2011年2月5日土曜日

日本周遊紀行(76)宇和島 「伊予愛媛」

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 日本周遊紀行(76)宇和島 「伊予愛媛」   、


写真:宇和島城天守閣



前回の、概ね続きになりますが、「伊予・愛媛」についてです・・、

愛媛県」という名は明治期、さる伊予人の申請により太政官布告(明治政府)によって決められたという。 
先にも記したが、四国について「古事記」がイザナギ、イザナミによって国を生む記述がある。 最初に淡路島を生み、次いで四国を生んだ。 四国については「身一つにして、面(おもて)四つ有り」と記されており、それぞれ男女の人名が命名されている。 
讃岐は、男性で飯依比古神(イイヨリヒコ)、 
阿波は、女性で大宣都比売神(オオゲツヒメ)、この神は食べ物の神で鼻、口、そして大きなお尻から食べ物を取り出してご馳走を作る不思議な女神という。 大宣(おおげ)とは、大食で、田、畑、食べ物の豊かな土地を意味する。 
土佐は男性で建依別神(タケヨリワケ)で、「雄々しい」という意味であり、
そして、伊予愛比売神(エヒメ)で文字通り、いい女という意味である。

愛媛」とは随分と粋な名を、県名に付けたもんであると感心してしまうのである。おそらく松山の教養人が担当官に具申して、この様な名前がが採用されたのであろう。 
いい女」という行政区域でこのような愛くるしい名称は、世界中にもないであろう。


話は些か反れるが、小生が若かりし頃、瀬戸内で半年間仕事をしていたことは先に述べたが、この時、宿のお上さんが「四国には讃岐男に阿波女、伊予の女に土佐男という言伝えがあろのよ」という話を真剣になって聞いたものである。
まさか宿のお上が古事記の内容を知って言ってるとは思わないが、いずれにしても2000年余の歴史がここに生きていて、歴史や風土が脈々と現代にまで引き継がれていることは、驚嘆に値するのである。
四国・四県、そして「愛媛県」という、粋な名称は是非残したいもんである・・!!

今回の旅の目的の一つに、その地域の歴史や文化に少しでも触れることであり、市町村の特色を知ることでもある。 
合併によって、町村名が消えてなくなることも仕方ないことではあるが、若干でも旧地名を残したいものである。
たとえ消えて無くなってもそれらを記憶し、記録に留めておきたいと希望するものでもある。今回の合併で、消滅した歴史ある地域名については、改めて無念の意を表したいのである。



そして、宇和島である

旧津島町の中心であった街並みを後にし、長い松尾トンネルを抜けると間もなく宇和島の市外に達した。
港に近い国道56のバイパスから宇和島城を目指して進む。 
カーナビや地図上では気が付かなかったが、宇和島の市街地は小さな入り江を成していて三方は山域に囲まれている、そこに築港が拓かれたようである。 

その小さな市街地のほぼ中心にコンモリした小山が見えている、どうやら宇和島城は海岸べりに築城した山城のようである。
車に給油しながらお城の様子を伺うと、宇和島城は標高80mの丘に築かれたお城で、石段を登って見物するには小一時間くらいかかるらしい。 
夕刻せまり、この先、松山・道後までの道程を思うと、お城見物は断念せざるをえない。 
お城は、秀美華麗な現存天守で、姫路城の大天守をひとまわり小さくした感じともいわれる。

宇和島城」が築かれたのは、関が原の合戦が終了した1601年、当時の領主であり、築城の名手と言われた藤堂高虎(三重県・津市の項で記載あり)の手によるもの。
その後、1614年には奥州の雄・伊達正宗の長子・伊達 秀宗が宇和島の領主となり、二代目藩主伊達宗利の時代に現在の天守閣が築かれている。 

秀宗は、豊臣秀吉のもとで元服し、秀吉からの一字と父の字を賜って秀宗と名乗っている。 政宗の長男であったが、わけ合って仙台藩を継がず、徳川家康から関が原参陣の功として伊予宇和島十万石を継ぐこととなり、南海の地に伊達の別家を起こすことになった。 
東北の雄とはいいながら、四国の果てまで流れて着たのは前例が無いだろう。

江戸末期から明治期、伊達氏八代藩主・伊達宗城(むねなり)は福井の松平春嶽、土佐の山内容堂とともに幕末の三名君に数えられている。 
宗城は三人の中でも最も先見の目があった人物とされ、薩摩の島津斉彬(なりあきら)と並んで西洋事情を取り入れ、地元の近代化に着目、実施したとして知られる。
開化後は、民部卿兼大蔵卿となり鉄道敷設などに尽力、明治4年には天津で日清修好条規に調印するなど、明治維新後の活躍も目覚しいものがあったという。

四国三県、阿波の蜂須賀家、土佐の山内家、伊予の伊達家と戦国時代の各大名が関が原以降、いずれも当時、徳川の外様大名として四国を領有しているのは面白い。
因みに、讃岐・高松は当初は豊臣・生駒家であったが、すぐに、譜代の徳川・松平家が赴任している。

次回は、宇和島・和霊神社



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2011年2月4日金曜日

日本周遊紀行(75)愛南 「平成の大合併」

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 日本周遊紀行(75)愛南 「平成の大合併」  ,



写真:第40番霊場「観自在寺」


愛媛の愛南町という名称は納得であるが、もしかして・・、

国道321号は、ここ宿毛で終点となり、以降は中村(四万十市)から延びてきた国道56号線と合流し乗り入れることになる。 R56号線は高知から到って、松山を結ぶ凡そ300kmの道程である。
松山方面へは、先ずは山中を行くようになるが、一本松の峠トンネルを抜けると高知県から愛媛県へ入ったことになる。

一本松町であるが、実際は新町名「愛南町」というそうで 2004年10月に周辺の4町1村、一本松町、御荘町、城辺町、西海町、内海村が合併して「愛南町」が発足している。
旧一本松町の山中から幾つかのトンネルを抜ける、眼下には土佐とは明らかに違う穏やかな宇和海が広がっている。宿場町といった風情を感じさせる豊田を抜けると御荘町へ出る、清らかな流れの僧都川の北側を行くと、右手にサッカーや高校野球で有名な「南宇和高校」の立派な校舎が目に入った。

間もなく第40番霊場「観自在寺」の山門前に来た。
40番とはいっても伊予・愛媛県の「菩堤の道場」としては第1番目に当たる。
石段を上り山門をくぐると境内 左手に石の多宝塔が見る。正面にはチョットさえないコンクリート造りの本堂、その右手に大師堂が建つ。境内には、十二支を刻んだ石仏が並ぶ。 
本尊は衆生の疾病を治癒し、寿命を延ばすと云われる「薬師如来」で、御堂には大師が一木に彫ったという本尊・薬師如来、脇仏に阿弥陀如来、十一面観世音の三体、残りの霊木で舟形の南無阿弥陀仏の名号を刻まれた尊像が安置されているという。
これを「宝判」といい、大師が諸人の病根を除くことを祈願したものといわれ、現在も、この宝判でお陰を受けた人が万病を癒し、特に多く盲目や心臓病が治ったという。 
平安初期、平城天皇(へいぜいてんのう)の勅願所として天皇の名に因んで平城山・観自在寺とした。 その後、度々天皇勅使が度々参詣したという。
チョッと変わったところで境内に「栄かえるの石像」があり、石碑に次のように書いてあった。「親・子・孫と三かえる」、「お金かえる」、「福がかえる」、「病気が引き(ひき)かえる」・・と


御荘の街は、比叡山延暦寺ゆかりの荘園であったことから、この地方を御を付けて御荘町(みしょう)と名付けたという。 この先には広大な「御荘公園」があり、一角に珍しい往時の戦闘機「紫電改」が展示してあった。
1979年、付近の久良湾(西海半島の南)の海底で一機の「紫電改」が発見され引き揚げられたという。 
大戦中の1945年7月に豊後水道上空で交戦した未帰還機6機の内1機とみられて、機体は回収後に補修・塗装され、日本国内で現存する唯一の実戦機として御荘町の公園に保存・展示されているものという。 
「紫電改」(しでんかい)とは、局地戦闘機、紫電(しでん)改良型であることから命名された。局地戦闘機、即ち迎撃戦闘機として、太平洋戦争末期の日本本土防空戦で活躍した。因みに、迎撃に対して攻撃型の戦闘機は零式艦上戦闘機・略して「零戦」といい、日本海軍の主力戦闘機・艦上戦闘機として、日中戦争の途中から太平洋戦争の終わりまで戦い続けた。太平洋戦争初期に連合国の戦闘機を駆逐したことから、主交戦国アメリカから「ゼロファイター」の名で恐れられた。昭和20年3月、呉軍港を襲った米海軍機動部隊のグラマン F6Fヘルキャット戦闘機を主力とする艦上機の大編隊(合計で350機以上と言われる)を、紫電改56機、紫電7機の計63機で迎撃、戦闘機48機・爆撃機4機の合計52機を撃墜し、日本海軍戦闘機隊の有終の美を飾ったというのは、結構、有名な話らしい。

公園の一端に、御荘湾をひとまたぎする海上ロープウェイが、西海半島付け根の山頂まで達している、海上を跨ぐロープウェイも珍しい。 
御荘湾は、西海半島を挟んで深い入り江が複雑な形で宇和海へ延びていて、天然良好な港を形成している。 南宇和海のこのあたりは、実に自然豊かな景観を成しているのである。  


国道56の宿毛街道を北上する。
津島町に入ったように思えたが、実は平成17年8月1日に、宇和島市・吉田町・三間町・津島町が合併して新しい「宇和島市」が誕生している。

又々、「平成の大合併」について、 
先の愛南町といい、新しい宇和島市といい、四国南部の地域も合併が盛んに進んでいるようである。 
現今、全国的に「平成の大合併」の時代を迎えていて、全国の市町村は合併によりその姿を大きく変わろうとしている。 
現在、小生は全国を周遊している旅の途中であり、その都度、地域々々でカーナビや地図を頼りに巡っている。 それは何れも旧態の地域名なっていて地元に足を踏み入れて、はじめて地域名が変わったのに気がつき困惑してしまう。 又、そのまま気がつかずに通過してしまうときもあり、帰ってきた後、いざ記録を纏める段になって気が付くときもある。 はたまた、そのまま気ずかずに旧来の町村名を本文に記載しているかもしれない。そのような事態は是非ともご容赦願いたい。

序ながら今回の合併について述べておこう。合併には「合併特例法」という法律があって、色々な優遇措置が設けられている。
① 合併特例債(合併に役立つ事柄について借金すれば、国が利息や元本を7割までもってくれる)
② 地方交付税の特例(合併しても今までの市町村の状態での計算方法で地方交付税を算定する)
③ 合併により人口3万人以上となった場合、無条件に「市」になれる、普段は人口が5万人いないと「市」になれない。

一方、いわゆる小泉政権・政策のうち今、「三位一体改革」を進めている。
三位一体(さんみいったい)とは、元々、キリスト教の意味合いからきた言葉で、一般には、三つの要素が互いに結びついていて、本質においては一つであるという意味合いである。 今、政治で言われている三位一体とは、「国庫支出金を減らす」、「税源を地方に移譲する」、そして「地方交付税を見直す」、これらが一体になった地方分権化を勧めるのであり、このため国は地方の合併を勧めているわけである。

元より各地域は、次第に地方交付税が削減され、弱小自治体の財政が逼迫する状況もあって全国津々浦々、合併論議が花盛りとなっている。勿論、合併は直前で破談になることもある。
「合併」には大きく分けて、「編入合併」と「新設合併」がある。
「編入合併」は、いわば会社の吸収合併のようなもので、ある自治体の中に他の自治体が取り込まれる形態を言いう。この場合は、大きな自治体は領域だけ広がり、小さな編入される自治体は姿を消すことになる、「新宇和島市」はこの例であろう。
「新設合併」は、いわば対等合併のようなもので、合併する自治体は全て、いったん消滅し、同時に新しい自治体が立ち上がるという形式になる。「愛南町」がこれに相当すると思われる。
又、一方昨今では、国から地方へ権限を委譲する手段に、もう一つの大きな目標である「道州制」がある。小泉内閣の片隅で話題になっているらしく、首相の諮問機関である「地方制度調査会」というのがあって、これらの機関が北海道をモデルに調査研究し、内閣に答申して国会にまで提出しようとしている・・?。
今の「地方」と呼ばれる九州や中国、四国が、九州道、中国・四国道と言われるようになるヤも知れないのである。四国の由来でも述べたが、この際に「愛媛」という愛着ある名称が、もしかしたら消えるかもしれない・・! 

次回、更に「愛媛」について、



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2011年2月3日木曜日

日本周遊紀行(74)足摺 「38番霊場・金剛福寺」

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 日本周遊紀行(74)足摺 「38番霊場・金剛福寺」   ,



写真:三十八番霊場・金剛福寺



奥の院・石鎚神社、足摺岬に縄文前期の縄文人が在住・・?、

次に金剛福寺に向かおう。
窪川町の37番霊場・岩本寺からは、中村、土佐清水などを経て100kmを超し、霊場と霊場の間の距離は八十八力所中一番長い札所であるという。
しかも、道程は深山的難所が多く 足摺半島岬などは往時は陸の孤島とでもいえる所であったろう。 しかし、ここは四国の最南端の地であり、すぐ前は広々とした大海原を望むところから、観音様の理想の土地(補陀洛)だともいわれる。

補陀洛とは、観世音菩薩が南海上の彼方に住むという信仰で、補陀洛渡海(紀州・勝浦の項に記載)といって補陀落を目指して信仰者が小舟で単身海を渡り入仏することで、中世、熊野(補陀洛寺)や足摺岬から試みられたという。

38番霊場・金剛福寺は、こんな明るい風景の岬の頂上にが建っている。 
仁王門をくぐると正面奥に立派な本堂が迎える、右手には清和天皇を祀り、源満仲(清和源氏の嫡流)が建立したという多宝塔がそびえる。清和天皇、源満仲は源家の創始者であり、武将たち、とりわけ源氏一門との縁が深い寺院であるともいう。 
境内は広く、ゆったりと造作してあり、霊気漂う雰囲気が充分に感じられる。左手に大師堂、弁天堂、愛染堂、鐘楼等が建ち並んでいる。 弘仁13年(822年)、弘法大師はこの地を訪れ、千手観音像を納めて「月輪山・金剛福寺」と号して第38番の霊場に定めたといわれる。

『 ふだらくや ここは岬の 船の棹 
      取るも捨つるも 法のさだやま
 』  御詠歌

御詠歌とは巡礼または仏教信者などがうたう和歌のこと。


自然の造形と人間の造作に心洗われ、足摺岬を後にする。 
先刻と通ってきた岬の東海岸は、遠慮がちに小さな港があり、人家も疎らで車も難渋がちに通るほど未開発の地で自然十分ところであった。
ところが対照的に西側に面する沿岸は高層の建物や人家が並ぶ賑やかな地域である。 尤もで、この辺りは足摺観光の拠点、大きな資源でもある「あしずり温泉郷」が控えていた。 白装束のお遍路さんは勿論、観光客も人汗流すには申し分ない所であろう。

この“あしずり温泉郷”は、古くて新しい不思議な温泉だと言われる・・?。
今から凡そ1200年前、当時極楽浄土に一番近いとされていた最果ての地・足摺村(足摺岬) に弘法大師が金剛福寺を建立したが、その頃より湯が湧き出し、疲れを癒したという言い伝えがある。
ところが150年前、「虎年の大変」と言われる日本で最大級の地震があり、(七日七晩揺れ続けたと言う)その地殻変動により温泉が閉じられてしまったという。
その後、平成の世に至って採掘した所、ラドン含有の良質の温泉が再び永い眠りから醒め、噴出したらしい。 ということで入浴の効用は無論、他にも御利益ありそうな温泉である。


帰路は、「足摺スカイライン」を行く。
足摺観光は概ね、この観光道路を利用しているのが普通であり、観光バスをはじめ車の往来も盛んである。 
今思うと往路では、静かな趣のある東海岸道から向かってきたことに納得するのであった。

スカイラインは、アップダウン、曲折が多くあるが、道はさすがに良好で、標高も400m程あり時折、視界180°の海が見え、これはこれで素晴らしい。
右手にこんもりした山塊が見えている、半島の高峰「白皇山」(433m)である。 
山頂付近に38番霊場・金剛福寺の奥の院でもある「石鎚神社」があった。今は、さびれた神社のようであるが名称の如く、山腹には巨石群があり、石鎚神社という名称は納得でアル。 

ところで、石鎚神社というのは、四国の名峰・「石鎚山」があり、この山を神体山(神しずまります山)とする御社の名称でもあるが、こちらの神社とは何かしら繋がりがあるのだろうか・・?。
又、この近くに「唐人駄場遺跡」といって、巨石を利用したと思われる「巨石遺跡群」(現在公園施設)がある。 かつては、直径約300mもの世界最大級のストーンサークル(環状列石:巨石記念物の一種、柱状または板状の石を環状に立て並べたもので、新石器時代から弥生時代の祭祀・埋葬に関連する遺構。ヨーロッパ・アジアに広く分布し、イギリスのストーンヘンジはその代表)があったという。 
残念なことに遺跡公園の造成中にほとんどの石は移動し、埋められてしまったというが・・、チョッと間の抜けた話である。

遺跡は、縄文時代前期:紀元前5000年頃に、南方から黒潮に乗ってきた古代人が最初に辿り着いた場所ではないかともいわれている。
石鎚神社は、金剛福寺の奥の院であり、古くから修験の中心地とされ、補陀落渡海の地だったとも云われる。
幕末維新に通訳として日米交渉に活躍したジョン万次郎のことは先に記したが、太平洋を流れる黒潮は、四国の足摺岬が接触点でもあり、黒潮という異界の海上の道は、多くの人やモノを交流させている。 同時に古代の人々も、この海の道によって現代人以上に交流していたのかも知れない。


クネクネと曲がりクネったスカイラインの道も、やがて下りきって元の国道321号へ合流した。
清水の街を抜けると、コバルトブルーの大海と岩礁折りなす美しい海岸線が延びている。この海岸道は別名「足摺サニーロード」と言われている、土佐清水の下の加江から大月町に到るまでのシーサイドロードで絶景が連続する。 
道は「日本の100名道」にもなっていて、私的選者である須藤英一氏によって選ばれたという。

日本の百名道とは、
彼はフリーカメラマンでツーリング写真を主に日本の道、風景を撮りつづけ、取材経験をもとに「日本百名道」(大泉書店)を出版している。
彼に言わせれば「道はただ単に走るだけの場所ではなく、移動するための通過点でもない。クルマで旅するとき、“あの場所に行く”ことだけが目的ではつまらない。途中には日本には美しい景色や風景が沢山在る。これらの風光を目出ながら、味わいながら走る道が沢山あるのです」。 

日本の百名道」 
http://www.ramble.net/sudo/road100/index.html 

因みに、須藤英一氏による日本の百名道のうち、小生がこれまで走破したのは凡そ6~7割に達しているようで、特に大自然の北海道は全道、走行しているようであった。

竜串(たつくし)という、風光明媚な海の観光地へ来た。 日本ではじめて一帯が海中公園に指定された地という。 
黒潮暖流の影響を受けて造礁サンゴや熱帯魚が生息する海の宝庫で、中でも「見残し湾」のシコロサンゴ群落は国の天然記念物に指定されている。 
周辺の岩場は、海食による奇岩怪岩が乱立していて一層、自然美を際立たせている。
トンネルが連続するあたりの先端岬・叶崎灯台が白く輝いて見えている。 この辺の海も実に最高である。


大月町の道の駅「ふれあいパーク大月」で一服入れる。 
公園内には桜の広場や梅林、子供達の遊具やアスレチックがあり、そして広大な公園全体を覆うツツジ(アケボノツツジ・・?)が名所のようだ。広い区域の物産センターの一角に、テント張りの数件の店舗が目に付いた。
美しくエレガントなサンゴ製品のお店であった。 ここ大月町は、古くから高級な桃色珊瑚の産地で、珊瑚の製造・加工・販売が盛んな地でもあるとか。
 

高知の西端にあたる宿毛へ向かう。
宿毛市街のすぐ手前、国道321号に沿って道の駅・「宿毛サニーサイドパーク」があったのでちょっと一服。 
道の駅は松田川の河口部でもあり、宿毛湾に出臍のように出ばったところに在って何より海の景色がいい。海はハワイか沖縄か?と思われるほど澄んでいて心洗われる。

宿毛」と書いて、恥ずかしながら読み方を知らず、“やどげ、しゅくげ、しゅくもう”、などと勝手に想像したが、みな外ずれて正しくは「すくも」と読む。
宿毛は清流・松田川の河口に開けた街である。太古の昔は遠浅の海であり、大湿原には一面に「葦」が生い茂っていたという。この枯れた葦のことを「すくも」と言い、宿毛の名前の由来はここからきていると言われている。

この地方は、宿毛貝塚といわれる遺跡が発掘されていて、既に、縄文中期(5千年前)頃から人跡が確認されているようで、古い土地柄でもあるようだ。 遺跡は国の史跡にも指定されてもいる。
それに、宿毛の幡多地方には、チョッと変わった名所があった。
幕末から明治にかけて、各村の要所々々に泊屋(とまりや)といって若い衆が宿泊する風習があった。 未婚の若者たちが火事などの見張りや災害に備えて泊り込み、救助に出動する慣わしになっていた。今でいう火の見櫓の番小屋のようなものであろうか・・?、
建物は二間四方の木造高床式の平屋建てで、屋根は入母屋造りのどっしりとした風格のある建物である。
当時の一般家庭の住居は殆どが平屋建ての建物で、平地ならこの高床式の泊り屋からは一望の下であったろう。 高床式の風格のある独立家屋は、多いときで百数十ヵ所も設置されていたといい、当時の、この地方の文化と治安状況が如何であったかが想像できる。
各集落にあった古風な泊屋も、今では大部分は破壊され、残っているは芳奈地区の4軒のみであるという。現在、国の指定をうけ、宿毛屈指の観光名所ともなっているという。

次回は、愛媛の「愛南町」 



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2011年2月2日水曜日

日本周遊紀行(73)土佐清水 「足摺岬とジョン万次郎」

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 日本周遊紀行(73)土佐清水 「足摺岬とジョン万次郎」   、



足摺岬と灯台

足摺岬に立つジョン万次郎の像



足摺岬に「ジョン万次郎」の勇士が立つ 、

河口付近で国道321は四万十川と別れ、一路、足摺岬を目指す。 
山域に入り伊豆田峠のトンネルを抜けると土佐清水に入る。 
川沿いを緩やかに下ってゆくと、加江という所で再び海岸に出る。 こちらも見晴らしの良い快適なドライブウェイである。 
間もなく足摺半島の付け根部に当たる以布利でR321と別れ、県27(足摺岬公園線)にて足摺の岬を目指す。 

今度は、いきなり細い曲がりくねった道で、些か閉口しながら上り下りを繰り返す。 すぐに二車線の広い道に出たようであるが、これは足摺スカイラインに通ずる内陸への道のようである。小生はこのまま沿岸道を目指す。 海岸の高目を道が延びていて、土佐湾の見晴らしも良く快適である。

窪津の小さな港・漁港に着くと漁船の傍らに年配の婦女が数人タムロしていて、水揚げされた魚類を選別しているようである。
うらぶれたような地域だけに、妙に印象的な風景である。 
この先を登りきった所が窪津埼で、突端に白亜円形の灯台が立っていた。 灯台は草生した、誰も訪れる人がないように、孤高に海に向かって立っている。 
海面より50mの高さであろうか、約30km先の海洋を照らしているという。 

鄙びた漁港のすぐ上に投光があり、漁船・漁民にとっては、かけがえのない「安心の光」であろう。 
周辺は、南国の日差しはとても暖かく、灯台の周辺は色とりどりの花が咲き、蝶も舞っている。 
灯台のすぐ下は断崖絶壁で、海岸には岩礁が発達し、岩場が点々と大洋に延びている。 
太平洋の紺碧の眺めは雄大で、窪津の漁船であろうか・・?、のんびりと・・?漁をする船の姿も散見される。

孤高の灯台と対比させながら、人影一人と無いこの地に立って、長閑で、大らかで、心が伸びやかになるのを覚える。
孤独の味」を味わいながら、それでも旅に出て良かった、としみじみ実感する瞬間でもある。 
チョット、センチになった気持ちを入れ換えて、更に前進する。
ダートのコースではないが、細く、曲がりくねった道が暫く連続する、時には南国の樹林帯の中を潜るように、くねって、くねって。 
忘れかけたような小さな集落を目にしながら、こんな僻地にも人が住んでいるのか、と不思議に感じながらも、その民家の庭先とも思えるような道を遠慮がちに通過する。

時折、チラッと左手に大洋を望みながらも、緊張感で何の感慨もなく、ただ、ひたすらに目の前の道をめがけて突き進む。 
時折、二車線の新装なった綺麗な舗装道路に出るときもあるが、又、再び鬱蒼とした林の中のクネクネの一本道である。 
白装束のお遍路さんとすれ違う時など、遠路の安全を祈らずにはいられない、やはり四国らしさを感ずる。 
幾つかの部落を通り過ぎて、明るい開けた、見通しの良い地の岬に達したようだ。

更に車を前進させると、今迄とは、うって変わって明るい賑やかな広場に達した。
ざっと見渡しても右手に第38番札所の「金剛寺」が有り、道路をはさんでお寺の前の駐車場近くには、「中浜万次郎」の大きな像があった。
一帯が広場になていて、公園風によく整備されている、区画された駐車場の横には数件の御土産屋さんも並んでいる。 
舗装された遊歩道は、岬の先端に延びてて、足摺灯台へ達しているようだ。


ところで、土佐の高知は、大きく弓なりの土佐湾を東西で室戸半島(岬)と足摺半島が挟むような姿である。
この足摺岬が高知は無論、四国の最南端に当たり、強いて言えば土佐湾と太平洋を隔てている。 そのため足摺周辺は黒潮の影響も強く受ける温暖なところでもあり、ビラン、アコウ、椿など亜熱帯性の植物も繁茂している景勝地である。
この地域一帯は足摺宇和海国立公園にもなっている。 

先刻、室戸岬を訪れた時は、名前のわりには人の手が加わらず、自然のままの姿が印象に残っていた。 だが、この岬はよく手が加わえられ整備されていて、室戸とは好対照なのが面白い。
早速、灯台へ向かおう。
自然遊歩道に従って行くと、うっそうとした椿のトンネルがあり、散歩気分で程なく高台の草原に立つ「足摺灯台」が現れた。
四国の最南端の突端に立つ、白亜でロケットをイメージした灯台は、ひときわ大きく目立って佇立している。 
標高(平均海面~灯火)が60m(地上から塔頂までは18m)、光達距離は約40kmといわれる。残念ながら内部の一般公開はさていないようだ。 
断崖絶壁に立つ灯台の周囲は展望台にもなっていて潮風が強く、岩礁に砕ける白い波頭や無際限な太平洋の風景は実に圧巻である。自然遊歩道沿いには、「足摺自然七不思議」なる物があるそうで巡ってみたいが、時間の都合もあり遠慮した。


戻って、広場に立つ「中浜万次郎」(ジョン万次郎)の前に来た。  
高知を巡って何れの偉人像もうであったが、四角い台座に大洋を見ながら堂々と立つ。 
『 万次郎は不思議な人だ、大名とも話すし、乞食とも話す 』、中浜博(ジョン万次郎のひ孫)「私のジョン万次郎」より。

当時、海外渡航は国禁だった。 
米国へ渡った万次郎は、日本人としては最高の英語の使い手であり、この「必要性」が封建時代を支えてきた身分制度を突き崩したのである。
万次郎のことは先にも若干記したが・・、
この地・土佐の国・中浜村(現在の土佐清水市)の漁師として生まれている。 14歳の時に漁に出て遭難し、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着した。 そこでアメリカの捕鯨船に仲間と共に救われるが、日本は当時、鎖国であったため、万次郎はアメリカへ護送されることになる。 「ジョン」という愛称はこの時の捕鯨船の名前ジョン・ホーランド号とって付けられたという。 以降、鎖国中の日本には帰らず、船長の家(ホイットフィールド船長)で養子となって約3年半のアメリカと生活となる。その間、万次郎は学校にも通わせてもらい、個人教授を受けて英語を完璧に話すようになり、名門の学校にも通って基礎的勉学も身に付ける。航海術、測量術も修め、再び捕鯨船に乗って働き、やがて米国船の副船長にも選ばれて太平洋・大西洋・インド洋を巡航し、鎖国時代の日本人としてはめずらしい世界体験をしている。 世界の各地を航海した万次郎は、その後、船を購入しハワイに寄港、1851年に日本への帰国を果たす。帰国は鹿児島に上陸しているが、直ちに故郷には帰れず、長崎で鎖国中の幕府から尋問や取り調べを受け、一時、牢屋にも入っている。そして遂に、嘉永5年10月(1852年)、故郷土佐の中村に帰ることが許された。

この時期の日本は、黒船の出現など対外国の圧力が強まり、政治的にも世情騒然、分明開化の嵐が吹き荒れる最中であった。 万次郎は土佐藩に西洋技術を教えるなど才能を買われて土佐藩士となり苗字帯刀をゆるされる。(武士になった)この際、生れ故郷の地名を取って「中浜」の姓が授かっている。

幕府は、ペリーの来航によってアメリカの知識の重要性を認識していたことから、万次郎を26歳の若さで幕府に直参旗本という前例のない待遇で召し出した。  
江戸では通訳も務め、またアメリカで身につけた学問を基に各地で講師としても活躍する。 地元高知では、坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われる。
ところで、アメリカ合衆国は20世紀の一時期、日本と戦火を交えたが現在の国際化時代、日本と最も友好関係にある国といえる。 
アメリカは150年前の国の歴史に、おそらく日本人として一番最初に名を留めた人物はジョン万次郎であったろう。 太平洋、遥かなアメリカに影響を直接受けたジョン万次郎が、大洋に向かって立っている姿は、至極、納得させられるのである。


足摺岬』 唄・鳥羽一郎  詩・星野哲郎 
海が裂ける 岩が吠える       虹をつかみ 雲にのって
足摺の 荒ぶる岬に立てば     足摺の 波立つ岬を廻りゃ
小さい世間は 吹っ飛ぶぞ     若い竜馬の 声がする
俺も行きたや 万次郎さんの    命惜しんじゃ 何も出来ん
花と嵐の 人生を         捨てて勝つ気が 明日を呼ぶ
波に浮かべて わだつみの涯て   海に貰うた 度胸の宝

次回は三十八霊場・「金剛福寺



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2011年1月31日月曜日

日本周遊紀行(72)中村 「四万十川」

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日本周遊紀行(72)中村 「四万十川」 ,




写真:四万十川の「遊覧船」;澄んだ水の青さに季節によって顔を変える四万十川、この船で食事やお酒を飲みながら遊覧する。



日本最後の清流と言われる「四万十川」

中村市」、とはいっても旧中村市のことで、本年4月に北部・山間地、西土佐村と合併し新市「四万十市」として発足したばかりである。 
四万十川の町として知られる土佐中村は、河口よりやや内陸に入った河畔、四万十川と支流河川の中洲に広がる町並みである。

中村の町並みは、15世紀半ばの室町期、朝廷の関白家の一条氏が応仁の乱の混乱を避け、所領であった土佐幡多の荘(現在の中村・四万十市)に京都から下向してきたことから始まる。 一条氏は、雅やかな京都に対する思慕の念から、この土地に京風の町造り、町並み造りを実施し、中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤目状の街並みや祇園神社、東山、鴨川といった地名を残している。
又、前関白という身分の高さもあり一条氏は土佐の人望を集め、国中の豪族もこれに臣従し「中村」は土佐の小京都とも呼ばれるほど、一方ならぬ賑わいを見せたという。
以降、土佐一条氏は新興勢力、長宗我部氏が幡多に侵攻するまで続くことになる。

実は、中村という名称は、長宗我部氏から始まるという。
土佐中村城は、土佐くろしお鉄道の中村駅から西北に3kmのところ古城山とその山麓を占めるところにある。
この城郭は現在、郷土資料館になっているが、当地は昔から交通の要衝であり、かっては、この地方の豪族、為松氏が城を造り居城としていた。 後に、為松氏は土佐国司となった一条家の家老として仕え、為松城は中村御所の詰の城として整備された。中村御所跡はいま中村一條神社となっている。


町並みを過ぎて、四万十川の渡川大橋を渡り、そのまま西側の河畔土手を走る、成る程、その名に聞こえた清流である。
川幅は1kmもあろうか、草生した洲だまりもあるが、広くは流水部が占めて悠々と移流している。 合流河川の所はさらに川幅は広くなり、雄大さを誇る。

河口付近は、巨大な中洲も発達しているようである。 
川岸に造形された船着場に、数艘の屋形船が着岸している。
中央の川面に漁であろうか・・?一艘の川船が佇んでいた。 四万十川らしい風景と雰囲気を感じ、思わずシャッターに手が延びた。 
川岸に沿って「四万十屋」や「うなぎ」と銘うった数件のドライブインと御土産屋があり、「遊覧船乗り場」の大きな看板も目につく。 各所に四万十川らしい生活景観を厭味無く演出しているのである。 

風物詩等テレビでお馴染みであるが、四万十川は特に生活に密着した川である。 
古くから独特の漁(りょう)が盛んに行われて、天然ウナギ、ゴリ(ハゼ類の淡水魚、チチブの方言)、ツガネ(モクズガニ)、テナガエビなどの魚介類のほか、青海苔の産地として知られている。
川漁で生計を立てている人が多いことでも、日本有数の河川といえる。

全長196km、吉野川に次ぐ四国第二の川で、本流に大規模なダムなどが建設されていないことから、「日本最後の清流」と呼ばれている。 
四万十川には、中上流域、支流も含めて47もの名物・沈下橋(もぐり橋)があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。

もぐり橋(潜水橋、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋などともいう)とは、橋の上に欄干が無く、水面からの高さが高くないことが特徴である。
これは、増水時に、橋が水面下に没するようになっており、流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水が塞止められ洪水になることを防ぐためでもあるという。
また、壊れても再建が簡単で費用が安いという利点もある。 その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や住居の少ない地域など、比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られた。 
しかし現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られることから徐々に姿を消しつつあるという。

先にも記したが源流部は県内の東津野村(本年・2005・2月、葉山町と合併し津野町として発足している)の布施坂付近で、この辺りの水域は日本名水100選にも選ばれている。 その後、蛇行を繰り返しながら南下し、窪川、大正、十和の町村を西へ移行しながら、更に四万十市(西土佐村、中村市)を潤して南下し、土佐湾に到る。
本流は珍しく、高知一県のみを流れる一級大河川で、一つの都府県のみを流域とする河川としては、山形一県を流れる最上川本流(224km)に次ぐ長さであるとか。
 
次回は、土佐清水から足摺へ



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