2010年6月11日金曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と長谷寺」

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 日本周遊紀行(110)いわき湯本 「徳一と長谷寺」 


高僧・藤原徳一と長谷寺について・・、 

湯本の駅から1.5km、歩いても15分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」がある。 
今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、この寺は「徳一」が開基したとされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。

長谷寺の本尊である十一面観音(県重文)は鎌倉末期の仏像であるが、その胎内には長文が記されていて、その中に 『 奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也 』とあって、徳一建立が明記されている。 

この古書は古寺の第一級資料に当たるとされ、内文によって「神明鏡」(14世紀後半頃、神武天皇から後花園天皇までの年代記。 時代ごとに仏教や合戦などの特色が説明文で記載されている文献)と比較対照すると、平城御願長谷寺、つまり平城天皇(第51代の天皇・在位806年~809年頃で、桓武天皇の長男)の意思で建てられたか、或はそれに準ずる貴人によって建てられた格式のある寺であったとされる。 
つまり、建立に当たっては中央政権下の藤原氏の強力な支援があったとされ、そのことが歴史的に大きい意味合いを持つとも言われる。


徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・?、 
それは、正面に拝謁できる「湯の岳」を目にしたからに他ならないといわれる。
徳一の故郷・奈良の都には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。



湯嶽、湯の岳(ゆのたけ)は先にも記したが、神代の昔から地元民から尊崇された御神体山であり信仰の山であった。 標高593m、湯本の町を一望におさめる名峰である。
古代においては、湯嶽(湯岳)を三箱山(三函山)とも称したらしく、徳一は、この神霊なる「湯の岳」を仰ぎ見て、山腹の観音堂に「三学の箱(函)」を納めたたことから、この地名が付いたといわれる伝説もある。

中世(鎌倉~室町期)には既に、この山は「サハコ山」ないし「サハク山」と呼ばれており、現在でも、それに因んで山麓地域である湯本地区には「三函」という名もあり、温泉もまた三函(サハコ)の湯あるいはサハクの湯と称している。

因みに、「三学」とは戒・定・慧(かい・じょう・え)のことで、仏教の実践の三大綱要で戒学・定学・慧学の仏道修行の根本を三学をいう。 つまり善を修め悪を防ぐ戒律と、精神を統一する禅定と、真理を悟る智慧をいう。

湯の岳の中腹に、その所伝の観音堂跡があり、この観音堂こそが徳一の根本道場の一つだったことを物語っているし、この山全体が徳一観音信仰の霊場だったようにでもある。 
徳一開祖の会津の磐梯山・恵日寺、筑波山の中禅寺などと同じように、徳一開創観音寺とする伝えは、きわめて真実味があり由緒あるものといえる。

三函(サハコ)の地名は、今も湯本の町内に住所名として存在するが、「長谷寺」の所在地は上湯長谷である。 読みは「かみゆはせ」ではなく、「かみゆながや」と称している。
「湯長谷(ゆながや)」の長谷(ながや)は、当然、長谷寺の「長谷(はせ)」に由来する。 
因みに、隣地に「下湯長谷」もある。 湯の岳に向かって近いの方、つまり上の方が長谷寺の在る上湯長谷であり、遠く下の方が下湯長谷地区である。



次に、先に温泉神社の由来については触れたが・・、

温泉神社は、奈良期の7世紀頃、神体山である「湯の岳」より降臨(神仏などの天下ること)して里宮として遷座したもので、元より大和国・三輪神社(現、大神神社:現在奈良県桜井三輪)の主神を勧請し、祭祀されたとものいわれる。

三輪山は、奈良盆地をめぐる山でも高さ467メートルの一際形の整った円錐形の山であり、いわき湯本の「湯の岳」と類似形をしている。 
そして太古より神宿る山で、そのものが神体であり、原始信仰の対象であったとされるのも酷似しているのである。

奈良盆地の大和国は、奈良期の仏教伝来後、最も盛んに根本仏教が栄えたところであることは周知である。 
奈良時代の仏教が波及するようになって間もなく、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という神道と仏教を両立させるための信仰行為が成立する。 神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とも言われる。

仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からであったが、実は天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、100%仏教とは行かなかったようである。 
つまり、仏教は、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。 

飛鳥期の蘇我氏と物部氏の施政時代、伝来してきた仏教を擁護し世に広めるか、又は、仏教を排斥して従来の国家神道を貫くか否か、世に言う蘇我と物部氏の争いである。 
結果は仏教擁護派の蘇我氏が勝利し、神道派の物部氏は滅亡してしまう、そしてこの後、聖徳太子(当時は廐戸皇子・うまやどのおうじ、聖徳太子は死後に贈られた諡号・しごう)等によって仏教は大きく世に広がることになる。

結局、旧来の神様と新興の仏様が歩み寄ることになり、歩み寄ったのは神様の方であり、因みに、その一番手が八幡神(宇佐神宮・応神天皇、大分県宇佐市)だったとされている。



日本において神と仏が融合する神仏習合思想に基づいて、神社を実質的に運営する仏教寺院が設けられ、この寺院を「神宮寺」と称している。 
そこで三輪神社の神宮寺は大神寺、通称、大御輪寺であったとする。(現在は、神仏分離で三輪若宮神社になっているらしい)この寺院には天平国宝の十一面観音が祀ってあり、観音信仰の菩薩である。

観音信仰の中心とされるのは「長谷寺」であるが、その根本御堂が三輪神社・三輪山の東に位置する大和・初瀬(泊瀬)川の「長谷寺」であることは周知である。 
初瀬川は聖なる川といわれ、初瀬が生じて「はつせ」・「はせ」・「長谷」になったとされている。 初瀬川は長谷の川でもある。 
三輪山の神に仕える巫女、彼女たちが禊ぎをするのが初瀬川であり、長谷寺の興りはこの三輪山と初瀬川であるとも想起できるのである。 
三輪山のご神体が、初瀬川で生まれた「龍神」であり、龍神信仰と結びついたのが長谷信仰の根本である「十一面観音」であったとされている。



大和の王城について・・、

三輪山の神に囲まれた大和は王城の地であった。 ではそれ以前は・・? 旧態豪族の住む地であったとされる。

神武天皇が九州の地(日向・美々津)から紀の国へ上陸し奈良盆地を平定するとともに、この地域全体を「大和」と呼ぶようになり、さらに日本全土を「大和の国」と呼び習わすようになったといわれる。 
大和朝廷の都の成立であり、その信仰の中心的支柱が「三輪山」であり、歴代大王=歴代天皇家の地となった。 
つまり、時代背景としては近畿地方において旧来の豪族たちを駆逐、叉は統一して新政治体制である大和朝廷(大和王権とする見方もある)が成立した時期であろう。


三輪山の神は本来は、旧来の豪族たちの神々、つまり出雲系(大国主神・国造りの神など)であったが、後に大和朝廷が駆逐して開いたこの地は、それ以降は大和系の天皇の神々を祀った。 このため大国主神は出雲へ追いやられるのである。 
しかし、後に三輪の大和の神も伊勢の地に遷宮され、次の三輪の神になったのが「大物主神」であった。 
移ったのは皇祖神である「天照大神」が伊勢の神(伊勢神宮)であり、出雲では「出雲大社」であった。

因みに、遷宮された後に三輪山の新たな主に収まった大物主神は、大国主神の別霊とされている。 大国主が転じて和魂となったのが「大物主神」であるとされてる。

次回は、 「徳一と藤原氏




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2010年6月10日木曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「石城地方」

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日本周遊紀行(110)いわき湯本 「石城地方」



「石城地方」について・・、 

小生の実家は、昭和の初期までは福島県石城郡湯本町であった。 
今は、平仮名の「いわき市」になっているが、本来の「石城」は「いしき」ではなく「いわき」である。 
この「石城地方」について更に付け加えたい。



「石城」(いわき)は、古事記、日本書紀、風土記に表れる古来の和字は「伊波岐」と記されているらしい。
古代から中世にかけて「いわき」は、磐城とか岩城とも書くし、岩木とも書くことがあったらしいが、本来は石城である。 
「続日本紀」(平安初期の歴史書)には陸奥国石城郡と書かれているし、それが昭和初期の頃まで福島県石城郡・・、であった。


古代、大和朝廷の北への開拓は、「日本武尊」の東征では大和から相模国、安房国、常陸国あたりの道筋とされているが、その後も石城から次第々々に北に向うのである。

古代・石城地方は、蝦夷(えみし)の勢力と新政・大和朝廷の勢力が拮抗していた地域でもあり、やがて、東征後は大和朝廷の傘下に治まり防衛前線基地となったともされてる。
所謂、この地で大石を組み、並べ、城塞化したのが「石城」であり、古代の築城施設であった名残りが石城となったのだろうと唱える先生方もいるようである。


石城地方は、古くからは関東圏に内包され、東北地方ではもっとも早く開発されて、大和朝廷化した地域であることは確かであろう。 弥生文化といわれる生活様式も鉄器、稲作などが導入されたのも比較的早く、そして海の幸・山の幸を含めると、石城地方がある時期、東北地方でもっとも豊かであったらしい。
季節的にも普通云われる東北のイメージとは異なり、雪などはめったに降らない温暖な地で、東北の「湘南」とも言われている。 


東北南部は、蝦夷を含めた旧態の豪族たちが、朝廷を倒そうと東国の兵を動員して京(平城京)へ向かおうとした地域とされている。 
だが、平安初期のこの時期、「坂上田村麻呂」により遮断され、動乱も起きている。 
石城地方は、それらの旧態勢力と新規勢力の迎撃、侵攻の拠点であったらしい。 
この地に石城軍団が置かれていて、石城の大領(たいりょう:平安初期における郡の長官のこと・陸奥国磐城郡の大領)・磐城雄公が配され、天皇から從五位下という官位まで受けているという記録もある。

大和朝廷の東北進出は、始めは武力が主であったが経営的には文武両面、つまり文化の面からも行なわれたであろうといわれる。 
その文化の面では特に「宗教」に力を入れたのではないかと思われるのである。

飛鳥初期に大陸から「仏教」が伝来して以来(538年)、変遷を経ながらも中央官人に認められ、仏法興隆の(みことのり:天皇の意思、ことば)が出されるまでに到る。 
後に、布教活動によって全国に伝播することになるが、石城は東北地方における仏教教化の重要な拠点であったとされ、その中の一人に「徳一」という高僧がいたことは史実でも明らかにされている。

徳一」(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗(ほっそうしゅう)の僧で、父は朝廷の一員である「藤原仲麻呂」で、徳一はその十一男と伝えられている。 初め東大寺で法相教学を学んだとされ20歳頃に東国へ下ったとされている。

藤原徳一は、平安初期における新興宗教の開祖・空海とも相容れず、同時期の「最澄」との間で一大仏教論争である「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん:後述)を展開したことは有名である。 
この間、陸奥国会津、常陸国筑波山など陸奥南部から常陸国にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」とも称された。

次回は高僧・徳一と「長谷寺




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2010年6月9日水曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「湯の岳と温泉神社」

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日本周遊紀行(110)いわき湯本 「湯の岳と温泉神社」




常磐線「いわき湯本駅」

いわき湯本駅前通り

いわき市湯本三函に鎮座する「温泉神社」

故郷の山・「湯の岳」(593m)



我が故郷の「湯の岳と温泉神社」について・・、 

常磐線の「湯本駅」から右方向、天王崎の駅前通りを過ぎると間もなく左に石柱で造られた鳥居が在り、鳥居を潜って石段を上ると立派な社殿が現れる、「温泉神社」である。

少年時代には良くこの辺りで遊んだものである、というよりこの辺りは中学校(湯本第一中学校)への通学途上でもあったのだが。 

五月の初頭に行われる例大祭の「さつきまつり」は、地域住民の最大の楽しみであった。 
上京後、50年以上たった今日・・、現状は定かでないが、当時は温泉に感謝するため、各旅館が温泉を樽に汲み入れ神前に奉納する神事・「神社献湯式」が本殿で行なわれ、大小の神輿や長持(衣服・調度などを入れて保管したり運搬したりする長方形で蓋のある大形の箱で、江戸時代以降さかんに使われもの。神事・婚礼などで長持唄を唄い名がらゆったり運ぶ)、その他の祭事で大変賑わったのも記憶している。


温泉神社は、旧来の地名に因んで佐波古神社(現在は湯本町三函)とも称し、社家に伝わる「神幸由来記」などの古文書によれば、神代の昔、『湯の岳』が御神体山であり信仰の山であって、白鳳年間(奈良期の7世紀頃)、この湯の岳より降臨(神仏などが天降ること)して里宮とし、遷座されたと記されている。

南北朝時代に先ず、「観音山」に移され、その後、江戸時代前半に磐城平藩内藤家によって現在地へと移されたとのこと。
神社の裏山にはご神体・湯の岳から運ばれた八つの大石、神の磐座が安置されているという。


言伝え、伝説によると日本武尊が東征のため当地に進駐の折、大和国・三輪大社(現在奈良県桜井三輪)の主神・大物主神(オオモノヌシノカミ・大巳貴命・大国主命)を勧請、分社し、少彦名命(スクナヒコノミコト、神話時代の国造りの神:大国主神とともに全国を回って国土を開拓した神とされている、医薬の神)と共に合祀されて、以来二神が郷民によって祀れたという。

祭神は地下資源の神、医薬を司る神で湯本町の鎮守様として広く崇敬をあつめている。

その「湯の岳」は、我等町民の山であり、常磐道のいわき湯本I・Cのすぐ横に聳える山で、稜線は弧を描いたなだらかな緑豊かなの山である。 
我等の小学校、中学校の校歌にも詠われ、小生が小学校5、6年の時はクラスが五組であったので「ゴクミ・593」、つまり標高が593mであったのを今でも記憶に有り、印象に残っている。


因みに、温泉神社の元宮、本社である大和の国の「三輪大社」について・・、

現在は大神神社と称されていて、読みは「おおみわじんじゃ」・三輪明神とも呼ばれている。

奈良県桜井市にある由緒ある神社で大和国・一宮であり、大物主神(おおものぬしのかみ:大国主命の同義とも云われる)を祀っている。
日本神話に記されている創建の縁起などから、出雲系の神社で「日本最古の神社」を称し、少なくとも大和国においては最も古い神社の一つであると考えられている。

現在でも、神殿、本殿は置かれてなく、拝殿から奥にある三ツ鳥居を通して御神体である「三輪山」を拝するという原始形態の神祀りの様式をとっている。

神意は、国造りの神様として農業、工業、商業すべての産業開発、 方位除、治病、造酒、製薬、禁厭、交通、航海、縁結びなど、 世の中の幸福を増進することを計られた人間生活の守護神として 尊崇されている。 
その神威は、全国に亘り、古くは朝廷の鎮護として尊崇されていた。

後背に控える三輪山は縄文時代、あるいは弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。 
特に、古墳期(大和朝廷が誕生し日本国として統一された時期で弥生以降、飛鳥以前の時代)にはいると山麓地帯には次々と大きな古墳が作られた形跡があり、そのことから、この一帯を中心として日本列島を代表する政治的勢力、つまり、ヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したものと考えられているという。


この三輪山は、奈良盆地をめぐる山でも高さ467メートルの一際形の整った円錐形の山であり、いわき湯本の「湯の岳」と酷似しているのである。

三輪山は太古の昔より神宿る山とされ、山そのものが御神体であるとの考えから、常人は足を踏み入れることの出来ない聖域とされ、所謂、禁足(きんそく)の山で、江戸時代には幕府より厳しい政令が設けられ、神社の「山札」がないと入山出来なかったという。

明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山出来るようになったが、登山を希望する場合は、社務所にて許可を得、入山届けをして「300円」という入山料を納めなければならない。 
そして参拝証である白いタスキを受け取り御祓いを済ませ、道中では、このタスキを外すことは禁止されているという。 

通例、2時間ほどで下山出来るが、3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている。 山中にては、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止されているという。

又、この神域には数多くの巨石遺構、祭祀遺跡も散在するが、これに対しても原則として許可なしに撮影も出来ない。さらに山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし、それに斧や刃物を持入れすることは許されていない。  一般には入山せずに参拝することが多く、拝殿から三輪山を仰ぎ拝むといった手法をとっている。

正月の初詣ともなると、至近のJR桜井線の三輪駅は駅構内まで行列が続いていて、駅に降りたら、そこが参拝の行列の最後であったともいう。 
ひどい時なんかは電車の中まで参拝客の行列が続いていて、電車は参拝客が全部降りきってしまうまで、1時間も駅で止まっていたこともあったという。

三輪山、大神神社は、さすがに我が湯の岳、温泉神社の本社聖域であることから、尊厳と格式か今でも存在することは、ただただ感服するのみである。
三輪地方は、御存じ「三輪そうめん」の故郷でもあった。


いわき湯本の「温泉神社」や「湯の岳」には、このような深い歴史が潜んでいたことに驚きであったが、更に深い因縁が含まれていたのである、それは次回へ。

次回は、「いわき湯本」である「石城地方



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2010年6月8日火曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「映画・フラガール」

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 日本周遊紀行(110)いわき湯本 「映画・フラガール」 


映画・「フラガール」のポスターより


スパリゾートハワイアンズの主要施設・「センターハウス」



我が故郷の「いわき湯本」が映画になってしまったのである、「フラガール」である。

「フラガール」は、昭和40年代の福島県いわき湯本の常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)が苦難の途上、オープンするまでの実話を背景に描いたものである。

炭鉱の娘たちとの友情と再生を通して人の”命の輝き”を描いた映画は2006年の秋、全国一斉に公開された。 
小生も早速拝見したが感動身にしみる出来栄えであり、何よりも正確とは言い難いが、地元いわき地方の独特の「訛り、方言」が心地よかった。



物語は、昭和40年代の炭鉱不況下の出来事から始まる・・、

いわき市の常磐炭鉱が不況のあおりで大幅な規模縮小に追い込まれた。 
危機的状況の中、炭鉱で働く人々は職場を失う現実・苦悩に立ち向かい、町おこし事業として立ち上げたのが常磐ハワイアンセンター(現:スパリゾートハワイアンズ)という、突拍子もない娯楽施設であった。

この施設の誕生から、炭鉱の娘達が散々多々苦労を重ね、成功までの実話を丹念に描いたもので、ハワイアン・ミュージックと本格的なフラダンスがチョットお色気を誘いながら描かれているのが良い特にラストシーンは、センターハウスの温泉大プール横のメインステージで踊るフラガールの面々と、ソロで踊る主役の「蒼井 優」が美しく悩ましく、圧巻であった。

そして最後の字幕に『10年後の1976年(昭和51年)常磐炭鉱は完全閉山、延べ4400人余が解雇された。この40年もの間に常磐ハワイアンセンターに立ったフラガールは総勢318人、平山まどか(松雪泰子演じるハワイ舞踊の教師、現在、常磐音楽舞踊学院最高顧問)は70歳を超えた現在も尚、東北のハワイで彼女達の育成に励んでいる。』と結んでいる。

監督:李相日(日系3世・韓国人)
出演:松雪泰子、蒼井優、豊川悦司、富司純子、岸部一徳、山崎静代(南海キャンディーズ しずちゃん)ほか
音楽:ジェイク・シマブクロ(ハワイアンミュジックの第一人者)


公開前はそれほど注目されていなかったが、口コミによって評判が伝わり、ロングラン上映をする劇場が多く、特にスパリゾートハワイアンズのある「いわき市」の劇場では連日満員だったという。 
最終的には目標を上回る観客動員120万人、興収15億円という大ヒットとなった。

近年滅多に邦画を賛えることのなかった、映画評論家でもあるタレントの「おすぎ」氏が、久々に賞賛した映画としても話題となった。
第79回アカデミー賞の外国語映画賞の日本代表に選出されようとしたが、残念ながら本選の第1次選考で落選した。 
しかし、第30回日本アカデミー賞最優秀作品賞に選ばれた。 
かっては大手映画会社4社(東映、東宝、松竹、角川)以外の作品が受賞するのは1996年の「午後の遺言状」(日本ヘラルド映画)以来11年ぶりであるという。

第30回日本アカデミー賞;最優秀作品賞受賞及びその他の作品・個人賞多数。 
第80回キネマ旬報;ベストテンの邦画第一位 、 
読者選出邦画ベストテン;第一位、助演女優賞・蒼井優、 
第31回報知映画賞;最優秀作品賞、最優秀助演女優賞・蒼井優 、 
第19回日刊スポーツ映画大賞;作品賞、主演女優賞・松雪泰子 、助演女優賞・富司純子、新人賞;蒼井優などなど、 その他にも日本の映画賞の数ある作品の内、殆どすべてが「フラガール」を賞の対象としている。


映画の舞台でもあった「いわき市湯本」にある「いわき市石炭・化石館」では、企画展として「あの感動をもう一度・・、フラガール展」などが開催されることとなったという。

尚、常磐ハワイアンセンター改め、現在の「スパリゾートハワイアンズ」は、露天風呂だけでなくプールやエステなども併設し、家族連れだけでなく、若い女性たちで連日大盛況だという。
小生も2005年秋、法事で田舎を訪れ、家族、身内一同でスパリゾートハワイアンズで遊興、同ホテルを利用している。

因みに、小生の菩提寺(白鳥山龍勝寺、・・後述)からハワイアンズまでは凡そ3km、車で5分のところである。

次回は、いわき湯本の「温泉神社



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2010年6月7日月曜日

日本周遊紀行(110)いわき湯本 「炭鉱と温泉」

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日本周遊紀行(110)いわき湯本 「炭鉱と温泉」



我が故郷である「いわき湯本」は、「炭鉱と温泉」の街であった・・、 

我が故郷が近付いたため、常磐道・富岡I・Cで一気に「いわき」へ向かう。
「いわき湯本」が小生の故郷である。
生まれは満州国・奉天市(今の中国東北部・瀋陽)であるが、終戦後、引揚げてきて父の故郷である「いわき湯本」へ住み着き、20代前半までこちらで、営々としていたのだが。



先ず、「常磐炭鉱」について・・、

「湯本」は文字通り古い温泉の街であり、そして、克ってはあの「常磐炭鉱」で賑わった炭鉱の街であった。 日本のエネルギー産業の柱である「黒いダイヤ」と云われた「石炭」の街であった。

明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。 これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためでもある。 
しかし、硫黄分の多い炭質という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲(しゅうきょく;積当時は水平であった地層が、地殻変動のため波状に曲る現象)を受けているため、掘削は石炭層を求めて地下へ地下へと掘り下げるため、特別な技術を要する炭鉱でもあった。
このため、次第にコスト的に負担がかかり、各鉱は採算が次第に悪化していった。 
しかも、この石炭を掘り出す際、この湯本地区は同時に温泉が湧き出てきて、相当に難儀を強いられたという。

その後、化石燃料(石炭から石油の時代へ)の変化にともない石炭は次第に斜陽の追い込まれ、経営的にも苦難を強いられ次々と閉鎖していった。 
最後まで残った常磐炭砿(後の常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、国内の石炭業自体も1985年に全面撤退している。

今は、「石炭化石館」として、往時の常磐炭田の採掘の歴史や産出化石をはじめ、地球の歴史を物語るといわれる諸外国の化石資料などを展示している。  



そして「湯本温泉」である・・、 

一方、炭鉱にとって煙たい(石炭だから・・??)存在だった湧出する温泉は、逆に脚光を浴びるようになった。
元より「湯本温泉」は、平安初期には開湯されたと言われる。 
湯本温泉は「三箱の御湯」と呼ばれ道後温泉、有馬温泉と共に日本の三古泉として名が知られていた。 
中世には戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として、来湯遊が絶えなかったという。

炭鉱閉山の後は、同経営母体である「常磐興産」が大量湧出する温泉に眼をつけ、常磐ハワイアンセンター(現、スパリゾート・ハワイアンズ)なる常夏の大温泉レジャーセンターを設立し、全国にその名を知らしめた。

スパリゾートハワイアンズは遊び感覚いっぱいの温泉リゾート施設である。
ウォーターパークといわれる大プール、流れるプール、ワンダーホルンなどの施設があり、特に、中央メーンステージでは、ここの一番の呼び物のその名の如く「フラダンスショー」が定時的の演ぜられる。 

建物は、鉄骨ガラス張りの大ドームが特徴的である。主な施設としては、水着で入るスプリングタウンには中世の南ヨーロッパ風ドームの男女別共同風呂を中心にジャグジー、ミスト、打たせなど各種の風呂もある。 
屋外へも繋がっていて、そこには温泉の川や洞窟プロムナード、パノラマサウナがあって木々や岩などが配され南国ムードを一層盛り上げている。 
又、「江戸情話与市」は、ギネスブックに登録されたといわれる世界一広い露天風呂であるとのこと。



その絶え間なく噴き出る源泉は、レジャー・保養施設、宿泊施設のみならず、今は一般家庭にまで引湯され、昨今の温泉ブームにのって街は活況を呈しているとか。

湯本温泉で最も古い記録は、平安中期の延長5年(927年)、延喜式神名帳に「陸奥国石城郡小七座・温泉(ゆ)神社」(通称・おんせん神社)と記してある。 しかし、奈良時代に石城国が設置された時に、その名が記されていることから、開湯はそれ以前の奈良時代に遡るとも言われる。


当時、岩城、佐竹、田村氏などの戦国領主が湯本に湯治に来ていたことが記録されているし、また、江戸期には鳥居・内藤氏の所領であった時期、浜に街道が整備されたとき唯一の温泉宿場として栄え、年間約2万人前後の浴客で賑わったともいう。 

当時の温泉は、地表に勢い良く湧出していたとされる。 
だが、明治期になると常磐地区で大規模な石炭採掘が始められ、坑内に湧出する温泉を汲み上げため温泉面の低下を来し、大正期には湯脈が断たれ温泉町として機能を失ってしまったともいう。

そして石炭産業が斜陽になってからは、再び、温泉揚湯会社を設立し、毎分5トンの揚湯を確保したという。
幸いなことに現在は揚湯にも拘らず、年々温泉面は上昇しているとのこと。

源泉は、石炭採掘の為の後遺症で現在自噴箇所はないが、推定で水準海面下約40mぐらいまで湯面が上がってきていると思われ、 揚湯量は毎分5トンを超え、町内の地下パイプを通し各施設に配湯し、浴槽の吐湯口で50度以上を保っているという。 
今で言う、「源泉純粋かけ流し」である。

因みに、いわき湯本温泉の源泉は現在、地下800メートルから汲み上げられている。 
温泉は、古代の地下水がマグマの地熱によって温められ、2~3万年以上も前の海底に堆積した地層に閉じ込められたもので、「海洋深層水」の成分も含まれているともいう。

泉質は全国的にも珍しい「含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉」俗称、硫黄泉で、「美人の湯」(美肌作用・解毒作用・末梢血管拡張作用)、「心臓の湯」(血圧を低下させる~動脈硬化、高血圧に効く)、「熱の湯」(高齢者向き~保温効果が高い)を始め数々の効能を併せ持っているといわれる。



いわき湯本温泉」は、かっての常磐市(じょうばんし)、現在の「いわき市」の一部である。 
常磐の名称については、常陸(ひたち)と磐城(いわき)の頭文字を合わせたものであり、(常磐線、常磐自動車道など) この経緯に由来して茨城県と福島県浜通りの県境周辺(北茨城市・いわき市南部)を、「常磐地区」、「常磐地方」と呼ばれる事もある。 
更に、「いわき市」成立までは常磐市がこの地域の正式な地名でもあり、そしてこの市の中心が湯本温泉地区であった。

前記したが、湯本町内・旧炭鉱敷地内には「石炭・化石館」 というのがあり、ここにいわき地方で掘り出された三葉虫などの古生代からの多様な化石が陳列されている。 
特に中生代の「フタバスズキリュウ」という、海に住んでいた首長竜の化石がこの町から出土し、原形を復元された姿での化石が展示されている。

常磐炭田は江戸中期から採掘が行われていて、明治期から大正、昭和前期の産業を支えた。 だが、採算面から昭和60年に閉山したが、今なお豊富な石炭が埋蔵されているようでもある。

「いわき湯本」は温泉は出るし、石炭は出るし、恐竜まで出るしで、昔から地下の恵みに支えられている。 これも佐波古神・温泉神社のお陰であり、そんな土地柄なのである。




写真:温泉施設「さはこ湯」



途中、温泉街の中心にある立寄り温泉・「さはこの湯」に浸かった。
やや硫黄の臭いが漂う掛流しの天然自然温泉の湯で、身も心もリラックスできた。

そして、湯本の隣の地区・白鳥町の親戚宅(父の生誕地)へ立ち寄り、従兄と談笑した後、拙家の菩提寺「白鳥山・龍勝寺」へ向かった。
たびたび訪れて見慣れた風景であるが、いかにも田舎の静観な山間に境内・寺院が在る。
子孫の繁栄健勝と旅の安全を祈願参拝する。 
龍勝寺は、旧湯長谷藩の菩提寺でもあった。(「湯長谷」については後述)

参道から山門をくぐった左手に「阿弥陀堂」が在り、ご本尊は珍しく、胎内に納めた「腹ごもりの阿弥陀尊」という弥陀三尊が安置されている。 
阿弥陀堂の建立は明治42年といわれるので決して古くはないが、この小さな「胎内仏」は、作者、年代ともに定かではなく、かなり古いものだと推測されている。 

一般的に胎内仏は、亡くなった人の冥福を祈って仏像を造るとき、故人がいつも祈っていた小さい仏像をその中に納めるのであるが、この寺の胎内仏には、「見ると目がつぶれる」という奇異な言い伝えがあるという。 その訳は何となく判るような気もするが・・?。 やはりというか、普段は堂内の安置所は閉ざされ、仏像を見ることはできない。

阿弥陀三尊とは、阿弥陀如来を中尊とし、観音菩薩を左脇侍、勢至菩薩を右脇侍とする三尊形式である。 観音菩薩は阿弥陀如来の慈悲をあらわす化身であり、勢至菩薩は知恵をあらわす化身とされる。 
お寺は臨済宗妙心寺派で、本山は「京都・妙心寺」である。

その菩提寺・「龍勝寺」からほんの2km足らず、5分ほどで湯本名物・「スパリゾートハワイアンズ」が丘陵地の一角に、華やかな別世界を形造っている。 
この別世界を題材にした「映画」が近年製作されて話題を呼んでいるという・・!!。

次回は、映画・「フラガール



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