻するようになる。 
後に、宗麟は圧倒的勢力の島津氏との正面対決により大敗北を喫し(耳川の戦い・詳細は後報・・)、豊後から退却する結果となる。 
あと一歩で大友氏の息の根を止めるところまで追い込んだ島津だが、豊臣秀吉による九州征伐で九州は平定され、大友氏は縮小されながらも豊後一国を安堵される。 
この時期の1587年、宗麟は58歳で生涯を終えている。 


その後の大友氏は秀吉の朝鮮出兵の際、失態により改易、更に、江戸期には一旦、旗本取り立てられるが、その子の義親の代になって無嗣(家督を相続する子がいない)のため事実上大友家は滅亡する。

改易とは、所領や家禄・屋敷を没収せれることで、特に江戸時代の刑では蟄居(チツキヨ)より重く、切腹より軽いといわれる。 


大分市顕徳町三丁目周辺に、豊後国府といわれる大友氏館跡や大友氏の菩提寺である万寿寺跡の遺跡が在り、現在も発掘調査が行われているという。 
館跡は北部九州六カ国の守護職を務めた大友宗麟の館跡で、京都の室町将軍邸をモデルに造られた守護館の典型的な姿であるという。 
その歴史的価値の高さから、「大友氏遺跡」として国の史跡に指定されている。



大分市は、2005年1月に北海部郡佐賀関町、大分郡野津原町は大分市に編入され、新「大分市」発足している。

佐賀関町は大分市の東方、豊後水道に突き出した三角形の町で、対岸の愛媛県佐田岬半島へは豊予海峡を挟んでわずか14kmの距離である。 
東九州の玄関口であり九州でもっとも四国に近い町であり古代よりの要港であった。 
そして、握り寿司などでもお馴染みの 「関あじ・関さば」の産地でもある。 
豊予海峡は急流うずまく「速吸瀬戸」(はやすいのせと)とも呼ばれる好漁場で、ここで育った魚類は身がしまって絶品であるという。

又、野津原町は大分の南部に位置し山間の静かな町で、町域の中心を竹田に向かって国道442号が走る。 
更に、矢の原から県道412号が国道と並行して走る。 

この道は豊後街道といって、江戸期は肥後熊本城主・細川氏や豊後岡藩主(竹田藩)・中川氏の参勤交代道路として利用されていたことは先に述べた。 

南部に位置する「今市」はこの豊後街道にあり、中川氏が岡藩の宿場として設けた宿場町でもある。
今も、当時の名残の石畳が道路の真ん中に続いている。

その豊後街道から竹田を目指した。

次回は、「竹田



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2011年6月1日水曜日

日本周遊紀行(135)大分 「豊の国」

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 日本周遊紀行(135)大分 「豊の国」  ,



豊の国、豊後の国、そして古豪・大分氏が元祖であった・・、

大分の市街北部の大分光吉I・Cまで向かう。
大分市は大分県の中部海岸に位置する市で、勿論、県の県庁所在地である。 
古くは「豊後の国」の国府が置かれた都市で府内(ふない)とも呼ばれた。

古代、大和朝廷の時代には九州は「筑紫(ちくし)の国」、「豊(とよ)の国」、「日向(ひゅうが)の国」と称していた。 
それが律令によって細分化されて、[筑紫の国]が[筑前:ちくぜん][筑後:ちくご]に、[豊の国]が[豊前:ぶぜん][豊後:ぶんご]に、[肥の国]が[肥前:ひぜん][肥後:ひご]に、[日向の国]が[日向:ひゅうが][薩摩:さつま][大隅:おおすみ]の九つに分けら九州の名が付いた。 

九州は日本国発祥の地といわれ、無理やり解(かい)せば「 初めに日出るところであり、豊かにして、肥ゆる、国を筑くところなり 」となる。



豊の国、豊後の国は既に、九州の瀬戸内ルートを通して畿内に通じた「海の道」でもあり、東九州の要地であった。 
その古代、既に「大分」の名が見れる。

市内には有名な「亀塚古墳」の他にも多くの古墳があり、これは有力な勢力を持った人が大分にいたことを示しているという。
その内、三芳地区にある「古宮古墳」は、九州に一つしかないといわれる畿内型終末期古墳(古墳時代:大和時代、畿内地方に多くの巨大古墳が造営されたが、その時代の終末期と呼ばれる)が、ここ「豊の国」にあり、当時日本の政治や経済の中心であった畿内の文化を色濃く反映した地域であったことが伺える。

古墳時代終末期には、既に古墳築造の禁止令(薄葬令=はくそうれい)が発せられていた。
古宮古墳はその最後の頃の古墳であり、誰が葬られているのかは確かな事は判っていないが、当時かなりの権力をもった人物で5世紀以来、賀来川流域を治めていた大分君(おおいたぎみ)の一族で、壬申の乱で活躍した「恵尺」(えさか)という人物が葬られていると想定されいる。

古事記には「 国造本紀 」の項目の中で、大分君は阿蘇君(火の君)と同様に国造(くにのみやっこ:こくぞう)と同格に列せられていて、九州の地方豪族として中央(都、畿内)にも知られていた。 

国造制とは、6世紀頃に律令制が導入される以前のヤマト王権(大和朝廷)の時代の制度で、地方統治体制(ここでは一つ国を意味する)の下の長官、国の長を意味する。

この時期、大分地方に大分国造が置かれていて、この大分国造になったのが大分君一族であった可能性が高いといわれる。
この時代に起こった中央の勢力争いに豊の国からその代表として「大分恵尺」(おおきだ の えさか)が応援に駆けつけ大功をなしたとされている。


壬申の乱」とは、672年に起きた日本古代の最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)に対し、皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が反旗をひるがえしたことによる。 
この戦いに勝利して後に天武天皇となった大海人皇子は、大分君・恵尺の功績に十分に報いて、死後、恵尺の出身国・「豊の国」(この時期、律令制が発布、豊後の国となる)に古墳の造営を許可されたという。


大分市椎迫(しいざこ)の丘陵、西の台小学校の東に石棺式石室の古墳が今も残る。
この古代大分氏に因んで、明治期に豊後の国が大分県になり尚且つ、大分市と呼称したとされる。

奈良期・国府時代の国分寺跡は「久大本線」の4つ目の駅「豊後国分」駅前に良く整備、復元された状態で見学でき、「大分市歴史資料館」が併設されている。 
しかし、肝心の「豊後国府」跡は未だに発見されていないという。 

学説もいくつかあって確定していないが、「久大本線」の駅名にもなっている「古国府」(ふるごう)辺りにあったことは間違いないともいわれ、古国府という地名にもなっているこの地域に遺構が残されているのでは・・?と想像されてる。

次回は、中世の豊後、「創始者・大友氏



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2011年5月31日火曜日





 日本周遊紀行(135)大分 「高崎山」   、






猿園の入園料は、当時「子供10円、大人は子供なみ」という不思議な文言であったとか・・ 、



今朝はいつもより早起きして、「双葉荘」滞在中としては最後の入浴も済ませた。 
目覚めてサッパリした後はすぐに出発である。 
カッチラかしていた身の回りのものは、昨日のうちに片付けていて直ぐにでも出かけられる体勢にはしてあったし、素敵な宿の女将さんにも事情を話して昨夕の内に清算を済ませておいた。 

勿論、旅荘で4日も滞在したのは小生にとっては初めてであったが、せっかくの湯治場滞在だったのでゆっくり、ゆったり手足を伸ばして、もっと長期間のんびり湯治生活を満喫したかったのだが、やはり、周辺観光地に気を取られ、あたふたと巡り巡ってあっという間に過ぎてしまった。 
今度は是非、内の上さんと同行のうえ、ゆっくりしたいものだとつくずく思った。 
本日、出発するには若干の内的の理由(鹿児島で家内と娘家族と合流する)もあった。
まだ、周辺ご近所さん達が活動する以前の、静寂の内に「双葉荘」を後にした。 

今日の行動予定は、再び熊本へ戻り九州の西岸地域を訪ねるつもりである。 
大分自動車道の別府I・Cより先ず大分を目指す、眼下に見えてる別府の町並みからホンノリ白煙がたちのぼっていた。 
別府の市外を抜けると同時に高崎山の要害が競立っている、あの、野生の・・?猿の生息地で有名な。



高崎山」は既に古文書に書かれていて・・、
「 高崎は多加佐岐とよむべし、名の義は高き山の出埼有るによれり 」とあり、本来「 高き山の崎 」という意味で、高い山が御崎(岬)に突き出ているという意味でもある。 
中世には高崎山山頂に大友氏の城が築かれ、併せて、麓に万寿寺別院も建立されている。
高崎山のサル(猿)については、400年ほど昔にはニホンザルが棲んでいたと「豊府紀文」にも記されている。 


1952年(昭和27年)、当時の市長・上田 保氏は、地元住民による高崎山周辺農家へ農作物被害を及ぼしていた猿を狩猟しようと試みたが失敗したことを聞き、逆に猿を集めて観光資源として活用することを発案した。 
アイデアは、「池の鯉」で手を叩くと集まる鯉の姿を見て、猿を寄せることを思いついたと云われている。

その当時の大分市は、戦災により商人のほとんどが疎開していたため税収が無い時代であり、高崎山の猿たちは厄介者から一転し貴重な観光資源、収入源となったのである。 発想の転換、「 災い転じて福と成す 」を地で行ったのである。 

猿園は、高崎山自然動物園として発足、入園料は当時「 子供10円、大人は子供なみ 」などと不思議な料金設定であり、そして当の上田元市長はホラ貝を吹いて猿を呼んだという。

高崎山の自然サル園は宮崎県の幸島(宮崎の最南端である都井岬の近く、日向灘に面する小さな島で、この島には昔からサルが住んでいた)と並んで「日本のサル学発祥の地」とされ、「群れの中で最も序列が高い個体を指す呼称を『ボスザル』から『α(アルファ)オス』に改める」と発表した際にはテレビニュースや新聞で報道され、現在でも群れの動向については地域ニュースや話題になることが多いという。


2004年(平成16年)、高崎山の入り口から猿寄せ場までを4分で結ぶ定員40名で2両編成の小型モノレールが運行を開始し、山を登る手間が省けたという。

次回は、大分 「豊の国



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2011年5月30日月曜日

日本周遊紀行(134)由布院 「湯平温泉」

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 日本周遊紀行(134)由布院 「湯平温泉」  ,



写真:鄙びた石畳の坂道・「湯平温泉通り」(木造の四階建てに注目)



最上部の「金の湯」(共同湯)と浴槽(男湯)





石畳の、鄙びた、歴史ある、温泉・・!!  、


湯布院町(由布市)の三番目の温泉場・「湯平温泉」へ向かう。

駅前から11号線、更に南由布院駅辺りから国道210号線(大分・湯布院道)を行く。 
山峡の地に久大本線が並行して走り、谷底に大分川の清流が光る。  

車を下りて今度は“ツッカケサンダル”で歩くことにした。 しかし、草履サンダルより下駄が似合う町並み、否、路地である。


温泉街は石畳の坂道通り沿いを中心に約30軒程の温泉宿が並ぶ、小ぢんまりとした湯街である。 
シンボルともいえる石畳をゆっくり歩を進める、歩くうち意外と坂が急なのに驚く。
湯平温泉”ならぬ“湯坂温泉”であろうと皮肉りたくもなる。 

道脇に、石を刳り貫いて造作したと思われる石灯篭が石畳の道筋に等間隔に設置してある。
ボンヤリ灯りで、夜の温泉情緒を盛り上げようというのだろう。



石畳の坂道」、この石畳には約300年の歴史があるという。 
江戸後期に湯町の篤志家(工藤三助)が現在の石畳を作ったのがきっかけで、凡そ500メートルも続く石畳の急な坂道である。 

尤もであるが何故、階段にしなかったのかかなと素人的疑問も生じるが・・?、
何故なら雪の日は大変だろうな、足腰の弱い人は階段に腰掛けて休みながら上れるのにと。
だが階段にすると施工が大変か、などと感じながらも個人の「」で行ったとすれば納得でもある。

石畳は300年の経過があるが、湯平温泉そのものは由布院同様、鎌倉時代より開けたといわれ古い歴史のある温泉場である。 
江戸期に温泉地としての骨格が出来上がり、それ以来、湯治場としての発展をつづける。貴重で豪華な木造四階建ての旅館が建ったのもこの頃で、今もその建物が一部残っている。


大正から昭和初期にかけて一時代を築き上げた湯平は文人・墨人も多く訪れている。
   
『 わたしゃ湯の平 湯治のかえり 肌にほんのり 湯のかほり 』
と詩人の野口雨情が詠っている。

又、山頭火は地元の人情に触れた様子やその思いを

『 しぐるるや 人の情けに 涙ぐむ 』
という句に残し、真新しい石碑が石畳に入り口に建つ。


最近では、1982年(昭和57年)に湯平で『 男はつらいよ 第30作 花も嵐も寅次郎 』がロケ撮影されてもいる。



温泉といえば観光地としてのイメージが強いが、湯平では昔から熟年層を主とした湯治場としての伝統をかたくなに守っているようで、客層も「癒し」や保養を目的とした利用者が多いという。 

周囲を大自然にひっそりと抱かれて湧きつずける湯の里・湯平は、昨今では由布院の奥座敷としても知られ、訪ねる愛湯人が次第に増えているという。 
温泉は薬効も充分あり、飲めば胃腸に良いともいわれて湯平の旅館ではお茶のかわりに温泉のお湯が客に出されるという珍しさである。


石畳通りに入ったすぐ右側に「銀の湯」があった、格子戸の引き戸が感じいい。
他にも湯平には五つも共同湯があり、下から「橋本湯」、「銀の湯」、「中央温泉」、「中の湯」、「金の湯」とある。 

中でも中央温泉はごうごうと勇ましい音を立てて流れる花合野川(かごのがわ)沿いの川原にあり、渓谷の美景が堪能できるという。 
川沿いにあるため度々建物が流されたともいうが、今でも川が増水すると川水が溢れて浴槽に入ってくることがあり、時には湯船の中に魚が入り込むこともあるという。 
魚と混浴・・、これ以上の風流はないが地区の人はその度に掃除をして大切に温泉を使っていると。



坂の一番上にある「金の湯」を訪ねてみた。
急坂を上りきってやっとこ辿り着き、最上部に架かる明治橋を渡り、階段を少し川沿いに下りるとコンクリートの白壁のガッシリした建物が「金の湯」であった。 

100円の入湯料を受け箱に入れて入室する、他に客はいなかった。 
浴室は大して広くはないがスペースの半分くらいが湯舟になっていて、長方形のタイル張りに蛇口から少しづつ湯が注がれている。 

湯の色は薄い赤茶色というか、如何にも効能が有りそうな湯で、少々熱い加減であるが何とか浸かれる。 
奥に湯揉み用であろうか、木の板が立て掛けられているのが面白い。 

板に寝っころがってお湯を腹に掛ける。 
「掛け湯」といわれる温泉療法もあり胃腸病に効くともいう。 

源泉はすぐこの上にあり、直接こちらへ引き湯しているという。 
ここの温泉は胃酸過多、慢性胃炎や腸炎などに効用があるという弱食塩泉で、飲めば胃酸の分泌を促し胃腸の働きを良くすることから「胃腸の湯」と古来から言われている。 

湯平温泉は、医療温泉の西の横綱ともいわれる天下の名湯ともいわれ、フランスのヴィシー鉱泉と並ぶとも称されているようだ。 
ヴィシー」とはフランスの温泉療養の町で、国中からこの温泉療法を求めに方々からやって来るという。



湯平温泉を満喫して、家路(双葉荘)を辿った。 
それにしても今日は朝から色んな温泉に浸かったが、これぞ温泉三昧とも云うんであろうか、鉄輪温泉に戻ってからも勿論一風呂浸かるつもりである。

次回は、「大分



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2011年5月29日日曜日

日本周遊紀行(134)由布院 「由布院温泉」

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  日本周遊紀行(134)由布院 「由布院温泉」  ,




写真:由布院の瀟洒な「湯の坪通り」


共同湯・「ゆのつぼ温泉」


写真:金鱗湖と由布岳(右の茅葺屋根が共同湯・「下ん湯」)




鎌倉期より開けていた由布院は、江戸期には閑散としていた・・?

金鱗湖から流れ出る小川に沿って行くと、堂々たる屋敷の門があった。 
昔は家老の御屋敷だったそうで、その門構えに「由布院民芸村」とあった。
湯布院の人気スポットで、幕末から明治期の民芸品を収蔵した民芸民具館でいわば資料館のようなものらしい。

帰路、お目当ての「ゆのつぼ温泉」の共同湯へ向かう。 
瓦屋根が二重構造の民家風の小さな木造で、引き戸の玄関上に木板で大きく「ゆのつぼ温泉」と書かれてあり、粋な雰囲気を出している。 
料金箱に入湯料を入れ扉を開くと右が女湯で、左が男湯になっている、竹を編みこんだ天井など細かいところに工夫がしてあり、木目が鮮やかな木の壁や床が明るく清楚なイメージがもてる。 

本日開場したばかりと見えて、洗面具等はキチンと整理されている。 
浴槽は中にも藍色の石ダタミを敷くなど、見た目にもその木材と調和していてかなり落ち着いた雰囲気を出している。 
湯舟の縁からは惜しげもなく湯が溢れていて、無色透明、無味無臭の単純泉だけれども、触ると温度はかなり熱い、分析表によると泉温は64度とあった。
湯舟の湯はさすがにそこまでは熱くはないものの、かなりの高温ではあった。
熱いので湯船に長く浸かることなく、縁で「掛け湯」を楽しみながら湯舎を出た。

因みに、金鱗湖の湖畔にも「下ん湯」(したんゆ)という妙な名前の半露天の混浴施設がある。



陽光が燦々として眩しいくらいだが、路地の樹木の緑が補ってくれる。 
人の群れも一時より増えてきたようで、ツアーの団体客も目に入る。
やはり御婦人方、若い女性、カップルが目立つ。 

今日は6月6日の月曜日の平日である、にも拘らずこれだけの人出である、週末の休日などは相当な人出であることが想像できる。  



ところで、ここの温泉地の本来の名称は、由布院地区にある「由布院温泉」である。
昨今、観光案内で「湯布院温泉」などと表示される場合があるが、「湯布院」という名称は先にも記したが旧湯平村と旧由布院町が合併した際に作られた町名である。 
湯布院温泉とすると由布院温泉と湯平温泉のことで、更に塚原温泉も加わることになる。 
従って本来は湯布院町の三つの湯で湯布院三湯が正しい。 現在は、由布市三湯由布院温泉、湯平温泉、塚原温泉)である。 

尚、現在では知名度の向上に伴い「由布院」と「湯布院」の使い分けについての理解もある程度進んでいるが、その一方で状況は一段と複雑になっているともいい、その為、「ゆふいん温泉」、「ゆふいん」という平仮名表記が用いられることも多くなっているともいう。
この表記は「由布院」なのか「湯布院」なのかという区別を一層曖昧にする結果を生んでいるともいえる。

ともあれこれら三つの温泉群からの湧出量は、別府温泉に次いで全国第二位であるとか。 
中でも由布院が湧出量・孔数とも断然多く、なんと740を超える源泉孔からは毎分40KLの温泉が湧出しているという。 
江戸時代から使われていたと言う共同浴場は金鱗湖畔に佇む茅葺屋屋根の小さな湯小屋「下ん湯」をはじめ14ヶ所があり、外来観光客は勿論、地元の人たちの憩いの場として利用されている。泉質は主に単純泉で効能は神経痛、筋肉痛、関節痛など。


奈良期には既に開かれ、鎌倉期から効用のある温泉として広く知られていた由布院であるが、江戸時代になって突如としてただの村人だけの行水(ぎょうずい))の湯になってしまったと言うのである・・?。

16世紀頃までは由布院はキリシタンの里であった。 しかし、江戸期になって、この平和な村にキリシタンの弾圧が襲ってきたのである。 
全村民がキリシタンだったような由布院は、やむなく一部の信者を除いて殆どが改宗してしまったともいう。(今でもその隠れキリシタンの痕跡が墓石などに残っている) 

由布院に対する監視の目は厳しく、キリシタンの疑いを避けるためにも、村人が行水する以外、外部の人は誰も湯治に来なくなっていた。
ここに由布院温泉の陰の歴史が秘められてたのである。

由布院が湯治場として再び活気を帯びるのは明治維新後のことで明治中期、近隣に陸軍の演習場ができ、陸軍のお偉方や兵士たちが旅館や民家に宿泊し、温泉気分を満喫するようになってからである。 
湯布院には今も自衛隊の駐屯地があり、日出生台(ひじゅうだい)演習場(湯布院町、玖珠町、九重町にまたがる西日本最大の演習場)からは時折、砲撃音が聞こえるという。

由布院には、更に大分-佐賀を結ぶ佐賀県道が開通し、大分-由布院間に鉄道も走るようになった。
そして何処も同じようにこの町も歓楽温泉地と化していこうとしていたのである。 

これを憂いたのが油屋熊八をはじめ、江戸時代からの庄屋たちや医者、外部から訪れた学者たちであった。 
油屋は由布院の名勝宣伝文として「 朝かすみ・四季蛍・山のみどり・木々の紅葉・杉の大木・興禅院・八山地獄・蕨狩り・若宮八幡・六所宮・石松公園・倒映湖・人と魚の混浴・下の湯 」を挙げている。

熊八に案内されてやって来た客人たちは、仙郷・由布院盆地の美しさに感動し、その後も度々自らこの自然の素朴な温泉地を訪れたという。 
客人は、由布院で遊んできたと言うより、由布院で癒してきたと言ったといい、勇壮な姿で由布院盆地を包み込むように聳える由布岳や美しい金鱗湖、そして変わらない純朴な農村風景、町の人々の生活がそのまま由布院の歴史を伝えている。

次回は、「湯平温泉




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01. 15.

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