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2010年4月4日日曜日

日本周遊紀行(78)日高地方 「静内の開拓期」

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日本周遊紀行(78)日高地方 「静内の開拓期」


北海道・静内と四国・阿波・・?、

静内は江戸末期から明治初頭にかけて一種の過渡期を向かえる、それはアイヌ文化の終焉期、そして和人達による開拓期でもあった。



話は、突然であるが南国・阿波の徳島へ飛びます。

戦国時代、信長の後を継いだ豊臣秀吉によって天下はほぼ治まった。 
秀吉の重臣であった蜂須賀氏は、四国攻めに功が有ったとして阿波の国・一国を与えられる。 ご承知秀吉と蜂須賀の関係は、彼が幼名「日吉」の頃矢作川で出会って以来、終生子分になることを誓っていた。(小六、太閤記) 

その蜂須賀小六の重臣に稲田氏がいた。 
重臣とはいっても小六とは義兄弟の仲であり二人はともに豊臣秀吉のために戦い大いなる功績を残している。 蜂須賀氏が阿波16万石になったとき、城代家老であった稲田氏は1万4千石で淡路・洲本城を預かっている。 
稲田家は瀬戸内を中心に豊かな経済力をもち、また貴族や公卿とも縁組をするなど、その地位を高めていった。 一方、蜂須賀家は徳川家と縁組を持ち、松平家を名のるほどになる。

江戸末期、尊皇攘夷の風が吹く中、稲田家とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。 又、蜂須賀家は徳川近親であることから公武合体の中立を保つ。 
稲田家は維新戦争の際には官軍として多数の人員を派遣し、明治維新には大きな功績をのこしたはずであった。藩として方向性の異なる両家は、次第に確執を生ずるようになる。


明治政府は明治2年、「版籍奉還」、「廃藩置県」を実施した。 
特に武士の身分を士族と卒族(平民)に分け、俸禄も減じられた。 
稲田家は元々蜂須賀家の家臣だった為その減額は甚だしく、家臣は士族への編入を嘆願するとともに稲田家の分藩独立運動をおこした。 堪りかねて蜂須賀家の一部過激派が決起し、鉄砲、大砲を持ち込み洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃するという一大紛争となった。これに対し稲田側は一切無抵抗であったといわれ・・、被害は自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、他に投獄監禁された者は300人余り焼き払われた屋敷25棟にのぼったという。

明治政府はこの事件が一部の激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で激派を煽動していたりはしなかったか調査をし、仲裁に乗り出して解決に至った。 
その判決・決済は両者共に厳しいものとなった。 

徳島藩側主謀者10人に切腹、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に及んだ。(武士社会に於ける、最後の切腹事件といわれる) 又、稲田家側は朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の「静内郡と色丹島」(後に返上、現北方領土)への移住・開拓が申し渡された。 
勤皇党で明治維新に大いに貢献した稲田家にとっても過酷な内容であった、が見方によっては両家の怨恨を無くする為に、お互いを遠ざけた結果とも云える。
この事件を「庚午事変」((こうごじへん:稲田騒動)と称してる。


明治3年、版籍奉還★(後の廃藩置県★につながる)がもとで起こった庚午事変の結果、北海道静内郡と色丹島の開拓を命ぜられた稲田邦植と137戸、546人の旧家臣たちは、三隻の汽船に分乗し淡路・洲本港を出発する。 そして春まだ浅い北海道・静内の海岸に到着した。  
ここに静内町の開拓の歴史の第一歩が刻まれたのである。  



この静内町の開拓の歴史、稲田家家臣の壮絶な開拓者魂を主題にした映画「北の零年」が本年(2005年)製作された。 これは製作費15億円を投じて長期ロケを敢行、豪華キャストに加えて延べ7000人のエキストラなど、すべてが近年の日本映画の常識を打ち破る文字通りの「大作」と言われる。 
キャスト吉永小百合、渡辺兼、豊川悦司、柳葉敏郎、石原さとみ、香川照之、石田ゆり子他、名優多数、来初春、2005年1月大公開された。

又、船山馨の時代小説「お登勢」はこの時代、ここ稲田藩を背景に描いている。そのNHK金曜時代劇で沢口靖子主演で本年秋TV放映された。

 

★「版籍奉還」(はんせきほうかん)

1869年(明治2)に明治政府によって行われた地方制度改革で、薩摩・長州など多くの大名が領土(版)、領民(籍)を朝廷(天皇を中心とした中央政府)に奉還したもの。 これにより形式上は中央集権の国家体制となったが、知藩事には旧来の藩主、大名が任命されたので実質的にはまだ不十分であった。 そのきっかけを作ったのが幕末動乱期の徳川慶喜で、将軍としての地位や徳川領を投げ捨て(実際は所領は取り上げられる)大政奉還を断行した。 この時を以って徳川幕府の各藩支配(幕藩体制)が終了したのであり、武士の統領である徳川家が先ず「版籍奉還」を行った一種の事例といえる。 その後は先ず薩摩・長州・土佐・肥前の各藩の藩主の連名によって「版籍」が「奉還」されることになり、他の藩もそれに倣って一斉に版籍奉還が行われた。 明治2年ことであった。



★「廃藩置県」(はいはんちけん)

明治維新後の1871年(明治4)に明治政府がそれまでの藩を完全に廃止し、地方統治を中央管下の府や県に一本化した政治改革である。 廃藩置県の主目的は年貢を新政府にて取り纏め納める、即ち中央集権を確立して「国家財政」の安定化を図る。 又、「国家徴兵制」を確立するもので、軍制を敷くために各藩から派遣された藩士が国家の兵士となり、国としての軍隊を構成することにあった。 これは富国強兵もさることながら、全国約200万人に上るとも言われる藩士の解雇と雇用にも関係するものであった。 藩が廃された結果、当初、地方は3府302県となり,知藩事に代わって府知事・県令(のちの県知事)が中央から派遣された。 更に府県を統合して3府72県とした。(更に後の1890年には、ほぼ現在の3府43県としている)



国道235号線の静内市街地より道道71(平取静内線)で内陸へ5kmほどいった所に静内の名所「二十間道路」が在る。 日高山地に向かって直線凡そ7km、両側にわたってエゾヤマザクラが約一万本咲き誇る。
ここは道内では松前公園に次ぐ桜の名所である。

大正5年、御料牧場を視察するための皇族方を迎えるために3年の歳月をかけて近隣の山からエゾヤマザクラをこの道路の脇に移植したのが始まりで、約1万本の桜が植えられたこの桜並木は、直線約7kmにわたる日本一の桜並木である。
幅が二十間(約36m)あるので「二十間道路桜並木」と呼ばれるようになったという。 ここを通り抜けた前方に新冠牧場の広大な敷地が広がる。 同牧場の前身は「新冠御料牧場」で宮中御料馬の生産、北海道固有の野馬「道産子」の改良を担った。

日露戦争下では陸軍の求めに応じて、多数の軍馬を拠出した実績などもある。 
当然、皇族や文武の高官の訪問も頻繁になる、その為、行啓道路として造成されたのが二十間道路である。 
そんな中に「龍雲閣」がある、牧草地帯の一角にぽつんとたたずむ御殿造りの木造建築物は、賓客の宿舎施設として1909年(明治42年)に建設されたもの。 桜の開花時期に一般公開されている。



馬をやらない小生が勝手に選んだ静内産名馬=タニノムーティエ、ウイニングチケット、トウショウボーイ、サクラローレル等々。  



静内は、2003年1月頃から新冠町、三石町と合併を協議し、当初は市に昇格予定で新市名称は「ひだか市」に決定していたが、その後新冠町から合併の時期の延期申し入れがあり、2004年12月7日をもって3町による合併協議は休止される事になった。 その後、三石町と新たに協議会を設置し、新町名を「新ひだか町」、合併期日を2006年3月31日とすることで合意している。



次回は日高・「新冠・門別



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日本周遊紀行(80)苫小牧 「駒大苫小牧高」(2)

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日本周遊紀行(80)苫小牧 「駒大苫小牧高」(2)



高校野球ファンの小生が「歓喜」した年・・!、

この年(2,006年)、駒大苫小牧は中京商(現・中京大中京)以来の73年ぶり3連覇を目指した。
3回戦、準々決勝と粘りの逆転勝ちをして観客を魅了し、決勝戦は駒大苫小牧のエース・田中将大投手と早実のエース・斎藤佑樹投手の投手戦となった。 
そして、20日の試合では延長15回引き分けで決着がず翌日の決勝再試合では、この試合で4連投となった早実斎藤投手の前に3対4で惜敗する。 
駒大苫小牧の3連覇はならなかったが。 しかし、北国のチームが3年連続決勝進出はまさに快挙であり、そしてこの決勝戦は歴史に残る一戦ともなった。 田中将大投手は試合後、「全力でやったので悔いはないし、涙も出てこなかった。」と語っている。

ちなみに夏の甲子園の決勝戦で、引き分け再試合になったのは1969年(昭和44年)大会の松山商(愛媛県)と三沢(青森県)の決勝戦以来・37年振り2回目である。 
この時は延長18回制だったので15回に縮小されてからは初めての決勝引分け再試合であるが、あの時は松山商が再試合で勝利を収めて優勝している。(詳細は「西日本編・松山市」の項で記す予定 ) 

又、駒大苫小牧は2005年夏の南北海道大会支部予選1回戦から2006年夏の甲子園準決勝・智弁和歌山戦まで「公式戦48連勝」を記録していたという。
史上2校目の3連覇がかかった駒大苫小牧(南北海道)と27回目出場で初優勝を目指した早稲田実(西東京)が対戦した試合は、延長15回を終えて1―1で譲らず規定により引き分け再試合となった。本格派右腕のエース、粘り強い打線など決勝で対戦する両校は似た部分が多く、チーム力も互角だが、3年連続決勝進出の経験と日程面での有利さで駒大苫小牧が頂点に近いと見ていた。 

ここまで4試合を戦った駒大苫小牧に対し早稲田実は5試合、先発が予想される駒大苫小牧の田中が2連投に対し早稲田実の斎藤は3連投になる。 さらに駒大苫小牧にとっては、田中が復調の兆しを見せたことは追い風でもあった。
しかし、結果は両エースは譲らず翌日再試合になる。

高校野球FanでTV観戦士の小生は、試合開始を今や遅しと待ち構えていた、それにしても凄い試合であった。 
田中(先発は菊池)と斎藤の投げ合いは予想通りであり、両チームともチャンスは作るが、あと1本が出ない、7回まで0対0、8回に両チームとも1点を入れた時には、これで試合は動くと想定したが更に投手戦が続く、両投手による力のこもった投球に酔いしれて気が付いたら夕刻になっていた。1点をめぐる攻防は更に延々と繰り広げられ固唾を呑んで見ている間に、こうなれば是非引き分け再試合になって欲しいと願うばかりになっていたが、遂にそれが実現し明日へともつれ込んだのであった。 甲子園らしい炎天下、野球の醍醐味を堪能させてくれた1日であり、又、明日1日楽しみを延ばしてくれたのは有難かった。 

次の日、37年ぶりの決勝再試合は大会を一層盛り上げたといってよい。 
TV、新聞は大見出しで大騒ぎをし、野球が低迷すると言われる中、野球Fanならずとも興味を注いだ。 特に、早実の斉藤投手がマウンドで汗を拭くシーンが話題となり、「青いハンカチ王子」といって女性連がもてはやし、久しぶりに「甲子園のアイドル」が出現したのであった。

さて、再戦もやはり投手戦模様で推移したようで、夏の大会は、猛暑の中でエース投手が連投に次ぐ連投で投げ抜くのが常であり、再度の決勝戦を見た限りでは田中投手は調子が万全でなく、むしろ斎藤投手のタフさばかりが際立ったようで、最後は両エースの微妙な調子の差が明暗を分けたようである。そして残念ながら駒大苫小牧高の三連覇はならなかったが、その戦いぶりと結果は多くの人々に、それ以上の強烈な印象を与えた。


平成18年度、仙台・楽天イーグルスに高校生ドラフト一巡目で入団した田中将大投手、甲子園決勝では球史に残る投げ合いを演じた斎藤投手は早稲田大へ其々進路が決まったようだ。 
田中にとっては、何かと斎藤と比較されたことが「嫌でした」と本音を吐露し、斎藤には夏の決勝、国体と敗れたがプロでは後れを取るつもりはない。 斎藤は4年後のプロ入りを視野に入れてるが「年俸とか、成績面とかで引き離していきたい」と言い切った。
勝利の女神は早実にほほ笑んだけれど、北日本勢が力をつけていることを全国に印象づけた。

因みに、1回戦チームと揶揄され、ほとんどの選手を地元出身で固めて山形県勢として初めて準々決勝まで進み、早実を終盤までリードして苦しめたのは日大山形高だった。
2回戦では山形県勢の初ベスト8なるかの注目の試合で、名門・今治西高との対戦は延長13回、今治が2点を挙げて勝負あったかなと思ったが、その裏3点を挙げてサヨナラ勝ちを演じたのだ。 

勝負の結果は「下駄を履くまで判らない」と言われるが、1回戦オンリーの県代表・山形ナインがそれをやってのけたところに意義があり、東北人の小生は当然山形勢を応援していたが、この結果には踊り上がったものだつた。

時に勝負の神様は残酷な演出をするものであるが、一発勝負の高校野球は特にそうであり、ここが又、たまらない魅力なのである。
駒大苫小牧高の選手諸君、感動を有難う・・!!。


【決勝】  
駒大苫小牧 1 - 1 早稲田実 ※延長15回引き分け(決勝での引き分けは37年ぶり2度目)
駒大苫小牧  000000010000000=1
早稲田実業  000000010000000=1



【決勝・再試合】
駒大苫小牧  000001002=3
早稲田実業  11000110x=4



国道235は沼ノ端のウトナイ湖を右に見る、この都会地近くにおいても湖は原野、湿原などの豊かな自然が形成されている。 すなわち動植物の宝庫、野鳥の楽園である。
マガンや白鳥の集団飛来地として、国際的にも知られ、日本では4番目にラムサール条約に登録されている地域であった。 

ここから国道はR236となり2車線の広い道を西へ行く、程なくして、右側に、その「駒大苫小牧高」が在った。ゆったりとした広い敷地に北海道らしく白樺の樹林が植栽されている、校門には全国制覇を祝う看板が、校舎には横断幕が掲げてあった。

近所の親子ずれの小さな女の子が、小生を指差して「ママ、また写真撮りに来てるよ・・!!」の一言が心に残った。


次回は、 白老・「アイヌ文化



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01. 15.

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