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日本周遊紀行(170) 安心院 「一柱騰宮・妻垣神社」 、
写真:一柱騰宮の案内標柱
「安心院」と書いて“あじむ”と読む、この地は「宇佐」の下院でもある・・、
津久見の町外れから高速道が繋がっている。 近年繋がったと見えて、真新しい「東九州道」であった。
その高速道から一気に「宇佐」まで走ることにした。
大分の町並みを右に望み、更に別府の町並みが遥か下方に見えている。
別府湾S・Aで小休止をとったが、このS・Aは風光雄大なところで別府市街から別府湾が一望の下である。
更に、あの懐かしい鉄輪温泉の湯煙がそちこちから漂い、反対側からは明礬温泉の特異な地形が見て取れる。
ほのかに硫黄の香がするようだが、きっと、そこから漂ってくるのだろう・・?。
日出JCTより安心院、更に宇佐に至る。
ところで、安心院と書いて「あんしんいん」ではなく「あじむ」と読む。
大昔は、この辺りは葦が生えてる湿性盆地であったらしく、ここから葦が生える、あしうむ、「あじむ」に変じたという。 だが、どうも納得できない読みと語字である。
発音からすると渡来語のような気もする、北に位置する、あの八幡様の根源・「宇佐八幡」は渡来の守り神とも言うし、その南側に隠れた様に位置するのが安心院である。
他に仏教的意味合いの読みではなかったか・・?、尤も仏教そのものが渡来の物であったが・・。
ところで、安心院は豊後国と豊前国の境にある町で、古来、北の隣町・宇佐との関わり合いが深い。
特に、八幡信仰の総本社・宇佐八幡(宇佐神宮)とは関係が深く、宇佐神宮の八摂社の一社である「妻垣神社」が鎮座している。
安心院の中心街から南へ3kmほど、安心院盆地にお椀を伏したような端正な小山・妻垣山が聳える。
この山裾に、古社とされる妻垣神社が鎮座している。
県道50号線沿いの神社の入口には「一柱騰宮・妻垣神社」と記された大きな案内標柱も建っている。
“一柱騰宮”とは、地元の人は“いっちゅうとうぐうさん”と称しているようだが、正式(古式)には「あしひとつあがりのみや」と、ゆかしい読み方らしく、このことは古代歴史書・日本書紀に記されているらしい。
日本書紀の「神代」の記載の一項には・・、
日向(美々津)から大和を目指して東征する神武天皇が、先ず最初に寄ったのが筑紫の国の宇佐の地であり、天皇は、一帯を治めている菟狭(宇佐)津彦(ウサツヒコ)と菟狭(宇佐)津媛(ウサツヒメ)の兄妹達とお会いになり、この時、「一柱騰宮」を造って天皇を饗応したとある。
この「一柱騰宮」があったのが、安心院の「妻垣」の地であると言い伝えられていて、神代の昔から祭祀されていた伝説の宮といわれる。
又この時、神武天皇は妻垣山に、母である玉依姫(比咩大神)の霊を祀る廟を造営し、侍臣の天種子命(アマノタネコノミコト・神武天皇の侍臣)に廟の守護を命じて東征の途についたという。
案内標柱の奥には鳥居そして参道石段が連ねて、古社らしい厳かな雰囲気が漂い、その頂上に燦然と朱塗りの神門そして流れ屋造りの本殿が鎮座している。
本殿横には「磐座」への案内板があり、そして社殿の正面には標高241メートルの妻垣山(ともかきやま・「共鑰山」とも書く)が控えている。
その山頂直下に、石の囲いが施された苔むした巨岩が祀られていて、これが「磐座」であり、“いわくら”と読むらしい。
巨岩信仰の一つであろう、神秘的な雰囲気が漂っていて、この磐座が一柱騰宮の奥宮とされている。
ここには案内板もあって、『 共鑰山の院(御神山)の謂われ、・・比咩大神(神武天皇御母、玉依姫)の御在所(院)である。・・玉依姫が「安楽の御心」となられた故に、ここは共鑰山の「ご神体の相当する」場所である。従って、「安心院」の名所は、玉依姫が、この磐座(いわくら)の院の内において「安心」された事に由来する訳である。 妻垣神社 』、と記されてある。
要約すると、「御神山(共鑰山=妻垣山)は、玉依姫命が降臨された御在所であり、この院の内において玉依姫命と共に利生(りしょう・仏用語:仏が衆生に御利益に叶うこと)についての語らいをされた。つまり、この磐座は、妻垣山の御神体に相当する。安心院の名前の由来も、玉依姫命がこの磐座で安心されたから」ということになる。
「磐座」は、原始信仰という形で聖地とされ、古代より現在まで引き継がれ、残されているものであろう。
つまり、現在の妻垣神社は、上社・下社の二社からなっていて、山宮・里宮とも呼ばれる。
山宮とされる山中にある「磐座」は、神の依代として古代より奉祀していたものだが、(元より古代は社殿を持たない)、時代が下り麓の村里が発展するにつれて、身近な山麓に勧請して建てたのが社殿を有する妻垣神社であり、里宮とされている。
妻垣神社の祭神は、主祭神を比咩大神(比売大神と同じ、玉依姫命・・?)とし、相神を応神天皇(八幡大神)とその母君・神功皇后であり、これは宇佐神宮の祭神と全く同じである。
「妻垣神社由緒記」には、『神武天皇東征の砌(みぎり・とき、おり、ころ、時節)、宇佐国造の祖菟狭津彦(うさつひこ)此ノ処ニ宮殿を建立、奉饗シ旧跡デ、当時、天皇、天種子命ヲ以テ比咩大神ヲ祭ラセ給ウ。当社ハ比咩大神ヲ祭ッテ八幡宮ト号シ云々』、と記され、つまり、比咩(ひめ)大神が八幡神であると伝えている。
「比咩大神」については、次項の「宇佐」でチョッと詳しく述べるが・・、
比咩神(ヒメノカミ)は、神道の神で、神社の祭神を示すときには、並んで比売神とも書かれるともいう。
これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神の総称を指すものともされている。 最も有名な比咩神は、八幡社の比咩大神である。
この比咩大神は宗像三女神、又は三女神の母后ともされ、三女神の末姫が三人の男子を生み、それぞれ成人すると長男は伊予国へ、次男は土佐国へ、そして末っ子の「ウサヒコ」は母とともに残って宇佐の国造りを始めると言う伝説が残されている。
宗像三姫の末姫は「イチキシマ姫」(弁天様で知られる)といい、邪馬台国の女王・卑弥呼と言う説もある。
つまり、宇佐八幡宮の祭神・比咩大神とは邪馬台国の女王・卑弥呼なのでは・・、という説である。
ところで、「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん・中国の正史・「三国志」の中の「魏書」に書かれている日本に関する条項)によると、邪馬台国(昔の日本)の中心は大分県中津市から宇佐市にかけての一帯に位置していたという表記がある。(豊前説)
邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒメコと訓む)は、宇佐神宮の比売(ヒメ)大神であり、宇佐神宮の亀山の地が卑弥呼の墓であるとも言われる。
更に、卑弥呼(ヒメコ)=ヒメ大神=天照大神(アマテラスオオカミ)であるという説もある。
いずれにしても、神代よりまします比咩大神は、かくと断定され得ない神ともされている。
妻垣神社は、元より八幡信仰の総本社・宇佐神宮とかかわりが深く、「宇佐神宮行幸会八社」の一社で境外摂社とされている。
大神(邪馬台国の女王卑弥呼ともいう)の降臨の宇佐島はこの妻垣山であり、「魏志倭人伝」に記された邪馬台国はこの安心院であり、女王・卑弥呼の墓は妻垣神社の境内にある一柱騰宮であるという史家もいるほど謎のある神社でもある。
古代、九州の政治・経済・文化の中心は筑紫、日向にあり、ここから豊後の国東半島を経て瀬戸内海へむかう位置に「宇佐」がある。
ここから潮流に乗って大阪にあがり、奈良の都へ出る古代の海の道があったことは、伝記・「神武天皇の東征」と一致する。
一柱騰宮-妻垣神社-玉依姫-宇佐-神武天皇-大和という繋がりは、たとえ神武東征説話が架空だとしても、古代史の謎を解く鍵としては、歴家たちは興味津々であろう。
今は亡き推理作家の巨匠・松本清張は、代表作の一つと言える短編・『陸行水行』を残している。
当時の歴史世評は邪馬台国のブームと言ってもよく、この時、清張自身も安心院の妻垣神社を訪れ、日本の古代史に興味を持ったとされている。
物語は、『東京の大学で歴史科の講師をしている私は、「宇佐の研究」のため安心院の妻垣神社へやって来る・・、』から始まり・・、宇佐神宮が最初のテーマとなり、安心院の風景があり、宇佐神宮の奥宮とされる妻垣神社のことが描写されている。
そして、耶馬台国はどこにあったか・・?、など、古代の旅路を自ら辿りながらスリラー風に描かれている。
次回は、安心院・米神山
『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/
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祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月)
「東北紀行2010(内陸部)」 http://orimasa2009.web.fc2.com/tohoku.htm
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