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2011年1月22日土曜日

日本周遊紀行(69)高知 「よさこい節」

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日本周遊紀行(69)高知 「よさこい節」 ,




現代の土佐の高知の「はりまや橋」と高知城


土佐の高知の はりまや橋で
土佐の高知の「よさこい節」は昭和30年代、ペギー葉山が「南国土佐を後にして」歌って大ヒットした曲で、南国土佐を全国に知らしめた。 そして、半世紀たった今日、今度は「よさこい・ソーラン祭り」で全国的に有名になった。

1991年、愛知出身の北海道大生(長谷川岳)が、高知の「よさこい祭り」を目にして感動。大学生は北海道にも「よさこい祭り」のようなお祭りを作れないかと、学生ばかり100名以上の仲間で「YOSAKOIソーラン祭り実行委員会」を発足している。
最近では(2007年)参加チームが340、観客動員数は200万という札幌では「札幌雪祭りに」に次ぐ大イベントになっている。
因みに、小生の娘と孫も東京・町田で「踊り連」を形成、練習に励んでいて、この度(2008年)の札幌の祭典に小生家族共々参加し、思い出に残している。


一方の高知では・・、
戦後の復興の中、徳島県の阿波踊りに負けない、市民の祭りをつくろうと高知市商工会議所が中心となり、昭和29年「第一回よさこい祭り」が開催された。
「阿波踊りの素手に対して、鳴子を手に持とう」と提案。 鳴子とは、稲に群がる鳥などを追い払うために、揺らして音を出す農具として作られたものを手に持つように改良されて、現在の形になったという。今日では両手に鳴子を持ち「よさこい鳴子踊り」のフレーズを曲に入れる以外、踊り方や衣装は全く自由というお祭りとして発展し、現在では130チーム以上、約1万5千人が参加しているという。

さて土佐の高知の「播磨屋橋」の現況は・・?、
高知港の入江運河とも思える、幅のある国分川の橋を渡ると高知市街のビル群が現れる。 
先ずは高知の名所・・?、「はりまや橋」(播磨屋橋)を目指す。 
高知市街の目抜き通りと思しき大きな交差点(はりまや橋)を右折すると高知駅へ向かうが、直ぐに「はりまや橋」と大きな標識が頭上にあった。 しかし、辺りを見回すとそれらしいものは見当たらない、探しながら気がつくと脇道の路地風の所に可愛い紅い橋が設けて在った。

小生が20代に訪れたときは、大通りに「欄干のみ」があって、そこに名前が付されてあった、と記憶しているが・・?。 
昔は、この大通りに欄干に見合う大きな、立派な、そして華麗な「播磨屋橋」が架けられてあったのだろう・・? 
現在の、はりまや橋は、取って付けたような、朱色の飾り橋で、俗人に言わせれば「日本三大ガッカリ名所」と嘯(うそぶく)かれているとか・・?。

「はりまや橋」の始まりについては、『 是ハ先年モ無之処、播磨屋宗徳北地ニ住居、南地ニ櫃屋道清住居、此通行之為仮橋ヲ掛通路ス、是ヨリ播磨屋橋ト申馴、其後ハ公儀ヨリ御作事也 』、と「高知風土記」述べられているらしく、播磨国播磨(兵庫県)の出身で江戸初期の豪商・播磨屋宗徳(播磨屋)と同じく商人の櫃屋道清(櫃屋)とを往来する為に、掘割川に架けた個人的な橋であったが、後に公橋になったようである。

序に、この辺りの「はりまや町」は、西武、大丸などのデパートや帯屋町・京町などの繁華街が並んでいる。
はりまや橋の交差点を中心に路面電車が、東西南北に運行し、北(JR高知駅)南(高知港)東(南国)西(伊野)と分岐している。やはりというか、「はりまや橋」、その名も、「はりまや町」は、高知市の中心でもあった。
 
よさこい節』 高知県民謡
土佐の高知の はりまや橋で
坊さん かんざし 買うを見た
ヨサコイ ヨサコイ
御畳瀬(みませ)見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜
    (以下、繰り返し)

南国土佐を後にして』 歌:ペギー葉山
南国土佐を 後にして
都へ来てから 幾歳ぞ
思い出します 故郷の友が
門出に歌った よさこい節を
「土佐の高知の ハリマヤ橋で
坊さんかんざし 買うをみた」

月の浜辺で 焚火を囲み
しばしの娯楽の 一時を
わたしも自慢の 声張り上げて
歌うよ土佐の よさこい節を
「みませ見せましょ 浦戸をあけて
月の名所は 桂浜」

国のおやじが室戸の沖で 
鯨釣ったと云うたより
僕も負けずに励んだ後で  
唄うよ土佐のよさこい節を
「云うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 
潮吹く鯨が泳ぎよる  よさこいよさこい」

南国土佐を後にして」の原曲は戦中、戦後まもないころ、四国、土佐地方の軍属関係者によって歌われていたが、昭和30年代なってNHK高知放送局の電波に乗りレコード化され、つぎにペギー葉山が歌って大ヒットしたものである。 元歌は「よさこい節」である。

「よさこい節」の歌詞〈一番〉については、一般に、五台山・竹林寺の御坊「純信」が、思いをかけた人「お馬」のために、「かんざし」を買って与えた、そこが、はりまや橋のたもとにあった小間物屋であったと言われている。 これがいつのまにか評判になり、よさこい節で歌われ有名になってしまったという。

当時、仏僧の色恋沙汰は御法度であり、二人は逃避行(かけおち)を選び、伊予へ逃れる。 土佐から伊予へ山深い峠を越えていくが、その峠の名が「予佐越」=よさこい峠であり、これが題名になっているという。
予佐越峠は高知の西隣・伊野町からR194号で北上し、本川村で県40号(石鎚公園線)で石鎚山方面に行く、この県境付近の石鎚山を望む峠のことで、ここ山深い峠に小さな標があり、哀しい物語の結末が書かれた小さな看板と共にひっそり佇んでいるという。
現在、予佐越峠は西日本では最高峰を誇る四国の名峰(日本100名山)・石鎚山の登山基地になっているとか。

ガッカリの名所”の「はりまや橋」を後にして、高知城へ向かう。はりまや橋の交差点を西に行くと、間もなく「高知城」である。
高知城正面に高知市役所が在り、更に、堀の内に県庁がある。 緑と史跡の城下公園内に無味無粋なコンクリートの高層建物が存在するのは、美観を甚だ損なっているが・・!!

市役所横から右方角へ行ったところに、高知城の玄関口「追手門」があった。
高知城の表門で、石垣の上に載せた櫓(やぐら)門が城の大手(正面)にふさわしい堂々たる構えをみせている。 
門を潜ると早速「板垣退助の像」がある、「板垣死すとも、自由は死せず・・」という名言は有名であるが、実際には死ななかったともいうが。 板垣は、土佐出身の自由民権の創始者であった。

気がつくと、後ろの木々の間から華麗な天守閣が覘いている。 
杉の段(「井戸の段」とも呼ばれた。藩主自らこの井戸段に出向いたという。また、藩主のお国入りや出駕の際には、ここに一族が出迎えや見送りに出向いてきた所)と呼ばれる広いスペースから 鉄門をへて本丸・天守閣へ向かう。
周囲土台を重層な石垣で築かれ、その上に堂々と城郭・天守閣が聳える。 
四重五階の望楼型天守で、最上階には廻縁(まわりぶち)の欄干が付けられている。 
華麗にして優美であり、ここから高知の市街が一望できる。
天守閣、追手門は築城当時の姿を留めている、数少ないお城の一つであるという。(本丸御殿、天守閣とも、国の重要文化財に指定されている。

次回は、山内一豊



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